規定ぶり・・・?

法解釈の議論をする文書のなかで,「規定ぶり」という言い回しをみかける。かつては,法令の立案作業に関与する公務員(法制局の職員や行政官僚)が好んで使用していた言い回しであった。「私は法令の立案作業の実際を知っており,弁護士や裁判官とは違って,立法技術については多少の専門的心得があり,そういう立場から論じているのですが・・・」という高踏的なニュアンスを感じさせるので,在野法曹は決して使わない表現であった(はずである)。ところが,最近では,学者も法律実務家もこぞって,「規定ぶり」という言い回しを使う。先日は,相手方代理人の準備書面にも登場し,ついには,法科大学院生の民法のレポートにも登場した。弁護士は官僚意識とは無縁であってほしいものである。私は,「規定ぶり」などという勿体ぶった言い方を好まない。素直に,「文言や文理から素直に解釈すれば,」と言えば足りる。

情状弁護の目的

刑事事件ではいわゆる「情状弁護」がほとんどである。弁護士は情状弁護で何を目指すべきだろうか。

少しでも軽い量刑を得ることだろうか。それは被告人の期待するところであるが、弁護人の目的では必ずしもない。情状弁護の目的は、被告人に対して自発的な内省と変容の決意を促すこと、被告人の犯罪行為を被告人の生活歴や人格形成過程という広く、深い視点で把握し、法廷に提示することである。検察官が提出した証拠から浮かび上がる被告人の人格像は、必ず、自己中心的で刹那的で規範意識が欠如した低劣な人物である。この人格像とは異なった被告人の人格像を提示することができなければ情状弁護は失敗である。情状弁護活動は、公判審理を通じて、被告人が今後は再犯をおかすことなく、社会に適応して生きるための転機としなければならない。刑事手続がそのような場として機能するためには、検察官からの峻烈な非難の視点とは別に、被告人の犯罪行為を被告人の人生行路の一コマとして把握する「哀しみの視点」を弁護人が提示し、そのうえで裁判官は判決を下した、というプロセスが必要である。

このような情状弁護をするためには、接見を重ねる必要がある。ときには過去の前科事件の記録も閲覧し、家族、知人からも話を聞き、被告人が実際に生活する現実の環境を確認する必要もある。このような国選弁護活動は、弁護人にとって経済的に引き合わないことは当然であるが、弁護人に託された社会的責務としてやらなければならないのである。では、情状弁護活動の質は、誰が、どうやって適切に評価できるのか。それは、被告人と公判を担当した裁判官と弁護人自身だけである。

国選事件を担当し、法テラスへの報告書を作成するとき、おそらく多くの弁護士は違和感を感じているだろう。報酬の多寡はどうでもよい。否認事件であれ、情状弁護事件であれ、認定落ちを獲得したかとか、示談成立に努めたかなどの基準のもとで、自分の刑事弁護活動の「質」の評価を法テラスのような機関に委ねていることに対する強い違和感である。



過誤事例−年金分割請求、許可抗告

弁護士として依頼者のために誠実に事務処理をしているつもりでも、ときにミスは避けられない。
新人弁護士の方は、陥りやすい弁護過誤の事例を学んで依頼者と自分を守るため、全弁協叢書「弁護士賠償責任保険の解説と事例」を熟読することをお勧めする。第1集から第5集まで発行されている。

弁護士倫理に関わる諸規定は、特に研修を受けなくとも社会人としての一定の良識と誠実さがあればそれに抵触することはまず、ありえないといってよい。しかし、弁護過誤は良識や誠実さによっては回避できず、法実務についての経験と知識が不可欠である。

最近届いた第5集を通読してみたが、年金分割の請求期間徒過の事例が重要と思われるので紹介する。「弁賠保険において年金分割請求の法定期間経過の事例が非常に多数報告されている。年金分割の請求期限に十分な注意を払われるよう強く注意喚起しておきたい」とあるので、相当数の弁護過誤が生じているのであろう。

紹介された事例から学ぶべき教訓は、社会保険事務所に年金分割を請求できる期限は原則として離婚から2年であるが、離婚成立後、年金分割の按分割合を定める調停、審判をしているうちに2年が経過することがある。その場合の救済制度として、調停成立、審判確定から1か月以内に限り請求することができる。まず、妻側の代理人になったら、弁護士はこの期間制限を依頼者によく説明する必要がある。紹介事例では、按分割合を定める審判に対して夫が高裁に抗告し、抗告棄却決定が出たが、夫はさらに許可抗告の申立をした事例である。妻側代理人弁護士は、許可抗告の帰趨を確認しようと考えたためか、年金分割請求を直ちにするよう妻に助言しなかった可能性があるという。高裁の棄却決定に対して許可抗告の申立をしたからといって確定を阻止することはできない(棄却決定の告知の日から年金分割請求の期間が進行してしまう)ことをうっかりしていた可能性がある。

似たような問題が生じる事例として、相続人間で遺産分割協議ができないため、さしあたり遺産未分割で相続税の申告をしておいて調停・審判をすすめることがよくある。未分割で申告する場合、配偶者に対する相続税額の軽減などの特例を受けられないが、調停成立後、4か月以内に限り税務署に更正の請求をすれば特例の適用を受けて還付を受けられる。もし、家裁の遺産分割審判に対して抗告があり、抗告審の決定に対してさらに許可抗告や特別抗告があった場合、確定は遮断されないので、それらの帰趨を確認していたら、更正の請求期間を徒過してしまうことになる。




FAQ 動機の錯誤

民法の初学者にとって動機の錯誤はなかなか理解が難しいようである。次のような質問を受けた。

「教科書には、伝統的な通説、判例の立場の説明として、動機の錯誤も動機が表示されて意思表示の内容となった場合には法律行為の要素となりうるとする考え方である、とか、動機が意思表示の内容として表示されたときは、動機でも意思表示の内容となり、それが要素の錯誤と評価されれば意思表示は無効となる、という考え方である、という記述がありますが、その記述の意味がよくわかりません。」

たしかに、動機の錯誤に関する「伝統的な通説、判例の立場」を以上のように要約して説明する教科書が多いが、それでは趣旨がよくわからない。「伝統的な通説、判例の立場」は次のように説明すれば、それなりの合理性をもつことがわかるだろう。

「動機」は伝統的な意思表示理論からいえば、意思表示の構成要素の外にあるものにすぎない。だから、動機に錯誤があったとしても意思表示の錯誤、つまり、表示上の錯誤、表示行為の意味の錯誤(内容の錯誤)の問題は生じない。従って、動機が表示されたとしても、当然に意思表示の「内容」になるわけではない。この意味で、動機が表示されると意思表示の内容になる、という説明は正確ではない。正確にいうと、その動機となった事実関係の存在が、表意者が効果意思を形成するにあたって重要な前提事情となっており、取引通念上もそのようなものと認められる場合には、「本来の意思表示の有効性は動機として表示された事実関係の真実性に依存する」という「別個の内容をもった意思表示」が相手方になされたものと解することができる、という趣旨である。

