理事長 甘粕正彦

《中川忠次=荒木次郎》京都第一中学⇒第四高等学校⇒京都大学文学部ドイツ文学⇒京都市役所

《中川忠次=荒木次郎》
生誕 大正2年(1913)10月 石川県で生れる

京都第一中学校
入学 
二年 昭和2年(1927)8月在学
卒業 昭和

第四高等学校(金沢高等学校)
入学 昭和7年(1932)4月
卒業 昭和10年(1935)3月

京都帝国大学
文学部 文学科 ドイツ文学
入学 昭和10年(1935)4月
卒業 昭和13年(1938)3月

昭和16年(1941)4月 京都市役所
昭和34年(1959)9月19日 逝去(リンパ肉腫)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年04月08日13:54
須知農学校:京都第一中学校生を迎へて
【我等の田園生活. 1927刊】
須知農学校:京都第一中学校生を迎へて
(昭和2年7月25日~8月7日)
【我等の田園生活 1927刊】
出版者   京都府立京都第一中学校田園生活団
p4【我等の田園生活 1927刊】
p4【我等の田園生活 1927刊】
出版年月日 昭和3
一、場所 京都府船井郡高原村府立須知農學校
一、期日 自昭和二年七月二十五日至八月七日(二週間)
一、宿舎 須知農學校寄宿舎
 薯掘り  二丁 中川忠次
 夜    二丁 中川忠次
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【第四高等学校一覧 昭和7年4月至昭和8年3月】
〇生徒(昭和七年五月三十一日現在)
文科乙類第一學年
京都 京都一 中川忠次 京都

【第四高等学校一覧 昭和10年4月至昭和11年3月】
昭和十年三月九日卒業
 文科乙類
在京文 中川忠次  京都
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【京都帝国大学一覧 昭和11年度】
 文學部 文學科
昭和十年入學
中川忠次  京都

【京都帝国大学一覧 昭和14年度】
 文學部 文學科(獨逸文學)
〇昭和十三年三月學士試驗合格
中川忠次  京都
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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中川忠次(荒木次郎)さんの死を悼む 昭和34年(1959)9月19日【部落 11(11)(118)】1959-11

【部落 11(11)(118)】1959-11
出版者   部落問題研究所出版部
出版年月日 1959-11
  中川忠次さんの死を悼む
京都市企画室主幹の中川忠次さんが逝くなられた、
実に惜しいことです。
中川さんの名を知らない方でも、
荒木次郎の名をご存じの方は少なくないでしょう。
「部落」誌上で、たびたびお目にかかっていますから。
 ―略―
中川さんは、大正二年(1913)十月に石川県で生れ、
金沢高校から京大文学部独文科を卒えられましたが、
在学中は社研のメンバーとして、
奈良本所長や藤谷さん、
野間宏さんなどの親友がありました。

昭和十六年(1941)四月に、
京都市役所入りをされ、
社会部に勤務中、
当時、嘱託主事として社会部におられた
朝田(善)さんらと共に、
戦時中の同和行政のあり方について
研鑽と実践を積まれました。
終戦後、企画室副主幹、
民生局保護課長、
民生局庶務課長、
民生局次長、
民生局局長を経て
企画室主幹並に
行政管理委員会事務室長を兼務するなどの
ポストを歴任されましたが、
その間にあって、
いつも同和行政の指導的役割を
果してこられました。
 ―略―
中川さんは、かつて胸を病んで
大手術をうけられ、
その後リンパ肉腫という病いに侵され
闘病生活をつづけられていたが、
本年(昭和34年)八月末、
京大病院に入院、
現代最高の医術による治療をうけられたが、
再び起つ能わず、九月十九日、
※昭和34年(1959)9月19日
遂に不帰の客となられたのです。

告別式は九月二十一日
京都市六角堂で執行され、
遺志によって供花の数こそ少なかったが、
二千名に達する会葬者がありました。
故人の遺徳が偲ばれます。
(木村京太郎)
p29【部落 11(11)(118)】1959-11
p29【部落 11(11)(118)】1959-11
https://dl.ndl.go.jp/pid/2800468/1/29
一九五九年十二月一日発行
https://dl.ndl.go.jp/pid/2800468/1/51
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《北川鉄夫=西村龍三》戦火をのりこえて◇朝田善之助との出会い【部落問題と文芸 (5)】1992-09

【部落問題と文芸 (5)】1992-09
出版者   部落問題文芸作品研究会
出版年月日 1992-09
部落問題のうちそと
戦火をのりこえて  北川鉄夫
 p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
◇朝田善之助との出会い
京都は被爆の経験がほとんどない。
私が家族ともども一人も欠けずに、
戦災列車で京都駅に降りた印象も、
戦前私が生活の中で見なれてきた、
余り風体のあがらぬ京都駅であった。
そして私には今でもその当時の京都の印象が
そっくりそのまま続いている。
実際には大へん変っているのだろうが、
変っていないように見える。

私は帰って早々は、
とにかく私の旧知たちを訪ねて帰国のあいさつをし、
傍らしごとの口を頼むことで明けくれた。
京都の古い町々を歩いたが、
戦前のままの風情がのこっているところが多かった。
戦後の京都が革新府・市政をつくりだし、
一方で国会から市町村の自治体にいたるまで、
多くの革新議員をおくりだしているのも、
この京の変らぬ古さが
一つの力になっているのではなかろうか。

