ひごころ

ひとひ ころころ こころころ

箱の中のかいくん。

昨夜、事故にあった。

信号待ちしていたら、いきなりどーんと衝撃がきて
身体がバウンドする。
一瞬何が起こったかわからず、ひとり騒ぐ和美。
運転席のダーの反応を見て、後ろの車に突っ込まれたのだと理解した。

後ろの車を運転されていたのは、仕事帰りの女性だった。
落としたものを拾おうと、目を離したためにブレーキが遅れたらしい。
魔が差すというのは、こういうことだろう。
なんでそんなことしたんだろう、と後で思うことは多いものだ。

気の毒になるほどオロオロされ、ひたすら謝罪する彼女に、「そんなに気にしないでください。車が凹んだだけで良かったです」と爽やかに声を掛けているダー。

妻も凹んでるんですけどー。←ひどい首痛で吐き気。

そのうち、女性の旦那さんまで到着され「妻が大変ご迷惑を」と頭を下げられた。
ご夫婦も、ダーも、あまりにも爽やかすぎて
首が痛いと言っているわたしだけが、まるでクレーマーのようだ。

警察の聴取が終わり、当初の目的だったドラッグストアに寄るものの、目的のものは見つからず。
雨の日の夜に、わざわざ買いに行く必要があったのか疑問が残る。←わたしが行くと言い張った。

来週から、ダーとリベンジ新婚旅行in北海道の予定だった。
(7年前に企画したが、事情により前日にキャンセル)
今回も、キャンセル料を払うだけの旅になってしまった。

クレーマーは、念のため病院を受診した。
医師からは「今回の事故のせいではないと思いますが」と前置きをされて「首が、本来の曲線とは逆方向に曲がっていますね」とコメントされ
ご機嫌ななめである。

はるはるはる。

嫌われること』の記事への反響に、驚いた。

友人たちの言葉に、改めて考えさせられ
ひとり落ち込んだだけでは行き着けない場所まで
連れて行ってもらった。

書いてよかった、と思う。

転んで泣いているわたしに
「だいじょうぶ? こうすれば痛くなくなるよ」と言ってくれるひとがいる。
「あ、ここに石があったんだね」と言ってくれるひとがいる。
「ここに石があるのはおかしい!」わたしのために怒るひとがいる。
「こういう場所は、こんなふうに歩くと転びにくいよ」とアドバイスくれるひとがいる。
「いつまで泣いてるんだよ」呆れながら手を差し伸べてくれるひとがいる。
「わたしが前転んだときはね、」と話してくれるひとがいる。
心配で声をかけたいけど、躊躇するひとがいる。
自分のかつての痛みが呼び覚まされて、泣きたくなるひとがいる。
泣き声に苛立つひともいただろう。
みっともない、と眉をひそめるひともいただろう。
横目に見ながら、興味なく通り過ぎていくひともいただろう。

