東西南北

戦後の日本における確定死刑囚について、実名で紹介するサイトです。 第1弾としては、圧倒的な少数派である女性の死刑確定囚に関して紹介します。 第2弾としては、少年法のベールにつつまれている20歳未満の少年死刑囚について紹介します。 第3弾としては、何歳まで執行されると規定にない高齢の死刑確定者、ここでは70歳以上で執行された死刑囚について紹介します。

2013年07月

  少年死刑囚40番目は、永山則夫(犯行当時19歳)。警察庁指定108号事件、いわゆる連続射殺魔事件である。
  永山は1968年10月上旬に米軍横須賀基地で盗んだ小型ピストルで、4件の殺人事件を起こした。
  1968年10月11日午前0時50分頃、東京プリンスホテル本館脇にあるプールサイドで、警備中のガードマン中村公紀さん(27)を至近距離から撃って射殺。
  同年10月14日午前1時30分頃、京都市東山区の八坂神社境内の本殿前で警備員の勝見留次郎さん(69)を射殺。
  同年10月26日午後11時過ぎ、北海道函館市に近い亀田郡七飯町の路上でタクシー運転手の斉藤哲彦さん(31)を射殺し、売上金約9000円を奪った。
  同年11月5日午前1時半頃、名古屋市港区七番町の路上でタクシー運転手の伊藤正昭さん(22)を射殺し、現金約7000円と腕時計を奪った。
  その後、永山は東京・新宿でボーイとして働いたりしたが、1969年4月7日午前1時20分頃に東京都渋谷区千駄ヶ谷の「一橋スクール・オブ・ビジネス」に空き巣に入った。警備会社の社員が急行してきたため、ピストルを発射して逃走した。通報を受けた警視庁代々木署の警官が、午前5時頃に北参道を歩いていた永山を発見し職務質問したところ、胸ポケットのピストルを見つけて、緊急逮捕となった。
  永山は北海道網走市呼人番外地生まれで、8人兄弟の7番目だった。父親が博打に手を出し、母親の行商で生活する日々だった。永山が5歳のとき、母親が8人のうち永山たち4人を残して青森県北津軽郡板柳町の実家に行ったために、港で魚を拾って暮らすような生活を送った。その後福祉事務所からの連絡で永山たちも板柳町に引き取られた。
  板柳町で貧しい生活を送った永山は1965年3月の中学卒業後、東京へ集団就職した。フルーツパーラーや米店、クリーニング店、牛乳販売店などに勤めたが長続きしなかった。その間、貨物船無断乗船事件、食肉店での盗難未遂事件、米軍横須賀基地侵入事件などを起こして少年鑑別所に収容されることもあった。そして、連続射殺魔事件へとつながることになる。
  永山の裁判は長引いた。裁判で「事件が起きたのはおれが無知だったからだ。無知だったのは貧乏だったからだ」などと発言し、弁護団をたびたび解任するなどの法廷闘争もあったため、一審判決までに約10年を費やすことになった。
  1979年7月10日東京地裁は死刑判決。1981年8月21日東京高裁は一審判決を破棄し、無期懲役に減刑した。東京高裁の船田三雄裁判長は永山の情況を再検討し「出生以来きわめて劣悪な生育環境にあり」「愛情面においても経済面においてもきわめて貧しい環境に育ってきたのであって」「被告人は犯行当時19歳であったとはいえ、精神的な成熟度においては実質的に18歳未満の少年と同視し得る状況にあった」とその理由を述べた。控訴中の1980年12月に文通していた女性・和美と獄中結婚し、獄中で著述した書籍の印税を被害者に贈って慰謝の気持ちを表していることも減刑すべき有利な事情とした。
  検察は死刑判決を求めて上告した。1983年7月8日最高裁は高裁判決を破棄差戻しとした。86年4月に妻の和美と離婚。
  1987年3月18日東京高裁は死刑を宣告した一審判決を支持して、永山の控訴を棄却する判決を下した。判決では4人を射殺した罪質、重大性をかんがみると死刑をもって重すぎないとした。閉廷直後、永山は「戦争になりますよ。爆弾闘争で死刑廃止を」などと繰り返し、退廷させられた。1990年4月17日最高裁は上告を棄却、永山の死刑が確定した。
  1997年8月1日午前10時39分死刑執行。享年48歳。
  永山の著作は16冊ある。処女作『無知の涙』のほか、『人民を忘れたカナリアたち』『愛か―無か』『木橋』『捨て子ごっこ』『なぜか、海』『異水』『永山則夫の獄中読書日記』『華』など。印税は連続射殺魔事件の犠牲者遺族のほか、ペルーの貧しい子どもたちを支援する運動にも贈られている。
 

