【人生は逆転できる!】小企業コンサル・講演家の天職ブログ

講演家・作家・雑談相手。著書は「やずやの秘密」「弱者の戦略」「小さな会社★儲けのルール」「逆転!バカ社長」「35歳から一生負けない生き方」。22年で約1000回の人生経営勉強会「ベンチャー大学」「経営人生計画セミナー」毎月開催。人生の成功は<夢×戦略×感謝>をモットーに、弱者の独立起業・経営アドバイス・講演・執筆・コンサル・勉強会・個別相談会を実施。2007年に家族で1年間の世界一周を実現!

ルサンチマン

在日天才打者「張本勲」の壮絶「被爆」体験

被爆者「張本勲」在日天才打者の人生
天才と言うより壮絶体験ハングリー!
http://shinsho.shueisha.co.jp/column/zainichi2/001/
取材日/二〇一三年四月八日
出生地/広島県広島市
現住所/東京都
生年月日/一九四〇年六月一九日
略歴/広島で四人兄弟の末っ子として生まれる。一九四五年八月、原爆が投下され、最愛の姉を亡くす。四歳の時に大やけどを負い、以降右手が不自由になるも不屈の努力と抜群の運動神経で野球選手として大成していく。五八年、松本商高から浪華商業高校を経て東映フライヤーズに入団。一年目に新人王、六一年には初の首位打者、六二年にはパリーグの最優秀選手賞に輝く。七〇年には当時のシーズン最高打率となる三割八分三厘四毛を記録。その後、讀賣ジャイアンツ、ロッテオリオンズに移籍し、八一年に引退するまでに七回の首位打者と通算三〇八五本安打(日本プロ野球公式記録歴代一位)を達成する。
取材者/木村元彦
WEB掲載日/二〇一四年四月八日

生い立ち

 私の両親の家は朝鮮半島の慶尚南道昌寧郡というところで農業をやっていました。しかし、日本の植民地時代に土地から何から全部取られてしまい、もう食えないということから一九三九年頃に日本に来ました。
 うちの親父の弟、つまり叔父が先に知人を頼って広島に来て古道具屋を始めていたので、父はそれを追って来たんですね。あの頃は電話も電報もない時代ですから父は叔父と時間をかけて手紙でのやり取りをしていたみたいです。その手紙が残っていましてね。うちの親父はなかなか筆達者だったようです。 しかし、字は上手いのですがもうとにかく酒癖が悪かった。すぐに手を上げるわ、博打でしょっちゅう負けて帰って来るわで、私の母は随分苦労したといいます。だから私は博打が大嫌いで一切やりません。
 両親は兄貴と二人の姉、計三人の子どもの手を引っ張って日本に来たそうです。私は来日して一年半後の一九四〇年に広島の大州というところで生まれました。それが大体の生い立ちです。父親は生活のめどがある程度立つと、日本で暮らすための最終的な段取りをつけるために韓国に一度戻りました。少ないながらの財産を処分したり、親への挨拶まわりなどをしたのでしょう。ところが、魚の骨が咽に刺さってそこで急死してしまいます。 一家の大黒柱を失ってしまい、母は途方にくれたと思います。

