吉本新奇劇 よしもとしんきげき

徒然なるまま、写真とともに日々の発見を記録する公開日誌です。

2007年05月

6e5a2a11.JPG 風邪は徐々に治ってきたが、妙な合併症が出てきた。詳しくは書かないが、疲れがたまると出やすい症状らしい。もう一度医者へ行った。別の薬をもらってきた。昨日は仕事を休んだが、やむなく今日ももう一日休むことにした。いろいろ皆に迷惑をかけてしまう。ごめんなさい。

 「何とか還元水」の人は自ら命を絶ってしまった。あれだけ図太そうな人が、意外ともろい面を持っているのだなあと驚いた。まあいろいろと裏の事情があって、周りからは悪者として祭り上げられ、しんどかったことは確かであろう。彼なりに必至にがんばったということだろう。でも、死ぬくらいなら、周りの悪者の悪事をみんなばらしてしまえばすっきりしただろうに、などと思う。そうすれば英雄にもなれたかもしれないのに。

 まあ、彼のしんどさに比べれば、自分の一過性の病なぞ、たいしたことではなかろう。そう思って、病の中にも喜びを見出してゆくしかあるまい。

e83cc0d7.jpg 木曜日の夜から、体がだるい。熱はないが喉が痛い。金曜日午前中の二駒を何とかやっつけたが、その後医者に行ってみてもらう。風邪でしょうとのこと。ここのところ、息子、娘の順に熱を出していたので、順番が回ってきたのかもしれない。
 今日は一日寝ていた。仕事などする気にもなれないので、時々テレビを見ていた。

 カープ対ホークスの試合は白熱の投手戦。フェルナンデスはいいぜ。ブラウンがフェルナンデスを交代させて、横山が打たれて、これはもうだめだと思ったら、林が見事な火消しを見せた。石原のスクイズで勝ち越して勝った。永川もなんとか守護神の役割を果たした。これはいい勝ちであった。こういう勝ち方が出来るということは強くなっているということだ。でも、そのいい勝ち方が続かないのが今年のカープのいまいちなところだ。でも徐々によくなっている。これでダグラスが戻れば楽しくなりそうだ。

 それにしても、早く風邪から抜けたい。

be53fc1e.jpg NHKの番組、プロフェッショナルで装丁家・鈴木成一氏が取り上げられていた。この番組は僕にとっては非常にインパクトがあった。心がときめいた。なぜかというと、彼のやっている仕事が本当に面白そうで、こんな仕事で金を稼いでいるなんて、なんてうらやましいのだと思ったからだ。

 恥ずかしながら、僕は受験生の時には、心の底で芸大を受験したいと思っていた。絵が得意だったし、芸術家こそが最も崇高な人間だと思っていたのだ。とは言っても、絵を習ったこともなかったし、デッサンなんかもやったことはなかった。美術部でもなかった。芸大へ行くなんて最も難しいことだし、その準備もゼロだったので、その気持ちは実際には表に出すことはないまま、一番近くの国立一期校に入った。しかしながら芸術家への憧れは捨て難く、教育学部へ行って油絵の授業を取ったりしていた。さらにはイラストレーターになるための通信教育もやった。一度ある雑誌のイラストを描かないかと言う申し出を受けたこともあったのだが、その雑誌が没になってそのチャンスの夢は消えた。まあ、この程度の芸術家志望者は世の中に履いて捨てるほどいるだろうから、こんな青春の夢は書くのも恥ずかしいことではある。結局自分には芸術家を目指すのに十分な度胸がなかったのだ。芸術家は飯が食えなくても芸術に命を賭けることができなければだめなのだ。

 鈴木成一氏は今日本の出版業界では引っ張りだこで、本を売りたければ彼に頼め、となっているそうだ。鈴木氏は筑波大学の芸術学群(僕も受けたかった)の出身で、大学院生時代に装丁家としてスタートしたという。はじめは相当の辛酸をなめたそうだが、装丁する本の本質を見抜いた上での仕事の質の高さが、人気の秘密だという。
 番組の後半では、無名の若いイラストレーターを使って、人気作家の本の装丁を完成させていく過程が取材されていた。採用されたイラストレーターは若手といってもすでに30代後半の人だった。この企画での成功が彼女の人生を変えていくのだろうか。それにしても、ひとつの本の内容をどうやって装丁に表現するか、そういう苦悩とか作業とかアイデアの展開とか、そんな話が限りなく面白そうだった。まだ、自分の中にこういう仕事への憧れがくすぶっている。

