チェンマイ ゴルフ日記

ボクシングとゴルフと私

2010年10月

孤独のジャングル13

【世界チャンピオンとのスパーリング】
(1952年5月 白井義男さんがダド マリノから世界チャンピオンを取った時の話し)
’52年、白井が世界タイトルを取った時、それまでのマリノとの戦跡は1勝1敗、いよいよ世界チャンピオンを賭けての決戦が後楽園特設スタジアムできって落とされる。それまでの戦跡は一勝一敗、‘51年5月、日本フライ、バンタム両級チャンピオンの白井はノンタイトルでマリノに判定負け、その年の12月、今度はハワイで7回TKOで勝ちマリノへの挑戦権を持ち5月19日を迎えたのである。
この当時、ボクシングの世界組織はWBAだけ。
フライ、バンタム、フエザー、ライト、ウエルター、ライトミドル、ミドル、ライトヘビー、ヘビーの9クラス。
今はジュニアーフライからヘビーまでの17.。組織もWBA,WBC,IBF,WBO,WBF等があり単純計算でも85人以上のチャンピオンがいるわけで、当時の9人の価値は凄い。

ボクシング部の主将をしていたお陰で無事、大学も卒業しワーナー映画へ四月より入社、然し週に二度くらいの割で三田の帝拳へ行き練習はしていたが、ある日本多会長からの呼び出しがあった。

『明日、白井のトレーナーのカーンさんが見えるが、その用事は君にダド マリノのスパーパートナーを頼みたいそうだ。』
『えつ、マリノとスパーリング』
『違う。スパー パートナーだよ』

スパーリングでもスパーパートナーでも同じようなもの。『何故ですか』
『今の、プロには残念ながら脚が使える選手がいないんだそうだ。そこで君と早稲田の出原君に白羽の矢がたったんだよ。光栄に思えよ。
『マリノは世界チャンピオンですよ。会社のボスとも相談をしなくては。』
『明日、カーンさんに会うまでに決めてくれ。』

然し驚き。何といってもマリノは世界チャンピオン、そのスパーパートナーとは。
翌日、UI映画の極東支配人のA キャセルの許可をもらい午後、帝拳でカーンさんと会い、帝拳のボクサーとのスパーリングを見てもらいOKが出た。

『マリノはあまり足が使えない。ただ、彼がフットワークボクサーに勝てるのは、ボクサーが右に廻る時、右が下がり、そこへ彼の左のショートフックが入り倒しているんだ。君らは殆ど左へ回りながら、タイミングを見て右に廻るけど、それがどのくらいの間隔か知りたいんだよ。』

英語はある程度、分かるけれど、当時は難しいことは分からない。大体、以上のことを話したと思う。(兎に角やりましょう)と言うことで即、翌日から今の両国の国技館の当時は矢張り接収されていたメモリアルホールに夕方6時に行くことになった。

マリノはとても愛想の良いボクサーで、当日は出原、私とも3ラウンズずつやったが、この時始めて、我々はヘッドギヤーをつけた。出原が一回だけ左のフックを強烈に討たれ倒れたが、私は逆に逃げずにダッキングして逃れることが出来た。

然し、マリノの左のフックともアッパともつかないショートパンチは凄いとしか言いようはない。勿論右も凄いが、少しクラウチングスタイルで追い詰められると、ありゃあ誰でも逃げられない。ボクサーは左に廻るが、そこで少しでも右に動けば強烈な左を食ってしまう。あれでは誰でも脳震盪を起こして倒れてしまう。

あれに対抗するには、常に足を使い、左だけではなく左右に動き、的を絞らせず、徹底的に絶対、右のガードを下げないことと思う。


私が倒れなかったのは、左右に動いたから。出原が私の前で倒れたのを見たから、右のガードは絶対に下げず、その代わり、右も一発も打てなかった。
私が先にスパーリングをやっていれば、2.3回、倒れていたと思う。

