コゲラゲラ の ブログ

ミスの原因について考えてみる。

人間ならミスをして当たり前、寧ろ、ミスをする方が人間らしくて良いとか、微笑ましいとか、言われる。

私自身もミスをしない為に、神経質になり、ガチガチになるのは好ましくない。

そして、ミスそのものが悪いとも思わない。

結果的にミスをするのは仕方がないことである。

ただ、ミスそのものを分析しておきたいと思う。

具体的には、私の趣味の一つである卓球におけるミスを想定して

ミスの要因を列挙してみる


1.目測を誤る
 空振りする場合は、目測を誤っている事が多い。これは、最後まで注意深く見る事によって解決する事が多い。現実から意識が離れたときに発生するのである。
2.思い込み
 これまでの経験などから「こうに違いない」と思う。世界は刻刻と変わっている。人も成長するし、昨日と同じ事は保証されてはいない。 これは、正しく、現実から意識が離れているから発生する
3.騙される
 これは、ミスとは言えないと思う。引き金が、他の人間によって引き起こされるもので、騙すというのは、高等テクニックの一つである。現実の世界に、釣り針がぶら下がっているようなもので、現実を直視している人からすると違和感があると思う。その違和感を感じられなければ、罠に嵌ってしまう。  
4.注意力散漫
 人は、様々な問題を抱えており、悩みはつきないものである。欲望もあるし、煌びやかなモノには意識を奪われる。脳が、そういった悩みや欲望などに囚われているときに、注意力が散漫になり、ミスを引き起こす。悩むなと言いたいのではなく、今、現実のミスを起こさないという課題と、そういった悩みは、別個の物であると思う。
5.不慮の事態
 突然隕石が落ちたり、鶏が大きな声で鳴いて驚いたり、物が壊れたり、卓球で言うと、ピン球が割れたりとか、などなど。これは仕方がない。不慮の事態そのものが現実そのものなので、その中で対処できることは対処すれば良い。これはミスとは言えないだろう。
6.体調不良
 頭痛や胃を下したり、視力が極端に悪くなったり、とかとか、人は、多かれ少なかれ、いろんな問題を抱えているわけなので、体調不良ならば、車に乗らないとか、寝不足ならば、よく睡眠を取るとか、自分の身体も現実の一つで、計算に入れる必要がある。
7.状況把握ができていない
 これは、対象が難しすぎるという事か、自分の理解能力が劣っているとか、のいずれかであると思う。
状況把握で出来ていないならば、根気よく、状況把握するように勤めれば良いだけである。努力もしないで、この発言は、言い訳でしかない。 でも、卓球などのスポーツの場では、状況が刻刻と変化するので、これこそ、現実としっかり寄りそう必要がある。


要するに、ミスは、現実から目をそらした瞬間に起きるようです。

でも、人間は思考に遊ぶ習慣があるので、やはり、人間にはミスはつき物なんです。

人間が人間になったのはミスを引き起こす脳内活動を活発に行うからと言えるかもしれません。

だから、直感的に、「ミスは人間的だ」と思うわけです。


 これまで、何度か、一本歯下駄の魅力を伝えていますがが、毎日毎日履いても、その魅力は色褪せる事がありません。 
 その魅力の一つに、瞬時に精神状態を常にニュートラルに持ってこれる事が挙げられます。

 日々の生活では、様々な嫌な事、苦しい事、腹が立つ事が、繰り返してやってきます。
また、自分自身も他者を傷つけたり、そして後悔したりで、人の心は、落ち着くことを知りません。

 一本歯下駄を履いていると、その心の流れから、超越するようになります。 そしていつしか、心に静かな流れがやってきます。なんか宗教みたいだけど、心に形があるとすれば、その心を下の方に見ているようです。

 このように、本来の感情を客観的に、眺めると、例えば、今日起きた感情を乱される事象に対して、次はこうすればいいや、とか、深く考える必要はないな、自分に自信を持とうとか、少し、前向きな発想が自然と起きてきます。

 実際に、多くの事は、流せば良い事が多いと思います。自分の感情も移ろいゆくなら、人の感情も移ろっていっているのです。たまたま、感情のピークがぶつかっただけかも知れないし、同じ事が起こったとき、どしっと、構えている方が、結局は勝ちなのです。

 問題は、一本歯下駄を履くと、どうして、現実の悩みから超越できるのか?

推測としては幾つか考えられます。

一つは、足元が不安定なので、意識が足元に向かうので、脳が開放される。すきま風を送る余裕ができるということです。山登りの際は、この状態で、自然の美しい景色をみると、本当に、最高です。

そして、もう一つ仮設です。

下駄は高さがあって、今履いている下駄なら14cm弱あります。そうすると、普段の風景とは14cm高い風景が見えるわけですね。

14cmも違えば、大分世界が違って見えます。

私なら、普段は170cmですが、下駄を履くと、184cmになります。他者から受ける印象も、170cmと184cmでは大分異なるのではないでしょう?

普段とは異なる視野が、超越させる余裕を作るのかもしれません。

今こうして下駄を脱ぐと、さっそく様々不安や邪念がやってくるのですが、

私にとって、一本歯下駄を履いている時間帯は、頭の中の嵐が収まり、静かな寛容なときを過ごせる時間帯なのです。



全く想像の世界ばかりを語るのはよくないのだけど、脳内現象の事を考えている内に以下のような推測をしました。

 現実は、脳の外にあると、推測しているのですが、実際に見えるもの、聞こえるもの感じるもの、全て、現実そのものではなく、なんらかのフィルターを通していると思うわけです。

 しかも、視覚情報も聴覚情報も極めて粗い情報でしかないと推測しています。

臭覚だって、動物である犬と比べて、極めて弱い能力しか持っていないらしいですね。

 人は、多くの情報が脳を通過して、言葉に変換している。この言葉が、人間独自の世界だと言えると思っています。
 言葉が人を作ったと確信しています。

 私が推測するのは、この脳を通過する作業を省略すれば、失敗という現象は、ありえないと思っています。

 現象に、予知しない出来事は存在します、不測な事態はありえます。 ただ、その現実にたいする対処をするだけです。失敗ではありません。

 失敗というかミスという現象は、徹底的に現実に付き添って、センサーとアクションを行う限りはありえないと思うのです。

 一旦、脳を通して、考えるから失敗という現象がありうるのです。

 オリンピックの体操競技などで、高度な技を繰りだして、ミスする人とミスしない人がいます。

 おそらく、我々の目から見たら神業的作業をいつも成功させる人は、現実と徹底的に付き添っていて、

 脳内で不安に思ったり、失敗したらどうしようとか、思うことがないのだと思います。

 一瞬でも、不安に思う人は、ミスをする人です。そうではなく、徹底的に現実を見る人は、究極的に、

 ミスをしない人になると思っています。

 今回は極論を書いてしまいましたが、きっと「割り切る」という行為は、脳を通さない行為だと思います。

 人が、脳を通すのは、人として宿命ですが、意図的に、脳を通さない、現実と徹底的に付き合うという

 覚悟を決める事も、時には必要かもしれません。

 ただし、自分の中の脳の活動として、妄想と思考との役割、位置づけを整理しておく必要があるとは

 思っています。今は、妄想も思考も一緒くたにして、脳内活動としているから。

 もしかしたら、私は、妄想に逃げているだけという結論が出てくるかもしれませんからね。






 
  

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