 一冊だけ共著で本を出版したことがある。学術書で予算も限られ装丁などそんなに凝れないだろうと思っていたが、出来上がった本の装丁は予想以上にかっこよかった。英文学として読まれている作品が、英国の植民地支配とか帝国主義とかとどうかかわっているかというテーマの下に、英文学の重要作家を斬る論文集である。『英文学の内なる外部』と称するこの本の表紙に使われたのがあのロンドンブリッジだった。そのロンドンブリッジがジャングルのような樹木の写真と重なり複雑な色の変化を見せているという写真が、その表紙を飾っていた。これは鋭いと思った。しかしその本は売れなかった。

 最近、職場の宣伝をするためのパンフレットを作る仕事の長にさせられ、その仕事がやっと終わったところだ。その仕事は、印刷会社の主導で進められているため、自分のアイデアでこうしろ、ああしろとはあまりいえない立場なのだが、それでもここをもう少しこうしてくださいとか、この写真はいまいちだからもう一回とりましょうとか、この字は小さすぎるのじゃないとか、そういうことは言えたので、結構楽しんでしまった。とはいえ、自分の発想でこうしたいと思ってもその10パーセントくらいしか実現しない状況なので、フラストレーションのほうが大きかった。自分がもし鈴木氏のような名のあるデザイナーならもっと好きなように作って、あっと驚くようなパンフレットを作るんだけどなあ、なんてちょっと芸術家気分を味あわせてもらった。

 ブログにこんなことを書いてしまって、なんかみじめったらしいね。こんなこと書いている暇があったら、早く次の本を書いて、その表紙を鈴木成一氏に頼みに行きたいものだ。

 写真は上記の著書。

26e47eb7.jpg 昨日は、いつも行く映画館のスタンプカードが一杯になってただで一回見られるので、夕飯前の時間にひと映画みてしまえと思い、『ブラッド・ダイヤモンド』を観にいった。この映画館のHPで見てよかった映画のNo.1になっていた。それほどいいのかと期待して。

 「激しい内戦が続く90年代のアフリカ、シエラレオネ。愛する家族と引き裂かれ反政府軍RUFにダイヤモンド採掘場で強制労働を強いられる漁師のソロモン(ジャイモン・フンスー)、ダイヤの密輸に手を染める非情な男ダニー(レオナルド・デカプリオ)、RUFの資金源となっている“ブラッド・ダイヤモンド”の真相を探る女性ジャーナリスト、マディー(ジェニファー・コネリー)、ソロモンの隠し持つ巨大なピンクダイヤモンドをめぐり、それぞれの思惑を胸に3人はピンク・ダイヤを目指す」

 というわけだが、確かに2時間20分という長い映画にも関わらず、手に汗握る展開で、目を背けたくなるシーンもあり、ヒューマンドラマ、ラブロマンスも少し絡め、最後は一応のハッピーエンディングで終わり、評判がいいのもうなずける映画である。

 反政府ゲリラの襲撃で家族と引き離され、息子を反政府ゲリラに奪われて洗脳され、強制労働中に巨大なダイヤを見つけて隠しそれがもとでダニーと関わる、現地の漁師ソロモンが本当の主役なのだが、最初悪の化身のような役として登場するダニーの改心というか、目覚めというかそのあたりで泣けるというのがヒットの理由かもしれない。美人ジャーナリストのマディーとの恋は、娯楽としての映画である以上はずせないのかもしれないけれども、こういう社会派のテーマの中ではちょっと余計な感じもしないではない。

 ダイヤだの金だの、実はそれほど役には立たないのに、虚栄心をくすぐり金になるというだけの物をめぐって、歴史上多くの血が流れてきた。今も欧米の利権を背景にした醜い争いが展開されているアフリカの現実を世界に知らしめ、告発するという意味にこそこの映画は意味があるはずなのだが、やはりデカプリオとかコネリーとかのスターの映画にしてしまうと、本当の問題点がかすんでしまうのは残念だ。そういえば最後に出てきたイギリスのダイヤ売買の元締め役の役者が、この前見たThe Queenのなかでトニー・ブレアをやっていた人だったのには驚いた。同じ時期に封切られる映画でこれほど異なる役柄で映画に出ないで欲しいものだ。エンディングでダイヤ業界の闇が暴かれるというその筋書きはいいとしても、終わり方がちょっと性急な気もした。これで意中の女性に「給料の三か月分」を貢いでダイヤを買ってやるというようなばかばかしい習慣の愚かさに気付く人が少しでもいればいいのだが。

