【人生は逆転できる!】小企業コンサル・講演家の天職ブログ

講演家・作家・雑談相手。著書は「やずやの秘密」「弱者の戦略」「小さな会社★儲けのルール」「逆転!バカ社長」「35歳から一生負けない生き方」。22年で約1000回の人生経営勉強会「ベンチャー大学」「経営人生計画セミナー」毎月開催。人生の成功は<夢×戦略×感謝>をモットーに、弱者の独立起業・経営アドバイス・講演・執筆・コンサル・勉強会・個別相談会を実施。2007年に家族で1年間の世界一周を実現!

2015年10月

ポジショニングは顧客視点か。マーケティングのSTP。という常識を知らない人が99,9%。コトラー。

コトラーはアメリカの経営学者。専門はマーケティング(売れる仕組みづくり)。大学生・大学院から教授になった人で、実務経験はない。経営経験はない。が、大学教授として、自らのブランディングとポジショニングには大成功した。2015年現在で84才。著書も多数あるが、一番売れたのは80歳の時で、さらに定番の本「マーケティング・マネジメント」は1967年に初版が出て、その後も加筆した改訂版が数年ごとに出て、40年後の2008年に改訂第12版が日本でも出ている。つまり、常に進化している。80才超えて。スゴいね。経営の実務経験ない単なる学者。評論家、机上の空論で世界一。私も似たようなもんだから、ドラッカーも同じだが、なんか嬉しいね。ホッとするね。コトラーさんとかは大企業向け。栢野は小さな会社の口先著者・講演家・評論家で世界一を目指す。で、いつものことだが、デキる人はこんなの知らんでも成功してる。無意識にSTPしてる。動物的に、本能的に。
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コトラーのマーケティング教科書で
日本企業が読み落とした個所はどこか

日本でも人気のマーケティングの父と言われる、フィリップ・コトラー教授。その膨大な書籍の中で、日本企業がもっとも読むべき個所はどこだろうか。9月に東京で開催されるワールド・マーケティング・サミットが開催されるのを記念し、コトラーが在籍するノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院の卒業生が、コトラーの業績を語る。

STPこそコトラー理論

 フィリップ・コトラー本人によるマーケティング理論とは何か、という問いに対して、4Pもマーケティング・ミックスも本人の理論ではないと前回述べた。では本人の理論は何なのか。その答えは、おそらく「STP」と言ってよいであろう。STPとはセグメンテーション、ターゲティング、ポジショニングの頭文字である。

 今でこそ、セグメンテーションの考えは当然となっているが、マーケティングの歴史の中では、マス・マーケティングの時代が長く続いた。古くはT型フォード(1908年発売)や、コカコーラ独自の形状であるコンツアー・ボトル(1915年発売)のように、一つの製品をすべての顧客に販売するスタイルである。大量生産によってコストを大きく引き下げ、大量広告によって消費者に訴求し、大量販売によって投資を一気に回収するというビジネスが、マーケティングの当初の姿であった。

 競合企業が少なく、消費者の選択肢が限られている時代であれば、マス・マーケティングは非常に効率よく利益をもたらすことができる。特に、初回購買の消費者のように、購買経験や製品知識が少ない場合は、最も売れている製品を買うという行動が多くなるため、他社に先駆けてマス・マーケティングで規模を拡大することには、意義がある。日本でも、松下電器産業(現パナソニック)が全国にナショナル・ショップという家電店を展開した高度成長期は、マス・マーケティングのサイクルである大量生産、大量広告、大量販売が功を奏した。

 しかし、高度成長が一段落すると、消費者は自らの過去の購買経験に基づいて、様々な嗜好・選好を持つようになる。競合も登場してくるので、消費者の選択肢は広がる。そうした状況の中で、「最大公約数的な」マス商品のみで勝負していると、「特徴を絞った」競合に負けてしまう。そこで、必要に迫られて登場してきたのが市場細分化(マーケット・セグメンテーション)という考え方である。

 市場セグメントの中には、より魅力的なセグメントもあるが、それは顧客そのものの特性(高いプレミアム価格を払う傾向にある)と、競合条件(過当競争に陥らないように何らかの参入障壁がある)、自社の能力(そのセグメントのニーズを満たす商品を提供できる)によって決まる。どの程度の(広さまたは数の)セグメントをカバーするかは、自社の経営資源によって決まる。こうした検討を経て、ターゲットとすべきセグメントを設定し、その中で、自社商品・ブランドの特徴をどう位置付けるかというポジショニングを行うのが、STPの流れである。

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顧客の理解に基づくのがSTP

 セグメンテーションを行うために必要となるのは、どのような(異なる)ニーズを持った顧客層によって市場が形成されているかを理解することであり、コトラーは顧客を理解することの重要性を強調している。市場が右肩上がりに伸びている時代であれば、供給を上回る需要があるため、マーケティングが多少まずくてもビジネスを伸ばすことはできる。しかし、市場の伸びが鈍化してからは、逆に需要よりも供給が増えてしまう。こうした中で、プロダクト・アウトなビジネスをしていては、競争に負けてしまう。顧客理解の重要性は、成熟期だからこそ高まるのである。

 1980年代ころの米国のマーケティングでは、市場調査が非常に重視されていた。それは、セグメント設定のため、当該市場の中の顧客層別のニーズの違いを理解しなければならなかったためである。一方、日本企業の多くは、市場調査をあまりせず、製品を矢継ぎ早に投入して、当たったものを残し、ダメなものを外すというような対応をしてきた。プロダクト・アウトも積もれば山となるのかもしれないが、それは市場が右肩上がりだった時代の「結果オーライ」に近い。

岸本 義之
(きしもと・よしゆき)

経営コンサルタント。早稲田大学 大学院商学研究科 客員教授。 1986年 東京大学経済学部卒、'91年からKellogg(ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院)に留学してMBAを取得し、慶應義塾大学大学院経営管理研究科にてPhD取得。マッキンゼー・アンド・カンパニー、ブーズ・アンド・カンパニーなどで20年以上にわたって、戦略や組織に関わるコンサルティング・プロジェクトを多数行っている。著書に『メディア・マーケティング 進化論』(PHP研究所)、『金融マーケティング戦略』(ダイヤモンド社)など。

 実際、日本企業のマーケティングで、STPがきちんとできている事例はそれほど多くない。いわゆるガラケーが総崩れに陥ったのも、すべてのメーカーが同質的競争に突っ込んだからに他ならない。他社が入れた機能は自社も盛り込まないといけない、という同質化合戦の結果、海外には通用しないガラパゴス製品になり、国内のみで多くのメーカーが過当競争に陥り、最後は軒並み撤退という事態にまで追い込まれた。顧客を見ずに、競合を見ながら商品開発を行うと、こうなってしまう。

 STPをきちんと行わずに、矢継ぎ早の商品開発ばかりを行うと、当たり外れの多いマーケティングになる。それでも当たりが見つかればいいではないか、というかもしれないが、外れ商品の市場投入のためにどれだけの広告費を無駄にしているのか、と考えないのも日本企業の特徴かもしれない(もしくは日本の広告代理店のビジネスのうまさの裏返しかもしれない)。特にリーダー企業ほど商品投入数が高いため、その分の広告費を無駄に使い、むしろマーケティングの費用対効果が低いという、不思議な現象が起こる。それでも商品投入数を増やすのは、小売店の棚スペースをとりたいためである。ドラッカーは「マーケティングの狙いはセリングを不要にすることだ」と述べている(コトラーの教科書にもそう引用されている)が、多くの日本企業はセリングのためにマーケティング費用を無駄遣いしている。

 コトラーは昨年の来日時のカンファレンスで、「日本の会社は問題の解決策はいいものをつくること、それで勝てると言いがちですが、そうではありません。やはり顧客について考えるべきです」と述べている。日本企業のマーケターは、コトラーの教科書が分厚すぎたせいか、一番肝心のところを読み落としたようである。

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マーケティング戦略とポジショニング

 STPの3つ目のポジショニングに関連して、コトラーは、マーケット・リーダーとそれ以外の企業とではマーケティング戦略が自ずと異なると主張した。リーダーの戦略とは、総市場の拡大のために努力を行い、各方面からの他社の攻撃に対抗すべく経営資源を投入し、規模の経済性をさらに追求するものとなる。

 これに対し、チャレンジャーの戦略とは、リーダーの弱い分野を攻撃するものである。ゼロックスが大型コピー機で市場を制圧していた時期に、キヤノンやリコーは小型コピー機を中小企業向けに投入して成功を収めた。一方、フォロワーの戦略とは、リーダーに追随し、模倣するものである。技術開発の投資をしない分だけ低価格が可能であり、リーダーを追い抜けはしないものの、そこそこのビジネスになる。かつてのシャープや三洋電機はフォロワー戦略と呼ばれた。そして、ニッチャー戦略という、小規模な市場をターゲットにして大手企業との競争を避けるという戦略がある。軽自動車に集中したスズキは、かつてニッチ企業であった(今は軽自動車市場自体が大きくなっているが)。

 この4類型も、コトラー独自のフレームワークである。特に2番手以下の企業は、同質的競争に陥ることを避け、独自のポジショニングをとらなければならない。独自のポジショニングの確立に失敗すると、リーダーの反撃に屈する危険性が高くなる。この反撃に歯を食いしばって耐え忍ぶことは不可能ではないが、結果として低利益率が恒常化してしまう。日本企業は低利益率にあえぎながら、同質的競争を続けてしまう。

 昨年の来日時のカンファレンスでコトラーは、「日本にはCMO(チーフ・マーケティング・オフィサー)がいないというのは残念なこと」とも述べている。マーケティングは中間管理職やスタッフによる各論的な業務になってしまっていて、役員クラスのリーダーが全体像を描いていない、というのがコトラーから見た日本企業の姿のようである。

 マーケティング・リサーチによる顧客理解があり、STPに基づくマーケティング戦略があり、その戦略と整合したマーケティング・ミックスを組み合わせる。これがコトラーのマーケティングの全体骨格と言える。この骨格を作り上げたことがコトラーの功績と言ってよい。そして、その骨格を構成する各論の要素として、他の研究者たちの理論が組み込まれていく。各論の要素は時代の流れとともに変化してきたが、骨格自体は50年を経ても変わっていない。スタッフが各論の移り変わりを追いかけるのではなく、CMOが全体像を描くことこそが、コトラーの求めてきたマーケティングの姿ではないだろうか。

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宇宙戦艦ヤマトをつくった男。西崎義展の狂気

以下の抜粋元はコチラ
 

『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』

2015年10月14日 09時50分

ライター情報:多根清史 
 

2014年12月に公開された『宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟』のスタッフロールにアニメファンは騒然となった。原画:庵野秀明というクレジットに……『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の公開が待たれてる最中に、何やってるんですかー!?

