【人生は逆転できる!】小企業コンサル・講演家の天職ブログ

講演家・作家・雑談相手。著書は「やずやの秘密」「弱者の戦略」「小さな会社★儲けのルール」「逆転!バカ社長」「35歳から一生負けない生き方」。22年で約1000回の人生経営勉強会「ベンチャー大学」「経営人生計画セミナー」毎月開催。人生の成功は<夢×戦略×感謝>をモットーに、弱者の独立起業・経営アドバイス・講演・執筆・コンサル・勉強会・個別相談会を実施。2007年に家族で1年間の世界一周を実現!

2006年08月

世界一周!あの標高3000mの空中都市「マチュピチュ」

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世界一周!ついにあの世界遺産、誰もが一度は目にしたことがある?南米ペルーの空中都市「マチュピチュ」に行きました。

ぜひ、写真はクリック拡大で!500年以上前とは信じられない

マチュピチュ正面マチュ内観・家族でマチュ壁・光と

 

 

 

 

マチュ光と2マチュ断崖絶壁

このスゴイ断崖絶壁。でかい石をどうやってこの3000mの山頂まで持ち上げたのか。500年前ですよ

 

世界遺産の空中都市「マチュピチュ」の動画

標高約3000mにあるインカ帝国最後の都市。1500年頃、スペイン人の侵略を避けて山の上に約1万人が住んだと言われる街を建設。いや、何もわからない11歳と8歳のガキも「うわー!スゲエ!」と叫びまくっていました。歴史も何も知らなくても、単純にスゴイ景観。が、しかし、この下山の時、個人的にはもっとスゴイ出来事が。近日公開!

世界一周!ナスカの地上絵を見ました!

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世界一周!南米エクアドルからペルーに入りました。

有名な「ナスカの地上絵」。南米ペルーの中部あたり。1000年以上?前に古代インカ人?宇宙人?が書いたと言われる巨大な絵。と言っても小さなものは30mくらいで、これなら俺でも充分書けるなと思った次第。すまんが「騙しの多い中南米」ならあり得るウソかも・・・・とうわべの先進国バカは皆思うくらい、イヤな目にも会うのが後進国。

写真はぜひクリック拡大下さい。迫力が全然違います。が、タダの落書き?

ナスカの絵ナスカの絵2ナスカミラード

 

 

 

 

 

 

■本来、ナスカの地上絵はやはり巨大な平面絵なので、この20mのやぐらでは満足に見えず、一人40ドルくらいのグライダーで空から観光するのですが、空港カウンターの対応がいい加減で偉そうだったので妻が頭に来て+経験者の前評判が「満足に見えないこともある+スゴイ飛行で酔う」と悪すぎるのでやめ。タダのこのやぐらからの観光のみ。

ナスカ・売店ナスカ・石刻印

ナスカの地上絵のそばの売店。この石の模様はおじさんが自分で彫ってました。ガキどもが一個100円くらいの石を2つ購入。

 

■今8/21はペルーのクスコにいますが、こちらでは食堂や店で「コカ」のお茶や飴が出ますし、売ってます。もしやと調べたら、コカコーラはコカインのコカの葉から出来ている・・は本当「だった」ようです。いずれにしろ、癖になる成分はたっぷり?

コカコーラのコカはコカインのコカ

にわかには信じられないかもしれないが、発売当初のコカコーラにはコカインが混入されていた。 コカの葉から取ったコカインの成分と、コラの実から取ったカフェインが入っていたから、 「コカ・コーラ」という名前なのである。ちなみに最初は水で割って販売されていたが、 とある売店で水が切れた時に苦肉の策として炭酸水で割ったものが大好評だったことから、今の炭酸入りコカコーラが生まれたのである。時代を下るにつれ当然のごとくコカインが入っているのが問題にされはじめ、 コカコーラ社は仕方なくコカの葉からコカインを完全に除去したものを、
香り付けとして使用せざるを得なくなる。この工程が現在も行われているのかどうかは残念ながら確認できなかったが、最近までペルーやボリビアから大量のコカの葉をコカコーラが輸入していたのは確かなようだ。参考ページ・コカコーラ誕生 以上は豆知識さんより

■2006年8月21日

夢は必ず実現する!