「伝統的な通説、判例」が上記のような説明を正面からしているわけではないが、動機の錯誤を意思表示理論のなかにとりこむためには上記のような説明をする必要がある。動機の錯誤については理論上の対立はあるが、「伝統的な判例、通説の立場」は上記のような観点から取引の安全に配慮しているので結論に不都合は生じない。









「絶望の裁判所」 瀬木比呂志氏

わが国の司法の現状に対する仮借なき批判の書である。いろいろな評価があるだろうが、記述された内容は、私が弁護士として、相当の期間、訴訟事件を通じて多くの裁判官を観察してきた実感に合致する。遺憾ながら、自己の権利が不正に侵害されたとして市民が救済を裁判所に求めた場合、裁判所が期待に応えて発見してくれる真実、実現してくれる正義の範囲は、以前と比べると、次第に限られた事件になりつつある。また、伝統的な採証法則を無視する事実認定が多く、最高裁判所がこれを破棄することがほとんどなくなったので、判決の予測可能性が失われつつある。裁判所は、瀬木氏のような知性を受容できない組織になってしまい、瀬木氏のような知性を新たに裁判官として迎えることができない組織になったということである。勿論、知的レベルの衰退は法律家全体にいえることで裁判官に限ったことではない。

品位を失うべき非行とは

橋本氏の「従軍慰安婦を巡る発言」について大阪弁護士会の弁護士のグループが懲戒請求を検討しているとの報道がある。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130522-00000006-mai-soci

しかし、このような懲戒請求はするべきではない。橋本氏のこのたびの発言には、「こんな低劣でお粗末な発言をする人物が弁護士の中に存在するのか。あまりに恥ずかしくて決して同僚とは認めたくない。」と思った弁護士が多くいたと思う。私はその1人である。同様に、「何も間違ったことは言ってない。発言のタイミングと表現方法がまずいだけ。」と思った弁護士も多くいるだろう。私はかような考えに与しないが、これは思想、表現の自由の問題である。

懲戒事由の「職務の内外を問わず弁護士の品位を失うべき非行」という文言は、限定的に解釈運用しないと、個々の弁護士にとって諸刃の剣となることを警戒するべきである。懲戒制度は弁護士会の自治のもとに制度化されているが、あくまで公的、権力的な制裁である。弁護士の言動が反憲法的、反人権的だという理由で懲戒することを容認するなら、同様に反国家的、反権力的な言動をとらえて懲戒されても文句がいえなくなるだろう。「弁護士会が懲戒事由を判断するのだからそのような懸念はない」というなら、歴史に学ぶべきである。個々の弁護士の職務上の言動が反国家的、反権力的であるとして裁判所や法務省が弁護士会に制裁を求めてきたとき、弁護士会や同僚弁護士が団結して守ってくれると期待することは幻想である。

法的議論と詭弁

以下の「ソフィストの教師と弟子の争い」は詭弁の例としてよく知られている。

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ある有名なソフィストの教師がいた。「2年間,まじめに修行すればどんな論争にも勝利する技術が身につく」と評判だった。その教師は、授業料の支払いを求めるため、ある弟子を公開の法廷に呼び出した。まず、教師は、裁判官の前で次のように弁論した。

「私は、2年前、この弟子の入門を認めた。私のもとで2年間,まじめに修行すればどんな論争にも勝利する技術が身につくので、修行を終えたら授業料100ドラクマを払う、ただし、修行を終えた後、弟子が最初に経験する論争に勝つことができないときは、謝礼は不要である、という約束だった。ところが、修行を終えたのに、この弟子は報酬を支払わない。裁判官の皆さん、この不誠実な弟子に対して、その当然の義務を果たすよう命じていただきたい。」

弟子は次のように反論した。「裁判官の皆さん、私はこの教師に対して、謝礼を支払う義務はない。その理由を説明しましょう。入門のときの約束については、いま教師が弁論したとおりで間違いない。私は、あの教師のもとで2年間、まじめに修行し、どんな論争にも勝利する技術を身につけて、今、この法廷で、私は最初の論争を経験している。さて、この法廷における論争では,私は,勝つか負けるかどちらかである。私が勝てば、謝礼を払う義務はない。なぜなら、私は謝礼を払う義務がないと主張しているのだから。もし,私が負けても、やはり謝礼を払う義務はない。なぜなら、私は修行後,最初に経験するこの論争で負けるのだから。」

これに対し,教師は次のように反論した。「裁判官の皆さん、あの弟子が私に報酬を支払う義務があることは明白である。なぜなら、この法廷における論争では,私は,勝つか負けるかどちらかである。私が勝てば、弟子は報酬を払う義務がある。なぜなら、私は、弟子は報酬を払う義務があると主張しているのだから。もし,私が負けても、やはり弟子は報酬を払う義務がある。なぜなら、弟子は、修行後,最初に経験するこの論争で勝つのだから。」

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「法律的な議論」は「詭弁」とは無縁である。上記の事例を「法律的な議論」として作り替えると次のようになるだろう。


ある有名なソフィストの教師がいた。その教師は、謝礼の支払いを求めるため、ある弟子を法廷に呼び出した。まず、教師は、裁判官の前で次のように弁論した。

「私は、2年前、この弟子の入門を認めた。入門時の契約書に、『第1条 教師は、2年の修行期間でどんな論争にも勝利する技術を弟子に教えること 第2条 弟子は、修行を終えた後、謝礼100ドラクマを支払うこと、ただし、弟子が最初に経験する論争に勝つことができないときは、謝礼は不要である』と記載され、双方が署名している。これは、修行を終えたら謝礼100ドラクマを払ってもらうが、弟子が最初の経験する論争に勝つことができないときは、謝礼を返すという意味である。そして、私は2年の修行期間でどんな論争に勝利する技術を弟子に教えた。ところが、修行を終えたのに、この弟子は謝礼を支払わない。裁判官の皆さん、この不誠実な弟子に対して、その当然の義務を果たすよう命じていただきたい。」

弟子は次のように反論した。「裁判官の皆さん、私はこの教師に対して、謝礼を支払う義務はない。その理由を説明しましょう。入門時の契約書に、いま教師が弁論した記載が存在し、双方が署名したことは間違いない。しかし、教師は、契約書第2条で謝礼の支払時期をどのように定めたのかを誤解している。謝礼は修行を終えたときではなく、修行を終えた私が最初に経験する論争で勝利したときに支払うと約束したのである。そして、修行を終えた後、私は、まだ論争を経験していないのである。」

