2012年01月08日

< 2012年 初詣(2) > 賀茂社

 鷹ヶ峰から薬師山を捲いて東に向かう。賀茂川を渡ると、そこは上賀茂神社である。広大な敷地(76ha)、広々とした参道の先には杮葺三間社流造(ながれづくり)の本殿、権殿(いずれも国宝)、拝殿以下41棟の重要文化財が建つ。この「山城国一宮・賀茂別雷神社(かものわけいかづちじんじゃ)」は下鴨の「賀茂御祖神社(かものみおやじんじゃ)」とともに、1994年にユネスコの世界文化遺産に登録された。
 
 7世紀頃には既に有力な神社であり、平安建都以降は国家鎮護の神社として朝廷の崇敬をうけたとある。現在の社殿は文久3年(1863)に建てられたものである。また、後一条天皇の長元9年(1036)から21年ごとの遷宮が行われており、3年後の2015年には第42回遷宮が予定されている。
 祭神、賀茂別雷大神は下鴨神社(賀茂御祖神社)の祭神の子に当たる。本殿に進み二礼二拍手一礼。一歳一族一家の心身健康と財の安全を祈願した。

 境内を散策する。渉渓園は賀茂曲水宴が開かれるところである。深い森の中を清流に沿って歩いているうちに、ふと、学生時代の法制史の講義を思い出した。ここの宮司、賀茂県主氏の家系は直系では天皇家をしのぐという。かまどの火は千数百年を経て今も守り続けられている。確かそういう内容であった。江戸時代の文人、賀茂季鷹(すえたか・1754〜1841)はこの賀茂県主氏の氏人であり、ご当地の特産「酸茎(すぐき)」の普及に一役買ったと縁起にある。なるほど、本宮前の庭には、太い丸太の先に石の重しを下げ、テコの原理で酸茎菜を漬け込む大樽の仕掛けが並んでいた。上賀茂の冬の風物詩である。

 

 賀茂川が高野川と合流する三角州一帯は「糺の森(ただすのもり)」と呼ばれる。12.4haの古木の森である。最近の発掘調査によれば、この森では縄文の時代から祭祀が行われていたという。気の遠くなるような話だ。
 賀茂御祖神社(かものみおやじんじゃ・下鴨神社)は天武天皇6年(677)に社殿が完成したと記録されている。祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と玉依媛命(たまよりひめのみこと)である。上賀茂神社と同じく山城国一宮で、往時は全国に60以上の荘園を持っていたという。今も、全国1300の賀茂神社の総本社である。本殿および西本殿は国宝、他社殿53棟が国の重要文化財に指定されている。また、「葵祭」の起源は欽明天皇5年(545)に遡るとされ、京で祭りと言えばこの「葵祭」のことである。
 式年遷宮は上賀茂神社と同じく長元9年(1036)から21年ごとに行われて来たが、2015年の遷宮が第34回で上賀茂神社より8回少ない。理由は応仁の乱(1467〜1477)でこの辺り一帯が荒野原となり中断を余儀なくされたからだそうである。因みに、京で先の戦争といえばこの「応仁の乱」のことである。

 鳥居をくぐり、糺の森の参道を歩く。縄文時代からの数千年に亘る「祈り」が層をなし、狂おしい程の霊気が漂っているような森の道である。
 第一摂社の河合神社(祭神・玉依媛命)は鴨長明(1155?〜1216)ゆかりの神社で、彼はこの社の禰宜の家系に生まれた。神官を目指したが、19才で父と死別した後は任官かなわず、波乱の人生をたどることになる。今年は彼の代表作「方丈記」完成から800年目の年にあたるという。

 本殿の西隣、葵の庭にはかつて賀茂斎王御所があった。皇室の禊(みそぎ)のために定められた「賀茂斎院の制」によるものである。斎王は嵯峨天皇第八皇女、有智子(うちこ)内親王が初代に卜定(弘仁元年・810)され、以降35代礼子(いやこ)内親王の時(建歴2年・1212)に廃されるまで約400年間続いた。伊勢の斎宮に比べれば内裏に近いとはいうものの、当時は人里離れた賀茂の斎院であったろうから、うら若き皇女にとっては辛い勤めであったであろう。

   忘れめや あふいを草にひき結び かりねののべの つゆの曙
              (新古今和歌集・第31代斎王 式子(のりこ)内親王 )