庵野監督の人生において『宇宙戦艦ヤマト』という作品(「2199」はリメイク版)が占める重みを考えれば、全てに優先して参加したのは当たり前のこと。「ヤマトがなければ今の自分はなかった」「ヤマトがあったから僕はアニメを見続けることができた」といった趣旨の発言を繰り返していたりする。
『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』講談社/牧村 康正、山田 哲久

本書は、そんな『宇宙戦艦ヤマト』をつくったカリスマ・プロデューサー西崎義展の破天荒な一生を余すところなく伝えようとする一冊だ。

『宇宙戦艦ヤマト』は1974〜75年、全26話が放映されたテレビシリーズのSFアニメ。再編集された劇場版は1977年に公開され、興行収入21億円もの大ヒット。2作目の『さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち』は観客動員数400万人、興行収入43億円と前作から倍増した。『スターウォーズ(EP4)』が興行収入44億円だったのだから、いかに凄まじい勢いだったか分かる。

その製作総指揮をした西崎義展は、『機動戦士ガンダム』の富野由悠季監督がただ一人“敵”と認めた男だ。「ヤマト」の第四話で絵コンテを発注された富野監督がシナリオを丸ごと書き換えて西崎と大喧嘩した逸話もあるが、それだけ強烈に意識していた裏返しだ。「ガンダム」の企画を立ち上げたときも【打倒西崎】を胸に、自らを奮い立たせていたと語っている。

アニメ業界でただ一人の「個人プロデューサー」


西崎をひとことで言うなら「個人プロデューサー」だ。後にも先にも、国内のアニメ業界ではたったの一人しかいない。アニメ制作には莫大な資金と人手がかかるため、まずスポンサーや広告代理店など組織のバックアップを取り付ける。今の主流である製作委員会方式も、資金リスクを分散し、出資比率に応じて利益を分配するというもの。

西崎は個人として、たった一人で「ヤマト」の制作資金を背負い込んだ。カネを出すから、現場にも口を出す。事あるごとに会議を開く会議マニアで、スタッフが作画する時間がなくなる本末転倒ぶり。キャラクターの服の色やデザインまでチェックするので、現場のスタッフには評判が悪かった。「ガンダム」を支えた作画の巨匠・安彦良和氏も、やがて「ヤマト」への参加を断ったほどだ。

そこまで制作にのめり込んだのは、西崎がヤマトを心の底から愛していたからだ。「戦艦を宇宙に飛ばす」という発想は前例があったが、それを漫画で描くのと、アニメにするのとは大違いだ。テレビアニメは制作資金の調達や番組の枠取りなど、難易度がケタ外れに高い。

ヤマトは遊星爆弾により滅びかけた地球を救うために、銀河のかなたまで放射能を除去する装置を取りに行くドラマだ。西崎が企画を持ち込んだテレビ局の中には「地球が破滅しかける話」に拒否反応を示す担当者もいたという。それを広告代理店も通さず、西崎は粘りに粘って通した。権利を代理店に絡め取られたくない計算と裏表だが、ハイリターン以前のハイリスクを個人でかぶるプロデューサーが現代にいるだろうか。

『宇宙戦艦ヤマト』、それは従来は「アニメではやってはいけないこと」の塊だ。西崎が脚本家やブレーンと共につくった「原作」であり、スポンサーも付けない自腹だから、とことんまでやる。本放送で視聴率が低迷した「ヤマト」は、再放送で人気に火がついたと言われるが、再放送の売り込みに奔走したのも西崎その人だ。

線の多い戦艦を動かすだけでも大変なのに、宇宙空間で回り込みまでさせるのは凄まじい作画カロリーがかかる。しかも、当時はロボットアニメの全盛期で、メカが上手いアニメーターも不足していた。西崎は実力派を一人ずつ口説き落とし、相場より20〜30%高いギャラを払ったという。

それまでのアニメを「ヤマト以前」へと追いやったのが、『銀河鉄道999』でも知られる漫画家・松本零士の起用だった。宇宙に奥行きがほしいと望んだ西崎は、松本のイラストを見せられて美術設定デザインに起用。その結果、一気にビジュアルは未来的となり、常識外れのディティールを得たのだから、松本が「監督」としてクレジットされた(実際の演出は『超時空要塞マクロス』などの石黒昇)のは相応しい待遇だったといえる。

細かなディティールだらけの画面を「たっぷり引きで見せろ」という西崎の指示は、本人に恐るべきコストとして跳ね返ってくる。不沈艦とは程遠い、大海に揺らぐ葉っぱのような「ヤマト」プロジェクトの原作者は、破滅の危険さえ引き受けた西崎といわざるを得ない。

「ヤマト」は、アニメ関連ビジネスの生みの親でもある。盟友・宮川泰の名曲によってLP売上は38万6千枚に上り、『アナと雪の女王』のCD売上に抜かれるまではアニメ映画の歴代トップを守った。
… 

 さらに緻密に設定された「ヤマト」は1/700のスケールモデルを作りやすく、プラモデルも大ヒット。崖っぷちにいたバンダイ模型も息を吹き返し、ガンダムプラモデル=ガンプラへと繋がったのだ。
はるか遠くで輝く星、身近な人々には暗黒のブラックホール
西崎は遠くで輝く星であり、身近な人達を不幸に巻き込むブラックホールだ。彼は決して善人ではなく、普通の感覚でいえば悪人だった。「さらば」のラストシーンについて部下に「お前は愛する人のために死ねるか」と厳しく問い詰めておいて、複数の愛人を抱えてることを隠しもしなかった男だ。
『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』では新規のインタビューはなく、証言のほとんどは他の資料から引用されたものだ。本書の真の魅力は、共著者である山田哲久−−「ヤマト」の制作助手を5年つとめた人物が地の文で語る「ナマの西崎の生き様」にある。
母方の祖母は海軍大将、父の妹は西崎流の家元・西崎緑。石原慎太郎さえうらやむ名家の西崎は東大進学に挫折して父から勘当された。その後はジャズ喫茶の司会から音楽制作プロデューサーとなり、オフィス・アカデミーを設立して創価学会系の民音(民主音楽協会)のイベントで儲けるが、借金を作りすぎて海外に逃亡。
やがて日本に戻って来るや手塚治虫のマネージャーとなり、関連会社の虫プロ商事で『ふしぎなメルモ』のアニメ化などに辣腕を振るった。しかし強引なやり方で人心は離れた上に、虫プロ商事の経営立て直しも失敗。手塚から『海のトリトン』の権利を引っぺがすようにアニメ化し、作品を任された富野監督もしばらく手塚と疎遠になるトバッチリを食らった。
借金は踏み倒し、漫画の神様とも消えない遺恨を残す。こんなろくでなしの悪党でなければ、子供だましと思われていたアニメをビッグビジネスにしようとは考えなかったろう。海千山千の音楽業界を手玉に取った口八丁手八丁があったから、「ヤマト」に注ぎこまれたケタ外れの資金も調達できたはずだ。今のアニメビジネスは、悪徳まみれの欲望と作品づくりへの純粋な想いを矛盾なく持てた、一個の怪物が切り開いた道の上にあるのだ。
目立ちたがりで大ぼら吹き、カネに汚く女ったらし。劇場版の『さらば』ではヤマトを超巨大戦艦に特攻させて「もう、二度と姿を現すことはありません」とのテロップを流しておいて、そのテレビ版である『宇宙戦艦ヤマト2』では結末を改変して主人公達を生き残らせてファンを激怒させた。

「ヤマト」の末節を台無しにした西崎の醜態を、この本はありのままに記録している。

ただ、「叩かれすぎた」事実も冷静に指摘されている。晩年の覚せい剤所持は「ヤマト」制作当時からの息抜きで、重度の依存症ではなかったという。そして船からグレネードランチャー付きM16(自動小銃)などが見つかり銃刀法違反で逮捕された事件も、尖閣諸島に戦争に行ったのではなく、治安の悪いマラッカ海峡付近では武器携行は常識だったと。

それでもまるでフォローになってない気もするが、松本零士が「ヤマト」の著作権をめぐって西崎を訴えた裁判の下りは必読だ。後から参加した松本が「原作者」だと主張するのはやり過ぎた感もあるが、彼もまた西崎に心を踏みにじられた(「さらば」での特攻に松本は反対していた)一人であり、一矢報いたかった心情は分かる。今のアニメ業界に元気がないのも、西崎のような「悪人」が不在のせいかも……というのは簡単だが、ブラックホールの近くにいるスタッフはたまったもんじゃないですよね。
(多根清史)
 
西崎さん本人の獄中記 

天国と地獄と復活「宇宙戦艦ヤマト」の原作者でプロデューサー・西崎義展の人生がスゴい。

宇宙戦艦ヤマトはテレビを観ていた程度だが、なんかその後、原作者や松本零士がもめている。程度しか知らなかった。その程度の外野として、そりゃ銀河鉄道999なんかで有名な松本零士が原作者で言い分も正しいだろうと思ってたが、真の創業者はこの西崎さんだったのね。最近出たこの本はまだ読んでないが、買うまではしないが、本屋で見かけたら一気に最後まで立ち読みしそうだ。

