和真の遊歩道

縁起と空と観世音――そして私たち。

神仏習合と神仏融合

聖徳太子以来、徳のある日本人は、神と仏の互いの長所を引き出す
「神仏習合」の道を見出したのだが、荒手の密教者や修験道等が、
神と仏の互いの長所を省みず、自分たちのご都合でごちゃ混ぜにして、
神道とも仏教とも言えないものにしてしまったのを「神仏融合」という。

習合は、料理でいえば和え物で、個物としての味を殺さずに引き立たせる。
融合は、料理でいえば鍋料理で、個物の味が殺され一つの味にされてしまう。

  神は立つもの、仏は坐るもの、
  神は来るもの、仏は行くもの、

と言われるように、神の特性と、仏の特性はまったく違うのである。
その根本的な違いを尊重し、お互いの味を殺さないように、
互いに習い合わせることを習合という。
そして、それを、二項対立の両極を含んで超える「中道」という、
釈尊の説いた真理である。

真言宗も日蓮宗も、本来はこの「神仏習合」なのだが、
身勝手にごちゃ混ぜする「神仏融合」の御仁を多々見受けるのが残念である。
神とは何か?仏とは何か?
原点に帰って問いかけてみたいものである。

「書物崇拝」という「偶像崇拝」

近代の曹洞宗において、『正法眼蔵』という高尚な哲学書を所依とし、
そしてその『正法眼蔵』を宗派の誇りとしたために、それを読むこなす
だけの能力のない在家者は、その『正法眼蔵』という書物を、
ただ「有り難く拝む」という書物崇拝になってしまった人が多いと聞く。
そういう人たちはにとっては『正法眼蔵』は絶対的なものであり、
一般の人に分かってもらっては困るらしい。
もし、『正法眼蔵』という書物を絶対化して拝んでいるとすれば、
それはまぎれもなく「偶像崇拝」である。
『正法眼蔵』の絶対化が「偶像崇拝」を生んだといっても過言ではなかろう。

本を買い集めて、「本を拝んでいる人」を見るにつけ悲しく思うが、
それを反面教師として、知識の絶対化に気をつけたいものである。

 空は空を否定し、唯識は唯識を超える。

仏像は偶像か?

一神教である聖典宗教では、神が、我以外のものを崇めることを禁止する。
そこから「偶像崇拝の禁止」が生まれた。
だがしかし、素朴な偶像崇拝は本当にいけないことなのだろうか?
私たち凡夫の心理として、「形見の品」や、愛する人からの「お守り」とか、
それによって、一人で生きているのではなく、生かされている自分に気づく
のであるのならば、それは善いことだろう。

だが、木や石や金属や陶器などでつくった神仏の像に対し、その物質として
の像自体に霊験があると信じて、その像をご利益信仰の対象とする偶像崇拝
は人間の心の成長を妨げてもし、更には、それで人を支配したり、金儲けの
手段として使われたら目も当てられない。

本来の仏教における「仏像」は偶像でないと言われる。
その像のすがたは、釈尊のさとりやその修行の内容を目で見てわかるように、
いわゆる教えが象徴されているものだそうだ。
仏教徒は、釈尊のさとりや修行の内容という、釈尊のこころを信じ、釈尊の
教えに導かれて救われるという。

仏像は「教えの象徴」というのがその建前だが、果たして、どれほど日本人
がこの「教えの象徴としての仏像」を理解しているのか、というと疑問であ
るのだが………。

釈尊の遺言は「法灯明・自灯明」ということらしいが、この場合の法とは、
釈尊の教えと、その修行法とするのが賢明だろし、その「法の象徴」が仏像
というになるだろう。

釈尊は「中道」を説き、中道とは「二元対立の無化(止揚)」である。
仏教における仏像とは、仏教がさまざまな民族の中に広がる過程で、
「偶像崇拝」と「法信心」との二項対立を無化(止揚)させるもので
あったのではないだろうか。

仏像の実体化は粉骨解体化される。
仏像とは、「教えの象徴」ということを心に留めておきたいものである。

『日々是修行』――己身の観音・唯心の浄土

…この世には、超越的な力を持つ絶対者など存在しない。
…だから、生きる苦しみを消し去るために、外の絶対者にお願いしても意味がない。
世の中の法則性を知ったうえで、それを利用したかたちで、自分の心を鍛錬していく。
それが苦しみをなくす喩一の道だ。
ここに釈迦の本質がある。……………。


ちくま新書の佐々木閑著『日々是修行』の一節である。
『犀の角』からこの新進の仏教学者には、切り口が新鮮なので注目をしている。
釈尊の仏教を学ぼうとするなら『日々是修行』は、安価で手短であるためお薦めである。

