理化学研究所のSTAP細胞捏造疑惑に関する話題が、僕のTwitterのタイムライン上の研究者や元研究者の間でものすごく盛り上がっています。それで最近、知ったのですが、この話題はいまやワイドショーで連日報道され、その辺のおばちゃんまで議論しているようです(僕はテレビをほとんど見ないので、気付くのが遅れました)。しかし、今回のSTAP細胞捏造疑惑事件は、博士号の審査のあり方、研究機関のあり方、学術誌の査読システムから、もちろん生化学、分子生物学、再生医療までの非常に幅広いトピックをカバーしており、個人的にはめちゃくちゃ興味深いと思っています。そこで、僕も元研究者(理論物理学&ちょっと計算機科学→金融工学)のブロガー、あるいは作家としてこの話題に参戦することにしました。ちなみに、現在は、プライベートな研究所を設立して恋愛工学の基礎研究に従事しており、この分野で世界をリードしています

そこで最初に、まずはSTAP細胞とは何ぞや、ということを解説したいと思います。これがわかっていないと議論が上滑りします。と言っても、高校レベルの生物学と、ES細胞、iPS細胞の歴史について勉強すると、割と簡単に全体像が理解できます。

さて、人間を含む動物は、元を辿ればたったひとつの細胞から作られるのです。僕はこの事実に生命のとんでもない凄さを感じます。それは言うまでもなく、ひとつの卵子に1匹の精子が合体してできる受精卵(fertilized egg cell)です。この受精卵が次々と分裂して、神経や筋肉など作る様々な種類の体細胞(somatic cell)に分化して、ひとりの人間ができるのです。この受精卵は身体を作るあらゆる体細胞に分化する能力があり、たった1個から完全な個体を作り出す全能性(totipotent)を備えています。人間の受精卵をふたつに割れば、全く遺伝情報が同じ双子へと成長していきます。一卵性双生児ですね。

しかし、細胞は様々な機能を備えるために分化していくと、他の細胞に変化する能力を失っていきます。たとえば、筋肉の細胞になってしまった細胞は同じ種類の筋肉の細胞にしか分裂しませんし、皮膚の細胞になってしまった細胞は皮膚の細胞にしかなりません。しかし、受精卵が分裂を繰り返し、胚(embryo、多細胞生物の個体発生におけるごく初期の段階の個体)を形成する初期の頃の細胞は、様々な種類の体細胞に分化する能力を備えています。こうした別の種類の細胞に分化することができる細胞を幹細胞(stem cell)と呼びます。受精卵という1個の細胞が様々な種類の細胞に変わりながら、成体を構成する各々の体細胞に分化していく様子が樹の「幹」のようだからです。

受精卵のように、細胞たった1個から完全な個体を作れる能力を全能性と呼びましたが、個体は作れないが成体組織に存在するあらゆる細胞に分化できる能力を生物学では多能性(pluripotency)と呼んでいます。多能性を備えた幹細胞がいわゆる「万能細胞」と呼ばれているものです。

さて、こうした多能性幹細胞がなぜそれほど重要なのでしょうか? それは病気や怪我の根本的な治療法を確立できる可能性を秘めているからです。人間のような高等生物は、胚が作られるかなり早い段階から、細胞は多能性を失います。しかし、たとえばイモリは脚を丸ごと失っても完全に再生できます。それはイモリの体には極めて分化能力の高い幹細胞が含まれていて、それが新たに分化しながら脚を作ってしまうからです。しかし、人間の幹細胞の分化能力は限定的で、たとえば造血幹細胞は赤血球や白血球へは分化しますが、神経や筋肉の細胞になることはできません。どうやら生物は複雑な高等生物になればなるほど、幹細胞の分化する能力は低くなっていくようです。一方で、プラナリアのような単純な生物の幹細胞は全能性を持っています。驚くことに、プラナリアの体をバラバラに切り刻むと、それぞれの破片から完全な個体が再生されるのです。

プラナリアの再生能力
出所:理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター 網膜再生医療研究開発プロジェクト プロジェクトリーダー 高橋政代先生インタビュー

もし、人間でこれぐらい分化能力の高い幹細胞が簡単に作れたとしたら、あらゆる病気や怪我の画期的な治療方法になるのは間違いありません。よって、多能性幹細胞を作る研究は、世界中から注目され、莫大な研究開発費が投じられているわけです。

この分野で最初のブレークスルーは1981年に英ケンブリッジ大学のエバンス博士とカウフマン博士がマウスのES細胞(embryonic stem cells、胚性幹細胞)の作成に成功したことです。彼らはマウスの初期胚から細胞の塊を取り出して、あらゆる細胞に分化できる幹細胞の培養に成功しました。これがES細胞と呼ばれるものです。そして、ようやく1998年に、米ウィスコンシン大のトムソン博士らが人間の受精卵から成長した初期胚を使ってヒトES細胞の作成にはじめて成功しました。

しかし、ES細胞を再生医療に応用するには、根本的な問題がふたつあります。まずは他人の受精卵から作られるので、拒絶反応が出るということです。また、人間に成長可能な受精卵を必要とすることから大きな倫理的な問題が生じます。技術的には、やはり何にでも分化できるということは非常に不安定で、がん細胞になってしまったり、狙った種類の体細胞に分化させるのが非常に難しいということがあります。ちなみに、小保方晴子氏の捏造事件で、ネイチャー論文の共著者のひとりである笹井芳樹理研副センター長は、こうした幹細胞の分化をコントロールする手法やメカニズムの研究の世界的な権威です。

