2012年02月12日

日本から見た68年5月・京都大学でのシンポジウム

IMGP08182月5日、京都大学で行われた「日本から見た68年5月」シンポジウムを聴きに行った。西川長夫『パリ五月革命 私論 転換点としての68年』(平凡社)刊行を記念してのもので基本的に西川本をどう読むか、という切り口で参加者がそれぞれの立場から意見を述べた。

私は生で上野千鶴子を見るのは初めてだった。上野は著者である西川長夫本人を前にして、かなりずけずけと問題点を挙げていた。その態度は言論人として、とても見事なものだったと思う。西川長夫のレスポンスがほとんど無かったに等しかったのが聴衆の一人としては残念だった。

上野によれば、自分は成人式を学園闘争のバリケードのなかで経験した。68年回顧ブームは何だったのか? 男と女では全共闘運動の経験が随分と異なる。

西川本は一体誰に向けて書かれてるか? また書き手は何者なのだろうか? 歴史家は観察者なのか? 仮に全共闘の当時、西川がパリで行っていたように、外国人が写真を撮りビラを集めていたら日本なら確実に殴られてる。

また西川は運動の退潮期を見てないのか? 単に「あの時は希望があった」では済まされない。同時期に日本に居たらどうしてたのか? 助手や院生という立場ならどうだったのか(当時、多くの人たちが運動によってその立場を失った)?
 
著書の中の加藤周一、森有正への批判は正当だろうか? 70以降日本に帰ってきたのならば、いかに西川は変わったのか? フランスのナショナリズム批判は良しとして、わが身に振り返ってどうだったのか? 

当時の進学率は今より低い。女となればもっと低い。結局、全共闘は男の革命だった。
その後70以降、フェミニズムは新左翼の体内から鬼子として生まれた。女(当然、生物学的ではなくジェンダーとして)の側には裏切られた感がある。性革命の意義も男女では全く違う。反近代運動の中に反近代家族があった。とりわけ311以後反原発は何だったか?と考える。

ドイツの場合、「負けた」と思ってるほど負けてない。一方日本の68世代はダメ。今や彼らは若者から「こんな世界に誰がした?」と言われる立場にある……。

kay_shixima at 11:58|PermalinkTrackBack(0)││現場から 

2012年02月08日

兵庫県立美術館「解剖と変容・アール・ブリュットの極北へ」

IMGP0801兵庫県立美術館「解剖と変容・アール・ブリュットの極北へ」に行ってきた。最近の草間彌生は商業主義的でつまらんという人に特にお勧めしたい。

チェコのアーチスト、ルボシュ・プルニーは「買い」だ。フランシス・ベーコンの肉塊すら表層に思えてくる。スキゾの身体感覚の変容が創作に与える影響が興味深い。深層の表象とはいかに可能か?
展覧会のタイトルは解剖となっているが、ベーコンに見られたような血みどろの印象はない。むしろ極めてクールに身体が機械のように描かれている。電気技師でもあったアーチストは機械の図面のように身体を描く。
ちなみに2月4日初日は講演2時間、映画90分を含む長丁場で濃密な体験だった。

東欧はこの間まで共産主義で様々な抑圧があり、その中で日の目を見なかったアートは多くありそう。もしかすると中国政府の頭のいい奴がアール・ブリュットを国家として推進したらすごいものが出てくる予感がする。

例えばゴッホは日本で展覧会すると手堅く客は入る。しかしゴッホは統合失調症説、癲癇説あって生前認められなかった人だから今の言葉ならアール・ブリュットといえる。
まあ、一口にアール・ブリュットと言ってもピンキリである。何を隠そう、いま最も有名なヘンリー・ダーガーを私は認めたくない。何故ならどうみてもズリ◯タ丸出しだから。

もちろんゴッホと比べて人が入ってなかったけれども、講演会はかなり人が入っていたし、質問も活発だった。私も質問したかったけど時間切れ、しかも次はすぐ映画の時間だったのでフランス人に直接質問もできず残念だった。
結局、私はもしドゥルーズが生きていたらルボシュ・プルニーをどう見ただろう?と思いながら鑑賞していた。私はドゥルージアンではないのでドゥルージアンの意見が聞きたい。

なお展覧会で上演されていた映画はネットでも見ることができる。エロ・グロ画像注意。 mac quicktime版 win mediaplayer版

今、関西では堂島の国立国際美術館草間彌生展  と神戸の兵庫県立美術館アール・ブリュット展、  両方見ることができる。どちらを高く評価するかで審美眼が問われる。

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2012年02月02日

ハイデガーによる「世界」と「環世界」

パウル・ツェラン詩集ハイデガーのいう「世界」とは、SZの段階では道具的連関の総体のことであり、ケーレ以降に繋げるならば言語の網の目と考えるべきである(≒ラカンの象徴界)。何か物理的実態や空間の拡がりとしての世界を想定するのは間違いなのだが。どうもそのように誤解しているように読めてしまうのは私だけなのだろうか?

