山と高原地図で、近場の紀泉高原版を眺めていると、雨山城跡とか土丸城跡とか金福寺城跡とかの城址を
多く見かけます。
 山歩きの際に、修験道の28宿地も意識するようになりましたが、こうした山城にも遭遇するので、
いろいろ当時建っていたイメージを得ることができたらより、山歩きが充実するだろうと思います。


 そこで、今回はイメージを構成するためのよく解っていなかった語彙を調べてみる。

1.土塁 とは
 塁は、(くるわ,平坦部のこと)の周囲に作られることが多い。数箇所に開口部を作り、そこに門を構えて虎口(こぐち)という出入り口を作る。郭の角部などでは土塁の幅を広くすることがあり、そこは櫓台(やぐらだい)と呼ばれている。一部または全部の郭に土塁のない城も多い。

土塁の上部には柵列を作ることもあったようだが、発掘してもピット(柱穴)が検出されることは少ない。場合によっては、上部に土が築かれたかもしれない。

主郭(しゅかく)と第二郭など、上位と下位の二つの郭の境界に堀がある場合、上位の郭の堀側には土塁があり、下位の郭の堀脇には土塁がないことがある。逆に、堀脇の土塁のあるなしで、郭の上下関係が分かることがある。

斜面に縦に作られた土塁を、竪土塁(たてどるい)と呼ぶ。

2.切岸 とは

切岸(きりぎし)とは、斜面を削って人工的に断崖とした構造で、斜面を通しての敵の侵入を防ぐために作られた。鎌倉時代から戦国時代にかけて造られた、特に山城の周囲に多く、また鎌倉の周囲の丘陵斜面にも作られた。

角度が(目標とする切岸よりも)ゆるい斜面を削って切岸にした場合、削った土は上のに上げることもあるが、多くの場合は下に捨てられる。切岸の高さが上部の郭から一定になるように削ると、必然的に腰曲輪ができる。削った土は、腰曲輪の拡幅に用いられることも多い。
 

3.虎口 とは

城の出入口を、虎口(こぐち)という。大抵は曲げられて造られることが多く、城門や虎口の正面に蔀(しとみ)や芎(かざし)と呼ばれる土塁を設けてまっすぐ進めなくすることもある。城の正面(近世城郭では通常は南)の虎口には大手門・追手門(おおてもん)、裏の虎口には搦手門(からめてもん)が構えられた。虎口は城兵の出入り口であるとともに、敵の侵入口にもなるため特に厳重に防備が固められた。虎口に塁壁で四角形の空間を形成して門を2重に構えたものを桝形虎口(ますがたこぐち)という。虎口の外側にある堀の対岸に、橋頭堡としてさらに堀で囲まれた小さな曲輪を造ることがあり、これを馬出(うまだし)といった。

4. 堀 について

尾根を仕切るように作られた堀を堀切(ほりきり)、郭(平坦部)の周に沿って造られた堀を横堀(よこぼり)、斜面に縦に造られた堀を竪堀(たてぼり)と呼ぶ。複数の竪堀が横に連接している場合、連続竪堀(れんぞくたてぼり)と呼ぶ。3条以上の連続竪堀を畝状竪堀(うねじょうたてぼり)と呼ぶこともある。曲輪を中心にして放射状に配置した多数の竪堀を放射状竪堀(ほうしゃじょうたてぼり)と呼ぶ。

堀底には、落とし穴や、堀底を仕切るような土塁状の障害物を設けることもあって、それらを障子(しょうじ)・堀障子(ほりしょうじ)といい、障子のある堀を障子堀(しょうじぼり)と呼ぶ(形状が明かり障子の桟に似ているからというのは誤った俗説)。土塁状の障子は、堀を掘ったときの堀り残しであり、造成時の手間が少ない。ほぼ一定の間隔に連続した土塁状の障子がある堀を畝堀(うねぼり)ということもある。山中城静岡県三島市)のものは後北条氏の障子堀として知られるが、この城や後北条氏に限らず日本各地に見られる。

傾斜地に水堀を築く場合は水が流れ落ちないように仕切りのを設けて水を蓄える。その堰に内部と外部をつなぐ通路としての土橋の役割を兼ねさせることも多い。

通常、堀は幾重にも掘られており、平地の城における外側の堀を外堀、内側の堀を内堀、その中間の堀は中堀(なかぼり)と呼ぶ。城下町を防護する総構えの堀を総堀惣堀(そうぼり)と呼ぶ。
 

よ~し、これで大体、わかった気がする。