下の記事はかすかに記憶がある。クルーザーから転落水死だが、実は以前から車いす生活で、この時も車いすの状態でクレーンを使って泳ごうとした?とガセ?ネット記事で見た。さらに、そういえばキムタクの主演で映画を何年か前にやってたな。あれで原作著作料2億円をもらった?その前は、大成功と大失敗と破産と覚醒剤と車いすと裁判と、そりゃもうメチャクチャな人生で、でも70歳過ぎてまたキムタク映画で大儲け。最後は自分のクルーザー「YAMATO」で死ぬ。本望だろう。

スゴい。見なおした。破天荒とはこのことだ。一緒に仕事はしたくないけど。

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本書は、そんな『宇宙戦艦ヤマト』をつくったカリスマ・プロデューサー西崎義展の破天荒な一生を余すところなく伝えようとする一冊だ。

『宇宙戦艦ヤマト』は1974〜75年、全26話が放映されたテレビシリーズのSFアニメ。再編集された劇場版は1977年に公開され、興行収入21億円もの大ヒット。2作目の『さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち』は観客動員数400万人、興行収入43億円と前作から倍増した。『スターウォーズ(EP4)』が興行収入44億円だったのだから、いかに凄まじい勢いだったか分かる。

その製作総指揮をした西崎義展は、『機動戦士ガンダム』の富野由悠季監督がただ一人“敵”と認めた男だ。「ヤマト」の第四話で絵コンテを発注された富野監督がシナリオを丸ごと書き換えて西崎と大喧嘩した逸話もあるが、それだけ強烈に意識していた裏返しだ。「ガンダム」の企画を立ち上げたときも【打倒西崎】を胸に、自らを奮い立たせていたと語っている。

アニメ業界でただ一人の「個人プロデューサー」


西崎をひとことで言うなら「個人プロデューサー」だ。後にも先にも、国内のアニメ業界ではたったの一人しかいない。アニメ制作には莫大な資金と人手がかかるため、まずスポンサーや広告代理店など組織のバックアップを取り付ける。今の主流である製作委員会方式も、資金リスクを分散し、出資比率に応じて利益を分配するというもの。

西崎は個人として、たった一人で「ヤマト」の制作資金を背負い込んだ。カネを出すから、現場にも口を出す。事あるごとに会議を開く会議マニアで、スタッフが作画する時間がなくなる本末転倒ぶり。キャラクターの服の色やデザインまでチェックするので、現場のスタッフには評判が悪かった。「ガンダム」を支えた作画の巨匠・安彦良和氏も、やがて「ヤマト」への参加を断ったほどだ。

そこまで制作にのめり込んだのは、西崎がヤマトを心の底から愛していたからだ。「戦艦を宇宙に飛ばす」という発想は前例があったが、それを漫画で描くのと、アニメにするのとは大違いだ。テレビアニメは制作資金の調達や番組の枠取りなど、難易度がケタ外れに高い。

ヤマトは遊星爆弾により滅びかけた地球を救うために、銀河のかなたまで放射能を除去する装置を取りに行くドラマだ。西崎が企画を持ち込んだテレビ局の中には「地球が破滅しかける話」に拒否反応を示す担当者もいたという。それを広告代理店も通さず、西崎は粘りに粘って通した。権利を代理店に絡め取られたくない計算と裏表だが、ハイリターン以前のハイリスクを個人でかぶるプロデューサーが現代にいるだろうか。

『宇宙戦艦ヤマト』、それは従来は「アニメではやってはいけないこと」の塊だ。西崎が脚本家やブレーンと共につくった「原作」であり、スポンサーも付けない自腹だから、とことんまでやる。本放送で視聴率が低迷した「ヤマト」は、再放送で人気に火がついたと言われるが、再放送の売り込みに奔走したのも西崎その人だ。

線の多い戦艦を動かすだけでも大変なのに、宇宙空間で回り込みまでさせるのは凄まじい作画カロリーがかかる。しかも、当時はロボットアニメの全盛期で、メカが上手いアニメーターも不足していた。西崎は実力派を一人ずつ口説き落とし、相場より20〜30%高いギャラを払ったという。

それまでのアニメを「ヤマト以前」へと追いやったのが、『銀河鉄道999』でも知られる漫画家・松本零士の起用だった。宇宙に奥行きがほしいと望んだ西崎は、松本のイラストを見せられて美術設定デザインに起用。その結果、一気にビジュアルは未来的となり、常識外れのディティールを得たのだから、松本が「監督」としてクレジットされた(実際の演出は『超時空要塞マクロス』などの石黒昇)のは相応しい待遇だったといえる。

細かなディティールだらけの画面を「たっぷり引きで見せろ」という西崎の指示は、本人に恐るべきコストとして跳ね返ってくる。不沈艦とは程遠い、大海に揺らぐ葉っぱのような「ヤマト」プロジェクトの原作者は、破滅の危険さえ引き受けた西崎といわざるを得ない。

「ヤマト」は、アニメ関連ビジネスの生みの親でもある。盟友・宮川泰の名曲によってLP売上は38万6千枚に上り、『アナと雪の女王』のCD売上に抜かれるまではアニメ映画の歴代トップを守った。
… 

 さらに緻密に設定された「ヤマト」は1/700のスケールモデルを作りやすく、プラモデルも大ヒット。崖っぷちにいたバンダイ模型も息を吹き返し、ガンダムプラモデル=ガンプラへと繋がったのだ。
はるか遠くで輝く星、身近な人々には暗黒のブラックホール
西崎は遠くで輝く星であり、身近な人達を不幸に巻き込むブラックホールだ。彼は決して善人ではなく、普通の感覚でいえば悪人だった。「さらば」のラストシーンについて部下に「お前は愛する人のために死ねるか」と厳しく問い詰めておいて、複数の愛人を抱えてることを隠しもしなかった男だ。
『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』では新規のインタビューはなく、証言のほとんどは他の資料から引用されたものだ。本書の真の魅力は、共著者である山田哲久−−「ヤマト」の制作助手を5年つとめた人物が地の文で語る「ナマの西崎の生き様」にある。
母方の祖母は海軍大将、父の妹は西崎流の家元・西崎緑。石原慎太郎さえうらやむ名家の西崎は東大進学に挫折して父から勘当された。その後はジャズ喫茶の司会から音楽制作プロデューサーとなり、オフィス・アカデミーを設立して創価学会系の民音(民主音楽協会)のイベントで儲けるが、借金を作りすぎて海外に逃亡。
やがて日本に戻って来るや手塚治虫のマネージャーとなり、関連会社の虫プロ商事で『ふしぎなメルモ』のアニメ化などに辣腕を振るった。しかし強引なやり方で人心は離れた上に、虫プロ商事の経営立て直しも失敗。手塚から『海のトリトン』の権利を引っぺがすようにアニメ化し、作品を任された富野監督もしばらく手塚と疎遠になるトバッチリを食らった。
借金は踏み倒し、漫画の神様とも消えない遺恨を残す。こんなろくでなしの悪党でなければ、子供だましと思われていたアニメをビッグビジネスにしようとは考えなかったろう。海千山千の音楽業界を手玉に取った口八丁手八丁があったから、「ヤマト」に注ぎこまれたケタ外れの資金も調達できたはずだ。今のアニメビジネスは、悪徳まみれの欲望と作品づくりへの純粋な想いを矛盾なく持てた、一個の怪物が切り開いた道の上にあるのだ。
目立ちたがりで大ぼら吹き、カネに汚く女ったらし。劇場版の『さらば』ではヤマトを超巨大戦艦に特攻させて「もう、二度と姿を現すことはありません」とのテロップを流しておいて、そのテレビ版である『宇宙戦艦ヤマト2』では結末を改変して主人公達を生き残らせてファンを激怒させた。

「ヤマト」の末節を台無しにした西崎の醜態を、この本はありのままに記録している。

ただ、「叩かれすぎた」事実も冷静に指摘されている。晩年の覚せい剤所持は「ヤマト」制作当時からの息抜きで、重度の依存症ではなかったという。そして船からグレネードランチャー付きM16(自動小銃)などが見つかり銃刀法違反で逮捕された事件も、尖閣諸島に戦争に行ったのではなく、治安の悪いマラッカ海峡付近では武器携行は常識だったと。

それでもまるでフォローになってない気もするが、松本零士が「ヤマト」の著作権をめぐって西崎を訴えた裁判の下りは必読だ。後から参加した松本が「原作者」だと主張するのはやり過ぎた感もあるが、彼もまた西崎に心を踏みにじられた(「さらば」での特攻に松本は反対していた)一人であり、一矢報いたかった心情は分かる。今のアニメ業界に元気がないのも、西崎のような「悪人」が不在のせいかも……というのは簡単だが、ブラックホールの近くにいるスタッフはたまったもんじゃないですよね。
(多根清史) 以上の抜粋元

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「宇宙戦艦ヤマト」の発案者で制作プロデューサーで創業者
 西崎善展さんのHPより抜粋。逮捕された1999年・65才前後。

 

宇宙戦艦ヤマト・プロデューサー

      西崎義展西崎義展

– 獄中からのメッセージ –

 

「島、俺は死にいくんじゃない。新しい命を貰いにいくんだ。」というところまでの諦観の境地には、私はまだほど遠く、皆といろいろと語りたく相原の協力を得てこのページを開設しました。私の不祥事については、”ヤマト”というイメージを損ない、誠に申し訳なく心からお詫びするものです。
 

ここ数年の出来事については、これからおいおいその事情を説明したいと思っていますが、ともあれ今現在は前のように制作に没頭したいと強く思うようになっています。私は結局ものづくりしか能のないバカ者。
 

今居るところには制服を着た人が時々顔を出す。なかなか美しい女性もいる。皆親切な人たち。この経験も機会を見て語りたい。これからは思い出や、つれづれ思いつくことなどを書きたいと思っています。意見があったらこのページに寄せてください。

 