それぞれのひとの言葉に、思いに、
わたしは新たに、反応した。

なぜわたしは、泣いているのか。
なぜこんなに、痛みを感じているのか。
何がそんなに、嫌だったのか。


出来事にばかり注目していると、大切なものを掴み損ねる。

相手の中にも、社会の中にも、答えはない。
正しいも間違えも、ない。


みんなが通りすぎたあと
自分の息づかいを感じて立ち上がれば
悲劇も喜劇も、わたしが演じているだけなのだと気づく。

これもやはり、みんなが通りすぎたあとだから、気づけるもの。


ひとりではない。
ひとりでは生きていない。


わたしの答えは、わたしの中にしかないけれど
その答えへと導いてくれるのは
やはりいつでも、わたしではない存在なのだ。

いちごジャム。

昨日は、恥ずかしげもなく「わたし弱ってます」と訴えて
友人たちに癒してもらった。

ありがとう。

若い頃は、我慢してかっこつけていたことが
年を重ねるごとに、我慢がきかなくなっている。

これはいまに限ったことではないが
「我慢しない」ことと「素直」であることを
わたしはよく混同する。

そのことで、誰かを苛立たせることは、多いかもしれない。

***

姉上が熱望するので、手作りのいちごジャムを送ることにした。
まあ、作ったのはダーだけど。

妹という生きものは、姉からは何をもらっても当然だと思って生きているので
ついつい、恩返しを忘れてしまう。

ちんまりと箱につめて、ちかくの郵便局に向かう。
休日の窓口は、思いがけず混雑していた。

「お!」

先頭で荷物の発送を終えて振り返ったのは、なんとお世話になった上司。

休日に会うと、照れるのはどうしてだろう。
お互いにすこしはにかんで、手を振り合った。

わたしが荷物の発送手続きを終えて、郵便局を出ようとすると
さっき帰ったはずの上司が、ビニール袋をさげて立っている。

「今ね、姉に送ったんよ。いいとこで会ったね。はい、これ」

渡されたのは、茹でタケノコだった。
そういえば、彼女と一緒の課で働いていたときは、毎年いただいていた。
タケノコを掘って茹でるというのは、重労働だ。
それを当たり前のことのように、してくれていた彼女。

赤いチェックのエプロンをパタパタさせながら
やっぱり照れたように去っていく背中に
大きな声で「ありがとうございます!ごちそうさまです!」と叫ぶ。

ジャムごとき(しかも夫が作った)で、一仕事終えたような気分になっていた。

喜ぶのが恩返し、と思っており
何をしてもらっても、何をいただいても
お返しをしないことがポリシーなわたしである。(どんだけ都合いいポリシーなんだ)

けれど、そろそろわたしも、喜ばせる側の人間になりたい。

そう思わせる、上司のあたたかい背中だった。

山道。

久しぶりに、あるひとのブログを読んだら
わたしの悪口が、 ものすごーくいっぱい詳細に書かれていて
読みながら心臓がバクバクしてしまった。
いまだ、動悸おさまらず。
なんで読んでしまったのだろう。 

彼女にとっては、単なる感想なのだと思う。
わたしにとっては楽しかったやりとりが、そうではなく
むしろ相手を苛立たせていたという事実に、衝撃を受ける。

言葉を発したほうからは、愛ある冗談であったり
笑えるエピソードだったとしても
どう受け取るかは、それこそ、受け取り側の自由だ。

にこにこ笑いかけながら、相手のことを大っ嫌いだと思うのも自由だし
親しかったときには気にならなかったけど、仲違いしたら過去のすべてが嫌になることもあるかもしれない。

年を重ねてくると
「すき」は伝えても、あえて「きらい」は伝えなくなってくる。
自然と「嫌われる」免疫が、弱くなってくるんだなと
今回のことで痛感した。

嫌われるって、痛いなあ。
胸のあたりを、ゴンゴンゴンゴン遠慮なしに叩かれているようだ。
いまは関わりがない相手でも
たまらなく、気持ちが重くなる。


そこで、ふっと
元夫を思い出す。

世の中のほとんどのひとが嫌いだった、彼。

日々は、否定的な言葉で満ちており
それを伝えることに、まったく躊躇しないひとだった。
そんな彼を、清々しいとすら思っていた。
わたしも彼に、殺したいほど憎まれたひとりなのだけど。

彼を思い出してみると
「すき」と「きらい」は、とても近い場所にあった気がする。
「強い想いの衝動」という意味では、等しい。 
勝手なこと言うなよ、と言われそうだけれど。 
彼の飽くなき「世の中を嫌う」パワーは、呆れを通り越して尊敬に値した。
彼は、いろんなことを「そんなもんだ」と諦めないひとだった。

