映画・ドラマ・芝居etc

2016年08月13日

『シン・ゴジラ』評ネタバレあり


『シン・ゴジラ』を期待値マックスで見てしまった。優れた作品だとは思うのだが、言われているほどには良くない印象である。続きを読む

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2016年03月28日

『フォレスト・ガンプ』への怒り


WOWWOW映画塾で町山智浩氏が映画『フォレスト・ガンプ』について解説している動画がアップされている。→http://www.wowow.co.jp/common/player/index.php?pcd=011281_m3613882&TB_iframe=true&width=1000&height=520
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2015年12月03日

三島由紀夫の映画『剣』禁欲の中の快楽


三島由紀夫の小説『剣』1963年は大学の剣道部を舞台としたストイックに生きる青年を描いた作品ということになっている。小説を読んだ市川雷蔵が映画化を希望したのだという。市川は映画の主演を務めた。小説だけを読んでいるとわかりにくいのだが、これを原作とした映画を見るとまたかなり印象が異なる。続きを読む

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2015年01月06日

映画『ドロップ』

先に宇多丸氏の映画評(酷評なのだが)を聴いていたので、かなり期待は低かった。

確かに監督デビュー作とは思えないくらいのクオリティであることは間違いない。喧嘩シーンの撮り方もうまいし、音楽の使い方も適切だったと思う。しかし、やはり好きか嫌いかと問われれば嫌いな映画である。基本的には宇多丸氏の評価に賛成なのだが。まあ、現在の観客が喜ぶのはこういった映画なのはもはやどうしようもないと思っている。

映画全般に言えることだが、本作はナルシシズムをくじくリアルなものとの出会いを徹底的に避けている映画だということだ。攻撃への願望充足はあるが、結果や責任が描かれないのだ。不良の世界の陰惨さは回避され、笑いに満ちた甘えきった不良の生態が綴られていく。

とりわけ私が気になった箇所は主人公たちが他校の不良たちからファミレスで襲撃を受ける場面である。このシーンの根本的な奇妙さはファミレス内に他の客がいない、ということなのだ。これは本作の製作サイドの姿勢を考える上で極めて象徴的である。不良たちが互いに殴りあうのはまあ、良しとしよう。彼らが迷惑なのは他人を巻き込み、犠牲にするということだ。しかし、映画ではそうした点はうまくスルーされている。普通なら公共空間では子供やお年寄り、妊娠中の女性などもいるわけで、襲撃は必然的にそうした社会の他者を巻き込まざるを得ないはずである。映画ではレストランの店長が警察を呼ぶことすらない。何故なら店長も出てこないのだから。

暴力は派手に描かれるが、その結果や責任は問われることがない。警察も本格的には出てこない。本作において喧嘩は他の不良と仲良くなるための儀礼であり、男同士で行われるセックス・シーンであると考えればわかりやすいだろう。

要するにこれはゲームや漫画のようなファンタジーの世界を描いているのであって、ラカン的なリアルを描いているわけではないのだ。そして、現在の観客が求めているのはゲーム的な「人は簡単に死なない」=暴力を振るわれても死なない世界なのだろう。リセットボタンで何度でも生き返ることが出来るのだ。



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2014年10月20日

映画『秘密のアッコちゃん』は生成変化するのか?


例によって綾瀬はるかが退行キャラを演じる映画である。
株主総会や工場爆破などのエピソードを抜きにして、テーマを絞り込んで、少女の成長物語としてスタイリッシュな恋愛コメディにすれば、このキャストなら結構良い作品になりえたと思う(実際はそうなっていない)。

少女が大人になる際のこころの揺れ動きを描くことに主題に絞れば良い作品になりえたはずなのだ。そのためには主役の少女の年令をもう少し上げて初潮後、思春期の始まりに設定して、鏡の中に夢想するナルシスティックな自己像が現実の他者との接触で揺らぎ、それを乗り越えようとする手前で逡巡するとか、そういう展開であれば楽しめただろう。