 上賀茂神社も同じだが、おどろいたことに広い境内どこにも「狛犬」が見当たらない。ただ、両本殿それぞれの扉脇には、金膚に青たてがみの獅子が向き合う。右が「阿」で口を開き、左が「吽」で閉じた口に一角を具す。「ここには狛犬はいません。いるのは魔除の獅子です」と神職の方が教えてくれた。その流造りの本殿を拝し世の平安を祈った。
 本殿前の奉献の包みに皇室からのものがあり、その黒白の水引きにはこれまた我目を疑った。聞けば、普通使われる水引きは「赤白」で、これは皇室の祝い事にのみ用いられる「紅白」だという。「紅白」の水引きは赤い染料で染めてはいるが、染めあがったものは「玉虫色」といわれる濃い緑色をしており黒と見間違いやすいと神職の説明。獅子にしろ水引きにしろ「聞くは一時の恥」である。何事にも疑問を持ち、いいかげんにせず、かつ謙虚であれと年初に誓った。


 

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< 2012年 初詣(1) > 鷹ヶ峰

 北大路バスターミナルから、玄琢行き「北1番」のバスに乗る。千本北大路を離れ、旧周山街道に入ってしばらく行くと街道沿いは昔ながらの家並みとなる。「鷹ヶ峰」である。
 古く平安時代には、この辺りは皇室の狩り場(所謂「禁野」)であり一般人は立ち入れなかったという。その後、江戸時代の元和元年(1615)に本阿弥光悦は徳川家康からこの地をもらい受けて一族、工匠らとともに移り住み、ここに「芸術郷」を築いた。
 「源光庵前」でバスを降りる。光悦寺は昨夜来の雪景色の中に静まり返っていた。

  新春の御慶賀 自他幸甚々々   (日蓮聖人御遺文「大田殿許御書」)
  皆さま、あけましておめでとうございます。

 光悦寺は本阿弥光悦(1558〜1637)ゆかりの寺である。光悦は家業の刀剣鑑定の他、書、陶芸、絵画、蒔絵などに優れた才能を発揮し、芸術家を育てることにも熱心であった。ここ「芸術郷」では、光悦や俵屋宗達(生没年不詳)らを中心に創作活動がくり広げられ、尾形光琳(1658〜1716)、尾形乾山(1663〜1743)へと花開いてゆくことになる。その一方で光悦は熱烈な法華経の篤信者であった。光悦とともにこの地に移住した人達は、法華経の説く理想郷「娑婆即寂光土」の実現を目指した。また、志を同じうする京の有力町衆もここに集った。
 
 日蓮宗・大虚山光悦寺は南に向けて緩やかに延びる傾斜地に、素々としていくつかの庵が配された風雅な寺である。その庵の一つ、本阿弥庵からは遠く京の街並(双ヶ岡〜嵯峨)を見渡すことが出来る。背後から寺を抱くように聳える鷹ヶ峰三山(天ヶ峰、鷲ヶ峰、鷹ヶ峰)は、凛として淡雪を冠していた。
 小雪のちらつく境内を巡る。大虚庵を囲む垣根が雪の風情を際立たせる。細く割った竹を束ねて太く枠どり、合せ割竹を棕櫚縄で菱に組んだ「光悦垣」である。その佇まいにしばし見惚れて、光悦翁の感性に想いを馳せるとともに、墓所で翁の遺徳に合掌した。

 岩戸妙見宮・圓成寺(日蓮宗)、源光庵(曹洞宗)に参詣し、常照寺に至る。
寂光山常照寺は、光悦が土地を寄進し、その子光瑳の発願で名僧・日乾上人を身延山から招じて創建された日蓮宗の名刹(正確には「鷹ヶ峰檀林(学寮)」)である。
 名妓・吉野太夫(1606〜1643)は、光悦の縁で日乾上人にまみゆるやその学徳に帰依し、寛永5年(1628)に巨財を投じて、ここに朱塗りの山門(「吉野門」)を寄進した。彼女が23才の時である。14才の若さで吉野太夫の名跡を継いだ彼女は、和歌、連歌、俳句、書、茶の湯、香道、音曲、囲碁、双六と諸芸に秀で、その美貌は遠く中国(「明」)にまで喧伝されたという。
 吉野は、敵に追われる武蔵をここ鷹ヶ峰の庵に迎え入れ、臨機の気配りでもてなす。そして、張詰めた武蔵の心を見抜くや、奏でていた琵琶をその場で断ち割って、しなやかに生きてゆく心構えを諭した。吉川英治はその著「宮本武蔵」の中で吉野をそのように描いている。

