但行綴り

懺悔窓開けて妙音身に添えり――(妙音林芳和)

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眼横鼻直。なんと当たり前のことであろうか。
その、当たり前のことを当たり前に受け入れることを
眼横鼻直と言うそうである。

だが待てよ、当たり前の自分って、なんと無様は顔した
心に捻くれた自分なんだろうか。

でも、松も曲がっていて当たり前ではないか。
俺もねじ曲がり、無様な自分で当たり前なんだ。

そんな無様な自分を愛してみたら、心が真直ぐになった。



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妻が「カーテンを換えたい」と言ったので、ニトリに行ったら、
赤い帯状のテーブルクロス?と出遭い、家の食卓テーブルに
置いてみたら、高級料亭のように上品なテーブルとなった。

すると、上品とは言えない私たちも上品な食事スタイルに変わった。

西洋近代は、物と心とを峻別して来たが、分断差別の無い真如においては、
「物心一如」であった。

物が変われば心も変わる。

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釈尊は果から因を観たそうである。
上座部の刹那生滅の連鎖も、
[果・因]→[果・因]→[果・因]→[果・因]→
と果から始まっていた。
成長も刹那生滅ならばアナログ的に上積みするのではなく
前の段階が終り、現在の段階へと、新しく始まるように
成長する。

「終り」がなければ「始まり」はない。
それは、失敗から始まり、破滅から始まるということだ。
何度ども失敗するから成長する。
何度ども破滅するから成長する。

失敗は成長、破滅は成長、
不生不滅――死とは生まれることだった。



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『スタ・ニパータ』二章七節の最後の一節である。

「生まれることは尽きた。清らかない行いは完成した。
なすべきことはなしおえた。もはや再びこのような生存
を受けることない」

輪廻転生の解脱宣言は、「輪廻の否定」ではないのか。
「生まれることは尽き果て」、自分自身の修行は終りなの
だが、一切衆生に生かされている縁起の自己を自覚した
が故に、その終りから、衆生救済の旅に出る。

「終わり」があって「始まり」があった。
「終わり」がなければ「始まり」はない。
「終わり」から「始まる」。




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「この世とかの世をともに捨て去る」という『スッタ・ニ
パータ』一章「蛇の章」を再読のご縁から、第二章七節
「バラモンにふさわしい」も再読すると、自己が変われば
が読み方の変わるようで、深読みができる自分に気づいた。

それは、
1, 聖者は「心を耕す者」
2, 『ベーダ聖典』の否定、すなわち「聖典否定」
3, 出家し、禅定で観想意識を高めるこの勧めである。

したがって、仏弟子たちは『聖典』というものを規定
しなかったし、もともと仏教に『聖典』なるものは
存在しない。

もちろん『スッタ・ニパータ』の聖典ではなく
禅定(瞑想)への道標である。

その分、仏教の観想意識は深まり、華厳哲学にまで
発展する。

一度、『経典』を捨て去る必要があるようだ。




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『スタ・ニパータ』第一章「蛇の章」の17偈は、みな、
「蛇が脱皮するように、この世とかの世をともに捨て去る」
で終わっている。

これをどう読むのか?
A・スマナサーラ長老は「論より正悟」と示し、長老の正
悟の内容を語っている。

「相反するものを共に捨て去る」と言う論理は矛盾してい
て、論理を超えた観想意識で自覚する以外にはないという
言う事である。

「この世とかの世をともに捨て去る」
は「不生不滅」という龍樹の〈八不〉に直結する。
これを現代に引き上がれば「二元対立の超越」(竹村牧男)
となる。

自己流に言えれば、
「この世」と「かの世」を比較分別しない智慧となる。

その智慧の内容とは何か?
『スッタ・ニパータ』を探究されている羽矢辰夫先生の
二つのコスモロジーという概念を借りれば、

独我の「ばらばらコスモロジーの自我」から、すべての
関係性に生かされて今此処を生きる「つながりコスモロ
ジーの自己」への超越という、段階的な自己の成長だ。

時間のすべてもつながった無時間の「つながりコスモロ
ジー」の最中か、無時間の段階的な成長は続いている。


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過去の業縁を尋ねて行けば、
縦に横へと広がり、
果てしなき混沌とした荒野が広がるばかりだ。

しかし、ある者は、過去の因縁に人を閉じ込め、
それぞれの目的のための道具として使う。

日本仏教の正師たちは、「宿業」を〈平等のいのち〉
と諦観した。そしてそれは、人を安らぎへと導く。

しかし、更に一歩進めて、難多きこの世界で、
「宿業を愛する」段階に超越すれば、
更に強く善く生きられると気づいた。

『観音経』はまさに、宿業への愛の導きだ。
『般若心経』のギャーテー・ギャーテーという呪文
も「宿業への愛の導き」に思えて来た。

「宿業を愛せよ」「運命を愛せよ」

という次元を超えた観世音というコトバを観じた。

我、宿業を愛す――南無観世音――統べるは愛


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「信じる」「信じない」を比較するのは「妄想分別」。
空なる真如においては比較されるもの何もない。

