2008年03月24日
国学の道に入ることを志す
松阪の商家である小津家の次男として生まれる。兄が死んだ後、その小津家を継ぐ。そして、22歳になったとき、医学の修行のため京都へ遊学した。京では朱子学者の堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学んだ。この頃から日本固有の古典学に身を入れるようになり、荻生徂徠や契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。その京都での生活に感化され、王朝文化の憧れを強めていく。松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵の書に出会って国学の研究に入ることになる。1763年(宝暦13年)5月25日、宣長は、松阪を来訪した真淵に初見した。そして、兼ねてから志していた古事記の注釈について、指導を願うのである。真淵は、万葉仮名に慣れるため、万葉集の注釈から始めた方が良いという旨の教授をした。以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進むことを決意した。この真淵との出会いは、宣長の図随筆集『玉勝間』に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。この二つの文章から再構成された宣長と真淵との邂逅は、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載され、この読本によって宣長の名が国民的な文化人として記憶されるようになった。宣長の代表作には、約35年を費やして執筆された『古事記』の浩瀚な註釈『古事記伝』や、『源氏物語』の注解『源氏物語玉の小櫛』、『玉勝間』などがある。日本固有の情緒「もののあはれ」が文学の本質であると提唱したことで知られる。大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な孔子の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明や思想を尊重する荻生徂徠を批判した。しかし、徂徠の学問の方法論である古文辞学からは多大な影響を受けていることが指摘されている。古事記伝の画期は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、やがて国学の源流を形成してゆく。門下生として石塚龍麿・夏目甕麿(みかまろ)・長瀬真幸(まさき)・高林方朗(みちあきら)・小国重年・竹村尚規・横井千秋・本居春庭(宣長の実子)・本居大平(宣長の養子)などがいる。また、国学者としての業績が余りにも大きすぎるために無視されがちであるが、地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動してきたことでも知られ、かつ、寛政4年紀州藩に仕官し御針医格十人扶持となっていた。亡くなる10日前まで患者の治療にあたってきたことが記録されている。また意外な一面として、小児科医としても著名であったが、付き添いの母親の診察を乳児の病気の原因は母親にあるとして、必要以上に診察した逸話がある。宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋によりあきらかになった面が大きい。鈴コレクターとしても有名で、駅鈴のレプリカなど珍しいものを多く所有していた。また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけている。遺言に自分の墓のデザインを示した。昭和34年に松坂市内を見渡す小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、さらに平成11年には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。
=== 楓 ===
檜山情報研究所
まんぞう日記
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