大好きで、大嫌いだった、彼。

元夫のことを書いていたら、気持ちが落ち着いてきた。

彼との時間で得たものは大きいと、再認識。

ありがとう、と空に向かって伝えてみる。

老松神社

春というのは、こんなに雨が降ったかな。
季節のめぐりは、そんなに変わらないはずなのに
毎回はじめてのような気がする。

そんなわけで、今朝の青空。
新緑の、なんという美しさ。

***

一年ぶりだかの、友人に会う。
会うの、二回目だよね?
ほんとかな。

こどもみたいに言いたいことを言って
聞きたいことを聞いて、わらって。

わたしたちの間を行き交う言葉たちは
とても軽い。
湿度を持たず、さらさらすべる。

すきもきらいも
いいもわるいも
いっしょでも違っても
心地いいのは、なんでだろう。

大きな駅の構内で
手のひらを、パチンと高く合わせて 
「またね」と別れた。

だいすきな、あなた。
わたしを思い出したら、また連絡してね。

***

ほめられたら
てれるけど
お世辞だなんて思わないわたしは
しあわせだなあと思う。

ほめるのも、ほんとうだから
ほめられるのも、ほんとうになる。

「あなたがすき」が、ほんとうだから
「わたしをすき」も、ほんとうになる。 

わたしが、わたしの世界をつくっている。

毎日毎日、あたらしくなる。

名知らず。

名を知っていても知らなくても
有名でも珍しくなくても
美しいものは美しい。

それなのに
その美しいものに
誰かがつけた名前のようなものに
惑わされることがある。 

しだれ桜。

仕事を早退して、歩いて10分の丘の上の公園にダーと出かけた。
花見するために早退なんて、という考えもあるけれど
それくらいの感じでみんなと仕事が出来たらいいな、と思う。
わたしだけでなく、誰もが
いましかないことを、だいじにできたらいいな。

満開の桜。
こどもの成長。
傷ついた誰かのそばにいること。
しずかに考えたいこと。

いましかない、こと。

たいせつなこと。

ちびタイ

『crisp tie』
勝手に名付ける。

骨董市で売られていて
あまりにかわいかったので、自分で作ってみた。
レザーは、革製品のお店で端切れを安く購入。

ボタンは一番上まで留めたいけど
すこし窮屈だと思っていたわ。
考えたひと、すごいなー。

しれっとパクってごめんなさい。

ペンペン草

友人たちと美味しいものを食べながら、ふと
こどもの学力の話になった。

友人のひとりが、娘の理解力のなさに不安を感じている、と言った。
小学校低学年だったと思うが、彼女が書いた詩を以前読ませてもらったことがあり
わたしは不覚にもその場で泣いた。
おどろくほど感性豊かな女の子だ。

「そういう親の気持ちって、こどもは感じとるよね」

もしかしたら経験があるのだろうか。
痛みを感じた表情で、もうひとりの友人が応える。

自分が易々とできたことが、うちの子はできない。

僕はあんなに早く走れたのに、うちの子はビリばかり。
私はあんなに勉強ができたのに、うちの子は成績が悪い。
私は誰とでも仲良くできたのに、うちの子はお友達ができない。

自分が易々とできたことって
のちのち、枷になることもあるんだなあ。

優劣は、誰の目から見ても判断できるものだと思いがちだけど
ほんとうの意味で「優劣」って、ないのかもしれない。 

勉強ができる才能と
勉強ができない才能

どちらも立派な才能なのだ。 
できたほうがいいときもあるけれど
できなかったからよかったね、というときも、必ずやってくるのだから、人生はおもしろい。 

いろんなことがうまくできた友人たちは
愛する子の存在をもって、今から「できない」素晴らしさを知ってゆくのだろう。 

すみれ。

友人が誕生日に贈ってくれた本を開いている。
読んでいるとは、とても言えない。
眺めている。
そのことが、とても、かなしい。

彼女がだいすきなふたりの作家の往復書簡。
「読み終わったら、貸してね」
早く貸してあげたいのに、それができない。

とても素敵な本だったよって、手渡して伝えたいのに。


こんなに知らないことがたくさんあるんだ、と
途方に暮れる。
わからないことばかりだ。


うつくしい藍色の本を、今日もぱたんと閉じる。

感じるだけでは、だめなんだ。

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