ひごころ

ひとひ ころころ こころころ

ピンクバッタ。

大分の九重に行ってきた。
わたし以外は多忙を極める友人三人と、日帰り旅だ。

なぜこの三人と、わたしなのか、という取り合わせである。

彼女たち三人は長年の付き合いだし、共通項も多い。
わたしだけ住んでいる地域も、年代もちがう。
そもそも、友だちの友だちの友だち、くらいの出会いだった。

それでも近年、この四人で会う機会が多い。
複数人で会合することが苦手なわたしが、唯一
「みんなに会いたい」と言えるひとたちだ。

***

タデ原湿原を巡る。

花の名前、虫の名前、鳥の名前。
前をゆく三人が、次々教えてくれる。
裸足になって、大きなベンチで寝転んで、空を見上げた。

何もない、ただ、空だけ。
遠くせせらぎと、聞いたことのない鳥の鳴き声、風が草を撫でる音だけ。

自然に恵まれた場所で暮らしていると思っていたけれど
すべてを手放したようなこういう場所にいると
わたしの毎日が、いかに煩雑なものかがわかる。
煩わしさと愛しさは、程よく混在しているんだけどね。

途中、友人が湿原の中にピンクのバッタを見つける。
違和感を感じるかと思いきや
草とピンクの色合わせの、なんと自然な美しさ。
アザミを強い陽に当てたような、綺麗なピンクだった。

***

ひとと会うと、疲れ果ててしまう癖がある。
わたしが持つ全力で、そのひととの時間を過ごそうと思うからだと思う。
相手から見れば、いつものわたしであろう。
言いたいことを言い、感じるままに感じている。

それでもわたしの一部は、いつも緊張している。
そのことを知っているのは、わたしだけだ。
この感覚はなんだろう、と不思議に思ってきた。
相手がわたしを緊張させてるのではない。
わたしが勝手に、カラダに力を入れているのだ。
それは決して不快なものではないのだけれど。


話を戻す。

この日帰り旅仲間。
わたしに緊張を感じさせないひとたちなのだ。
数えるくらいしか会ったことないはずなのだが。

その不思議に思いを巡らせた。
木々を、遠く山を、空を見上げて
そしてぼんやり気づいた。

ああ、彼女たちは、ひとつ先を見ている。
わたしを見ているようで、わたしの向こうを見ている。
起こった物事を見ているようで、その先を見ている。
誰もがその場で感じたままを言葉に出来るのも
そこに共感がなくても、心地よさが残るのは
そういうことなのではないだろうか。

風通しがいいのだ。

入口と出口が、ある。
その先が、ある。
三人を通り抜けた風を感じて、わたしの力は自然と抜けた。

茶色でも緑色でもないバッタでも
安心して草を食べ続けられる場所が、そこにはある。

「風通しのよい自分になる」

彼女たちとの時間に、これからの生き方のヒントを見つけた感じだ。
目の前の相手と向き合いすぎて
勝手に息を詰めていたのは、わたしだった。

梅雨晴間の一日
わたしを誘ってくれた友人たちに、感謝。

また、会おうね。


タデ原湿原。

千如寺の大楓。2

体感しなければ、腑に落ちない。
知識でわかることと、体感でわかることは、ちがう。

もう、まったく、レベルがちがーう。

年を重ねるうちに、知識ばかりが増えていって
自分についての情報も、どんどん増えて固まって。

「わたしって、こんなひと」が出来上がっていた。

わたしの「あたりまえ」の根拠は、どこだ。
考えてみると、「あたりまえ」は単なる積み重ね。習慣だ。
たかだか数回上手くいかなっただけで「わたしはこれが苦手」と思ったり。
あのひとがイマイチと言ったから「わたしはここがイマイチ」になってしまったり。
誰かの評価が、わたしの評価?

自分の中の「あたりまえ」を疑ってみたい。

わたしの「あたりまえ」が、体感の機会を奪っている。

***

「運動が苦手だ」という、わたしの中の常識がある。

苦手だと決めているから、新たに運動を始めることもない。
ゆえに、まったくその分野で、広がっていかないわたし。

先日「糸島かみなり女」を見学したときにも思ったことなのだが
やる前から、あっさり諦めている。

体力がない。
運動が苦手。
根性もない。

わたしのその情報は、合っているのか?