栢野克己「窃盗犯と格闘する」

いや、さっき4時間前、ペルーのクスコのメルカド「大衆市場」でスリに遭いました。定石通り・・・混雑時にぶつかった感じで・・・幸い、盗られたのはウエストバッグの外側のポケットに入れたガムで(つかんだ手を押さえたので実質被害はゼロ)、反射的にキックを相手の腰周辺に2発+逃げようと階段を上った犯人のお尻にパンチ1発。

身長160兌紊韮毅安緘召弌4蕕睇當未僚醋院K寨茲呂發辰搬臍ぎにしていいものを、実質被害がなかった+可哀想な見た目と、おまえその年でそんなことをしないと生きていけないのかと不憫に思い・・・・キックの一発目が当たる瞬間に寸止め気味で・・・2発目も3発目も、それはガキどもとブルースリーごっこをする程度の打撃で+本気でやるとこっちが加害者になる恐れもある・・と、なんか複雑な気持ちで追うのをやめ、その場にたたずみました。

オレンジキックその3・・もっと詳しく言えば、キックの1発目の瞬間に・・それは右ハイキックだったんですが、軸足の左足が滑って転んだ・・・その恥ずかしさを周囲の人にごまかすために2発目3発目もやった感じ+終わった後、近くの壁に3発ほど「俺は本来はこんなスゴイキックをするんだ!」みたいな蹴りを入れ・・。エセ武道家は見せたがり屋が多い。バカ自己顕示。

(←これをイメージしたが大失敗!)

 

実はこういう犯罪に遭うのは生まれて初めてで、いわゆるケンカ?も中学生以上になってからはしたことがないので、かつ、習った少林寺拳法の技が「実戦」で使え、昨夜も「ジェット・リー」の違法コピーDVD(1枚75円〜300円。中南米では普通に売店で売られている)少林寺で技を練習していたので、非常にうれしかったです(相手が弱くて+ナイフやピストル持ってなくて良かった)。

しかし、キックをして転んだのはサイテー。まあ本来、ハイキックはバランス崩しやすくて実戦では御法度+靴は底がすべすべで転びやすかったので、すぐに近所の靴屋で40ソル(約1300円)のスポーツシューズを買い、次回の戦い(まずはローキックか裏拳で相手のバランスを崩し、その後にハイキック)に備えることにしました。(こういうアホが死ぬ。賢人はケンカしない)

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★気づきメモ

本当は恐ろしいキリスト狂 欧米人のラテン支配の大虐殺

・ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』

ラテン・アメリカにおける「平和的改宗」の準備をすすめるため、1540年にグアテマラからスペインに帰国したラス・カサスは、翌41年末、国王カルロス1世(カール5世)に謁見し、スペイン人植民者(コンキスタドール)による先住民虐待の実態を報告した。さらに42年には、残虐行為を弾劾し、征服の即時中止をもとめる報告書を執筆。これが『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(1522年)の母体となった。ラス・カサスは、スペイン人による征服の原点をイスパニオラ島(エスパニョーラ島)にもとめている。『報告』によれば、この島にはかつて300万人の先住民がいたが、生きのこっているのはわずか2000人にすぎないという。

[出典]バルトロメー・デ・ラス・カサス著、石原保徳訳『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』(『インディアス群書』第6巻)、現代企画室、1987年(原著:Las Casas, B. de, Brevísima relación de la destrucción de las Indias)

