コゲラゲラ の ブログ

カテゴリ : 雑感

久々、山で一本歯下駄を履いて歩きました。

一時間だけど、やはり、一本歯下駄は山が似合うと思う

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しばらくは、仕事が多忙でした。
大分ストレスがたまったけど、
人は、みんな自己本位で、自分の生活を守る動物だと理解できた。

本当に世の役にたつものを作る為には、このままでは歪んだものしか出来ない。
現在の人間性の何かを変える必要があると思った。
例えば、究極の目的の為に、自己の理想の為には、自己を平気で犠牲に出来る人間とか・・・

社会から離れて、一人、瞑想に時間を過ごすのも良いが、

社会の中で、社会の常識に当てはまらない生き方を模索するのも良いのかも知れない。

結局社会から捨てられたら、一人で過ごせば良いし、そうでない限りは、
社会の中で、静かな革命を起こすべきと思う。 





 

 人生、生きていると、様々な人の感情に遭遇し、ぶつかり、囚われてしまう。
それも、善悪、正誤、単純に割り切れる事は少ない、人それぞれの立場によって、悪になり、邪魔者になる。

 自分だけの立場だけを考えていれば、そんなに悩む事もないのだろうけど、相手の立場を考えるあまり、
相手の内なる糾弾の声が、必要以上に自分自身を責め立てるのだ。

 この現象は、ある意味、これは病気の域なんだろうか?と思ったりする。 

 頭の中を無意味なキャッチボールが無限に往復し、摩擦が起こり神経を傷つける。

 多分、病気なんだろうと思う。

 恐らくだが、精神の病に陥る原因は、私自身が、極めて中途半端な人間であることが原因だと思う。

 仕事であるプログラミングも、そうだ。 集中するときは、めちゃくちゃ集中するのは良いのだが、

 その後に、集中して得たものの整理が全く出来ないのだ。

 結果的になんで、こんなロジックになったかわからない事がある。ロジックを考えているときは、

 根拠があって、導き出したものであるが、その後始末が、中途半端な為、結局保守が出来ないものに

 なってしまう。 

 恐らく、この法則は、プログラミングにとどまらないと思う。

 結果的に、神経に摩擦の多い生き方をしているのだと思う。

 この無意味な自傷行為ともいえる摩擦が起きる習慣を改善するのが、私にとって、一本歯下駄だと思う。

 もっともっと、精神を開放してあげようと思う。

 不必要な摩擦が消滅したとき、新たな人生のステップに繋がるのだと思う。
 

 

 一か月前程から、泊りがけの仕事で、世俗世界にすっぽりと埋まっています。

ホテルには、一本歯下駄を持ってきて、思い出したように履いてはいるけど、
意識がどうしても、世俗に向かっていました。

そして、今日は、久々の休みで自宅で、意識を一本歯下駄に下げてみました。

意識を下げるというのは、主観的な事で思い込みの範疇なんだろうけど、

ある意味、勇気のいる行為だと思います。

矛盾しているのだけど、普通は、様々な思い煩いに頭の中は占領されていて、

不愉快な気持ち、だるい気持ちを引きずりながらも、この世界を捨て去る事が出来ない

のだろうと思います。

だから、意識を下に下ろして、頭を真っ白にするのは、結果的には、大変、心地よいのだけど、

踏ん切りがつかないというか、自傷を続けてしまうというか、ともかく難しいのだと思います。

ホテルで何度か一本歯を履いても意識が変わらなかった事を思えば、

一本歯下駄を履いたからといって、自動的に意識を空白に出来るわけでなく、

やはり、しっかりと、一本歯下駄を履いた上でしっかりと負荷をかけて、バランスなどの崩す要因など

考え、足で感じる必要があるのだと思います。

足で感じる事を受け入れる必要があるのだと思います。

きつい仕事に追われていた日々の中で、

今日は、久々に、一本歯下駄に意識を強く向ける事によって、平常心?を取り戻せたように思います。

まだ、仕事は続きますが、その中で世俗に埋もれるのは仕方のない事だと思いますが、

時には、しっかりと意識を戻すようにしたいと思います。

 

 足の立場と言えば、なんか、足が人格を持っていると仮定してメルヘンちっくだと思われるかも知れませんが、時々、足が、可哀想に思うことがある。

 足の立場からすると、重い身体を支えて移動させているのだ。人の身体は重い、重いのに体重を平気に押し付ける、傾ける。窮屈な靴に閉じ込められる。  不自然な形にはめ込まれる。靴下は臭い匂いを発生させている。もし、自分が足だったら、絶対、反乱を起こすに違いない。

 しかし足は足であることの宿命や役割は充分理解している。だから、文句も言わず、人の思いに従ってやっているのだ。
 でも、足で感じる事があるし、足には視野もある。 足視点というか、一本歯という下駄を履かせてやるとそれがよくわかるのだ。時には、開放感のある下駄を履かせてやってほしいと思う。

 また、少し高さを持たせてやると、いつも地面に密着させられている足は、喜びと感動を感じるようだ。

 足は、いつも使役させられているけど、足が、使役する小道具、一本歯下駄というアイテムは、足にとっては
最高のパートナーである。

 最近は、特に大きな進歩も気づきもないのですが、一本歯は仕事から返って、30分は、履いて、例の丸棒の上をバランスを取って歩いています。 大分、ぐらつかずに歩けるのですが、やはり、気を抜くと、転ぶ事はないですが、丸棒から落ちたりします。

 このブログを初めたときは、これまでの経験をネタとして書いてきましたが、現在進行形になると、今の段階では、小さな進歩に、かなりの時間が必要だろうと思っていて、ネタが出にくいです。

 今は、卓球を毎週やっていて、一本歯下駄による、効果は大きいと思っています。というか、私の卓球の基本は、一本歯下駄で作っていると言っても、言い過ぎでも、こじつけでもないと、私は正直思っています。

 好きな、一本歯下駄と卓球を結びつけているだけと思われるやも知れませんが、卓球に限らず、スポーツ全般、一本歯下駄は体幹を鍛えたり、俊敏さを磨いたり、と大変有効だと思っています。

 かと言って、私が卓球がうまいわけではありませんが、一本歯下駄によって、伸び代が、沢山増えたな~と思っています。 その下部構造は、常に、一本歯下駄で鍛練しているので、毎週、少しずつですが、上達しているのを感じています。 
 
 一本歯下駄の魅力は、異形さに、目を奪われがちなのですが、かなり、私にとっては、精神に与える静けさなんですね。異形から、テンションだけがあがると思われますが、私にとっては、真逆です。 テンションが上がった、舞い上がった頭を平常心に戻してくれます。

 この平常心に戻す作用の説明をこれまで何度か、このブログで試みているのですが、表現するのが難しいです。 でも、自分にとってということが大事だろうから、敢えて、自分だけの秘密にしておいても良いと思ってもいます。 

 私にとって、はまっているとは言え卓球は、他の趣味や仕事、生活その他と同じ浮世の世界のものです。 浮世の終わりと共に終わるものと思っています。 

 一本歯下駄を浮世だけのアイテムとは思っていません。 精神世界にも通じるもので、浮世の終焉後も私はこれを頼りにしていると思っています。

 
  

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