●久々の登場

ご無沙汰してます、河野です。ここ数ヶ月の間で考えたことを纏めるためにも、ブログに挑戦します。そうです、挑戦とか言わねばならぬほどに、ブログを書くことのハードルが上がってしまったのです。ハードルが上がったのではないんです、俺のジャンプ力が衰えているのかもしれないと危機感を持ったのです。そういうことにしておいて。

●南関公演

「ゼロソーの曾根崎心中」南関公演。おそらく、最大の難関公演だった、というのは単なるダジャレではないのです。劇団創立以来、初めて私、公演当日現場にいなかったのです!そんなバカな。もうなんていうか、不謹慎、じゃないな、たぶん「不貞」とかいう言葉で表現して自分を責めたくなるのがぴったりって気分です。作品もしっかり作りました。信頼する劇団員たちもおります。それを現場で見届けられない無責任さ。きっと面白かったはずです!としか言いようがないこの歯痒さ。嗚呼。

●いいお年頃

そんなWF/NPシリーズの第1弾「ゼロソーの曾根崎心中」なんですが、現在10月ですから、年度の丁度半ば。曾根崎の旅はようやく半分来たところです。脂が乗っていいお年頃です。でも昨日、通し稽古を見て思いました。「全然言葉の力に芝居が勝ててない」と。そんで、その理由を俳優陣に話しました。
 話すにあたって、恥のことを考えていたのでした。近松の、七五調の美文は、きっと俳優陣にとって気持ちのいい言葉群なんですが、そんな美文に酔いしれないで、とお願いしました。なんでそれが「恥」と関係するのかというと、人前でかっこいいセリフを吐くのは、見てて居心地の悪い恥ずかしさがあるのです。個人的に、というか、おそらく世代的に。世代論は膨らますつもりはないんですが。きっと俺は客席でこう思うのです。「あそこにいる人たち、あんな長いセリフ覚えて、朗々としゃべって、気恥ずかしいなぁ…がんばって覚えたんだろうなぁ」と。

●根が意地悪

きっとね、俺は意地が悪いんですよね。でも思うんだからしょうがないよね。オナニー気持ちいいの、恥ずかしい、みたいなことですよね。オナニー気持ちいいの、恥ずかしいの、見られるのもっと気持ちいい、だと始末に負えないですしねぇ。芝居の場合。そこからの脱却の旅なんでしょうね、だから題材としては非常に難関です、曾根崎心中。それで、いつも俺はいい意味でも悪い意味でも「魔法」って言葉を遣うんですけど、「舞台に立ってるからって、お客さんがあなたたちを見続けてくれる魔法なんかないよ」って、昨日は話したんです。魔法って言うとアレだけど、「そんなシステムないよ」っていう。舞台に立ってる人って、キラキラ輝いて見える「舞台の魔法」のようなものがあると俺は思ってますけど、いや、本当は、ないんですよ。プロセ舞台じゃない俺らがやってるような芝居では。…矛盾したこと言ってますけどね、本当。
セリフ覚えて舞台に立てば、観客は黙って見続けてくれるっていうシステムは、今一度疑うべきです、我々。

●このテーマは

「劇トツ×20分」という北九州芸術劇場であったイベントにあたっての作品づくりでも日々考えていたことでした。台本を俳優陣に渡して一読した彼らから出た言葉は「恥ずかしい」でした。あの作品は、セリフがわかりやすくこっぱずかしいのです。わかりやすい恥ずかしさです。でも、恥ずかしさで言えば、曾根崎だって充分恥ずかしい、というかむしろチッタチッタ以上に恥ずかしい言葉だらけです。男女の愛の悲哀を自分たちで喋ってるんですし。それは朗々と喋るのに、どうしてチッタチッタのセリフは恥ずかしいと言うのか。その答えのひとつは、上記の通り「言葉の意味がわかってるか否か」だろうな、と気がついたのでした。意味わかってないから、朗々と吐けるんだろうなぁ、っていうことです。意味わかってなければ女子でも「金太の大冒険」を大声で歌えるはずです。外国語の下ネタ会話「こう言ったら外国でウケるよ」って意味以外教えられて、いざ外国で大声でそれ言っちゃうみたいな。
これはあくまで仮説です。俳優陣の名誉のために言うと、彼らはそんなアホじゃないです。でもでも、これが真実ならば、こりゃあ大問題です!

●恥に勝つもの

結論めいたことを思うに至ってはいませんが。じゃあそんな類いの「恥」に勝つには?
今日、偶然、とある政党の演説会を聞いておりまして。
いいこと言ってるんですよ、そりゃね。それを見てて恥ずかしいと思わせないことが出来る人が、演説が上手い人、すなわち政治家だと思うんですけど。
…恥を隠すのは「魅力」という、これまた不確定な、ふわふわした指数なんだなぁ、これが。

「魅力ない人は、舞台に立ってはいけない」を心に刻み込んで、これからも稽古に励むのです。

●そんなわけですから

「ゼロソーの曾根崎心中」八代公演、いっそう面白くなりますよ!一度観た方も、絶対また来てね!