 エスパニョーラ島〔イスパニオラ島〕は、すでに述べたように、キリスト教徒がインディアスで最初に足をふみ入れた地であり、彼らは、ここの住民を傷めつけ、皆殺しにする作戦を開始したため、そこは、キリスト教徒による徹底的な破壊をこうむった一番はじめの島となった。キリスト教徒たちはまず手始めに、インディオたちからその女や子供たちを奪い、身辺の世話をさせ、虐待を加えただけでなく、インディオたちが汗水たらして働いて手に入れた食物を平らげてしまった。キリスト教徒たちは、インディオたちが自分にできるだけのものをすすんで供与しても、それがいつも僅(わず)かだからといって、満足しなかった。インディオたちは習慣上、平生必要なものしか手元に貯えてはいないし、すこし働けばそれで充分間にあっていたのである。ところが、十人家族からなる三世帯つまり三〇人がそれぞれ一カ月食いつないでいけるだけのものを差し出しても、それをキリスト教徒はひとりで、しかも一日で食べつくすのであった。

他にもキリスト教徒たちがインディオに課した苦役は数多く、彼らから暴力や迫害を蒙(こうむ)ることがしばしばあったために、インディオたちも、あのような連中が、天から降りて来たはずはないということに気づくようになり、なかには、食糧をかくしたり、妻子を人目につかないようにするものも出てくるかと思えば、また自ら山へひきこもり、冷酷無比な連中との接触を避けて山おくで暮らそうとする人々もでてきたのである。キリスト教徒たちはインディオに平手打をくらわせたり、こぶしを振うだけでなく、棒で打ちすえることもあり、村々の長たちにすら暴力を加えるまでになった。

そして、これが嵩じて、キリスト教徒のカピタンの一人が、全島を統べる最大の王に対して、その妻を無理矢理に犯すという無謀きわまりない恥ずべき行為に走ったのである。このことがきっかけになり、インディオたちはキリスト教徒を彼ら自身の土地から追い払うべくあれこれと策を錬りはじめ、武器をもって立ち上ったのであるが、その時、彼らが手にしたものは武器とは言い条全くたよりにならないもので、攻め立てるにせよ迎え撃つにせよ大して力にはならず、それどころか相手の攻撃から身を守るという点ではさらに劣るものであった。(このためにインディオたちが日頃おこなう戦争は、どれもこれもここスペインでみられる竹槍(たけやり)による模擬試合、いやもっといえば、子供の模擬戦と大してかわるところはないのだ)。

キリスト教徒たちはと言えば、このようなインディオに向かって、馬に跨(またが)り、剣と槍を打ち振い、虐殺をはじめたのであり、その残虐ぶりは目にあまるものがあった。キリスト教徒たちは、村々におし入り、子供や老人ばかりでなく、妊婦や産後間もない女性までもその標的とし、手当り次第腹を引き裂き身体を切りきざんだ。それは囲い場にいれられた羊の群れを襲うのとなんらかわるところはなかった。このとき彼らは、インディオを一刀両断したり、一撃で首をはねるかと思えば内臓を露出させたりして腕を競い合い、それを賭け事(かけごと)として楽しんだ。母親の乳房にしがみついている赤ん坊の足をつかまえて引きはがし、岩にその頭をたたきつけるものもいた。また、げらげら笑いながら面白半分に赤ん坊を仰向けに河に突き落しておいて、水に浮かんでいる格好を見て、「こん畜生、まだピクピク動いていやがる」と嘯(うそぶ)くものもいたかと思えば、幼児を母親もろとも剣でつき殺すものもいた。

彼らの目に入るものはすべて、このような運命を免かれなかったのである。なかには、足がやっと地面につくぐらいの高さの絞首台をこしらえ、わが救世主と十二人の使徒の栄誉をたたえるためと称して、十三人ずつのインディオをひと組みにして、吊り下げ、足もとにたき木をつみ重ね、それに火をつけ、彼らを火焙(ひあぶ)りにかけるキリスト教徒もいた。かと思うと、インディオに干したわら草をくくりつけ、つまり身体全体をわら草で包みこんでおいて、それに火を放ち焼き殺すこともおこなわれた。他にキリスト教徒たちが生けどりにしておこうとしたインディオもいたわけだが、彼らに対しては例外なく両手を切りおとし〔皮でわずかにつながった〕その手をぶらさげたままにしておいて「手紙をもってゆけ」と命じるのであった。これは、山おくに逃がれていた仲間にこのような事態を覚(さと)らせようとしてとった策であったのだ。

