カテゴリ: 史跡・文化財など

先日、のぼうの城を見てきました。

映画「のぼうの城」そのものにも興味があったのですが、私が住む貝塚市や和歌山県北部が戦場になった秀吉の紀州征伐をイメージする上で 興味がありました。

 のぼうの城と紀州征伐は共通する事項が多いです。

時代は、紀州征伐が1585年、のぼうが1590年で、5年しか違わない。 戦った相手は、共に天下の秀吉で、少人数で、大軍と闘っています。
また秀吉は、貝塚市が戦場の時は、丸山古墳に本陣をおき、のぼうでは、丸墓山古墳に本陣をおいています。共に高い場所がある古墳を本陣としていて、偶然でしょうが、名前も似ています。

日本三大水攻めの一つが、紀州征伐での太田城の水攻めで、のぼうも三大水攻めの一つです。こののぼうの水攻めは、映画では最初の水攻めであった高松城の水攻めを真似をしたと語られていますが、実際は、太田城の水攻めを真似をしたという説があるようです。

大変皮肉だったのは、のぼうを狙撃したのは、この紀州征伐で秀吉と闘って負けた雑賀衆でした。

この時代は、兵農分離が完成していなかったのでしょうね。

のぼうでも武士が500人で、3000人近くが農民で、共に闘ったということです。
貝塚の近木川沿いの高井城、畠中城、窪田城は、近郷の農民が主戦力だったらしいし、千石掘城では約5000人の非戦闘員がいたとされています。

秀吉は、秀吉の戦いの型というものを感じるのですが、初戦の戦いでは、徹底的に殲滅させ、後は、脅しなどで開城させるのでしょうか?

紀州征伐では、千石掘城を徹底的に破壊しています。皆殺しというか、生きているものは動物までも皆殺せとして、5000人の非戦闘員を含め皆殺しをしています。

のぼうの城での戦いは、小田原征伐の一貫だったのですが、同じ支城である八王子城も非戦闘員を皆殺ししていますね。そして、その子女の首を小田原城の兵士に見える場所にさらしています。

貝塚の千石掘城以外の城は、卜半さんの説得があったとしても、二日以上も戦わずに開城を許していますね。

のぼうの城も、全面戦争前に、小田原城が落ちたということで、開城しています。

しかし、秀吉方にかなりの損害があったのに、総責任者である「のぼう」様の首なく開城されたのは奇跡に思えます。それも、武闘派でなかった石田三成の性格のおかげだったのかも知れませんね。

歴史を詳しく知っている人からすれば、比べるのはナンセンスなのかも知れませんが、

ちょっと、素人ながらも、極めておおざっぱに、比較検討してみました。

紀州征伐、小田原征伐の一コマですが、武士もそうなんですが、地元の百姓達は、秀吉の巨大武力戦力に立ち向かって、そんな絶望的な中で何を守ろうとしたんでしょうか?

今日は、貝塚市の寺社を巡ってみました。説明や感想もその内、追記編集したいと思います。

どうも歴史をかいつまんでみると、貝塚市は、寺内町として町が作られ、一向衆として信長と戦って焦土となったり、一時期、本願寺が置かれたり、江戸時代は、願泉寺を中心に大名並みの自治が認められていたり由緒なる寺が沢山あるようです。

町を歩くと、徳川に要請されて要塞化した名残として堀らしきものが残っていたり、紀州街道などの街道を初めて認識できたり、昔、遊郭らしき家の作りを見たり、速足でしたが、楽しい時間を過ごしました。

今回、写真は、お寺や神社を中心にアップしてみました。

寺社町2

寺社町



写真は基本、左から右に、上から下に並べています。

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無量寺

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専念寺

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円光寺
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尊光寺


真行寺は、現在、存在しないようです。

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満泉寺

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正福寺
尊光寺、真行寺、満泉寺、正福寺の寺は、願泉寺の家来の寺との
説明がありました。

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貝塚北小学校
元々は願泉寺の敷地内で、願泉寺が寄付してできたということです。

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願泉寺
寺社町の中心となるお寺で、でっかいです。

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泉光寺

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感田神社

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要眼寺


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妙泉寺

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上善寺

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龍雲寺


 いつも野鳥に会いに行く千石壮ですが、今日は、戦国時代に約六千人の方が戦乱で亡くなられたという
千石掘城址に行ってきました。
 
 金網が切れる場所から中に侵入するのですが、城という目で見ると、自然池という水掘が存在するし、
至る所に土塁が築かれているように思います。
 ただし、私は専門家でないので、それが自然のものか、人工的なものかは、判断できません(すみません)。

 江戸時代までは、ある程度形が残っていたと書かれていますが、

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この説明の看板がある場所まで

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山深い場所を歩いていくイメージで、

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藪漕ぎをしながら歩きます。

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本丸と二の丸の間は、千石掘と言われる自然堀があって、看板の向こうは、崖っぽく切り立っています。

向かいの二の丸は、早々に落とされ戦意を挫かせるためか本陣に向かって約三百名近くの守兵の首が並べられたと言います。

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秀吉方は、十万もの兵で持って攻めてきたと言われます。

ちょうど今の貝塚市の全人口が10万人弱なので、
貝塚中の人が、この千石掘に迫っていたのでしょうね。
そこを千数百人で守っていたんですね。

この写真は、近木川の反対側から千石掘城の山を写したものです。

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帰りは、その千石掘の堀を通って帰ってきました。




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千石掘城跡の次は、高井城跡です。

水間鉄道の線路沿いから近木川までの結構広い範囲の城であったと思われる地図が
書かれていますが、これは結構広いです。小学校の運動場が2つ入るぐらいでしょうか?