しかし、実際の映画においてヒロインは見かけこそ大人になるが、考え方や振る舞いは子供のままである。子供のまま大人の社会に紛れ込んで騒動を巻き起こす。それを可愛いと思える人もいるのだろうが。私の感覚では単にはた迷惑なだけだ。つまりヒロインは子供であることに固執している。子供から大人へ、あるいはまた大人から子供へといった生成変化ではないのだ。

おそらく子供の脳みそに成熟した大人の身体を女性に求める層というのは確実にいるのだろうし、それが少数である保証はどこにもない。

とりわけ株主総会シーンはひどかった。綾瀬はるか演じる脳みそは子供のままのアッコちゃんが発言する場面を見て、大阪での秘密保護法反対デモのことを思い出した。実際のデモもあの程度のレベルだ。

関連記事: 特定秘密保護法反対デモ(大阪扇町公園)に参加して



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2014年04月22日

映画『アクト・オブ・キリング』を巡って


映画『 アクト・オブ・キリング』予告編

町山智浩氏による解説

宇多丸氏による解説

会見の後日談。町山氏の怒り

アルジャジーラによる続編『インドネシアのキリング・フィールド』



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2014年02月05日

入眠幻覚としての『となりのトトロ』

宮崎駿の映画『となりのトトロ』において、眠気とトトロの出現に密接な関係があることをご存知だろうか?

まず、この場面。森の中のバス停でサツキとメイが父親の帰りを待つ場面である。雨が降り始めて、あたりは暗くなっている。この直後にトトロが出現するのであるが。メイに睡魔が襲い、すでに沈没してサツキの背におぶられている。サツキの方も不安げであり、眠たそうに思われる。
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さらに次の場面。夜中にサツキが目を覚ますと庭でなにやら変な物音がする。見るとトトロがいるのだ。サツキは横で寝ていたメイを起こす。流石にメイは眠たそうである。このあと、トトロの魔法の力でどんぐりが芽を出し、一挙に巨木に成長する。またサツキとメイはトトロに抱きついて空を飛ぶのである。
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このようにどちらの場面も眠りや眠気とトトロの出現が関係しているということが分かるだろう。吉本隆明は『共同幻想論』において柳田國男の『遠野物語』を引用しつつ、里の人間が異人や妖怪に出会う伝説が入眠幻覚であろう、としている。宮崎駿はこうした理論を踏まえて作品を作っていると思われる。

ただし、映画の中で最初にトトロが現れるシーンではこの原則が崩れてしまう。最初の出現シーンは昼間であり、メイはとても元気に外で遊びまわっているのである。
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ただし、この場面の前にメイが仕事中の父親のところに行くのだが、そこで父親は欠伸をしているのだ。
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2014年01月23日

『明日、ママがいない』は傑作の予感

mama日本テレビ系列で放送中の『明日、ママがいない』が物議を醸している。

最初、私も報道を見ただけだったので何となく「どうせ、テレビ局がくだらないお涙頂戴番組を作ってその中でひどい差別的な表現でもしているのだろう」くらいにしか思わなかった。

しかし、たまたまネットで第一話を見る機会があり、自分の漠然とした予想を良い意味で裏切られた。(暫定的なものとはいえ)作品そのものを見ずに一方的な報道だけからいい加減な判断をしてしまっていた自分を恥じた。二話まで見た現在、このドラマは実にすばらしいと思っている。すでにブルーレイの毎週録画をセットしてしまった。

もちろん、これは民放のテレビドラマの枠組みのなかでは、という留保が付くし。また野島ドラマ(今回は脚本ではなく監修のみだが、テイストは似ている)はやりたいことは理解でいるのだが、脚本のロジックのつめが甘い場合がしばしば見られ、ご都合主義的に思われることが過去にもままあったのは事実だ。

ともあれ、『明日ママがいない』問題では私は制作者サイドを断固支持する。これは本当に近年稀に見る素晴らしいドラマだと思っている。とりわけ芦田愛菜の演技力は戦慄的でさえある。第二話まで見た限り「明日、ママがいない」はテレビドラマ史の金字塔になりそうな予感がする。

まだ見てない人がいたらもったいない、とすら思う。「泣きました」などというツイートを見ると「なんだ、またお涙頂戴かよ」と思うかもしれないが。このドラマはそうではなく、徹底的に大人のエゴや偽善を暴きつつ、強く生きる子供たちを肯定する作りになっている。偏った報道や抗議に騙されてはいけない