インディオの領主や貴族たちを殺す際に彼らは次のような手口をよく使っていた。地上に立てた木のまたに、鉄棒をわたしてつくった焼き網をさし渡し、彼らをそれにしばりつけ、下からとろ火で焙り、彼らが苦しさに耐えかねて悲鳴をあげ、生きる望みを失って絶命して果てるまでそれを長時間にわたってつづけたのである。

 私自身、目撃したことのある一件をここに記しておこう。鉄網の上でインディオの要人や領主たち四人か五人かが火あぶりの刑をうけていたときのこと(他にも二、三組の焼き網がそこらにあって、これと同様の拷問がおこなわれていたと思うが)、彼らのあげる悲鳴が大へんなものであったので、カピタンは、それに心を痛めてか、それとも昼寝ができないためか、直ちに彼らを締め殺してしまうよう申し渡したところ、火焙りの刑を執行していた警吏は、その指示に従おうとはせず、むしろ時間をかけて焼き殺すのを楽しもうとして、大声を出せないよう口の中に棒をおしこんでおいて、火勢を強めていったのである。

この死刑執行人顔まけの警吏の名前を私は知っているし、その親戚(しんせき)連中ともセビリャで顔見知りというわけだ。以上のべたすべては、私が直接目にしたことであるが、他にも同様なことを私は数限りなく見てきた。一方、このようなキリスト教徒の手から逃れ命びろいしたインディオは、ひとりのこらず、このような血も涙もない猛獣にもひとしい極悪非道な連中、いわば人類の抹殺者にして第一の敵であるキリスト教徒の追跡をのがれようと、山のしげみに身をかくしたり、険しい山へとよじ登るのだったが、これを知ったキリスト教徒たちは、逃亡したインディオ対策にと猟犬を仕込み、獰猛(どうもう)きわまりない犬にしたてあげたのだ。こうして一人前となった犬は、インディオを一人でも見つけると、〔彼に襲いかかり〕またたくまに引き裂き餌食(えじき)にしたのであり、まるで豚よりもインディオの方が好きだとばかりに飛びかかり、食べつくすまでになってしまった。このような犬によって傷つけられ、食い殺されたインディオの数は大へんなものであった。たしかにインディオの方が、キリスト教徒を何人か殺すようなこともごくまれにはあったが、それもごく少人数に限られていたのである。
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キリスト教を日本へ伝えたのは殺人犯

・ザビエル:16世紀スペインのバスク出身のイエズス会士で、日本にはじめてキリスト教をつたえた宣教師、聖人。彼は1549年に鹿児島に上陸し、以後2年3カ月の滞在中に平戸、山口、京都、豊後を訪問して、キリスト教の布教につとめた。
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1547年、ザビエルはマラッカで日本人アンジローとであい、日本への宣教を決心する。アンジローは郷里鹿児島で殺人をおかし、ポルトガル商人アルバレスにたすけられて日本を脱出していた。翌年ゴアへわたって洗礼をうけた彼は、日本の情報を提供し、教義などの翻訳に従事した。49年(天文18)、ザビエルは案内役のアンジローとイエズス会の司祭トレス、修道士フェルナンデスらをともなって鹿児島に上陸し、ここで10カ月間日本語を勉強した。領主の島津貴久にも謁見し、100余人を信徒にした。翌50年には、天皇から布教許可をえるために、平戸、山口をへて京都へむかった。

1551年1月、京都についた一行がみたのは、あれはてた都と衰退した皇室のありさまだった。天皇への謁見もかなわず、滞在わずか11日で平戸へもどった彼は、ふたたび山口にいき、大内義隆にあった。この地で宣教活動をしたのち、夏には豊後府内へおもむき、大友宗麟に謁見している。同年11月、日本での布教をほかのイエズス会士にゆだね、ザビエルはインドへむかった。仏教が中国から日本に伝来したことを知った彼は、中国改宗の必要性を感じていたのである。日本での滞在期間は2年3カ月。その間に、およそ1000人の信徒が生まれたという。

1552年、ゴアへもどった彼は、あわただしく中国へむかった。マラッカをへて、8月にはマカオの近くの小島、上川(シャチョワン)島に上陸。ここから大陸潜入をはかったが発病し、12月3日、海辺のまずしい小屋で息をひきとった。

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殺人犯の人生逆転の部分には拍手!