この時は、報道陣はシャットアウト、終わって色々聞かれたけれど、全てノーコメント。
白井義男はこの時、後楽園特設リングでダドマリノから判定で15回を闘い世界フライ級の選手権保持者になったわけだが、中盤、矢張り左を顎に食い危ない場面もあった。
(この時、世界タイトルマッチは15回戦であった)

又、余談になるが私がユニバーサルに入社以来、十数回NYとCALの本社に行ったが、殆ど米国からの帰りにはハワイに寄って帰ったが、2回ほどダドマリノに会って旧交を温めた。


孤独のジャングル ゴロマキ人生終わり

孤独のジャングル12

【人生は色々と繋がってますね】

余談になるが私が‘52年3月、慶応義塾大学法学部政治学科を卒業してワーナー映画へ入社、その後、ユニバーサル映画の東京支社長から宣伝総支配人、営業総支配人となり札幌出張の時、札幌支社長と共に料理屋へ招待され、この時の本間のOOに会った。この時はOOも本間興行の専務取締役になっていた。
本間のOOが
『総支配人、私は20年位前に総支配人とお会いしてるんではと思うんですが。河合さんはあの時の河合さんではないですか?』
『えつ。あの時のOOさんですか。あの時はえらく私も早稲田の後藤さんも脅されましたね。』
『勘弁してください。あん時、総支配人のご助言がなかったら、あたしらは皆さんにコテン、コテンにやられて津軽海峡に沈んでいたのはあたしらですよ。
誠にどうも平にご容赦を~~~~~~』

私の助言とは、『旭川でオール北海道とはできません。旭川で早慶戦ではどうです?丁度、うちも早稲田も選手は5人ずついるから。出来るでしょう。それにうちの新人と早稲田の入学が決まっている石丸君もこの際立ち合わせたら?エキジビションで。その代わり、メンバー交換は今までと違いますよ。』

私は後藤とあたるかなと思ったけれど、幸い、福島との対戦になった。

そしてお疲れ代ということで全員に30万円を石川先輩が預かり、定山渓に帰って、又 芸者さんを呼び、本間興行は相当遣ったのではと思います。

さてその早慶戦だが、石川先輩も入れての打ち合わせで誰かが切り出し
『 徹底的に派手にやってやろうじゃないの。グローブをオープンにして派手にバンバン音をだしてやりゃお客は喜ぶぜ。』(グローブをオープンにして打つと、音だけは派手にバンバンと聞こえるがナックルではないから痛くはない。然し反則ではある。)

全員、大賛成、ただ、福島だけが(ちょっと やりにくいかなあ。まあ、何とかやれるか)
然し、その福島と私があたるとは思わなかった。

  W      K

O 出原    吉田
O 野呂    浅井
  福島  O 河合
  友成  O 桑野
O 後藤    金倉

結局、3:2で早大の勝ち。こんなことは初めから分かっていた。
然し福島との試合は私も始めてだったが、よくこれだけ手が出せるなと思ったほどの
パンチの数。あれでは相手は嫌になっちゃうだろうと思った。


つづく

孤独のジャングル11

**************(当時のボクシングの備品)*********

この辺で当時終戦直後の備品の説明をしましょう。
終戦直後のボクシングの備品はひどかった。おそらく、倉庫に積み込まれたのを引っ張り出して使用したと思うが、先ず、グローブ、まともなのは、国体や全日本での決勝でのみ使用されただけ。  前述したが血と汗水に凝り固まった、こちんこちんの代物。アマは8オンス、プロは6オンスで決まっているが実際は4オンスくらいのもの、打たれればひどいが、打つ方も余程きちんとしたナックルでヒットしなければ自分の指や拳を痛めてしまう。それだけに私たちの練習はサンドバッグを打つ時に、正確にナックルでヒットしたものです。