  少年死刑囚39番目は渡辺清(最初の犯行当時19歳)。売春婦等4人連続殺人事件である。
  渡辺を少年死刑囚とカウントしていない書籍も多い。最初の2件は19歳で起こしたが、後半の2件は成人後起こしている点からも、少年死刑囚の範ちゅうに入らないとされているようである。ここでは、19歳で殺人事件を起こした渡辺については、少年死刑囚に数えておくことを、ご承知おき願いたい。
  土木作業員だった渡辺は、1967年4月24日深夜に愛知県内のホテルで売春婦(36)と口論のあげく、彼女を絞殺して現金約3万円を奪って逃走した。同年8月5日に大阪府内で通りがかった男娼(26)をナイフで刺殺し、所持金200円を奪った。
  その後、渡辺は窃盗事件等を起こして逮捕され、約1年間中等少年院に入所させられた。
  出所後の1972年4月10日、大阪府内で売春婦(39)と性交後に「金がない」言ったところ詰問されたために絞殺し、現金約2000円等を奪った。さらに、1973年3月20日に大阪府内で売春婦(40)と性交後絞殺し、現金2万2000円を奪った。
  1975年8月29日大阪地裁は求刑死刑にたいして無期懲役判決を下した。最初の犯行当時未成年だったことや、計画性がなかった点などが死刑回避の理由であった。量刑不当で検察が控訴し、1978年5月30日大阪高裁は死刑判決を下す。事件の類似性や被害者遺族の厳罰感情が理由とされた。
  最高裁での審理中、最高裁の調査官が1967年の男娼の殺害については無罪、72年の事件についても審理のやり直しを主張。判事のひとりがこれを支持したために、審理が一時ストップ。高裁判決から10年後の1988年6月2日に最高裁は上告を棄却し、渡辺の死刑が確定した。
  渡辺は1967年と72年の2件の事件に関して無罪を主張し、現在も再審請求を続けている。今年65歳を迎えるはずである。

   少年死刑囚38番目は、黒岩恒雄(犯行当時19歳)。正寿ちゃん誘拐殺人事件である。
  1969年9月10日の朝、東京都渋谷区の質店経営、横溝正雄さんの長男で広尾小学校1年生の正寿ちゃん(6)が登校中、若い男に誘拐された。男は正寿ちゃんが歩道橋を降りるところで後ろから声をかけ、振り向いた正寿ちゃんの腹部を殴り、泣き出した正寿ちゃんを抱き、ランドセルを投げ捨てて逃走した。現場を見かけた小学生が学校へ連絡。
  学校から緊急連絡を受けた横溝家は渋谷署へ通報。誘拐事件とみた渋谷署は横溝家の電話に逆探知装置を設置した。同日の深夜に犯人から横溝家に電話がかかり、「ガキは預かっている。500万円を用意しろ。警察に知らせると生きちゃいないぜ」と身代金が要求された。
  身代金要求の電話があった直後の11日午前0時ころ、渋谷署の前を通行している不審な人物に警官が職務質問したところ、持っていた紙袋から正寿ちゃんのものと思われる靴の片方を発見。男を厳しく追及したところ、正寿ちゃんの誘拐を自供、緊急逮捕となった。正寿ちゃんは渋谷駅の手荷物一時預かり所のカバンの中から、遺体で発見された。
   長崎県出身の黒岩は5人兄弟の末っ子で、出来の良い兄たちへのコンプレックスをかかえていた。子どものころから「グズ、のろま」などといじめられて育ち、同級生からのいじめが原因で高校を中退。パチンコ店やガソリンスタンドなどの職を転々とし、その後上京。自分をいじめた相手50人の名前を書いた復讐リストを作り、また200人あまりの女優をリストアップして、それぞれの人気に応じた身代金リストまで作成していた。いつか格闘技を身に着けて、自分をいじめた相手に復讐するのが夢で、そのためには大金が必要だった。
  テレビの「ザ・ガードマン」や吉展ちゃん誘拐殺人事件を参考に犯行を計画。渋谷で大きな質店を経営している横溝家に目をつけた。誘拐後、正寿ちゃんを公衆便所に連れ込んで口にテープを貼り付けたりしたが泣き叫んで暴れたため、クリ小刀で心臓をめがけて突き刺して殺害。遺体をオープンケースに入れて運び、渋谷駅の手荷物一時預かり所に預けていた。
  1972年4月8日東京地裁で死刑判決。76年7月20日東京高裁で控訴棄却。77年12月20日最高裁で上告棄却となり、黒岩の死刑が確定した。
  1979年10月(日付不明)に黒岩の死刑が執行された。享年29歳。