こんな理屈はこれくらいにするが、
こういう京都の古さが
一定の見識となって京都市民中に
居すわっていることはたしかであろう。

私が満州から京都へかえってきて、
まず腰をおろしたのは、
左京区の象徴のような顔をした
京都大学の北に百万遍という大きな寺がある。
この百万遍を通りぬけたあたりに
安井病院という共産党員が院長をしている
大きな病院がある。

ここの初代院長の安井信雄は、
マルクス経済学の開拓者の一人である
河上肇などの主治医であった人だが、
左京区という山深い地域をかかえた一帯を
長年の医療活動で開拓した力で、
戦後の最初の市議選に立候補し
みごと第一位で当選して以来、
ずっと落選したことがない。

その安井病院をとりまいた形のところに
私の妻の実家が住んでいた。
当初、この借家は私が満州へ行くまで
住んでいた家である。
私たち一家の渡満したあとで、
この家は妻の実家が借りていた。
そこへ一先ず私たちは腰を降ろした。
妻の実家にすれば迷惑な話だが、
断りもできない。
そんなことで私の帰国後の生活の巣は
この左京の一角となった。

帰国して二、三日だと思う。
私の妻の姉が共産党員であったので、
そのあっせんで中国の体験を話してほしいといわれた。
それで、一夜が、つまり私の話を聞く会になった。

安井病院がまだ今のようなところでなく、
安井医師の自宅が同時に病院になっていた。
或いはまだ病室がなく
診療所だけの医院であったかも知れぬ。
その安井医院の一室に数人集って
私の話を聞く会がもたれた。

そのとき安井医師から
朝田善之助を紹介された。
そのころの朝田善之助はレッキとした
共産党員であった。
いずれにせよ朝田と正式に知りあったのは、
この時が初めてである。

そして、翌年の地方選挙で朝田は
左京区の共産党の正式候補となり、
地方選挙をたたかったのである。
私もビラの街頭張りや応援弁士で応援した。
当時の応援弁士は、
若い運動員の自転車のお尻にしがみついて
つぎの会場へという全くの手弁当型であった。

この選挙、安井は一位当選であったが、
朝田は落選した。
朝田には地域での浮動票がほとんど入らない。
また、本来朝田の基礎票田である
田中の部落が大変な乱戦。
朝田の他に保守系から二人、
さらに社会党、労農党、無所属と出馬している。
労農党はいまは無いが、
もともと容共革新の小政党である。

田中から立候補した人は、
どうみても革新系とはいえない人物。
ところが立候補者がたくさんいて、
もう名乗る政党といえば労農党しかない。
それでやむなく労農党へ申し入れ、
候補者を出さない労農党は
まあよかろうといった調子で、
さすがの大票田の田中もバラバラに分散している。
頼みの田中の部落がそんな状況だから、
市議選の方はしっかりと地盤をもった
安井信雄が予想以上に票を集め
第一位で当選であったのに、
府議の朝田の方は落選であった。

その後朝田とは、
私が六〇年安保のころ、※昭和35年(1960)
しごとの関係で東京へ移住するまでつづいた。

別に組織として直接には関係がないから、
任意なものであったが、
朝田の周囲では
戦前から市役所の民生局関係のメンバーが
ブレーン・トラストのような形で
朝田にくっついていた。

その中では、民生局の主査である
中川忠次が中心で、
朝田の思想形成には
このグループの影響が大きかった。

中川忠次は京大のドイツ文学出身で、
荒木次郎が中川だといえば
ああそうかという人もいよう。

その中川は私もよく知っていたが、
戦後の京都でわき上るように
職場からわき起った文化活動熱を
二人でまとめることになった。

そして、京都勤労者文化同盟という組織をつくり、
その活動費の財源は市の予算から
中川らがひねりだした。

当初から財源がたしかな組織の運営は楽である。
中川が市職から出た形で議長、
私が「全新聞」から出た形で副議長ということで
連盟はうごき出して、
四七年(昭和22年)の秋には
全市の労働組織やサークルで、
さまざまな分野のコンクール、
発表会、展示会などをひらいた。

朝田と私がつきあった中で、
副産物のようにしてつくりだされ、
成果をあげたのは勤文連であろう。
そうしたことが可能な雰囲気が
敗戦直後の日本にいたるところに
かもし出されていたことも、
勤文連成立の大きな原因であろう。

敗戦でも一度顔を洗い直した
日本の勤労者がつくりだした、
きわめてすなおな民主主義の姿である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/29
「部落問題と文芸」第五号
発 行 一九九二年九月一三日
発行者 部落問題文芸作品研究会
    〒六〇六
    京都市左京区高野西開キ町三四の一一
    部落問題研究所気付
    郵便振替 京都四の一七三二九
    電話〇七五(七二一)六一〇八
印 刷 東海電子印刷株式会社
    頒価 五〇〇円
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《北川鉄夫=西村龍三》戦火をのりこえて◇甘粕正彦の自殺真説【部落問題と文芸 (5)】1992-09

【部落問題と文芸 (5)】1992-09
出版者   部落問題文芸作品研究会
出版年月日 1992-09
部落問題のうちそと
戦火をのりこえて  北川鉄夫
 p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
◇甘粕正彦の自殺真説
日本国の敗戦、
満州国の消失という一つの歴史的な変化は
まだまだ明らかにされてはいない。