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2013年10月17日

映画『風立ちぬ』宮崎駿あるいは飛翔とスキゾ

『風立ちぬ』公開初日から随分と時間が経ってから、ようやく宮崎駿の引退作品となる『風立ちぬ』を見に行った。もうほとんど劇場はガラガラだったが、落ち着いた雰囲気の中で観ることができた。

すでにネットなどで宮台真司氏、町山智浩氏、小林よしのり氏、宇多丸氏、宇野常寛氏らの評価、そして監督本人によるコメントはあらかじめ頭に入った状態での鑑賞となった。

まず宇多丸氏が言うように映画の作りとして歴史的背景など事細かに、親切に補足情報を劇中に入れることは無く、関東大震災から第二次大戦くらいの歴史的知識は当然入っていることが観客に期待される。子供はこの時点で切り捨て、分かる人だけ付いて来いという感じではあるが。まあ、大人としては一般的な近代史の知識があれば、このあたりは問題は無い。町山智浩氏が軽井沢のホテルで主人公に話しかけてくるドイツ人がかのリヒャルト・ゾルゲである、と指摘しているが。これも当然そうなることは常識の範囲で……(と書きつつ、観客の中には分からない人もいるのだろう)。

宮台氏が指摘するように軽井沢の話=恋愛パートとゼロ戦の話=仕事パートが分離していると言えば分離しているわけで。確かにその指摘は間違ってはいない。とりわけ手厳しいのは宇野氏で、不治の病の少女を閉じ込めて恋愛を成立させる、という点(彼によれば、エロゲーのフォーマットらしいのだが、私はエロゲーなるものをやったことが無いのでよくわからない)も確かにその通りなのだ。不治の病の少女を出してこなければ、恋愛は成立しないのだろうか?と考えているとそこはかなり引っかかる。

宮台氏、宇野氏の指摘がその通りであると納得はしながらも、実は私自身はそれほどそうした欠点がこの映画を見る際に致命的な欠陥とは感じなかったのである。

それは小林氏の主張するところだが。純粋に飛翔することの快によるところが大きいのだろうと思う。
中井久夫はウィトゲンシュタインの病跡で次のように書いている。

圧倒的な父に呪縛された、古典的な分裂病質のこの少年が、知的能力に頼って自立を志向したとき、その主題がまず、凧、ジェットエンジン、ヘリコプターなど、”飛翔”という主題に貫かれていることは興味深い。ニュートンも凧を愛したことが想起される。

一般に分裂病の素質をもつ人が自立を求めるときには”垂直上昇志向”ともいうべき、即時的、全面的、超脱的自立の幻想的願望が奔出してくるものである。それは階層秩序を承認し、その枠内で段階的に”昇進”を志向する躁うつ病質の人の自立の場合とあざやかな対照をなす
。(『天才の精神病理』p131)

ただし現代ではウィトゲンシュタインについてはアスペルガー説が有力であるのだが。スキゾと飛翔という主題については上記の中井氏の指摘は有効である。


↓サン=テグジュペリの小説『人間の土地』、カバーイラストと解説が宮崎駿。仏語原文pdf



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2013年02月12日

NHKドラマ「メイド・イン・ジャパン」を見る

北京・前門社会問題を扱っておきながら、掘り下げの浅さにかえって作り手の現状認識の甘さが露呈するタイプの作品がある。2月9日夜のnhk「メイドインジャパン」然り、「金融腐食列島・呪縛」「さまよう刃」もそうだった。酷い作品は人間からエネルギーを奪うということがよくわかった。

全三回で最初の2回までは日中対決ムードを盛り上げる方向性で、面白かったのだが最終回でこれまで築きあげてきたものを全て壊してしまうとんでもない展開であった。(正直、ついつい私自身が期待して見てしまったもので、逆に失望があまりに大きかった)。

日中企業間訴訟の話なのに知的財産権、特許に関わる法的争点が全く示されず、心情論で上辺だけの解決に向かわせる。最低である。目の前に山積する問題から逃げているのだ。以下、箇条書きすると……。