  少年死刑囚37番目は、菅野純雄(犯行当時19歳)。
  宮城県角田市に住む無職の菅野は、日頃から自らの性欲を満たすべく女性を物色していた。1969年9月1日、宮城県亘理郡山元町の町道で帰宅途中の東北大学職員・斉藤きぬ子さん(20)に出会い、背後から左手を斉藤さんの首に巻付けて後方に引き寄せ、携帯していた小刀で背中を十数回突き刺してから強姦。出血多量で斉藤さんを死亡させて逃亡し、民家の物置に隠れたが、3日後に逮捕された。なお、菅野は強姦致傷事件により保護観察中の身であった。
  1971年1月28日仙台地裁では死刑の求刑に対して無期懲役判決。71年8月2日仙台高裁は、逆転死刑。72年6月27日最高裁は菅野の上告を「計画的で反省もない」として棄却、死刑が確定した。
  菅野の死刑は1976年(月日不詳)に宮城刑務所で執行された。享年は26歳と推定される。

  少年死刑囚36番目は、松本二三男(犯行当時19歳)。
  松本は鉄工所の工員だった。実家の母らと会うために着る服や土産等を購入する金がなく、以前に客として出入りしたことがある栃木県那須郡烏山町の呉服屋に強盗に入ることを計画。
  1968年12月28日午後10時頃、その呉服屋に客として赴き、応対に出た店主の妻(31)に、靴下を注文したが足袋を出したと文句を言って口論となり、片刃の裁ち鋏で妻を数回突き刺して殺害。靴下を取りに店舗の2階に上がっていた主人(39)の顔面や頸部を同じ鋏で何度も突き刺して殺害。これらを見て泣き出した妻のいとこの長女(3)の後頭部等を突き刺して殺害。店の現金5000円とネクタイピンセットを奪って逃げたが、69年1月9日に逮捕された。
  1970年11月11日宇都宮地裁で死刑判決。1971年6月14日東京高裁で控訴棄却。最高裁へ上告したが、71年8月17日に上告を取り下げて、死刑が確定した。
  松本の死刑執行年月日は不明であるが、東京拘置所では1972年5名、73年1名、74年1名、75年8名が死刑の執行を受けている。

