聖徳太子以来、徳のある日本人は、神と仏の互いの長所を引き出す
「神仏習合」の道を見出したのだが、荒手の密教者や修験道等が、
神と仏の互いの長所を省みず、自分たちのご都合でごちゃ混ぜにして、
神道とも仏教とも言えないものにしてしまったのを「神仏融合」という。
習合は、料理でいえば和え物で、個物としての味を殺さずに引き立たせる。
融合は、料理でいえば鍋料理で、個物の味が殺され一つの味にされてしまう。
神は立つもの、仏は坐るもの、
神は来るもの、仏は行くもの、
と言われるように、神の特性と、仏の特性はまったく違うのである。
その根本的な違いを尊重し、お互いの味を殺さないように、
互いに習い合わせることを習合という。
そして、それを、二項対立の両極を含んで超える「中道」という、
釈尊の説いた真理である。
真言宗も日蓮宗も、本来はこの「神仏習合」なのだが、
身勝手にごちゃ混ぜする「神仏融合」の御仁を多々見受けるのが残念である。
神とは何か?仏とは何か?
原点に帰って問いかけてみたいものである。
「神仏習合」の道を見出したのだが、荒手の密教者や修験道等が、
神と仏の互いの長所を省みず、自分たちのご都合でごちゃ混ぜにして、
神道とも仏教とも言えないものにしてしまったのを「神仏融合」という。
習合は、料理でいえば和え物で、個物としての味を殺さずに引き立たせる。
融合は、料理でいえば鍋料理で、個物の味が殺され一つの味にされてしまう。
神は立つもの、仏は坐るもの、
神は来るもの、仏は行くもの、
と言われるように、神の特性と、仏の特性はまったく違うのである。
その根本的な違いを尊重し、お互いの味を殺さないように、
互いに習い合わせることを習合という。
そして、それを、二項対立の両極を含んで超える「中道」という、
釈尊の説いた真理である。
真言宗も日蓮宗も、本来はこの「神仏習合」なのだが、
身勝手にごちゃ混ぜする「神仏融合」の御仁を多々見受けるのが残念である。
神とは何か?仏とは何か?
原点に帰って問いかけてみたいものである。