又、1953年以降、アマの試合には頭にヘッドギヤー着用が義務ずけられたが、我々の時代には無く、全くプロと同じ、ひどいのはトランクスの下はサッポーターだけで大事なものを守るカップなんか無いのですから追って知るべしと思います。

************************************

普通、アマの場合、軽いJフライから始まり、フライ、バンタム、フェザー、ライト、ウエルター、ミドルと組まれるが、その時は組み合わせが変わり、今ピストンの福島がトップでゴングと共に飛び出し、いきなり連打でダウンさせ、それからは適当に相手をしながら、それでも3回のラスト30でラッシュをして倒してしまった。私は面白いシステムだと思った。

最後のフアィナルは後藤秀夫、相手は東北のゴリラと呼ばれる選手。私はその前である。やりにくかったが止むを得ない。相手もオーソドックスな選手であまり脚は使わずガードをかため左右ストレートが得意な選手、(私はあまりストレートパンチャーは好きではない)。左ガードを少し下げ、右だけはかため、左で誘うと案の定ひっかかり、右のストレートで打ってきたが、そのまま左のダブルのアッパと右のストレートが決まり倒してしまった。
カウント8で立ち上がってきたが、完全に戦意喪失して、結局2回終了のTKOで勝てた。これで8:0最後は後藤なので勝負はいくら東北のゴリラでも、やる前から分かっていた。後藤はそれを知っていて、こちらのセカンドに(絶対に倒さないから思い切り打たせなさい)と相手側に連絡してあっただけに、きれいなフットワークを見せながら、左フックと右のショートストレートで適当に3ラウンドを終わらせた。

兎に角、9:0だったが相手の主催者側は大喜び、お客も大喜び。そりゃあ、東京では早慶連合での試合なんて見られはしない。その後、毎年、来てほしいとの要請があったほどだ。

【手前等 津軽海峡はわたさねえ】

札幌に着いたときは流石に全員疲れていた。
北海道の連盟の方たちが迎えに出てくれたが、瞬間、嫌な感じがした。それはいかにもヤー様のような人が多くアマ連盟の方がうまくとりなしてくれ、そのまま、ホテルに入り、全員明日の作戦を立てた。

システムは札幌でも同じで、後藤がトリで最後。私がその前は全く秋田の時と変わっていない。私の相手は22歳とのこと。だが翌年中大入りしたN。相当のファイターのようだ。ずんぐりした背も私と同じくらい、少し太めだったかな。然し、顔には傷跡がある。一見、嫌なやつ。後で分かったことだがプロでも試合をしていたらしい。

トップは矢張り福島、今回は全く遠慮せず、ゴングと共にガンガン打ち始め、こちらのコーナーで倒してしまった。タイムは2分くらいだった。

次は出原、これも問題にせず、きれいな判定勝ち。その次の慶応の吉田が微妙な判定負け、同じく桑野は吉田の仇とばかり、左ストレートでKO勝ち。
次の慶応の金倉も判定勝ち、浅井も判定勝ち、次の早稲田の友成は貫禄勝ち、
いよいよ私と後藤だけが残ってしまった。北海道は1ポイントしか勝っていない

私の相手のNは悠然としていてこっちを見て笑っている。嫌な気持ち。ゴングと共に試合は始まったが奴はクラウチング スタイルで低く構え、2.3回打ち合ったが、やつはエルボーブローも打ってくる。エルボーブローとはひじ打ちのことで、勿論反則だが、プロでは良く使われていたと思う。
レフリーが1.2回注意していたら今度はおでこをぶつけてくるバッテイングというやつ。
いい加減、頭にきて、その時、よし、この野郎、倒してやると思った。
観衆からは『N,きたねーぞ、~~〜』との野次すらはいっていた。