 それにしてもここまで銃を乱射し、バズーカ砲をぶっ放し、女子供が皆殺しにされる場面を写さないといけないのかと思いたくなる。まあ、実際の紛争の現実とはこのようなもの、あるいはもっとひどいのだろうが、主人公があれだけの銃弾の雨あられをかいくぐるというのはちょっとしらけてしまうようにも思える。

 『プライベート・ライアン』、あるいはもう少し前の『フルメタル・ジャケット』あたりから、戦場で人が死ぬ様の描写が非常にリアルになってきた気がする。それ以前の映画にはそういうもので客をひきつけようとする意図はあまりなかったという気がするのだが、今の映画ではいかに画面の中でリアルに、あるいは現実よりも劇的に人が殺されるかを競っているような気がしてならない。少し前に、歴史的事実ではあるしと思って、息子と一緒に『硫黄島からの手紙』を観たが、中三の息子が見るにはあまりに殺人がリアルに描かれていて、見せたことをかなり後悔した。息子も、気持ちが悪くなったとぼやいていた。悪い影響がなければいいがと切に願っている。

 昨今の若者による残虐な殺人事件のニュースを見ると、このような過激な映像の影響というのは否定できないと思う。社会的問題に集中するならもっとドキュメンタリータッチで深く考えさせるような脚本を書いて欲しいと思う。それでは儲からないからこうなるのだろうが、本当に良ければみんな観るはずだ。

6f6af56e.jpg 二日連続で映画館へ行ってしまった。今日しか見るチャンスがないので無理して観た。日本一の座席幅を誇るサロンシネマに来たのは本当に久しぶりだ。大学生の時はキャンパスのすぐそばということもありよく来た劇場である。あの頃とほとんど変っていない。
 夕方、自転車こいで時間ぎりぎりに来たらほとんど席は埋まっていた。今回日に一回しか上映しないスケジュールになっているのでみんな狙ってきたのだろう。中年の人が多い。そういう自分も中年なのだが。
 
 『ラスト・キング・オブ・スコットランド』は1971年のクーデターでルワンダ大統領となったアミンの物語だ。しかしこの映画では、大学を出たばかりの医者、ニコラス・ギャラガー医師の能天気な自分探しの旅が、独裁者アミンとの出会いによって恐怖の体験へと変ってゆく様を描いている。
 アカデミー賞主演男優賞をとったフォレスト・ウィティカーの迫真の演技がまさに見ものである。子供のような人懐っこさと、底知れぬ不条理を抱え込んだ狂気を演じ分けるウィティカーを見ているだけで、ぐいぐいと引き込まれてしまう。
 しかしこの映画は、アミンの独裁政治の歴史的事実をドキュメンタリータッチで描くというよりも、若い医師のニコラスの思慮に欠けた行動がどれほどの悲惨な結果を招いたかを描きながら、サスペンスタッチで、危機一髪の脱出劇を描くということで、少々娯楽のほうへ傾いているといえるだろう。残虐な場面もあって目を背けたくなるし、准主人公のニコラスが、しょうもない女ったらしで、いわゆるヒーローでないだけに、後味はあまりよくない。しかし映画としてこれだけのインパクトのあるものは久しぶりだ。画面の作り方もうまいと思う。
 ニコラスは実在の人物ではなく、アミンのクーデターを後ろで操っていた英国(イングランド)と、それとは少しずれたスコットランド人を登場させることで、植民地支配の闇の複雑さを象徴させているために作られた人物ということらしい。確かにいろいろと象徴的な場面が作られていた。
 30万人を虐殺したといわれるアミンは「人食い大統領」というニックネームを付けられていたが、実際は菜食主義者だったという。英国の植民地主義の中で「他者」に人食いのレッテルを貼るという常套手段なのだが、この映画も見方によっては、ニコラスを主人公とした『ロビンソン・クルーソー』変形譚とも読めそうな気がする。