 吉野は26才で退郭し、京の豪商、灰屋紹益と結ばれる。しかし、幸せは永くは続かず38才で病没、短い生涯を終えるのである。悲嘆に暮れた紹益は、
    
    都をば花なき里となしにけり 吉野を死出の山にうつして

とその悲しみを詠んだ。
 
 吉野は遺言によりこの常照寺に葬られている。その墓は彼女が帰依した日乾上人廟の裏手にあり、淡雪をまとった墓標は、今も、「しなやかに生きよ」と語りかけているようである。

 

 

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2011年12月23日

< 2011 今年の読書 >

 「東北地方の惨状を前にしていると、自分が被災を免れたことに罪の意識を覚える。」 東京在住のある英国人がTVインタビューで、そう語ったと3月14日の毎日新聞が報じている。3月11日に発生した東日本大震災は、巨大地震・大津波・原子力発電所事故の三つが重なる大災害となった。死者、行方不明者は2万人にのぼり、避難されている方々は今なお30万人を超える。大阪に住み、被災を免れた私にとっては、日々の暮らしの在りようを根底から問いかけられる出来ごとになった。

 奇しくも、年初の読書目標に「沈黙の春」を原文で読むことを掲げていたから、福島第一原子力発電所の事故、拡大する放射能汚染の報道と、レイチェル・カーソンが提起した化学物質による環境汚染の問題が重なり、深く考えさせられる読書となった。また、前年に続き「西行と新古今和歌集の時代を読む」ことも目標にしていた。
 津波で甚大な被害を受けた三陸海岸は海の恵みが豊富で、ワカメやコンブの一大産地である。一日も早い復興を祈り、来春の年賀状に海の幸を歌った西行の和歌を添えた。

    磯菜摘まん 今生ひ初むる 若布海苔 
    海松布(みるめ)神馬草(ぎばさ) 鹿尾菜(ひじき)石花菜(こころぶと) 
                                   西行・山家集

 一年を振り返り、今年読んだ本を列挙することをお許しください。

「西行」  安田章生 弥生書房 1983
「待賢門院璋子の生涯 ― 椒庭秘抄」  角田文衛 朝日選書 1985
「茨木がまちになった6つの物語」  ふるさと茨木連帯編著 かんぽう社 2009
「人物日本女性史 2 栄光の女帝と皇后」  円地文子監修 集英社 1977
「和泉式部日記」「和泉式部集」  野村精一校注 新潮日本古典集成 1981
「密息で身体が変わる」  中村明一 新潮選書 2006
「倍音 ― 音・ことば・身体の文化史」  中村明一 春秋社 2010
「ふまじめな脳 ― 人生を気楽に生きるヒント」  大島 清 PHP研究所 1999
「日本の音」  小泉文夫 青土社 1977
「音の歳時記 ― 四季折々の日本音楽」  釣谷真弓 東京堂出版 2010
「法師になりきれなかった兼好の徒然草」  矢吹邦彦 明徳出版社 2010
「歌集・連理の枝」  桑瀬文代 NHK学園 2011
「おたまじゃくし無用論」  小泉文夫 青土社 1980
「歌うクジラ」  村上 龍 講談社 2010
「音楽の根源にあるもの」  小泉文夫 青土社 1977
「人物日本女性史 4 戦国乱世に生きる」  円地文子監修 集英社 1977
「空想音楽大学」  小泉文夫 青土社 1978
「山家集」  西行 後藤重郎校注 新潮日本古典集成 1982
「水谷五葉作品集 機廖 /綯五葉 便利堂 1992
「The Story of V - Opening Pandora's Box」  Catherine Blackledge   藤田真利子訳 集英社 2011
「人物日本女性史 5 政権を動かした女たち」  円地文子監修 集英社 1977
「秋津温泉」  藤原審爾 集英社 1989
「人物日本女性史 6 日記につづる哀歓」  円地文子監修 集英社 1977
「Silent Spring」  Rachel Carson Penguin Books 1962
「人物日本女性史 7 信仰と愛と死と」  円地文子監修 集英社1977 
「Lady Chatterley's Lover」  D.H.Lawrence Penguin Books complete text in 1960
「枕草子(上)」  清少納言 萩谷 朴 校注 新潮日本古典集成 1977 
「枕草子(下)」  清少納言 萩谷 朴 校注 新潮日本古典集成 1977
「シュリーマン旅行記 ― 清国・日本」  H.シュリーマン 石井和子訳 講談社   1998
「『写真週報』に見る戦時下の日本」  保坂正康 監修 太平洋戦争研究会著    世界文化社 2011 

