A manager and a writer;Tomohito Kaze ‐風友仁

謹告;ココログへ『綾』サイトは移管させます。

 諸般事情ございまして、2009年3月31日から当ブログサイトはココログサイトへと移管させます。お手数ながら、お気に入り等にリンクしてくださっておられる方は以下のURLへ変更をお願い致します。今後とも筆者並びに『綾』サイトをどうぞ宜しくお見知りおきくださり、コメント等気楽にいただければ幸いに存じます。           風友仁

 新ブログサイトURL
  ⇒http://yusei512.cocolog-nifty.com/blog/
  『綾』

 この後、少しずつコラムを移行させていきますので移行が終了するまでこちらのサイトはこのままにしておきます。

我が父が愛した童話作家;椋鳩十5

椋鳩十 
 父が座した胡坐に腰掛けて父の朗読する童話に聞き入っていた、幼かった頃の私。最早、遠い遠い過去のようで、ただ想い出すのは酒さえ飲まなければ優しかった父の面影。時は過ぎ、入院加療中の父がまだ多少元気だった頃、父にせがまれてそんな父の片腕を抱きながら、入館した椋鳩十文学記念館。ほんに寒い日のことで南国だというのに、霙が降っていたような。なのになんだか頑強に「行くぞ」とせがんだ父。「俺は一度は生涯、ここに来たかったんだよ」と確か父は言っておりましたっけ。そんな父も、もうこの世に居ない。出来ることならば、父とふたり、元気にきっと快復した父と今度は図書館の方にも尋ねてみたかった。もう、それは叶わない。椋鳩十の童話を手にする度に、父が私に人として何が大切なことか、知らしめようとした当時の心根が感じ取れて、今はただただ今在るは、あの父のお陰かと。愛情表現が下手で怒ってばかり居た風の父が、私に示した微かな人情。父の優しさがいまはただただ胸に滲みております。・・・・今日は全く個人的感慨で誠に申し訳、ありません。
2008・4筆記

想・まっく様拠り「踏み切りの傍に咲く」 
椋鳩十記念館・図書館
椋鳩十文学記念館
椋鳩十〜動く絵本〜
有名人インタビュー 椋鳩十
椋鳩十児童文学賞受賞作品一覧
小さなミュージアム●椋鳩十文学記念館
椋鳩十記念館
asahi.com:郷里へ寄せる思い伝える(椋鳩十記念館
椋 鳩十 作品集
長湯温泉・歌碑めぐり(1)椋鳩十
愛するもののにおいを…「マヤの一生」
妙見温泉 石原荘 〜石原荘便り〜椋 鳩十
秋・鹿児島・文豪が愛した街
「椋鳩十作品における鹿児島方言」参考資料


中原中也に関する覚書「長谷川泰子という女性」;中原中也2

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 長谷川泰子。中也の熱烈な信者でこの女性の名を知らぬ者はいないであろう。彼女の『ゆきてかへらぬ』に拠れば表現座の女優時代、稽古場に居るとき中也がダダの詩を見せたのが出逢いの始まりである、らしい。泰子は中也の3歳年上で劇団が解散して途方に暮れている時、「それなら僕の部屋に来ればいい」と中也が助け船を出してふたりは同棲生活に入った。大正13年4月のことであった。

  中原中也『ゆきてかへらぬ』
   
 僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々揺つてゐた。
 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。
 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、風信機の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。
 さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。
 煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。
 さてわが親しき所有品は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布団ときたらば影だになく、歯刷子くらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。
 女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会ひに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。
 名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。

 林の中には、世にも不思議な公園があつて、不気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
 さてその空には銀色に、蜘蛛の巣が光り輝いてゐた。
 
 後年、中也が編んだ『ゆきてかえらぬ』には中也らしいメルヘンチックな感情を押し殺したかのような、時として従えがたい胸の高鳴りを自身、必死に押さえつけているかのような文章が仄見える。泰子の『ゆきてかえらぬ』は、無論、この中也の文章への返句ともいうべき文字の羅列なのだろうけれど、泰子にとっても中也と過ごした時期はやはりそうそう忘れがたい、と申しましょうか、心根に宿るときであったと言えましょうね。
 それにしても「さてわが親しき所有品は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布団ときたらば影だになく、歯刷子くらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。」とは全く貧乏学生の悲哀ごとにふさわしい佇まいであろうと思えます。中也は一体、うら若き中也は一体、泰子に何を望んだのでしょう。か弱い、けれど理想だけは高邁な中也、十七歳の春の日の出来事なのでした。