やけど、そして被曝体験

 あれは四歳の時です。土手で焚き火をしてサツマイモが焼けるのを待っていたら、後ろから、トラックが突っ込んで来ました。そのまま倒され、大やけどを負いました。火の中に突き飛ばされたので胸から顔から真っ赤に焼かれてしまったんです。小指と薬指は燃えてしまい、残った指も二本、今でもくっついたままです。トラックの運転手は家まで連れて行ってくれましたが、そこから姿を消してしまいました。逃げたんですね。うちの叔父さんがたまりかねて交番へ行って、犯人を捜してくれ、せめて治療費を取りたいと言うと、そんなもん分からん、お前ら朝鮮人だろう、帰れと言われたそうです。うちの叔父さんはとてもおとなしい人でしたが、その人が震えながら泣いてあのときは本当に悔しかったと、私が中学校の時に語ってくれたことがありました。
 原爆の投下された八月六日のことは鮮明に覚えています。五歳でした。近所の子たちと遊ぼうと思って、三畳一間が連なる長屋の戸をガラッと開けて表に出た途端、ピカーっと光ってドーンと物凄い音がしたんです。気がついた時は真っ赤な色が目の前にありました。よく見るとそれはお袋の血でした。ガラスの破片で胸を切りながらも私と姉(下)を庇って覆い被さってくれていたんです。私たちの家は裏に比治山という海抜七二メートルの山があってそれで助かったんです。爆心地から直線距離にしたら一キロもないんですが、家が山の真裏だったから、光と熱が遮られて私たちの長屋だけが助かった。振動はあったし、バラックだから倒れましたが、死の灰は吸わずに済んだのです。
 それから下の姉に手を引かれて、五、六〇メートル先のぶどう畑に逃げて行ったら、もうすでに何十人も避難して来た人達がいました。そこで見たのはまさに地獄絵でした。うめき声、焼けた人肉の臭い、それと絶叫。怖かったのは、私の目の前を人がダーっと走って行って近くのドブ川に飛び込むんです。熱くて苦しくてたまらず、とにかく水が欲しいんですね。でも飛び込んだ人はみなそこで亡くなってしまいました。
 原爆が落とされてから二日後のことです。避難していたぶどう畑に、負傷した上の姉が担架で運ばれて来ました。赤十字の人が「張本さーん、どこですか?」って大きな声で呼ぶから、慌てて家族は立ち上がりました。担架に駆け寄ると、姉は全身がケロイドで覆われて見るも無残な姿でした。顔を見てもこれが姉ちゃんなのかと分からなかったほどで、家族もようやく名札で確認できたと言います。私にとっては自慢の姉でした。色白で背が高くて優しくて、いつも友達から「勲ちゃんはええのう、綺麗なお姉ちゃんがいて」って言われていたものです。
 その姉が痛い、熱いと一晩中……うめいていました。お袋は二晩中泣いていました。
 私が物心ついてから兄貴に、姉は正確にはいつ亡くなったのかと聞くと、運ばれてきた翌朝もの凄く大きな声で……お袋が泣いたらしいですわ……、その時じゃないかと……。
 韓国の文化なんですね。お袋は姉の髪の毛一つも残さないんです。日本では形見として親族が遺品を全部残すじゃないですか。ところがお袋は全部焼き捨ててしまった。私と兄貴が姉さんの小さな写真を持っていたのですが、それも取り上げられて燃やされてしまいましたよ。悲しい記憶をもう二度と思い出したくないのでしょうね。お墓はありますよ。お袋いわく、お姉ちゃんは一〇歳くらいでなくなったけどここには魂が入っているからと。私も年に何回か墓参りに行きます。
 しかし、原爆資料館には戦後にできてから一度たりとも行けませんでした。悔しくて悲しくて怖くて、足を向けることができなかったんです。でもある出会いがあったんです。あるとき、連載していた毎日新聞のコラムで「八月六日と九日は暦から失くして欲しい、来る度に原爆を思い出すから」と書いたんですよ。そうしたら大分県の小学六年生の女の子が手紙をくれたのです。「張本さん、それは逆じゃないですか」と。「私たちの世代は戦争を知りません。このままではその悲惨さを伝える人がいなくなってしまいます。私たちの下の世代の子どもたちのためにも張本さんの真実を伝えて下さい」と書かれていてね。ビックリしましたよ。六年生の子に六〇歳の俺が何を言われているんだと思ってね。
 私は資料館の近くまで行ったことはあるんです。でも手が震えて汗があふれ出て来て、辛抱たまらず引き返してしまった。それで女の子に言われて、はっとしました。その子は長崎の資料館に行って衝撃を受けたそうで、核兵器の恐ろしさを前に何とかしなくてはいけないと思ったのでしょうね。小学生が勇気を出して向き合っているのに、俺は何をしているんだ、よしと決意して行きました。二〇〇七年の四月四日でした。行く前には親族の眠るお墓に寄って、今から見てくるよと報告をしたものです。館内はもう涙なくては見られませんでした。五歳の時の記憶が蘇るんです。私は愛する姉を取られているから余計身に沁みて、資料館を出るまで涙が止まらなかった。見るも無惨です。この世の人間がやる所業じゃないと思います。
 原爆を投下した方はいろんな理由を言いますよ。これ以上やるともっと戦争の犠牲者が増えたとかね。しかし、それで一般市民を殺すという理屈はおかしいです。そういうことで、私はもう核に関しては震えるほど反対しているんです。核廃絶のアピールにも賛同しています。アメリカはじめ大国は無条件で核を放棄して欲しいですね。良い悪いは政治の問題だから私にはよくわからないんだけど、とにかく核を持って、何の罪もない無垢の少女・少年を殺傷するのは人間の仕業じゃない。
 その後、原爆資料館の入場券の半券の裏に「ありがとう、君に背中を押されて行ってきましたよ」と書いて毎日新聞を通して女の子に渡しました。

