吉本新奇劇 よしもとしんきげき

徒然なるまま、写真とともに日々の発見を記録する公開日誌です。

カテゴリ: 写真

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2015年に出版した『美しき汚れ:アーサー・マンビーとヴィクトリア朝期女性労働者の表象』をそのままデジタル版にしてKindleで読めるようにしたものを、紙のを出してもらった出版社とは別のところから出版しました。タイトルも、出版社の進めで、売れるキーワードを入れろということで、『美しき汚れの記号論:アーサー・マンビーとヴィクトリア朝期女性労働者の写真』ということで少し変えてみました。
突然、メールが来て、あなたのこの本をデジタル化して出版させてもらえないか、と問い合わせが来たのです。色々話を聞くと、担当者は私の本を読んでくれて、売れると判断したというのです。時代はデジタルだから本もデジタルの方が、やり方さえ良ければ、そして売れるためのあらゆる手を使うから、必ず売れるはずだ、というような話で、面白いからやってみようかなと思ったのです。
それで一応決めてから、紙媒体のを出した出版社にも聞いてみたら、版権は著者が持っているので、デジタルで出版することには別に問題はないとのことでした。元の出版社にこの本を出してもらったことはすごくありがたかったのだけれども、その後版を重ねることもなく、特に宣伝もしてもらってない感じで、全く売れてないのはわかっていたので、このデジタル化のお誘いはちょっと魅力的だと思ったのです。でもよく聞いたら、元の出版社でも、デジタル化をやっていると言われ、うちでやってくれたらいいのにと言われたのですが、もう話を進めていたので、まあ試しにやってみようと思ったわけです。
それで、売れているかどうかまだよくわからないのだけれど、この間報告が来て、なんとアマゾンの売れず時ランキングで最高7位になったと言うのです。ちょっとびっくり。でもそれは、キャンペーンとして0円で売り出したから売れたと言うことらしいです。0円でもいいから売れて、ランキング入りすれば、それを見て買ってくれる人がいるはずだということらしいです。
今見ても、すでにランキングは下がったようで100位以内には出てこないですが、多少でも売れたら嬉しいなと思う次第です。やはり書いたからには少しでも多くの人に読んで欲しいですからね。
あなたもいかがでしょうか。

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写真が発明されるまで、人々は本当の自分の顔を見たことがなかった、というのは結構、衝撃的な話ではないだろうか。写真がなくても鏡があったではないかと思われるだろう。しかし鏡像は左右が逆転しているので本当の自分の顔を見せてはくれないのである。
自分の肖像画を描いてもらうことは、相当に裕福な人物でなければできなかったことだし、画家の描いた自分の顔が、自分の顔と全く同じということはまずない。
だから、写真が出現して初めて、人々は左右逆転していない自分の顔を見るようになったのである。
しかし初期の写真は白黒だったし、露光時間がものすごく長かったので、笑った顔など撮影するのは至難の技であり、結果としてみんなむっつりした顔で写っている。だから相当最近まで、やはり人々は自然な表情をしている自分の顔を見ることは、なかなかできなかったのである。
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しかしまあ、鏡を2枚使えば、逆転の逆転で、逆転していない像を見ることはできた。しかしそこまでしていた人はあまりいなかったであろう。
ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』は、鏡文学の最高峰である。鏡を通過して向こう側の世界に入ったアリスは、鏡文字で書かれた詩に運命を定められていて、様々な逆転に遭遇して驚嘆させられる。左右が逆転しているだけではなく、時間も逆に進み、因果も逆転して、結果が先にきて原因は後にやってくるのだ。さらには、ある場所にとどまっていたければ全速力で疾走しなければならないし、ある場所に近づこうとすれば、逆方向に進んでいかなければならないのである。
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ラファエル前派の絵画にもしばしば鏡が描きこまれている。それらは文学からインスピレーションを与えられた物語の一節だったりするのだが、有名なのはシャーロットの姫の話だろう。呪いをかけられて鏡を通してしか外を見られない姫は、鏡に映る世界を日がなタペストリーに織り続けるのである。ある日その鏡に、外を通りかかったランスロット卿を見つけ、姫は思わず禁を破って直接外のキャメロット城の方を見てしまい、呪いのせいで死に至る運命となる。意を決して部屋を出た姫は小舟に乗ってキャメロット城を目指すのだが、船の上で息絶え亡骸がキャメロットに流れ着くのだった。
ヴィクトリア朝時代の室内には、しばしばこの写真にあるような凸面鏡 convex mirror が掛けられていた。このような鏡はより広い範囲を写すことができるが、像は湾曲し小さくなってしまう。しかし人間の目では不可能な、不思議な空間を演出するのである。
以上三枚の写真は、レディ・リーヴァー美術館にあった鏡に映った自画像だ。
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最後のこの写真は、リバプールのテート・リバプールで展示されていたアート作品である。四角い箱のようなものが内側も外側も鏡でできていて、そのそれぞれの側面に円形の窓がついているのだ。その窓から覗くとこのような奇妙な図象が見えるのである。遊園地にありそうないわゆる鏡の部屋を、外から丸窓を通して覗き込んでいるようなものである。覗き込むとなんじゃこの空間は!という驚異を体験することができる面白い鏡の国である。
鏡は不思議だ。
大学の時、哲学の久野先生の授業で、なぜ鏡は左右が逆転するのかを延々と講義されたことを思い出すが、いまだに自分ではその理由をうまく説明できない。
あなたは鏡を見るのは好きですか。