  少年死刑囚35番目は、笹沼充男(犯行当時19歳)。東京都下であった美容師殺人事件である。
  東京都北多摩郡大和町で飲食店を経営していた笹沼は、1967年1月26日、美容師・富河よし子さん(28)を自分の母親に紹介するからと車で誘い出した。栃木県矢板市の人里はなれた道路に車を止め、富河さんの首を手で絞め、さらに車のハンドルカバーで二重に巻きつけて絞殺。富河さんの所持していた現金約1万3000円と腕時計、指輪等が入ったハンドバックを奪って、遺体をトランクに詰めて運び、小金井市内の玉川上水に捨てた。富河さんの遺体は6月5日に発見され、笹沼は6月14日に逮捕された。
  笹沼は前年の夏に27歳と歳を偽って富河さんと交際を始め、結婚をエサに富河さんから60万円を借金していた。その後、富河さんから結婚をしつこく迫られたために殺害したと供述。
  1968年2月7日、一審の東京地裁八王子支部は死刑の求刑に対して、笹沼に無期懲役判決を下した。しかし、検察は量刑不当として控訴。
  1968年4月8日未明、笹沼は八王子医療刑務所八王子拘置支所(八王子市明神町)から脱走。警視庁は加重逃走容疑で全国に指名手配した。脱走した笹沼は大和町の知人が経営している酒屋に同日午前5時半に「仙台まで行きたい。金を貸してくれ」と訪れて、1000円を借りて立ち去っていた。その後、同日午後9時に八王子拘置支所の雑居房で一緒だった立川市に住む仲間を訪ねたところを、張込中の捜査一課員に逮捕された。
  逮捕された笹沼は「検事控訴になったので死刑になると思った。どうせ死ぬなら静かなところで死にたいと思い脱走した」と動機を述べた。自供によると、8日午前3時ごろ実弟が月刊誌にはさんだ金ノコで鉄格子4本を切り、シーツと毛布をより合わせた長さ10.6メートルのロープで建物の5階から降りて脱走。通りがかったトラックに便乗して、大和町へ向かい、知人の酒屋へ。自首を勧められたが、暗くなるまで茶畑に隠れていた。村山団地で盗んだ自転車で立川の拘置支所仲間の職場に向かったが、笹沼と見抜かれて警察に連絡され、結局逮捕となった。なお、弟との連絡にはメシ粒を水で練ったもので書いた文字を、後でヨードチンキであぶりだすという方法をとっていたことがわかった。
  1969年5月13日、検察控訴を受けた東京高裁で笹沼に逆転死刑判決が下った。富河さん殺しに、加重逃走罪が加わったことが判決に微妙な影響を与えたことは想像できる。1970年8月20日最高裁は上告を棄却、笹沼の死刑が確定した。
  笹沼の執行年月日は不明であるが、東京拘置所では1971年5名、72年5名、73年1名、74年1名が死刑執行されている。

  少年死刑囚34番は片桐操(犯行当時18歳)。少年ライフル魔事件である。
   片桐は1947年4月15日生まれで、東京世田谷区に住む4人兄弟の末っ子だっだ。小学生時代から銃や兵器が好きで軍事月刊誌『丸』を愛読していた。成績はよくなかったが、体格はよかった。中学卒業時には自衛隊を受けたが、試験に落ちた。自動車修理工見習い、タンカーのコック見習いなどを経験して、18歳の誕生日を迎えた。片桐はこの日から40日間の有給休暇を取り、満了後に家族に内緒で退職。
   1965年7月29日の午前11時頃、片桐は神奈川県高座郡座間町の山林で空気銃で雀を撃っていた。子どもが銃を撃っているという110番通報が大和署にあり、田所康雄巡査(21)が急行したところ、片桐を発見。田所巡査に呼び止められた片桐は田所巡査に銃を発射し、胸に命中させた。田所巡査は銃を発砲しようとしたが、片桐は銃の台尻でこれを振り払い、巡査は絶命。片桐は田所巡査の制服、警察手帳、ピストルを奪った。
  現地にパトカーで到着した谷山幸広巡査(27)、菅原紀夫巡査(23)が倒れている田所巡査を発見すると片桐が2人にピストルを撃ち、弾は菅原巡査の腹部に当たった。
  警官になりすました片桐は、現場近くの宮坂福太郎さん(33)方を訪れて「犯人を追っているので車を貸してほしい」と頼み乗車、町田方面へ。町田で車を止められると、片桐は宮坂さんを人質に逃げ、今度は通りがかった谷川英雄さん(30)の車に乗り換えた。
  川崎市稲田堤で谷川さんの車から別のライトバンに乗り換え、谷川さんに運転させた。さらに小金井公園でセドリックを同車に乗っていた男女ごと奪い、谷川さんに運転させ、渋谷へ。
  午後6時過ぎ渋谷区北谷町の「ロイヤル鉄砲火薬店」で車を降りた片桐は、同店の店員ら4名を人質に、包囲した警官隊と約1時間20分にわたり銃撃戦を展開。山手線はストップし、多数の警官や通行人、報道記者等に対して合計100発以上発射し、16名を負傷させた。警察の催涙ガス攻撃で2人の女性を盾にして店から出たときに、警官が体当たりして逮捕された。
  警察での取調べで片桐は「色んな銃を撃ちまくることができて、たまっていたものを全部吐き出せスカッとした気分だ。どうせ刑務所に入るんだろうから、代わりにベトナムに行きたい」などと述べた。
  1967年4月13日横浜地裁は死刑の求刑に対して無期懲役判決。判決の中で、「少年は当時18歳だったうえ、家庭の放任主義、社会の俗悪小説などの影響が十分に見受けられ、これが少年の空想をかきたてる原因だったと思われる」と、社会にも責任の一端があるとした。
   68年11月12日東京高裁は「人格のひずみによる残虐さは矯正出来ない」として、死刑判決。69年10月2日最高裁は片桐の上告を棄却し、死刑が確定した。
  1972年7月21日、東京拘置所で片桐の死刑が執行された。享年25歳。教誨師に「ぼくのような人間が、この社会から2度と出ないように、この最後のつらさ、苦しさの心境だけは若者たちに伝えてください」と語ったといわれる。