■ろう屋(や)で生(う)まれた「東方見聞録(とうほうけんぶんろく)」

17歳でアジアの旅に出て40歳でベネツィアにもどったマルコ・ポーロは、貿易(ぼうえき)都市(とし)ジェノバとの戦争(せんそう)に参加(さんか)。とらえられ、ジェノバのろう屋(や)にいれられました。しかし、マルコは幸運(こううん)でした。ろう屋(や)でルスチケロという作家(さっか)と知(し)りあえたからです。マルコはアジアで見聞(みき)きしたことをくわしくルスチケロにかたり、その話(はなし)をルスチケロがじょうずな文章(ぶんしょう)で書(か)きあらわして本(ほん)ができました。それが「東方見聞録(とうほうけんぶんろく)」です。

「東方見聞録(とうほうけんぶんろく)」には、中国(ちゅうごく)での体験(たいけん)や、イタリアにもどるまでのなりゆき、旅(たび)した土地(とち)のようす、人(ひと)びとのくらしや習慣(しゅうかん)などがもりだくさんに書(か)かれています。日本(にほん)は「黄金(おうごん)の国(くに)ジパング」としてしょうかいされました。ヨーロッパ人(じん)がアジアに目(め)をむけるようになったのも、のちにコロンブスがアジアにいこうとして大航海(だいこうかい)をすることになったのも、「東方見聞録(とうほうけんぶんろく)」のえいきょうでした。

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■8/16 ペルーのナスカ。あの地上絵のナスカの町。人口1万人くらいか。ここも町のあちこちにゴミが多く、汚くてがっかり。町の様子=町の人=関わりたくない。悪気はない。昭和40年代までの日本もこうだった。俺が遊んでいた川はどこもドブ川。貧困+発展途上の国は、どこも公害は後回し。仕方ないのだ。意識にない。価値観にない。キレイにするということが。

飛行機に乗ってナスカの地上絵を見学するというツアーが一人50ドルでやってるが、今回はやめることに。俺はも一つ興味がない。妻は飛行機会社の「今は満杯でノウポッシブル」の偉そうな対応に幻滅。空港までタクシーで5分の2ソルで行き、帰りは約1時間歩いて戻る。

渦中のナスカ町郊外の風景=砂漠とボロボロの家や店や人を見て、この人たちの夢とか生き甲斐とかそういうのは?いや、ただ生きるため=最低限の衣食住=本能を満たす次元で生きているから、自己実現とか生き甲斐とそういうのは頭の中にないのだとか思った。

しかし、ナスカと言えば夢とロマンの地。現実は絶望の地。いや、夢に多くの観光客が日々訪れる。これはやる気のある観光業者にとってはまさに夢の地だ。元は単なる砂漠に2000年前の土人が落書きしただけのもの。原価はゼロ。日々100人の観光客が来るとして、一人当たり、宿泊20ソル=約7ドル、食費=1食約7ソル=2ドル、その他土産物や、そうそう忘れていた、最大の出費は飛行機でのナスカの地上絵見学=一人約50ドル。バス代やタクシー代も加えると、ざっと一人当たり60ドルはこのナスカに落とす。6千円×100人=60万円=月に1800万円。平均月給は5千円〜1万円くらいで家族2人分とすると、観光だけで日々マックス1万人くらいが食える計算。かなり乱暴な計算だが。