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今週末にある学会で発表するためにその準備をしているところです。
なかなかうまくまとまらないので、ブログでも更新して、ちっと気を紛らわせてみようかと思います。
何かいいアイデアが浮かぶかもしれないし。原稿が進むかもしれないし。
私は現在、19世紀のイギリスにおいて、写真術が発明されたことが当時の絵画、文学、そして文化全般にどのような影響を与えたのか、といったテーマで研究をしているのであります。このテーマは結構昔からやっているのだけれど、2015年にやっと著書を一冊上梓することができて、その続編に向けて頑張っているところなのです。
そういうテーマの本は英米では最近結構頻繁に出版されていて、写真というメデイアの出現の重要性について注目されているのだけれども、日本では、なくはないけれど、そこまで関心を持たれていない感じがしているのです。
今準備している発表は、あの『不思議の国のアリス』の著者であるルイス・キャロルが所有していた写真アルバムのうち、A[X]と呼ばれるものの中身についての話なのです。キャロルはアマチュア写真家としては、19世紀のイギリスではおそらく最も有名だと言えるでしょう。もちろんそれは、『不思議の国のアリス』という作品が超の2乗くらい有名であって、その著者がこんなに写真を撮っていたのかというような意味で有名だということも大いにあるのだろうけれど、実際彼の撮った写真は結構印象的なものがあるからなのです。
特に少女たちを移した写真が。そのことは結構有名だからみなさんもご存知かもしれません。
今回取り上げるのは、彼が所有していた写真アルバムのうち、当時の有名な他の写真家や、自らが撮影した写真ではない著名人のポートレートを集めて貼り付けたアルバムで、アルバムA[X]と呼ばれています。
(上に貼り付けた画像はそのアルバムではなく、キャロルが自分の写真を貼っていたA[III] なのですが。)
このアルバムを見ると、当時写真家として名を馳せていた、オスカー・グスタフ・レイランダーとか、ジュリア・マーガレット・キャメロン、そしてレディ・クレメンティーナ・ハーデンといったプロ、またはセミプロの写真家たちの写真が多く並んでいます。それ以外には、当時の有名人、小説家チャールズ・ディケンズとか、首相のグラッドストーンとか、物理学者のマイケル・ファラデーとかのポートレートが並んでいます。
当時、写真アルバムは、自分の家族の写真を貼り付けて、自分の思い出のために作るということもあったけれども、それに加えて、上記のような著名人の写真のコレクションをするためのものという側面もあったのです。そして客人が来たら、自慢の写真アルバムを開いて見せて、それをネタにして色々と世間話に花を咲かせるというような使い方が一般的だったようです。
とにかく写真というものが発明された直後の時期です。絵画以外に人物の顔とか姿が本物そっくりに二次元上で見ることができるメディアが、それまで不可能だったそういうことが、初めてできるようになった時代なのです。もちろん、人々は鏡というもので自分の顔を見てはいたけれど、鏡と写真は決定的に異なります。鏡は左右逆転しているからです。また、人間の目では取られられない画像を写真は捉えることができるのです。その意味で、写真は人々に本当の自分の顔を見る機会を初めて与えたし、今まで見たことのない現実を見る機会を与えたと言っていいのです。
そのこと以外にも、写真がいかに画期的であったかについては色々と指摘すべきことが沢山あります。
そして、写真は芸術たりうるかという大問題が持ち上がってゆきます。芸術性において絵画との位置関係における論争が巻き起こったのです。
キャロルが集めた上記のプロの写真家たちは、写真を芸術として世間に認めさせるために大いに努力した写真家たちだったのです。そしてキャロルも、写真によって自分の芸術家としての素養を世間に認めてもらいたいと切に願っていたのです。