教師は次のように反論した。「未熟な弟子よ。謝礼はあくまで修行を終えたときに支払うもので、お前が最初の論争で勝利しなかったきに返還することを定めているのだ。それに、お前は自らの議論で墓穴を掘ったことに気付かないのか。かりに、契約書第2条は、謝礼の支払時期についてお前のいうとおり定めているとしよう。しかし、この法廷は、まさしくお前が最初に経験する論争である。そして、私はこの論争にお前が勝利したことを認めよう。さて、お前は論争に勝った以上、謝礼を支払うべきではないのか。」

弟子は答えた。「おお、詭弁家よ。契約書第2条の『最初に経験する論争』とは、いかなる論争でもかまわないが、私が貴方を相手とする論争だけは含まれないのである。なぜなら、そう解釈しなければ、いかなる論争にも勝利する技術をもった二人が論争することになって勝負は決着せず、貴方は謝礼を得ることができず、私は我が師に対する当然の義務を果たすことができないからである。貴方は、私が貴方以外を相手とする最初の論争で勝利するまで、謝礼を受けることを待たなければならない。」

教師は弟子を賞賛した。「わが弟子よ。お前をこの法廷に呼び出したのは、修行の最後にお前に課した試験のつもりであった。法規範の合理的解釈という技術を身につけたお前は真の論争家であり、我が弟子と名乗ることを認めよう。お前は全ての論争に勝利することはできないかもしれないが、全ての論争に正義を実現することができるであろう。」

教師と弟子は仲良く法廷を後にした。

法廷弁護士の心得(10) 和解

和解期日には必ず依頼者の同席を求め、どうしても支障がある場合には、電話などで連絡可能な状況で待機してもらうことが必要である。依頼者の同席がないまま「この程度の譲歩案であれば依頼者も了解するだろう」と考えて和解を成立させることは禁物である。代理人弁護士にとっては些末な問題なのに、なぜか依頼者が強くこだわり、どうしても説得できない事例はしばしば経験する。依頼者の意向に反した和解は、訴訟上は原則として有効である反面、依頼者との関係では債務不履行責任や懲戒事由が成立する可能性があり、代理人弁護士自身が窮地に陥る。訴訟追行場面と異なり、和解の場面では弁護士に裁量の余地はない。

敗訴の可能性が高く、その譲歩案が客観的にみればやむをえない合理的なものであったとしても、依頼者には和解を拒絶して「敗訴判決を選択する自由」がある。裁判所や代理人弁護士が説得する「譲歩案の客観的合理性」は、依頼者からすれば「余計なお世話」かもしれない。説得の努力がつきたところでは、辞任して着手金を全額、返還するのであれば格別、辞任しない以上、どんなに不合理であれ、法廷弁護士にとっては依頼者の意向を優先させなければならない。

和解条項は和解成立の前に書面にて確認することが必要である。単純な和解条項であれば、その場で裁判官が口頭で述べることを確認すれば足りるが、多少、入り組んだ和解条項の場合、裁判官から和解条項の要旨を告げられただけで和解成立とすることは大変に危険である。細かな文言の有無が紛争の根本的解決を左右することがしばしばある。和解調書の記載に誤記があると主張しても認められることはない。法廷弁護士は、和解において 「裁判官の後見的役割」などに決して期待してはならない。裁判官にとっては、目の前の訴訟事件をとにかく終了させることが重要であって、その和解解決が紛争の実情に照らしてはたして合理的かどうかは二次的な問題にすぎず、すべては当事者と代理人弁護士の自己責任である。

数学教師 坊ちゃんの時代と今

以下の数学教師の記事で、「坊ちゃん」のイナゴ騒動の場面を連想した人は多いだろう。騒動を起こした生徒らの処分を決める教員会議で、赤シャツは、生徒の寛大処分の意見を述べる。
「こういう事は、何か陥欠があると起こるもので、事件その物をみると何だか生徒だけが悪いようであるが、その真相を極めると責任はかえって学校にあるかもしれない。だから表面上にあらわれた所だけで厳重な制裁を加えるのは、かえって未来のためによくないかと思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、半ば無意識にこんな悪戯をやる事はないとも限らん。・・・なるべく寛大なお取りはからいを願いたいと思います。」

会津っぽの山嵐は反論する。
「この事件はどこから見ても、50名の寄宿生が新来の教師某氏を軽侮してこれを翻弄しようとした所為より外には認められんのであります。・・・軽侮されるべき至当な理由があって、軽侮を受けたのなら生徒の行為に斟酌を加える理由もありましょうが、何らの原因もないのに新来の先生を愚弄するような軽薄な生徒を寛仮しては学校の威信にかかわる事と思います。教育の精神は単に学問を授けるばかりではない、高尚な、正直な、武士的な元気を鼓吹すると同時に、野卑な、軽躁な、暴慢な悪風を掃討するにあると思います。もし反動が恐ろしいの、騒動が大きくなるのと姑息な事をいった日にはこの弊風はいつ矯正できるか知れません。かかる弊風を杜絶するためにこそわれわれはこの学校に職を奉じているので、これを見のがす位なら始めから教師にならん方がいいと思います。私は以上の理由で寄宿生一同を厳罰に処する上に、当該教師の面前において公に謝罪を意思を表せしむるのを至当の処置と心得ます。」

記事の数学教師の心情には同情する。ただ、坊ちゃんはイナゴ騒動の現場で、生徒の一人を二、三度こづき回したているが、連帯責任の体罰を加えてはいない。

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神奈川県小田原市教育委員会は2日、市立中学の50代の男性教諭が生徒から「死ね」「ハゲ」などと暴言を吐かれたことをきっかけに2年生の男子生徒16人を平手打ちする体罰があったと発表した。教諭は生徒や保護者に謝罪、当分の間は教壇に立たないという。市教委によると、1日午後の数学の授業に男子生徒らが遅れてきたため、教諭は「早く入れ」と促したが、複数の男子生徒が「うるせえ」「ばか」などと言い、笑い声も起きた。教諭は発言した生徒を問いただしたが名乗り出ないため、遅れてきた男子生徒16人全員を廊下に正座させた。再度、ただしたが名乗り出る生徒はなく、教諭は「卑怯(ひきょう)じゃないか」と、16人全員を平手打ちしたという。
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怒る裁判官

伝統的にわが国では、刑事裁判官の心構えとして公判審理の過程では被告人に対する怒りの感情を抑制するべきものとされてきた。 戦前の名判事とされた三宅正太郎氏の「裁判の書」には、裁きの場に連れ出された罪人の顔を見ないため、障子を閉めた向こう側から罪人の取調をした江戸時代の奉行の逸話が紹介されていた。三宅氏じしんも、自分の刑事法廷では被告人に対する怒りの感情を抑制するよう訓練したということである。
 
最近のわが国の刑事法廷では、その伝統は薄れ、「怒る裁判官」も違和感なく受け入れられているようである。被害感情を重視する世論に後押しされて、裁判官は安心して自分の素朴・自然な感情を法廷で表出するのであろう。

強姦事件の被告人の父親が情状証人で出頭し、「被害者にも世間にも申し訳ない。しかし、親としては何とか寛大にお願いしたい。」と証言した。裁判官は次のように父親に質問した。