戦後

 終戦の八月十五日の玉音放送は家にラジオが無くて、後で録音で聞きました。お袋は日本語もできないし、私たちを連れて朝鮮半島に帰ろうかと考えたようです。実際に航行しているヤミ船の乗り場まで行ったのですが、定員いっぱいで乗れず、そうこうしているうちにそのヤミ船が下関沖で転覆する事件なんかがあって断念したそうです。住む家が無く、仕事も無く、それでも親子四人で生きていかないといけない。父方の親戚がやはり広島にいて鉄を造る仕事をしていたのでお袋はそこにお金を借りに行ったりもしたそうです。そして広島・東大橋の土手の下にあった六畳一間にトタン屋根を付けただけの小屋を借りてホルモン焼きの店を始めるわけです。肉はヤミ市で仕入れて、お酒は近所の同胞から分けてもらった密造のどぶろく、マッコリです。警察に見つかったら捕まるのですが、それでも安いからそこで買うわけです。リンゴ箱をひっくり返し、布を被せてテーブルにして、そこでキムチとか自分が作ったナムルとかを出して、大工とか工員さんを相手に商売していました。店も住む場所も六畳の中ですから、学校から家に帰るといつもお客さんがいました。お袋は朝から夜中までいつもずっと働き通しでしたから、私は寝ている姿を見たことがありませんでした。母は日本の文字が分からないので、肉や酒の注文を受けると墨で壁に棒で印を付けて数字を記録して、それでお勘定を正確にもらっていたんですね。
 家では、お袋はほとんど朝鮮語でした。だから私も朝鮮語の単語は今でも大体覚えています。韓国人としての誇りを持ったのは間違いなくお袋の影響ですね。私は小学校のときに差別に二回出くわしました。一回目は六年生の時に、教室の掃除を三人くらいでサボったんですね。三人で休んだんですが、担任の先生は私だけをターゲットにして殴る、蹴ると酷い仕打ちをしたんです。顔がメチャクチャに腫れました。三歳上の姉がそれを見て泣いて、あんたが朝鮮人だから、あんた一人が殴られたのよと言うんです。その時はあまりピンとこなかったんです。それが二回目は、朝鮮人の友達が教室で大勢の同級生にものすごく叩かれるのを見たんです。スリッパを口にくわえさせられた上、馬乗りになられて殴られていたんです。何をしてるんだと聞いたら、いや、こいつは朝鮮人だからだと言うんですね。私はぶっとばして止めさせました。そして家帰ってお袋に聞いたんですよ。「お袋、朝鮮人て言うたらそんなにダメな人間なんか?」って。そしたら、生まれて初めてお袋の怒った顔を見ました。
 座りなさい、言われてね。今でもはっきり覚えていますよ。そうじゃないんだ、よく聞きなさい、人間は平等だ。我々の民族は決して劣った民族じゃない。韓国はむしろ歴史がある国で日本にいろんな文化を伝えた国なんだと言われた時には、子ども心にはっとしました。お袋は異国の地で子どもを三人抱えて字もわからない言葉もわからない、家もない、収入はない、どうやって生きて行こうと思ったことでしょう。でも強いんですね。広島駅の裏が闇市やったから、あそこへ買出しに行くんですよ。バスで行くと片道20分位。歩くと片道一時間くらいかかったそうです。でもバス代の十五円が惜しくて雪の日も、風の日も雨の日も歩いて通った。暑い時には喉が乾くじゃないですか。ラムネとかみかん水が五円だったそうで、普通買って飲みますね。でもお袋は飲まない。あの頃はみんな共同水道が多かったんですが、その水道の水、夏だからぬるいんですが、それで喉濡らして帰って来ていた。それは、隣のおばさんから聞いたんですよ。乱暴者の私がいたずらするとおばさんにパチーンと殴られたものです。勲ちゃん何をしてるの、お母さんがどんな苦労してあんたを育てているのか分かっているのって言われました。私はお袋が四〇歳のときの子ですからね。十八でプロ野球入った時は、お袋は五八です。親孝行をする時間がものすごく短かった。それを唯一私は後悔してるんですよ。プロ野球で稼げるようになってから仕送りをしてもお袋は一銭も使わないんです。お袋は誇りを持っていて生涯、自分が韓国人であることを一切、隠そうとしませんでした。日本にいるから日本の洋服を着たらどうですかと何十回も言っても、自分には似合わないから、と言ってずっとチョゴリを着ていました。だから川崎球場で私が三〇〇〇本安打を打ったときもグラウンドでチョゴリ姿で写真にも映っています。
 兄貴は中学を卒業して、十六歳になるともう流しのタクシーの見習いに行っていました。十八にならないと免許は取れないけど、もう家族の生活のことを考えていたんです。私が甲子園に行くために大阪の名門浪商高校で野球をやりたいと言い出したら、兄貴はそんな金が家のどこにある、と怒りながらも高校の監督に相談してくれたんです。そうしたら、勲は必ず化けるから野球をできれば続けさせてやって欲しいと言われたそうです。兄貴はその言葉をひたすら信じて生活が苦しいにもかかわらず大阪に送りだしてくれました。不眠不休でタクシーの運転手をして仕送りをしてくれたんですね。当時タクシーのひと月の稼ぎが一万八千円、そこから一万円を送ってくれたんです。私が十七歳で兄貴が二十七歳のとき。若い男にすれば一番遊びたい年頃ですよ。でも我慢してそんなふうに面倒を見てくれたんです。私は絶対にプロ野球に入って恩返しをするんだと決意して、厳しい練習に励んでいました。貧しさから抜け出すには野球しかなったんですね。
 ところが、そんな思いで通った浪商野球部ですが、朝鮮人と言うことでまた私一人だけ外される事件が起きました。下級生を部室で制裁するという事件が起こって、それが高野連の知るところになったんです。そうしたら野球部の部長というのが悪い男で、下級生への暴力は張本一人がふるったことでチームは悪くありません、という報告書を提出したんです。そんな事実は全くないのですが、高野連は調べもしないで私一人に責任を取らせました。部長の行状については当時のコーチが後になって教えてくれたんです。部長がはっきり、チームを守る、俺は朝鮮人が嫌いなんやからと言ったそうです。その事件の三、四年前にも陸上部の韓国籍の選手にも同じことをして悪者にしたそうです。私は自分に対する大きな差別をここで経験しました。そのことで三年生の予選が始まる最も大切な時期に出場停止処分を受けて、甲子園への道が閉ざされてしまったんです。もう死のうと思いました。家族が貧しい暮らしの中で自分たちを犠牲にして大阪に送り出してくれたのに、こんなことではプロ野球に入れない。淀川をランニングしていても涙が止まらず、生きていてもしょうがないと思って死を決意したんです。電車に飛び込もうとしました。そうすると、どこかで母親の「勲ちゃん」って言う声が聞こえたんです。
 それで思い留まりました。
 私は公式戦に出られなくて自暴自棄になりかけるんですが、そこからまた野球に救われたんですよ。民団(在日本大韓民国居留民団)の方で在日の高校球児でチームを作って韓国へ遠征するということになって、声がかかったんです。私はまた野球ができる喜びでいっぱいになって、広島に手紙で知らせました。するとお袋は大反対するんです。絶対ダメだと、近所の人が、勲ちゃんが韓国へ行ったら兵隊に取られて帰って来られないと散々吹いているわけですよ。そうじゃないと、説得するのが大変だったわけですが、無事に韓国へ行くことができました。いろんな所を回りましたよ。ソウルだけではなく太田、釜山、光州も全部行きました。向こうは野球は後進国だから十五試合やって十四勝一引き分けでした。しかし、歓迎はもうすごかったですね。その時は本当に自分はこの民族で良かったなと思いました。