・昨日までの2日間はペルーの首都リマ。滞在はリマの旧市街のど真ん中の世界遺産にある宿・ペンション沖縄。4人で50ソル=17$=2000円弱か。オーナーは沖縄から50年前に移住した名幸さん夫婦。推定75歳。最初は店員をして言葉を覚え、約30年前にサウナを開業。6年ほど前にボイラー使用が不可となり、日本人専門の宿へ転業。世界遺産となり、改装や営業方法を勝手にできなくなり、今も地下の営業を申請しているが1年以上連絡がない状態。

・50年前に日本・沖縄からペルーへ移住。昭和30年前後。と言えば、まだ戦後10年で日本中廃墟があちこちの頃で、第二次大戦中、唯一の地上戦となった沖縄は壊滅的な状態だったそうで、日本に見切りを付けて海外移住する人が多かったという。このペルーには最初の移住1899年から1923年の間に約2万人が移住したが、沖縄出身が一番多い。次が福岡・熊本・・・。面白いなあと思ったのは、大都市の東京や大阪からはほとんど移住がない。大都市では戦後復興が進み、悲惨だったが未来が見えたのではないか。一方、地方は先が見えず、今のような情報網もない。ラジオや新聞はあったがテレビはなく。

・リマのプエブロ・ホーベン(若い町)。リマの郊外のあちこちにスラム街が広がっている。ここでは、アシでふいた住居が丘の斜面にへばりつくようにしてたっている。リマの人口の3分の1以上が、このような居住環境を余儀なくされているという。

故郷から身一つで出て来た人達がまず到着するのは、街はずれの荒地です。お金も資材もない彼らはムシロの様なものやベニヤ板をどこからか調達してきて砂の上に覆いを作り、まるで海原の流木に寄り添う小魚のように、何もない原始的な生活を始めます・・・自分で家を造る。スゴイ

・昭和20〜30年代に創業した会社は多い?ダイエーやリクルートもそうか。当たり前か。戦後ゼロになり、新たに生きる人や会社ばかり。

■発展途上国で犯罪や殺人が多い本能的理由?

・イギリスの経済学者マルサスが、匿名で「人口論」を発表した。1803年の第2版では大幅な加筆をほどこしたうえ、著者名を明らかにし、以後も改訂作業をつづけた。マルサスは、人間の生存にとって食料が不可欠であることや、性をめぐる人間の情欲が将来も不変であることを確認したうえで、食料と人口の増加率を比較。人口が2・4・8・16と等比級数的に増加するのに対し、食料生産は2・4・6・8と等差級数的にしか増加しないことを明らかにし、この不均衡こそが下層階級の貧困やさまざまな悪徳を生む原因であるとした。

マルサス Thomas Robert Malthus 1766〜1834 イギリスの経済学者。イングランドのサリー州ギルフォード近くに生まれ、ケンブリッジ大学ジーザスカレッジでまなぶ。1789年にアルベリー教区の副牧師となり、しばらくこの職にあったが、1805年からハートフォード州ヘーリベリーに新設された東インド会社カレッジで政治経済学と近代史の教授となり、生涯その職にあった。

マルサスの経済学における主たる功績は「人口論」(1798)として出版された人口理論である。人口は、必要とする食糧の供給をうわまわる速度で増加する傾向がある。食糧生産で人口増加をうわまわる相対的な増産があるときは、いつでもこれが刺激となり、いっそう高率の人口増加がひきおこされる。反対に、人口が食糧生産の速度をあまりにも大きくうわまわる速度で増加するならば、人口増は飢饉、疫病そして戦争により抑止される。

マルサスの人口論は、社会の人口増は経済発展につながるという、19世紀前半に有力であった楽観的な確信に異議をとなえるものだった。マルサスの理論は支持者をえるとともに貧民層の生活改善をめざす運動への反論としてしばしば利用された。

また穀物法をめぐっては、穀物の輸入制限による穀物の高価格は農業投資を拡大し、地代を増加させて製造品への需要をもたらすから不況対策として有効だとして、それに反対するリカードとの間で論争を展開した。著作にはほかに「地代の性質と発展」(1815)や「経済学原理」(1820)などがある。

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世界一周の奇跡!ガラパゴスのオットセイが!!