シベリアへ日本軍兵士が大量に抑留された
問題一つをとっても、
最近のロシアの政変とからんで
やっと口が開けてきたといったように、
多くの人々のことが土足でふみにじられるように
消え去って行くのだろう。

悪名か善名かは知らぬが、
とにかく一さわがせした人や事件で、
どうやら歴史の片隅にのこされそうなのは、
幸いとしなければならぬ。

私が中国東北の胡芦島港から輸送船で、
多くの日本人と一緒に日本国に帰ってきたのは、
一九四六年(昭和21年)八月十七日であった。

もっと厳密にいうと二泊三日間の船旅で、
日本国の博多港へ上陸したのが八月十日で、
ここではじめてはっきりと日本の土を踏み、
米兵と日本の女性がうでを組んで
ヘラヘラと白昼歩いているのを眼にしたのである。

驚いたのは、私たち旧満映の引き揚げが
「映画人帰国第一号」ということで、
ジャーナリストがどっと押しかけてきたことである。

裏方と家族という人たちばかりなので、
やむなく私が代表して応待した。

記者たちには当外れでお気の毒であったが、
そこで驚いたのは、
甘粕正彦理事長がピストル自殺したという。

私はそれはまちがいで、
甘粕は理事長室で
青酸カリであったことを明らかにした。

これは、甘粕正彦という正体不明な存在が、
ピストル自殺をしたという、
いかにも甘粕らしい死をくつがえし、
青酸カリという小さな形に矮小したことで
記者たちはガッカリしたらしいが、
私自身も連絡があって理事長室へ行き、
まちがいなく青酸カリ自殺の姿を目撃したから、
曲げようもない事実であった。

ただ、甘粕はソ連進入のあと、
日本人社員を全員集めて、
その前で自分は自殺すると公言したことは
私もその中にいたからまちがいはない。

ただ敗戦前後の混乱した中で、
甘粕自殺という報道がとにかくにも
どこかの誰かによって
なされていたことも事実のようだ。

ただ私は誤ったままの
甘粕自殺の報道が実際になされたことを
確かめてないので、
案外私の記者会見が第一号かも知れぬ。

この「甘粕自殺」はこちらがもっている情報だが、
「原爆投下」はどうだろうかと、ふと思った。

私は正直にいって、何も知らなかった。
おそらく私と行を伴にした引き揚げ日本人も
同様に知らなかったろうと思う。

私は(昭和21年)八月十六日の白昼に
山陽線を京都へ向けて走る
引き揚げ者の一人であった。

つぐつぎに赤ちゃけた感じの色彩につつまれた
被災地を通り過ぎたし、
ヒロシマ駅では停車もしている。

原爆投下一年後のヒロシマは、
私にはひどく破壊され、
赤銅色一色のような記憶が
ボンヤリのこっているだけである。

その後私が戦後の広島を最初に訪れたのは、
映画「原爆の子」の上映のことで、
一九五二年(昭和27年)の真夏である。

そして私が歩いて自分の眼でたしかめた
戦後のヒロシマは、
被爆の面影は表面的にはうすれていた。
ただ驚いたのは、その夜、
旅館で夕刊をみると、
私が昼前後に通った広島駅近くの猿猴橋で
ヤクザのいざこざがあり、
ピストルが射たれていたことである。

もう少し私の通ったのがおそければ、
どんな目にあっているか判らないわけで、
ゾッとした。

翌日、劇場の支配人との話の中で、
そのことを話すと、
支配人は、
とにかくヤクザの進出はすごいですよ、
一つちがえば一発パーンですからね、
注意して下さいとのことであった。p29/40
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「部落問題と文芸」第五号
発 行 一九九二年九月一三日
発行者 部落問題文芸作品研究会
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《北川鉄夫=西村龍三》戦火をのりこえて◇満映に入社【部落問題と文芸 (5)】1992-09


【部落問題と文芸 (5)】1992-09
出版者   部落問題文芸作品研究会
出版年月日 1992-09
部落問題のうちそと
戦火をのりこえて  北川鉄夫
 p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
◇満映に入社
戦争のまっただ中である。
私はどうしていたかといえば、
前半は新たに実施された
戦時統制法の「映画法」で、
映画人の機能を守る組織の
全日本映画人連盟の関西事務局長をやっていた。
後半はこの連盟が戦時解散したので、
海をわたって満州国の半官半民組織である
「満州映画協会」に入社、
赤い夕陽と高粱畑をみてくらした。

ここで敗戦、
満州国が解体する混乱の中を、
私は一九四六(昭和二一)年八月十七日、
日本国へ帰り、
一まず妻の実家の京都へおちついた。
この私の戦争期間には、
もちろん書くことが多い。
書きようでは、
それだけで一冊の本になるだろう。
しかし、
本稿がそもそも私と部落問題というのが
中心のテーマなので、
この戦争期間では部落問題の関係は
ほとんど皆無にちかい内容である。
それで私は思い切って、
この部分を切り捨て、
若干の問題にふれるだけに止めた。