プロ野球へ

 甲子園には行けなかったのですが、韓国遠征から帰ると多くのプロ球団がスカウトに来てくれました。残念ながら希望の巨人は来てくれませんでした。東京で活躍したかった私は東映フライヤーズと契約しました。契約金は二〇〇万円でした。ところが、それを持って帰ってお袋に見せたらまた心配するんです。お前、これは何か悪いことして手に入れたんじゃないかと。私は契約金の中から上京費用の一〇万円だけ取って、残りを全部兄貴に預けました。三年間本当にお世話になりました、これで家を建てて下さい、と伝えると兄貴はそれで市内に家を建てました。今までがトタン屋根の住処でしたから、御殿のように思えたものです。
 東映に入団する際には私が韓国籍であることが問題視されました。当時は一球団に外国籍選手は三人までと決められていたんですね。すでに球団には三人いてオーバーしてしまう。オーナーの大川博社長は、良かったらうちに養子に来るかたちで帰化したらどうか、契約金もたくさん出すからということを提案されました。それでお袋に相談したら、とんでもないと怒られました。そんなことをするなら、もう野球なんかやめなさい、兄ちゃんとタクシーかダンプに乗って私を助けなさいって。東京に帰って大川オーナーにそれを伝えたら「偉い」と言われました。「お前のお袋は偉い」って、その上で大川さんはプロ野球連盟に外国人規約の改定を進言されるんですね。そしてそれ以降、一九四五年以前に日本で生まれた者は日本人と見なすとなって枠が広がったんです。私のために規約を変えてくれたんです。
 レスラーの力道山さんとは私が一九歳のときに初めてお会いしました。東映に入って二年めでした。うちの後援会の方が在日で、力さんと仲良くされていてそれで紹介されたんです。会ったのは銀座の焼き肉屋だったんですが、分厚い手で握手してくれてカッコ良かったです。力さんが同胞であるということはその後援会長に聞きました。北朝鮮から十八歳で日本に来てちょんまげ結って苦労したんだと。自分はどうせ朝鮮から来たから大関、横綱にはなれないんだ、それならもう自分でちょんまげ切ってやるって言うて、レスラーになったそうです。私はオフになると自分からしょっちゅう電話を入れていました。力さん、遊びに行きたいですと言うと、食事に一杯にと、よくかわいがってもらいました。力さんが持っている力アパートの八階にご自身の部屋があるんですが、そこにあるとき行ったら、ちょうど在日の音楽家の人がいたんです。力さんはそこでメイドさんが入ってこないように部屋に鍵をかけてラジオをいじるんです。そうしたら朝鮮の放送局から音楽が流れて来ました。力さんはそれを聴いて踊るんです。私はまだ子どもでしたから、「お兄さん、そんなことせずに故郷の唄なんだから堂々と聴けばいいじゃないですか」と言ったんですね。そうしたら、いきなりあの大きな手で殴られたんですよ。痛くて痛くて。「貴様に何がわかるか、ワシらの時代は虫けらみたいに扱われたんだ」と。「だって何も……」と言うと「やかましい、黙れ」と言われてね。俺が韓国・朝鮮人だと言うと世界中のファンががっかりするんじゃないかと言うんですよ。だからこのまま日本人で押し通していくんだと。そんな時代ですよ。戦後まだ十五、六年しか経っていない時代でしたから。
 在日で出自を隠すというのは、今でもそういう人がたくさんいるじゃないですか。経済、芸能、スポーツ、……。私にはよく分からないですけど、それでその人が幸せなら、そっとしてあげた方が良いのかとも考えます。亡くなられた横綱の玉の海さんには二、三回会ったことがあります。あの方はご自身ではっきりと在日であると言っていましたね。
 私が二三年間プロ野球選手としてがんばれたのは、まずトタン屋根六畳一間の家で家族のために苦労している母親に楽をさせてやりたいという、その思いが出発点でした。ですから帰化に揺れたこともありましたが、自分にとって国籍はとても重要なことでした。
 在日の民族的な組織の動きが戦後直後は活発にあったのでしょうが、私はもう小学生のころから全くの野球一本でしたから、よく分からなかったです。民団・総連というのもわからないし、活動の内容もよく分からない。でも私は北の方とも南の人とも同様につき合って仲が良かったですからね。
 名球会の活動のひとつとして北朝鮮のピョンヤンへ野球を教えにいくというのを提案したこともあります。行けるなら私が行って、北の人たちと野球の素晴らしさを通して、交流が図れればすばらしいですからね。今は分断されていますが、同じ民族、いつの日か釜山からピョンヤン経由でヨーロッパに行く新幹線でも出てくれると最高ですね。そうなってもらいたいですね。
 それから六カ国協議も広島でやるべきだという意見を出したこともあります。広島には立派な会議場があるし、ホテルにも困らないから十分開催が可能です。アメリカからはオバマさんじゃなくていい、官房長官でもいいから要人たちが来てしっかり原爆資料館を見てもらって、全世界へ向けて核廃絶をPRしてもらいたいです。あれを見たら知らない人でも心打たれます。私が行った時も白人の人がワンワン泣いていました。自分たちの子孫のためにも目覚めてくれると良いのですが。
次の世代へ