 全体の雰囲気として、学生の時このサロンシネマで観た『ミッドナイト・エキスプレス』の緊張感を思い出した。

 昨日に続いてまた台詞の中に『不思議の国のアリス』への言及があった。アミンがニコラスともう一人の腹心の大臣を、トィ―ドルダムとトイードルディーにたとえたのだ。これも字幕では訳されていなかったが、また出たかという感じだった。

3754fe8a.jpg 映画『クイーン』を観た。ダイアナ妃が交通事故で亡くなった時のエリザベス二世と英国皇室、そして当時就任したばかりのブレア首相を描いた映画である。
 ダイアナ妃の事故死には関しては自分も思い出がある。あの1997年8月30日私は家族とともにイギリスにいた。サセックス大学の研究員として1年間ブライトンの隣のホーブという町に住んでいた。ダイアナの交通事故死のニュースを聞いたのは確か朝のテレビニュースだった。そのときのショックは今も記憶に新しい。イギリス国民は深い悲しみに打ちひしがれ、バッキンガム宮殿とケンジントン・パレスには花を手向ける人の長い列ができた。私も家族を連れて3日後にバッキンガム宮殿へ出向き花とみんなで作った百羽鶴を持って行った。しかしあまりの行列の長さにひるんで、衛兵にその鶴を渡したら、なんと、たまたまパレスの柵にくくりつけられていたウエールズの国旗の脇にそれをかけてくれた。うちにかえってテレビをつけたら、そのウエールズ旗が大写しになっていて、我々の作った鶴も写っていて、びっくりしたものだ。そのニュースはビデオで録画し今も持っている。あれからもう10年が経った。当時のニュース映像がそのまま出てきたりしたので、非常に懐かしかった。
 
 私が始めて海外へ出たのは1983年で、ロンドンの語学学校へ行き2週間ホームステイした。そのの二年前ダイアナとチャールズの世紀の結婚式が行なわれ、ロンドンの土産物屋にはロイヤルウエディングの絵葉書が鈴なりになって売られていた。その頃はまだまだ幸せな新婚生活を送っていたはずのダイアナ妃だが、その後二人の皇太子に恵まれたにもかかわらず、二人の結婚は破局して、離婚という結末で、イギリス国民も世界も衝撃を受けたものだ。その後ダイアナはいろいろな慈善事業で活躍したり、恋のうわさを流したりして、パパラッチに追い掛け回されていた。そんな中での突然の事故死。さまざまな憶測も流れた。イスラムに嫁ぐかもしれないダイアナの動きを阻止しようとした英国皇室の仕組んだ陰謀なのではないかという話も、なんとなくありそうな話にも思えた。

 この映画はそんな陰謀の話ではない。もはや皇室の人間ではなくなっていたダイアナの死をどう扱うのかというエリザベス女王の苦悩、その心情の変化。建前、伝統を守ろうとする女王に何とか国民の声を伝えようとするとニー・ブレアの働き。女王の夫フィリップ殿下、そしてダイアナの元夫チャールズらの複雑な心情。メディア対策に苦心する演説の原稿作家たちの思惑、などなど、いろいろな見せ場があって、とてもリアルである。それぞれのそっくりさんたちの演技も見ものだった。何よりもエリザベス女王が若くして女王になって以来、イギリスという国の君主として見守ってきたという自負の念が描かれている。女王の人間としての強さと弱さが見えて面白かった。日本の皇室をこんなふうに描く映画など絶対にできないだろう。少し前に、無条件降伏の日の天皇を描いた、The Sunという映画を観た。それもなかなかよかったが、イッセー尾形の独り舞台という感じだった。しかしこの「クイーン」では女王だけではなくそれを取り巻く人々の描写がなかなか鋭くて非常に楽しめた。お勧めできる映画である。
 
 チャールズとフィリップ殿下の描かれ方が、ちょっと偏っているのかもしれないと思ったが、女王との対比という点でうなずける気もする。チャールズはやはりなんとなく頼りない男として描かれ、フィリップ殿下は王族でありながらも、女王に比べ建前よりも私人としての本心を表に出す人として描かれている。

