【人生は逆転できる!】小企業コンサル・講演家の天職ブログ

講演家・作家・雑談相手。著書は「やずやの秘密」「弱者の戦略」「小さな会社★儲けのルール」「逆転!バカ社長」「35歳から一生負けない生き方」。22年で約1000回の人生経営勉強会「ベンチャー大学」「経営人生計画セミナー」毎月開催。人生の成功は<夢×戦略×感謝>をモットーに、弱者の独立起業・経営アドバイス・講演・執筆・コンサル・勉強会・個別相談会を実施。2007年に家族で1年間の世界一周を実現!

2015年01月

稼ぐにはブログが大事

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第二章「軌跡」

■私が生まれた時代は、まさに日本の高度成長期。

以前、映画「三丁目の夕日」を観たが、まさにあの昭和の時代だった。

 父はイイ時代の銀行員で、当時としては珍しく、生まれたときからテレビがあり、大学へ出て社会に出るまで生活に不自由したことはない。逆に、贅沢をした覚えもないが、あとから考えると、私は充分、坊ちゃん育ちだった。 生まれつきの天然パーマだったからか、小学校時代は「リボンの騎士」(当時流行っていた漫画)と呼ばれ、女の子とよく遊んでいた。親を「パパ、ママ」と呼ぶ、いつも笑顔のニコちゃん。

そんな私が、親への憎悪を抱いたのは、いつのことだろうか。
                                 
「金属バット殺人事件」

あなたはこの事件を知っているだろうか?

あれは私が大学生だった1,980年代に起きた。予備校生だった当時20歳の予備校生「一柳展也」が、就寝中の両親の頭を、金属バットで殴って殺した。父親の頭蓋骨はパックリ割れて血しぶきが天井にまで達し、母親も脳漿があたり一面に飛び散っていたという。

展也の父親は当時46歳。学歴は東京大学卒で、一部上場の旭硝子(株)東京支店長。母親は山口県の名門酒造家の娘で、兄も早稲田大学を卒業して大手電機メーカーに就職という、絵に描いたようなエリート一家だった。展也以外は。

展也も父や兄と同じく、一流大学を目指すが、早稲田、上智、中央、明治学院、成城と全部に不合格。浪人したが、またも早稲田、立教、明治、法政、日大に落ちる。

父から「一体おまえは何を目標に勉強をやっているんだ!どうしようもないヤツだ。こんな調子じゃダメだ。もういい。大学行くだけが人生じゃない。就職しろ!」と父から云われたが、兄と母が必死に説得して二浪を許される。

予備校を変えたが、早稲田専科コースでの成績は、英語が111人中80番、国語は最下位だった。展也は予備校をサボるようになり、父親のカードから金を盗んでは映画や喫茶店やパチンコで遊んだ。

母親に「オレは自衛隊に入る」とか「相撲取りになる」とも云ったが、また予備校通いをするようになった11月、早稲田模擬試験の結果は偏差値43。絶望的な結果だった。

11月29日の犯行前日、帰宅した父親は、展也が自分のキャッシュカードを盗んだことを知り、きつく叱った。さらに、受験浪人している展也に小言を云おうと、2階の部屋に入ると、展也はウイスキーをラッパ飲みしていた。「バカが!一人前に大学にも入れないくせに、このざまは何だ!おまえはクズだ!家を出て行け!」と、展也が座っていた椅子を足蹴にした。

それまで、展也の見方だった母親も、「あなたはダメな子」と言い放つ。

その3時間後、犯行は起こった。

(参考:ネットサイト「無限回廊」事件インデックスより)
                  
                 ◆

この事件が起きた当時、私は大学生活を謳歌していて、失恋以外の悩みはなかった。が、何かが心に引っかかった。年齢も近く、親に対する似た想いを抱いたことがあったからか、はたまた、事件の数年後に作家・藤原新也のベストセラー「東京漂流」で一柳展也のことを読んだからか、その後の人生でたまにノスタルジックに思い出すことがあった。

■裏口入学

父が銀行とやらに勤めていることを知ったのは、小学校4年の時。生まれ育った福岡市から、山口県下関市に引っ越した時。父が福岡相互銀行の下関支店長として赴任したのだ。家は丸山町の高台にある、豪華な一戸建ての支店長社宅だった。

ある日、私は何かの理由で遅刻しそうになり、父を毎日送り迎えしていた車のおじさんが、文関小学校まで送ってくれた。始業ギリギリの時間で、校門や校庭には誰もいない。

が、校門で高級車から降ろしてもらうと、校舎の窓から大勢の友達が私の方を見ていた。恥ずかしかったが、何か誇らしくて気分がいい。以来、私はたびたび、わざと遅刻しそうになり、父を銀行まで送り、車庫で車の手入れをしているおじさんに送ってもらった。

