――高瀬広居著『仏教の大河』72頁〜――

人生には、なぜ苦悩があるのでしょうか? 釈尊の教えは明快そのもの。
「苦は欲望によって起こる」というものです。
ここでいう欲望とは、限度を知らない激しい欲望のこと。砂漠で水を求めるような
鮮烈な欲求であり、貪りです。釈尊はこれを「渇愛(タンハ)」と呼び、三種類の
渇望を示して見せます。

一つは「欲愛」という感覚的な欲望であり、性的悦楽、権力、快楽を激しく求める
渇望です。
前章に登場した愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦はこれが原因でもたらされます。

二つめは「有愛」であり、これは欲愛以上に強く根源的な生存への欲求です。
死を怖れ、いつまでも生き続けたいとい望み、死後も何らかの形で存在できない
だろうかという苦しみは、生命への執着と渇望によって生じるといえるでしょう。
物欲、性欲、すべての欲望を失った人でさえ、生きたいという欲望だけはもっている
ものだと、釈尊は鋭く指摘しています。それほど有愛は強烈なものですが、けっして
叶えられません。だからこそ、そこに苦が伴うのです。

三つめは「無有愛」で、生きることから逃避したい望む虚無的な欲望です。
これは人の心の奥底にいつも潜んでいる、非存在への執着というべきもの。
たとえば若い世代の自殺に原因を見出せず、周囲の大人たちが悩む場面がありますが、
これなど無有愛に原因があるといえるでしょう。
精神分析の祖であるフロイトは、人間は死への欲望があるといって、それを「タナトス」
と名づけましたが、釈尊はすでに2500年前、破滅への衝動や無への欲望、死への渇望
というものを人間のうちにみていたわけです。そこに釈尊の深い人間洞察があります。
生きることに煩わしさや重さを感じて死にたいと考えたり、自分さえいなくなれば……
と思う欲望が、苦しみの原因であると釈尊は説きます。釈尊は、このような虚無的な欲望
に悩まされる人間の苦しみを深く理解していました。

さて、渇愛は人間苦をもたらすものですが、その一方、これらの欲望によって人間が
生きているのも事実です。これが真理なのです。この渇愛ゆえに人間は「輪廻」し、
再生を続けるのだと釈尊はいいます。釈尊は思想家として輪廻を重要視し、輪廻からの
解脱を説きました。輪廻の原因は業であり、業は渇愛の現れなのです。これを克服する
のが仏教の目指すところだといえるでしょう。

                       【限度知らずの欲望が苦悩の原因】