したがってハイデガーにとって環世界とは厳密に動物的なものであり、世界は人間的なものなのである。これは定義の問題だ。定義を覆してまで自論を展開しようとする意図が私には理解できない。
あっさり、ばっさりわかりやすく言うとハイデガーの「世界」とは我々の日常語に近づけて訳せば、世界「観」という意味だ。あるいはショーペンハウエルでいえば「表象としての」世界である。

例えば、『暇と退屈の倫理学』p252「世界そのものと関われないとはどういうことなのか?どんな生物であろうとこの世界の中に生きているではないか!そう疑問に思うのは当然だ」。こういう文章を読むと残念ながらハイデガー用語としての「世界」の意味を筆者が誤解しているとしか思えないのだ。

あと気になったのは叙述の中に「個物の拡張・集合が世界である」という趣旨の記述が複数回ある(ex.p277etc)。しかし少なくともハイデガーはそのような発想はしない(存在論的差異による)。これもやはり世界を単に物理空間的にしか捉えていないからではないだろうか?

補足・SZの段階でハイデガーは彼なりの「世界」の概念規定を行う際の叩き台としてUmwelt(一般的訳語は「環境」)を人間にも用いてはいる。しかし、人間はそこに留まっていない、という展開になる。またデカルト的な単なる空間の延長としての世界にも触れているがこちらも批判対象として出てくる。

kay_shixima at 20:00|PermalinkTrackBack(0)││思考の断片 

2012年02月01日

ハイデガー『存在と時間』現象の概念定義における兆候

「存在と時間」現象の概念定義So ist die Rede von ≫Krankheitserscheinungen≪. Gemeint sind
Vorkommnisse am Leib, die sich zeigen und im Sichzeigen als
diese Sich zeigenden etwas ≫indizieren≪, was sich selbst nicht
zeigt. Das Auftreten solcher Vorkommnisse, ihr Sichzeigen, geht
zusammen mit dem Vorhandensein von Storungen, die selbst sich
nicht zeigen. Erscheinung als Erscheinung ≫von etwas≪ besagt
demnach gerade nicht: sich selbst zeigen, sondern das Sichmelden
von etwas, das sich nicht zeigt, durch etwas, was sich zeigt.
Erscheinen ist ein Sich-nicht-zeigen. Dieses ≫Nicht≪ darf aber
keineswegs mit dem privativen Nicht zusammengeworfen werden,
als welches es die Struktur des Scheins bestimmt. Was sich in
der Weise nicht zeigt, wie das Erscheinende, kann auch nie scheinen.
Alle Indikationen, Darstellungen, Symptome und Symbole
haben die angefuhrte formale Grundstruktur des Erscheinens,
wenngleich sie unter sich noch verschieden sind.(SZp29)

ポイントとなるのはindizieren、Symptome(ともにちくま学芸文庫版では「徴候」と訳されている。逐語訳的、一般的な訳語としてはインデックス、症状)。さらにErscheinen ist ein Sich-nicht-zeigen.(=現象とはおのれを示さないこと)とある。
つまりハイデガーが「現象」という概念を始めに定義するに当たって、現前性に亀裂を導入している点に注意が必要である。現象とは単に今、ここに現前するものだけを指し示しているのではなく、「現前するものを通して現前しないものが示される」という媒介の論理がはっきりと見て取れる。既にこの時点でハイデガーの現象には師フッサールに反して非現前の未来が導入されている。

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2012年01月31日

『暇と退屈の倫理学』のハイデガー批判は支持できない

「カントの批判哲学」と「生物から見た世界」『暇と退屈の倫理学』におけるハイデガー批判は象徴的なものに関する議論が欠如しており、生物学的概念と言語文化的概念を分けないで立論がなされているため、ハイデガー批判としては到底受け入れがたい。生物は刺激→反応という因果性に縛られているが、人間は記号とその解釈の多様性に開かれているのである。

例えば『構造と力』p40の叙述にあるような機能的な意味付与と象徴的な意味との差異が十分に検討されていないのだ。なお『構造と力』においてユクスキュルからシェーラーへの「環境世界論」に関する議論はpp33-34でなされている。