下関は2年で、その後はまた福岡市西新の銀行アパート社宅へ戻った。そこには小学校5年と6年を過ごしたが、事ある事に父に叱られ殴られ、私はアパートの物置に泣きながら逃げ込んだ。理由は覚えていない。怖いのは地震・雷・火事・親父の時代。が、友達と比べても、あきらかにオレは怒られる頻度が多い。オレはダメな子なのかと思っていた。

■中学は校区内にあった、進学校の福岡県立百道中学へ。成績は350人中100番くらい。その頃、社宅アパートを出て一戸建てに引っ越した。どうやら、父が栄転したらしい。
 ある時、父の給与明細を偶然見たが、月給で30数万円とあった。昭和46年だから、今の価値では月給200万位か。あとで知ったが、父は39歳で銀行の最年少取締役に就任。下関時代と同じく、毎日、黒塗りの役員車が家に出迎えていた。

高校受験を控え、親の計らいで中学の教員がバイトでやっていた塾に通った。校区の一番の進学高校は修猷館。当時も今も、毎年数十人の東大進学者を出す、名門公立高校だ。
 しかし、私の成績では到底無理。校区で2番目の城南高校を受験する事になったが、そこもかなり難しい。自分なりに必死で勉強しようとしたが、私はラジオから流れる南沙織や天地真理、洋楽のベストテン番組に夢中になった。特に南沙織が好きになり、月刊「明星」や「平凡」の切り抜きを集めまくっていた。

■当落ギリギリの成績で迎えた城南高校の受験日。午前中の試験が終わって休憩時間になった時、試験監督が2〜3人、私の机に寄ってきた。「君が栢野君か・・」。なんでオレの名前を知っているのか?しかし、特に疑問を持つことはなく、午後の試験を受けたが、あきらかに失敗した。落ちたと思った。

ところが合格発表日、奇跡的に合格した。百道中学からも多くの友人が受けていたが、私を含め、中の上くらいの成績のものは、ほぼ全員不合格。馬場、入江、土井、山崎・・・・皆、首をうなだれて下を向いている。その姿を横目に見ながら、同じく合格した飯山の手を取り、「やった!やった!」と喜んだ。飯山は落ちた皆に気を使い、困ったような苦笑いをしていたが、私はお構いなしにはしゃぎまくった。本性が出たのだ。

その時、近くにいた入江が呟いた。

「おまえが受かって、なんでオレが落ちるんだ」

 オレの成績は入江より少し良かったから、お前に云われる筋合いはない。それに、お前は汚い中華料理屋の息子じゃないか。住む世界が違うんだよ。
 私は聞こえないふりをして、心の中で「ザマアミロ!」と喝采を上げ、落ちたヤツラを見下して冷笑した。あれは生まれて始めて、自分の非情さに気づいた瞬間かも知れない。

また、中学時代に大好きだった中村恵子という、施設から通っていた同級生がいたが、彼女は池田という成績優秀なヤツに惚れていた。その修猷館合格間違いなしの池田が、まさかの不合格と聞いたときも、心の底から快感が湧き上がった。

■しかし城南高校に入学後、最初の試験の結果には愕然とした。成績が350人中、200番台だったのだ。それまでの小学・中学で、平均より下になったことはなかった。悪いときでも、いつも真ん中よりは上だった。人間の価値は成績で決まると思っていたので、もの凄い劣等感に襲われた。

が、次の試験も、そのまた次ぎの試験でも、結果は学年の平均を下回った。オレはダメな人間なのか・・・・。次第に高校に行くのが嫌になり、同級生や先生から「このバカが。劣等生が・・」という眼で見られている気がした。

ある日、オレは「いつものごとく」、両親の寝室外にかけてある、父の背広のポケットに手を入れていた。そこにはいつも小銭があり、たまに盗んでいたのだ。何やら父と母が話している。

「・・・・まあ、こうして入れば、克己も何とかなるだろう・・・・」

前後の言葉は聞こえなかったが、その瞬間、私はあることを思い出した。城南高校の受験時に、「君が栢野君か・・」と机に集まった試験監督の言動。あの不可解な、何やらバカにしたような笑みと、寝室の父の言葉が結びついたのだ。

「裏口入学?」

その勘は数ヶ月後、実証されることになる。

■高校1年の夏、父が取締役小倉支店長で転勤することになり、私も転校することになった。校区で一番は福岡県立小倉高校だったが、そこは修猷館と並ぶほどの進学校で、到底私の実力では無理。次は小倉西高校だったが、当時の成績は悪く、合格できるかどうかわからない。その下の小倉南高校は確実と思ったが、一か八か小倉西高校を受験することになった。