NO.2

夢・ロマン・冒険心。人々の気持ちの中から、こう言った言葉が、消えていった昭和48年、第二次オイルショック・赤軍派事件、世の中まるで現在のように不況の中で当時の少年少女たちは夢を失いロマン, 殊に「冒険心」と言う言葉は死語に近い時代でした。
 

そんな時私は、「宇宙戦艦ヤマト」を発想・企画・実現しました。多くの人々の貴重な才能の結集により制作された「ヤマトTV シリーズ」は、私の制作作品の中でも誇りとする作品であります。
 

また、視聴率平均5.4%で(39話のはずで考えていたのが)早々に打ち切りが決まった中で最後まで手抜きをせずに、26話を完結させたスタッフの皆様方に心から感謝するものであります。
 

TVシリーズ終了後、何とか劇場上映をと思い舛田利夫監督、山本暎一氏(監督)・田代敦己氏(音響監督)のご協力を得て製作(編集制作)を黙々と行い劇場作品として昭和52年8月公開、大ヒットとなりました。
 

ここに至るまで、約三年私の知らぬ間にTVシリーズの再放送により全国に新たに再認識され当初東京四館の上映であったにもかかわらず、全国各地のファンクラブの皆様の協力を得て、成功いたしました。
 

封切り初日の朝、来るまで劇場に向かう途中、私の気持ちは観客が来てくれるかと言う不安でいっぱいでした。丁度、宮益坂を下っていく途中、坂の上から4列渋滞の長い列が、歩道を埋め少年少女が並んで居りさらにその列が渋谷の東急文化会館の入り口まで達しているのをみてもこれが私の映画を見に来た子供たちとは考えてもいませんでした。それが、地下の東急レックスの入り口に私の初の製作配給をした劇場用映画「宇宙戦艦ヤマト」を見に来た子達と判った時は、我には信じ難く感動の一言に尽きました。
 

その時始めて映画を見終わった子供たちから差し出された色紙、パンフレットにサインをした言葉が、

夢・ロマン・冒険心

宇宙戦艦ヤマト・プロデューサー

西崎義展

No.3

以来「さらば宇宙戦艦ヤマト」に始まり、昭和58年、ヤマト完結編に至るまで、劇場に足を運んでいただいた総観客動員数は一千万人を越えその後、他媒体、TV、VIDEOGRAMを通じて25年間、世代の入れ替わりを考えても、数千万人以上の方々がヤマトを御覧頂き、さらに(昭和50年以降)米国にてTVシリーズを苦労の末放映したところ、日本と同じ様にファンクラブも全米100を超え数千万人の人々が、ヤマトを受け入れて行きました。
 

全世界では優に1億を超えるヤマトを愛して下さった方々、又ともにヤマトを制作した方々に、製作者である私がこの度二度に亘って起した不祥事に付きましては、皆様に楽しんでいただき大切にして頂いた「ヤマト」というイメージを損なうことに連がり、誠に申し訳なく心から詫びるものであります。反省も含めお詫び申し上げます。
 

宇宙戦艦ヤマトのテーマは「愛」であります。唯、私にとってはテーマはテーマ、心の中から”夢・ロマン・冒険心”の三文字が消えぬ限り私は作品を造る!という目的に向かって努力するという目的観を失うことはありません。
 

気力ある限りプロデューサーとは生様である!

行動あって結果あり (今回は、駄目です)
 

そんな私が今出来ること、やって来たことの中で今一番大切なことは25年に亘るヤマトの制作資料(制作素材)の保存管理であります。完成作品、映像はネガ等管理されても制作素材は、殆どのプロデューサーは捨てる例が多いのが普通です。私は25年間、黙々とこれを保存してきました。これが有ることで作品の制作過程の中でこれに参加したスタッフの役割が明確に判り、メインスタッフタイトルに代表される以外の人々がどんなすばらしい仕事をしてこられたのかを証明できるのです。私は出来得る限りそれを残しています。
 

私がこれ等がどんなものであり、且つ、TVシリーズに始まるヤマトの現場も含めて最後の音をつける迄すべて立ち会い、キューだしをして来た私が、淡々とその事実を語ることが、映像作品がいかにして作られていくのか、又、スタッフの役割の証明であり、私の生き様の証明にもなっていくでありましょう。

 

NO.4

私のようなタイプの制作(舞台、音楽含)現場出身の製作者(Executive Producer)は例が少なく、多くのプロデューサーは原作を映像化している例が大半であります。私はこれを否定するものではなく、私の原作ありてという例は作品歴にございます。しかし、どうやって自分の持ち味を出していくのか!ということでその都度自分の体験で身につけたオリジナリティーを追求しました。

宇宙戦艦ヤマトは、その自分の20代〜30代までの集大成であります。
 

その自分の持つオリジナリティーは自分1人で表現できるものではなく、その底に自分の必要とする才能の持ち主を見つけ配置し最後の編集とDB(音付け)は自分の感性で行います。私はそういうプロデューサーでありますので自分の映像、作家性を明確に主張しています。これを製作総指揮というタイトルを持って表示しています。
 

作品の語ることは自分の生き様を語る事であり、機会があれば今の情況をビシュアルに書き伝えられればと思っており、その日を楽しみにしています。
 

私は、人間の性善説で一生生きたかった。散々騙されました。でも性善説でありたい。
 

(好きな言葉)

「オプティミズム」「初恋」「性愛一致」
「己を宇宙に想大に夢みかける」
「発想と感性」


を大切にしたい。

 

前略
 

月日が過ぎるのは、早いものです。平成11年2月1日に銃砲刀剣類所持等取締法違反等によって逮捕されて、2年4ヶ月が過ぎました。私が逮捕されてから、ヤマトのゲームソフト等が発売されて、再び「宇宙戦艦ヤマト」という作品が、広く見直されて“ブーム”となり、多くの人々に支持をされていることは本当に嬉しいことです。
 

昔からのヤマトファンの皆さんに、新たに加わったヤマトファンの人達の中には、お父さん・お母さんが、昔、劇場に来て行列に並んでヤマトを観た!人の息子さん娘さんもいるのではないでしょうか。
 

ヤマトが劇場で大ヒットを記録した1997年〜8年(昭和52年53年)頃は、ビデオも普及していなくて、レーザーディスク・DVD等は全くない時代でした。お父さんお母さんが、自分達の青春時代に観たヤマトをどのように受け止めたかを語り、息子さんや娘さんが、いまヤマトを見て感じた事を話すなど考えると微笑ましく、親子との間にそのような会話が交わされているのかな。
 

親子の間柄でなくても、世代を超えて広く話題とされていることを考えると、私も仲間入りがしたくて羨ましく思います。現代、親子の共通した話題も少なく、会話が成立しにくくなっている、といわれる時代に“感情”や“感動”の共有が出来るものがあるとしたら、それは本当に素晴らしいことであると思います。(それを機会に互いに理解し合えることが多くなると本当に良いと思います。)
 

私も今書きながらふと、“さらば宇宙戦艦ヤマト”のラストシーンとタイトルバックに音楽と沢田研二くんの歌を、自分でも泣きながらつけていたことを想い出して皆さんと感動の共有が出来た作品であったことを思い出して涙がこみあげて、零れそうになりました。
 

2回の刑事事件で“ヤマトの名を汚した”と言われ“破産宣告”も受け、今は拘留されている“受刑者”であり“被告人”の身ですが、そのような作品を製作したプロデューサーとして、ちょっぴり誇りにさせてください。

 

追伸

 

警視庁の留置場から、東京拘置所に移管されてきたときの私の状況は最悪でした。
 

昨年(平成11年)東京都済生会中央病院整形外科に平成11年2月22日に入院「検査」、3月2日“執刀”というスケジュールが決定していた「手術日」を目前にして2月1日に逮捕されて、その状態のまま“無治療”で無理を続けた結果、神経は炎症を起こし、腰だけではなく“下肢”“膝下”に至る迄激痛に苦しみ、油汗を流して耐えていたところ、幸いにも拘置所に来られる不定期の整形外科医師が、“硬膜外ブロック注射”を連続施行して頂いたことで、炎症は止まったものの、半年以上の無理が原因となり、まだこの頃は歩けたのですが、ある日、診察に歩いて行った時に、“突然”左足首にプツンと筋が切れるような感じがして、“転倒”(左足首が麻痺を起し)、歩行困難となって、「車椅子」「居房休養」という状態となりました。
 

しかし結局のところ、東京拘置所には(MRI等の施設がなく)手術等を判断するのに十分な施設、及び手術が行える施設も無いので、抜本的な治療ができないことと、放置することの危険性を書き、その時も「勾留執行停止の申立」をして病院に入院させて欲しい事についてお願いをしましたが実現せずに終わりました。
 

その後、専門的な治療は受けられぬまま(月1回のブロック注射以上の治療はなく)1年数ヶ月が経過して現在に至っています。
 

“居房休養”というのは、役務は免除されますが、定期的にある“運動”で戸外にでることが禁止されていますから、“立って歩く”ということがないので(さながら新潟県柏崎市の監禁少女のように)リハビリが制限されて“太陽の光”の下に1年以上出る機会もなく“ひと冬”が過ぎて頑張ってきました。
 

1年が過ぎて今、痛みは日増しにひどく、体力が衰え、筋力も衰え、という最近の状況は老廃に向かう道をたどり始めている、希望のない日々のくり返しであります。―健康に出獄できることが“希望”です。

 

更に具体的に言えば
 

神経を圧迫するところから来る痛みは、体を動かす度に四六時中あって、日常生活即ち、起床・洗面・着替え・点呼・三度の食事・食器洗い・用便・風呂・部屋の清掃・車椅子による面会・医務の対応等の立ち振る舞いが1日数十回あって、その都度痛み−時には激痛−を伴いますので“麻痺”や痺れもあって対応できなくなっているのです。
 