 今後の東アジア情勢のニュースなんかを見てると心配ですね。竹島の問題とか、こじれていますからね。どうでしょうねぇ。
 私ら二世が元気な間に解決してくれれば良いんだけど、もう三世の子どもたちの時代ですよね。娘も今、韓国語を覚えています。今度また韓国に連れて行くんですけど、その子らの時代に託すようにと思っているんです。娘には旦那さんは日本の人でも良いから連れてこいと、そう言うとるんです。下の娘はもう日本の人と結婚しています。だから下は彼氏を紹介するときにものすごく戦々恐々としていました。絶対お父さんはあの性格だから許さないと思っていたと。ビックリしましたよ、それ聞いて(笑)。
 竹島もうちのものだ、お宅のものだとも言わないで、ちょっと難しいから、時間を掛けて解決していくしかないんじゃないでしょうか。子孫のためにちょっと顔背いて、お互いに幸せになるならそうさせてくれと。我々が幸せになるんじゃなくて、三世の彼ら彼女らが幸せになるためにね。

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1◆さだまさしに似た男。リクルート退職後に初?の民間出身で杉並区立中学校の校長で改革をし、今はどっかの大学客員教授や大阪府顧問の藤原さん。まあいわば著名人だ。事業仕分けのメンバーでもある。今日は福岡で講演。初めて聞いたが慣れているな。上から目線だが。たぶん、コイツも自分を教育界の龍馬とか思っているのだろう。レジメも何も無しでアドリブすらすら。うまい。

・20世紀は成長社会だったが21世紀は成熟社会・情報処理力から情報編集力へ・正解主義から修正主義へ・みんな一緒からそれぞれ一人一人へ・プレゼンテーションとは聴くこと・相手の頭の中にあるもので表現する・欧米は宗教で育ってきたが日本は無宗教で来た・コミュニティをいかに創るか・・etc。

ふんふんなるほど!と聴いたが、オレの心に響いたことは少なかった(というか、講演家・作家としてオレの数十倍売れているので単なるジェラシーなのだ)。藤原さんの分野が教育や日本経済全体で、こっちの小企業経営や人生逆転系のことがないからだ。東大卒でリクルート社でもずっとトップサラリーマン+退職後もエリート街道まっしぐら。本は53冊で80万部・講演は1回50万円。オレは3冊で15万部・講演は10〜30万円。懇親会で名刺を出して話したが「ふんふんガンバってねえ〜」と自分は名刺も出さず、数秒で無視された。主催者にも同じ対応をされたな。お前なんかシランよと。ま、今日の参加者は9割以上がサラリーマンで草食系。すべてがオレと正反対。こういうヤツラに負けてはならない。今に見ていろ。食い殺してやる。