 



 もうすぐ18歳になろうかという大正14年3月、中也は21歳の泰子を連れて上京します。上京先には富永太郎、そしてその友人の、のちに「批評の神様」と謳われることになる小林秀雄がおりました。富永は自身の詩を載せた同人誌の刊行に奔走しており、小林はこの時代、小説執筆に血なまこになっていたのですが、こういった新しい世代の挑戦に中也が刺激を受けぬはずはありません。けれど自作はまったく評判を呼ばなかった。では現実的な生活、泰子との共同生活における資金的生活手段はどこから得ていたのか?、これも中也の熱狂的な信者の方々においてはご存知のこととは想われますが、実母になんやかやと嘘をつき生活資金を送金してもらっていたわけです。母・フクはのちにそんな中也のことを「肝焼き息子」と呼んでいる。中也のつく嘘に対して薄々それが虚偽だと判っていながらも可愛い息子の為にお金を工面し、送金する。いつの時代でもあろう、親の子に対する甘やかしぶりと想えなくも、無い。要は中也がそんな親ばかぶりにかこつけて送金を恒にせがんでいたこと。中也のちょっとここに人間性的欠陥が仄見えると糾せば手厳しい論評と思われる方もおられるでしょうか?。

 
 

 更に、日頃の憂憤を泰子にあたります。中也の酒酔い癖はこの頃かららしく、酔っては四方八方に管を巻く。酔ってはいても食うには酔えぬ我が暮らし、中也の詩は全くといってよいほど人々の俎上に登らなかった。青年期特有の、希望と絶望の狭間でゆらりゆらりと、きょうはこちらにあすはあちらにと絶え間なく交錯する自身の胸中。

 汚れつちまつた悲しみに……

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

 あまりにも有名なこの詩句に中也は自身の何を見出そうとしたのか、或いは何を託そうと努めたのか?、或いはもっと違う、何か?。中也の呟く「汚れつちまつた悲しみ」とは、何を指して、そう呟かせたことだろう。中也の泰子との共同生活、苦難は続いておりました。

 



 そんな中也の同棲生活にあって、のちに文壇史的に「奇妙な三角関係」と称される事件が起こる。


同居の泰子が知人関係にあった小林秀雄の元に立ち去ったのである。この「女に逃げられた」中也における、あまりにも有名な事変はかなりの衝撃を持って中也の深奥を揺さぶった、らしく、友人の大岡昇平に拠れば「見るも無残、ふた眼を覆い尽くしたく」なるほどの落ち込みようであったと言う。この辺が、後年、中也の詩が人々の心根をつらぬく理由とも称され、つまり中也は世俗的な事柄から精神的な高みに、結局、達せられなかった俗詩人なのであって、ゆえに、その詩は市井の人々の感慨をたくましくさせる、結果にもなっているのでしょうけれど、それにしても「ふた眼を覆い尽くしたくなるほどの落ち込みよう」とは、一体、いかなる按配だったのでしょう。中也はこの頃の感慨を一片の詩に託した。こういった胸中を「詩に潜る」と言うのですけれど、中也には幸い、詩を書くという行為が残されていた、或いは与えられていた、と申せましょうか。
  しかし小林秀雄『中原中也の思い出』に拠れば、小林は「中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌まわしい出来事が、私と中原との間を目茶目茶にした」と語り「ふた眼を覆い尽くしたくなるほどの落ち込みよう」中也の見姿とは、実際、符合しない。識者に拠れば中也自身の了承のもと、小林と泰子の関係は成り立ったとされているが、ならば、のちのあの中也のまるで辛酸を舐めたかのような詩は、やはり合点がいかないということになる。やはり、中也は口惜しかったのだと思う。泰子を奪われた、というまさに世俗的出来事に、自身、屹然と律し得なかった、だからこそ反って「落ち込みよう」の最下層まで行き着いてしまってまさに道化てしまわねば仕様も無い心境と相成ったのではないか?
 ここに中也のあらたなる煩悶煩瑣の日常が更に深い悔恨の胸中を作り出す羽目となった。中也、18歳、大正14年、秋、11月のことである。