 「あなたには娘さん、つまり、被告人の姉がいますね。」
  「はい」
 「もし、娘さんが、あなたの息子さんがしたのと同じことを他人からされたら、あなたはその他人を   許せますか」
 「・・・許せません」

以上のような質問を、気が利いた質問であるかのごとく裁判官がするとき、その職を甚だしく貶めていることを当の裁判官は気がついていない。

法廷弁護士の心得(9)ー訴状を作成する

良い訴状とは、裁判官が一読して事案の全体(勿論、原告からみた紛争の全体像)を理解でき、今後の審理において想定される主要事実レベルの争点、間接事実レベルの争点を的確にふまえた訴状である。さらに理想をいうと、裁判官が読んで、「これは原告にとってスジの良い事件である」、「原告を勝たせることがスワリの良い事件である」、と印象づける訴状である。

なお、実務家は「その主張はスジが良い」、「その認定、判断はスワリが良い」、という言い方を良くする。その意味は、主張事実が確実な証拠によって裏付けられているようにみえる、主張事実が常識に合致しているようにみえる、当該当事者の言い分を認めることが具体的妥当性に合致しているようにみえる、ということである。多分に感覚的、直感的、印象的な判断であるが、裁判官の心証に与える影響は少なくない。

具体的には以下の点に留意すれば良い訴状になる。
1 自然なストーリー
訴状において主張する事実の経過は、社会通念や常識に照らし、無理のない自然なストーリーの中で組み立てることが重要である。このストーリーは訴状で全てを語る必要はなく、その後の準備書面によって、次第に全貌を明らかにする。審理の経過を通じて、できるだけ首尾一貫したストーリーを維持する必要があるから(弁論の全趣旨として心証形成に影響する)、訴状作成の段階で、かなり詳細な事案の把握を必要とする。訴状の段階の事情聴取で事案の全貌が把握できたと考えても、その後の訴訟経過で軌道修正を余儀なくされることは多い。首尾一貫した主張をすることが重要な事案では、確実な証拠の裏付けのある主張から小出しにしていく、という訴訟方針を必要とする場合がある。

2 立証見込みのない主張をしない
自然なストーリーといっても、証拠が薄弱では無意味である。従って、主張事実は、〜茲い里覆せ実、⊂攀鮠紂¬税鬚併実、N証できると合理的な見通しのある事実によって構成されなければならない。

3 感情的なことは記載しない
訴状のなかで、ことさら提訴の正当性を強調したり、被告の不誠実を非難するなどの記載をするべきではない。依頼者には喜ばれるかもしれないが、相手方の攻撃感情を刺激して紛争を深刻化、険悪化させるだけであって、それによって裁判官の心証を引きつけることはできない。何より、法律文書としての品格に欠ける。ただし、事件によっては、提訴の目的や紛争経過における依頼者の行動が条理、社会正義、道義の観点からみて支持、是認すべきものであること、少なくとも、違法、不当ではないことを説明するべき場合もある。政策形成訴訟、一般条項の適用が問題となる訴訟がそうである。

訴状を作成するために依頼者と面接するときは、次の点に注意する。
1 面接の目的は何か
提訴を希望する依頼者と面接する目的は、まず、依頼者は提訴によってどのような利益を獲得したいのかを把握するためである。依頼者が提訴によってその利益の獲得を追求することが、条理、社会正義、道義の観点からみて支持、是認すべきものであること、少なくとも違法、不当でないことを確認しなければならない。例えば、依頼者の真意が、もっぱら提訴によって被告に復讐したり、困惑させることにある場合は、受任を控えるべきである。
次に、勝訴判決を獲得する合理的な見通し(証拠)があるかを検討するためである。以上の2点をクリアできなければ受任してはならない。

2 面接の方法
上記の面接の目的を達成するため、まずは、依頼者に「紛争の経過のひととおり」を語らせることが妥当である。ただ、多くの依頼者は、「紛争の経過を話して下さい。」と言うと、ここぞとばかりに話し始め、弁護士が遮らない限り、いつまでも話をやめようとしない。時系列や5W1Hは無視するし、話はあっちこっちに脱線するし、相手方や関係者をやたらに非難攻撃するし、紛争の全体像を容易に理解できないことが多い。短時間で要領よく面談を終えたいときは、依頼者に自由に語らせるのではなく、「私の質問したことだけに答えて下さい。」と言いたくなる。
しかし、話が脱線しないように適宜、軌道修正をすることは必要だが、できるだけ、依頼者に「紛争の経過のひととおり」を語らせることが大切である。それは、提訴によって依頼者が何を獲得したいのか、その真意、本音を観察することができるからである。それが妥当なものであれば、可能な限り、法的な請求として構成し、すくいあげる必要がある。もし、不当な目的が判明すれば受任を控えるべきことになるかもしれない。
また、弁護士の予断で事案の内容を割り切ってしまうと、重要なポイントを見逃すおそれがある。紛争には必ず、個性があり、定型的なパターン処理になじまない。
 ひととおり話を聞いたら、弁護士から質問する。質問のポイントは、依頼者の言い分が、社会通念や社会常識に照らし、無理のない自然なストーリーとして組み立てることができるか、合理的証拠により立証可能か、予想される相手方の反論や裁判官の疑問に答えられるか、という観点で質問する。ときには依頼者が触れられたくない点を聴くことになるし、依頼者の言動、価値観を批判し、考え方を改めさせる必要も生じる。依頼者の感情を理解し、共感することは大切だが、それは弁護士の最優先の考慮事項ではない。逆に、依頼者に安易な迎合をしていないか、事案処理にあたって真実を曲げていないか、社会的に是認されない目的や動機のために弁護士が利用されていないか、と自戒することがより重要である。

説得力のある法的議論をするためには

法律の初学者のために説得力ある法的議論のしかたについて説明しておこう。

法的議論は、それが結論としてどんなに受け入れがたい議論であれ、法的三段論法の形式に則っている限り、法的議論としては成立するのであり、それを「間違い」と評価することはできない。法的議論を評価する視点は、「正しいか、間違いか」ではなく、「説得力があるか、乏しいか」である。説得力ある法的議論をするにはどうすればいいか。

法的議論を組み立てるときの実際のプロセスは、まず、論者にとって望ましい結論、直感的に妥当とみえる結論を仮定的に設定する。次に、その結論に到達することが可能となる大前提、小前提の組み合わせを可能な限り、多く想定し、もっとも説得力がある組み合わせを最終的に法的議論として選択する。では、法的議論の説得力とは何か。法的議論の説得力は、三段論法の大前提の議論、小前提の議論のそれぞれの場面で問題となるが、ここでは大前提における説得力についてみてみよう。