 この映画のもう一人の主役、トニー・ブレアがくしくも2.3日前に退陣を表明した。この映画の中では、就任直後の彼が描かれている。なんというタイミング。

 セリフの中で印象的だったのは、クイーン・マザーがエリザベス女王に向かって、トニー・ブレアのニヤニヤ笑いのことをCheshire Cat Grin みたいだと言っていたことだ。つまりあの『不思議の国のアリス』に登場するチャシャー猫の笑いのようだと言ったのだ。このたとえは字幕では翻訳されていなかったが、アリス研究家としては思わずニヤッとしてしまった。
 

95340a75.jpg 今日は新井のせっかくの満塁ホームランにも関わらず、負けてしまった。期待の左腕大島が、満塁ホームランで逆転してもらって、おそらく守りに入ってしまったのではなかろうか。久しぶりの先発で、精神的に落ち着けなかったのだろう。
 それにしても新井はすごい打者になってきた。今日の満塁弾も、まさに狙い通り!観客席を観ていると「新ミスター赤ヘル・新井」と書いた横断幕を持っている人がいたが、まさに今の新井の落ち着き払った表情は、その名にふさわしい雰囲気を持っている。栗原もすごくよくなっている。この二人が今後のカープをしょって立つことは間違いない。

 あの黄金時代、山本浩二、衣笠、水谷、ライトル、ギャレット、高橋慶彦らがいた時代の再来を期待する。そうだなあ、外人のすごいのも一人か二人ほしいねえ。フェルナンデスも期待できるが、ライトルみたいな外人が欲しいなあ。

1a70824f.JPG 娘が作りたいと言い張るので、たこ焼きを作った。しまってあったたこ焼き機を出してきてみんなで楊枝でつつく。なかなか楽しい。スーパーで売っているたこ焼き粉という奴を使い、キャベツ、ねぎとタコしか入ってないのだが、結構いける。ちょっとにんにくも入れてみた。もちろん鰹節をかけ、紅生姜をのせマヨネーズもかける。
 家族とともに食べるたこ焼きは、最高です。

25f6235a.bmp 映画「バベル」を観にいった。タイトルのバベルはもちろん聖書の逸話を意識している。神に近づくため巨大な塔を建てようと企てた人間に怒った神が、人間たちに異なる無数の言語を与え、コミュニケーションが取れないようにすることで、混乱を生じさせて塔の完成を不可能にしたという話である。なぜ地球上にこれほど多くの言語が存在するのかを説明するためのキリスト教的解釈といえる。確かに言語の違いによるコミュニケーションの不可能性は、地球上に住む人間に与えられたのろいであるとも言えるだろう。このキーワードをタイトルにした映画だから、非常に期待して観にいった。
 映画そのものは、モロッコ、日本(東京)、メキシコでほぼ同時に進行する話が、一丁の銃をめぐって繋がっているという設定である。それぞれのエピソードが緊張感に満ちていて、考えさせるテーマもちりばめられ、ドキュメンタリータッチの画面が観るものを飽きさせない。悪意のない些細な出来事が、歯車が狂ってどれほどの悲劇を生みうるかというのも見ものである。細部の描写もうまいと思う。地球上のこんなに離れたに三つの物語が実は繋がっているというところが面白い、と一応言えると思う。アカデミー賞を取り損ねた菊池凛子の演技も見ごたえがある。聾の少女の苦悩が痛みを伴いながら表現される様は、胸を打つものがある。

 しかしながら、なぜこれが「バベル」なのかというあたりで、ちょっと首を傾げてしまう。それぞれのエピソードで、コミュニケーションの問題がそれほど深く取り上げられているとは思えない。あまり詳しく書くと、これから観る人に悪いので書かないが、もっともっとコミュニケーションの問題として何かを示すとか、そういう姿勢が欲しいのだ。言葉が違っても、何か補う手はあるのかどうか、言い表せないことはどう表現するべきなのか、そのあたりに目を向けさせて欲しいのだ。問題意識が見えてはいるが、もう一歩という気がする。

 それ以外にもストーリーの設定としてもう少し謎解きをして欲しい部分があったのだが、あえてしないところがいいと思っているのだろう。エピソードが実は繋がっているという、そのあたりのびっくり感は、少し前の映画「クラッシュ」のほうがちょっと勝っていたように思う。

 全体としては、考えさせるところの多い、よい映画だと思った。

↑このページのトップヘ