PCの比喩を用いて説明するなら、ハードレベルでのスペックの差異と、ソフトレベルでの差異(あるソフトをインストールしているか、否かあるいは練習して使いこなせるようになっているか、否か)が同一水準で語られてしまっているので混乱が生じているのだ。

一方、ハイデガーはユクスキュルの環境世界論を応用するに当たって、生物学と言語学の差異を十分認識したうえで行っている。従って比喩や飛躍に自覚的である。このような形でのハイデガー批判ではいくらなんでもハイデガーが可哀想だ。ラカンの用語を用いるならば『暇と退屈』は象徴界の議論を無視することで想像界と現実界の区別ができなくなるという、昨今ありがちな象徴界の機能不全の症状を示す症例に他ならない。

結論部の「物の享受」に関しても、やがては「日常のルーチンに組み入れられるのだが」という留保があるのが気にかかる。この当たりの概念規定もラカンのセミネール11巻のチュケーとオートマトンの議論を用いて分けて論じられるべきだろう。もちろん、「物の享受」を構造に還元されることの無いチュケーの側を支持するという方向性で規定するべきである。

付言しておくと、ハイデガーの「世界」という概念は世界を超える過剰としての「大地」との対比において語られるべきものである。ところが『暇』の叙述はそのようになっていない(p327で大地に触れているが世界との対比ではない)ため読者に(著者にとっては好都合の)誤解を招くのではないかと危惧される。


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2012年01月28日

カント哲学における二つの狂気

KC3A0014啓蒙の18世紀を代表する哲学者カントは人間理性の基礎付けを行ったとするのが、教科書的な理解である。もちろんこれは正しい。しかし、その一方でカント哲学は人間の狂気に関する端緒も併せ持っている。

1・『言葉と物』フーコーが指摘した経験的、超越論的二重体doubletempirico−transcendantalとしての人間。いわば縦の分裂。ハイデガーの方向性でもある。

2・「カント哲学を要約しうる四つの詩的表現について」でドゥルーズが指摘した中央制御を排した諸部分への分裂状況。いわば横の分裂。D&Gの方向性。

浅田彰はドゥルーズのカント論『カントの批判哲学』の主旨を次のようにパラフレーズしている。「人間というのは、感性や悟性や理性といった諸能力のアンサンブルであり、それらが超越的な規範なしにばらばらに働いているにもかかわらず、なぜか内在的な働き合いの中から一種の統一ができてくる」(『批評空間』2-19,1998所収「共同討議・カントのアクチュアリティ」p18。スキゾ的ヒューム的解釈の流れ)。

カントは人間にはいろいろの能力があるけれども、それはばらばらのものだといっている。悟性は勝手に計算するし、感性は勝手に感じる。それをとりあえず調和させることで自我の統一を維持してるんだ、と。そこで、諸能力をまとめるのをやめてしまえってことになると、ヘルダーリンからランボー、アルトーに至るような「すべての感覚の錯乱」が現れて、頭はとことん計算してるし、口はとことんしゃべってるし、足はとことんステップを踏んでる、全体に恍惚として踊ってるんだけれども、よく見ると、それぞれの能力が勝手に最高度に活動してて、徹底的にクールであるってことのなる」。(『存在の耐えがたきサルサ』」映画とモダニズム、村上龍との対談。文春文庫pp180-181.初出「群像」平成8年4月号)

またドゥルーズ自身は次のように述べている。「諸能力は各々の極限において相互に対決し、相互の協和を根本的な不協和の内に見いだす」(『批評空間』3,1991所収「カント哲学を要約しうる四つの詩的表現について」→『批評と臨床』所収)

kay_shixima at 17:42|PermalinkTrackBack(0)││思考の断片 

2012年01月26日

カントからニーチェへの思想的課題。純粋スキゾ批判とは2

olivia-husseyああ、ロミオ、ロミオ!どうして、あなたはロミオなの?
お父様のことなど知らないと言って、あなたの名前を捨ててちょうだい。
さもなければ、私を愛すると誓って、
そうすれば私もキャピュレットの名を捨てましょう。
私の敵、それはあなたの名前だけ、
モンタギューの名を捨てても、あなたはあなた自身。
モンタギューって何? 手でも足でもない、
腕でも顔でもない、人間の体の
どの部分でもない、だから他の名前になって。
名前が何だっていうの? 薔薇と呼ばれる、あの花が
他の名前であったとしても、甘い香りは変わらない。

O Romeo, Romeo! wherefore art thou Romeo?
Deny thy father and refuse thy name;
Or, if thou wilt not, be but sworn my love,
And I'll no longer be a Capulet.
'Tis but thy name that is my enemy:
Thou art thyself, though not a Montague.
What's Montague? It is nor hand nor foot,
Nor arm nor face, nor any other part
Belonging to a man. O be some other name!
What's in a name? that which we call a rose by any other name would smell as sweet.