果たして受験の前日、まだ引っ越しの段ボールで溢れる中、「家庭教師」という男が家に来た。心配で親が呼んだのだろう。私は、男から渡された数学の問題をやったが、そのペラ一枚が終わると、解答用紙を渡してすぐに帰った。少し疑問に思ったが、翌日の試験問題を見て驚いた。

試験科目は国語、英語、数学だったが、なんと数学は、昨日やった家庭教師の問題とほぼ同じ。比較的得意だった暗記英語もなぜか簡単なレベルでほぼ満点の出来。苦手な国語は70点くらいの感触だったが、合計では300満点中、少なくとも250点は取れたと思う。

予想通り合格したが、クラス担任の若狭先生は私の転校試験の成績表を見ながら、「これはスゴイ生徒が入ってきた」と、私の前で呟いた。「そんなの当たり前ですよ。だって、数学は家庭予習の問題と同じなんですから・・・」とは言えない。子供心に、これは悪いことをしていることはわかった。

が、先生にはもちろん、親に聴くのも憚れ、友人にも言えない。転校してきたばかりで、知り合いは誰もいなかった。

「オレと両親は、限りなく、犯罪に近いことをやっている」

■疑いが確信に変わったのは、小倉西高校に転校してまもなく。数学の時間になり、入ってきた白い制服の中年男性を見て、「アッ!」と声が出そうになった。転校試験前日に家に来た「家庭教師」だったのだ。

「そういうことか」。

先生の名前は江上と言った。噂ではイン金タムシだったようで、頻繁に机の端に局部を押しつけ、掻いていた。

担任の、英語の若狭先生をはじめ、他の先生は「不正入試」のことはまったく知らなかったようで、事実は私の両親と江上教諭、江上教諭を紹介したであろう人物の、ごくわずかしか知らないはずだ。そして、当事者の一人である私。

この数年後、高校か大学時代かは忘れたが、新聞で同じ様な事件を何回か見た。大人になって知ったが、公務員相手に金品の授受で不正な取引をすることは、立派な贈収賄事件だ。新聞記事を見て、オレもいつかは逮捕されるのでは?と怯えた。

同時に、これはなんと48歳になって気づいたことだが、「犯罪」を犯した親への憎しみの芽も、この頃から生まれていたと思う。さらに、そんな不正に身を委ねるしかなかった「共犯者」としての自分への苛立ち。
 これがのちの、社会人になって出逢う様々な不正に対する、特にずる賢い強者に対するルサンチマン的な復讐心、破滅的な正義感の萌芽になったと思う。

その原点が「犯罪者の親」であること。尊敬すべき、感謝すべき対象を、憎まねばならなかった状況。これは望んでも得られない、貴重な経験だ。相手が大手だろうが有名人だろうが、お世話になった先輩や会社でも、お客でも容赦しない。間違っていることも多いかもだが、相手が誰であろうが、ウソや不正や騙しは許さない。これはなんとも貴重な資質だ。・・・そう思えるようになったのも、2007年になってからだが・・。

■こうして福岡県立小倉西高校へ裏口入学した私だが、この高校は居心地が良かった。というのは、入学は不正だったが、成績がまた昔のように、300人中で100番以内に戻ったから。平均すると50番全後だったか。

 この小倉西高校は、以前の、同じく不正入学した福岡県立城南高校に比べると学業では劣る。今もそうだが、現役で早稲田や慶応、九州大学へも合格する生徒はほとんどいない。よって、私の成績でも、上中下で言えば、学年で常に「上」だった。が、それは学業で二流高校だったからで、偏差値自体は60を上回ることはほとんどなかった。55位か。その成績では、いわゆる一流大学には程遠い。

私は恋愛と音楽に夢中になった。とくにあるアイドル歌手には惚れ込み、部屋中にポスターや切り抜きを貼りまくり、ファンクラブにも入った。勉強するふりしてオールナイトニッポンや歌謡曲番組に夢中になり、歌手やスターに憧れた。

また、クラスの一つ年上の不良・中嶋が女の子とイチャイチャしているのに刺激を受け、高校2年の夏、クラスの女の子を見渡し、松原まり子に焦点を定めた。特に話したこともなかったが、なんかアイドル風で好みにあった。
 ちょうどその前の試験成績がよく、何かの科目は学年で10番以内に入り、その表が全学年に配られ、体育のクラスでも目立っていた。