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おまえは何をしてきたのだと-僕の中の中原中也;中原中也

  中也はいまだに僕に呟いてきます。
 
 「雲の間に月はいて それな汽笛を耳にすると 悄然として身をすくめ 月はその時空にいた それから何年経ったことか 汽笛の湯気を茫然と 眼で追いかなしくなっていた あの頃の俺はいまいづこ ・・・頑是ない歌より」 あれは、そう確か僕が中学生の頃、十代の頃でした。学校の図書館の四隅の本棚にその本はひっそりと、さも僕が手にし易いように置かれていましたっけ。中原中也『在りし日の歌』
作家別作品リスト:中原中也
中原中也記念館
中原中也とダダイズム、京都時代
つれづれの文庫
中原中也・My Loving Files
中原中也
「中原中也研究」の在庫
帰 郷
中原中也・論点
中原中也「我が生活」
中原中也の部屋続きを読む

人間の深部を抉ろうとする、大衆文学という名の技;横溝正史

横溝正史
 これでもかこれでもか、と繰り返される連綿とした因習劇。手毬唄や民衆に深く根ざした伝承本、さては芭蕉等に代表される俳諧、これら旧くから伝わる読み書きものを殺人の主材と位置付け、そこに巧妙な近親の怨念劇を織り込む。その文章、構成の巧みさは見事としか言いようがなく、いまだに愛好家が多いのも頷ける。
 横溝正史。この江戸川乱歩が推理小説界に推挙したと伝えられる作家のただならぬ才能は、やはり「見抜ける者が当然のように見抜いた」推挙と申せましょうね。名探偵・明智小五郎と同じく名探偵・金田一耕助には調べれば調べるほどあまりにも奇妙な符号が多く、ただしそれらは愛好家の方々にかかれば、普段日常、仲が良かったとされる乱歩と正史の延長線上、微笑ましきエピソードと思えなくもない。
 以下は筆者HPコラム、再掲文です。
  
金田一耕助
  ***『めくるめく金田一耕助への冒険』
名探偵といえば、古今東西、ホームズ・ポアロ・明智小五郎と数知れず、分けても私が非常に好んで読んだ探偵物といえば横溝正史氏の「金田一耕助」シリーズでした。
一気に先を知りたくなる文章及びその構成の巧みさ、江戸川乱歩氏も大変に好きで、よく読んだ記憶がありますが、あのなんともいえない世界観。とにかくおどろおどろしくて、人間関係のこれでもかといわぬばかりの複雑さ。他人の不幸は蜜の味というけれど、一体、真犯人は誰なのか?、最後まで興味が尽きず、学生時分、全くその筆致といい、世界観の違う松本清張氏を好む父とは、よく議論が分かれたものです。

 以下は角川映画・金田一シリーズに関する私なりの感想、それらに類することごとの羅列です。

 皆さん、ご承知のごとし、名探偵、金田一耕助シリーズは、随分、映像化されています。角川映画に先立って、あのATGでは「本陣殺人事件」を中尾彬氏が扮してらっしゃる。角川版「八つ墓村」では渥美清氏(あまりの寅さんぶりにおもわず笑ってしまいますが)。「悪魔が来たりて笛を吹く」では西田敏行氏。「悪霊島」では加賀丈史氏。TV版では古谷一行氏。先達てのTV版では、稲垣五郎氏が演じておられます。
 けれど、私の中でのイメージする金田一といえば、やはり石坂浩二氏でしょう。「犬神家の一族」や「悪魔の手毬唄」「女王蜂」「獄門島」「病院坂の首縊りの家」、これらの名演技は、とかく原作のイメージにそぐわない映像が多い日本映像界において秀逸でした。分けても巨匠・市川崑氏の監督作は、けだし横溝正史氏の世界観をよく捉えており、どうしようもない暗さの中にも、けれど見終わって何か、こちらの心に響くぬくもりがある、とでも言い表したい、独特の演出手法と言えました。
 この世界もネタが尽きた、もうそうそうオリジナルが出せない、と叫ばれて久しいエンターティメント業界にあって、「だからこそ、原作を越えられる程の映像に挑みたい」と気概を見せられていた市川氏。
 とはいえ、エンターティメントの世界に、難しい理屈は要らないのかもしれませんね。ただただ、見て楽しめる。ぐいぐいとこちらを引き込む手法がある。ほんと、秀逸でした。横溝正史作・市川崑監督・主演石坂浩二氏の金田一耕助もの。またあんな、三位一体となった映画が見たいものですね。***