書面を書く為に、片膝立てて、机に向かって座っていることが、1年前とは違って、“1時間”も座っていられない状態が、ここ半年間位特にひどく、痛みは、腰・背中に、痺れは手足にきて腰が安定せず、センターが取れない状態になるのですぐ横になる。
 

従って「上申書」等“書面”は以前の半分も書けない状態で、手が震えるので、定規を使って書いています。
 

横になっていても、以前と違って起きているときと同じように神経を圧迫するのか“痛み”“痺れ”は治まらないが起きているよりは良いので、横になる時間が増える。人間の脳は起きている状態で正常に稼動するので、寝ている時間が多いと起き上がって立てばふらつき、座っても直ぐには“思考能力”が正常に働かない。気力を奮って起き上がり、座る又は寝る事のくり返しと、「日常生活の対応」で、1日1日が終ってゆく。
 

布団は、24時間敷いたままで、寝たり起きたりが頻繁である為「万年床」でいまでは1日中布団の上に居る生活です。夜中に最低2回以上は寝返りをした時の痛みで目が覚めて眠りが浅く、夜は9時に就寝して朝は6時40分に起床だが、暗い時間から目が覚めているのです。筋力の衰えを少しでも少なくしようと、整形外科医から教えられた「膝の屈伸運動」を毎日立って房内で百回以上行うのですが、半年位前からそれまで出来ていたこの“リハビリ運動”が痛みを伴うようになり、終れば“激痛”が待っていて痺れと共に足腰に広がり(治る迄に時間がかかって)毎日辛いが、(運動場で立って歩くことはさせてもらえないので、禁止されて機会がない以上)この唯一のリハビリを止めれば立つことも出来なくなる恐れがあるので、“痛くても”“辛くても”必ずやる!
 

他書けばまだ沢山ありますが、以上のような状態で頑張って生きています。
 

そして、“今”昨年の「勾留執行停止の申立」以後1年以上の間、頑張って公判の対応等も行ってきて“判決”も受けた現在、私の置かれている「環境」と「体の状態」の実情を書きこのままでは肉体的には更に悪化し、老廃していく以外に先が見えない状況であり、心身共に耐える極限の日々を過ごしていることをお伝えして、判決を前に御送りした「上申書」に書きましたように、専門的な施設のある病院において診察・検査を受けて、必要であるべき「手術」等の治療が受けられることを御願い申し上げます。

一口に「腰痛」といっても、人によって較差があって単に老化現象など軽視されがちですが、適切な処置・治療が施行されるか、されないかで、大きな違いが出ることは「私の1年半の結果」が物語っています。
 

1年−1年半とでは、極端に違う体の現状です。もしかしたら、私の体は既に手術に耐えられる体力が保持されていないのかもしれません。あるいは、ここ迄来た状態では、手術をしても無駄である状態なのかもしれません。
 

しかし、今ならまだ間に合うかもしれない!

と思いながら――――――続く―――――

 

以上のような上申書を出しましたが、却下されました。ただ私は、頑張っていることを具体的に書知って頂きたかったので、「追伸」としました。
 

平成13年6月5日

西崎義展こと 西崎弘文

 

―私の現状と私の心情を理解していただく為に―
 

以下は、昨年(平成12年10月25日)判決の直前に、私が書いて裁判長他裁判官の皆様に提出した最後の上申書の内容の一部を転記したものです。

 

上申書(平成12年9月16日)

 

1年以上の長きに亘るご審議を頂き、ありがとうございました。

―以下、中略―

 

私は現在65才(昨年)です。私の体は1年前とは大きく違っています。1日の半分は寝て過し、移動は車椅子で、早晩寝たきりの毎日になるのではないかと怯える毎日です。それでも、なんとか生きて刑務所を出て、再起し社会復帰をしたい、と思っています。
 

そうは言っても、「破産宣告」で全てを失い、その後「2度に亘る覚せい剤の使用」、加えてM/16等の「銃器事件」で裁かれている私が、たとえ70才を過ぎて刑務所から出所して来ても、社会が私を受け入れ私を必要として呉れるのか!といえば、皆様方が普通に考えられての答えは否定的であり、あり得ないことでしょう。しかし、私はどうしても再起をして作品を造りたいのです。
 

その理由のひとつとして、平成3年から具体化をして(一旦は脚本迄上って)破産宣告で中断された「宇宙戦艦ヤマト・復活編」の製作があります。この作品では、「我々の住む“地球”がいかに、かけがえのない貴重な、美しく素晴らしい“惑星”であることの“感動”と“人間の愛”を、「全人類の移住」という出来事の中で描いています。
 

私は自分の最後の劇場作品として、長い時間を費やして製作の準備を進めていましたが、心ない破産申請で破産をして、前回の覚せい剤事件を起こし、製作には至りませんでした。しかし、9年も前から発想して、準備をして来たこの作品は既に“私のオリジナルストーリー”は出来上がっていて、私の頭の中では、映像的にも完成されています。内容の一部は旧「最高裁判所宛の上申書」の中に書き、ネット上で公開されています。
 

この作品を完成させ、世に出し、その内容を伝えることで再起の証明とし、人間として社会復帰を果たしたいと思っています。私にそのような気持がまだあるということを私に対する御考えの中に加えていただきたいのです。“私は非常に欠点の多い人間ですが、”計画的に犯罪を犯す(銃器の密輸、覚せい剤の売買等)ことは、今迄の人生で1度もありません。―作品を見て頂ければ判ります。―
 

10代で文学座に入り、20代の時から、常に物造り−製作者−として作品に取り組み情熱を傾けて、質の良い作品を今日迄造ってきたという「自負」があります。私の最後の望みは“宇宙戦艦ヤマト”に限らず、「物造りである自分が」「もう1度物造りの場に戻れて」、最後迄「物造りとして生きて」“小さくても良い作品を造り”「物造りとして死んでいきたい」と思っています。このような自分を支える気持ちがあってこの1年間頑張ってこられたのだと思います。
 

「もう1度物造りの場に戻れる!」という言葉を“自分に言い聞かせる”ことで、身近になった“死”という時に対して怖くても不安があっても、立ち向かって生き続けているのです。私は、この一年半の間、取調べと裁判の対応をさせて頂くことと同時に、自分の“体”と闘って来ました。そして今、私の「体の状態」は本当に良くないのです。痛みは日増しにひどく、寝ているときも常にあり、膝から下は痺れて痛みます。1年半、1日中座っているか寝ていた為に筋力が低下して房内で立つのも座るのも痛みを伴い夜も眠れません。それでも、気力を失わないように努力して上申書を書いています。が、以前の半分も書けず、又、何度書き直したか判りません。でもこれが最後ですから読んでください。

 

私は昨年5月(平成11年)に主任弁護人より「勾留執行停止の申立」を行いました。それは、今のような「車椅子の生活」になる為にではなく刑務所に行き“相応の役務を行い”「模範囚」となり、1日でも早く「仮釈放」で出獄して社会に復帰をしたい。
 

その為には、主治医が診断をしているように、抜本的治療である“手術”が不可欠である。と決心して申立を起こしました。まだ、今回の銃器等の事件で警視庁に留置され、取調べを受けていて“起訴”させる直前の時です。
 

ところが、起訴後は何の対話も対応もなく、最高裁判所で“却下”され、病院に行くこともなく悪化して、東京拘置所に来てから、「麻痺」という症状も加わって「車椅子の生活」となりました。このような状態の中でも、私の考えは変わっていません。
 

私にとって最大の望みは「健康」と1日でも短い刑期を終って「もう1度物造り制作の場に戻れる」ことです。その為にもこれ以上体が悪化する前に、施設のある病院に行き、抜本的な対策を、自分自身に行うことは許されないことなのでしょうか。「勾留執行停止の申立」は、どのような時に聞き入れられるのか私には判りませんが、今のまま刑務所に行くことは、自由が束縛される、ということだけではなく、体の苦痛との闘いの二重苦であります。
 

懲役の役務のできぬ人間が「仮出獄」はおろか、生きて出獄する可能性すら遠くに去っていくような、不安な心境であります。なんとか、刑務所に行く前に私の現在の体の状態を施設のある病院で診察検査等を受けさせて頂くことで、正確に体の“現状の把握”をさせて頂けるよう御願い申し上げます。
 

“人の運命を決めるものが何かはしょせん〔不可知〕ですが、私の最後の分岐点とも言えるこの度の事件に対し”寛大なる判決を賜るよう御願い申し上げます。

 

平成12年9月16日

西崎 弘文

 

以上をお読み頂き、“私の現状”と“私の心境”をご理解頂き、そして、2度に亘る罪を犯した私を許していただけるのであれば……

 

私が作品の〈製〉制作に取り組んだときの“真摯な姿勢”と、過去の作品の内容をご評価頂き、私の〈製〉制作者としての“物造り”の能力に可能性を御期待頂き、信じていただけるのであれば……

 

どのような形でも結構ですから、私の為に「嘆願書」を書いて頂けることを御願い申し上げます。

どのような控訴審の判決になったとしても、私は皆様から寄せられた「嘆願書」があるとしたらそれを「励み」として、なんとか獄中を生き抜き、再び作品の製制作者として御目にかかりたい!と心から思います。

 

―感動が共有出来る作品を作る為に――決して絶望はしない。

 

“宇宙戦艦ヤマトプロデューサー”西崎義展こと    西崎弘文

 

久しぶりで、総統デスラーからメッセージが届きました。嘆願書を求めています。皆様の熱き思いである「嘆願書」を氏名・住所を記入のうえ、是非お送りください。(名前を公表したくない方はイニシャルでも結構です。)裁判で使われるかどうかは予想できませんが、皆様の声、心よりお待ちしております。

(相原)

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西崎義展 wiki

西崎 義展(にしざき よしのぶ、正式には「西義展」、1934年(昭和9年)12月18日– 2010年(平成22年)11月7日)は、プロデューサー。本名:西崎 弘文(にしざき ひろふみ[1])。

アニメ作品『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーであり『海のトリトン』『ワンサくん』『宇宙空母ブルーノア』などを企画製作した。
 

