今日はちょっぴり悲しい話をすることにする。それは僕がこの前買った最新の大型薄型テレビに関する話だ。実は僕の家には長らくテレビと言うものがなかったのだけれど、ワールドカップを見るためと、いったい世間の人達はどう言う情報に普段から接しているのかとても興味があったので買うことにした。僕はネットなどの口コミで大体どの薄型テレビを買うのか決めていた。そして実際に実物を見るために有楽町のビックカメラをたずねた。有楽町のガード下を銀座の方に向いて歩いて行くと、すぐに左手に見えるビックカメラのテレビ館だ。ものすごく蒸し暑い夜だった。店内には仕事帰りのサラリーマンが最新の3Dテレビを鑑賞したり、さまざまな携帯電話に見入っていた。iPhone4の予約ブースもあって、そこではOLらしき人が次から次へとソフトバンクの複雑怪奇な料金システムについて質問を投げかけていた。

ネットからの情報でいくつかのモデルに絞っていた僕は早々とお目当てのテレビを見つけた。ネットで大体の相場も調べておいた。僕はさらにくわしい説明を聞くために店員を探した。すぐにテレビコーナーを担当している若い店員を見つけた。名札から彼の名前が安藤だと言うことがわかった。年齢はおそらく30歳前後。中肉中背。少し脂ぎってぺったりとした黒髪と、くたびれたメガネが印象的な男だった。
「このテレビの購入を考えているのですが、似た機種も合わせていろいろ教えて欲しいのですが」僕は言った。
「わかりました。46インチ程度の液晶ですね」安藤が答えた。
その後安藤は僕にメーカーごとの長所と短所を丁寧に教えてくれた。このタイプの液晶は動きの速い画像にはいいがコントラストが弱いだとか、値段だけを考えたらこのメーカーがいいとか、バックライトをLEDにすることの利点や欠点などだ。それはビックカメラのテレビ担当者としてマニュアル通りのセールストークだったのかもしれないが、実際のモノを見ながら安藤のたくみな説明を聞くと、ネットではわからなかった様々なことがわかった。僕はビックカメラの店員のレベルの高さに大いに感心した。そして僕はどのテレビを買うかを決めた。それはもともとここに来るまでの間におおむね決まっていたのだけれど、安藤の説明で確信に変わった。僕に必要なのはこのメーカーのこのテレビだと言うことに心から納得したのだ。

「これ買おうと思っているんですけど少し安くなりませんかね?」僕は言った。
「これぐらいでどうでしょうか?」安藤は僕に電卓を叩いて見せた。
一気に2万円も下がった。東京では値切っても無駄だと言うが、実はそんなことはない。意外とあっさりとまけてくれるものだ。今回は少々あっさりしすぎているのだけれど。いくらまでまけれるかもおそらく最初から決まっているのだろう。だとしたら安藤が最初からその値段を出してくるとは考えられない。そこで僕はその値段では買えないと言わんばかりのむずかしい顔をした。有能な営業マンである安藤は僕のそんな表情をすぐに読み取りさらなるディスカウントを提示してきた。ポイントを通常の8%から10%にすることを提案したのだ。30万円あまりの商品を買うのに2%だと6000円もの経済的価値がある。しかしそれでも僕が想定していた買値よりはずいぶんと高いものだった。つまり僕は首を縦には振らなかった。そんな僕を見かねて安藤は「ちょっと待ってください。相談してきます」と言ってどこかに走っていった。おそらく上司か責任者に相談しているのだろう。その間、僕はこれから買おうとしているそのテレビの中に映しだされたワールドカップ予選のVCRを見ていた。