もうひとつのブレークスルーは、あの有名なクローン羊「ドリー」です。1997年、英ロスリン研究所のウィルマット博士は、羊の体細胞から取り出した遺伝情報を格納する細胞の核を、核を取り除いた別の羊の卵子に注入して、元の羊と全く同じ遺伝情報を持つクローン羊を作成しました。哺乳類ではじめて産まれた体細胞クローンです。精子なしで、卵子の外身だけあれば、全く同じ遺伝情報を持つ個体を作ることができるという恐るべき技術です。クローン技術を使えば、たとえば琥珀の中の蚊の血液から採取したDNAを使って、似たような種の卵子に注入して、恐竜やマンモスなどの絶滅した生物を復活させるというようなSFが現実にものになるかもしれない、という可能性が出てきました。

再生医療において、じつはクローン技術は大きな意味を持ちます。クローン胚からES細胞を作れば、拒絶反応が起きない多能性幹細胞が作成可能になるからです。提供された卵子に、患者の体細胞から取り出した核を注入して、成長した初期胚からES細胞を作ることができたら、それは患者の身体のどの部位の体細胞にも分化し、なおかつ拒絶反応が起きない多能性幹細胞になります。これがクローンES細胞と呼ばれるものです。

2000年に世界ではじめてマウスから体細胞起源のクローンES細胞に成功したのは、何を隠そう、今回の疑惑のネイチャー論文の共著者である、山梨大学の若山照彦教授です。その3年前には、哺乳類で2例目のクローンマウスの作成に成功したのも若山博士で、その他にも、マウスのフリーズドライ精子による受精の成功、16年間冷凍保存したマウスのクローン作成にも成功しており、彼は細胞1個1個を操作する神の手を持っていると言われる、この分野の世界的なパイオニアです。

そこで、当然ですが、人間のクローンES細胞の作成に世界は注目していました。そして、あまりにも有名な捏造事件が起きたのです。2004年に、韓国のソウル大学教授(当時)の黄禹錫(ファン・ウソク)が世界ではじめて人間のクローンES細胞の作成に成功した、と米サイエンス誌に発表したのです。当初は、韓国人初の自然科学分野のノーベル賞を取ると目され、韓国の国民的ヒーローと賞賛されましたが、後に完全な捏造であることが発覚し、研究助成金などをだまし取ったとして刑事事件にもなり、有罪判決が確定しました。人間のクローンES細胞の作成に成功するのは、2013年の米オレゴン健康科学大学のシュークラト・ミタリポフ教授、立花真仁研究員らのチームの報告を待たねばなりませんでした。まだ、追試が待たれる状況ですが、韓国で起きた捏造は、その10年後にとうとう実現したようです。

ここでノーベル賞を受賞した我が国の山中伸弥教授の画期的なiPS細胞(induced pluripotent stem cell、人工多能性幹細胞)が生まれるわけです。一度分化してしまった体細胞の核に、レトロウイルスベクター(細胞に遺伝物質を注入するために用いられるウイルス由来のリボ核酸)を使って特定の遺伝子を送り込むことで、ES細胞とそっくりな状態に体細胞を初期化(reprogram)できることを発見したのです。山中博士らのチームは、2006年にマウスのiPS細胞作成に成功し、その後は2007年に人間のiPS細胞作成に、同じ分野でライバルだったウィスコンシン大学のトムソン博士とほぼ同時に成功しました。

iPS細胞は、ES細胞のような拒絶反応の問題も、受精卵を使う倫理上の問題もない、究極の多能性幹細胞になり得ます。そのため世界中の研究機関が莫大な研究開発費を投じて画期的な医療技術の実用化に向けて熾烈な競争しているわけです。

さて、そこでSTAP細胞(stimulus-triggered acquisition of pluripotency cell、刺激惹起性多能性獲得細胞)の登場です。植物などでは、たとえば人参は、細胞1個から培養して完全な人参を再び作ることができます。いくつかの植物の細胞は外部からの刺激を加えることにより全能性を獲得するのです。プラナリアの細胞も切り刻まれるなどのショックを与えられると全能性を発現し、再び個体になります。イモリも、大きな怪我をして刺激が加わることにより、幹細胞が多能性を獲得して、脚や手などを丸々再生する能力を備えています。だったら、哺乳類の細胞でも、こうしたことは起こらないのか、というアイディアが当然のようにあったわけです。

大和雅之東京女子医大教授と米ハーバード大のチャールズ・バカンティ教授が、哺乳類の体細胞に酸などの刺激を与えることで、クローンやiPS細胞のように細胞の核を直接操作することなく、多能性幹細胞に初期化できるのではないか、といういくつかのアイディアを持っていました。難しい細胞核の操作なしで多能性幹細胞を作ることができたら、そのインパクトは計り知れません。理化学研究所の発生・再生科学総合研究センターで、そのための膨大な実験を繰り返すために博士号と取ったばかりの若い研究者である小保方晴子氏がひとりのユニット・リーダーとして採用されたようです。そして、事件は起こりました

この続きはメルマガなどに書きたいと思います。
まぐまぐブロゴス夜間飛行ブロマガ

参考資料
小保方晴子のSTAP細胞論文の疑惑
「60秒でわかるプレスリリース:体細胞の分化状態の記憶を消去し初期化する原理を発見」独立行政法人理化学研究所、2014年1月29日
iPS細胞―夢の再生医療を実現する (ニュートンムック Newton別冊)
「発生と再生とは?」独立行政法人理化学研究所
「STAP疑惑底なし メディア戦略あだに」中日新聞、2014年3月15日
Haruko Obokata, Teruhiko Wakayama, Yoshiki Sasai, Koji Kojima, Martin P. Vacanti, Hitoshi Niwa, Masayuki Yamato & Charles A. Vacanti, "Stimulus-triggered fate conversion of somatic cells into pluripotency," Nature, Vol. 505, 30 January 2014