    略歴[編集]

    東京府に生まれる。父親は日本興業銀行勤務[2]、父方の祖父は薬学者で東京女子薬専(現・明治薬科大学)校長を務めた西崎弘太郎[3]、母方の祖父は海軍大将[4]、父の妹は日舞の西崎流家元の初代西崎緑[5][6]

    私立武蔵高等学校卒業。文学座の舞台『欲望という名の電車』の杉村春子の演技に感動し、文学座を受験、2度の東京大学受験に失敗して父親から一度は勘当される[6][7]日本大学芸術学部に入学。同時に文学座の養成所で学び、端役で舞台を踏んだものの、2年後に自動車事故で怪我をして俳優は断念した[6]1957年に日本大学卒業[8]

    1958年頃より食べることに困って、六本木のジャズ喫茶の司会をやり、ジャズ解説などで生計を立てるようになる。当時の愛称はザーキ[2][9]。その後は、マネージャーとして、ダン池田とアフロキューバン、東京マンボ、ミュージカル・アカデミーの全国巡業に帯同した[10]

    1962年、音楽制作プロデューサーとして企画制作の道に入る[8]

    1963年10月、オフィス・アカデミーを設立[11]。しかし金銭的には厳しく、創価学会系の民主音楽協会(民音)のイベントを中心に糊口を凌ぎ、創価学会の顧問弁護士だった山崎正友と水産品を扱うシーホースという会社に出資して共同経営した[6][2]。ショー製作の本数は約200本[8]。山崎によれば、民音事務局長の大久保直彦に重用されていたが、後に嫌われて遠ざけられたという [12]

    1968年に西ヨーロッパへ渡航し、フランス人プロモーターの進行助手となる。共産圏の舞踊団やバレエ団を招いて舞台制作をして、約1年半ヨーロッパ全土を巡業してまわり、最終的にはロードマネージャー兼マネージャーを務めた[10][9]

    帰国後の1970年には手塚治虫の知人からの紹介で、手塚と個人契約を交わしてマネージャーを務めるようになり、手塚作品のテレビへのプロモートを行った[10][9][13][14]1971年2月頃より、手塚が社長の虫プロ商事に企画制作部長として就任。多忙な手塚に代わり事実上の社長代理として経営改革を図ったが、急進的な改革は専横状態となって人心を掌握できず、虫プロ商事は混乱状態に陥る[15][16]

    1972年、手塚治虫原作のテレビアニメ『海のトリトン』でアニメを初プロデュース。同年にオフィス・アカデミーの社長に就任し、同社を商標及びその二次使用会社とする[8][11]

    続いて手塚治虫の『ワンサくん』の映像化権を取得。仕事のない虫プロダクションは自社での『ワンサくん』の制作を希望し、西崎は虫プロの役員に招聘される[17]

    個人プロデューサーとして、1973年1月より瑞鷹エンタープライズのテレビアニメ『山ねずみロッキーチャック』を製作[8]。同年4月より虫プロ制作で『ワンサくん』を放送した。放送終了後の11月に役員を務めた虫プロが倒産。

    虫プロの再建運動を進めていた労働組合と交渉して、1974年6月に和解。第2スタジオの建材と西崎の虫プロへの債権を組合に譲渡するとともに200万円を組合へカンパするというのがその内容[18]。一方、この虫プロ倒産時に、退職金代わりとして何本かのアニメの権利を得たという山崎正友の証言がある[12]。この頃、手塚治虫とはトラブルから絶縁状態になる。

    1974年10月、前年より企画を進めていたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』をオフィス・アカデミーで製作し放送開始。

    1977年に『宇宙戦艦ヤマト』を再編集した劇場版アニメ映画がヒット。翌1978年には新作映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は配給収入21億円の大ヒットとなりブームを巻き起こし、『宇宙戦艦ヤマト』をシリーズとして展開。財産を築いて、銀座で毎晩飲み歩き、ハーレーダビッドソンのオートバイは25台を所有。 高級マンションや大型クルーザーを購入して豪遊した[2][19]

    1979年、徳間康快と角川春樹と組んで「大藪春彦スーパー・ジョイント」と称し、大藪春彦の『汚れた英雄』を徳間書店と共同製作してプロデュース。同じく大藪春彦の『傭兵たちの挽歌』は角川春樹事務所製作で西崎義展がプロデューサーを務めると発表され、実写劇映画の初プロデュースとなるはずだったがいずれも頓挫[20][21]

    同時期には吉田喜重監督による実写映画『望郷の時』(『侍イン・メキシコ』)をプロデュースして、メキシコへのロケハンまで実施されたが、これも流れている[21][22]

    1979年に公開された実写劇映画『わが青春のイレブン』[23]、実写ドキュメンタリーの『北壁に舞う』[24]では音楽プロデューサーを担当してその活躍はアニメのみにとどまらず、1970年代末から1980年代前半にかけて、角川春樹山本又一朗などとともに従来の映画会社に属さない新時代の独立プロデューサーとしてもてはやされた[25][26]。角川とともに「日本映画界の革命児」とも言われて脚光を浴びた[27]

    しかし出資していた山崎正友経営のシーホースが経営悪化に陥り、オフィス・アカデミーから約20億円が注ぎ込まれて振り出した手形の回収など、資金繰りに追われるようになり、1982年夏、オフィス・アカデミーと関連会社を整理し、手形の処理も行った[6]。前述の『汚れた英雄』の映画化では、20台のオートバイと10時間以上撮影したヨーロッパロケフィルムで既に3億円を投じていたが、この影響で断念して、映画化権を角川春樹に返上した[6]

    活動の拠点をオフィス・アカデミーから、1977年12月に設立していた赤坂のウエスト・ケープ・コーポレーションへと変更として再出発し[6][28]、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズも1983年公開の『宇宙戦艦ヤマト 完結編』でいったん終焉。『DESLAR’S WAR I 戦艦スターシャ』『宇宙戦艦ヤマト誕生篇』へ続く「ヤマト復活3ヵ年計画」の第一弾『オーディーン 光子帆船スターライト』が1985年に劇場公開されるが[29]配給収入の推定は2億円[30]と大失敗となり、借金を抱える結果に終わった[31]

    初の実写映画プロデュースとなる本田美奈子主演のバイク映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』が1987年に公開。製作総指揮を務め、劇中にはヤマト号というクルーザーが登場した[32]

    経営破綻したレンタルビデオの童夢の事業を1987年から引き継いだが営業不振によって1990年代になって資金難に陥る。1991年にジャパン・オーディオ・ビジュアル・ネットワークが倒産。さらに1997年にウエストケープ・コーポレーションとともに西崎個人も破産。この過程で資金調達のため『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを含む製作した作品の著作権を失う結果を迎える[11]。1997年末と1999年には覚醒剤取締法違反と銃刀法違反で逮捕された[2]

    1999年に下肢麻痺となり、車椅子を使うようになる[11]

    服役中、自身が『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの原作者と主張する漫画家の松本零士と『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者は誰かをめぐって裁判となり、2002年3月に勝訴[33]。翌年7月に控訴審で裁判外の和解が成立[34]

    一連の事件では、2003年2月に懲役5年6ヶ月の実刑判決が確定[35]。刑務所で服役した後、2007年12月に釈放。2009年公開のアニメ映画『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』を製作・監督。[7][2]

    2010年11月7日午後0時35分ごろ、東京都小笠原村父島の海で、遊泳目的で停泊中のウエスト・ケープ・コーポレーション所有の船『YAMATO』から転落、午後2時58分に医師により死亡が確認された[36][37]。75歳没。

    2010年12月10日午後2時より、東京青山斎場にて「お別れ会」が開催され、歌手のささきいさおら約400人が参列した[38]

    没後に公開された『SPACE BATTLESHIP ヤマト』『宇宙戦艦ヤマト2199』では、両作の原作である『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者である西崎が「原作者」としてクレジットされている。

    『宇宙戦艦ヤマト』関連年表[編集]