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2011年12月09日

< ことし感心したこと >

 この年になると諦めにも似て、あれもこれもやろうという気は起こらない。その代わりゆっくり流れる時間の中ではっと気を引く事柄に驚き、これのがさじと見入り感じ入るようになった。

 まずは電気掃除機の吸引部の関節のことである。長い首の先にT字型に組まれた吸引部は、手首のひねりでいとも自在に動くようになっている。テコの原理が上下左右の動きを伝達する。単純な仕組みだが一昔前に比べると操作性は格段に向上した。関節部分の工夫発明には驚くばかりである。360度自由に動くと、ふにゃふにゃになり用をなさない。必要だけを形にする為には何度も試行錯誤を繰り返したに違いない。いか程の特許・実用新案があるのかは知らないが、ここには「からくり人形」の伝統技術も生きているのであろう。

 段ボールや厚紙をリサイクルに出すため、様々な「紙箱」をつぶす。そのうちに、ピンも糊も使わずカットと折り、組み立てだけでしっかりした箱になっていることに気付いた。折りを外しながらそのアイデアに感心してしまう。何時ごろからこういう技術が普及したのかは思い出せないが、そんなに古いことではないであろう。一升瓶(日本酒)は、昔は木の箱であった。その後プラスティックになり、今は段ボールの切り込みと折り曲げだけで、瓶はしっかりと納まっている。「折り紙」の知恵かも知れない。

 ここ10年で大きく変わったのが「禁煙」の環境であろう。先日、久々に東京大手町〜丸の内〜皇居前を散策した。40年前、新社会人として歩いた道を巡る。景観は大きく変わっていて当時のビルはほとんど残っていない。私が勤めていた銀行の本店ビルも現在は解体中で、移り行く時代に頭(こうべ)を下げる。跡地は「大手町の森(3,600)」になるそうである。
 とにかく「きれい」になった。いち早く路上禁煙を宣言し、条例で違反者への罰則を決めた千代田区である。さすがである。喫煙場所はどこにも見当たらず、道には一本の吸殻も落ちていない。愛煙家としても、ここまで徹底されると妙に感じ入ってエールを送りたくなる。かれこれ1時間程歩いてJR東京駅に戻った。駅の喫煙ルームは、10坪くらいはあろうかと思われるが、順番待ちの混みようであった。

 東京駅は東海道新幹線の終点であり、また始発駅である。大半の車両がここで折り返し乗客を乗せて西へ向かうことになる。列車が入線すると、1輌あたり3人として16輌であるから、つごう約50人のスタッフが車内清掃の作業に入る。枕カバーを外し座席を回転させる。新しい枕カバーの2枚組3枚組を通路座席の肩に置いてゆくと、続く人がこれらを座席に張り付ける。次に箒と雑巾でシート、手摺、テーブル、窓桟を一つずつ清掃して行く。まさに「流れるが如し」である。外からは見えないが、トイレ、洗面所、ゴミ箱の担当者も同様に「一糸乱れず」であろう。約10分間の集中力である。お見事。3輌ごとに1人配されるリーダーがホームに立ち、作業完了の報告を指差する。見ていると溜息が出てくる。一朝一夕で出来るチームワークではない。工夫に工夫を重ねた現場の知恵の集積であろう。作業を終えたスタッフが整然と立ち去って行く。桜色のユニホームがこれまた爽やかであった。

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2011年11月22日

< 京都東山ご案内記 > 清少納言を訪ねて

 下見に来た時は何度も道に迷い、近所の人に案内を乞うた。それで、やっとたどり着いた道であるから、観光客が訪れるようなコースではない。今熊野剣宮町の剣神社前で車を降りてそば道を下る。谷川に架かる橋を渡り、鬱蒼とした杜を抜けると、そこは別世界である。「都会の雑踏を一歩入ると、こうなんだから、京都って素敵よね」と皆さん口々におっしゃる。今日は、東京から妙齢のご婦人たちをお迎えしご案内する、題して「京都東山散策・清少納言を訪ねて」である。枕草子の作者、清少納言(966〜?)は一条天皇の皇后定子に仕えた。その定子を祀る鳥部野陵はこの道の先にある。