現代では、あまりにも簡単に写真が撮れて、それを一瞬にして世界中の人々に見せることもできる。
写真アルバムは、インスタグラムに取って代わられてしまった。しかし、写真は、我々の意識をますます捉えて離さない魔法、あるいは麻薬として、さらにパワーアップしていると言ってもいいのでしょう。
長くなるのでこのあたりで、原稿書きに戻ろうと思います。
私の発表をお楽しみに。

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「ヒロシマの孫たち」を見た11日にもう一つ見に行った展覧会があります。
旧日本銀行広島支店とギャラリー交差611を会場として開催されている、新井卓、小原一真、片桐功敦の三氏による展覧会です。新井卓さんは数少ないダゲレオタイプを使った写真家です。今回は広島で撮影した写真を展示されているということで、被写体の中には「ヒロシマの孫たち」にも出演していた双子の姉妹レオナとマイラの写真もありました。
ダゲレオタイプの写真は、1839年にフランス人のダゲールによって発明された技法で、これが写真の歴史の第一歩とも言えるものなのです。今、19世紀の写真について研究している身としては、見ておかなければならないと感じ、合間をぬって見に行きました。
ダゲレオタイプは完全なる鏡面に磨き上げた銀版の表面をヨウ素ガスでコーティングし、カメラに装填して露光し、その後水銀蒸気を使って現像し、定着させるもので、銀板上に直接画像が記録されているため、ネガやポジというものが存在せず、複製できない、一枚限りの写真なのです。
角度によっては、鏡面の反射により自分の顔がはっきり写って見えてしまい、定着している画像を見ることが難しく、角度を色々にして見て、初めて画像が浮かび上がって見える感じです。そしてその画像は、異様なほど鮮明かつ美しいのです。白黒といえば白黒なのだけれど、それとはかなり違う感じの画像です。最初は露光時間がかなり長かったのだけれど、発明されてしばらくして露光時間が短縮され、その美しさゆえに大流行したと言われています。
これまで、19世紀に撮影されたダゲレオタイプの写真は何度か見たことがあるのですが、今現代に写真家さんが撮っている写真を見るのは、おそらく初めてでした。改めてその特殊な画像に見とれてしまいました。
小原一真さんの写真は、あの『戦場にかける橋』の舞台となったクワイ河鉄橋の現状とかそれによって身内を無くした人々のポートレートなどの写真で、これも非常に興味深いものでした。小原氏の写真については何も知らなかったのですが、授業でも取り上げている『戦場にかける橋』に関係する内容であり、見られてよかったと思いました。
片桐氏は華道家であって、花で色々な表現をされている芸術家なのですが、ギャラリー交差611についたときはすでに花が枯れてしまっていて、花瓶から花が抜き取られた後で、展示を見ることはできなかったのですが、会場におられた片桐氏と少し話すことができました。
興味深かったのは、数日前の原爆の日の式典で、安倍首相が手向けた花輪の花が、捨てられそうになっていたのをもらってきて展示したのだと説明してもらったことです。すでに枯れかけていたその花を、自作の花瓶に、花輪についていた紙で包んで乗せて展示したそうです。あの式典での安倍首相の心のこもっていないスピーチに対する思いを、心のこもっていない花輪の残骸で表現されたものと思われます。
旧日本銀行の地下にある、原爆の記録の絵も非常にインパクトがありました。
フランス人の家族と思しき集団が、その絵を熱心に見ていました。