「信じるか」「信じないか」と比較分別している信心
は、真の空なる信心ではない。

「信じる」「信じない」の比較分別を超えたところに
仏の性なる「大信心」が現成する。

大信心は仏性なり(『涅槃経』)

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解脱すると苦が楽になるという人がいる。
そしてそれが智慧だと言う人がいる。

それは苦と楽を「妄想分別」しているのであって、
「苦楽中道」という仏教の智慧とは違う。

仏教の智慧とは、観想において、
苦と楽を比べることがなく、
苦と楽を同時に観想できる智慧である。

苦と楽を分別しないところに、真の楽が現成する。

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『阿弥陀経』の出だしに、「今現在説法」とある。
「その土(極楽浄土)に仏あり、阿弥陀仏と号す。
(かれ)現に在いまして説法したもう」

『法華経』寿量品には「常住此説法」とある。
「衆生を救わんがために、方便として涅槃を現わすも
しかし実には滅度せずして、常にここに住して法を説
くなり。」

歴史上の釈尊ともに、もう一人の「形而上の釈尊」が
説かれる。

空海は、宇宙の身体化である大日如来が説法している
と「法身説法」を説く。

この阿弥陀仏や釈迦牟尼仏や大日如来が、その表記通り
に実在する考え人は、それをオカルトとしてしまう。

それらの仏の名の表記は方便という「仮設」なのであって、
その表記に対する内容は、釈尊の悟り、「釈尊の悟り内容」
とうことである。

一つの宇宙を大日如来に例えれば、その一つの宇宙から
はたらく「智慧」「慈悲」のはたらきが阿弥陀仏であり
釈迦牟尼仏である。

その慈悲のはたらきである阿弥陀仏や釈迦牟尼仏が、
観想意識の世界で、今現在、今ここで説法をしていると言う。

稲刈りのシーズンである。
天日干しされた稲穂に仏の説法を観じた。

文句の言わずに種を蒔かれ、
文句も言わずに生きて、
文句の言わずに死んでいく穀物の
なんとさわやかなことか。

ソンナモノニ ワタシハ ナリタイ。


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アメリカの文学理論化、ロバート・スコールズが、
「我、書く、故に我在り」
私が書く、ということは、私が存在していることだと言う。

アンドレ・リュウの構成音楽を観た後にふとこの言葉を想起した。

アンドレ・リュウが指揮する音楽の会場では、それぞれが自己
を超越して、会場全体の人類の命と一体化し、しかも、それぞ
れが自由に自己を表現していうようでもある。

真空妙有――何も無き状態から、溢れです有のはたらき(用)。

自己を明確に表現せよと言うが、その真空からの自己表現に
よって、私たちは存在確認しているようだった。

書きながら、人類と共に生きていた。

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妻が一日に30分以上アンドレ・リュウのユーチューブを
観ている。オランダの音楽家でそのバイオリンの演奏力
に加えて、演出構成力・司会力・和合力が会場を一つに
させる。キリスト教文化の歴史の音楽の無限の力に自我
が解き放たれると、先ずは、始まりのない「人類の命」
を感じる。終りの無い「人類の命」を感じる。

その根柢に、イエスの愛の契約の無限のイマージュ力を
思わずにはいられない。

東洋にもそれはあるはずだ。
『法華経』の始まりのない命のあの宇宙的イマージュ力。
『浄土三部経』の形而上的浄土のイマージュ力。
両界曼荼羅の、宇宙の命のイマージュ力。

その根柢は空であり、「真空妙有」である。

不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去という縁起は
「人類の命」であったのだ。

その「無量無辺の人類の命」を、形而上の境界を置き忘
れた仏教が、なんと狭い世界にしてしまったことか。

人は常にすでに、「人類の命」と一体だったのだ。
とアンドレ・リュウの構成する音に気づかされる。
それが「観世音」であることを……。

今朝、妻と『般若心経』を唱えるとシルクロードを、
全人類と共に歩く二人がイメージされた。
ギャーテーギャーテーと。

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よく晴れた朝、妻の軽井沢ショッピングプラザのフランス風のパン屋に
行こうと言うので行った。浅間サンラインは絶好のドライブコースだ、
信州の山並みを眼下に見るような風景が、生活で閉ざされた心を解き放
つ。目的地に着くと、フランス風のパン屋は開店前だったので、フード
コートのアメリカ風のサンドの店でビーフたっぷりのバーグを食べると
すっかりアメリカ気分だった。

フランス気分のいいが、時には若返ってアメリカ気分も悪くはない。
人をイマージュに遊ぶことで心が解き放される。朝のフードコートには
客が少なく、広々として空間にまた心が解き放たれる。イマージュに遊ぶ
ことも悪くはない。

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大きく伸びて広がり、密になったオオデマリの葉が虫食いになると、
思い切り剪定したくなった。枝を元から切り、何本の切り、剪定と
いうよりも解体作業だ。するとまるで盆栽のように、様々なものを
イメージさせる作品となった。解体は創造だったのだ。創造は付け
足しではない。新たに生まれ変わるものであった。