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世界一周!ガラパゴスで大自然の奇跡を目撃! なんと!ガラパゴス島の砂浜で泳いでいたら、「シー・ライオン」オットセイが寄ってきました。日本だと大事件ですね。なんとも水族館の演技を見ているようで、一同、大喜びで!大自然のスゴイプレゼントをありがとう!オットセイ君!

バスの乗客をビデオ撮影するわけ

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ヤマハの船外機

ガラパゴス島は島だけに、移動手段の多くをボートや船やクルーザーにゆだねる。で、そのほとんどの船外機は「ヤマハ発動機」製。前にも書いたが、わずか8ヶ月しかいなかった最初の就職先の商品だが、よくもこんな世界の果てまでと感心。営業担当者+修理アフター担当者はご苦労様

 

ガラパ・イスラエルの家族

ガラパでミコと

ガラパゴスのツアーで一緒だった夫はイスラエル人+妻はエクアドル人の家族。エルサレム在住とのことで来年寄るかも。右は一触即発の夫婦。ガマンと反省が必要だ。そして、感謝を態度で示すことだ。

ガラパ空港にイグアナ

 

 

ガラパゴス島は空港にまでイグアナがお出迎え。相当でかい。約1mの大きさ。

 

 

 

パパイヤ鮨エクアドル首都キトの日本料理店で。食べずにメニュー見るだけ。これは「鮨」だが、パパイヤの鮨セットで約3ドル。他にも安いのはマンゴーセットとかフルーツセットの鮨。

 

 

キト国境の町の美人売り子バスのビデオ撮影

左は薄幸の美少女。右はバスの乗る時は乗客をビデオ撮影する。途中で乗り込んでくる強盗と区別するため。これ、ホントの話。

栢野克己(かやのかつみ) ■日本一過激な小企業コンサル・講演家。計15万部の著書「弱者の戦略」「小さな会社★儲けのルール」「逆転バカ社長:天職発見の人生マニュアル」はアマゾン<中小企業経営>ジャンルで7年300週〜現在までベストセラー第1位〜5位。台湾(中国語)・韓国・タイ・インドネシアでも出版。零細企業☆人生逆転の事例講演・執筆・勉強会主催の(株)インタークロス代表取締役。主催のセミナー交流会「九州ベンチャー大学」や「経営人生計画セミナー」「やる気会」「早朝マーケ会」「個別相談会」は17年1000回を越え、累計で約1万人参加。全国+アジアで年間講演約100回+勉強会100回が自主ノルマ。2006年〜2007年に家族で1年間の世界一周を実現!夢は全世界で1000万部の著書+世界200ヶ国渡航 ■福岡県立城南高校+小倉西高校は裏口入学・立命館大学卒。新卒入社のヤマハ発動機を9ヶ月でノイローゼ退社、バイトのリクルートは3年弱で正社員試験落第。失意と復讐を誓い、大阪のIBMリースへ転職するが、またも仕事失敗+ウツ+婚約破棄+自殺未遂で退社。東京へ逃げ、半年失業後チラシ宅配ベンチャーへ転職。しかし、そこも詐欺的FC会社でまたも転職に失敗。もはや「同級生に勝つには独立しかない」と決意し、様々なセミナーや交流会に参加後に「無料職業相談業」で起業。しかし、半年で金がなくなり、出版社:ビジネス社でテープ起こしのバイトをするも先の人生が見えない。そんな92年実家が他人の連帯保証1億円かぶり博多へUターン。6度目の転職で広告代理店へ。同時にビジネス交流会「九州ベンチャー大学」立ち上げ。 95年、借金返済のため2度目の起業。97年完済するも実家失い親は自殺。2002年〜今までの人生への復讐スタート。お楽しみはコレからだ。公式HPも参考に。 ■インタークロス ■九州ベンチャー大学 代表・雑談担当 栢野克己/カヤノカツミ 〒810-0073福岡市中央区舞鶴2-7-21-803 電 話 092-781-5252  携 帯 090-3604-6735 FAX 092-781-5354 メールkaya@hf.rim.or.jp
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