大前提の議論では、適用されるべき法規範の内容に関する議論をする。「法解釈」とか「規範の定立」というのがこれである。具体的紛争では、法律上の争点として、民法のある条文や契約書のある条項の意味が問題となることがある。このとき、当事者は、当該条文や条項を解釈し、当該事件を含む一定類型の事実関係については、当該条文や条項は、自分に有利な一定の意味をもつ法命題を含んでいることを主張する必要がある。初学者の議論や答案は、抽象的法命題から具体的法命題を導出するプロセスを疎かにする傾向があり、実定法の条文から直ちに事実をあてはめて結論を導くことが法的三段論法であると考えがちである。しかし、これでは、結論に至る必然性がわからない。法的三段論法の説得力の核心は、抽象的な条文から具体的法命題を導出する部分にあることを認識する必要がある。人身損害賠償請求訴訟において、注意義務の内容をどのように措定するか、という場面が典型である。

かように「法解釈」とは、条文などの法規範の意味を、より具体的な法命題へ転換する作業である。条文などの法規範は、個別の具体的紛争を離れて一般的、抽象的なかたちで記述されるから、法規範が適用されるか否かが不明確な事例が必ず、生じる。法解釈の目的(有用性)は、適用されるか否かが不明確な領域をもつ法規範を、できる限り、適用される領域を明確とし、予測可能性のある法規範として記述することにある。ある議論が法解釈論として意味があるのは、抽象的な法命題をより具体化し、その適用領域を明確ならしめ,法適用の予測可能性を高める場合に限る。抽象的な法規範を何ら具体化していない解釈論は,同語反復であり、説得力を云々する以前の問題であり、解釈論として無意味である。しかし、法解釈論と称して、実は同語反復にすぎない例は学説でも判決でもしばしばみられる。

説得力ある議論であるためには,具体的紛争の解決として,妥当な結論をもたらすものでなければならない。健全な社会通念、常識的感覚,正義・公平の観念、社会秩序といった価値観念に合致することである。一般人の素朴な法感情といってもよい。これは,直感的,印象的なものであり,特別の説明がなくても共通の理解として肯定されることが多い。

しかし、具体的妥当性だけでは説得力ある解釈論とはいえない。それが全体の法体系・法原理・法原則によって根拠づけられ、論理的に導くことができること,少なくとも矛盾しないことが必要である。解釈という作業は多かれ少なかれ「法の創造」という性質をもつけれども,建前上、解釈者は実質的な立法権限をもつべきではないから、抽象的法命題を,それを支える法体系,法原則から、必然的、合理的に導出、根拠づけた議論であるという外形を解釈論は装う必要がある。また、根拠を明示することによって、解釈論によって提示された法命題の適用範囲が妥当する領域を限定し、適用範囲を予測可能なものとすることができる。このような理由で、法解釈論の説得力とは、具体的妥当性だけではなく、それ以上に、形式的な正当化、根拠付けを必要とする。だから、相手方が提示した解釈論への反論は、その議論の体系的,法原理との矛盾、不適合性と具体的妥当性の欠如という観点からのみ、なされなければならない。相手方の議論の背景にある党派的利害、偏見などを暴露することは、それが事実であるとしても、相手方の法的議論の正当性を批判したことにはならない。

法廷弁護士の心得(8) 相手方の言い分を確認する

事案処理にあたって弁護士が注意するべきことは、「依頼者の言い分を鵜呑みにした」という批判を受けないようにすることである。たとえば、金銭トラブルの相談で、誠意のない相手方に対する債権回収の手段として、弁護士が代理人として詐欺、横領で告訴する旨の内容証明郵便を出してほしいと依頼されることがあるだろう。依頼者の話や依頼者が提供した資料からすると相手方の行為は詐欺、横領といえる場合でも、相手方の言い分を確認しないで、貴殿の行為は犯罪である(またはその嫌疑がある)と記載して代理人弁護士として送付すると、あなたは、懲戒処分を受ける可能性が高い。相手方を被疑者として刑事手続が開始すれば問題ないが、通常の金銭トラブルで警察が動くことは、まず、期待できない。こういう手紙は本人名で送付させるべきであるが、どうしても弁護士の名前を出す必要があるのなら、「当方依頼者の説明が真実ならあなたの行為は詐欺、横領といわざるをえず、相応の法的措置をとらざるをえませんが、念のため、貴殿の言い分を確認する必要があるので、お尋ねいたします。」などと、相手方の弁明を聴取する手続を省略してはならない。

金銭トラブルで仮差押えの依頼を受けたときは難しい問題がある。依頼者の言い分や証拠資料からすると、被保全債権が存在することの疎明は一応、整っていると思われる場合、多くの弁護士は、相手方の言い分を確認するようなことはしないで直ちに申請手続をするだろう。保全処分の性質上、原則としてそのような処理でよく、逆に、相手方へ確認したことで保全の機会を失すると、依頼者に対する任務違反となる。しかし、稀にではあるが、依頼者の説明を聞いても、相手方が債務の履行に応じない理由が今ひとつ、よくわからないが、とにかく直ちに保全処分をしてほしい、とせかされる場合がある。これは依頼者が弁護士に重要な情報を隠して保全処分により相手方に圧力をかけようとする危険な事例であり、新人弁護士はそのような依頼者もいることを認識する必要がある。単なる不誠実や手元不如意で履行に応じないのか、それなりの根拠があって応じないのか、という点を確認しないで、推測を交えて陳述書を作成して仮差押えの発令を受けて、もし、本案で敗訴すると、代理人弁護士は相手方から損害賠償請求や懲戒請求を受けるだろう。

弁護士業務は、依頼者の相手方に対する攻撃、権利侵害を伴うのであり、弁護士業務の社会的な相当性、許容性は、依頼者に対する忠実義務の満足よりも事案処理の公正さよって支えられている。

法廷弁護士の心得(7) 原本を確認する習慣

最近の訴訟慣行で気になることは、書証の原本確認をおろそかにする傾向である。争点に関する重要な書証が提出された場合、当然に原本で証拠調べをするべきものだが、申請者から、「写し」として提出する旨を述べ、相手方から特に異議を述べないときは、裁判所は原本を確認しないですませる例がある。本人訴訟なら裁判所も警戒するだろうが、弁護士が代理人としてそのような提出のしかたをすると、裁判所も、相手方代理人も、信頼感ないし遠慮から、つい、放置しまうおそれがある。しかし、これは真実を誤る危険があるので、あなたが相手方の訴訟代理人となったら、必ず、異議を述べ、原本による取り調べを求めなければならない。ことに、最近の裁判所は文書の成立に関する認否を個別的にとらないで、特に争わない限り、成立に争いがないものと取り扱うので、当方に不利な重要な書証について原本を確認しないまま、何となく、原本の存在に争いがないものとして取り扱われることを看過してしまう。