”Romeo and Juliet” William Shakespeare

「もの」としての私(諸属性の集合)は分割できるが、「こと」としての私(集合を可能にするカテゴリー)は分割し得ない。肝要なのはコギト、統覚、固有名としての、分割し得ない「こと」としての私である。
「もの」としての手紙・イコンの分割可能性vs「こと」としての固有名の分割不能性。

AOはラカン(および否定神学的思考全般)をシニフィアンの専制として批判する。父や国家、民族、その他権力のシニフィアンが攻撃の対象となる。しかし、D&Gは忘れている。唯一批判してはならない特別なシニフィアン=固有名のことを。D&G「シニフィアンの専制から諸強度を解放」vsハイデガー「誰のものでもない生に固有性を奪還」。両者はちょうど正反対の主張をしている。
純粋スキゾ批判
啓蒙の18cカントは人間一般の理性の基礎付けを行った。しかし、その一方で彼は経験的であると同時に超越論的なるものとしての人間存在の中に亀裂を見出してしまった。カント以降の思想はこの亀裂を無視できなくなってしまった。
とりわけこのカント的問題を最も真摯かつ激烈な形で受け止めたのが、他でもないカント嫌い=ニーチェであった。とりわけ最晩年のニーチェは身を持ってカント的問題に答えを見出そうとしたのであった。トリノでの発狂以後の禍々しい手紙はそのことを示している。かくして啓蒙の光は19cの終焉とともに暮れて行く。

delireを『妄想』(体系的、構築的)と訳すか『錯乱』(断片的あるいは解体的)と訳すかで随分違ってくる。いや、むしろ正反対のイメージになってしまう。ハイデガーは前者の流れを受け止め、D&Gは後者の流れをそれぞれ受け止める。既に述べたように最も哲学書らしい書物『存在と時間』vs最も哲学書らしからぬ書物『アンチ・オイディプス』。両者の固有名奪還と諸強度開放を巡る闘いの有様。これが20c思想の構図であった。カントの見出した亀裂はその深淵を最も大きく深く開かれることとなった。

我々はニーチェの命懸けの闘いに解答を求められている。今こそ固有名と諸強度の抗争に何らかの綜合が為されねばならない。『純粋スキゾクリティーク』とはこの課題を引き受ける、ニーチェの書かれざる主著のことである。これこそが21cの思想的課題となるだろう。

kay_shixima at 12:00|PermalinkTrackBack(0)││思考の断片 

2012年01月25日

固有名と諸強度あるいは純粋スキゾ批判とは何か?

私の中で長らく「強度」という言葉は「禁じられた言葉」だったのだが(何故なら他人には通じないのだから)、態度を改めることにする。もっとも電話で話しただけでその微分センサーによって急性期のスキゾの強度を受けとめて倒れてしまい、翌朝の外来に出られなくなった経験を持つマイスターも日本にはいるに違いないのだが。
シチリアにて
ニーチェはその名をプロシア国王に因んで名付けられた(国家主義への同一化)。またクロソウスキーは『バフォメット』で神聖ローマ帝国皇帝にしてシチリア国王フリードリヒにニーチェを近づけようとする(コスモポリタニズムへの同一化)。しかし、ニーチェはニーチェ以外の何ものでもない。
最晩年のニーチェにおける歴史上の固有名の氾濫は諸強度に対する固有名の放逐を告げているのではないのか? あるいは十字架に欠けられた者に抗する「ディオニュソス」という署名は誤ったパラノイア的固有名の選択を示しているのではないのか? いずれも固有名「ニーチェ」の敗北を示しているのではないか?
バフォメット
私の言うことがおわかりだろうか? 歴史上の全ての名に圧倒されるディオニュソス。