 三つ折れの急坂を登り詰めると、木立に囲まれポッカリと開けた頂きに至る。ここ鳥部野陵で、定子は千年の眠りについている。時の関白藤原道隆の娘、定子は一条天皇のもとに17歳で入内し中宮となる。しかし、父、道隆が死去すると、叔父である道長(道隆の弟)の権勢の前に道隆の中関白家はおとしめられ、定子は苦悩の日々を送る。あげくに道長の娘、彰子が12歳で一条天皇の中宮に入る。そして皇后となった定子は、皇女出産の直後にこの世を去るのである。御年24歳であった。その定子を励ますために、清少納言が執筆したのが「枕草子」だと言われている。
「枕草子で彼女が一番語りたかったことは、この浮世この濁世をはなれての魂の安住の場所を、だれよりもいとしい人、定子に姉のように母のように告げたかったのではないか」(田中澄江)

 山裾を辿り、今熊野観音(西国15番札所・ボケ封じ)を経て泉涌寺(せんにゅうじ)に着く。清少納言が晩年を過ごした「月輪山荘」はこの辺りにあったとされる。山荘は、「女ひとり住むところは・・・・」(枕草子171段)と自ら言うように質素で手入れの行き届かない庵であったらしい。しかし、負けん気の強い彼女は「あばらやも、ここまで落ちたか」との世評に、「落ちぶれても駿馬の骨は買い手がある。馬鹿にしなさるな」と言い返したという。(故事談)
泉涌寺の境内には、日比野五鳳(1901〜1985)筆による清少納言の歌碑が建つ。
   
 夜をこめて鶏(とり)のそら音ははかるとも 
         世に逢坂(あふさか)の関はゆるさじ   (百人一首 62)

彼女の父、清原元輔は勅撰和歌集の撰者として知られ、祖父(曾祖父との説もあるが)清原深養父も有名な歌人である。三代に亙って百人一首に選ばれている。

 この月輪(つきのわ)の地には鎌倉時代以降、歴代の天皇および皇族方の陵墓が営まれている(月輪陵)。また、京の人が親しみをこめて「御寺(みてら)」と呼ぶ泉涌寺には天智天皇以降、歴代天皇の御尊牌が祀られている。檀家は天皇家ただ一軒である。
 今回の東山散策の見どころの一つはこの泉涌寺の御座所であったが、今日は拝観がかなわぬという。聴けば、これから秋篠宮ご夫妻のお墓参りだとのこと。檀家さん優先はごもっともな話であり、残念ではあるがまたの機会に期すこととした。

 泉涌寺から山裾を巡り、やがて東福寺に至る。昼食は東福寺塔頭の栗棘庵(りっきょくあん)で京会席料理をいただき、秋の午後の陽を浴びながら、谷一つを取り込んだ東福寺の大伽藍と、切れ味爽やかな重森三玲(1896〜1975)による庭園美を楽しんだ。

 最後に訪れた芬陀院(ふんだいん・東福寺塔頭)は雪舟ゆかりの寺である。吉備の宝福寺から本山に参詣した雪舟はここを常宿とし、頼まれて庭を設計した。鶴と亀の石組を見せる美しい庭である。私たちは、小振りで温かみあふれる芬陀院でひとときを過ごした。「どちらからおこしやした。 また 来とぅくれやす」 大黒さんの京ことばが今も耳に残る。

◇ 今回のコース 
今熊野剣神社〜鳥部野陵〜今熊野観音〜泉涌寺〜栗棘庵〜東福寺〜芬陀院

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2011年11月13日

< 北陸・山中温泉紀行 >

 「山中節」に誘われて、北陸・山中温泉を訪ねた。山中温泉は、加賀平野の奥づまりの渓谷沿いに、1300年の歴史を刻む名湯である。江戸時代前期、旅の俳人松尾芭蕉(1644〜1694)は、奥州を巡り、金沢、小松を経てこの地に長逗留(1689.9)し(「奥の細道」)、この山中温泉を「扶桑三名湯(草津・山中・有馬)、其一なり」と絶賛して、

  まことに浴する事しばしばなれば、皮肉うるほい、筋骨に通りて心神ゆるく、
  ひとへに顔色をとどむるここちす。
       やまなかや 菊は手折らじ 湯のにほい
       湯の名残 今宵は肌の 寒からむ        (芭蕉)

と詠んだ。その名湯「菊の湯」(公共入浴場)は、男湯と女湯が別棟で向き合っている。特に、10年まえに新築された女湯とそれに連なる「山中座」は、全館が「山中漆器」の伝統的な技法を駆使した、味わいの深いものである。壁面、調度品はもちろんのこと、椅子、手摺、ドアの取っ手に至るまでの見事な漆塗りは、職人の手数を思うと見ていて気が遠くなる。中でも、ホール格子天井の大蒔絵は圧巻である。