私が経験した例であるが、相手方代理人から写しとして提出された書証があり、つい、原本確認をしないで訴訟を進行させたが、訴訟終盤になってどうも不審があるので原本の提示を求めたところ、相手方当事者が原本に変造を加えたものを相手方代理人にファックスし、相手方代理人はそれをそのまま、書証として提出したことが判明した。相手方弁護士にとっては大変に恥ずかしいことであったが、書証というものは細心の注意をもって取り扱わないと、事件そのものを台無しにしてしまうのである。かようなことが実際にあるので、法廷弁護士としては、相手方弁護士の倫理性や誠実性をことさら疑う必要はないが、相手方当事者や自分の依頼者の倫理性や誠実性については、つねに警戒を怠ってはならない。

法廷弁護士の心得(6)−物語の力

優れた法廷弁護士は、物語の良き語り手である。これはある程度、法廷活動を経験するとすぐにわかることであるが、新人弁護士のために確認しておこう。法廷活動において説得力のある法的議論を展開するためには、法的三段論法の小前提である事実の提示の段階で、「物語の力」を借りる必要がある。

要件事実論は結局のところ、裁判官のために使い勝手の良いように考案された審理ツールである。勿論、要件事実論の目的は、効率的に事案の真実と正義を発見することにあるけれども、「裁判官からみた事案の真実と正義」は「当事者からみた事案の真実と正義」とは必ずしも一致しない。法廷弁護士は、依頼者からみた事案の真実と正義を裁判官に説得することが仕事であるが、要件事実論だけではこの仕事を達成することはできない。要件事実は、依頼者から見た紛争の全体像=物語の一部にすぎない。

ここでいう「物語の力」というのは、いわゆる「事実認定論」のことではない。裁判官は、争点事実の認定方法として、争いのない事実と証拠上明らかな事実を手がかりとして、それらの「動かしがたい事実」を無理なく連結するストーリーを提示できるか、という観点から判断する。しかし、事実認定論も、結局、裁判官からみた事案の真実と正義の発見方法にとどまる。物語の力とは、依頼者からみた事案の真実と正義を、否応なく裁判官に説得するための技術である。物語の力は、教科書で説明されることはなく、裁判官も表向きは認めようとはしない。それは、優れた法的議論に不可欠の「レトリック」の一つであり、カタルシスを必要とする人の本性に着目している。

何人であれ、物語の力から逃れることはできない。人生や社会の現実は、不条理、酷薄、無惨であり、そのことを私たちは良く知っている。だから、私たちは、小説や芝居や映画の中に「良き物語」を求める。裁判官も「物語の力」から逃れることは不可能である。要件事実論と事実認定論に縛られつつ、できることなら、法廷において、ひたむきな努力がいつか報われる物語、夫の専制的な支配に耐え続けた妻が子供と共に人生をやりなおす物語をみてみたい、と裁判官は無意識的に願う。

だから、法廷弁護士は、物語の良き語り手でなければならない。それは、手垢のついた、通り一遍の物語ではなく、依頼者に固有の物語でなければならない。また、単純な勧善懲悪の物語ではなく、依頼者の人間性の弱さ、狡さを暖かく包み込んだ物語でなければならない。

勝てますか?

依頼者から、「大丈夫ですか。勝てますか。」と聞かれたとき、何と答えるか。

勝訴を請け負うことは許されないが、悲観的な材料を強調したり、「裁判はやってみないとわからないから、五分五分。」というのも芸がない。

「勝訴の可能性が高いとは思いますが、相手方からどんな反論があるかもわからないし、証人が本当のことを証言しないかもしれないし、裁判官が証拠を正しく評価してくれないかもしれないので、確実なところはわかりません。」というのは、自分の非力を責任転嫁するようで弁解がましい。

かつて、先輩弁護士から教わったのは、「あなたの話が本当なら勝てます。」という答え。これは簡単でいいが、依頼者を信用していない印象を与える。

私が気に入っている答えは、「私がこの事件の裁判官なら、必ず、あなたを勝たせてあげます。」というもの。これでたいていの依頼者は笑って理解してくれる。

錯誤論と同時存在の原則

要件事実論と民法解釈論(民法学説)とはどういう関係にあるか。要件事実論はあくまで民法解釈論を前提とし,それをふまえた理論であって,要件事実論が民法解釈論を指導したり,変更することはない,というのが大方の見解である。勿論,それは正しい。しかし,実務家は権利根拠規定,権利障害規定などの範疇で考察する癖がついてしまうので,つい,要件事実論によって民法解釈論を指導してしまうことがある。その一例が,錯誤における事実と認識の同時存在の原則の問題である。

民法解釈論の難問のひとつに、契約当時に双方当事者が前提としていた事情がその後,予想外に変化した場合に,どのような法理を適用するかという問題がある。実務家は、錯誤とは意思表示の時点において客観的に存在する事実と認識の不一致の問題であり,将来の予測の誤りは錯誤の問題ではないと考える。錯誤は権利障害規定,即ち,法律効果の不発生をもたらす規定であるから,錯誤の事由は意思表示の時点で同時存在する必要があることは当然だからである。将来の予測の誤りを錯誤の事由に取り込んでしまうと,いったん,法律効果が発生した後,予測の誤りが生じた時点で法律効果が無効となり,その場合,錯誤は権利障害規定でなく,権利消滅規定になってしまう。実務家はこのように考えて,錯誤における同時存在の原則を自明の公理のようなものと考える傾向がある。

結論からいえば,将来の予測の誤りを錯誤の問題として処理する解釈論は説得力が乏しいと思われる。しかし,それは,錯誤論において同時存在の原則なるものが初めから妥当するからではなく,民法の体系的な整合性から根拠づけられるべき問題である。民法解釈論からいえば,錯誤の規定が事案によっては権利障害規定となり,あるいは権利消滅規定となっても何の問題もないのである。

法廷弁護士の心得(5)−いかにして裁判官を説得するか

裁判官の判断プロセスは次のようなものであろう。

訴訟の勝敗は,裁判官にとって,どちらの当事者の法的議論が説得力において優越するか,で決める。
法的議論の説得力は実質的妥当性と論理的整合性という2つの基準で判定する。
実質的妥当性とは,正義,公平に合致するかどうか,であり,多分に直感的,感覚的なものである。
論理的整合性とは,法的三段論法の推論形式に適合するかどうか,である。具体的には,大前提としての法規範の定立が実定法規範と整合するかどうか,小前提としての事実が経験則に合致するかどうか,という観点で評価する。

単純モデルで示すと,訴訟における双方当事者の法的議論の説得力の程度を10点満点で評価し,実質的妥当性の配点を5点,理論的整合性の配点を5点とする。裁判官によっては実質的妥当性と論理的整合性の配点は5:5ではなく,6:4,4:6のこともある。

配点が5:5の場合,裁判官は双方当事者の主張,立証を採点して,たとえば,実質的妥当性では原告4:被告1,論理的整合性では原告2:被告3 のように得点を配分する。説得力の評価は絶対的なものというより,相対的な優越性の問題だからである(とくに実質的妥当性は正義の配分の問題である)。

