90年代

1991年12月01日

佐渡の盆踊りの話から

ニューヨークから来た友人とのツアーを佐渡の「ドンデン山」で終え、
「よかったら、うちにも遊びに来ませんか」と誘われて、
佐渡・宿根木の知人宅に3〜4日世話になったことがある。

その人自体、そばの栽培から、だしにする飛び魚釣りまでして
手打ちソバを作るというすごい人なのだけれど、
そのとき、たまたま村の盆踊りがあるというので、
友人ともども出かけてみた。

深い入り江と、山に挟まれた小さな集落の、
一日に何本も来ないバス停前の広場に、
小さなやぐらが組まれ、太鼓が一つ置かれている。

酒屋のとなりに、運動会のようなテントが一つ立ててあり、
そこにマイクが一本無造作に置かれている。

日の長い夏の夕方、早い夕食を終えた人達が三々五々集まると、
さっきまでテントの中で一杯やりながら談笑していたおじさんが、
バチ片手に太鼓に歩み寄り、やおら太鼓を叩き始める。

すると、日に焼けたのか、しこたま飲んだのか、
もう赤い顔をした人の良さそうなおじさんが、マイクの前で歌いだす。

世間話に花を咲かせていたおばちゃん達も、
ほとんど条件反射のように手足が動き出し、
やぐらの周りで、ゆっくりと踊りはじめる。


「小木おけさ」というその踊りを、
ボクも見よう見まねで踊ろうと思うのだが、なかなかどうして難しい。
ちょっと面白い足の運びがあって、
そこがポイントだなどと考え考えやっているので、
ギクシャクした動きになっているのが自分でもよくわかる。

踊っているうちに薄暗くなった空も、しだいにとっぷりと暮れて
夏空に星がまたたきだす。
都会のネオンに馴れっこになった目には、
夜のこの暗さは恐ろしくもあり、また、どこか懐かしい。

漆黒の闇のなかで、踊りの広場だけが、
ほのかな明かりに照らされ浮かびあがっている。

歌も太鼓も、疲れたかなというところで、さっと次の人に交替し、
踊りがとぎれることはない。
淡々とした繰り返しかと思っていると、次第に、
じわじわっと高揚してくるものがある。

自分が一人ここにいる、というあたり前のことがどんどん頭から遠ざかり、
踊りの輪それ自体が、一つの生き物のように動き出す。


その時突然、踊りの輪の中からひときわ大きく声をはりあげて、
女の人が歌いだす。
男の人が合いの手をいれると、しだいに掛け合いのようになっていく。

これって即興?などと、あっけにとられているのはボクだけで、
踊りは次第に高まっていく。
明らかに、最初のゆったりとした動きにくらべると速くなっているのがわかる。

ボクの踊りは、相変わらずギクシャクしているけれど、
踊りを楽しむ余裕は出てきた。

歌や太鼓の交替が早くなり、
踊りの輪の中からも一人二人と抜けていくようになると、
ここらで潮時とばかりに、何とまたあっけなく終わってしまう。

からだの中に確かな余韻を感じ、磯の香りを胸いっぱい吸いながら、
ボクらもまた、家路をいそいだ。


佐渡を拠点にする和太鼓グループが主催する、世界的なフェスティバルが、
その宿根木から遠くないところで開かれ、
海外からも多くの人が集まり、賑わっているらしい。

ただ、佐渡の人達は、
自分達が生活と密接な芸能を身に付けているからなのか、
そうした大掛かりなエンターテイメントには、さして関心を示さない。
ステージに乗せ、生活と切り離されたとき、
芸能の魂はなくなり、あとは、芸術として洗練されることで生き延びていく。

ワールドミュージックなどといって注目されている芸能グループは、
やはり、どこか音楽として洗練され、アク抜きされているように思う。

どうやら本物は、いつでも、
人知れないところに、さりげなくいるものらしいのだ。

■初出「独身生活」 vol.10
1991年12月

kazamakitakashi at 00:07|Permalink

1991年06月01日

ATMOSPHERE

もう随分と昔のことになるけれど、
「ATMOSPHERE」というレコードを自主制作したことがある。

鶴巻温泉にあったジャズ喫茶「すとれんじふるうつ」で行った
ダニー・デイヴィスとのデュオのライヴを録音、編集したもので、
A面でアルトサックス、B面でフルートの演奏が聞くことができる。

とても残念なことに、彼はもうこの世にはいないので、
一緒に演奏することも、陽気にツアーすることもできないのだけれど、
そのレコードと、
87年にニューヨークで、
彼とベースのウィリアム・パーカーとトリオで演奏したライヴテープが、
ボクに残された宝物になってしまった。