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 去る11月26日に、日本ヴィクトリア朝文化研究学会の年次大会で研究発表をさせていただきました。会場は筑波大学の東京キャンパスというところで、筑波大学が東京教育大学だったころのキャンパスらしいところでした。文京区の閑静な一角にあり、周囲にはいい感じの森があって、環境もよろしいところです。日本ヴィクトリア朝文化研究学会では昨年も発表させてもらったのですが、異例の二年連続発表となりました。昨年は自著でも紹介したアーサー・マンビーの女性労働者の写真についての話でした。
 実はそのほぼひと月前の10月29日にも、日本ルイス・キャロル協会の年次大会で研究発表させてもらったのです。こっちは船堀というところの文化的複合ビルの中で行われました。どちらもヴィクトリア朝期の写真についての話題であります。最近自分がやっている研究をちょいちょい研究発表という形で世に問いながら、ちゃんとした書物にしていきたいという考えなのですが、まだまだ書けていないというのが現状なのです。ゆえに、発表によっていろいろ指摘も受けながら自分にハッパをかけようと考えてのことなのです。
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 では、順番に、キャロルの写真の方の話をまずちょっと書いておきます。実はどちらの発表も、今年の3月に資料収集のために訪れたテキサス大学オースチン校のハリー・ランサム・センター(HRC)の資料をネタにした発表だったのです。このHRCにはヘルムート・ガーンシュハイムという写真芸術のコレクターが集めたコレクションが保管されており、その目玉として、ルイス・キャロルとジュリア・マーガレット・キャメロンの写真のコレクションがあるのです。この二人の写真家はお互い知り合いだったし、同じような文化人の集まりとつながりを持っていていろいろ影響もし合っていたのです。
 キャロルの方の発表は、彼が作った写真アルバムの分析という内容です。最近では、写真コレクションを持っている美術館なり何なりはたいていホームページでデジタル画像を公開してくれているので、便利なのですが、アルバムとなるとやはり現物を見ないとどんなものなのかわからないのです。写真じゃないところにいろいろ面白い情報もあるので。今回は、彼が最初に作ったとされるアルバムを手に取った時に気がついたことを報告いたしました。
 手短に言えば、彼の写真アルバムに何枚か絵画の写真が貼られていてそれが面白いなと思って、それらについてちょっと議論したのです。その写真に撮られた絵の一つは『ウンディーネ』という水の精についての伝説を題材にしたダニエル・マクリース作の絵であります。もう一つは、ヘンリー・ジェイムズ・タウンゼント作の、シェイクスピアの『テンペスト』に出てくる妖精エアリエルの絵です。どちらも当時かなり人気の高かった絵のようです。当時としては絵画も本物を見ようと思えば美術館に行かなければならなかったわけで、写真に撮ってアルバムに貼って、いつでも見られるようにする事はかなり意味はあったと思われますが、それだけではないのではないかと思えるわけです。
さらに面白いのは、リポンの大司教ビショップ・ロングレーの肖像画の隣に、キャロルが取ったポートレート写真が並べて貼り付けられているページがあり、これはなかなか面白いなと思ったわけです。
 これらの絵をアルバムに貼った意味は何なのか、ということを考察したのですが、まあ、一言で言えば、写真と絵画を芸術性の点で同等なものとして認めて欲しいという意識の表れだろうという、あまり深くもない指摘をさせてもらったわけです。キャロルにとってアルバムは、被写体として狙った人物に、モデルとなることを承諾してもらうためのある種のツールだったので、写真は絵画に勝るとも劣らない芸術なのだと納得してもらうための、一つの工夫だったのだろうと思うわけです。
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 HRCに存在するもう一つのヴィクトリア朝期の写真コレクションといえば、ジュリア・マーガレット・キャメロンのそれです。この中に含まれる大型の本、桂冠詩人テニソンの『国王牧歌』(アーサー王物語のテニソン版詩集)の挿絵として写真を貼り付けた本です。写真を挿絵として使うという前代未聞の本であって、キャメロンの渾身の作品なのです。詩の部分はキャメロンが手書きで書き写したものを印刷しており、それに35センチX30センチくらいの大きな写真が13枚(Vol. によって若干異なる)ほど付けられているのです。それぞれの写真はバラで売られたりもしていて、それぞれが結構評価されているのだけれど、これらの写真を挿絵として本にしたものは、結局あまり売れることもなく、希少本としてキャメロンのコレクションを持ついろいろな美術館ががそれぞれ1セットずつ保管しているというのが現状で、5セットの存在が確認されているのです。
 このアーサー王伝説の一場面を写真で再現したものについて、先行する絵画作品との類似点などを指摘しながら、キャメロンの写真とラファエル前派(特にダンテ・ガブリエル・ロセッティ)の絵画との影響関係について議論したのであります。
 発表を申し込んだ時点でも、まだ何を中心にしてしゃべるかを決めきれていなかったところがあったのですが、とりあえず発表を申込めばそれなりに勉強して発表までになんとかなるだろうと思ったのですが実際はそうも行きませんでした。ロセッティの事、テニソンの事、他の画家の事など調べる事がどんどん増えてしまって、結局うまくまとめきれないままに発表の日を迎える結果となってしまいました。問題点を挙げただけで何の結論的な事も言えないままに終わってしまった感があり、自分としては最悪の出来だったと思います。でもまあやった事に意義があるのだと開き直る事にしました。いろいろ会場から指摘もいただけたので、それだけでもよかったと思っています。
 最初の写真は、帰る日にちょっと見に行った墨田北斎美術館にいた葛飾北斎氏。本当にこんな机もないところで描いていただろうかと驚きでした。二枚目は二日目に御茶ノ水で泊まったホテルの朝食会場から見えた総武線と中央線の電車。三枚目は最初に泊まったホテルから例の球場を見下ろした夜景でございます。
 11月27日には、東京からの帰りがけ、日本イギリス児童文学会の大会の二日目のさいごのパネルディスカッションだけ聞きに行きました。演劇を教育にどう活かのか、という興味深いテーマだったので。その後、名古屋在住の旧友である道◯氏と名古屋駅近くで会って夕食を共にしました。久しぶりに話せて楽しいひと時を過ごせました。