しばらくすると安藤がまた走りながら戻ってきた。少し息を切らしている。
「あと5000円安くすることができます。それと今回は特別に5年間の保証も付けます」安藤はちょっと得意げな表情で僕に言った。
これで決まった。安藤は内心そう思っていたとしか思えない。実際に僕は買う気満々だった。ビックカメラはクレジットカードで買うよりも現金で買ったほうがポイントが1、2%ほど多くつく。このような高額商品では数%のポイントが大きな違いとなる。だから僕は30万円以上の現金を実際に持ち合わせていた。5年間の保証に関しては実際の価値は大したことはない。なぜならば電化製品の故障率は深く切り立ったバスタブ型の曲線を描くからだ。つまり故障は初期不良と最初の数週間ぐらいに集中している。そしてその部分はメーカーの正規の保証で手厚くカバーされている期間だ。次の故障のピークは10年以上先に現れる。これはショップによる5年間保証では対応できない。つまり5年保証の経済的価値は見かけよりもずっと低いものになる。結局、僕は安藤の渾身のディスカウントにも首を縦に振らなかった。そしておもむろにポケットの中からiPhoneを取り出し、ブックマークしておいたサイトを安藤に見せた。
「このサイトによるとこの値段で買えるところがあるようですよ」僕は少し小さい声で言った。
それは価格.comのサイトだった。言うまでもなく電化製品等の最安値情報を提供するサイトだ。これで決まった。今度は僕がそう思った。僕は確かにそのショップに電話して注文すればその価格でこのテレビを買えるのだ。それは仮定に基づく理論だったり、一個人の希望的観測ではなく、厳然たる事実なのだ。ひとつしかない現実の世界の中での事実。だからこの情報を見せることにより安藤は追い詰められるはずだ。そのショップもビックカメラも仕入れ値はそれほど違わないはずで、多数の売り子を雇い一等地に店舗を構えるビックカメラではその値段で売ったら割りに合わないと言うだけの話にすぎない。つまり僕が見せたその値段はビックカメラの仕入れ値よりは高いはずなのである。在庫があって、仕入れ値よりも高くて、その値段で売らなければこの客を逃すと言うことがおおむね確実なシチュエーションなら、その値段で売らざるを得ない。例えビックカメラ有楽町店の家賃や安藤の給料までは回らなくても在庫が売れ残るよりマシだ。少々手荒い方法かもしれないけど、ひとつの情報の扱いがゲームの勝者と敗者を残酷に切り分ける国際金融の世界で生き残ってきた僕にとって、それはいわば当たり前すぎるやり方だった。だから安藤がしぶしぶ僕のiPhoneが指し示すその値段で売ることになるだろうと、僕は自信を持って予測した。それは安藤が提示した全てのディスカウントを考慮してもさらに3万円以上安い値段だった。それでも安藤は売らざるを得ない(はずだ)。

しかし安藤は一瞬顔を引きつらせすぐに答えた。そしてその答えは驚くものだった。おそらく僕と同じことをした客が前に何人かいたのだろう。
「あー、うちは価格.comと同じ値段は出せません」安藤の答えだった。あまりにもそっけない答えだった。
僕は安藤にとても感謝していた。ここまでテレビをいろいろ説明してくれたこと。上司に相談までしてギリギリまでディスカウントしてくれたこと。つまり僕はできることなら彼からテレビを買ってあげたかった。だから僕はひとつの提案をすることにした。世の中金は大切だけど、それが全てじゃない。いい仕事をした人間に報いるのはあたり前ではないか。
「いろいろ教えてくれたから、この値段より5000円高く買います。もちろんポイントは全て100%現金として考慮します。つまり僕はあなたの真摯な態度に5000円払いたい」僕は言った。
「無理です。申し訳ございません」安藤はまたあっさりと答えた。
結局、その後、僕は6000円高く買うことを提案した。どこの馬の骨ともわからない業者から買うよりも、ビックカメラから買ったほうが幾分信頼できる。そのためなら6000円ぐらい安いものだ。しかしそれでも僕の買値と安藤の売値の距離(ビッド・オファー・スプレッド)が縮まることはなかった。まるで織姫と夏彦が天帝の怒りを買い天の川を隔てて引き離されてしまったように。つまり取り引きは成立しなかった。

