「もういい学校を出ていい会社に務めることが成功なんて時代ではない」

実はこれは僕が子供の頃からいわれていました。つまり何十年も前からいわれ続けてきたのです。それで実際の社会はどうなったかというと、今でもこの価値観は非常に頑強なことにおどろかされます。なぜ頑強と思うのかというと、就職活動中の学生の行動を観察していると、ほとんどの学生が、なるべく有名な大企業を全部受けて、少しでも有名な大企業に就職するという行動原理で動いていることが明白だからです。

日本には非常にたくさんの大学があり、死ぬほどたくさんの大学生が毎年毎年生産されていて、そのほとんどの大学生が上で述べたようなアルゴリズムで動いているのです。なるべく有名な大企業に就職することを目指して、大学3年生にもなれば就職活動に励みます。

その結果、有名な大企業の新卒募集には電話帳何冊分かの履歴書が送られてくることになります。実際に大学生を呼んで面接するのは大変、つまりコストがかかるので、多くの大企業は最初にスクリーニングして電話帳何冊分かの履歴書を、少なくとも電話帳1、2冊ぐらいまでに絞り込みます。この時何を基準に絞るかというと、ほとんどの場合大学名です。確かに日本の大学教育は、学生のスキルを向上させて将来の日本経済を発展させうる人材を育てるという意味においてはほとんど役に立っていませんが、受験勉強を通して自らの能力、とりわけ勤勉性を証明するというシグナリングとしては非常に役に立っているようです。いい大学を出ていないと有名な大企業の面接には呼ばれないのですから、最初の「いい学校を出ていい会社に務める」というステートメントは、少なくとも有名な会社に就職するにはいい学校を出ないといけないという意味においては正しいです。

大学というのは、シグナリングが本質的な機能であるとすると、大学教育を充実させていい人材を育てるという正攻法では大学経営がうまくいかないことを如実に物語っています。なぜならば学生は、そしてその親は〇〇大学卒という焼印を見えやすいところに押してもらうことを目的に、不毛な受験勉強に多大な労力と時間を注ぎこみ、そして授業料を払うのですから、その大学での教育の中身なんて二の次、三の次なのです。むしろ重要なのは偏差値で表される入学試験の難易度であり、その帰結としてのシグナリングの強さなのです。その結果、東大を頂点とする一流大学の序列が一旦できてしまうと、その入学試験の難易度故の序列は、その難易度故に受験生が群がりさらに難易度が上がるという形で自己強化されていくので、ほとんど覆らなくなります。

また逆説的ですが、学歴の経済的価値は就職活動の時に少なくとも面接に呼んでもらえるかどうかというシグナリングの一点だけなので、この基準をクリアしている大学間での価値の違いはほとんどないともいえます。つまり東大、京大、旧帝国大学、東工大、一橋大学、早稲田、慶応、その他有名国公立、私立大ぐらいまでならば、大企業の面接に呼んでもらえるので、あまり違いはありません。最近は企業も正社員の採用に非常に慎重で、インターンなどで実際に働かせて、使えるか、使えないかを慎重に見極めるので、少なくともインターン等に呼んでもらえる大学ならばあまり差はないでしょう。

ちなみに有名な大企業でも採用数が多い所は最初のスクリーニングの時の大学名がもっと幅広くなりますし、採用数が少ないところはもっと狭くなります。その辺の微調整はあります。

さてこのようにスクリーニングされた電話帳は、それでも大量なので(なんせ『一流大学』の卒業生は毎年毎年何万人も生産されますからね)、次は筆記試験とか、グループ面接などのコスト・パフォーマンスが高い方法でさらに絞りこまれます。それでようやく個別面接になるのです。

 (中略)

以上のように、いい学校をでていい会社に勤めようとする学生やその親御さんたちの行動様式は昔から全く変わっておりません。むしろその傾向がさらに強くなっているとさえいえます。さて、それではいい大学をでて有名大企業に務めるということが成功かどうかということを考えていきましょう。