一つは二回にわたる日本人映画人の満映参加である。
第一回は、一九三八(昭和一三)年のときは、
当時の日本映画界で名作をつぎつぎと世に送っていた
日活の製作のリーダーである
根岸寛一、マキノ満男らが俳優を除く
各種の技術者を引きつれて満映へ入社した。
ところが、これらの職員型技術者は、
基本運営を官僚式の合理主義でかためている
満映の体質とはウマがあわない。
思うほどの成果を見ない満映では、
人材の入れ替えを考えた。
そして甘粕正彦理事長が自ら日本へ渡り、
第二次の人材補充を申し入れた。
甘粕正彦というのは憲兵大尉で関東大震災のとき、
無政府主義者大杉栄・伊藤野枝と
甥の少年の三人を扼殺した男である。
彼は、刑を終えると満州へおくられ、
その後はいわゆる満州国建設の影の力として
動かし難い存在となっていたが、
表面的には満州映画協会という文化組織に身を寄せ、
にらみを利かしていた。
その甘粕がのりだして、
人集めをしたわけである。
当時日本映画界は映画法制定などで
次第に戦時色をふかめており、
一方フィルム製造に必要なニトログリセリンは
また火薬製造に必須である。
火力の充実を計った軍は、
当然フィルムの生産に影響し、
映画の製作の減退は当然である。
それは製作関係の映画人の合理化を意味する。
そうした状況におかれた映画人の中に
合理化による失職の黒い影が
生じてきたのも当然であろう。
そうした技術者の動揺は、
それでは外地でやるかという思いとなり、
満州=甘粕の意図は一応の成果を生んだ。
八木保太郎、杉山公平らの
一流のベテラン技術者を筆頭に、
かなりの映画技術者が
第二次満映入社となったのである。
私は渡満希望者を
映画人連盟の事務局長だというので
まとめる立場から世話をしていたが、
君も一緒に行かぬかということになり、
映画人連盟も解散するし、
外国生活もよかろうと
満映に入社することになった。

私は映画技術者ではないので、
満映は私をどんなポジションに
つけるかと思っていたら、
映画人養成所の主事ということになった。
なるほど私は映画理論や映画史のことは
一通り専門的に知っているし、
これなら養成所で生徒に講義はできる。
主事ということで私の上役には所長がいたが、
これは製作局の中心なので、
所長は形式的で、
私がほとんど管理と運営を任された形だった。
ここでは中国人の技術者を養成するのが目標で、
日本人や朝鮮人の青年も少数だがいた。
満映は敗戦とともに消え去るのだが、
その機材と施設、
そして若干の中国人技術者
―まだ幼稚ではあったが―は残った。

第一回の卒業生の中には、
のちに毛沢東専門のカメラマンとなった
馬守清もその一人であった。
また、日中外交が正常化して
文化交流が行なわれた行事の一つに
京劇の名優が来日したとき、
私も大阪での歓迎会に出席したら、
その一行の一人から呼びとめられた。
見ると、これは眼の碧い中国人で
李某という養成所出
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/27
身のカメラマン。
彼は中国人とロシア人との混血児で
眼が碧いので、
私はよく覚えていた。
彼はこの訪日芸能人一行に随行している
カメラマンであった。
彼との話で、
養成所出身の技術者たちが
りっぱに第一線で活躍しているとのことで、
私には大へんうれしかった。

養成所は毎年秋になると、
生徒募集である。
入所資格は中学校卒ということなので、
所としては、
毎秋所長か主事がめぼしい中学へ
勧誘に全国を旅して、
入所者をかためてゆく。

私もこの勧誘旅行を二度ばかりやったが、
土地不案内に言葉も通じにくい
という障害もあったが、
結構この旅はたのしかった。
独りで行くのだから、
万事が自分のやり放題である。
官費で負担もかからない。
この旅のおかげで
私はあちこちの都市を歩いて廻った。
今も記憶にのこるのは、
熱河省の承徳。
この西太后の離宮や
いくつかのラマ教寺院が美しく
山河を彩っている美しさはすばらしい。

私はスベン・ヘディンの『熱河』一冊を手に、
街中が一つの結構をつくした
大庭園のような承徳の街を歩いた。
中学の校長から、
熱河は中共系の遊撃隊の活躍地帯で、
街を歩くのも十分注意してほしいといわれたが、
街の美しさにひかれていつか危険のほども忘れ、
ラマ僧のアパートみたいな大建物をただ独り、
エッチラオッチラ歩いて上った。
そのとき私の感動したのは、
手にしたヘディンの『熱河』の文章であった。
彼の書いた一行、一行は、
まるでその歩いているところを
すぐペンにしているほど、
緻密で正確で、生々としていた。
これは日本型のボカシとはちがう美の感覚である。
こんな旅をしながら、無事満映へもどって、
何人かの養成所入所希望を報告していたのである。

そして一九四五年(昭和20年)八月に
ソ連軍の満州国進出となったのである。
実質的な「満州国」は、
機能を停止したといってよいだろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/28
「部落問題と文芸」第五号
発 行 一九九二年九月一三日
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《北川鉄夫=西村龍三》山宣葬前後◇フリーパスで東大へ【部落問題と文芸 (5)】1992-09

【部落問題と文芸 (5)】1992-09
出版者   部落問題文芸作品研究会
出版年月日 1992-09
部落問題のうちそと 6
山宣葬前後  北川鉄夫
 p18【部落問題と文芸 (5)】1992-09
p18【部落問題と文芸 (5)】1992-09
◇フリーパスで東大へ
二度づとめをした三高生活も
いよいよ終りをつげるときがきた。
五年間の三高生活は、
私の生涯の方向を形成したといってよい。
当時のいい方によれば、
「赤」の「社会主義者』に
私はなりつつあったようだ。

