明日発売される、マイケル・ルイスの新作『ブーメラン』の解説を書いたので紹介します。


ブーメラン 欧州から恐慌が返ってくる、マイケル・ルイス (著)、東江一紀 (翻訳)、藤沢数希 (解説)
(Boomerang: Travels in the New Third World, Michael Lewis)


幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである
ロシアの文豪トルストイのアンナ・カレーニナの一節である。マイケル・ルイスによるユーロ危機の真相を追った本書『ブーメラン』を読み終えて、僕はトルストイのこの言葉を思い出さずにはいられなかった。

『ブーメラン』は、ルイス氏が2010年に出版した世界的なベストセラーである『世紀の空売り』の続編ともいうべき作品である。前作は、サブプライム住宅ローン市場の崩壊(要するにローンで家を買った多くのアメリカ人が次々と借金を踏み倒した)に端を発する世界同時金融危機の中で、住宅ローン仕組み債を空売りして巨万の富を得たヘッジファンドを追った、傑出したノンフィクションである。世界同時金融危機に関しては、ジャーナリストや経済学者による書籍が多数出版されたが、そのどれもが僕には腹に落ちない部分があった。ジャーナリストが書いた本の多くはひどく複雑な話を簡単にまとめすぎていて論理が破綻していたし、経済学者はマクロ経済学的な意味付けや金融システムの観点から金融危機を論じていた。僕自身も外資系投資銀行に勤務しているのだが、住宅ローン仕組み債とは幸か不幸か全く縁がなかった。しかし投資銀行で働く人間として、そういうマクロ経済学の話はどこか遠い世界の出来事のように思えた。現場で高尚な金融システムのことを考えている人間なんてどこにもいないからだ。

自分が関わっている金融商品を使っていかに合法的にたくさん稼ぐか。そして会社のために稼いだ金をどれだけ自分のポケットに取り戻すか。良くも悪くも投資銀行の人間はそれだけを考えているし、またそれが義務であるともいえる。そして会社は自社の社員にカモられないために社員をひどく神経質に監視し、また管理しようとしている。そんな状況で、なぜ何兆円もの損失を被るリスクを数々の金融機関は許容していたのか。また、住宅バブルの崩壊により住宅ローン仕組み債が暴落することに賭けたヘッジファンドや投資銀行の一部のトレーダーが一夜にして数千億円という天文学的な利益をたたき出すのだが、いったいどういう方法でそんなことが可能だったのか、ほとんどの本には具体的な記述がなかった。そして、無名のヘッジファンドの投資戦略を詳細に記述することにより、これらの秘密を鮮やかに暴きだしたのが、ルイス氏の『世紀の空売り』だったのである。

住宅ローンとは庶民が住宅を担保に入れて金融機関から金を借りることである。金を貸している債権者には毎月の返済と金利が入ってくる。このキャッシュフローを大量に束ねて様々な住宅ローン仕組み債を作ることができる。ゴミくずのような住宅ローンをごっそりまとめた金融商品に、ムーディーズやS&Pという権威ある格付け会社が、それを売る投資銀行に頼まれてアメリカ国債並みの格付けを付けていったのである。それぞれの住宅ローンは焦げ付く可能性があっても、ローン同士の相関は弱いので、全体としてはリスクが分散するというナイーブな仮定をそのまま信じ込んだ、あるいは信じこまされたからだ。トリプルAの格付けがついたこれらの複雑な金融商品を、年金基金などの世界中の機関投資家が買った。

それではこのような金融商品をどうやって空売りするのか? それにはCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)というデリバティブ商品を使う。CDSは債券のデフォルトをヘッジするための金融商品である。たとえばトヨタ自動車の社債を保有している人がいるとしよう。トヨタ自動車が倒産したら、この社債のかなり部分が吹き飛んでしまう。たとえば100円の社債がデフォルトして30円しか返ってこなかったとする。ここでこの社債のCDSを買っておけば、それを売った人から損失分の70円を貰える。そのかわりCDSを買った人は、最初に決められた金額をこの保険料、たとえば年間1%をCDSの売り手に払い続けなければいけない。この場合、トヨタ自動車の社債を100億円持っている人は、毎年1億円ずつ払えばトヨタ自動車が倒産しても損しないようにできる。

トヨタ自動車の社債を持っていない人がCDSを買ったらどうなるのだろうか? この場合、毎年1億円払えば、トヨタ自動車が倒産したら最大で100億円儲かることがわかる。つまりCDSとはルーレットで数字に賭けるような非対称のギャンブルともなるのだ。ルーレットではピッタリの数字が当たる確率は38分の1だが、そのオッズも38倍からカジノの取り分を少々引いたもので、当たると大きい。つまりCDSを買えば、たった年間1億円を賭けるだけで、もし予想通りに会社が潰れれば、100億円儲かるチャンスに張ることができる。他人の家に火災保険を掛けて、他人の家が燃えるのを祈るような賭けだと思って頂ければ理解できるだろう。債券に投資するには、あたり前だがその債券が実際に発行され流通していないといけないのだが、CDSなら債券に投資したり、デフォルトに賭けたりすることが、その債券がなくてもこのデリバティブ商品の売り手と買い手さえいればどれだけでもできる。つまり実物資産がわずかしかなくても、無限大の大きさの市場を作り出せるのである。