 しっくりと落ち着いたこの町の雰囲気は、温泉と美術、詩、音楽の調和が創り出しているのであろう。即ち、職人たちが世代を継いで美を極めて来た山中漆器や九谷焼の伝統工芸であり、400年を経て今も息づく芭蕉の詩心であり、そして、江戸時代の北前船の船頭が湯船につかって唄ったことに始まる山中節がそれである。
 歩く道々、この町の落ち着きを肌で感じた。落ち着きを醸し出しているのは、時流に媚びることなく伝統を伝え活かしている、この町の品位の高さと並々ならぬプライドであろう。そして、この情緒と湯の香りをもとめて全国からお客様が訪れ、更に洗練されたものになって来たのであろう。

 拙作、フルートとピアノの為の「味噌汁風バッハ第一番」の二楽章、「もてなし歌」は山中節を原曲にしている。この山中節は、日本の民謡の中でも、最も透明度、完成度が高いものの一つである。単純さの中に人の心の襞を唄い込んでおり、さりげない旋律・リズム故に難曲である。フルートとピアノの曲に組み替えても難曲であることに変わりはない。

       忘れしゃんすな山中道を 東ゃ松山 西ゃ薬師
       主(ぬし)のおそばと こおろぎ橋は 離れともない いつまでも
       昨夜習うた山中節も 今朝は別れの 唄となる

 私たちは、創業800年の「白鷺湯・たわらや」に宿をとった。名勝・鶴仙渓にせり出した本館は、立地を生かして、玄関が5階にある。ロビーは自然景観を、壁画のようにとり込み、これを全面ガラスで演出している。中央天井の明かり窓は空に抜け、解放感十分である。施主と設計者の感性・心意気を感ずる空間である。聞けば、正面の山は当館オーナーの所有する山であるとのこと。色づきはじめた木々の中に、ひときわ枝振確かな松が品格を添える。「最高は冬の雪景色ですよ」と宿の人は答えた。
 渓谷の瀬音を身近に聴きながら露天風呂につかる。泉質は弱アルカリ性(PH8.4)、含石膏芒硝酸泉で無味無臭。肌に優しく、その効能は江戸の昔に芭蕉が記す(前掲)ところである。

 翌朝、そぼ降る雨の中をカラコロ下駄を鳴らして、名湯「菊の湯」の一番風呂を目指した。男湯は重厚な天平風の建物である。驚いたことに、脱衣箱には地元の子供たちの絵が「蒔絵」で仕上げられている。さすが漆器の町である。湯船は所謂「立ち湯」で、胸までの湯にたっぷりとつかる。正面壁画には「山中温泉縁起絵巻」の入浴場面が刻まれている。一番風呂は約20人。私以外は皆地元の方々である。湯船で知り合った人は「毎日朝晩ここに入浴。湯ざめしないし、お蔭で元気です」とつやつやした顔で話しておられた。そして、湯からあがると菊の湯玄関前の湯地蔵に線香を供え、手を合わせておられた。有難い湯である。


 実はこの小旅行は、長年お世話になった方へのご恩返しにと企画したもので、ご高齢であることから姪御さんに付き添いのお願いをしていた。彼女は前日まで準備手立てを尽くされたが、いざ出発の朝、突然のハプニングで当のご本人が参加できなくなり、姪御さんと私たち夫婦との「思いもよらぬ旅」と相成った。主賓を欠く謝恩旅行で拍子抜けのところもあったが、そこは来春梅の頃に紀州路を訪ねることで、うめ合わせることにしている。
 

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2011年10月06日

< 母への誕生日祝い > ロテル・ド・比叡

 京都市内から比叡山に登る道はいくつかあるが、古来もっともよく利用されたのが雲母坂(きららざか)である。北白川からとり付き、急坂を登り詰りつめると、道は比叡山南肩鞍部の比叡山一本杉(地名)に至る。源氏物語宇治十帖の薫の君も(「手習」「夢浮橋」)、また法然をはじめとして叡山の修行僧たちも、ここで一服し、なだらかに伸びる尾根を延暦寺に向かったであろう。今は市街地が山裾まで迫り、車を使えば山中越〜比叡山ドライブウェーと10分程でここまで来ることが出来る。
 