ということで、観世音菩薩は超越的な力をもつ絶対者ではない。
「己身の観音・唯心の浄土」
というように、自己の外側に何かを求めるものではない。
観世音菩薩とは、理想的な人格・仏に成る可能性・仏性、
すなわち「他に役立つ機能」とでも仮に言っておこうか。

世の中の法則性(縁起)を知ることを覚りというのだろう――南無観世音菩薩。

風呂上がり隙間風もなく君がいて

寝る前に風呂に入り、キッチン続きの温かな洗面所で、
良く乾いたタオルで体を拭いている時間は幸福感に満ちている。
そして、部屋には妻がいる。
平穏無事の当たり前の生活に安堵感がある。
「無事」でありたいものである。

念彼観音力=祈らぬ念

無我の真実に目覚めていない宗派だと、どうしても「祈願」という祈りに
傾くが、仏教における念(smrti)は心作用(心所)の一つで、
「対象を忘失しないこと(『倶舎論』の定義)」であり、
そのことを常に忘れないことであるといわれ、
加持祈祷や祈願の「祈り」とは違う。

観音信心の私は、「念彼観音力」と、
朝に観世音を念じ、夕べに観世音を念じ、
念念従心起・念念不離心と、日々観世音菩薩を念じているが、
そこに「祈り」はなく、ただ念ずるだけである。

それが他人のことを想う善の祈りであったとしても、
こうあってほしい、こうありたい、こうありべきだというのは、
潜在の心には、どうしても貪欲という邪念につながる。
だから、本当の念とは、何も思わない、ただ念じる。
それが、観世音菩薩の「念彼観音力」のありようである。
いまは亡き松原泰道氏の言葉が思い起こされる。


――松原泰道著『わたしの観音経』197頁〜――

「念彼観音力とは、何かをもの欲しげに、観音菩薩の力を求め願うのでなく、
ただひとすじに「南無観世音菩薩」と念ずるのです。
そして生まれ、恵まれた力が「観音力」という信心の力です。
観音力は、自分が信じて唱えることによって、
感応道交(仏の願いと凡夫の願いとが通い合うこと)されて
私たちの心中に開発される生命力です。
この生命力は、心の奥にひそむ、助かりたいとか救われたいとかとの
願望をも乗り越えて、遭難の場にあっても、
取り乱すことなく生き抜ける力となります。
それがご利益です。

祈りが止んだとき(無事)

「自分の欲望ではなく他のために祈る」といっても、
それが意識化されると、
そこには、必ず「してやっている」という慢心(末那識)がはたらき、
人間の深層の〈こころ〉はそう単純ではない。

だから、
外側に何か求める気持ち(祈り)が止んだ状態を禅では「無事」というが、
経験上からすれば、祈りという欲望の意識化が魔境をつくり出すようだ。
しかし、「すべては叶えられている」と覚れば、「無事」になれる。
「無事」から「感謝」が生じる。

坐禅では、弛緩と緊張のくり返しの中で、最も脱力できる意識のあり方が
模索されるが、意識が頭の中にある状態(祈り)では脱力は実現できず、
脱力状態でなければ、智慧も慈悲も発動しない。

祈りが止んだとき、〈こころ〉が清浄・平安になり、その清浄・平安さが
無指向性あるいは特定の方向に、照射されるのを「利他」いう。

まずは祈りを止めてみることである。
そうすれば、智慧と慈悲は、自ずからあちらからやってくるらしい。
それを〈他力〉とか〈不可逆〉とかいう。

しかし、始めはどうしたって自力である。
他力は自力に依存し、自力は他力に依存する。
これを、縁起の法則といい、また〈自他不二〉という。

釈尊は禅定の人(瑜伽行者)であった。

祈りが止んだとき

外側に何か求める気持ち(祈り)が止んだ状態を禅では「無事」というが、
経験上からすれば、祈りという欲望の意識化が魔境をつくり出すようだ。

坐禅では、弛緩と緊張のくり返しの中で、最も脱力できる意識のあり方が
模索されるが、意識が頭の中にある状態(祈り)では脱力は実現できず、
脱力状態でなければ、智慧も慈悲も発動しない。

祈りが止んだとき、〈こころ〉が清浄・平安になり、その清浄・平安さが
無指向性あるいは特定の方向に、照射されるのを「利他」いう。

まずは祈りを止めてみることである。
そうすれば、智慧と慈悲は、自ずからあちらからやってくるらしい。
それを〈他力〉とか〈不可逆〉という。

しかし、始めはどうしたって自力である。
他力は自力に依存し、自力は他力に依存する。
これを、縁起の法則といい、また〈自他不二〉という。

すべては叶えられている

「すべては叶えられた!」と思った瞬間、私は法華経〈普門品〉にはまった。
私に、『法華経』を教えてくれた人は、ただ「感謝の暮らし」だった。
何も祈らない、何も求めない。
なぜなら、すべたがかなえれているから。

「すべては叶えられている」と覚ったときが「菩提心」だ。
そこから仏道がはじまるのだろう。

               南無観世音菩薩!!