彼は、サン・ラ・アルケストラで長年活躍したジャズ・ミュージシャンで、
からだの奥底から、魂(ソウル)から音をしぼり出していくその演奏に、
ジャズなど知らないボクは、
それでも、ありったけの力をふりしぼって、
即興演奏の中に、自分をさらけだしていった。

彼とともにあるというだけで、
ボクは大きくはげまされていたので、
タイコを叩くという自分の演奏を、
ダニーさんとの演奏のなかで、
より音楽的なものに発展させていった。

今考えると、
ジャズや、ジャズドラムを知らなかったことが、
かえって良かったんだと思う。

そうした制度化され、規格にはまったものではなく、
一人の人間がたずさえているものとして
音楽や、文化というものは存在する。

一緒にスイカを食べ、フライドチキンを頬張り、
ツアーをして温泉に入り、
そうした人と人とのあたり前の交流から、音楽が生れた。

ダニーさんの下の男の子、タイキ君の名前を説明するとき、
「大きい樹じゃない、大気、アトモスファー」と言ってた
その響きが忘れられず、レコードのタイトルにしたのだった。

地球を包み込む大気とともに、
ATMOSPHEREには、雰囲気という意味もあり、
宇宙的な広がりと、今・ここ、
その場を包む目には見えないけど確かに存在する何か、
そうしたものをつないでいくイメージが、この言葉にはある。

演奏するその場の雰囲気を感じとりながら、
ボク達は即興をしていくのだし、
いい音楽は、音以外のもの、
気持ちの揺れ動きや、
ぎりぎりの所でなおかつ発せられる温かさといったものに、
包まれているような気がする。

ダニーさんの演奏には、いつでもそうした深みがあったし、
虚空に向かって音を散りばめて、
それが一瞬のうちに消え去ってしまう。
その消え去ってしまうもののために全力を傾ける、
そんなすてきな、素晴らしい演奏だった。

1988年1月。ニューヨークのハーレム・ホスピタルで
持病の糖尿病を悪化させ、
ダニー・デイヴィスは帰らぬ人となった。42歳だった。

それは、あまりに突然の、大切な人の死だった。

「全ての音、ヴァイブレーションは
大いなる自然によって、
互いに、つながり、関係を持っている。」

「New sounds for a new world」

ダニーさんが、どんな新しい世界を夢見ていたのか、
今となっては聞くことはできないけれど、
彼が、黒人特有の「智」というものを持っていたことは確かだろう。

天国というものがもしあるとすれば、
ボクにとってのそれは、
ダニーさんのいるところに他ならない。

■ATMOSPHERE
1991年7月24日(水)・25日(木)
明大前 キッド・アイラック・アート・ホール

出演
ジューン・シーガル dance
神蔵香芳 dance
風巻 隆  percussion



kazamakitakashi at 16:39|Permalink

1991年04月01日

作業としてのコンサート

幸か不幸か、即興や即興演奏への関心は一般的にはほとんどなくなり、
フリージャズがもはや死語になったように、
フリーミュージックという言葉も、もう聞かなくなった。

抽象絵画を描くように音を散りばめるヨーロッパ・フリーの手法も、
そのスタイルが出来上がってしまうと、もう何の新鮮さも感じなくなってしまったし、
ヨーロッパの即興シーンは、
それ自体が一つの伝統になり、しっかり保守的になっている。

かわって注目されるようになったのは、「ニューミュージック」と呼ばれる、
ニューヨークのダウンタウンの新しい音楽シーンで、そこでは、
ジャズやロックや現代音楽という既成の音楽ジャンルの垣根を飛び越えて、
豊富な人材のアマルガムを、バンドやプロジェクトによって
さまざまに変化させながら、新しい話題をつぎつぎに提供してくれる。

ニッティング・ファクトリーという場所も含め、
そこにはある種の上昇指向があって、
即興という自由さよりも、バンドとしての確かさを求め、
サンプラーやエレクトロニクスといった新しい可能性を演奏に導入しながら、
誰にも受け容れられるバンドミュージックを基本にしているようだ。

即興に「個」の蜂起とでもいうようなアナーキーな人間関係を想起したり、
即興であることが、それだけで意味のあること、
スゴイことだと吹聴された時代は、もうとうに過ぎて、
おそらくこれからは、
表現の独自性や、実験的な試みを即時につなぎとめていく
「場」の作り方として、機能していくんじゃないだろうか。

一人一人の作業を持ち寄り、イメージに形を与えていくなかで、
未だない音楽を具現化していく。
即興と作曲を、対立するものと考えるのではなく、
即興と作曲を自由に往来するような、そうした何か
新しい音楽の生成を予感させる「場」として、
「音の交差点」を企画しました。