このように住宅ローン仕組み債は、さまざまな金融機関に保有され、そしてCDSのようなデリバティブ商品の契約が、世界中の金融機関同士で締結されていた。それがアメリカの住宅バブルの崩壊が、瞬く間に世界中に伝播した理由だ。とりわけ住宅ローン仕組み債を大量に抱えていたのは、欧州の銀行であり、それがユーロ危機を引き起こしてゆく。アメリカで庶民が住宅ローンを踏み倒したことが、グローバル化し複雑に絡み合った金融市場を通して、欧州の金融システムを崩壊の寸前まで追い詰めたのだ。そして、欧州の危機が、グローバル経済を通してアメリカにブーメランのように戻ってきて、アメリカの様々な自治体の財政を破綻させつつある。本書の『ブーメラン』という題名には、このような意味が込められているのだ。

本書は、住宅ローン仕組み債の空売りで大儲けしたヘッジファンドが、今度は日本とフランスの国債のCDSを買っている(つまり国債のデフォルトに賭けている)ところから幕を開ける。次は、いよいよ国家の破綻に賭けるというわけだ。実際に、欧州の小国は次々と事実上の国家破綻を経験している。国ごと丸々ヘッジファンドになり、住宅ローン仕組み債など、世界中のボロ資産を買いあさり、世界同時金融危機で海の藻屑のようにはじけ飛んでしまった漁師の国、アイスランド。公務員が民間企業の3倍の給料を貰い、ユーロ加盟の条件を満たすために、外資系投資銀行に多額の手数料を払い込み、なんと国の財務諸表を「粉飾」していたギリシャ。外国から膨大な資金を借り入れ、不動産融資に狂った伝統ある銀行と共に、国ごと破綻したアイルランド…。そして、こういった破綻した欧州の国々を支えるのは、勤勉で、財政規律を守っていたドイツの納税者だ。なぜなら、これらの破綻国家の国債をたんまり抱え込んでいるのはドイツの銀行であり、救済しなければドイツの納税者はドイツの金融システムの崩壊により、莫大な損失を被るからである。いわばドイツの納税者は喉に刃を突きつけられている状況で、そういった問題国家を救済しないという選択肢は、事実上ないのである。

ところで一部のヘッジファンドや投資銀行のトレーダーに途方もない利益をもたらした、住宅ローン仕組み債のCDSの売り手、つまりデフォルトのリスクを引き受けていたのは誰なのだろうか? 本書を読めば、それはドイツの地方銀行だとわかる。つまり、あのひとりで1兆円を稼いだヘッジファンドの利益は、ドイツの地方銀行の損失だったのだ。このように一部の金融業界に莫大な利益をもたらし、ユーロ危機を瀬戸際で食い止め、欧州発のグローバル経済の大破局を回避するのに必死で貢献しているドイツの勤勉な納税者に、我々はもっと感謝するべきなのかもしれない。少なくとも、経済が好調なときは多額のボーナスを受け取り、国家の生命維持装置なしで生きられなくてなっても依然として高い給料を受け取っている大銀行の経営者は、ドイツの納税者に多少なりとも感謝したほうがいいだろう。

本書では、ルイス氏が、ギリシャ、アイスランド、アイルランドなどの破綻した国々を訪れ、そこで首相、財務官僚、金融関係者、そして多くの市民にインタビューをし、財政破綻の真相を探求していく。日本で暮らし世界のニュースを見ていると、欧州の問題国家として一括りに扱われていた国々が、実はそれぞれに全く違う事情があり、全く違う思惑で金融バブルにのめり込んでいったことがわかる。そして、バブルに浮かれた人々の様子や、破綻した後の人々の暮らしぶりも、各国の文化的背景の違いから、異なるものになっている。ルイス氏のあの辛辣は皮肉を織りまぜながら、欧州の二級国家へと転がり落ちたこれらの国の国民の暮らしぶりが、生々しく描かれていく。財政破綻した国は、いずれもそれぞれに不幸なのだ。本書は、ブーメランのように返ってきた金融危機の余波で破綻しつつあるアメリカの自治体の話で幕を閉じる。

さて、ルイス氏の『ブーメラン』の続編は、対GDP比で200%にも達する政府債務を抱え、なおも債務が膨張し続けている日本の話になるのだろうか?