わたしの代わりに、わたしを体感してくれるひとはいない。
わたしがやらなければ、わたしは永遠に体感できないのだ。

***

カラダをメンテナンスしよう、と思う。
鍛えたい。
できることからでいいから。

細々と続けているフラフープに加え、30年ぶりに水泳もはじめたい。

上手くできるようになりたい、と思うから挫けるのだ。

上手くできなくても、たのしめるわたしを、つくりたい。

千如寺の大楓。

ムチウチ報告。
事故から1ヶ月が経過しました。

信頼できる鍼灸師のもとに通っており、常に回復傾向にはあるものの
仕事で重いものを抱えては悪化
実家で、びわの実を取ろうして、また悪化。
首の重要器官ぶりを、痛感する日々です。

わたしの妄想(頭)を支えて続けて43年。
首さん、おつかれさまです。

カラダは、取り替えることができない。
凹んで取り替えた車のバンパーとは、ちがうのだ。

知っていたけれど、そのことに切実さを感じたことはなかった。
病気から学んだことは多いが、それは精神面に偏っており
カラダを能動的にメンテナンスする意識を持ったことはなかった。

気づく機会は、何度もあったのに。

このカラダは、自分のものだと思っていたなあ。
その感覚が、わたしの感度を鈍らせていた。

もしこのカラダが、預かりものだとしたら、どうしよう。
神様は、相当残念に思われるだろう。

今回のムチウチは、きっかけに過ぎない。
わたしがカラダをあまりに構ってやらないものだから
ムチウチに、過度にやられてしまったのだ。

そのことを、いま体感している。

かいくん。

ベットで誘う黒猫、7歳。

最近、絶賛こども返り中のかいくん。
男子は単純で繊細です。
そこがかわいくもあり、めんどくさくもあり。

人間の男子と同じだな。

かみなり女2

凛々しい女の集団に会ってきた。
その名も、『糸島かみなり女』。

遡ること、数週間。
みなさんもご存知のとおり、ムチウチとなったわたくし。
しかしこれこそが、まさに、怪我の功名。
友人の紹介で、最高の鍼灸師に出会ったのだ。

鍼灸師のRさん。
腕も良かったが、キャラクターも良かった。

「綱引きに、興味ありますか」

会ったばかりのわたしの腕をもみながら、彼女は真顔で言った。

***

競技綱引き、というものをご存知だろうか。
わたしは以前、テレビで観たことがある。
しかしその団体が、糸島にあるとは知らなかった。
それも女性の団体である。その歴史も長い。
名は、糸島の霊峰、雷山(らいざん)から取られたのだろう。

我が鍼灸師の勇姿を観たくて
綱引きに興味津々の友人と、ダーと三人で見学に伺った。


わたしと同年代の方もいらしたが
そりゃもう、かっこいいのだ。

引いて、引いて、また引いて
黙々と鍛えておられるのだが
楽しくて仕方ない、というオーラのようなものが
ひとりひとりの身体から立ち上っている。
みているこちらも、動きたくてうずうずしてくる。

打ち込む姿というのは、なぜあんなにも、魅力的なんだろう。
ほれぼれする。
監督、コーチの声かけは、決して大きくはないのだけれど
熱がある。

本気なのだ。

肚(はら)から出ている声って、聞いててほんとに気持ちいい。


メンバー大募集中の、糸島かみなり女である。
すこしでも興味があれば、まずは見学してほしい。

職場で行き交う、女性職員さんたちを観察しながら
「あのひと、向いてそう」と思ってしまうわたしは、すでに
かみなり女に、やられている。

箱の中のかいくん。

昨夜、事故にあった。

信号待ちしていたら、いきなりどーんと衝撃がきて
身体がバウンドする。
一瞬何が起こったかわからず、ひとり騒ぐ和美。
運転席のダーの反応を見て、後ろの車に突っ込まれたのだと理解した。

後ろの車を運転されていたのは、仕事帰りの女性だった。
落としたものを拾おうと、目を離したためにブレーキが遅れたらしい。
魔が差すというのは、こういうことだろう。
なんでそんなことしたんだろう、と後で思うことは多いものだ。

