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* * * *

1.
 さて、法律雑誌NBLの最新号である1079号(2016年8月1日号)に、門口正人=金丸和弘=佐藤久文の3弁護士による鼎談「企業訴訟における訴訟活動(下)」が掲載されておりまして、前号の「(上)」ともども、興味深く読ませて頂きました。(内容には、他誌の座談会等といくらかデジャブ感を感じる箇所がなくはなかったのですが・・・。それでも、興味深い内容がいくつか含まれておりましたね。)

2.
 今回の鼎談の前半は「Ⅱ 具体的な事件を通じた企業訴訟に関する議論」の「2 契約文言の解釈が問題となる事案の検討」というテーマで、議論が展開されておりました。

 その中で、特に目を引いた(なかなか興味深いです)御発言の箇所と、それに対する私のコメントを、以下、五月雨式ではありますが、書かせて頂きます。

(1)
(同号86頁)
金丸「基本的には企業間契約の解釈に当たって契約書に記載のない文言を補充して解釈するということはやるべきではないと考えています。(中略)対等の当事者がしっかりとした交渉を経て契約条項の修正を重ねながら、その結果として最終的な契約書を作り上げたような場合には、まさにその内容こそが企業間の合意内容として尊重されるべきであると思います。したがって、契約書に記載のない文言を補充して解釈するということは、むしろ当事者の合意内容に反することにもなりますし、ひいては企業間取引の法的安定性を危うくするのではないかと考えます。(後略)」

佐藤「企業法務を取り扱う弁護士には、金丸先生と同じ意見をお持ちの方が多いように思います。」


(川井)私も、金丸先生と同意見ですね。

(2)
(同号85頁)
門口「(前略)裁判所は、どうしても昭和51年最高裁判決(*)の合理的意思解釈に関する判例に依拠して、当事者の目的や当該法律行為をするに至った事情、慣習及び取引の通念を基準として判断していくことになると思います。」

(*)最一判昭和51.7.19集民118号291頁。
 「おもうに、法律行為の解釈にあたっては、当事者の目的、当該法律行為をするに至った事情、慣習及び取引の通念などを斟酌しながら合理的にその意味を明らかにすべきものである。」

(同号87頁)
佐藤「(前略)最高裁は契約解釈については、どのような立場でしょうか。」

門口「先ほど申しました昭和51年の最高裁判決が先例として導いていると思います。そこで示された合理的意思解釈は、たとえ国際的取引であっても、大企業同士での契約紛争でもあり得るのではないでしょうか。」

(川井)裁判所が、国際的取引であっても、大企業同士での契約紛争であっても、合理的意思解釈を取る場合がある、というのは、私の認識とも一致しますね・・・。その是非は別にして。
 それから、今回の門口弁護士の御発言を読む限りは、裁判所が合理的意思解釈というものを採用する理由としては、具体的妥当性や公平性の確保、といった要請の他に、シンプルに「最高裁がそういう判断をしているから(上記の昭和51年の最高裁判決で)」という理由も大きいのだろうなあ、と、今更ながら思いました。まあ、最高裁の判断であれば、他の裁判所の裁判官もほぼ絶対的に従いますしね・・・。これは、自分の中ではっきりと意識していなかったので、参考になりました。

(3)
(同誌87頁)
門口「裁判所としては、おそらく、その業界の成熟度、当事者間の情報の格差の程度、あるいは交渉の経緯、交渉に費やされた時間や交渉の質などにおいて、そういうものがすべて理想的な状況にあれば、契約の文言どおりでよしとしますが、そのうちのどれかに問題があるとすれば、内容に立ち入ることになるということです。」

(川井)うーん・・・。裁判所が契約の解釈についてそういう判断傾向を持っている、ということは経験上知っておりますが、では果たしてそれが正しいのか、といいう点については、未だに腹オチできておりませんね・・・。
 上記の「理想的な状況」のどれかに問題がある場合に、何故裁判所が「内容に立ち入る」ことができるのか、理論的・説得的な説明が本当にできるのだろうか、という気が、実は以前からしております。
 そういう裁判所の発想傾向って、契約書自体がまだまだなかったり、あったとしても不十分な内容だった昔の時代や、そういう状況が根強い中小企業間には妥当しえたとしても、現代の比較的規模の大きな企業間の契約では、あてはまらないことの方が通常ではないか・・・と思うのですが。

(4)
(同誌87頁)
佐藤「企業法務を取り扱う弁護士の意見としては、裁判所には契約文言どおりに解釈してもらいたい、文言にはない要件を付加する補充解釈はやめてほしい、仮に、契約文言どおりだと不合理、不公平な状況が生じる場合は信義則で対応してほしいという意見が多いように思います。このような意見に関して、門口先生はどのような御意見をお持ちでしょうか。」