    • 1973年(昭和48年) – テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』を企画。
    • 1974年(昭和49年) – オフィス・アカデミーで『宇宙戦艦ヤマト』を製作。
    • 1977年(昭和52年) – オフィス・アカデミーで『宇宙戦艦ヤマト』(劇場版)を製作。
    • 1978年(昭和53年) – オフィス・アカデミーで『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』、アカデミー製作で『宇宙戦艦ヤマト2』を製作。
    • 1979年(昭和54年) – アカデミー製作で『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』、『宇宙戦艦ヤマトII総集編 ヤマトよ永遠なれ!』を製作。
    • 1980年(昭和55年) – オフィス・アカデミーで『ヤマトよ永遠に』、東京動画で『宇宙戦艦ヤマトIII』を製作。
    • 1983年(昭和58年) – ウエスト・ケープ・コーポレーションで『宇宙戦艦ヤマト完結編』、東京動画で『宇宙戦艦ヤマトIII総集編 太陽系の破滅』を製作。
    • 1984年(昭和59年) – 10月12日付『報知新聞』で「ヤマト復活3ヵ年計画」を発表。その内容は、1985年『宇宙帆船スターシップ』(後の『オーディーン 光子帆船スターライト』)、1986年『DESLAR’S WAR I 戦艦スターシャ』、1987年『宇宙戦艦ヤマト誕生篇』を公開するというもの。
    • 1994年(平成6年) – 2月、バンダイビジュアルよりビデオ『宇宙戦艦ヤマト胎動篇 -ヤマト!!わが心の不滅の艦』発売。映画『宇宙戦艦ヤマト 復活編』とOVA『YAMATO2520』のメイキングプロモーション。
    • 1995年(平成7年) – 2月『YAMATO2520』のVol.1を発売開始。1996年8月発売のVol.3を最後に未完に終わる。
    • 1996年(平成8年) – 『海のトリトン』『ワンサくん』『宇宙戦艦ヤマト』『宇宙空母ブルーノア』などの著作権などを対象とする譲渡契約を東北新社と締結。
    • 1997年(平成9年) – 『宇宙戦艦ヤマト』などの商標権を長男に移転登録。
    • 1998年(平成10年) – 『宇宙戦艦ヤマト』などの著作権などにつき東北新社と西崎・ウエストケープコーポレーションの破産管財人が譲渡契約の履行を選択する。
    • 1999年(平成11年)
    『宇宙戦艦ヤマト』などの商標権移転につき、破産管財人が抹消を求めて提訴。東北新社の許諾によりバンダイおよびバンダイビジュアルが製作したプレイステーション用ソフト『宇宙戦艦ヤマト 遙かなる星イスカンダル』および『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の複製・譲渡・貸与の禁止および損害賠償を求めて、西崎が東北新社、バンダイ、バンダイビジュアルを提訴。
    『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者が、松本零士であることの確認を求めて、松本が西崎を提訴。
    『宇宙戦艦ヤマト』の著作権などにつき東北新社と西崎・ウエストケープコーポレーションの破産管財人の間で譲渡代金の支払の司法和解が成立。著作権者は東北新社であることが確定。
    『宇宙戦艦ヤマト』などの商標権移転取消請求事件に東北新社が参加。
    『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者が、西崎であることの確認を求めて、西崎が松本零士に反訴。
    『宇宙戦艦ヤマト』などの商標権移転登録抹消の判決。
    プレイステーション用ソフト『宇宙戦艦ヤマト 遙かなる星イスカンダル』および『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の複製・譲渡・貸与の禁止および損害賠償の請求を棄却する判決。西崎はこれを不服として控訴。
    『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者人格権は西崎である旨の判決。松本零士は控訴。西崎も反控訴。
    西崎と東北新社、バンダイ、バンダイビジュアルの間の控訴審で和解が成立。3社は西崎に対し「『宇宙戦艦ヤマト』の原作者である旨を公表しても異議を唱えない」ことを認めた。
    『新宇宙戦艦ヤマト 復活編』の製作が養子である株式会社エナジオ社長の西崎彰司より発表される。
    • 2007年(平成19年)12月20日、総監修した「宇宙戦艦ヤマト デスラー総統ワインセット」と「宇宙戦艦ヤマト バイクヘルメット」の販売を発表して活動を再開する[39][40]
    • 2008年(平成20年)
    2月22日に発売される『宇宙戦艦ヤマト』DVD-BOXに特典の監修を担当。これに伴う形で、2月発売の『週刊プレイボーイ』(2月25日号NO.8)と『オトナファミ』の「2008 Apri」で庵野秀明との対談記事により出所後初めてマスメディアに登場した。7月31日に東京都練馬区にアニメスタジオ「ヤマト・スタジオ」を開き、2009年公開のアニメ映画『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』の製作を発表[41]

    作品リスト[編集]

    関連企業[編集]

    アニメーション・スタッフ・ルーム
    1972年、虫プロ商事に在籍したメンバーを中心に設立。同年『海のトリトン』を製作。
    オフィス・アカデミー
    1963年10月に設立。1972年に社長就任。1979年、2億7000万円の申告漏れが発覚[42]。1982年夏に整理[6]
    ウエスト・ケープ・コーポレーション
    1977年12月9日に設立し[43]、1982年以降はオフィス・アカデミーに代わって西崎の活動の拠点となり、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの音楽などの著作権管理や出版物販売、アニメ映画の企画・制作などを行った[6][28]
    アニメ制作に加えて洋画の輸入と配給を行った他[44]、1989年3月、アニメ映画化した『超神伝説うろつき童子』を松竹富士とともに配給。
    1997年9月16日、会社および西崎個人に東京地方裁判所より破産が宣告される。負債額は48億3133万円。原因は不動産購入による借入金負担と新作の売上不振と報じられた[28][45]
    アカデミー製作→東京動画
    1979年、『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』『宇宙空母ブルーノア』を製作。途中で「東京動画」に名を変えて、『メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行』『宇宙戦艦ヤマトIII』を製作したほか、東映本社の下請けとして『宇宙大帝ゴッドシグマ』『百獣王ゴライオン』の実制作も行った。1983年解散[46]
    ジャパン・オーディオ・ビジュアル・ネットワーク
    1984年11月設立。ウエスト・ケープ・コーポレーション、日本コロムビアを筆頭株主に、バンダイ松竹徳間書店社長徳間康快が出資。代表取締役を務める。
    映画の製作、ビデオの製作・販売を行う。1987年、オリジナルビデオアニメ『超神伝説うろつき童子』を製作。1988年、倒産した大手ビデオレンタルチェーン童夢の営業を引き継ぐ。
    1991年6月27日、東京地方裁判所に特別清算を申し立て、倒産。負債総額は約77億円。日本コロムビアが資金を引き上げたことが原因。レンタルビデオショップとカラオケボックスへの投資で資金繰りが悪化していた[47]

    不祥事[編集]

    1997年12月2日、東京都渋谷区宮下公園前の路上で運転していた乗用車から、覚醒剤50グラム、ヘロイン6グラム、大麻8グラムが発見され、覚せい剤取締法などの違反容疑で警視庁渋谷署に逮捕された[48]

    覚せい剤取締法等違反で起訴されて、1998年6月に一審で懲役2年8月の実刑判決を受ける[49]。西崎側は判決を不服として控訴1999年1月21日、控訴棄却、西崎側は上告[要出典]

    1999年2月1日、警視庁銃器対策課と静岡県警により、銃砲刀剣類所持等取締法火薬類取締法、覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕される。容疑は、自宅のワゴン車に擲弾発射器付き自動小銃、小銃用実弾を約1800発、擲弾を約30発、覚せい剤20グラムを所持していたというもの[50][51]。続けて5月12日には自動小銃の密輸容疑で再逮捕[52][53]。西崎が所有するイギリス船籍の外洋クルーザーオーシャンナイン号へこれらを隠していたが、清水港ドックに入れる際に隠すため、自宅に移し替えていたとみられる。健康上の理由での保釈中の犯行だった。取り調べに対して、海賊対策のために10年前に香港で購入したと供述したが、警察は武器の密輸と転売で利益を得ようとしたのではないかとみていた[54]。この事件の公判でフィリピン海域に出没する海賊対策のためと、同船で尖閣諸島へ上陸した石原慎太郎を警護する必要から、フィリピン沿岸警備隊の司令官から購入したと主張するも[55]「正当化する余地は全くない」と2001年の東京高裁判決で否定される。[要出典]

    1999年6月9日、覚せい剤取締法等違反事件は最高裁で上告棄却、懲役2年8月が確定[56]2002年、刑期満了により出所。[要出典]

    2000年10月25日、銃砲刀剣類所持等取締法・覚せい剤取締法・火薬類取締法・関税法違反事件の一審で懲役5年6月の実刑判決を受ける[57]。西崎は不服として控訴。2001年9月18日、控訴棄却[要出典]。西崎は不服として上告。2003年2月20日、上告棄却。懲役5年6月が確定し収監[35]

    2007年12月19日、刑期を終えて出所[41]

    元神戸市郵便局員が毎日6万円稼いでる副業は事実だが

    元神戸市郵便局員の方が副業で毎日6万円稼ぐノウハウ。は事実だが、誰もが稼げるわけではない。が、
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    小さな天才起業家あらわる。何でもします!ではなく、やることを絞るとこんなに楽して簡単儲かる!福岡・阿比留会計事務所の軌跡

    10/31福岡で以下の天才招いてセミナー交流会します!

    ■参加できない方に動画⇒ 
    http://bit.ly/1MakO2x
    ■フェイスブックは https://www.facebook.com/events/918603571558962/

    ■天才起業家に会いました。
    先日、起業して6年目の税理士35才と2時間面談。
    所長+2名の正職員+2名のパートで年商5000万円。

    大学在学中に会計士2次試験合格。
    大手監査法人と地銀本店にスカウト経て28歳で独立。

    「いかに楽して仕事せずに生きるか」

    6年前に出逢った2冊の本の通りに実験。

    ※教材も買ってない。セミナーも出てない。本だけ。

    ・地域は30分以内のみ。
    ・客層はOOとOOのみ。しかもOOとOO時の。
    ・営業はOOOOからの紹介。
    ・合わない客は断る。
    ・合わない仕事も断る。
    ・高度なコンサル的仕事も受けない。

    業種を絞った結果、営業から会計処理までマニュアル化。
    2年前からノウハウとソフトを250万で同業へ販売。
    販売代理店経由でもうすぐ100の会計事務所へ導入。

    会計業務の簡素化と実質ダンピング行為に
    同業大手のTKC全国会会長が会報で批判するほど
    驚くべき急成長を遂げている。

    が、19時には全員が退社し、土日も完全に休む。
    自分の福岡事務所は拡大思考がない。

    天才新人類のユルい成功パターン?

    「業種を絞る。地域も絞る。と先輩税理士に言うと
     ほぼ全員が反対か、理解不能という顔でした」

    すでに手広い業種を相手にしてる先発同業は無理。
    絞ると売上が減るし、OOOやOOは顧問料安い。
    ダサいし儲からない。と士業は無視する業種。

    という、素晴らしいニッチ市場を見つけたんです。
    OOとOOの本2冊を参考に。
    名付けて「ハイブリッドOOOO」

    いや、見つけただけでなく、実行したんですね。
    その成功マニュアルとソフトまで作成して販売。

    行動努力は肉食ですが、知性は極めて理系。

    とにかくスゴい。これは士業だけでなく、他業界でも充分応用できる。
    皆へ知らせたいと、セミナーを企画しました。














    これは士業向けノウハウ公開セミナーの告知



    ラジオ出演・1分後に自由でロックに登場!