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今日はブラッドフォードの国立メディア博物館の資料閲覧室Insight で資料をいろいろと見せていただきました。写真が発明されて、カメラが一般に普及し始めたヴィクトリア朝に、写真の出現によって人々の意識にどのような変化が起きたのか、まあそういう事を調べているのであります。
このThe National Media Museumがこれほどの資料を持っているところである事を最近まで知らなかったのですが、それは本当にまずかったなあと反省しているところです。
なぜなら、ここのコレクションは本当にすごいからです。
なぜブラッドフォードというあまり聞き慣れない町にこのような施設があるのか、ちょっとまだ調べていないのだけれど、なんでもイギリスで最初に3Dの映画館を作ったのだとか、どこかに書かれていましたが。
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ルイス・キャロルの写真もかなり持っているのだけれど、ジュリア・マーガレット・キャメロンや、ヘンリー・ピーチ・ロビンソン、そしてギュスタヴ・レイランダーといったヴィクトリア朝期の重要な写真家たちの写真がたくさん所蔵されているのです。
有名な作品のオリジナルプリントを見せてもらって感激でした。
やはり本に載っている写真と実物は印象がかなり違います。
とにかくどの写真も思ったより大きいのです。
当時の印画技術がどんどん進んで、写真家たちが様々な技巧に挑戦して行った様子が分かります。
一つには当時絵画と写真の相互関係と言うかライバル意識というか、そういうのがあって、写真が絵画を模倣しようとした部分がかなりあるという事がよくわかるのです。
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また、印象的だったのは、ここのコレクションに幕末から明治にかけての日本の様子を撮影した、かなり手の込んだアルバムがたくさん所蔵されている事です。
日本だけではなく、イギリスが世界をめぐりながらその風物を撮影して本国へ報告していたこと、どのような意識で「他者」としての異文化をみていたのかが見えて来るような写真たちがたくさんあるのです。
キュレーターのブライアンが、私のリクエストからこれと思われる作品を次々と出してきてくれて、みせてくれました。
もっと時間を割くべき場所だと確信したけれども時間切れになりました。
なんとか頑張ってみせてもらった物を自分のカメラに写し取り、後でまた必要なプリントをリクエストしたいと思います。
前屈みで写真を撮りまくって、腰が痛くなった一日。
最後の写真はカフェテリアでの昼食。これで8ポンドちょいは高い気がします。
というのも円が安すぎて、£が高すぎるからなのだけれど。