 確かに好悪分かれ、横溝の作品を好まぬ方の言も察せぬわけではありません。しかしやはり氏の書かれたものをつぶさに読み綴ってみると私には明らかな大衆に根ざした氏特有の世界観が窺え、それはきっと氏が圧倒的に「人間を描いている」という点で、私はきちんと敬意を称したいと思いますし、氏がただの殺人マニアの域を超え、氏なりの独自の視点から人間の暗部の部分をも照射しようとした点において、氏は日本の戦後を代表する推理作家のひとりと申しても過言では無いでしょうね。死して早、二十五年。氏のご冥福を心よりお祈り致します。

横溝正史 - Wikipedia
横溝正史エンサイクロペディア 略称横溝ペディア
横溝正史作品リスト
IBC PUBLISHING - The Inugami Clan
Mystery of Miyamoto Private Page(1)
横溝World〜横溝正史先生の世界へ!
横溝正史資料館
横溝 正史
横溝正史ワールド
金田一耕助博物館

踏み留まらない、恒にその先へ;松本清張

清張 昭和文壇史上、一際異彩を放つ作家と申せば私の中では松本清張です。齢42にての作家デビュー、森鴎外の小倉日記に材をとった『或る「小倉日記」伝』では第28回、芥川賞を受賞しました。
「この小説は中間小説であって、純文学でもない、大衆文学でもない。ただの伝記小説だ」という識者の論評に対し、敢然と「小説には純文学小説か通俗小説しかない。私は先人の歩まぬ道を行きたい。だからこの作は、脱領域の文学だと認識していただきたい」と論戦布告しました。続きを読む

安吾は「堕ちよ」と、言った。私は「生めよ」と、もがいている。;坂口安吾2

安吾
 代沢の桜木の下でひとり、腕組みして見つめていたら、はらりと散って花弁が僕に添うてきた。かなたを想い、かのひともここでこの桜を見たろうか、とふと、そう想った僕に「おう、そうとも、ここでおまえと同じように見上げたものさ」と、どこからか声が聞こえてきた。はっとした僕はけれど現実の往来のひとの賑わいに押されて、そんなことなどあるわけないさと、ひとり心の裡に篭ってしまった。

 東京は、代沢。最寄り駅は、あの下北沢。10代の若者達が集う街が原宿・渋谷だと仮定するならば、演劇の街としても知られた下北沢は、20代、それも夢多きひとびとが三々五々、集った街と言えなくも無い。とにかく恒に活気に溢れ、なのに古着屋なんぞが点在し、アンティークなカフェがあり、おいしい酒を飲ませてちょっと懐かしい匂いが漂う街でもありました。

 僕は在京時代、20代中頃から30代前半まで、この下北沢の駅から程近い代沢5丁目というところに棲んでいました。仮の棲家とは名ばかりの木造建築の古びたアパートでしたけれど、駅から5分とかからぬ住まい、そして渋谷・新宿・吉祥寺と行き来に至便な点など、何より演劇仲間を数多く有していたのでこの地に棲みつくようになった次第です。

 安吾がこの地にかつて棲んでいたことは当時知ってはいましたけれど、引っ越してきたばかりの僕は、やはりとても賑やかなそうして憧れていたこの地に棲めたことの方が素直に満足感が先に立ち、文学探訪の気運などなんのその(笑)、自身の将来に対する期待感で胸いっぱいといった按配でした。

 そんな僕が安吾を想うようになったのは、やはり想うように生きられない、そんな焦躁感から募ったものだったのでしょうかね?、苦しいというよりも想うように生きられない自身への哀れみ、寂しさ・・・、様々な友を得て、そうして無くした場所でもありましたよ。