ありていに言えば、
ライヴハウスで毎日繰り返される、出来上がりの音楽ではなく、
これから音楽になろうとする、音の断片やアイデアを持ち寄って、
即興という開かれた関係のなかで、
その場で音楽を作っていこうというものです。

コンサートという形式をとりながら、
もう少し自由に音楽の枠をはずし、
できれば予定調和を越えた世界を作りたい…、
そうした作業の場として考えています。

この2〜3年、
ニューヨークやヨーロッパの活動に力をいれていたのですが、
自分の音楽のあり様を、自分の足下の東京で、
また少し考えていきたいと思っています。

■音の交差点
1991年5月27日(月)〜29日(水)
明大前 キッド・アイラック・アート・ホール

出演 鈴木健雄
    大熊 亘
    向井千恵
    竹田賢一
    大友良英

kazamakitakashi at 14:14|Permalink

1991年03月01日

耳をすますと

耳をすますと
いろんな音が聞こえてくる。

風邪をひいたりして
昼間から横になっていると
いつも何気なくやりすごしている音が
ボーッとした頭に、なり響く。

工事現場の杭打ちの音、
子供達の喚声、
遠くでフトンを叩く音、
トーフ屋の喇叭、
公園のブランコがきしむ音、
ヘリコプター、
町工場の音、
電気カンナの音、
石焼きイモや、ちり紙交換、
物売りの声、
犬が吠え、猫が鳴き、
木々が風にそよぐ、
汽笛、電車、救急車、
水道から水の落ちる音、
時計の針の音…

横になって目をつむったとき、
何かの音が記憶を引きもどし、
その音とともに、
記憶の中に引き込まれていくことがある。

自分が今、どこにいて、
何をしているのかわからなくなる瞬間、
人生が、一瞬の夢のように感じるときもある。

そんな音楽があってもいい。

■風巻隆ソロ
1991年4月24日(水)
大阪・谷九 伽奈泥庵

kazamakitakashi at 15:20|Permalink

1990年07月07日

ワールドミュージック考

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■ワールドミュージック考

もう12年も前の話になるけれど、
ボクがまだ学生の頃、
芸大の亡くなった小泉文夫先生の
民族音楽ゼミナールの一員として沖縄・八重山を訪れ、
島の古老からユンタ・アヨーといった、
古くから歌い継がれている民謡を教わり、
録音・採譜するというフィールドワークを行ったことがある。

真夏のカッと照りつける暑さの中、
一ヶ月ほどいくつかのグループに別れて、
旧式の重たい「デンスケ」という愛称の
ソニーのカセットデッキをかついで、
村々、島々の古老を訪ねてまわった。

ボクはおもに竹富島・仲筋村に滞在し、
後に単独でそこの種取祭(タントゥイ)と、
狂言(キョンギン)と呼ばれる村芝居の研究にのめり込むほど、
その音楽や、芸能の豊かさに新鮮な驚きを感じ、
根源的なものの持っている神聖さを目の当たりにして、
自分の存在の小ささを知り、
また、普通の生活者が、
これほどまでに独自の音楽文化を持ちうるということに、
心から尊敬の念を抱いていた。

とくに、
新城(アラグスク)島で行われた豊年祭(プーリ)では、
アカマタ、クロマタという仮面をかぶった
ニライカナイからの来訪神が、夜を徹して村を巡り、
二手に分かれた村人達が掛け合いで歌を歌い、
その天までと届かんとする地声の大合唱と踊りで、
このアカマタ・クロマタを呼び寄せようとする。

とても20世紀の日本とは信じられないような
神秘的・秘儀的な世界をこの目で見ることができ、
この一夜の体験は、
それまでの人生観や宇宙観を根底からくつがえすような、
それは、壮絶な体験だった。

録音・撮影・メモ等は一切禁止され、
決められた行動から外れたら命も保証できないという
厳粛な掟に支配された祭りの中にいながら、
サンゴ礁に囲まれたこの小さな島が、
水平線のすぐ上から星がまたたく、
この上もない満天の星空の下、
神と人が交歓する祭りの場として、
何者にも侵されえない一つの宇宙を作り上げている。
そのことに、何よりボクは酔いしれていた。

その後この祭が続けられているか、ボクは知らない。
極端に過疎の進んだ離島で、当時でさえ住民は二世帯。
近くの西表島などから島出身者が祭りのために戻って、
やっと運営されていたものだと聞く。