PICT0071暮れにアマゾンで購入したデジタル・フォト・スキャナーをいじっている。世の中デジタルカメラ全盛の時代になってしまったが、どこの家にも、昔撮った紙にプリントされた写真やフィルムのネガが山の様にしまってあるはずだ。それをなんとかパソコン上で見たいと思っておられる方は多いのではなかろうか。うちにもアルバムにさえ入れていない写真がいっぱいあって、それらが色あせたり劣化したりするのを放っておけないという気持ちがあったし、やはり年を取ったせいで、昔の写真なんかを時々見たくなってしまうのだ。

それでフォトスキャナーを買った。
ネガフィルム、ポジフィルム、プリントされた写真、どれでも取り込むことができる。
操作はかなり簡単。ボタンひとつでSDカードにファイルとして記録される。ネガからの取り込みならもっと鮮明かと思ったが、今のデジタルカメラで撮った写真と比べると、何となく画質は落ちるが、まあ仕方あるまい。

機種はSVPというよくわからないメーカー(中国らしい)のPS9700というやつ、一応サンコーという会社名になっている。アマゾンで見てもらえばすぐ出ます。12,610円なり。

しかしまあ、ネガでもポジでもプリントでも、一枚一枚セットしてボタンを押さねばならないので、全部やり遂げるには途方もない時間がかかるような気がする。
ロビンソン・クルーソー的な忍耐力でこれをやり遂げるのはいつになるかわからないが、徐々にやるしかない。

一つ取り込んだ写真を例に付けさせてもらった。イギリスで13年前に撮った写真。娘を風呂に入れたときに撮ったものだ。イギリスの風呂はお湯をタンクにためて使うようになっているため、湯を使いきると出なくなってしまう。子供にたくさん湯を使うのはもったいないので、小さなおもちゃ入れのケースに湯をはってそれを風呂桶にしていたのだ。こんなにちっちゃかったのね、ふーちゃんは。