今まであまり足を使うフットワークは見せなかったが、2ラウンド目から積極的にNの周りを廻り始め、ボクサータイプに切り替え、時々左のダブルのアッパを腹に打ち込み、右のショートのフックを顎に叩きつけるようにヒットしたのが効き始めNが腰を落とすことが数回重なった。
ラスト30の合図が自分のセコンドから出たのを聞き、猛烈にラッシュしたら膝から崩れてしまった。レフリーが指差すコーナーに行き、レフリーのカウントを待ち殆どゴングと同時にカウンテッド アウト、やれやれ、後はトリの後藤だけ。

最後の後藤の場合、初めからきれいなフットワークを使い、相手を翻弄し、一度倒したがゴングで救われ、2ラウンドも3ラウンドもそのまま、観衆を魅了するフットワークを使い、圧勝できた。これで8:1文句無く早慶の勝ちだが試合後の会議で、とんでもない条件が出されたのでびっくりした。

終わって、風呂だけ軽く入り、小料理屋へ招待されての話しで
『あなた方の今後の予定は』
『東京へ帰るだけですよ』
『それでは、旭川へ行ってくれないか。』一番ヤー様的の北海道の連盟の顧問というのが切り出した。』
旭川なんて行ったら又一日から二日つぶれてしまう。早稲田の後藤が
『とんでもないですよ。旭川なんか初めから予定に入っていませんよ』
『そんなこたあ百も承知だよ。何もただとはいっちゃーいないよ。どうだい、札幌から旭川まで顎足つきで20万じゃあ』後藤が怒って、
『冗談じゃあねえ。顎足つきでこれだけの人数で20万とは、随分安く見られたもんですね』
『ご存知だと思うけれど、私は来年からプロになりますけど、初めのOOとの試合は100万ですよ』聞いていた私たちが驚いた。
100万円とは当時としては余程のスター選手でなければ取れるわけがない。まして、アマからプロへの第一線目で100万とは。当時の大卒の初任給は大体7千円くらい。

『随分凄い金じゃねえか。あたしは本間のOOだけど、あっし達も札幌じゃ、毎月、拳闘を興行しているけど、一試合の選手に払うギャラは全部で最高でも30万だよ。それも大体10人にね』。

本間興行とは、私が社会人としてワーナー映画に入社してから分かったことだが、北海道の興行界を仕切っていた当時は半やくざの興行会社であった。
本来、このような交渉は塾の石川先輩が監督としてついてきているのだから交渉すべきだが、この時はいっぱい飲んでいたせいか何も言ってくれない。
『あなた方はそうかもしれないが、あたし達はオール北海道と言うことで、まして慶応さんも一緒じゃあないですか。旭川なんていうことは一言も聞いてませんよ。』 そういった途端に本間のOOの態度ががらりと変わり
『おおつ、手前等ここをどこだと思ってやんでえ。東京じゃねえよ。北海道だぞ。やらねえっていうんなら手前等津軽海峡を渡さねえぞ。』


つづく

孤独のジャングル10

【秋田、北海道遠征】
春の関東大学リーグが終わり、夏休みに入る前、各地方への遠征等があり、それが結構楽しかったものです。その年(1951年)は秋田の連盟から慶応に招聘状が来ていて、メンバーは選手9名にマネージャー1名、補欠2名の計12名で宿泊は先方負担と言うのが条件であった。
こちらはK主将を初め、全員乗り気で練習をしていたところ、早稲田側から大
体同時期に二校での北海道遠征話がでてきたのです。

こちらは秋田遠征が決まっていたから断ろうと思っていたら、早稲田側の条件は秋田にも合同で行き試合をし、終わってから北海道までというもの。そりゃあ面白い。と言うことで、秋田にオール早慶ではと打診したら、文句なくOK.。

当時の交通事情は、秋田まで急行で10時間、秋田から札幌まで連絡船をいれても24.5時間、東京を朝出てその晩は秋田泊、翌日は試合して夜行で青森へ行き、連絡船で函館まで渡り、札幌行き、三日目の夜、札幌着。相当きついスケジュールではあったが翌日は札幌着。一泊してオール北海道との試合で、試合が終わり、定山渓温泉で一泊。五日目に朝、札幌発で東京へ帰るという七日間の当時としては相当大きな遠征計画であった。
然し、思いがけぬことから結局十日間の遠征試合になってしまいました。