初冠雪浅間の山が遠くなり

雨上がりの休日、車で買い物に出ると浅間の山が真っ白になっていた。
初冠雪の浅間が、今此所の雪のない世界とは別の世界のように思え、
浅間が遠くに見えていた。
冬がもうそこまで来ている。

時間は流れず(博士の数式)

BSで「博士の数式」を放映していた。
映画で観て、DVDで2回観ているから今回で4度目である。
撮影の地域が、上田・蓼科・真田・小諸・軽井沢と地元であることも
興味をそそられる。

また、小川洋子の原作と違って、映画では監督の意向があるのだろう、
全編仏教哲学的であり、また唯識的である。
刹那滅、「時間は流れず」。
数式の美しさと仏教哲学を結びつけたところが気に入っている。
私も、そんな物語を創りたいと思うのだが…。

深き霧家路の道よここはどこ

仕事帰り、深い夜霧で周囲の景色が見えない幻想的な世界。
さて、車で家路に向かっているのだが、どこを走っているのやら、
果たして家に到着できるのだろうか?
それとも、この道の果ては……………。

赤黄の紅葉合い散る上田城

上田城の紅葉が、赤と黄色が相見えながら散ち、足下を落ち葉で埋める。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは『葉隠』のことばだが、
何時死ぬのか分からない戦国武将は、日々、精一杯生きたことだろう。

そして「空」とは、概念ではなくて、実践において現出してくるものだが、
「空」を知ったのは僧侶ではなくして、
日々命を賭して生きた武将こそが「空」を現出させたのかもしれない。

赤と黄色の落ち葉が相見えて散る様に中で、そんなことを思った。

紅葉散り無一物とは希望かな

おっと、ちと禅的過ぎたか?

煩悩即菩提

私たちは、汚れた阿頼耶識を抱えて生まれて、苦があり、煩悩がある。
しかし、そういう阿頼耶識を抱えているからこそ人間は覚れるのだろう。
煩悩に汚れた阿頼耶識とは、私たちが覚るためにある。
煩悩なくして覚りはない。

それを「煩悩即菩提」という。

八識をぶち抜く

唯識は唯識に執着しているわけではない。
最終的には唯識そのものを超えろ、という「空思想」である。

禅で「八識をぶち抜く」という方がいる。
それは、八識という分別の世界から、
言語道断の無分別の世界に突入せよということだ。
その無分別の世界に、九識も十識のないだろう。
我も無ければ識もない。

ならば、その世界とはどういう世界か?
「あっ!光があった」
と言葉の無い世界を言葉で表現して下さる方もいらしゃるが、
そこは何も無いのではなく、ただ光だけが有る世界かもしれない。

そういえば、そんな世界に一度だけ入った体験がある。
本当に真剣で命がけだったあのころだ。
一瞬だったが、ただ光だけの世界の体験。
それは、覚ったなどという高尚ことではないが、
その体験が、私を仏教の世界にのめり込ませた。
あの体験が……。

八識はぶち抜くためにある。
そして、四智円明の世界に還るのだ。

                南無観世音菩薩!!

共に歩いてくれる人

煩瑣な唯識なのに
共に学んでくれる人がいる
まだ見ぬ人なのに
共に歩いてくれる人がいる
遠く離れているのに
いつも近くにいてくれる人がいる。

だから、私は一人じゃない
いつも誰かとつながっている

その人の名は観世音菩薩
力の限り、その人の名を呼んでみよう。
南無観世音菩薩!

腰痛で休養

昨日のから腰痛を感じていて、
朝起きると腰にツーンとした嫌な痛みがあったので、
会社に電話して休みをいただいてしまった。

ということで、読書三昧。
そんな日もあっていい。

落ち葉踏む還る命の音がして

紅葉も終わりに近づき、散歩道は落ち葉が広がる。
そんな落ち葉を踏むと、シャキシャキと音がする。
まだ枯れない命が土に還る音だ。
落ち葉によって柔軟な命の大地が造られる。
落ち葉もまた、他に役立ち機能という仏性を生起している。
有り難いことだが、この私に他に役立つ機能という仏性があるのだろか。
他の世話になっているばかりだ。
落ち葉のようになりたいと思った。

                   南無落葉観音菩薩!

燃えて散る紅葉に学ぶ熟年期

停滞は死である。
無常だから生きている。
紅葉は真っ赤に燃えて散り、
次の代の再生を待つが、
その再生の葉は今の葉でないのだろう。
次の代に、その“いのち”を引きつぐために
紅葉は真っ赤に燃えて、
持てる力をフルに発揮して散る。

60歳を間近にひかえ、
わたしも、最後に何かに燃えて散りたいと、
紅葉の生きざまを見て思った。

      南無紅葉観音大菩薩!!
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