  戦後少年死刑囚32番目は、水尻隆幸(犯行当時19歳)。
  釧路市でバーテン見習いをしていた水尻は、パチンコ代や防寒用の衣類代が欲しくて強盗を計画。かつて利用したことがある雑貨店に現金があるのではと目をつけた。
  1963年11月6日午前1時頃、釧路市大楽毛の雑貨商に押し入る。金品を物色中に就寝中の雑貨商店主人・中村松太郎さん(74)が寝返りをうったことから頭を手斧で数回強打して殺害。気配で目覚めた妻・しげさん(60)の頭も手斧で数回殴って殺害。現金1万8000円と約30万円の預金がある通帳、腕時計等を強奪して逃走した。
  1964年4月27日、一審の釧路地裁は水尻が未成年であったこと(犯行10日後で成人となるところであった)などを考慮して、無期懲役の判決。65年4月22日札幌高裁で逆転の死刑判決。66年2月4日最高裁は水尻の上告を棄却し、死刑が確定した。
  水尻は1967年(月日は不明)に死刑執行された。享年は23歳または24歳であったと推測できる。
                   *
  少年死刑囚33番目は、堀江勇(同19歳)。
  堀江は新潟県南蒲原郡出身で、中学卒業後に工場に勤務。その後、神奈川県厚木市の建設業・内藤芳三さん(34)宅で大工見習いとして2年前から同居していた。しかし、内藤さんにいつも叱られ、家族にも冷たくされていると恨みを持っていた。
  1964年10月25日、内藤さん宅の2階で就寝中の内藤さんの小学4年生の長男・博行くん(9)、小学2年生の長女・道子さん(7)の頭を次々と大工道具の玄能(金槌)で殴って殺害。さらに戸締りのために2階に上がってきた内藤さんの妻・トヨさん(33)の頭を同様に玄能で数回強打して殺害。その後、帰宅した芳三さんの頭も背後から玄能で殴ったが逃げようとしたため、薪割りでめった打ちにして殺害し、現金21万円と郵便貯金通帳類18冊等を奪って逃走。四国や九州まで逃げて豪遊したが、逮捕された。
  1965年6月28日横浜地裁で死刑判決。66年5月24日東京高裁で控訴棄却。66年12月1日最高裁で上告棄却され、死刑が確定。
  1969年(月日は不明)に死刑執行。享年は24歳または25歳であったと推測できる。
  なお、堀江勇については正確な生年月日が判明しておらず、犯行当時20歳と23日目だったとしている書籍もある。この場合は、少年死刑囚の範ちゅうには入らなくなるが、当ブログでは少年死刑囚としてカウントした。