早稲田側は当時から(大学の虎)と呼ばれていた後藤秀夫を初め、二代目ピストンの異名の福島昇、野呂正二、出原雄二郎と友成光臣の5名。
慶応は私のほか、吉田、桑野、金倉、浅井の5名、計10名で、9人の試合なので、若し万が一があればというので、もう二名、早大側から試合はしないが早大入学決定の石丸君、塾も新人が同行することになり合計12名、監督は塾OBのアマ ボクシング連盟の石川 輝先輩の13名が上野駅を出発したのです。

何しろボクシングで顔がまともな若者は独りもいない。いかにもボクサーと言うのが12名だったが列車の中はおとなしいものでした。
さて秋田到着、全員、ジムで身体をほごすシャドーボクシングをして風呂に入り食事をご馳走になり近所のクラブに連れて行かれ接待を受けた。

何と言う会場か忘れたが、お堀があるお城の中の競技会場、三千人は入ると言われていたが、当日は立錐の余地もないほどの混み方、倍のプレミアムがついたそうだ。


つづく

孤独のジャングル9

【最後の早慶戦】

早慶明三大学リーグ
メンバー交換によれば私の相手は今までに一敗している出原雄二、Jフライの選手権者出原万三の兄きで、彼も試合巧者で有名である。 広島の出身で、国体には何度も出場している。(私は国体には出場していない) 当日は早稲田の大隈講堂である。 当日は五千人は来たであろう、兎に角満員御礼である。 早慶戦というネームバリューもあるが、この試合に勝ったチームが優勝校であり、ハワイの連盟から招待も来ていた。 私は前回、出原に負けているし、前回の慶明戦でもTにKO負けを喫している。然しポイントゲッターには違いはなく、自分では(今の俺なら、出原には負けない)と言った自負心があった。
それは後藤とのスパーリングでも証明されていたし、出原のパンチなら仮に、前回のTにやられた右のサイドブローを腹に食っても倒れない自信はあった。

(都の西北)(若き血)の応援歌が飛び交う中、いよいよ私たちの番が来た。

前から二列目に早稲田の有名な学生ヤクザのTが2、3名の子分を連れ大きな声で慶応側をやじりまくっている。 彼の家は自由が丘で同じ東横線の祐天寺に住んでいた私とよく渋谷駅では出会い言葉も交わしていたので良く知っている。 じろっと睨むと奴も(にやっ)と笑い返してきた。
暮れも押し迫った12月なのに、あのむんむんした熱気、試合前から応援合戦が繰り広げられ、一種の殺気めいた気迫さえ感じられたあの瞬間/ 私の青春も含め、全ての想い出は過去のものであり、過去は決して帰りやしい。 ボクシングの早慶戦のあの雰囲気は、特に大隈講堂の雰囲気はやった者でなければ分かりゃしない。
遠い過去を振り返り、永い道を歩み続けてきたことを今、確かに誇りに思うことが出来る。

ゴングが鳴り、試合が始まると、私の場合、以外に心は落ち着き、兎に角彼とは三回目で
あり、冷静に相手を見ることが出来た。 出原は得意の足を使い、私も中々入っていかれず、終盤、左のアッパから右のストレートと連打が出来、ゴングが鳴るまでそのラッシュを続けることが出来た。 2ラウンドも同じような調子。3ラウンドは彼が焦っているのが分かった。 倒したかったが、矢張り先週のTに打たれたキドニーブローが利いていたのか、 それ以上のファイトが出てこない。
その内にゴングで、判定は私に上がり、これで昨年の借りが返せたと思ったし 念願の50勝は出来たわけである。 然し、早稲田と慶応の試合は2:7の完敗であったし、早稲田が優勝、明治が2位、慶応は3位で勿論、早稲田のみがハワイに招待された。