 京阪電鉄が経営する ロテル・ド・比叡(L'Hotel de Hiei) は、この比叡山一本杉の地に建つ。ここは背後に比叡山(848m)を控えた、ゆるやかな馬の背の地である。東に琵琶湖と湖東平野を、西に京都市街を、そして南は宇治から奈良を見渡すことのできる、標高600mの地である。ホテル脇の「登仙台」からの眺めがまた格別で、京の街並はあたかも地図帳を拡げた如くである。西山の稜線は南へと延びて天王山で終止し、大阪梅田の高層ビル群の向こうには大阪湾、その先には淡路の島影を望むことが出来る。

   いにしへの王城の地を見おろして わがおもふことはるかなるかな  吉井勇

 京都市内に住まう義母(妻の母)の85歳の誕生日祝いにと、温泉宿一泊の小旅行に誘ったが、母は6匹の猫の世話で外泊かなわず。それならと選んだのがロテル・ド・比叡での昼食会であった。

 ロテル・ド・比叡は名前のとおりフランス感覚のリゾートホテルである。聴けば、建物も庭園も全てフランス人の設計で、廊下、階段、調度品、絵画、売店の品々と隅々まで設計者のこだわりが行き渡っている。カラッとした軽い解放感が何とも嬉しいホテルである。庭に面した板張りのテラスに立つと、芝生はそのまま空に接し、遥か淀川越しに生駒、葛城の山塊〜奈良平野を望むことができる。また目を転ずれば、一段下がったところからの二階建てのホテルの各客室の窓辺にはマゼンタ(赤紫)のペチュニアが鮮やかに咲く。
 
 妻とともに母の誕生日を祝い、健康と長生きを願って乾杯をした。
レストラン ロワゾ・ブルー(l'Oiseau Bleu 青い鳥) の予約した席は、秋の午後の陽だまりが優しく、窓越しに、大きく羽を広げたように琵琶湖と湖東平野の町々が浮かび上がった。


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2011年09月17日

< 2011夏の読書感想文 > Silent Spring (6)

 Rachel Carson は ' Silent Spring ' の最後を次のように締めくくっている。

It is our alarming misfortune that so primitive a science has armed itself with the most modern and terrible weapons, and that in turning them against the insects it has also turned them against the earth.
科学が装備している最新最強の武器を昆虫に振り向けた時、それは同時に、地球に対しても振り向けてしまっているのである。これは何とも不幸なことである。


 私が小学生の頃、田植えが終わると通学路脇の水田には赤い旗が立てられていた。「パラチオン散布・注意」の標識であった。農村に育ったので、除草剤のパラチオン、2-4D、殺虫剤のマラソンなどの名前はごく普通に耳にしていた。ちょうどこの'Silent Spring'が出版された、1960年代の日本である。その後、減農薬が叫ばれ、今は赤い旗の立つ田畑はない。しかし、R.Carsonが指摘した化学物質は殺虫剤、除草剤に限らず、防カビ剤、防腐剤、塗料、接着剤、合成洗剤など、私たちの生活のあらゆるところに使われている。今や、その含有の事実さえ気づかない程である。鬱病や花粉アレルギーの増加も、これと無関係ではないかもしれない。

 今年3月に起こった東京電力福島第1原子力発電所の事故は、いまだ収束の目途がたっておらず、放射能の汚染拡散が続いている。放射能の人体への影響について日本政府は、「健康に害を及ぼすレベルではない」との説明を繰り返すが、この「許容量」、つまり'tolerance'が「安全の指標」として無意味であることは、本書の指摘するところである。一体、どれ程の放射性物質が放出され、草や農作物に付着、また土壌、湖沼、河川、ひいては海に「残留」しているかは「分からない」し、化学物質と複合された場合の毒性の程度など、予測のしようもないからである。

 'Silent Spring' が出版されて、来年で50年になる。R.Carsonが抱いていた危惧は陳腐化するどころか、今もなお私たちの日常の生活圏に警鐘を鳴らし続けている。耳を澄まして、よく聴かなければならない。
便利さや流行より、昔からの知恵がいかに大切かを、この本は教えてくれた。



kei_tobiyama at 10:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2011年09月16日

< 2011夏の読書感想文 > Silent Spring (5)

 そして再び話は自然界に戻る。
To have risked so much in our effort to mould(型にはめ込む) nature to our satisfaction and yet to have failed in achieving our goal would indeed be the final irony.

 大量の殺虫剤散布は、目的の害虫を殺すと同時に、その天敵動物(predators)をも殺してしまった。散布後、当然のことではあるが、本来除去するはずの害虫の大量発生に見舞われることになってしまった。
何故か? それは昆虫が「抵抗力」(resistance)を備えているからである。
They have a habit that so reduces their exposure to DDT as to make them virtually immune(免疫). Irritated by the spray, they leave the hut and survive outside.