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宇宙の「明在系」と「暗在系」を論じたデヴィッド・ボームは
『ダイアローグ』に関しても反するものの「一組ずつ」だった。
クリシュナムルティのブラフマンとアートマンの「一組ずつ」。
ブラフマン――限りなく広い宇宙的自己を見つめてみたいものだ。

無数無辺の、空なる宇宙的自己を。

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昨年まで庭の手入れに怠り、ドクダミがジャングル化し、庭の草木を侵食していた。
今年は、ドクダミの勢力を奪おうと、綺麗に刈ってから、出て来る葉を小さな内に
掻いていると、太陽の光を浴びられずに勢力が衰え、庭に草木の関係性がよくなった。

今日も、小さなドクダミの葉を掻いて刈った。すると、勢力の衰えたドクダミが
なぜだか悲しくなり、「ごめんね」とささやいてみた。

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私が井筒俊彦に出遭ったのは、河合隼雄『ユング心理学と
仏教』だった。ユング派の臨床を受けた者として河合隼雄
に導かれるのは必然だった。河合は、明恵の『夢日記』に
出会い、ユング以外に日本人の師を見つけたという。

明恵は「三界唯一心造」の華厳の人であり、そこから井筒
俊彦の華厳に出遭うのもまた必然である。さらに臨床から、
禅の「牧牛図」から上田閑照に、また梶山雄一と仏教の師
をひろげて行く。

ただし、仏教の枠を超えている井筒俊彦の影響が最も強い
ことは前掲書から明らかである。

河合は井筒の『コスモスとアンチコスモス』での図をそのま
ま掲載し、内容を井筒に代わって解説している。井筒を華厳
の師としているのは確かである。

また『意識の形而上学』の「心の構造図」を載せ、
心真如=無意識界、心生滅=有意識界
と明確に示し、「心真如」を宗教的には「仏心」と解説して
いる。「仏心」を人格化すると「観世音菩薩」と仮設される。
いわば、「心生滅という妄想分別の自己」と「心真如という
真実自己」という「二つの自己」である。

井筒俊彦は「三界唯一心造」と、意識の深みに降りて行く
という唯識にも精通している。

『中論』→『唯識』→『起信論(仏性)』→『華厳哲学』

これは、竹村牧男から学ぶ仏教哲学の道でもあり、私もこれ
に追従することとなった。

河合隼雄の師である、ユング・明恵・井筒俊彦。皆、意識
の深みへ深みへと降りてゆく深層意識の探求者であった。

そこに井筒俊彦の「意味分節理論」の深みがあった。

さて私などは、後塵を拝することしかできないが、どこまで
降りられるか。探求に遊びたいものである。

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「影参差 松三本の 月夜かな」

文学者であり禅者でもあった夏目漱石の月の句。

月の光が、不揃いに三本の松の影をつくっている。

不揃いの松には差別があるが、
月の光は、それぞれ平等に照らしている。

「差別」と「平等」の無分節。
「差別」と「平等」の相対を絶する。
法華経「薬草喩品」の「三草二木の喩」が重なる。

漱石が、「平等の月の光」と「世俗の差別」の真ん中で、
「平等」と「差別」の両方を眺めている。

文学的な法華経の「三草二木の喩」を思い浮かばせるとは
漱石らしくて風流ではないか。


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体育館の管理人をしているもので、体育館の窓から「中秋の名月」を眺めていると、
阿闍世の救いという、涅槃経「梵行品」の釈迦牟尼如来の「月愛三昧」が浮かんだ。

あらゆるものを平等に、分別無く照らす「月の光」。
釈迦牟尼の慈悲とはそういうものかと、中秋の名月が「月愛三昧」を説法していた。

阿闍世に罪があれば私にも罪がある、というあの同悲同苦の「月愛三昧」を。

『法華経』寿量品では、法身の釈尊が此処において説法するという、
「常住此説法」が説かれる。

しかし、のんのんとしていたのでは聴くことはできない。

一切皆苦という根本苦悩に気づき、仏に会いたいと、「仏に恋慕し、渇仰し」その名を
呼ばないと、「永遠なる法」は答えてはくれない。

どうしたら良いのだろうか。
たとえば、母を亡くした幼い子供が月に向って、
「お母さん、会いたいよ〜」
と心で叫んだとき、月がお母さんの優しい顔になる。

呼べば答える。必ず答える。

なんという、法身釈迦牟尼如来の神通力だろうか。
それは、阿弥陀仏でも観世音菩薩でも同じだ。

「常住此説法」

中秋に名月に「南無観世音」と称名すると、
涅槃経の「月愛三昧」に「妻の顔」が重なった。

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法華経や涅槃経と「マタイの福音書」5〜7の
「山上の垂訓」はどこか似ている。

心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は幸いである、
 その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである。
 その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである。
 その人たちは憐れみをうける。
心の清い人々は、幸いである。
 その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである。
 その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである。
 天の国はその人たちのものである。

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