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    ■阿比留一裕・税理士法人阿比留会計事務所 代表社員・公認会計士・税理士・2002年大阪大学経済学部在学中に公認会計士2次試験に合格。中央青山監査法人(当時)、福岡銀行の本部部門勤務を経て、2009年、税理士法人を設立し独立開業。2010年にそれまでの数十億円、数百億円という企業規模から一転、個人事業の美容業・飲食業に特化した税務サービスを展開し、年間30〜40件の新規獲得を継続している。この成功ノウハウをパッケージ化。高額ながら、わずか3年で全国100ヶ所弱の会計事務所が導入。以下導入先は8ヶ月で60件の顧問先獲得。
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    彼は、6月に会った静岡の講演参加者から聞きました。「福岡にスゴい税理士がいますよ」と。検索で彼のセミナー案内見ると、こりゃほとんどOO。FB個別メッセージ送ると、即、意気投合して彼のオフィスへ訪問。彼がやった戦略の基本はよく知ってる。勉強オタクには「あー、知ってます」レベルの陳腐なノウハウ。が、実際に行動する人は1%もいない。さらにカタチにして、パートでも処理できる作業にし、さらにさらに、新規顧客も自動的に舞い込んで来る仕組みにまで構築。そう。驚くべきは作業のノウハウ修得のため、熟練作業員の動作をビデオに撮り、それをパートに見せてノウハウ化。どこかで聞いた話。そう、世界初の経営コンサルタントと云われるテーラーが実施した科学的管理法だ。を、実際にやってるよ。当時28歳で。約2時間、話を聞いた私はひどく疲れた。打ちのめされた。そういうことだよ。本で間に合う。セミナーや教材やコンサルは不要。彼はM&Aのスペシャリストでもあるが、「ノウハウは本に出てますから」。そう。40万円で売られてるマーケティング教材は、1800円の本をDVDにしただけ。今回の戦略教材は200万で売られてる。自己啓発系も同じ。1500円の1冊で充分。教材やセミナーやコンサルオタクはカモ。で、彼は無名です。地元では。知られてない。が、6年で普通の5倍以上の実績。でも見えない。イイ戦略は見えない。

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    ■参加できない方に動画 http://bit.ly/1MakO2x
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    ■日時:10/31(土)14時〜17時 ※終了後、有志で軽く一杯
    ■場所:福岡市中央区天神3-4-10西茂ビル6階(1階ローソン)
        地図は http://bit.ly/1GTszCq
    ■料金:5500円 当日会場で
    ※会場の都合で先着20名です。
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    ■以下は「本人」のブログから抜粋

    年に何回か、マジメになる瞬間が訪れる税理士・公認会計士の阿比留です。こんにちは。

    今、サンマルクカフェでチョコクロを食べているまさにこの瞬間、マジメスイッチが入りました。

    スイッチが入ったところで、ふと気付いたんですよ。

    「うちの事務所の経営戦略ってどうなってるの?」

    という話。

    ここでひとつ、「うちの事務所の経営戦略」について簡単にまとめてみたいなと思います。

    【1.ハイブリッド戦略】

    うちの事務所の経営戦略は

    「ランチェスター+ブルーオーシャン」

    のハイブリッド戦略です。

    「何を言っているんだ!!??」

    となりますよね。

    ランチェスター戦略は、ザックリ言ってしまえば「弱者ってのは ”何でもやります” って言っても強者には勝てないんだから、一点集中してそこだけは強者に勝てるようにしろ」みたいな感じの経営戦略です。

    なので、うちの事務所は忠実にランチェスター戦略を具現化しておりまして、


    ・事務所から移動時間30分以内

    ・美容室と飲食店

    ・新規開業〜開業直後


    に狙いを定めています。


    それからブルーオーシャン戦略は、こちらもザックリ言ってしまえば「サービス内容の取捨選択をして付加価値を組み替えて、全く新しいマーケットを切り拓く」みたいな感じの経営戦略です。

    これまたうちの事務所は忠実にブルーオーシャン戦略を具現化しておりまして、新規開業の美容室や飲食店で困っていることにフォーカスしたサービス内容にしています。

    逆に、新規開業の美容室や飲食店ではこれは不要だろう、という過剰なサービスをやめることで、低価格を実現しています。

    特に新規開業の美容室や飲食店では、まだ売上が安定していないので、税理士に高い顧問料を払うのはちょっとキツイと。

    なので、”低価格”の実現は、ぜったいに必要なことになります。


    ここで、 ”安売り” ではなく ”低価格” というのがポイントです。


    うちの場合、できあがりの顧問料は個人事業なら年間22万円、法人でも32万円くらいなので、普通の事務所からしたら「そんな安売りなんて」というレベルです。

    が、うちの場合は圧倒的に業務を効率化しているので、この顧問料で全然OKです。

    全然OKどころか、正社員1人あたり売上に換算するとだいたい年間1100〜1200万円くらいになりますので、普通の事務所の1.3〜1.5倍くらいの生産性になっています。


    それでも平日はだいたい18時〜19時に帰って、土日は普通に休む感じです。

    そこまでの仕組化・組織化を徹底してやっています。


    【2.数値目標】

    そんなうちの事務所の数値目標はこんな感じです。

    ・福岡市中心地の天神、大名、今泉近辺には美容室が約400件、飲食店が約2200件ある

    ・これのシェア30%(件数で言うと800件)をとってその分野でNo1になる

    ・そのときの事務所の売上は約2億円、人数は税理士が4人、正社員が10人、パートが30人+α

    ・福岡県内の税理士事務所で、トップグループの末席くらいに入る
    (業界の人から、「ああ、あの事務所ね。 なんかそれなりに頑張ってるんじゃない?」と言われるくらいのポジション)

    ・これを2020年までに
    (根拠は無いです。自分が40歳になるのが2020年というだけです。)

    これがうちの事務所自体に対する数値目標です。

    そういうわけで、仕事とプライベートを両立しながら、この目標を一緒に追いかけてくれる正社員を1人、募集していますよ、という話です。

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    参加できない方に動画⇒ http://bit.ly/1MakO2x
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    ■日時:10/31(土)14時〜17時 ※終了後、有志で軽く一杯
    ■場所:福岡市中央区天神3-4-10西茂ビル6階(1階ローソン)
        地図は http://bit.ly/1GTszCq
    ■料金:5500円 当日会場で
    ※会場の都合で先着20名です。
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    フェイスブックは 
    https://www.facebook.com/events/918603571558962/
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    ■主催・事務局・栢野克己(かやのかつみ)







    【人生は逆転できる!】講演家・作家・天職コーチ・過激派・コンサル・旅人。「悲惨な半生」経て、人生逆転を目指すバカ社長向けに日本・アジアで講演1000回


    ■著書は累計17万部・新刊「35歳から一生負けない生き方」「弱者の戦略」「やずやの秘密」「小さな会社★儲けのルール」「大逆転!バカ社長」はアマゾン<中小企業経営>で10年間ベストテンのロングセラー■セミナー交流会「ベンチャー大学」「経営人生計画」「早朝サロン」他20年1000回開催。人生成功の法則<夢戦感>で人生逆転を応援。■2007年に家族で世界一周(24カ国)を実現!■現在57カ国→死ぬまでに世界200ヵ国渡航が夢。必ずやる!

    ◆福岡市出身。百道中学・小倉西高・立命館大学卒・ヤマハ発動機・リクルート・IBMリース・ベンチャーと転職失敗後に東京で無料職業相談業は半年で廃業。出版社のバイト経て、実家が他人の借金1億円かぶったので帰郷。7社目は地場広告代理店アド通信社で広告営業。同時にセミナー交流会「九州ベンチャー大学」開始。実家売却・親自殺。残債弁済のために8社目は広告代理店で独立。借金完済。本と講演に天職を見出し、2003年〜は講演家・作家・天職コーチ。

    参加お申し込み参加お申し込みは

    メールはkaya@hf.rim.or.jp 


    栢野克己(かやのかつみ) ■日本一過激な小企業コンサル・講演家。計15万部の著書「弱者の戦略」「小さな会社★儲けのルール」「逆転バカ社長:天職発見の人生マニュアル」はアマゾン<中小企業経営>ジャンルで7年300週〜現在までベストセラー第1位〜5位。台湾(中国語)・韓国・タイ・インドネシアでも出版。零細企業☆人生逆転の事例講演・執筆・勉強会主催の(株)インタークロス代表取締役。主催のセミナー交流会「九州ベンチャー大学」や「経営人生計画セミナー」「やる気会」「早朝マーケ会」「個別相談会」は17年1000回を越え、累計で約1万人参加。全国+アジアで年間講演約100回+勉強会100回が自主ノルマ。2006年〜2007年に家族で1年間の世界一周を実現!夢は全世界で1000万部の著書+世界200ヶ国渡航 ■福岡県立城南高校+小倉西高校は裏口入学・立命館大学卒。新卒入社のヤマハ発動機を9ヶ月でノイローゼ退社、バイトのリクルートは3年弱で正社員試験落第。失意と復讐を誓い、大阪のIBMリースへ転職するが、またも仕事失敗+ウツ+婚約破棄+自殺未遂で退社。東京へ逃げ、半年失業後チラシ宅配ベンチャーへ転職。しかし、そこも詐欺的FC会社でまたも転職に失敗。もはや「同級生に勝つには独立しかない」と決意し、様々なセミナーや交流会に参加後に「無料職業相談業」で起業。しかし、半年で金がなくなり、出版社:ビジネス社でテープ起こしのバイトをするも先の人生が見えない。そんな92年実家が他人の連帯保証1億円かぶり博多へUターン。6度目の転職で広告代理店へ。同時にビジネス交流会「九州ベンチャー大学」立ち上げ。 95年、借金返済のため2度目の起業。97年完済するも実家失い親は自殺。2002年〜今までの人生への復讐スタート。お楽しみはコレからだ。公式HPも参考に。 ■インタークロス ■九州ベンチャー大学 代表・雑談担当 栢野克己/カヤノカツミ 〒810-0073福岡市中央区舞鶴2-7-21-803 電 話 092-781-5252  携 帯 090-3604-6735 FAX 092-781-5354 メールkaya@hf.rim.or.jp
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