 昆虫はこの'resistance'を2〜3年、遅くとも6年あれば身につけてしまう。
であれば、人間も同様に「抗体」を身につけることができるか。理論的には可能であるが、その為には数百〜数千年かかるという。何故なら、
Resistance is not something that develops in an individuals. Human popurations reproduce at the rate of roughly three generations per century, but new insect generations arise in a matter of days or weeks.

 そして、最終章の第17章(The Other Road)では、脱・化学物質=殺虫剤の手法を具体的に例示する。
We stand now where two roads diverge,.......The road we have long been travelling is deceptively(惑わすような) easy, a smooth super-highway on which we progress with great speed, but at its end lies disaster(大惨事). The other fork of the road - the one 'less travelled by' - offer our last, our only chance to reach a destination that assures the preservation(維持) of our earth.

 害虫駆除の方法について、膨大な数の選択肢を絞り込んでゆくと、そこには化学物質が有効な場合もある。いくつかは既に採用され、素晴らしい実績をおさめている。それは、昆虫の生命力そのものを利用する方法、つまり、male sterilization technique(雄性不妊技術)である。
 更に進んで、the new biotic control of insects の実例を紹介する。それは、害虫につく病原菌(pathogen)を利用するのである。これは人間が作り出すテクニックではない。
The advantages of such control over chemicals are obvious : it is relatively inexpensive, it is permanent, it leaves no poisonous residues. そして、the opportunities for the more conventional types(在来型の) of biological control are gratest in the forest. 森の中にこそ、古くて新しいbiological control の知恵が潜んでいるのである。


kei_tobiyama at 17:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

< 2011夏の読書感想文 > Silent Spring (4)

 続いて、第14章は化学物質による癌発症のメカニズムについてである。
癌と生物との戦いは太古の昔からあった。The ultra-violet radiation in sunlight cause malignacy(悪性腫瘍). So could radiation from certain rocks, or arsenic(ヒ素) washed out soil or rocks to contaminated food or water supplies.しかし、人間は新たに発癌の薬(発癌物質)を作りだしてしまつた。.....man can create cancer-producing substances(薬), which in medical terminology(医学用語) are called carcinogens(発癌物質).

 放射能および化学物質による「小児癌」の状況は特に深刻で、1歳〜14歳の子供の病死原因の内、14%が癌である。Large numbers of malignant tumours(悪性腫瘍) are discovered clinically in children under the age of five,but it is an even grimmer(残酷な) fact that significant numbers of such grouths(腫瘍) are present at or before birth.
 即ち、発癌物質は、妊娠中の母親の胎盤を貫通して、胎児の細胞を傷つけるのである。また、生後日が浅い幼児ほど発癌物質の影響を受けやすく、発症率が高い。

 一方で、私たちの身体は、過剰な蓄積物に対して防御機能を備えている(a built - in - protection)が、この機能が皮肉にも、更なる発癌物質を生みだしてしまうという。
....the liver acts to keep a proper balance between male and female hormones.....and to prevent an excess accumulation(蓄積) of either. It cannot do so, however, if it has been damaged by disease or chemicals, or if the supply of the B-complex vitamins has been redused.化学物質によって肝臓 の機能が低下すると、同時に発癌を抑えるビタミンBが減少してしまう。This, too, is extremely important, for other chains of evidence show the protective role of these vitamins against cancer. ビタミンBが失われると、女性ホルモンであるエストロゲン(oestrogens)は異常な高レベルとなり、肝臓はもはや血中エストロゲンの値を下げることが出来なくなる。こうしてエストロゲンは発癌物質化(carcinogenic level)する。

 動物実験の結果、ビタミンBを多く含む餌を与えられていたグループでは癌の発症が抑えられたという。
Test animals exposed to a very potent chemicals carcinogen developed no cancer if they had been fed yeast(イースト菌、酵母菌), a rich source of the natural B vitamins.

The chemical agents of cancer(発癌作用のある化学物質) have become entrenched(根付く) in our world in two ways : first, and ironically, through man's serch for better and easier way of life ; second, because the manufacture and sale of such chemicals has become an accepted part of our economy and our way of life.
しかし....But for those not yet touched by the disease and certainly for the generations as yet unborn,(まだ生まれてない次の世代の為に) prevention is the imperative need(必ず予防策を講じなければならない).

kei_tobiyama at 16:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!