問題は、周囲に写真を固定するためのフレームが写ってしまっていることだ。これはちょっと困るねえ。トリミングする機能はないのか。この辺りは取り込んでから加工するしかないのだろうか。フィルムからの取り込みはこういう問題はなかった。

写真屋に頼んで取り込んでもらったら結構金がかかりそうなので買って自分でやろうと考えたのだが、いつになったら作業が終わるやら。



d662dbcc.JPG 朝は曇りで10時ごろには日差しも指し始めいい天気になったこどもの日。昨日から実家に帰ろうかとも思ったのだが、実家の親は、今日は大雨だから来てもしょうがないし、高速が混んでいるみたいだから止めたらどうかという。来られてもいろいろ仕事が増えて困るというようなこともあって、そうだねえ、やめておこうかという話になってしまった。たしかに昨日今日と山陽道では事故が多発し、何十キロの渋滞が終日続いていたらしい。高速代一律1000円の愚政のおかげで、怪我をした人には、災難でしたねと言うしかない。
 子供は午前中は宿題を片付けるというので、一人でちょっと自転車こぎに出て、いつものように広島美術館へ寄り、例のガチャポンをやる。今日はマルスとパジャントをゲット。同じのが出なくて良かった。マルスはギリシャ神話の戦争の神様で、すごくかっこいいのだ。火星のMarsは彼に由来する。パジャントこのシリーズでは唯一の女性の像である。原型の彫刻が見つかっていない不思議な石膏像である。また今度写真をお見せしたい。

 その後、少し本を読んで、家の片付けして妻とあーだコーダ言っているうち、リビングの一角のごちゃごちゃした部分を何とかすっきりしたいということになった。この連休中に閉店セールをやっている巨大家具屋(小田億ファインズ・ギガモール)へ子供たちを連れて行くことにする。売り尽くしセールももう終わりが近いので何も残っていないかと思ったが、手ごろな引き出しつき雑誌ラックみたいなのを見つけ、39800円の20パーセント引きを、値切って30000円にしてもらって購入。さらに椅子と鏡も20パーセント引きで購入。30000円以上買うと使えるクーポンというのを使えますということで、さらに全体を6000円引きで、結構お得感があった。

 そうこうしていると外はものすごい雷雨が降りだした。雨の中を帰宅。

 稲妻がびかびか輝くので、カメラを持って待機した。きたっと思った瞬間にシャッターを切ったら写っていた。結構撮れるものだ。ご覧下さい。春の稲妻!どうですか。

 カープは大竹がいい投球を見せて完封リレーで勝利。ルイス、大竹、前田健太がコンスタントに勝てれば、何とかいい線いきそうな気がする。

 あるとおもいます。

f189234e.JPG 英語劇が終わると大量の写真と録画のビデオが残る。これを編集してみんなの思い出にするためDVDやらCDRやらに焼き付けることになる。これがまた手間なのである。去年もそうだったが、今年も事務のIさんが記録係として大車輪の活躍を見せてくれた。Iさんも実は大昔、このイベントが始まった頃、舞台に立った英語劇OBなのだ。彼らの時代には、今みたいな本格的長編劇はできなかったが、「サザエさん」やら「ゲゲゲの鬼太郎」を英語に訳して上演するなどという、考えてみれば結構高度なことをやっていた。彼のとき、確か授業では「カサブランカ」を演じさせたと思う。

 彼は結婚式のビデオや写真のカメラマンとして重宝されている凄腕の持ち主である。彼の持つカメラは僕がこの前買ったやつの5〜6倍の値段の高級品である。今回も最後列に陣取って、リハーサルの時は写真、本番ではビデオカメラを回してもらい、この一回きりの公演の記録係としてがんばってもらった。ものすごく重い望遠レンズを素手で構えてシャッターを切りまくるので、終わったときには腕がバリバリになっていると言っていた。写真の腕前は確かなので、本当に助かる。