今がチャンスと思い、つき合って欲しい旨のラブレターを書いて靴箱に入れると、まさかのOKが出て舞い上がった。が、「つき合う」ことの意味を知らず、OKの返事はもらったのだが、どうすればいいのかわからない。今考えても素晴らしいプラトニックラブだ。デートの場所は小倉玉屋や小倉城を歩いたり、図書館で一緒に勉強する程度。

菅生の滝で、初めて手を繋いだが、もうそれだけで息子は勃起状態。きついジーパンに締め付けられた状態が何時間も続いたからか、腹が痛くなって困った。草むらに寝そべり、キスのタイミングも計ったが・・・そんなことをするのは不良だと、キスなんかは結婚してからだと思いとどまった。まさに青春!?

そんな姿を父は察していたのだろう。オレをいつも見下していた。

「金属バット殺人事件」一柳展也の父のように。

■父はエリートだった。大半が中卒か高卒の昭和24年、「商科の雄」神戸大学経営学部に入学。卒業後は当時の花形である大日本製糖に入社。その後福岡相互銀行(今の西日本シティ銀行)に転職し、30代で取締役になっていた。当時は小倉支店長を兼務で、これはあとで知ったが、この小倉支店は福岡県北部の本部も兼ねた、役員への登竜門だった。

(これは35歳を過ぎて知ったが、父の父、オレの祖父は、福岡相互銀行の前身である「福岡無尽」創業期のメンバーであり、やはり取締役検査部長をやっていた。オレが小学校低学年の頃に亡くなったので、詳しくは知らなかった)

そんな家系だったからだろう。オヤジとしては、オレは修猷館か小倉高校→東大や早稲田慶応、腐っても九大を期待していたが、到底無理な話。その努力もせず、女とデートしてアグネスチャンの日々。

ある日オレが部屋にいるとき、オヤジがスッとオレの部屋を開けた。そしてアグネスチャンだらけの部屋を見渡し、軽蔑するような目でオレを見た。

「なんね!?閉めろよ!」

そういうと、オヤジは無言で去った。既に身長ではオヤジを越し、気性も荒くなっていた。昔は何かというとオヤジはオレを殴ったが、もう手出しは出来ない。別に腕力は強くなかったが、キレた時の狂気は、かなり凶器じみていたからだ。


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栢野克己(かやのかつみ) ■日本一過激な小企業コンサル・講演家。計15万部の著書「弱者の戦略」「小さな会社★儲けのルール」「逆転バカ社長:天職発見の人生マニュアル」はアマゾン<中小企業経営>ジャンルで7年300週〜現在までベストセラー第1位〜5位。台湾(中国語)・韓国・タイ・インドネシアでも出版。零細企業☆人生逆転の事例講演・執筆・勉強会主催の(株)インタークロス代表取締役。主催のセミナー交流会「九州ベンチャー大学」や「経営人生計画セミナー」「やる気会」「早朝マーケ会」「個別相談会」は17年1000回を越え、累計で約1万人参加。全国+アジアで年間講演約100回+勉強会100回が自主ノルマ。2006年〜2007年に家族で1年間の世界一周を実現!夢は全世界で1000万部の著書+世界200ヶ国渡航 ■福岡県立城南高校+小倉西高校は裏口入学・立命館大学卒。新卒入社のヤマハ発動機を9ヶ月でノイローゼ退社、バイトのリクルートは3年弱で正社員試験落第。失意と復讐を誓い、大阪のIBMリースへ転職するが、またも仕事失敗+ウツ+婚約破棄+自殺未遂で退社。東京へ逃げ、半年失業後チラシ宅配ベンチャーへ転職。しかし、そこも詐欺的FC会社でまたも転職に失敗。もはや「同級生に勝つには独立しかない」と決意し、様々なセミナーや交流会に参加後に「無料職業相談業」で起業。しかし、半年で金がなくなり、出版社:ビジネス社でテープ起こしのバイトをするも先の人生が見えない。そんな92年実家が他人の連帯保証1億円かぶり博多へUターン。6度目の転職で広告代理店へ。同時にビジネス交流会「九州ベンチャー大学」立ち上げ。 95年、借金返済のため2度目の起業。97年完済するも実家失い親は自殺。2002年〜今までの人生への復讐スタート。お楽しみはコレからだ。公式HPも参考に。 ■インタークロス ■九州ベンチャー大学 代表・雑談担当 栢野克己/カヤノカツミ 〒810-0073福岡市中央区舞鶴2-7-21-803 電 話 092-781-5252  携 帯 090-3604-6735 FAX 092-781-5354 メールkaya@hf.rim.or.jp
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