気の毒になるほどオロオロされ、ひたすら謝罪する彼女に、「そんなに気にしないでください。車が凹んだだけで良かったです」と爽やかに声を掛けているダー。

妻も凹んでるんですけどー。←ひどい首痛で吐き気。

そのうち、女性の旦那さんまで到着され「妻が大変ご迷惑を」と頭を下げられた。
ご夫婦も、ダーも、あまりにも爽やかすぎて
首が痛いと言っているわたしだけが、まるでクレーマーのようだ。

警察の聴取が終わり、当初の目的だったドラッグストアに寄るものの、目的のものは見つからず。
雨の日の夜に、わざわざ買いに行く必要があったのか疑問が残る。←わたしが行くと言い張った。

来週から、ダーとリベンジ新婚旅行in北海道の予定だった。
(7年前に企画したが、事情により前日にキャンセル)
今回も、キャンセル料を払うだけの旅になってしまった。

クレーマーは、念のため病院を受診した。
医師からは「今回の事故のせいではないと思いますが」と前置きをされて「首が、本来の曲線とは逆方向に曲がっていますね」とコメントされ
ご機嫌ななめである。

はるはるはる。

嫌われること』の記事への反響に、驚いた。

友人たちの言葉に、改めて考えさせられ
ひとり落ち込んだだけでは行き着けない場所まで
連れて行ってもらった。

書いてよかった、と思う。

転んで泣いているわたしに
「だいじょうぶ? こうすれば痛くなくなるよ」と言ってくれるひとがいる。
「あ、ここに石があったんだね」と言ってくれるひとがいる。
「ここに石があるのはおかしい!」わたしのために怒るひとがいる。
「こういう場所は、こんなふうに歩くと転びにくいよ」とアドバイスくれるひとがいる。
「いつまで泣いてるんだよ」呆れながら手を差し伸べてくれるひとがいる。
「わたしが前転んだときはね、」と話してくれるひとがいる。
心配で声をかけたいけど、躊躇するひとがいる。
自分のかつての痛みが呼び覚まされて、泣きたくなるひとがいる。
泣き声に苛立つひともいただろう。
みっともない、と眉をひそめるひともいただろう。
横目に見ながら、興味なく通り過ぎていくひともいただろう。

それぞれのひとの言葉に、思いに、
わたしは新たに、反応した。

なぜわたしは、泣いているのか。
なぜこんなに、痛みを感じているのか。
何がそんなに、嫌だったのか。


出来事にばかり注目していると、大切なものを掴み損ねる。

相手の中にも、社会の中にも、答えはない。
正しいも間違えも、ない。


みんなが通りすぎたあと
自分の息づかいを感じて立ち上がれば
悲劇も喜劇も、わたしが演じているだけなのだと気づく。

これもやはり、みんなが通りすぎたあとだから、気づけるもの。


ひとりではない。
ひとりでは生きていない。


わたしの答えは、わたしの中にしかないけれど
その答えへと導いてくれるのは
やはりいつでも、わたしではない存在なのだ。

いちごジャム。

昨日は、恥ずかしげもなく「わたし弱ってます」と訴えて
友人たちに癒してもらった。

ありがとう。

若い頃は、我慢してかっこつけていたことが
年を重ねるごとに、我慢がきかなくなっている。

これはいまに限ったことではないが
「我慢しない」ことと「素直」であることを
わたしはよく混同する。

そのことで、誰かを苛立たせることは、多いかもしれない。

***

姉上が熱望するので、手作りのいちごジャムを送ることにした。
まあ、作ったのはダーだけど。

妹という生きものは、姉からは何をもらっても当然だと思って生きているので
ついつい、恩返しを忘れてしまう。

ちんまりと箱につめて、ちかくの郵便局に向かう。
休日の窓口は、思いがけず混雑していた。

「お!」

先頭で荷物の発送を終えて振り返ったのは、なんとお世話になった上司。

休日に会うと、照れるのはどうしてだろう。
お互いにすこしはにかんで、手を振り合った。

わたしが荷物の発送手続きを終えて、郵便局を出ようとすると
さっき帰ったはずの上司が、ビニール袋をさげて立っている。

「今ね、姉に送ったんよ。いいとこで会ったね。はい、これ」

渡されたのは、茹でタケノコだった。
そういえば、彼女と一緒の課で働いていたときは、毎年いただいていた。
タケノコを掘って茹でるというのは、重労働だ。
それを当たり前のことのように、してくれていた彼女。