昭初三年(1928)の晩秋のころ、
兄の上官である京大の斉藤大吉先生が、
ひょっこり学校の敦室へ私を訪ねてきた。
斉藤先生とは兄の指示で
時々先生の自宅へうかがい顔なじみになっていた。
先生は私をみつけると外へ呼び出して、
「君、このごろ大分桃色じみてきてるそうじゃないか」
といった。
「森校長から電話があってきたのだが、
 兄さんに心配かけるなよ。
 適当にやりなさい。
 気をつけなさい」というのである。
「ハイ」と返事する外はないので、頭を下げた。
斉藤先生は微笑をうかべながら帰っていった。

ブタ箱入りで警察が学校へ通告したのに違いない。
それで私は気をつけたわけでなく、
適当にやることにしただけである。
そんなことで 、
「桃色じみた」私になったわけだが、
別に卒業に支障がでたわけでなく、
私は大学を東京にするか京都にするかを考えた。
劇や映画のことをやるなら、
やはり東京大学へ行こうと肚を決めた。

しかし、東大に入るのは入学試験が容易ではない。
ところが、東大の入試条項が発表されると、
何とありがたいことに文学部は入試なしである。
どうしてそうなったかというと、
その年度の東大の入試は、
これまで文学部なら英文科、美学美術史科といった
各科別に試験があり、
受からないと
第二志望、第三志望に欠員があれば
そこに廻される。
それも駄目なら入れない。
そういう試験制度であったが、
この年度は、
文科一本で三百人という新しい
やり方になったところが
文科志望の志願者総数が
合計すると三百人に足りない。

それで全志望者はすべてフリーパス
ということになったのである。
おまけに私の第一志望の美学美術史科は
定員十五名のところへ志望者十三名。
この方も私はフリーパスであった。

「おい、東大行くなら試験勉強しろよ」
と同級生から注意されていた私であったが、
一向に準備をしない私はフリーパスで
東大入学が決まったのである。

三高から大学へは、京大志望が多かったが、
東大もかなりいた。
その連中の大半は、法・経といった志望者であり、
彼らの目前には入試の難関がひかえている。
みな必死で勉強しているわけである。
そこへなまけ者の私が悠々とフリーパスで
前途安泰というわけである。
何とも運のよい私であった。
そんな次第で卒業試験もすみ、
休暇になった。
私は兄に東大へ入ることをパリまで手紙をし、
兄からも許可の返事がきた。

一九二九年(昭和4年)三月、
私は無事に三高を卒業した。
東京での下宿は、
文学仲間の一年先輩の植村収と同居することに決めた。
万事ととのった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/18

◇山宣の死
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/18
◇花やしきに籠城
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/19
◇山宣葬当日
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/20
「部落問題と文芸」第五号
発 行 一九九二年九月一三日
発行者 部落問題文芸作品研究会
    〒六〇六
    京都市左京区高野西開キ町三四の一一
    部落問題研究所気付
    郵便振替 京都四の一七三二九
    電話〇七五(七二一)六一〇八
印 刷 東海電子印刷株式会社
    頒価 五〇〇円
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/39
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《北川鉄夫=本名:西村龍三》
第三高等学校
入学 大正13年(1924)4月
卒業 昭和4年(1929)3月

東京帝国大学 文學部 美學美術史學科
入学 昭和4年(1929)4月
中退 

【第三高等学校一覧 大正13年4月起大正14年3月止】
〇文科一年甲類一學級 四十一人
京都一 西村龍三 京都

【第三高等学校一覧 大正14年4月起大正15年3月止】
〇文科二年甲類一學級 四十二人
京都一 西村龍三 京都

【第三高等学校一覧 大正15年4月起大正16年3月止】
〇文科二年甲類一學級 四十人
京都一 西村龍三 京都

【第三高等学校一覧 昭和2年4月至3年3月】
〇文科二年甲類一學級 四十人
京都一 西村龍三 京都

【第三高等学校一覧 昭和3年4月至4年3月】
〇文科三年甲類一學級 三十九人
京都一 西村龍三 京都

【第三高等学校一覧 昭和5年4月起昭和6年3月止】
〇昭和四年三月高等科卒業生
〇文科甲類卒業生
東文 西村龍三 京都

【東京帝国大学一覧 昭和5年度】
 第五 文學部
 美學美術史學科
〇昭和四年入學
西村龍三 京都
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張英華(現長春電影副廠長)を中心に「長春電影公司」が設立【新中国映画 (現代中国新書)】1956

【新中国映画 (現代中国新書)】1956
著者    大芝孝 著
出版者   法律文化社
出版年月日 1956
私営プロダクションの接収
全中国の解放に成功した
中国共産党の映画会社接収工作は、
まず東北から始められた。

それに先立ち、
抗日戦争の終った
一九四五年(昭和20年)の一〇月、
旧満映のスタジオでは
張英華(現長春電影副廠長)を中心に
「長春電影公司」が設立された。
これには、
もとから満映にいた
進歩的な工作者たちが参加した。
内田吐夢、木村荘十二監督のほかに、
多数の日本人技術者も加わった。
ここでは、金山が監督し、
張瑞芳が主演して、
〔松花江上〕を一本撮ったが、
翌四六年(昭和21年)四月、
正式に中共に接収されて、
国営「東北電影製片廠」に変った。