「ヤマト」の資本が流入して、
レジャー施設などができたために
伝統的な祭ができなくなった島もある。
観光開発という植民化が進むと同時に、
根源的な文化、伝承に根ざした文化が途絶え、
それにとって代わるように、
よりソフィスティケイトされたものが
マスメディアを通じて侵入しているのではないか、
そんな危惧を、ボクはいだいている。

そこで生れるのは、沖縄の音楽ではなく、
沖縄風の音楽でしかない。

ちょうど、スリランカのホテルのレストランが、
観光客用にさほど辛くないカレーを出すように、
よく言えば普遍性を持った悪く言えば、
都市生活者に迎合したものが、
おそらくはびこってくるだろう。

近頃、「ワールドミュージック」という言葉をよく聞く。

おそらく、民族音楽が持っていた地域の独自性より、
テクノロジーを媒介にした共通性によって
大きなマーケットを作りうる世界至る所のポップミュージックが、
音楽のメジャー資本によって認知されたというだけのことだ。

お茶の間で、コンサートホールで、
世界の音楽を楽しむのもいい。
ただ、確実に私達が失い続けているものの大きさも
忘れないでいてほしい。

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1990年02月01日

楽器の話

叩けば音が出る打楽器を使って自分の音楽を作ろうとするとき、
まず、自分自身の楽器を作ることが必要になってくる。

パフォーマンスする身体への興味と、
自分の、あるいは打楽器の原点へ立ち返るため、
長いことボクは、数少ない楽器で演奏してきた。

ただ一つのタイコを肩から下げ、
スティックや肘、手、指などで音を微妙に変化させながら、
音を叩き込んでいく。

ナチュラルな革を張ったタイコ一つで、
視覚や体感へも訴えるそのソロ・パフォーマンスは、
どこでも、どんな所でもできる自在なもので、
花見の夜や、冬の街角に繰り出したり、
また、歩道橋の手すりの上や、
デモの隊列の中にも出没することができた。

それが、音楽であるかどうかはまったく関係なしに、
ボクは、その自分自身の即興的な表現を楽しんでいた。

85年夏、サックスのダニー・デイヴィスとのツアーから、ボクは、
バスドラを置き、そこに小さな14インチのシンバルを立てた。
バスドラには和太鼓の革が張ってあり、
持ち運びを考えて、胴を約半分に浅くしてあった。

スティックはタイコとシンバルに対して、
さまざまなアプローチをしていく。
叩く、こする、押し付ける、はね返す、中をとりもつ、割ってはいる、
ころがす、ずらす…、そうしてさまざまな音が紡ぎだされていく。

シンバルの下にタイコを押し込んでの爆発音の衝撃から、
シンバルのカップに手をかざしたハーモニクスの微細な変化。
かつてのパフォーマンスで偶然見つけたそうした音の数々を、
今度は、明確な形で音を連ね、音楽を組み立てていく。

86年秋、ベースのペーター・コヴァルトとの共演から、ボクは、
自分の音楽の形を意識するようになる。
ペーターとのライヴと、「すとれんじふるうつ」でのスタジオ録音から
アルバムを作ることも企画していた。
そのアルバム「No Tomatos」は、結局幻になってしまったけれど、
その頃から、少しずつ、誰のものでもない独自のドラムセットを作り上げてきた。

肩から下げるタイコに羊の革を張る。
木胴のスネアの響き線をはずして、中に小豆を入れる。
底の浅いメキシコ製のブリキのバケツにアッタチメントを付けてセットに組み込む。

ニューヨークの友人、ケティー・オールニーからもらった
ベルの大きく厚い古いマーチングシンバルと、
マドリードの古道具屋で見つけた手作りのカウベルは、とてもマッチする。
大阪・鶴橋で買ったコリアン・ゴングは、
タイコの表面で、思いもよらない倍音を生み出していく。

こうしてできたシンプルなドラムセットを、当初は立ったまま、
そして最近は椅子に座って左足でバスドラの音をコントロールしながら、
「音がカタチを変えていく」多彩な音色を、造り出し、変化させて、
即興で音楽を作っていく。

これらの楽器を、黒いバスドラのケースにひとまとめに詰め込んで、
コンサートやツアーのたびに、この重い荷物をキャリーに載せて、
ガラガラ引っ張って街を歩いている。

ヨーロッパの石畳の道にへいこらしたり、
ロンドンの地下鉄の、気の遠くなるような階段をかついで下りたり、
ニューヨークのスタジオの階段を、
よっこらしょと運び込んだりしているのだ。

■大友良英・風巻隆 ライヴセッション
1990年3月11日(日)
新宿 シアターpoo

kazamakitakashi at 13:12|Permalink