 そんな僕にとって忘れようにも忘れられない懐かしい場所を紹介なさる、レィルセブンさんと名乗られる方から、再び安吾に関する過去投稿記事へのコメントを賜わりました。この方のサイトに赴かせていただくと、ほんになんと懐かしい場所場所場所、想いはつと20代に立ち返るのです。忘れようにも忘れられようか。苦い想い出は憂憤の頃の自身を想って苦笑するに似たり・・・。

  安吾・過去投稿記事より。  

 坂口安吾は、本来、女性が持っている可憐さ、清純さ、そのような清楚な美しさを残虐性という名の狂気にくるんで、小説化した。「桜の森の満開の下」有名な作品です。「堕落論」では戦争に負けたのだから、日本人は堕ちよ、と言い、当時、不文律とされた天皇制をも切り込んで、復興ままならぬ、戦後間もない若者達に自身の観念を訴えかけました。

 私は、ある時期を境に思想的には彼の観念から離れていったくちなのですが、やはり戦中、戦後の作家、その代表されるひとりとして忸怩たる想いはいまでも持ち合わせております。

 彼は新潟の出で、同時代に活躍した太宰治などと同じ括られ方を文壇的にはされているようですが、太宰の書いたものに比べるとかなり思想的に気高い、エネルギッシュに人を描いたような気がします。そんな彼を思想的に、そして上梓するものに対し、最も激賞したのはかの壇一雄です。「火宅の人」で著名なこの作家がある雑誌に、安吾を批評した記事を載せているのをいつだったか見たことがある。普段から親交のあった二人とはいえ、これほど一人の作家を激賞した批評を私はあとにもさきにも見たことがない。今、ここでその激文を公に出来ない無礼をご容赦願いたいのですが、それほどまでに激評される作家とは一体何者なのか?、激評する方もする方だけれど、される方も、更に鮮烈。私の記憶に深く留まったのでした。

 時代は変わり、平成の世になって、安吾の熱烈な思想論も遠く闇に葬られようとしています。「白痴」で見せた人間のおかしみ、むなしさ、そして無頼と評された価値観も、今の時代の若者達には、馬の耳に念仏かな?、ひとつだけ、面白い逸話を。太宰、壇、坂口、三者が連れ立って、かの詩人、中原中也の宿を訪れた際、例のごとく、中原が、酒に酔って毒づき始めた。絡みの対象は太宰で、「いつもいつも女々しい、女のけつを追いかけてるような小説ばかり書きやがって!!何が流行作家だ!!」。太宰は、もうおろおろするばかり。反論どころか怖気づいている。そんな太宰を小突いた中原に、止めに入ったのが壇、「女々しい小説を書いて何が悪い!!、あれもりっぱな文学だ」と、そこでそれまで、一人黙々と酒を飲んでいた坂口が、一言、中原に詰め寄った。「およしなさい。君の書く詩も、太宰の書く小説も、僕の書く論文だって、きっとあれはみんな同じようなものさ」。アンチ安吾派に、窮屈で、反体制的な思想だと批判された安吾の、以外に懐の深さを感じさせる逸話だと、私は想います。
 


 代沢は、安吾を語るにはまた格別の地だったのかもしれません。演劇仲間に、文芸の友たちに、そうして僕が当時、好きだった女の子に安吾のことを語った記憶があります。レィルセブンさん、僕の青春のかの地、代沢のお話し、今後も楽しみにしております。そうして僕は、今、本当の古里、九州は霧島で安吾のことを旧友に語ったりもしているのですよ。

浮遊的物語世界的日記
弱虫院の詩集:文壇栄華物語
坂口安吾研究会
坂口安吾 壇一雄邸・桐生を歩く
坂口安吾 (サカグチアンゴ) - goo 映画
マシュウー・ブラック 坂口安吾の天皇制思想について
坂口安吾千日往還の碑
坂口安吾
坂口安吾の悪妻論|チョコレートカクテル
坂口安吾の言葉 - ブンガクうぃき - livedoor Wiki(ウィキ)
坂口安吾 - ブンガクうぃき - livedoor Wiki(ウィキ)
坂口安吾論
坂口安吾氏について 〜amazonレビューに感激!〜(私の思うこと・心に残ったこと) - なんとなく 楽しい日々を