門口「弁護士の立場では、信義則により対応してほしいというのが多数であることは承知しておりますが、裁判所の立場としては、合理的意思解釈を先行すると思います。なぜかと言いますと、はじめに契約の内容を画定し、その上で契約に絡む諸事情から信義則を適用するというのが一般ではないでしょうか。信義則は、リーズニングとしても弱い感じがするのです。つまり、当事者間の契約の内容として位置付ける方が客観化されて説得性が高いと感じる裁判官が多いのではないでしょうか。」 

(川井)うーん・・・。ここも門口弁護士の御意見は全然腹オチできないんですよね・・・。こういう判断方式って、訴訟や裁判が「誰のための」ものなのか、という視点が果たして十分にあるのかしら、という気が、大変僭越ながらしております。契約書の文言にないにもかかわらず、合理的意思解釈によって「それが当事者間の契約内容である」と判決で勝手に(失礼)要件を付加された補充解釈をされて、当事者は本当に納得すると思っていらっしゃるのでしょうか・・・。また、上記のような判断形式を裁判所が採ることは、当事者間で契約文言を決定することの有効性や意義を、長期的には削いでしまう(あとで裁判所が文言どおりに解釈してはくれない、ということになると、契約当事者としてはどのような文言で合意したらわからなくなる、などの効果が発生しかねない)ことになりかねないと思うのですが・・・。ここも私は、佐藤弁護士の御発言の中にある「企業法務を取り扱う弁護士の意見」と同じ意見を持っております。

(川井・補足)ふと思ったのですが、上記のような裁判所の判断・思考法って、若い裁判官でも皆同様の考え方を取っているのかなあ・・・という印象を受けました。

* * * *

 以上、気が付いた点を、コメントさせて頂きました。(コメントが踏み込み過ぎたかも・・・)
 裁判官と弁護士の認識の「溝」は、意外と深いな、と印象を、今回の鼎談を読んで、改めて持ちましたね。

 それでは、本日はこんなところで・・・。


(追記 2016年8月7日)
 本ブログ記事は、予想以上に非常に沢山の皆様にお読み頂いたようでして、大変ありがたく思っております。お読み頂いた皆様、誠にありがとうございます。
 ただ、ネット上での本ブログ記事に対する様々なご感想・ご意見を拝見しますと、(専ら私の文章力・説明不足に起因するところが大なのですが、)私のコメントの趣旨を誤解してお読みになられた方々も少なからずいらっしゃる印象を受けましたので、可能な限り誤解を解いて頂くべく、以下、上記での私のコメントにつき、その趣旨等を追記させて頂きます。

(A)
 上記での私のコメントは、企業間の契約のすべての場合について、一律に契約書の文言だけで解釈すべきであるとか、合理的意思解釈の主張を一切の場合に排斥すべきである、と言っている訳ではありません。

 上記での私のコメントは、あくまで、
① 「契約書の文言を基本的に尊重すべきである(契約書に記載のない文言を補充して解釈すべきではない)」とは言っても、それを貫いて不公平・不合理な結論となる場合には、信義則を適用して解決すべきでは。
② 契約の合理的意思解釈という手法を完全一律に否定している訳ではなく、ただその手法が適切ではない場合もあるのではないか。
 という趣旨です。

 したがって、①については、合理的意思解釈をした場合と基本的にはほぼ同じ落としどころ(結論の妥当性)を目指している訳です。「信義則という一般条項を使うのは慎重である(または、最後の手段である)べきでは」という反論はありうるとは思いますが。ただ、合理的意思解釈の場合でも、信義則の場合でも、裁判官の判断に恣意は入り込むリスクというのはそれほど大きくは変わらないのではないかと考えております。

 また、②については、では実際にどのレベルの契約なら「契約書の文言どおりに解釈すべき」と言えるのか、という線引き・射程範囲の問題であり、それに関して、私は上記(3)で「比較的規模の大きな企業間の契約」(これは、上場企業の中でも比較的規模の大きな企業、というイメージで書きました)という「線引き」を試みレベルで提示してみました。
 しかし、私自身は外部弁護士であるため、企業内の契約の全てについて網羅的に状況を知っている訳では勿論ありませんので、「比較的規模の大きな企業間の契約」という線引きでは、範囲として広すぎる、というご批判は、当然ありうるものと思います。