「わかりました。ちょっとまた考えてみます」僕は言った。
そして安藤はそれが何を意味しているのかおそらくは正確に理解していた。つまり僕は家に帰って価格.comで見つけた業者に注文を出す。そして次の日に佐川急便が僕の家に代金引換で届ける。実際に、現実はその通りになった。僕は最安値の通販で買うことにしたのだ。テレビなどの家電製品は故障したところで小売店が面倒を見てくれるわけではない。直接メーカーに送るしかないのだ。だったら一番安いところで買うのが合理的ではないか。だから僕はその通りに行動した。合理的に。あるいは冷酷に。それでも僕がテレビコーナーをあとにする時、誰かに拾ってもらわなければ死んでしまうことが決まっている捨て猫が道を行きかう人々を見つめる時のような悲しい瞳で、安藤が僕を見つめたのを思い出し、そのことが僕の胸を突き刺した。アイスピックが丹念に凍らせた固い氷を突き刺すみたいに。

僕は家に帰り大阪にあると言うその最安値の店に電話した。その業者は在庫はあると言った。とても丁寧な言い方で。翌朝の一番最初の車に載せるから明日にも届くと言う。万が一の詐欺業者を避けるために僕は代金引換で送ってもらうことにした。何もかもが上手く行き過ぎててまるで夢の中にいるかのような気分だった。しかしこれは現実だ。たったひとつの現実。本当に送られてくるかどうかは明日になってみたら嫌でも判明するだろう。

次の日、佐川急便がやってきた。おどろくほどあっけなく。僕はその名もなきドライバーに僕が住むタワーマンションの複雑怪奇なセキュリティー・システムに関して手際よく説明した。ドライバーは僕の話のすべては聞かずに、すべてを理解した。おそらくここに来るのははじめてではないのだろう。僕が玄関を開けると、彼は厳密に段ボール箱に包装されているテレビを、台車からゆっくりと大理石が敷き詰められたエントランスにおろした。僕は用意しておいたペーパーナイフでその段ボール箱の一番弱い部分を少し切り裂いて中身を確認した。ダンボールの隙間から色やテレビの型番が見えた。僕はそれをすばやく視認した。まるで運び屋から今まさに麻薬を受け取ったマフィアが不純物が入っていないかどうか調べるみたいに。それは確かに僕が注文したものだったので、僕は用意しておいた現金を渡し、受け取りの印のサインをした。すぐに佐川急便のドライバーは帰っていった。その後、電源を入れ、アンテナ線をつなぐと予想通りの美しい画像が現れた。完璧だった。

あれから一ヶ月以上の日々が過ぎ去った。僕はと言えば、ワールドカップの日本のゲームこそ見たものの、相変わらずのバタバタとした慌ただしい生活を送っていて、ぜんぜんテレビを見る時間がないみたいだ。それでも今でもたまに思い出す。安藤は今でも元気にテレビを売っているのかなって。ひとつだけ言えることは彼は最高のテレビ売りだったってこと。彼に全く非はない。彼はビックカメラの店員として自分に与えられた職務を完璧に果たした。プロの売り手として100%責任を果たした。僕も彼に当時知り得た最安値情報よりも6000円も余分に支払うことを提示して、彼に最大限の敬意を示したつもりだ。プロの買い手として。結局は残念な結果になってしまったのだけれど。それでもさすがに3万円は余分に払うことはできなかった。確かにあんな一等地にあれだけの店舗を構えていては、ネット通販だけやる業者と価格競争するのがむずかしいことは重々承知している。しかし3万円の価格差は僕にはとてもじゃないけど超えられない高い壁だった。それは僕の職業倫理と照らし合わせても無理な注文だった。

ビックカメラのような家電量販店が、過去に町の電気屋をつぎつぎと駆逐していった。今はAmazon楽天のようなECサイトが家電量販店を駆逐していこうとしているのかもしれない。そして僕たちの生活は毎年少しずつ便利になっている。多少の代償を支払いながらも。


※注:作中の安藤と言う氏名は架空のものです。