  戦後少年死刑囚30番目となるのは、小山輝夫(犯行当時19歳)。
  1958年8月7日、小山は自分の勤務先である兵庫県西宮市の自動車修理業者宅に押し入り、雇主の妻を脅かして金品を強奪しようと考えた。ところが外出中と思っていた雇主の主人が在宅していたため、主人(39)、妻(36)の2人を携えてきた海軍ナイフで頭部や胸部を刺して殺害。さらに物音で目覚めた雇主の母親(64)を同じく海軍ナイフで胸部や腹部を刺して殺害。現金1万6650円と腕時計、ズボン等を強奪して、小倉まで逃走した。所持金がなくなったため無賃乗車で戻り、警察に自首した。金遣いが荒く遊興費にことかき、金銭に窮して起こした犯行。
  1961年3月27日神戸地裁で死刑判決。1962年5月28日大阪高裁で控訴棄却。1963年2月8日最高裁で上告棄却となり、死刑が確定。
  小山の死刑執行年月日は不明であるが、大阪拘置所では1965年1名、66年1名、67年4名に死刑の執行が行われている。
                   *
  少年死刑囚31番目は、平徹雄(同19歳)。
  平は熊本県熊本市大江町九品寺で写真現像店を営業していたが商売がうまくいかず10万円の借金を抱えていた。父親は平を厳しく育て、中学までは成績優秀で読書好き、生徒会長を務めるまでであった。しかし高校入学後グレて、本を万引きして中退、写真現像店をはじめることになった。借金を返すために平が考えたのは強盗だった。そのために、薬局の友人から青酸カリを入手し、事件の前日に派出所へ行き警官と顔見知りになった。
  1961年5月31日深夜、巡査(23)に青酸カリの入ったあずきドリンク(缶ジュース)を飲ませて殺害。警官の制服を自分が着込み、ピストルと実弾、警察手帳、現金等を奪って、派出所前からタクシーに乗車した。平の様子を怪しんだタクシー運転手(24)を派出所から1.2キロの地点でピストルで射殺し、逮捕された。逮捕時の平は、事件に関して「猫を殺したのも同じ気持ち。何も後悔していない」と供述した。平には強姦未遂、窃盗の前歴があった。
  1961年9月28日熊本地裁で死刑判決。62年6月7日福岡高裁で控訴棄却。63年5月10日最高裁で上告棄却となり、死刑が確定。
  1969年11月18日、福岡拘置支所で平徹雄の死刑が執行された。享年28歳。

  戦後少年死刑囚29番目になるのは、李珍宇(犯行当時18歳)。小松川事件として知られる。
  李珍宇(イ・ジヌ)は在日朝鮮人で、1940年2月28日、東京城東区(現、江東区)生まれ。亀戸の貧しい朝鮮人集落で生まれた李は、その後江戸川区上篠崎で育った。難聴で口の不自由な母親と日雇い労働者の父親、そして6人兄弟だった。学校の遠足にも行けない貧しさの中で、李はIQ135で学業成績優秀、中学校では生徒会長も務めた。一方、盗癖があり、自転車や書籍等を盗んで家庭裁判所から保護観察処分もくらっていた。
  1958年8月17日午後6時頃、李が東京都立小松川高校校舎の屋上に登ったところ、同校定時制2年の太田芳江さん(16)がひとりで読書しているのを見かける。彼女に襲いかかり、首を絞めてから強姦し、絞殺した。8月20日に読売新聞社会部に「特ダネをやろう。女を殺した…」と電話。翌21日には小松川署にも同様の電話がかかり、太田さんの遺体が発見された。
  その後も李は読売新聞社と小松川署に電話をかけたり、被害者宅に被害者のクシを郵送したりしたため、録音された声がNHKなどで一斉に放送されることになった。9月1日自宅で逮捕される。その際「とうとうやって来ましたね。やはり完全犯罪は破れましたよ…」と述べた。
  逮捕後、李は小松川事件の他、1958年4月20日に工場の賄い婦をしていた田中せつ子(23)さん殺しも自分が犯人だったと自供。このときも、自らの欲情を抑えられずに、自転車で通行中の田中さんを道路脇の田圃に転落させ、手で咽頭部や頸部を絞めて強姦、さらに頸部を絞めて絞殺していた。
  1959年2月27日東京地裁で死刑判決。59年12月28日東京高裁で控訴棄却。1961年8月17日最高裁で上告が棄却され、李の死刑が確定した。この日は偶然、太田芳江さんの命日であった。
  事件の背景には貧困や朝鮮人差別の問題もあったところから、大岡昇平、木下順二、吉川英治ら文化人や朝鮮人による助命請願運動が起こったが、1962年8月東京拘置所から宮城刑務所へ移送。62年11月16日、李への死刑が執行された。享年22歳。

↑このページのトップヘ