ゆらりとよろめいているということ;堀辰雄

堀 懐かしい想い出を手繰り寄せるかのように、忘れかけた頃にめくってみたくなる書がある。堀辰雄『風立ちぬ』。
 有名なヴァレリーの詩句「風立ちぬ、いざ生きめやも。」に題をとったとされるこの小説には、著者が生涯見つめて止まなかったひとの死、最愛の者との儚い別れ、そこから起こる果て無き心根の葛藤、それらへの連綿たる愁傷感が横溢している。幼すぎて意味も判らず、読みかけで終わっていた書を中学の高学年で読了し、けれどそこに何を私が判然と見出せようか。この哀感の一書が、私にぼんやりとさも雲の切れ切れのようにけれどゆっくりとなびくかのように問いかけてきた時分とは、忘れもしない、19歳、その終わり頃でした。当時、私はふたつ上の女性に恋をしており、その女性がこよなく愛おしき小説家と呟いた作家こそ、堀辰雄であり、『風立ちぬ』だったわけです。彼女との往来の日々は、私に数々の夢をもたらしましたけれど、ここではそのことを深く書き綴ることは控えましょう。ただひとつはっきりと述べることがあるとするならば、私は恋した女性と当時、堀辰雄の世界をしっかと共有したという事実、それのみ。私の心根を「愛しきひと」が堀辰雄の世界へと急がせたのかも知れません。続きを読む

時事を照らす文芸春秋の創刊;菊池寛

寛
 ものの本に拠れば、菊池寛は四国・高知の生まれであり、家は代々高松藩の藩儒で、祖先に幕末の著名な漢詩人菊池五山がいた。だが、寛が生まれた明治二十一年頃には家道が衰え、実父は小学校の庶務係をしていたという。将来を嘱望される高い学習能力を有していた寛ではあったが、元来粗野に生まれついていたらしく、父の望んだ師範学校試験をわざと落第、高等科卒業のちは県立高松中学へと進学した。のちに高師、明大法科、早大法科、京大英文科と流転するわけなのですが、やはり菊池寛と申せば、大正十二年一月に彼の周囲に集った青年達を同人とした『文芸春秋』刊行があまりにも有名であろう。いまやその春秋は日本を代表するかのような時事雑誌となり、世界にも名高い。つまりはそれだけ寛の周囲には異能なる才人達があまた居たということであり、まさに寛のそれはその懐根の深さ、人望の成せる業、とも想えなくも無い。
 寛のもの書きとしての才が次第に明瞭化してくるのは、京都時代、一高の同級生らが編んだ第三次『新思潮』参加からである。この時の同級生の中に、あの芥川龍之介が居た。第四次『新思潮』でも芥川と知命を結び、その後、芥川の死する時までいわば同胞の志として深い付き合いが続く。芥川死後もその芥川の死を悼み、昭和十年、その冠名を付した芥川賞を創設させる。
 寛は芥川や久米正雄といった者達が夏目漱石の知己を得て、中央文壇で華華しく活躍を始めたときも京都にあって新聞記者として雨露を凌ぐ日々であったが、物書きとしてはいまだひとり、無名の徒であった。だが彼は泰然としていた。「僕は新聞記者として成功すれば、それで満足できる人間だ。ただ君達が大家になったら、僕もたまには雑誌社に紹介してもらってたまには内職原稿でもかかせてもらえればそれで満足だ。」本心はさて置き、さらりと寛はそう、言ってのけたという。
 のち、『中央公論』から声がかかる幸運を経て「無名作家の日記」「青木の出京」『大阪毎日新聞』連載小説「真珠夫人」等で爆発的な名声を得て、文壇に一個の確約たる地位を築くこととなる。
 寛の書く世界は、これはよく論じられることではあろうけれど、芥川のそれが一個人の内面をより深く洞察しようとはかる文章体なのに対し、彼のそれは「恩讐の彼方に」に代表されるが如く、市井の人々の普段の葛藤から生まれる所作を切り取っている点にある。通俗小説という呼び名はここから生まれているわけなのですが文字通り通俗的な世間の人々の日常、そこから起こる日々の喜怒哀楽、これらを寛流ともいう文体で仔細に描写していく。小説なるものがまだまだ一部の有産階級のものでしかなかった時代にあって、新聞という情報源の急速な発達にあいまって、通俗小説の需要も高まった、その時代の主潮が寛を呼び込んだ、ともいえるでしょう。
                     参考文献・杉森久英「菊池寛の生涯」