 僕はというと、自分のカメラをまだまだ使いこなせてなくて、露出を間違えたりして結構失敗が多い。カメラが賢いからと過信しているとやはり失敗する。性能を熟知してそれを使いこなさないといい写真は撮れない。Iさんは、一度練習を見に来ただけでシャッターを押すべき瞬間を記憶し、いい場面を撮ってくれる。さすが。本番の翌々日には撮ったビデオとデジカメ画像をDVDに焼いてきてくれた。さすが仕事が速い。ありがとうございます。

 練習段階から撮っていた記録ビデオを編集し、秘蔵映像集を作らなければいけないのだが、今ちょっとやる気が出ない。もう少し暇になってからやろう。今日、本番の第二カメラの映像だけ、DVDに焼こうと思ったら、HD-DVDのデッキの調子が悪い。何度やっても「DVDが汚れています」というメッセージが出て、電源が切れてしまう。どうしたものか。ヘッドが汚れているのか、安物DVDを買ったせいなのか。歯がゆい。

84e6c25f.JPG今日は娘の小学校の運動会。「秋晴れのもと〜」と行きたかったが、空はどんより曇っていた。しかしこれまでの暑さとはうって変わって秋らしい涼しい一日。運動会にはもってこいだ。娘は6年生なので、もうこれが小学校の運動会は最後かと思うと感慨もひとしおである。今日の出番は、徒競走と球入れ、組体操である。

 運動会といえば親にとっては、写真撮影、ビデオ撮影の腕の見せ所だが、少し前に買ったデジタル一眼レフ・ペンタックスK10がその威力を発揮した。これまでの安物のデジカメでは考えられなかったような瞬時の自動焦点と手振れ補正、そして一秒間に3駒撮れる連続撮影の能力により徒競走でも楽しくシャッターが切れる。とにかくパシャパシャ撮りまくれるのが本当に気持ちがよい。再生能力もすごくてさっさっさっと見ることができる。記憶媒体も2ギガということで枚数のことは全く気にもならない。一こま2メガなら1800枚以上撮れるのだ。やはり道具って大事だよね。値段が高いだけのことはある。バッテリーもかなり強力で、買ってから一度しか充電していないのに、全く減った様子もない。
 一つだけ難点は、今までのデジカメに比べ格段に重いということだ。やはり首からぶら下げているとかなり疲れる。
 もっと芸術的な写真を撮りに行きたいのだが、暇と精神的ゆとりが今はないのである。

 カメラといえば先日ミャンマーでの軍事政権反対のデモに対する治安部隊の軍事行動を撮影中に射殺された日本人カメラマン、長井健司さんのニュースには心が痛んだ。射殺された瞬間の映像がテレビ放映されているが、背後から撃たれ、道路に突っ伏したにもかかわらず、それでもカメラを放さず何かを撮ろうとしているように見え、その報道カメラマン根性というかそういうものが伝わってきた。情報網が発達しても、情報を発信してくれる人間がいない限り我々は何も知ることはできない。長井さんのような正義感の強い人々に、心から敬意を表したい。

 ロバート・キャパや、ロバート・キャパ賞を受賞した沢田教一など、戦場で命を落とした名カメラマンの本は結構読んでいる。彼らは映像が言葉よりも多くのことを瞬時に伝える力があることを知り、その力を使って世界の矛盾、非正義に立ち向かおうとした。彼らの功績は彼らの作品を見ればその瞬間に理解される。長井さんの作品を、私たちはおそらく何度も見てきたのだろうと思う。彼の功績を我々はこれから確認しなければならない。

 ちょっとレベルの違う話に飛んでしまったが、親にとって子供の成長の軌跡を写真に撮る事は、一つには、自分の子供もここまで育ったのかというある種の達成感の確認みたいなものだろうが、一方では自分の老いの記録みたいに見えてくることもある。そしていつかは自分の手元からいなくなってしまうであろうものを何とか今のうちに手元に残るものに変換しておきたいという切ない願望なのである。

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