僕はそうやって日本の有名大企業に就職したところで、日本の若者が少なくとも金銭的に報われる可能性は非常に低いと考えています。実際に日本の「一流企業」に就職した人たちを観察していると、20代は非常に薄給で働かされています。手取りが20万円切るとかいう世界です。そして30代になれば年功賃金で給料が急上昇するといわれていましたが、現状を見ると30代になっても大して給料が上がっていません。一流企業はその歴史故に一流なのであって、どこも年功賃金で給料が高止まりした中高年を多数抱えています。そのトップ・ヘヴィーの構造を一流大学を卒業して一流企業に見事に就職した若年層が支えるので、今後は年功賃金で給料も上がらずさっぱりおいしい思いができないのはあまりにも明白です。

さて、このような金銭的な側面にも関わらず、今でも大学受験の様子と、大学生の就職活動の様子が全く変わっていないという点は、やはりパズルだいわざるをえません。僕は、そのパズルは経済合理性を超えたところにあるのではないかと思っています。すなわち日本では大学名や会社名がある種の身分を示す家紋のようなものとして機能していると推測しているのです。あるいは高級ブランドみたいなものでしょうか。シャネルエルメスのブランド物を身につけているとなんだか自分の地位や「格」みたいなものが上がったような高揚感が得られます。大学名や会社名はそれにとても似ている気がします。

江戸時代には士農工商という身分制度があったことはあまりにも有名ですが、そういった身分制度は近代化とともになくなっていったわけですけど、300年も続いた徳川幕府の時代に、日本人のDNAに身分のようなラベリングを求める心が刻み込まれたのではないでしょうか。そういった身分制社会では、正論をいってお上に反抗的な人間よりも、むしろお上に阿って身分制社会の中でうまくやっていこうとする人間のほうが成功して子孫を残せる確率が高まります。また女性もなるべく高い身分の男性と子供を作ったほうが、同じく子孫が残せる確率が高まります。このように日本人の心のなかに身分を強く求める心が生まれたと考えられないでしょうか。そして近代社会では、そのような身分の代替物としての大学名と会社名が機能しているのです。このようになるべくいい大学に入る、そしてなるべくいい会社に入るというある種の強迫観念が、日本人の心に深く刻み込まれているのかもしれません。

一方で、世の中は資本の論理で動いている一面もあります。人間のあらゆる性質を利用して合法的に利益を最大化しないといけません。よって企業というのは、ブランド志向の若者が会社名というブランドに大変弱く、そのために薄給で長時間働くということを熟知してるので、その点を徹底的に利用していきます。ヨーロッパの老舗ブランドが日本人女性に高い身分になったような気にさせて、法外な値段でハンドバッグなどを売るのも同じですね。

なるほど大学名や会社名がある種の身分を示すシグナリング・デバイスであり、それがDNAレベルで刻み込まれているとしたら、世界が大きく変わり経済構造が変わってもなお「いい大学をでていい会社に務める」という価値観が非常に強固なのも頷けますね。

以上のように、大企業の正社員というゲームは、入り口の段階からいい大学の学生に圧倒的に有利で、またそこに務めたからといって若い人がいい目を見られる確率は非常に低いですし、ゲームとしても経済合理性を超えた激しい競争ですから、少なくとも上にでてくる大学以外の学生はそんなつまらないゲームからは早く降りたほうがいいですね。

そんなゲームに参加していい会社に努めている若者も、会社を「金を貰える学校」だと割りきって、とっとと独立するなり、転職するなりして、中高年を支える人柱の生活から抜け出すのが経済合理的でしょう。

もし人生が二回あればお母さんのいう通りに高校へ行くけど、 一回しかないんだから自分の自由にさせてください。 船木誠勝


参考資料
学歴の耐えられない軽さ やばくないか、その大学、その会社、その常識、海老原嗣生
戦略的思考の技術―ゲーム理論を実践する、梶井厚志