丁度早稲田大学ボクシング部の六十周年のパーテイーでご挨拶をしたとき、この話もでて、出原さんも来ていたので 『お互い、1勝1敗、今では良かったと思っています』 のご挨拶が出来た。
私が慶応義塾ボクシング三田会の会長と三田体育会理事(1986年〜1994年)になってから年数を忘れたが、早慶定期戦のみ復活し、今でもそれは毎年続いていると思う。


つづく

孤独のジャングル8

【屈辱の一敗】
丁度、その年の早慶明リーグの慶明戦は三田の帝拳ジムで行われる予定であった。
その年の私の調子はよく、5月に行われた関東八大学リーグ戦でも5戦4勝1敗と絶好調。明治大学の私の相手は新進気鋭のT君。彼はフライ級の全日本の一位でもあったが、一階級上げて私との対戦の為、張り切っているとのこと。
何しろ、試合場は三田通り、慶応義塾のお膝元。負けるなんてことは絶対考えられなかったし、わたしの調子も絶好調。どのように迎え撃てるかが帝拳や部員の話題でもあった。

【口惜しかったTの罠】
9人メンバーで私はバンタム、初めから四番目。 1ラウンド目は明治のTも私の左のアッパを警戒したらしく、いくら誘いのフォームをしても乗ってこない。 私もTの右ストレートを警戒、お互いにジャブや左ストレートの交換のようでレフリーから『ファイト』の注意さえ受けていた。 然し、打たれるのを承知で攻勢には出られない。
然し、ここは三田、(よーっし)と2ラウンド目の後半、私から左のアッパをダブルで打ったのがもろにヒットしたのが分かったほど、Tは苦しそうな声をだしたが、そこでゴング。

セカンドからの『もう一回、同じタイミングで』のアドバイスも分かっているけれど、果たして、Tが乗ってくるかどうか? いずれにしても(今度は初めから仕掛けるか) ゴングと共にTのコーナーにスルスルと近ずいた私は同じ戦法で左を下げ誘ってみた。 Tは完全にそれにひっかっかったと思ったのが私の敗因。
左のアッパを出した瞬間、待っていたように打たれた右のサイドブローがもろに私のキドニーに入った。
「はっ」と思った時は私自身がダウンしていて、レフリーが〜〜7までカウントをしていた。
あわてて立ったがカウント9の時。

プロの場合はそれでも良いが、アマの場合、カウント8でファイテイグボーズを取らなければノックアウトになってしまう。
結局、KO負けでその試合は落としてしまった。 控え室に戻った私は洗面器を持ってきてもらい血を吐いてしまった。 家へ帰って、その試合の反省をしつつ、約二日間は三田の山
には行けなかった。然し七日後には早慶戦が控えている。

私の戦跡は入部以来、49勝4敗でありました。

何とか50勝というのが夢でもあった。 全日本選手権でも出場してれば50勝は楽だけれど、私の場合、関東の決勝で肺炎の為、高熱が出た為、家でうんうんうなっていた。前年の全日本の場合はその時の選手権者の明大の五十嵐選手に決勝で敗れ、3位であった。


つづく

孤独のジャングル7

【早慶明三大学ボクシングリーグ】
当時、私たちは5月6月に東都八大学リーグ戦があり、慶応はまだ一部の下位で頑張っていたが(当時は5部まであったのですよ) それが終わると色々と地方からの試合要請が多く、遠征があり、7月一杯はそれでつぶれ、我々のシーズンオフは八月の三週間くらい。