(なお、この②については、上記(1)の私のコメントで、「私も、金丸先生と同意見ですね。」と書きました。この点は私は、(1)の金丸先生のコメントについて、金丸先生がおっしゃる「対等の当事者がしっかりとした交渉を経て契約条項の修正を重ねながら、その結果として最終的な契約書を作り上げたような場合」には、「契約書に記載のない文言を補充して解釈するということはやるべきではないと考えている」という点について、同意見だと記載した趣旨でした。しかし、読み方によっては、私が、「企業間のすべての契約書について、契約書に記載のない文言を補充して解釈するということはやるべきではないと考えている」という意見を採ったかのように読めてしまったかもしれません。この点は誤解を招く表現であった、と反省しております。)

(B)
 なお、私は本ブログ記事で、あくまで裁判所の判断手法についての「べき」論・理想論を述べている訳でして、私が、現在の裁判実務が門口弁護士が御発言した手法を採っていないと考えているとか、大企業の契約法務では裁判所の合理的意思解釈を前提としない実務が採られていると考えている、ということは、勿論ありません。また、私自身が、実際に取り扱う事件で、合理的意思解釈の手法を前提とせずに議論や主張立証を組み立てる、などということも、勿論ありません。この点は余りに当然のことですが、念のため。もちろん、私がここで述べた「べき」論・理想論が不適切である、というご批判であれば、そのご批判のご趣旨は理解できます。
 ネット上で、「川井は『現在の裁判実務や企業法務実務が合理的意思解釈という手法を採っていない』と理解している」かのように読めるコメント等をいくつか拝見しましたので、念のためコメントいたしました。

(なお、こういうことは余り書きたくはないのですが、私自身、今までの弁護士生活の中で、企業間の契約(締結済)であっても、文言や規定内容が十分に詰め切れていない(意図的か無意識的かは別として)ものになっているものを、数え切れない程見ております。)

(C)
 上記(A)の②の「線引き」の問題については、中小企業間であったり、大企業間であっても契約内容や文言について必ずしも十分な議論が尽くされていないで締結に至ったようなケースについては、端的に「合理的意思解釈」で処理した方が確かに良いかもしれません。繰り返しになりますが、この点は「合理的意思解釈」の射程範囲の問題です。

(ただ、結局のところ、大企業間で例えば双方に弁護士がついて文言について十分に詰めた契約であっても、裁判所が「合理的意思解釈」という手法そのものを捨て去ることは、私などがいくら「理想論」として主張しても、難しい気もしております。そこは、裁判実務が変わることは現実的には考えにくいかもしれません。
 としますと、大企業間で例えば双方に弁護士がついて文言について十分に詰めた契約、の場合については、「契約書の文言どおりに解釈することこそが、まさに当事者間の合理的意思解釈なのだ」というロジックで、結果的にそうした場合の契約について、契約書の文言どおりの契約内容を認定してもらう、というのはどうだろうか、と、現実策としては考えております。
 要するに、合理的意思解釈の射程範囲の議論ではなく、「合理的意思解釈は全ての場合に維持した上で、あてはめのレベルでの議論にもっていく」ということですね。この方が裁判所にとっても受け入れやすい話かなあ、と考えております(上から目線っぽくて恐縮ですが・・・)。)

(D)
 なお、上記ブログ記事で私が引用した箇所(鼎談での御発言)だけを読むと、何故私がこのような(一見、現在の裁判実務の在り方とかなり異なる発想である)「理想論」を書いたのか、その問題意識が理解できないかもしれません。
 これはひとえに私の記事作成力の不十分さの問題ではありますが、この点につきましては、是非、NBLの当該鼎談そのものをお読み頂いた上で、この問題についてお考え頂きますと大変幸いです。

 簡単に言いますと、例えば、①継続的契約の解消の場面で、一方当事者からの契約の解除・更新拒絶につき、契約書に記載のない「やむをえない事由」という要件を付加して判断した裁判例や、②M&Aの契約の表明保証の条項に関して、契約条項に記載のない主観的要件を付加した裁判例や、③同じくM&Aの契約の表明保証の条項に関して、事項ごとに「重要な」の文言ががあるかないかを使い分けているにもかかわらず、すべての事項について「重要な」という文言があるものとして判断した裁判例など、裁判所が契約書にない文言を付加して判決等を下す例がそれなりに存在します。
 こうした事例に接しますと、鼎談における金丸先生や佐藤先生などの企業法務系の弁護士の先生方が、一定の事例については、合理的意思解釈という手法自体が適切ではないのではないか、という問題意識に至ることが、自分でも理解できるのですね。
 本件につきましては、そういった問題意識を前提として御検討頂けると大変ありがたいなあ、と思っております。