しかし、今日の対応は、実はオレが普段していることだ。講演者・主催者には、参加者が群がる。会にも寄るが。名刺交換も会話も大変だ。物理的に。ついつち鼻であしらうことになる。さらに、今日の講師や主催者やオレのような性格悪いヤツは、自分がいちばんエライんやと勘違いする。参加者側として、痛烈に感じた。あ〜オレも普段、こういうサイテーな対応をしているのだと。今日は素晴らしい反面教師に出逢ったな。ルサンチマン

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◆数年前から知り合いの弥上さん。贈答用のクオカードや図書カード・テレカなどの企画制作販売で九州一「カードデザイン西日本」の社長。数人の小企業だが年商は億を越え、業界不況に関係なく好調だ。熊本の元財閥・古荘本店を経て家業に入るが食えずに派遣社員に。その後、オリコ商事に転職後、カード事業で独立。が、またも本業で食えないバイト生活時代に「逆転バカ社長」を読んでいただき、「自分の苦労や失敗なんて大したことはないと気づきました」とお役に立ったようで、以来、ベンチャー大学他へ参加。今日は「なんとなく精神的に不調で、栢野さんに会いに来ました」と。仕事は順調、家庭も幸せ、特にトラブルもない・・と傾聴ヒヤリング+他の様々な事例を巡らし、思ったことを言いました。「たぶん、現状に満足しているからです。幸せの倦怠感。夢がないんじゃないですか?仕事でも家庭でも趣味でも。以前の地獄の日々に比べると平凡で幸せな日々。だからやる気が無いかもね。何か夢を書いてますか?」。すると突然、「うわ〜その通り!!かも知れない・・いや〜間違いない。言われてみるとそうです。スグに経営計画・人生計画で夢を書いてみます。必ずやります!いや〜今日は来て良かった!最高です!」。なんで答えがわかったのか。つい先週まで、自分が似たような状況だったからです。落ち込んではいなかったですが、なんとなく物足りない。今年も有り難いことに仕事も順調だし、家庭も何の問題もない(2年のセックスレス以外はオレにとっては大問題)。なんというか、オレも弥上さんも欲がない。低い。いかんなあと、現状打破のために中国広州・深せん・香港行きを決めたのだ。暗い不況の日本でも私の廻りは元気な人が多いが、アジアは不況知らずの登り龍。8月にも北京・天津・青島・曲阜、9月はインドに行ったが、どうもアジアパワーの覚醒剤が切れたようだ。で、弥上さんは大のプロレスファン。応援しているプロレスKAIENTAI・TAKAみちのくが12/3と4に博多と熊本で試合。

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憧れだった会社

fc5afe75.JPG子会社のバイトから契約社員になった26歳人生最大の夢は、この親会社の正社員になることだった。今考えるとチンケな夢だ。今日、通り掛かるとビルが小さく見える。ザマアミヤガレ、ありがとうルサンチマン。

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8/29大阪ドラッカー 浜松三島三重インド・他 8/28「やずや」


1最初の継母、酒井容疑者の複雑な家庭環境を告白

1989年4月、新曲イベントを渋谷で行った18歳の酒井法子容疑者。愛くるしい笑顔で、実母に捨てられた悲しい過去をひた隠していた

酒井容疑者が乳飲み子で実母に捨てられていた過去が分かった。27日発売の「週刊新潮」で、最初の継母、Aさん(60)が告白した。福岡県内の暴力団幹部だった父、三根城さんは最初の妻との間に酒井容疑者をもうけた後、離婚。その後再婚したAさんによると、酒井容疑者が乳飲み子だったころ、実母は若い男性と駆け落ち。その際、酒井容疑者は三根城さんの実家である佐賀県内の寺に捨てられ、刑務所に入っていた父の妹にあたる叔母夫婦に預けられ、埼玉・狭山市で過ごした。酒井容疑者が小学校低学年になった時、再婚した父とAさんに引き取られ、福岡で成長。親子3人の暮らしが始まってまもなく男児が誕生した。それが、7月に覚せい剤使用で逮捕された酒井健被告だという。Aさんが女児を出産した時期、三根城さんが浮気をして離婚。酒井容疑者を連れて父が再々婚した女性は、今回の逃亡に同行した継母(62)だった。トップアイドルが薬物常用へとのめり込んだ背景には、複雑な家庭環境もあったのか・・。SANSPO記事より


以上が本当なら同情する(実は酒井法子が通った福岡市立舞鶴中学は息子の学校なので)。こんな環境に育ったら誰でも堕ちる。本人の責任だが本人の責任ではない。弱肉強食の芸能界で成功したのはこの出自あってのハングリールサンチマンパワーだが、その出自+環境で大失敗もした。が、今回のような地獄に堕ちても、こういう人生は大逆転できる。確実に。その方法は2つ。さて、何でしょう?浅草ロック座ではない。マジメ系の逆転方法。極めて実現可能。