【小説のモデルになった当時の思い出】
親父の別荘が逗子にあり、買ってもらったスナイプ(本当は自分で稼いたが、ここでは長くなるので:(メインセールとジブもある約七、八人は乗れるヨット)に友人やガールフレンドを乗せ逗子、葉山の沖合いに舟を出し、セールトジブをたたみ、アンカーを降ろし、太陽が刻一刻、やがて 空も海も溶け合い夜のとばりが訪れる頃、遠く江ノ島から鎌倉の海岸に灯がともり、進駐軍放送で(ストーミーウエザー)等が聞こえてくると水着のままヨットの上で踊り、それに何かを感じながら、それを抑える為に海に飛び込んだ。暗い水面に顔を出し、スナイプの周りを泳ぎながら夜光虫が時折光るのを不思議がった。

私より一、二年後輩に一ツ橋大出身の小説家兼政治家がいて、その小説家の弟が一世を風靡したかの石原裕次郎であったが、裕次郎は私の三番目の弟の慶応高校での友人でもあった。

その彼ら兄弟が数回、逗子のアブズリにあった漁港に預けてあった私のヨットを見に来ていたことは私も覚えています。
その彼が書いた(OOの季節)は大ベストセラーになり石原裕次郎も出演して。その後、裕次郎は大スターになったが若くして神に召され今年は二十三回忌あたりになるのではないだろうか。心より冥福を祈りたい。

9月から練習は再開されたが当時行われていた早慶明三大学ボクシングリーグに備える為であった。私はこのリーグ戦が好きだったが、確か三年間で解消してしまった。 それは早、明と慶応の実力が違いすぎたことも原因の一つであった。このリーグも9人で行われるので、勝負に勝つためには5人が勝たなければならないが、慶応義塾のポイントゲッターはせいぜい2人、ひどい時は、私だけが勝って8:1で負けたものだった。
個人戦ではなくあくまで3大学リーグなのでリーグ戦としては中止せざるをえなくなってしまったのです。

【早慶明体育OB会】
然し、1980年頃、誰かが音等を取って早慶明体育OB会なる会ができたが、これはボクシングばかりではなく、全ての体育会OBなら入会の資格が与えられ、当初、柔道部OBの先輩が慶応義塾の代表幹事をやっていたが、三、四年経って私に慶応義塾の代表幹事とのご指名があり私も当時は名誉職としては慶応義塾ボクシング三田会の会長と三田体育会の理事だけで、会社も成績は順調だったのでお引き受けをすることになった。 所が一年目で、この会の会長職を決めるということで、初めの会長に私というお鉢が廻ってきたのである。そこで早慶明体育OB会の会長を拝命した経験がある。
この総会が12月で、翌年の11月の三田体育会の総会の時、塾長の石川先生の二人で会が終わってからの会談でこの旨をお話ししたら大反対されてしまった。

その理由として、早稲田、明治の体育会のOBは何人いるだろうか。当時、塾の体育会運動部の数だけで33部、アメフトやラグビー、野球部等だけで1000人は超えるだろう。塾の体育会の人数だけで約四千人、早稲田、明治は大変な人数だろうから全部で一万から二万人はいるだろう。
                   
石川塾長ではないが、確かに会長になれば、その連中が不祥事を起こせば、最終責任は若し会長職を引き受ければ私にくるわけだ。よく今まで何もなかったものだと吃驚したが、早速、早慶明の幹事に連絡をとり、辞めさせていただく手続きを取り了解された。

石川塾長は毎朝、新聞で塾関係の不祥事が気になって塾長としての責任の重さを痛感していたとのことである。


つづく

孤独のジャングル6

【大学の虎、後藤秀夫さんとの思い出】
早稲田大学創部六十年史にも早稲田側から頼まれて祝辞を書いたが、我々が現役の頃、早稲田大学は滅法強かった。 大学リーグの一部は九人制でチームが組まれるが、早稲田は全日本選手権者が四人いたのだから凄い。 J フライに現在の監督 出原万三、フライに福島、バンタムに出原雄二、フェザーに大学の虎、後藤秀夫、ライトに石丸、友成とリングに上がれば相手が嫌になってしまうような選手が四人も五人もいたのだからそれでいて、優勝は殆ど日本大学で、これは不思議がられたものです。