赤いチェックのエプロンをパタパタさせながら
やっぱり照れたように去っていく背中に
大きな声で「ありがとうございます!ごちそうさまです!」と叫ぶ。

ジャムごとき(しかも夫が作った)で、一仕事終えたような気分になっていた。

喜ぶのが恩返し、と思っており
何をしてもらっても、何をいただいても
お返しをしないことがポリシーなわたしである。(どんだけ都合いいポリシーなんだ)

けれど、そろそろわたしも、喜ばせる側の人間になりたい。

そう思わせる、上司のあたたかい背中だった。

山道。

久しぶりに、あるひとのブログを読んだら
わたしの悪口が、 ものすごーくいっぱい詳細に書かれていて
読みながら心臓がバクバクしてしまった。
いまだ、動悸おさまらず。
なんで読んでしまったのだろう。 

彼女にとっては、単なる感想なのだと思う。
わたしにとっては楽しかったやりとりが、そうではなく
むしろ相手を苛立たせていたという事実に、衝撃を受ける。

言葉を発したほうからは、愛ある冗談であったり
笑えるエピソードだったとしても
どう受け取るかは、それこそ、受け取り側の自由だ。

にこにこ笑いかけながら、相手のことを大っ嫌いだと思うのも自由だし
親しかったときには気にならなかったけど、仲違いしたら過去のすべてが嫌になることもあるかもしれない。

年を重ねてくると
「すき」は伝えても、あえて「きらい」は伝えなくなってくる。
自然と「嫌われる」免疫が、弱くなってくるんだなと
今回のことで痛感した。

嫌われるって、痛いなあ。
胸のあたりを、ゴンゴンゴンゴン遠慮なしに叩かれているようだ。
いまは関わりがない相手でも
たまらなく、気持ちが重くなる。


そこで、ふっと
元夫を思い出す。

世の中のほとんどのひとが嫌いだった、彼。

日々は、否定的な言葉で満ちており
それを伝えることに、まったく躊躇しないひとだった。
そんな彼を、清々しいとすら思っていた。
わたしも彼に、殺したいほど憎まれたひとりなのだけど。

彼を思い出してみると
「すき」と「きらい」は、とても近い場所にあった気がする。
「強い想いの衝動」という意味では、等しい。 
勝手なこと言うなよ、と言われそうだけれど。 
彼の飽くなき「世の中を嫌う」パワーは、呆れを通り越して尊敬に値した。
彼は、いろんなことを「そんなもんだ」と諦めないひとだった。

大好きで、大嫌いだった、彼。

元夫のことを書いていたら、気持ちが落ち着いてきた。

彼との時間で得たものは大きいと、再認識。

ありがとう、と空に向かって伝えてみる。

老松神社

春というのは、こんなに雨が降ったかな。
季節のめぐりは、そんなに変わらないはずなのに
毎回はじめてのような気がする。

そんなわけで、今朝の青空。
新緑の、なんという美しさ。

***

一年ぶりだかの、友人に会う。
会うの、二回目だよね?
ほんとかな。

こどもみたいに言いたいことを言って
聞きたいことを聞いて、わらって。

わたしたちの間を行き交う言葉たちは
とても軽い。
湿度を持たず、さらさらすべる。

すきもきらいも
いいもわるいも
いっしょでも違っても
心地いいのは、なんでだろう。

大きな駅の構内で
手のひらを、パチンと高く合わせて 
「またね」と別れた。

だいすきな、あなた。
わたしを思い出したら、また連絡してね。

***

ほめられたら
てれるけど
お世辞だなんて思わないわたしは
しあわせだなあと思う。

ほめるのも、ほんとうだから
ほめられるのも、ほんとうになる。

「あなたがすき」が、ほんとうだから
「わたしをすき」も、ほんとうになる。 

わたしが、わたしの世界をつくっている。

毎日毎日、あたらしくなる。

このページのトップヘ