東影の指導にあたった中心人物は、
かつての名作〔馬路天使〕の監督で、
抗戦中は延安に走って文工団などで活躍し、
ソヴェトにもいったことのある
袁牧之や舒群であった。
袁が初代東影廰長になった。
p35【新中国映画 (現代中国新書)】1956
p35【新中国映画 (現代中国新書)】1956
https://dl.ndl.go.jp/pid/2483103/1/35
著者略歴
1921年1月2日
兵庫県宝塚市生れ
41年駒井徳三の康徳学院卒、
中国に留学、
46年神戸外専助教授、
49年神戸市外国語大学助教授、
著書「現代中国文学論」、
訳書「抗戦第二年代」。
1956・9・20 ¥170
現代中国新書 新中国映画
著 者 大芝  孝
発行者 亀井  蔀
発行所 株式会社 法律文化社
    京都市左京区吉田近衛町
    振替 京都10617番
中村印刷株式会社・協真社製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/2483103/1/134
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長春映画制作所訪問・報告(下)李光恵・馬守清先生【映画テレビ技術(465)】1991-05

【映画テレビ技術 = The motion picture & TV engineering (465)】
出版者   日本映画テレビ技術協会
出版年月日 1991-05(平成3年5月)
長春映画制作所訪問・報告(下)
――残影――満州映画協会――
  八木信忠(やぎ のぶただ)
 日本大学芸術学部教授、本誌編集委員
◇長春映画制作所・主の変遷◇
この長春撮影所の主は何度も変った。
それは日本と中国、
それにソビエトの波乱に満ちた
国際関係に翻弄された結果であるといってもよい。
簡略にこの撮影所の歴史をたどってみよう。

1939年(昭和14年)11月、
この撮影所は落成した。
満州映画協会(以下、満映)の本社ならびに撮影所として。
満映の創立は1937年(昭和12年)であるが、
1939年(昭和14年)までは
長春市の北西の寛城子という所の
使わなくなった機関庫をスタジオとして使用していた。

1945年(昭和20年)8月9日ソ連軍が参戦、
ソ満国境を越えて侵攻。
1945年(昭和20年)8月15日をもって終戦、
甘粕満州映画協会理事長は自殺、
満州映画協会は解体した。
ソビエト軍が長春に進駐。

1945年(昭和20年)11月1日、
「東北電影公司」として新しく発足、
所長には
張英華(1938年(昭和13年)日大映画科卒、
西河克己監督と同級)
制作部長は馬守清というメンバー。
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433246/1/31
写真4 李光恵さん(右)と馬守清先生
 p32【映画テレビ技術(465)】1991-05
p32【映画テレビ技術(465)】1991-05
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433246/1/32
(筆者注)
《甘粕正彦》 ※下記参照
1891年(明治24年)1月16日生れ、
※明治24年(1891)1月26日
陸軍士官学校24期生、憲兵となる。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災、
同年(大正12年)9月16日
大杉 栄、伊藤野枝、橘 宗一を殺害、
軍法会議にて懲役10年の刑を受ける。
服役後満州国建国にかかわる。
1939年(昭和14年)11月1日
満州映画協会理事長に就任、
1945年(昭和20年)8月20日
満映理事長室にて青酸カリで自殺。

《木村荘十二》
1903年(明治36年)生れ、
1924年(大正13年)大阪東邦映画製作所入社、
阪妻ユニバーサル連合、河合映画、帝キネマを経て、
1930年(昭和5年)「質屋と花嫁と紳士」で第1回監督、
以後新興キネマ、PCLの監督として活躍。
1941年(昭和16年)中国に渡り
満映参事、満映養成所で教鞭をとる。
戦後帰国後、独立プロ作品、記録映画、
アニメーション等の監督として活躍、
1988年(昭和63年)没。
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433246/1/33
©映画テレビ技術 5.1991 No.465
平成3年5月1日発行(毎月1回1日発行)
昭和26年11月24日 第3種郵便物認可
発行人 伊藤二良
編集人 中山秀一
発行所 社団法人 日本映画テレビ技術協会
    東京都千代田区大手町1-7-2
    サンケイビル別館
    電話(03)3231-7171大代表
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433246/1/74
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年08月02日05:57
[滿洲映畫協會]理事長 甘粕正彦
【満洲職員録. 康徳8年度(昭和16年)】
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

長春映画制作所訪問・報告(上)馬守清・西本正・木村荘十二・李光恵・張英華・王啓民【映画テレビ技術(464)】1991-04

【映画テレビ技術 = The motion picture & TV engineering (464)】
出版者   日本映画テレビ技術協会
出版年月日 1991-04(平成3年4月)
長春映画制作所訪問・報告(上)
――残影――満州映画協会――
  八木信忠(やぎ のぶただ)
 日本大学芸術学部教授、本誌編集委員
◇はじめに◇
昨年(平成2年)の11月19日から23日まで、
北京で開催された
「日中ハイビジョン映画技術協力」が
無事終了した後の11月24日より27日の間、
中国電影電視技術学会副理事長の
馬守清先生はじめ中国側の皆様のご厚意により、
長春映画制作所を見学する機会を得た。