記者会見での技師の発言。技術は自分の子供のようなものという一方で技術は誰のものでもない、誰のためにあるかだと宣う。この時点でロジックが破綻している。

「技術を裏切らないことに国境は無い」と言いたいようだが。国や社会によって求められる技術水準や許容される安全基準は違っていて当然なのだ。日本のような水準が途上国でも求められるとは限らないのだ。例えば途上国では日本の車検を通らないような車が普通に走っている。あるいはガラパゴス化したが故に世界市場を獲得できなかった携帯電話を考えても良い。作者はそうした状況を理解できていない。

青色発光ダイオードの特許に絡む問題でも明らかだったように、日本企業は技術者個人の成果を正当に評価できていないという問題がある。こうした状況が改善されない限り、技術者がより高い評価を求めて中国その他の企業に移動するという構造的問題は解決されないだろう。

中国は他者であり、日本人同士の内輪的心情論理は通用しない。ドラマの最後の方で技師と主人公が中国の工場へ乗り込んで行って従業員を直接説得して受け入れられるという場面はあまりにも甘い幻想である。

ドラマでは訴訟相手であったはずの中国企業との業務提携を図る方針(大どんでん返しのつもりだろうか?)が示されたところで何の解決もしないまま終了。倒産寸前の会社が何の構造的改革も行われないまま生き延びてしまうという事態であるのに、一方で何故か登場人物たちの家庭の問題までも解決に向かうという不条理劇であった。

旧帝国海軍の戦艦大和は当時の造船技術の粋を集めて作られた。しかし完成したとき既に大艦巨砲時代は終わっており、時代は空母を中核とする航空戦の時代に突入していた。戦場の論理は変わってしまったのだ。環境の変化に対応できず、進化の袋小路に入った恐竜のように、大和はこれといった活躍もせず今は東シナ海に沈んでいる。

架空の会社の社歌まで作って凝りまくっていることだけはわかるのだが、それは結局単なるノスタルジーでしかない。前を向くべきだ。

あるいはいっそのことこう考えたらどうだろう? 「メイドインジャパン」矢作は「リーガルハイ」古美門を雇って裁判を闘うか、「ハゲタカ」鷲津に会社を買ってもらうか。二択から選べばよかったと。(後二者のおもしろさとロジックを少しは参考にしてもらいたい)。

番組HPによるあらすじは以下の通り。

第一回・タクミ電機営業部長・矢作(唐沢寿明)は、譲原会長(岸部一徳)の特命で余命3カ月の会社倒産の危機を回避するため、再建戦略室を立ち上げる。財務課長・柿沼(吉岡秀隆)、工場長・西山(國村隼)など7人の社員が秘密裏に集められ、リチウムイオン電池市場で勝負をかけることになる。だが、中国企業ライシェがタクミ独自の技術を使った製品を売り出し、ヤマト自動車との契約が奪われる。矢作は柿沼たちと中国に渡り、技術の対価として5000億円を要求するが、現れたのはかつての同僚の技術者・迫田(高橋克実)だった。

第二回・かつての盟友・迫田の登場により、中国企業ライシェとの交渉が決裂した矢作たち。再建チームは次の提携先としてドイツ企業マンハイムと交渉に入るが、先方の要求は譲原会長と桂一郎社長の退任だった。おりしも新聞記者根来が、タクミ倒産の危機をすっぱ抜いてしまう。矢作は会長の元に向かい辞任を迫るが、譲原会長はあっさり受け入れ臨時取締役会を開く。だがそれは矢作をはめるための罠だった。

最終回・譲原会長の策略により、ライシェをリチウム電池の技術盗用に伴う不正競争防止法で訴えることになった矢作たち。それはかつての友・迫田を二度切る行為だった。再建チーム内では柿沼が訴訟では倒産は防げないと判断し、桂一郎社長と共に会社更生法の準備を進めることになる。そんな中、迫田が自らの潔白を立証するため来日して記者会見を開くことに。対抗して矢作は同じ日に会見をぶつけ、迫田の違法性を暴こうと決意する。



ハゲタカ(上) (講談社文庫)
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