その結果,点数の高い方を勝訴とする。ただし,足切り制度があって,論理的整合性が0点ではどんなに実質的妥当性が高くても敗訴する。論理的整合性は必ず1点は必要であり,権利濫用のような一般条項でかろうじて救済できるような場合が1点である。破産免責を得た債務者に対する貸金請求のように,実定法規範に正面から衝突するような権利主張は論理的整合性は0点なので,いくら実質的妥当性が高くても(原告たる債権者が貧窮に陥り,債務者が経済的に更生したような場合),原告は勝訴できない。

原告と被告の得点が5点どうしであれば,裁判官は判決に苦慮する。事実認定の問題ではないから立証責任は働かない。裁判官が和解にこだわるときはこういう事例であり,和解ができないときは,何とかしてどちらかの点数を5点以上になるよう,無理にでも理由を探して調整する。こういうときは,決着は高裁でつけてもらうか,高裁の和解に期待して,目をつぶって決断する。

法廷弁護士は以上の基準で,提訴時から弁論終結時まで,裁判官の心証を推測し,裁判の結果を予測し,和解の可否を検討する。5:5なら,勝敗の行方はギャンブルとなり,裁判官の個性に依存する。6点以上で勝訴の可能性がみえ,7点以上で勝訴の可能性は高くなる。


だから,法廷弁護士は,主張,立証において,論理的整合性を意識する必要があるが,同じくらい,実質的妥当性を意識する必要がある。要するに,正義,公平などの価値に照らして自分の依頼者が何故,勝訴しなければならないか,という説得である。法廷弁護士はこのことを知っているので,準備書面や尋問の場面において,自分の依頼者と相手方とを単純な善悪二分論で区別する傾向が強い。ときには激しい人格攻撃の応酬となったり,代理人どうしが敵対したりする。しかし,このようなやり方は見苦しいし,何よりも裁判官を説得することはできない。自分の依頼者を勝たせることが実質的妥当性に適うことを,品位ある(decent)方法で裁判官に提示すること,これが法廷弁護士の力量である。

では,どのようにすれば,品位ある方法で実質的妥当性を示すことができるのか。それは,よく言われることだが,「物語」の力によって示すのである。有能な法廷弁護士は,依頼者の立場から良い物語を語ることができる。このことを次回から具体的に説明しよう。

なお,論理的整合性が0点では勝訴できないことがわかる実際の裁判例として,殺人事件の犯人が死体を隠匿し続けて26年後に自首して死体が発見され、被害者の相続人が不法行為による損害賠償を請求した事案がある。
一審は20年の除斥期間(民法724条)により損害賠償請求権は消滅したと判断したが、控訴審は「民法160条の法意に照らし」、当該事案では除斥期間の効果は生じないとし、最高裁(平成21.4.28三小 判例タイムズ1299-134)もこれを支持した。
一審裁判官は実質的妥当性は被害者遺族に5点満点で加害者側は0点であることを百も承知で、論理的整合性は被害者遺族が0点(除斥期間とみると、権利濫用、信義則違反の主張すら失当となる)なので、どうしても被害者側遺族を勝訴させることができなかったのであり,誠に苦渋の判決であったに相違ない。もっとも,一審判決は最高裁判例に反対して20年は除斥期間ではなく時効だという解釈論を展開すれば論理的整合性もクリアできたのであり,最高裁判例に従うべきという裁判官の職務規範(緩やかな意味ではそのような職務規範を肯定してよい)を実質的妥当性を実現するという職務規範よりも優先させた点で一審判決はいかにも腰が砕けているが,それは別論としよう。
控訴審では20年が除斥期間であることを前提としつつ民法160条の法意を援用して被害者遺族を勝訴させたのだが(被害者遺族の代理人が民法160条の趣旨により当該事案では除斥期間の適用がないとの議論を展開し、裁判所がこれを採用した)、160条という実定法規範を援用できたことで論理的整合性が1点以上を獲得でき、控訴審の裁判官は安んじて被害者側遺族を勝訴させることができたということであろう。




法廷弁護士の心得(4)−尋問技術について

すでに強調したように、尋問技術の要諦は、尋問者の質問とそれに対する本人、証人の応答の全てをコントロールできること、コントロールできない応答がなされる可能性のある質問はしないということにある。

主尋問では、本人、証人の応答はすべて予想の範囲内にあるはずである。有利な事実だけでなく、ときには主尋問のなかで、こちらに不利な間接事実について先回りして質問し、それに対する的確な回答(反論)を引き出しておくべきである。相手方の弁護士は、自分がせっかく準備した反対尋問の論点がつぶされてしまい、がっかりするだろう。不利な間接事実に対する弁解を主尋問でする場合と反対尋問でする場合を比べると、主尋問で弁解する方が容易であることは明らかである。反対尋問では決して弁解させてはくれないし、暖かく弁解を受け入れてくれることはないからである。

なお、こちらに不利な事実を主尋問で指摘して弁解させておく、という方法は、刑事事件の情状弁護における被告人質問、情状証人に対する尋問でも有効である。練達した刑事弁護人は、被告人の身勝手さを峻厳に批判する質問をして被告人を叱りながら(しかし、決して皮肉や当てこすりを交えることはない)、最後には包容力をもってその弁解を受け入れる、という微妙なテクニックを心得ている。これをやっておけば、検察官の意地悪で感情的な質問に被告人や情状証人を延々と曝すという法廷場面(これは無意味で野蛮である。刑罰は峻厳に、しかし、理性的に下すものである)を少しは防げるだろう。

反対尋問において、本人、証人の応答をコントロールするということは、質問に対する本人、証人の応答を可能な限り予想し、どんな応答がなされても、更に追求できる材料をもっている論点に絞って質問するということである。これは容易なことではないが、陳述書の提出が実務慣行として定着するようになった現在、十分、可能なことであるし、陳述書の効用はまさしくそれを可能にすることにある。もし、相手方の本人、証人の尋問の中で、予想していなかった不利な事実が突然、引き出された場合はどうするか。そのような事実は、争点整理において、少なくとも、陳述書において予告されるべきものであるから、事前に陳述書に記載されず、突然、法廷で飛び出した経過の不自然を弾劾できるだろう。重要な事実であれば、陳述書に記載がなかったことを理由にその点に関する調査と反証の機会を裁判所に求めるべきである。

反対尋問に成功するためには、周到な準備、相当な時間を必要とする。反対尋問の準備では、全ての主張、証拠を再度、吟味して頭の中に叩き入れ、尋問中は記録中からいつでも必要な材料を引っ張り出せるようにしておくこと(問題にする主張や証拠を探すために記録をあちこち探すのは時間の無駄であり、尋問の流れを阻害する)、予想される応答とそれに対する質問をできる限りシミュレーションし、質問する事項と順番を選別し、相手方から異議の出ない質問のしかたを工夫することに費やされる。