我々の目の前に現れる対象は常に諸部分の寄せ集めに過ぎない。諸部分に諸欲動が対応する。それ(エス)をどの様に名付けるかは主体の態度決定である。決断とはそこで固有名を選び取ることに他ならない。あらゆるものが手紙として、イコンとして諸部分に分割されてしまうかに思われる。しかし、固有名はその分割にこそ抵抗する。
アドルノは『本来性という隠語』においてハイデガーを批判している。「本来性」と言っても、本当のところ何だと言うのか? 仲間内で分かったような気になってるだけのジャーゴンではないのか?
ハイデガー的本来性は時間的過去に理想状態を見いだすものとしてではなく、固有性として理解されるべきである。固有性とは分割し得ない「こと」である。「もの」ではなく「こと」である。存在ではなく生成であり、時間のなかにおける記述の変更可能性、将来性のことである。ハイデガー邦訳に従い「将来」という語を「未来」との対比で用いたのだが、そうした時間への態度は微分センサーによって初めてもたらされる。中井のいう兆候空間優位性のことである。
現代思想ハイデガー、ドゥルーズ&ガタリ
人間の精神が何故バラバラに解離するのか?を考えるのではなく、むしろ精神は元々バラバラなのであって、統合する力や必要性が弱まったのだ、と考えた方が自然だ。統合された精神としての人格はつまるところパラノイアである。境界例や解離は神経症圏の構造を前提としているからこそ安易な解体の方へと志向できる。スキゾは逆に無頭かつ複数の強度の噴出による解体の危機を実感しているからこそ統合を志向するのである。中井久夫はそれをスキゾの統合志向性と呼ぶだろう。

My name is region for we are many.(Mark.5.9)

主体と大文字の他者、現存在と世界の関係はつまるところ解釈学的循環に陥らざるをえない。両者に欠如を見いださない志向はパラノイアではないのか? これに対しスキゾは大文字の他者・環界に欠如を見いだし「母のファルスになる」という欲望を抱き続ける。つまり解釈学的循環に亀裂を持ち込む。スキゾの身体は諸強度と固有名の戦場なのである。固有名による統合と諸強度による解体の危うい均衡状態が統合失調症という「こと」(=時間のなかでの生成状態)である。

AOといえども歴史上の書物であり、時代の制約から自由ではなかった。AOに固有名を導入し、分裂病概念を仕切り直す必要がある(発達障害、境界例、多重人格が混在している)。MPにおいて各プラトーが年代数値で示されるのは歴史を可能にしようとしているのであろうが、固有名なしに歴史は無い。AOは強度に充ちてはいるが、固有名を回避しようとしているのではないだろうか? 分割し得ない「こと」としての固有性vs分割できる「もの」としての手紙・イコン。スキゾにとって重要なの前者であって、後者ではない。

本来性を固有性と読み替えるならば『存在と時間』ほど固有性にこだわった書物もあるまい。もちろん先駆的覚悟性とはスキゾ的兆候空間優位性のことだ。また中井久夫は『最終講義』においてスキゾが(多重人格との対比において)自己固有性にこだわることを強調している。
純粋スキゾ批判
以上のように考えるならばスキゾの固有性にこだわった書物としてのハイデガー『存在と時間』とスキゾの諸強度にこだわった書物としてのドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』の正面切った闘争を見てみたい気がしてくる。

強度なき固有名は空虚であり、固有名なき強度は盲目である。

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2012年01月24日

ハイデガー『存在と時間』の本来性とは固有性のことである。

私のtwitter上での呟きに関して、いくぶん反響があったので、情報元を明示しておきます。i-tuneU東京大学学術俯瞰講義2009・死すべきものとしての人間・第九回(5)熊野純彦先生の講義「哲学・倫理学研究の王道を行く」のなかでおおよそ以下のことが語られています。

ドイツ語辞書にはeigentlichで「本来の」とあり、その元のeigenだと「固有の」となっている。だからハイデガーの『存在と時間』において頽落とは生が「誰のものでもない」状態になること、それをeigenで自分固有のものとして取り戻すにはどうするか?という展開になっている。
dasmaneigen

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2012年01月20日

デスノートとライヤーゲームはバトルロワイヤルではない

バイオハザード『バトルロワイヤル』と『デスノート』『ライヤーゲーム』の間には明確な差異が認められる。前者がほとんどこれといったルールのない無法状態における直接的な力の行使を競うものであるのに対して、後二者には明確なルールが存在し、知的優位を競うものとなっており、両者のあいだで確かに世界観が変化しているのである。

宇野によればバトルロワイヤルは「勝者がルールを作るもの」とされていたはずだが、『ライヤーゲーム』では予め謎の組織がルールを与えてくれる。しかも何故か人々はそのルールを受け入れてしまう。『デスノート』においても「ノートに名前を書かれた人は死ぬ」などの超自然的因果性を警察を含む多数の人があっさりと共有している。これは大変奇妙に思われる。