唸ったメルマガ「がんばれ社長!」武沢さん

〜前略

●<松村>大いにあります。相手を喜ばせたお店が優勝するのではなく、自分たちがやるべきことをやったお店が優勝するというのは、ビジネスも仏教も原点回帰している証拠ですね。

●<武沢>私はディズニーランドが好きだが、それはディズニーのアトラクションがよく出来ているのと、いつでもどこでもサービスが均一で安心できるから。「夢と感動をもらえるからディズニーランドが好き」という人も多いが、私は過剰な演出でつくられた感動エピソードというものがどうにも受け入れられない。それが嫌でディズニーに行かないという友人も何人か知っている。

●それと同じように、レストランや居酒屋も自然体が良い。「今日は何人のお客を泣かせたか」ということをやり甲斐にしているレストランでは、連日、泣かせてほしい人の予約で一杯だというが、私はそこで食事したいとは思わない。

行きすぎた利他業、慈悲業はそろそろ卒業して、理念にもとづいたあなたならではの「八正道」を作り、自分自身を磨くことにもっと夢中になろう。

ヤラセや心理操作マーケなんかは破戒だ!


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◆7/25は長男14回目の誕生日。今の(株)インタークロス創業2週間前。事務所の押入で妻が育てた。泣いてるときは子機を持って外に飛び出したな。

こういう個別の一言メッセージみたいなヤツはやはりウレシイ。他の業界や商品でもいくらでもできるな。ほとんど見ないが。大量生産出来ないので面倒くさい。それはこちらのことで、お客は個別対応を喜ぶ。私もDVD発送時に自分で手書きメッセージすることで明らかに売上増えた。さっき、新潟の長谷川コンサルのニュースレターで、高島屋が得意客に出すDMを、過去のお客の購入履歴に基づいて一通一通、お客に合う商品を選んで写真+手作りハガキにして送っていると知った。驚いたね。それはデキル個人ブティックのオーナーがやることだ。個人企業は個人対応せねば。が、手作りなのでそのうち対応に限界が来る。それでいい。売上よりも中身だ。無理な売上増=手抜き大量生産販売で大体ダメになっていく。小さく深く永く。

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◆左は7/30の福岡空港。韓国人や中国人ばかりで驚いた。富裕層がガンガン日本へ来ている。ま、ここは韓国と北京行きのカウンターだったが。右は空港内でNO1の両替商ティスコジャパン。友人の二宮さんが経営。リムジンのレンタカーも始めた。また変なことを・・だが、なんとか10年以上持っている。元は10回以上の転職や転業繰り返したダメ人間。私の予想を裏切って小成功している一人。

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こういう小手先心理操作コピーは時代遅れ。

不快だ。

見ないで捨てた。

お客も小手先系ばっかで、自分も成長しない。

 

 

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近所のランチカー。店にいてもお客が来ない=いる場所へ出向き、お客に近づいて販売する。

とにかく、弱者は接近戦しかない。

 

 

 

◆もと過激派プロレスラーで格闘家の前田日明(あきら。<日>は帰化の時に日本の印を入れたいと)。どうでもいい民主党候補の応援演説に。普通は1回50万円はするだろう。ボランティアか?違うな。たぶん。173?のオレが子供だ

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前田の爆裂Youtube動画

いわゆるショーのプロレスから、ガチンコ総合格闘技の流れを創った男。暗黙の了解を破り、長州力の顔面を本気で蹴ったり、胴回り回転蹴りで相手を血祭りにした。在日のイジメで少林寺拳法を始め・・・今は不良のガチンコ格闘大会などを主催。今日は応援演説だったが、真面目過ぎてつまらなかった。で、期待してなかった若手の民主党職員。立候補演説始め、これも見た目は弱く、最初は下手で帰りかけたが、徐々に熱を帯びて熱狂演説。観衆をグイグイ引きつけて感心した。なるほどね。こうして直接接近戦すると、相手によってはファンになる。今日は前田目当てで野次馬参加したが、実は講演家として、前田や政治家がどう演説するかを勉強に来たのだ。来た甲斐は充分あった。中身が無いヤツは、大声と熱意と情熱で補える。オレもそうだ。

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福岡市民の楽園

糸島半島

多くの陶器作家や自然派食品や詩人や引きこもりも多い。

 

 

◆本日8/11、朝から会社に出る予定だったが、晴れ間が見えたので夏休みのガキ共を誘って糸島半島・弊の浜へ。我が家の隠れ海岸。都心から少し遠いので意外に福岡市民も知らない。独身時代にココを見つけ、妻との初デートもココ。その後10年間は冬以外、ほぼ毎月ココに来て泳いだり散歩。が、上が中学に入り、下も共に休みもサッカー少年で妻も参観で、日曜もオレは講演の仕事を入れたり、一人で会社に出ていることが多い。

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妻は今日はペットシッターさんと家で打ち合わせ。来週からオレは講演行脚で留守+他はヨルダンへ行くからだ。ペットホテルでなく留守宅に毎日来てもらい、ネコのエサと相手をしてもらって1回3000円くらいかな。1日4〜5件廻るという。店のホテルは10匹程度。=2人?でやってるから1日20匹=6万円前後の粗利か?月に200万円の粗利。原価はそうかからない。生き物相手=家族同然なので手間暇かかる商売だが、ペット好きな人にはイイ商売?