反対尋問をする弁護士は、本人、証人よりも精神的に優位に立っていなければならない。これは、決して尋問者が尊大に振る舞うということではなく、むしろ逆である。あなたは、周到に準備して法廷に臨み、事件の全体像を誰よりも自分が把握しているという自信をもっているはずであり、その自信をもつために周到な準備をするのである。その自信こそが「精神的優位」という意味である。精神的優位にあるあなたは、相手方本人や証人がどんな虚偽を述べようとも弾劾する準備をもっているから、丁重で礼節を保った態度で尋問できるはずである。尋問中に横柄な態度をしたり、感情的に振る舞う弁護士は、準備不足のために相手方本人や証人の回答に不安をもっているからである。反対尋問とは、あくまで恭しい態度を保ちながら、相手方本人や証人が「嘘つき」であることを婉曲に暴露する場である。

弁護士になったばかりのあなたは、依頼者の正義を守るため反対尋問に張り切って臨み、相手方本人や証人の不誠実な供述に対して、怒りの感情をもって尋問するかもしれない。しかし、反対尋問では、相手方本人や証人の回答をコントロールするだけでなく、自分自身も完全にコントロールしなければならない。法廷で自分を抑制できず、感情的に振る舞うことは法廷弁護士の恥と心得るべきである。法廷弁護士が尋問中に怒りの感情を見せるとしても、それは慎ましく、抑制した演技でなければならない。

反対尋問に成功したとき、あなたは法廷弁護士としての達成感を感じるだろう。法廷で自分が正義の一部になったような陶酔感である。映画「Philadelphia」で、法廷弁護士である原告が、次のように質問に答えているように。

Q. All right, um, are you a good lawyer, Andrew?
A. I'm an excellent lawyer.
Q. What makes you an excellent lawyer?
A. I love the law. I know the law. I excel at practicing.
Q. What do you love about the law, Andrew?
A. I.. Many things. What do I love the most about the law?
Q. Yes.
A. It's that every now and again, not often, but occasionally, you get to be a part of justice being done. That really is quite a thrill when that happens.

しかし、法廷弁護士として反対尋問の経験を積み重ねていくと、いつしか、あなたは虚偽を述べて自分を守らなければならない相手方本人や証人に対して、怒りよりも哀しみの感情をもつようにだろう。たとえ反対尋問に成功しても、高揚感よりも戦士としての悲哀を感じるようになるだろう。

法廷弁護士の心得(3)−尋問技術について

尋問技術については心得るべきことが多くあるが、まず、主尋問、反対尋問を通じて、弁護士であるあなたが心得るべきことは、何のために尋問をしているのかを常に自覚しておくことである。

自分がいかに精力的に事件に取り組んでいるかを依頼者にみてもらうためではない。自分が世間智にたけていることや、にわか仕込みの専門的知識を傍聴人に披瀝するためでもない。事件によってあなたに喚起された正義感情や相手方に対する攻撃感情を満足させるためでもない。尋問を目的はただひとつ、その事件の判決を書く裁判官が(運悪く、真実の発見にひどく無関心な裁判官にあたってしまった場合であっても)、判決を起案するとき、否応なく、あなたの依頼者に有利な事実認定をするほかないような証拠状況にもちこむことであり、そのためには、この本人、この証人からいかなる事実を引き出すべきであるか、引き出すことができるのか、それだけを念頭において、尋問の主題を選択し、尋問の順序、内容を組み立てなければならない。判決に反映される可能性のない事項を尋問することは、無意味であり、迷惑である。自分が裁判官の立場として想像してみよう。半日、ときには終日にわたって行われる集中証拠調べに、ほとんど沈黙を守って、弁護士のパフォーマンスを注視するだけである。これだけでも苦行なのに、判決に影響しない尋問を延々と聞かされれば、たとえ有利な心証をもっていても、その弁護士に反感をもってしまい、本来の認容額の1割位を減額して密かに報復したくなるであろう。

主尋問は、あなたの立場からみた事件のストーリーを裁判官に納得させることが目的である。わかりやすくするため、時系列に沿って事実経過を尋問するが、準備書面で事件のストーリーは提示ずみであり、陳述書も提出しているから、誘導尋問を駆使して時間を節約し、争点に的を絞って具体的事実を引き出す。本人や証人が供述することは完全にあなたが予測できなければならず、関係のないことや、不利なことを言い出さないようコントロールできなければならない。適切な主尋問のためには、どんなに安心と思われる本人、証人でも、必ず、事前のテストが必要である。主尋問の段階でストーリーが崩壊する失敗は決して少なくない。陳述書を作成するときはすらすらと話をしていても、法廷では、一歩も二歩も後退した供述になり、あいまいになることは通常である。逆上して、「打合せと違うじゃないですか」と法廷で怒鳴る弁護士はまことに無様である。争点について、誘導を交えないで、どこまで具体的に語ることができるかどうかを一問一答で確認しなければならない。更に、相手方代理人の立場にたって、どんな反対尋問があるかを予想し、その尋問に対する準備をしなければならない。反対尋問に対して無防備なまま本人や証人を法廷に出してはならない。

反対尋問では、時系列は関係がない。争点だけに焦点をあてる。反対尋問では、こちらのストーリーに沿う有利な主要事実を引き出すことは不可能であるのに、それを求めて押し問答を繰り返す弁護士が多い。反対尋問の目的は、相手が提示したストーリーを破綻させる間接事実、こちらのストーリーに沿う間接事実を引き出すことに尽きる。反対尋問においても、相手方本人や証人が、関係のないことや、こちらに不利なことを言い出さないようコントロールできないような質問をしてはならない。どんな答えが返ってくるかを予測でき、不利な答えに対しては更に不自然さを追求する質問が準備できていない限り、質問してはならない。

誤解のないようにいうと、主尋問や反対尋問において、本人や証人が不利なことを言い出さないようコントロールしなければならない、という尋問技術の目的は、片言隻句や断片的な情報によって全体の真実が誤って裁判官に伝わってしまい、真実に反して不利な心証をとられることがないよう、供述内容を完全に予測し、コントロールしなければならない、ということである。法廷という特殊な場の限られた時間の中で、尋問によって事件のストーリーを誤りなく生き生きと再現するには、尋問者たる弁護士の細心の配慮が必要なのである。法廷弁護士の多大な苦労はここにあり、伝統的に形成された尋問技術の目的もここにある。

最近の判例タイムズで尋問技術の座談会の記事があったが、ある裁判官は、現実性に乏しい説例を引用して尋問技術の倫理性に疑問を提示しておられた。「尋問技術に関しては裁判官でさえもこの程度の認識なのか」と意外でもあり、興味深いことでもあった。法廷供述がいかに危ういものであるか、法廷供述によって真実を真実として再現することがいかに難しいものであるかについては、弁護士でなければわからない部分があるようである。





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