このように考えると宇野がバトルロワイヤルの代表例として挙げている『デスノート』と『ライヤーゲーム』を別の概念で捉える必要が出てくる。バトルロワイヤルとは異なる意味で、これを便宜的にここでは「コロシアム系」と名付けることにしよう。

コロシアム系とは時間と場所を限定された閉鎖された空間において、多数の人間が、明確なルールに服した上で、生き残りゲームに参加する。全体として見るならば極めて不条理な設定を持つ物語群を指すものとする(「デスノート」の場合は閉鎖こそされていないものの、監視カメラやテレビが介在することで都市が劇場化した空間として示される。またデスノートの所持者が増える展開となっている)。
プレーヤーがゲームのルールに知悉したうえで、論理学や確率論の知識を用いたならば、そこから最適解が導き出される。
ここで大事なのはコンテクストやフレームを与えてやる操作である。コンピューターには事前にこの操作を人間が与えてやることが不可欠である。コロシアム系とは知的コンテストであり、コンテクストやフレームを限定してくれる物語である。

これは境界例でも解離でもない。おそらくアスペルガーに親和的な物語の様態であると考えることができる。明確なルールが存在するが、何かが決定的におかしい。総体として見るならば不条理極まりない世界というのがアスペルガーの在り方を思わせるのだ。アスペルガーは日常生活でのコンテクストが読めないが故に限定された(知的)コンテストの中に自己充足を求めるのだ。

我々の生きている世界は多様な複数のコンテクストの錯綜する世界である。ところが現実世界とは異なるコロシアム系においては単一のルール=コンテクストのもとにそれぞれ関係ない多くの人間が参加するという、おかしな事がさも自然に起こってしまうのだ。

付言すれば、宇野はゲームの規則に自覚的なプレーヤーをメタ決断主義者として評価したいようだが、ジジェクによれば、これは幻想の舞台裏を知りつつ幻想にのめり込むタイプ(秋元康の陰謀と知りつつAKBにのめり込むファンのように)なのであり、むしろメタ決断主義者はゲームに没頭していく。故にライヤーゲームは続編が作られてしまうのである。こうした常同性もアスペルガーの特徴と言えなくもない。

余談だが昔、NHK で唐十郎のドラマをやっていて。京都河原町でおそらくゲリラ的に撮影したと思われる場面があったのだが、これが全くひどかった。テントという子宮の中なら単一のコンテクストで物語を組み立てることができるが、都市は複数のノイズ=コンテクストがせめぎあう世界であるから彼の芝居は成立しなくなるのだ。

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2012年01月18日

speediのデータは米軍には提供されていた

冗談じゃないぜ。


東京新聞赤旗も同様の報道をしているが、他が見当たらないことが怖い。このままでは日本が危ない。

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2012年01月17日

冷戦後の物語・宇野常寛「ゼロ年代の想像力」を読む

カール・シュミット死亡直後の新聞記事宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」を読了した。本書はカール・シュミットにもハイデガーにも言及すること無く決断主義について語ってしまうすごい本だ。大学で30年代の国際政治(国家間の神々の闘争)を学んできた私のような人間としては本書の文脈におけるバトルロワイヤルの意味する所は不条理absurd以外の何ものでもない。

おそらく「引きこもり」から「バトルロワイヤル」へ、という最初の図式がどんどん自壊していく様子を見るというのが本書の正しい読み方なのだろう。所有、暴力、マッチョといえば対象を批判できた気になってもらっては困る。

それでも評価できる箇所をいくつか引用する(ページ数は単行本のもの)。

p210「東浩紀は、この「母性の暴力」に対してあまりにも無頓着である」

p211「あれほど父性の抑圧には敏感で、説得力のあるモデルで先行世代のマッチョイズムを批判し、若い世代の支持を集めた東浩紀が、なぜか母性の抑圧にはそれが抑圧とも感じていないかのように受け入れてしまっている」

p309「だがそんな「敵」と「味方」の区別にこだわるのは、端的に言ってしまえば矮小な自意識の問題でしかない。ここ十年の批評のくだらなさは、本来こういった矮小な自意識の問題を切り離して本音を論じるべき批評家たちが率先して無自覚な決断主義者として、特定の文化圏の擁護者として振舞っていたためにもたらされたものだ」

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2012年01月15日

柄谷行人の村上春樹批判には他なる強度が欠けている

IMGP0611村上春樹の初期作品はトラウマ体験の周囲を巡って語られるのだが、読む人によっては、これは分裂病の強度体験の言語化不能性に酷似して見える。

柄谷行人の村上春樹批判の主旨は「核心を描かない」ということにあるのだが、春樹を擁護するなら「核心は描けない」のだ。このように考えると柄谷行人は決定的な強度的他なる体験の言語化不能性を理解していない、といえる。