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女体に、美を絡めるということ;吉行淳之介

吉行淳之介 学生時分、思いだすことなど。学科の文学青年仲間で定期的に、ちょっとした集いみたいなものを催していた。そこに現れた、颯爽とした私と同年の青年。彼はひじょうに快活な男で、見てくれも立派、実際、語り口も達者、そんな彼が第一等、好きな作家として掲げていたのが、かの吉行淳之介であった。吉行には、「えもしれぬ独特の鬱積感、じめじめとしたエロチシズムがある」のだと解析する。当時、私は読まず嫌いの方ではないので、吉行の著作も一通り目は通していた。だが、彼ほどの執着ぶり、思想的に感化されるだとか、そういった感慨は受けなかった。「永井荷風だとか、谷崎潤一郎だとか、やはり、女性のなんたるかを書かせたら彼らに勝る作家は、居ない。吉行は、そんな彼らの立派な後継なのさ」弁士豊かだけに、瀧のように言葉が溢れてくる。


 私は、やはりどこか芥川だとか、太宰だとか、執心していて、女体の美なるものに関しても、どこかこう、彼のように立て板に水のごとし、というわけにもいかない。当時の私には、いかに生きるか、の方が身に迫っていて、「えもしれぬエロチシズム」と言われてもどこか上の空のようなところもあった。


 「君は、変わっている。芥川や太宰がいいと言っていながら、川端にも熱心だ。まぁ、それはそれとしても、君の好きな川端だって、いわば俺にいわせれば吉行に通じているのさ。男として人間として、女体を前にして全てのプライドみたいなもの、そういうややっこしいものを解き放って挑みかかる。そういうものを書いている。」


 当時の私は、彼に対してはあまり抗弁もしなかった。川端と吉行は、無論、あきらかに違うと想ったが、彼には私の抗弁に対し、恒に否定的観念を持ち合わせているようで、素直に聞き入るだけの方が、私にはここち良かった。


 彼は、当時、自分に酔っていたのだと思う。けれど、そんな彼を私は完全に否定はしなかった。自分に酔える、自分を知っている。彼は恒に溌剌としていた。


 それから何年もたって、一流の銀行マンに転進した彼に逢った時、私は彼にこう、尋ねてみたことがある。「今でも、君の中で吉行が第一等かい!?」彼は、笑みを浮かべてはっきりと私にこう、切り返した。「勿論!!、いまや私生活は吉行の小説、そのまんまだね」私には、彼が眩しく映じてみえた。あれから幾年(いくとせ)。彼はいまだに女体と戯れていると、聞く。
想/交わらぬ女体と男体
はてなダイアリー・吉行淳之介
とにかく吉行淳之介
吉行淳之介の純愛
淳之介の背中
一見吉行風
吉行淳之介「原色の街」を歩く
吉行エイスケ - Wikipedia
吉行淳之介 『やややのはなし』
吉行淳之介文学館






introduction

*文芸探索サイト『綾』;Literary arts search site‐『AYA』

ホラホラ、これが僕の骨―
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?

 中原中也『在りし日の歌』より

***綾見、綾織るこころの震え、深遠なる文学の聖地へ。『こころ、添う。』少しずつ不定期更新加筆中です。今後ともどうぞ宜しくお願い致します。コメント、TB、大歓迎致します。
  『こころ、添う。』http://blue.ap.teacup.com/ayamiyuuya/
 
livedoor プロフィール
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私の中の綾を織る。主に文学・文芸に関する史観・史実観・感慨・想い出・発想・暴言・思惟・ひとによっては煩瑣な極論・・・等々を綾織っております。今後、日を追って少しづつ執筆・加筆していく予定です。今後とも宜しくお見知りおきくださいませ。主管・風友仁
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