長春映画制作所は
昭和20年(1945)以前は満州映画協会、
いわゆる「満映」だった所である。
この「満映」時代の思い出を、
私は何年か前から、
馬守清先生、
西本正さん(注)、
木村荘十二さん(監督)、
李光恵さん等から伺っているが、
そのお話を重ね合せながら、
現在の長春映画制作所を紹介したい。
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433245/1/15
◇HDフィルムの上映会場にて……◇
翌々日の11月26日、
制作所内の大講堂で、
日本から持参したHDフィルム作品
『玄妙』と『うぐいすの里』の検討試写会を開いた。

中国側参加者は250名ほど、
会場の講堂は旧満映時代からのものである。
収容人数はほぼ300名、
それほど大きくはない舞台が付いている。
スクリーン横幅は10mほどあり、
映写条件は北京電影学院の
シンポジウム会場に比較すれば、
かなり良好である。

我々日本側の参加者、
そして馬先生も同席する。
講堂にいっしょに入った馬先生は、
懐かしげにあたりを見わたした。
そして
「変ってません、昔と、ほとんど変ってません」
こう私に語った。

今から49年前、1942年(昭和17年)、
馬守清青年はこの講堂の舞台の上に立っていた。
第一期満州映画協会養成所主席卒業生として、
甘粕満州映画協会理事長は、
修了証書、優等証書、
そして置時計を馬青年に授与した。

馬守清青年がこの舞台に2度目の主役として立ったのは、
日本が敗戦をむかえた1945年(昭和20年)の秋であった。

その時の様子を、
同じ満映の撮影助手で同じ作品についていた
西本正さんは、
次のように話してくれた。

「旧満映の日本人職員は講堂に集まるよう指示されました。
 中国側にこの満映の社屋、機材すべてが譲り渡され、
 新しい中国の撮影所として発足する。
 この件について、
 発表があるらしいという噂は流れていました。
 
 だれが新しい撮影所の所長になるのか、
 そして我々日本人はどうなるのか、
 不安でざわめいていました。

 しばらく待たされた後、
 中国側の人達が入場して来ました。
 その先頭の人の顔を見て、
 私はアッと驚きました。
 私の組のセカンドだった馬君です。
 馬君はさっそうと舞台に上りました。
 後に数人の人が続きます。

 馬さんは毅然とした態度で日本人に云いました。

 今日から私たちがこの撮影所の責任者となります。
 そして映画を作ってゆきます。
 日本人の方も私どもと協力して映画を作りませんか、
 その気持のある方は歓迎致します。……

 あのセカンドの馬君が……、
 その時の顔はとても凛(りり)しく
 私の目に写りました。」

この話に、馬先生は
「それは西本さんの誤解だと思います。
 所長は張英華さん、
 私は制作部長です。
 私が日本語が出来るので、
 私がすべて通訳をしたので、
 そのように感ぜられたのではないのでしょうか。
 当時、満映では、監督、技術者は、
 ほとんど日本人でした。
 中国人で正式のカメラマンは一人もいなかったんです。
 カメラマンの肩書きはなかったけれど、
 仕事をやり始めた人が王啓民さん一人でした。
 そのため、この新しい組織にはどうしても
 満映にいた日本人の方の協力がなければ
 仕事をやっていけないのです。
 私は日本人と関係も深いし、
 話も出来ますから、
 おもに私が中心となって
 日本人と交渉をすることになりました。」

そして、その時から45年を過ぎた今、
馬先生は日中共同制作のHD実験フィルムを
プロデュースし、
日中のシンポジウムを成功させ、
日中の仲間と同じ講堂の席で
ハイビジョンで制作されたフィルムの
試写に立ち会っている。

どのような想いが、
馬先生の脳裏をよぎっているのか、
隣の席の馬先生の横顔を見ると、
スクリーンのさらなる向う側を見ているような
目差しだった。

長春電影制片厰略圖
 p16【映画テレビ技術(464)】1991-04
p16【映画テレビ技術(464)】1991-04
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433245/1/16
(筆者注)
《西本 正》
1921年(大正10年)2月5日生まれ。
満州映画協会養成所を経て、
1944年(昭和19年)日本映画学校卒業後、
満州映画協会映画部撮影技師補、
終戦後は日映、新東宝勤務、
1956年(昭和31年)に
第1回撮影担当の「鉄血の魂」を完成、
以後同社作品約20本を担当、
のち色彩技術指導のため、
香港ショウ・ブラザーズへ派遣され、
1959年(昭和34年)に同社と契約、
1972年(昭和47年)契約終了。
この間劇映画60本を担当、
併せて技術指導につとめる。
1976年(昭和51年)香港電影特技公司を設立、
現在にいたる。
第10回増谷賞受賞。
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433245/1/17
©映画テレビ技術 5.1991 No.464
平成3年4月1日発行(毎月1回1日発行)
昭和26年11月24日 第3種郵便物認可
発行人 伊藤二良
編集人 中山秀一
発行所 社団法人 日本映画テレビ技術協会
    東京都千代田区大手町1-7-2
    サンケイビル別館
    電話(03)3231-7171大代表
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433245/1/64
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『黎明曙光』(山内英三監督) 昭和15年(1940):満州映画協会(満映)