そもそも柄谷行人が強度について書いたことがあっただろうか?柄谷行人の理論上の他者とは恋愛そして強度であると言える。

柄谷行人は形式化された掟の臨界にまで行くが、深淵の中を覗き込むことはせず、形式化された他者との交通に着地する。これを具体的に落とし込むとホモソーシャルな関係になってしまう。これは夏目漱石(三角関係の反復)やフロイト(「トーテムとタブー」)の倫理と等しい。脱構築はここから進行しない。頓挫してしまうのだ。

柄谷行人の影響力が強かった私の学生時代。文学の趣味や評価まで柄谷に回れ右する人は周囲に少なからず居た。「どこまで柄谷に転移しまくってるんだ?」と私は思っていた。文学くらい自分の感性で判断すればいいではないか。女の趣味まで先生に合わせる必要はないはず。しかし、実際、夏目漱石の小説のキャラにはそういう人がいるのである。

要するに私は初期・村上春樹のあのふわっとした現実感の無さや対人関係の距離を「こころの産毛」を失ったスキゾの世界観として誤解していたのだ。しかし、実際は解離だったことが「ノルウェイの森」以降の作品で明らかになってくる。

柄谷行人は形式論理を突き詰めることによって、欠如=深淵にたどり着く。そこから先へは進めなくなる。しかし、その先にあるのは強度と「死の欲動」が蠢く世界である。今、必要なのは強度と死の欲動の側からの言説なのだ。柄谷行人の村上春樹批判は固有名の問題において成功し、強度の問題において失敗している。

関連記事・PDF注意

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2012年01月13日

バトルロワイヤル+ハーレム≠決断主義

IMGP0765哲学におけるフッサールとハイデガーの対立は、政治学におけるケルゼンとシュミットの対立によく似ている。これらはさらにアスペルガー対決断主義に変奏できる。ただしここでいう決断主義とは宇野のいう意味とは大きく異なる。

宇野の決断主義は決断主義の名に値しない。宇野流決断主義=「バトルロワイヤル」は動物的な情態勢「不信」と幼児的「攻撃欲動の充足」に過ぎない。「他人を傷つけることを顧慮しない」と言いつつ「自分が殺されるかもしれない」というリスクは消去されている。シューティングゲームの延長であるから自分だけは安全でリセットすればよいのだ。

「バトルロワイヤル」がシューティングゲームの延長と考えれば、これはエロゲー的ハーレム(またしても幼児的ナルシシズムと動物的性欲の充足)と表裏一体であることは明らかである。同じ人物が同じPCで両方の世界を行き来していたとしたらどうだろう。これのどこが決断主義なのか? 単なる甘ったれた怯懦とリスク回避ではないか。
バトルロワイヤル的虐殺とエロゲー的ハーレムが表裏一体であるならば、これは境界例の症状と見做すことができる。すなわち世界全体が自分にとって友敵、快不快に分裂した状況となるのだ(グレイゾーンとなる「あいだ」が無いのが特徴である)。これではセカイ系(=境界例の代表的表象)における象徴界の弱さの問題と本質的には何ら変化が無い。

もちろん暴力ゲームしか買わない、あるいはエロゲーしか買わないという人は当然実在するだろう。しかし一人の人間の中に攻撃欲動がない、あるいは性欲がないと考えるのはかなり無理がある。そして人はそうした欲動を日々何らかの形で処理しているのである。どちらか片方しか見ないのは間違っている。

むしろ昨今の物語を見ていて思うのは、サヴァイバル系に微妙だが決定的な変化が見られることだ。それは「法」の導入である。「法だって? 象徴界の機能不全=法の欠如の話ではなかったのか?」という声が聞こえてきそうだ。つづく


kay_shixima at 23:30|PermalinkTrackBack(0)││思考の断片 

2012年01月09日

中井久夫がスキゾを原発に喩えている所

MSA0126私は、最初、原子物理学からモデルを借りて、一種の”ポテンシャルの壁”と考えました。
後にはもっと安全工学的に、原子炉の安全装置に似ていると考えました。ちょうどチェルノブイリの事故のころです。実際、原子炉は非常な安全率を掛けて運転しているそうです。

あの事故の直前、原子炉の出力は通常の四百倍にも上ったそうです。中枢神経系は暴走すれば原子炉以上に危うい代物です。だから複雑な制御システムによって、非常に高い安全率を掛けて運転しているのかもしれません。