そんな結構広い範囲を近郊の百姓達200名で守っていたと書かれています。

職業軍人で、いつも先方を任されていた血気盛んな福島正則が相手では、
さぞ大変だっただろうと?と推測します。

興味深いのは、この辺りの家の苗字に「行(ゆき)」さんという名前の人が多いのですが、
この城の城主も 「行左京」という名前なんですね。

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10万の秀吉の大軍は、この山の上に城を構えて、目の前にある

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大熊街道を通って、高井城、千石堀城と攻めていったようです。

因みに、この道を私は野鳥を観察するためによく通る道なんです。
ちょうどこの場所で、車から畑を眺めていて、たまたま、泉州の地にやってきて羽を休めていた

 鶴 (ナベツル)

を見て驚いたものでした。


野鳥観察コースと、貝塚の歴史舞台は、交差していたんですね。


住んでいる場所の近くにある千石の千石堀城や紀州征伐について興味を持って調べていると

卜半斎 了珍 
 (ぼくはんさい りょうちん)
 
と言う人が、この地域で多大な影響力を持っている事を知りました。

先のブログで、この人が積善寺城や沢城の説得開城に出た人なのですが、

戦々恐々の戦場に乗り込んで開城を説得するのは凄い人物だな~と思っていたら、

この人はなんと

信長と交戦していた石山本願寺の和睦でも活躍した人らしいです。


もしかして、和睦の達人?


いづれにしても戦場において、相対立する双方から絶大な信頼がなければ、無理だし、

血走った人も沢山いるだろう戦場に乗り込むのだから、人並み外れた度胸と

説得に応じさせる人柄がなければ、到底できないことだと思います。

先日、貝塚市の図書館で「貝塚のむかしばなし」という本を借りて読んでいますが、

その本によると

・信長と石山本願寺の和睦交渉で活躍
・紀州時征伐において
積善寺城や沢城の説得開城

以外に

・本願寺を貝塚に招き寄せる(貝塚の太鼓台はこの時に始まる)
・秀吉、家康とも交友があった
・家康に、滅亡した根来寺を復活させている
・大阪夏の陣、冬の陣で火薬や鉄砲などを徳川方に輸出した。(これは二代だが)

などの活躍をしたらしいです。

 家は江戸時代を通じて、貝塚寺内町を領主として支配、運営して来たとあります。


私などは、全くのよそ者ですが、貝塚市の地の人が、どのように
ト半斉を考え思っているのか?

一度、聞いてみたい気がします。

先日書いた「」の中で
>それで、最後まで落城せず、和談開城したらしいです。
>あの秀吉の攻撃に耐えたのか?凄すぎます!
と書いたけど、

 貝塚市史を読むと、どうも違うみたいです。
千石堀城は、確かに秀吉の指示で、徹底的に壊滅させられた(秀吉方も一日で1000人以上の犠牲者を出す)けど、
主の城であった積善寺城は、小競り合いはあったけど、秀吉は、千石堀城以外は、極力犠牲者を少なく開城させる方針
であったようです。そのため見せしめということで、千石堀城は、徹底的に破壊殺戮したのだと思われますね。

通史では、ト半斉了珍という和尚が活躍したらしいです。
ト半斉了珍は、地元の武将達、有力農民は当然として、秀吉にも、根来、雑賀にも繋がりがあったらしく、
地元の武将が中心だった畑中城は、自ら火を放ち撤退させているし、
根来衆が中心だった積善寺城も、ト半が奔走して守将と膝を交えて談じ、遂に、これを説得させたとある。
雑賀衆が中心だった沢城も、ト半が説得開城させている。
積善寺城は、9000人、沢城は6000人で、鉄砲の名手が沢山いたので、城に籠って守らせtら、堅固だっとはずで、
徹底的に戦ったら、相当の犠牲者が出たはず、
きっと、当国一頑強と言われた千石堀城が、一日で落ちるとは、全くの想定外だったと思う。
千石堀城は、一時間で1000人以上の犠牲を強いる程、強力だったけど、
秀吉方が放った火矢が偶然に弾薬庫に引火しなければ、一日で落ちることはなかったはずです。
でも、時代は、秀吉方にあったのでしょう。
だから
>あの秀吉の攻撃に耐えたのか?凄すぎます!
は、間違いでした。
ト半の活躍が背後にあったということですね。 
歴史に「もし」はないと言いますが、もし、運命の火矢がなければ、もっと全面的な戦場になって
籠城戦ならば近場の貝塚の庶民や農民を巻き込んだ、双方に深刻な犠牲者が出ていた可能性がありますね。
秀吉方が負けて、秀吉が死亡という歴史になった可能性もあります。
実際、千石堀では、秀吉自ら鉄砲を撃っていますからね、
運命の銃弾が、秀吉に当たっていた可能性もあった
いうことですね。

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