松竹【作品データベース】黎明曙光
公開日:1940年9月22日(日)
 松竹【作品データベース】黎明曙光-1
〔画像〕松竹【作品データベース】黎明曙光-1
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【映画と音楽 3(9)】昭和14年(1939-09)
出版者   映画と音楽社
出版年月日 1939-09
  滿映の國策篇
  「黎明曙光」製作
滿映では國策映畫として建國の際に於ける
邦人の參事官と警務指導官の殉職美談を繞(めぐ)る
匪首の豪快な物語を荒牧芳郎が脚色して
「黎明曙光」を山内英三監督で製作することゝなり
李香蘭、 ※李香蘭⇒季燕芬
周 潤、 ※周 潤⇒周 凋
張書達、
その他一流演員が總出演するが
主役たる日本人の參事官と警務指導官には
特に大船から笠智衆、西村靑兒の兩人が
特別出演と決定
p29【映画と音楽 3(9)】昭和14年(1939-09)
〔画像〕p29【映画と音楽 3(9)】昭和14年(1939-09)
https://dl.ndl.go.jp/pid/4420199/1/29

【エスエス 4(12)】昭和14年(1939-12)
出版者   東宝発行所
出版年月日 1939-12
  滿映撮影所
十月の中旬だといふのに、
吹雪をまじへた冷たい風。
オープン・セットに、
立派な滿洲の村落が作られてゐる。
山内英三監督が、
大船から笠智衆、西村靑兒を
主演者に借りて撮影中の
「黎明曙光」のセットだといふ。
二人の殉職日本警官に
大船から招(よ)ばれた
二人の俳優が扮してゐる。
「東遊記」が東寶、滿映との提携作品とすれば、
これが松竹との第一回提携作品になるわけだ。
p52【エスエス 4(12)】昭和14年(1939-12)
〔画像〕p52【エスエス 4(12)】昭和14年(1939-12)
https://dl.ndl.go.jp/pid/4420828/1/52

【宝塚文芸図書館月報 5(2)(44)】昭和15年(1940-02)
著者    宝塚文芸図書館 [編]
出版者   宝塚文芸図書館
出版年月日 1940-02
833 シナリオ Scinario
荒牧芳郞:黎明曙光(滿洲映畫1月 40-63) 
p7【宝塚文芸図書館月報 5(2)(44)】昭和15年
〔画像〕p7【宝塚文芸図書館月報 5(2)(44)】昭和15年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1483216/1/7

【映画学 = Film studies (12)】1999-01
出版者   映画学研究会
出版年月日 1999-01
輸入された満映映画の中には、
宣伝の色が薄い劇映画も存在したが、
伴って配給された文化映画の内容としては、
「日満合作」、「軍国主義」などのイデオロギーが
組み込まれていた。(83)
(83)『黎明曙光』
  (山内英三監督、季燕芬、笠智衆主演)などがある。
p70【映画学 = Film studies (12)】1999-01
〔画像〕p70【映画学 = Film studies (12)】1999-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/4426126/1/70

【映画音楽の美学と科学】昭和19年(1944)
著者    クルト・ロンドン 著 [他]
出版者   楽苑社
出版年月日 1944
 附錄 映畫音樂作品目錄
https://dl.ndl.go.jp/pid/1871973/1/136
◇製作年代は發表の年次に從ひ、…。
 《 》内は西暦年代の最後の二桁を示す。
(昭和十八年八月 岡 俊雄)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1871973/1/137
 古賀政男(日)  p143-144/155
《36》「東京ラプソデイ」(伏水修)
《40》「蔦」(萩原遼)
p143【映画音楽の美学と科学】昭和19年(1944)
〔画像〕p143【映画音楽の美学と科学】昭和19年(1944)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1871973/1/143
《40》「黎明曙光」(山内英三)
《41》「熱砂の誓」(渡邊邦男)
《43》「サヨンの鐘」(淸水宏)
p144【映画音楽の美学と科学】昭和19年(1944)
〔画像〕p144【映画音楽の美学と科学】昭和19年(1944)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1871973/1/144
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※「黎明曙光」に出演
出版者   [満洲映画協会]
出版年月日 [1940]
季 燕 芬
 本年十九才。
 哈爾濱にて生育す。
 女子中學校卒業後、
 康德四年十一月入社。
 「明星誕生」「七巧圖」「知心曲」
 「富貴春夢」「煙鬼」
 「黎明曙光」に主演。
 「大陸長虹」に助演す。
 趣味、音樂、唱歌を得意とし、
 素晴しい美聲の持主、
 滿人間に最も人氣のある女優。
白   玟
 「黎明曙光」に出演
趙   愛
 「黎明曙光」に出演
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※「黎明曙光」に出演
出版者   [満洲映画協会]
出版年月日 [1940]
王 宇 培
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/3
徐   聰
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/4
載 劍 秋
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/6
郭 紹 義
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/7
王 福 春
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/8
李 顯 廷
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/14
杜   撰
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/15
劉   潮
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/16
張   奕
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/19
江 雲 逵
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/20
曲 傳 英
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/21
周   凋
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/22
崔 德 厚
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/26
于 廷 海
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/28
趙 藝 達
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/33
孫 丕 顯
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/34
關   英
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/35
王 兆 義
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906872/1/39
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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