実際、分裂病の発病前に精神の能力が異常な上昇を示す例があります。当人だけがそう思い込んでいる場合だけではありません。実際、中クラスの私立高校の中クラスの生徒が大学入試模擬テストで全国一位になった例さえあります。この人はその一週間後に発病しました。(『最終講義』中井久夫・みすず書房p47)

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2012年01月04日

デスノートはアスペルガーか?斎藤環と志紀島啓で意見分かれる

IMGP0734s私のTwitterをフォローしてくださっている方はすでにご存知かと思いますが、この年末年始Twitter上で斎藤環氏とのあいだで多少のやり取りがありました。先方はお忙しいので十分な意見交換には至りませんでしたが、面白かったです。

斎藤環氏は「デスノートは相手の立場に立っているのでアスペではない」との立場。志紀島は「立場を変えての論理的推論のみで、相手の情動=気持ちを推し量ってないからアスペ」との考え。わりとはっきり分かれましたね。例えばチェスをやるとき、相手の立場に立って次はどう打ってくるか?を考えるくらいは当然のことです。しかし、チェスは機械でもできます。相手の気持ちは関係なく、状況から最適解を見いだせば良いだけです。

チェスのルールは白黒両プレイヤーで共通しています。相互に入れ替え可能です。しかし、例えば恋愛、カウンセリング、親子、師弟などの濃密な転移関係では非対称的な関係であり、入れ替えができません。世の男の子たちは女の子の気持ちがわからないが故に悩むのではなかったでしょうか?

つまり「相手の身になって考える」とは単に「相手の立場に立つ」(論理)だけでは不十分で「相手の気持ちになって考える」(情緒)ことができなければならないのです。私はある症例がアスペルガーか、否かのメルクマールはここにこそあるのだと考えます。

kay_shixima at 22:03|PermalinkTrackBack(0)││思考の断片 

2012年01月03日

志紀島啓の四象限グラフと初期柄谷行人の三類型介入は構造的に同形である

IMGP0741基本的に僕個人がよく用いるのは拙著p201のポストモダンの人格類型や三島由紀夫の天皇論読解での四象限グラフです。スキゾ・パラノ・神経症・解離の四つに分けて考えるという方法です。
これはドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』で示された経時的シェマを共時的に配置し直したものです。当初僕は天皇を巡る議論においてそれぞれの論者がかなり異なる意味で天皇という語を用いている事に気づきました。一度それらを整理する必要があると考えたのです。
pdf注意、三島天皇論読解
 
しかし、こうした考えには独自性が無かった。構造的にものを考えると必然的にこうならざるをえないのです。若き日の柄谷行人の仕事「思考はいかにして可能か」で示された類型も基本的に同じ分類の仕方をしています。そこで柄谷は当時の日本の言論状況において江藤淳、吉本隆明、三島由紀夫の三つの異なる立場を示し、自分はこのどこでもない点を目指すとしています。
つまりソフトな構造、ハードな構造、構造の解体、構造の脱構築。この四つしかない。これはそれぞれ(僕の考えでは)神経症、パラノ、発達障害、スキゾに対応させて考える事ができます。
同様にハードな構造=江藤淳、構造の解体=吉本隆明、構造の脱構築=三島由紀夫となります。
ただし僕と柄谷では三島への評価が異なります。僕は三島を解体と統合の綜合として考えています。

つまり人間の条件・固有性としての世界=主体の無根拠性に気づいた場合、どのような対処法があるか?1欠如を強引に埋めるパラノ。2共同体のファンタズムに同化して欠如を問題としない神経症。3想像的にのみ「超越」を弄ぶ解離・発達障害となるはずです。

kay_shixima at 23:00|PermalinkTrackBack(0)││思考の断片 

2012年01月01日

オイディプス王(コクトー、ストラビンスキー)

私の一番好きなオペラ。演出が素晴らしい。人間の真実が描かれている。昔、NHKで一度だけ放送されました。録画しなかったのを悔やんでいたのですが、youtubeにあるとは!恐るべし。



kay_shixima at 09:52|PermalinkTrackBack(0)││映画・ドラマ・芝居etc 

2011年12月31日

クラフトワーク、放射能(紅白のAKBやPerfumeよりこっちでしょ)



kay_shixima at 16:10|PermalinkTrackBack(0)││東日本大震災福島原発 

2011年12月30日

民主党政権の言論弾圧がひど過ぎる件

このような言論弾圧を続けていたら必ずその国は滅びます。


kay_shixima at 17:17|PermalinkTrackBack(0)││東日本大震災福島原発