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◆2時間泳いだ後、前原の「ラーメンよろしく」に。ここのオーナーは10年前の起業時、ベンチャー大学に1回来た。お互い、顔は覚えてないが、通りかかるたびに気になっていた。店には今回で3回目。8年ぶりくらいか。店に入ってスグわかった。ここは繁盛している。田舎の立地で10年継続営業がイイ証拠。オレはこの地に17年毎月来ているから、店の諸行無常も数多く見ている。「九大+西南大ランチ」や、「中高生はラーメン+替え玉3回+アイスで500円」(500円の会員で)などのメニューや、接客や声かけ、机上のゴマやネギ食い放題もいい。ガキ共も替え玉した。

 

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◆さっき、ポストに入っていた野村証券の新人営業マンチラシ。ありがちだが1000枚に1枚もない自己紹介入りのチラシ。なんてことはないが非常に大事。この手の商売では商品はどこも変わらない。他業界も同じ。商品が同じなら売り方は変えねば。売り方も同じなら、売る人間の特徴を出さねば。新人なので実績はない。大手企業らしく、学歴を全面に出している。ま、筑波のスポーツ学科なので偏差値は大したことはないが、「4歳からサッカー体育会一筋で、プロを本気で目指していました」の記述はオレの琴線に触れた。体育会に挫折したオレから見れば相当立派な根性モンだから。人は何に共感するかわからない。弱者はさらけ出さねば。名刺もHPもブログもツイッターも。会話もだ。建前人間とつき合うヒマはない。

◆8/1北京郊外「万里の長城」へ。曇ってはいたが、さすがのスケール。全長はなんと6000キロもある。北部の異民族からの襲撃に備えるため、歴代の王朝が建設を続けたらしい。北部の異民族=元世界一のチンギスハーン・モンゴル人だな。

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見にくいが、この城壁の高さは10mはあるか。よじ登るのは大変。ホントに攻めるのは難しい・・ということが、実際に来てみるとわかる。まさに百聞は一見にしかずだ。

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これは↓↓↓冬の写真。ポスターで光が反射しているが実物。スゴイね。また冬に来ないとね。

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栢野克己(かやのかつみ) ■日本一過激な小企業コンサル・講演家。計15万部の著書「弱者の戦略」「小さな会社★儲けのルール」「逆転バカ社長:天職発見の人生マニュアル」はアマゾン<中小企業経営>ジャンルで7年300週〜現在までベストセラー第1位〜5位。台湾(中国語)・韓国・タイ・インドネシアでも出版。零細企業☆人生逆転の事例講演・執筆・勉強会主催の(株)インタークロス代表取締役。主催のセミナー交流会「九州ベンチャー大学」や「経営人生計画セミナー」「やる気会」「早朝マーケ会」「個別相談会」は17年1000回を越え、累計で約1万人参加。全国+アジアで年間講演約100回+勉強会100回が自主ノルマ。2006年〜2007年に家族で1年間の世界一周を実現!夢は全世界で1000万部の著書+世界200ヶ国渡航 ■福岡県立城南高校+小倉西高校は裏口入学・立命館大学卒。新卒入社のヤマハ発動機を9ヶ月でノイローゼ退社、バイトのリクルートは3年弱で正社員試験落第。失意と復讐を誓い、大阪のIBMリースへ転職するが、またも仕事失敗+ウツ+婚約破棄+自殺未遂で退社。東京へ逃げ、半年失業後チラシ宅配ベンチャーへ転職。しかし、そこも詐欺的FC会社でまたも転職に失敗。もはや「同級生に勝つには独立しかない」と決意し、様々なセミナーや交流会に参加後に「無料職業相談業」で起業。しかし、半年で金がなくなり、出版社:ビジネス社でテープ起こしのバイトをするも先の人生が見えない。そんな92年実家が他人の連帯保証1億円かぶり博多へUターン。6度目の転職で広告代理店へ。同時にビジネス交流会「九州ベンチャー大学」立ち上げ。 95年、借金返済のため2度目の起業。97年完済するも実家失い親は自殺。2002年〜今までの人生への復讐スタート。お楽しみはコレからだ。公式HPも参考に。 ■インタークロス ■九州ベンチャー大学 代表・雑談担当 栢野克己/カヤノカツミ 〒810-0073福岡市中央区舞鶴2-7-21-803 電 話 092-781-5252  携 帯 090-3604-6735 FAX 092-781-5354 メールkaya@hf.rim.or.jp
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