【プロになった後藤秀夫 】
後藤秀夫の場合、卒業する前からプロに転向し、向かうところ敵無しの感で連戦連勝、矢張り強かった。 兎に角、フットワークが素晴らしく、相手が頭から飛び込んできてもサイドステップでかわすからパンチは空を切ってしまう。 面白かったのは、試合で飛び込んできた相手をかわし、相手がリングの外に飛び出してしまい、そのままテクニカル ノックアウトで勝ったこともあった。

後藤秀夫とは試合のリングでグローブを交えたことはなかったが、彼がプロになり我々が綱町での練習後、一部の選手のみ練習に行っていた当時三田通りにあった帝拳ジムでは二、三回スパーリングをした思い出があった。
その頃、戦前からフライ級のタイトルを持っていた花田陽一郎さんから『俺の顔を見てみな。そんなに代わってないだろう。ボクシングは相手に打たせては駄目だ。ヒット&ウエーが基本だよ。俺が教えてやるよ』と随分教わったものだ。

(大学の虎)のニックネームは後藤がプロになって、それを映画会社の松竹が映画化をしていわゆる(大学の虎)に俳優の大木 実が後藤のモデルとして演じたのである。勿論試合や練習等のボクシングに関係があった動きは後藤が演じたが、映画、そのものもなかなか良く、二回ほど劇場で見たと思います。その彼が早大ボクシング六十年祭をする一年くらい前から身体をこわし、入院されていたが当時はOB会の名誉会長をやっていて息子さんや早大ボクシング関係に聞いてもなかなか病名も病院も教えてもらえず、六十年祭当日も欠席され、それから約一ヶ月、他界されてしまった。癌関係の病気のようであったらしい。
心より冥福を祈りたいと思います。

惜しい方をと思っていたところ、早大のボクシングOB会(稲門会)の会長から連絡があり『友好校の会長として又、故人と親しかったので、麻布善福寺の葬儀に弔事を読んでいただきたい』とのこと、お引き受けこそしたが悲しいことでもあった。
(弔事は出来るだけご遠慮すべき)
私と彼との想い出は数知れずあったが、中でも当時、三田通りにあった帝拳ジムで練習中、吹き抜けであった二階から当時の帝拳の本多会長から声がかけられ
『河合君、ここに後藤君が来ているんだが、良かったら君たちのスパーを見せてくれないか』と言われたことであった。 私は弔事でここまで言って、声を詰まらせ、その先が中々出てこなかったことを良く覚えています。
然し弔事なんか、あれはやるべきではないなと思いました。親しければ親しいほど、当時の思い出が胸をつまらせる。
本多会長に言われ、その時四ラウンドほどスパーをしたが、後藤のパンチが以前のアマの頃より遥かに強くなられたこと、又、以前よりフットワークを使われなくなったと言うのが印象的でもあった。
それからしばらくして、後藤のタイトルマッチの発表があり、相手はフエザー級東洋チャンピオンのフィリッピンのベビー ゴステロとのこと。 ゴステロはその頃、殆どの日本人選手を総なめにしていたハードパンチャー、左ガードを下げ、相手がそれに釣られて打ってくるのをサイドにステップしながら左のアッパをダブルでカウンターするのである。
私が試合でそれをよく使っていたので、帝拳で本多会長が声をかけられたのではと思う。

タイトルマッチでは後藤もあまり足は使わず、ゴステロに攻められた時のみフットワークで動いていたが、私とのスパート同じように、いつもの後藤とは違っていた。
焦ってきたゴステロが終盤、左のアッパの連打を増やし、右のショートのフックを打ってくると後藤が軽く足を使い、左フックと右ストレートでの反撃は相当ダメージを与えたようで、一度だがダウンさえ奪っていた。

当然、後藤が勝ち、賭けられていた全日本のフェザー級チャンピオンになったが、その後の彼は試合が多く、月に一度の割りで試合をしていたと思う。


つづく

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