永山は1968年10月上旬に米軍横須賀基地で盗んだ小型ピストルで、4件の殺人事件を起こした。
1968年10月11日午前0時50分頃、東京プリンスホテル本館脇にあるプールサイドで、警備中のガードマン中村公紀さん(27)を至近距離から撃って射殺。
同年10月14日午前1時30分頃、京都市東山区の八坂神社境内の本殿前で警備員の勝見留次郎さん(69)を射殺。
同年10月26日午後11時過ぎ、北海道函館市に近い亀田郡七飯町の路上でタクシー運転手の斉藤哲彦さん(31)を射殺し、売上金約9000円を奪った。
同年11月5日午前1時半頃、名古屋市港区七番町の路上でタクシー運転手の伊藤正昭さん(22)を射殺し、現金約7000円と腕時計を奪った。
その後、永山は東京・新宿でボーイとして働いたりしたが、1969年4月7日午前1時20分頃に東京都渋谷区千駄ヶ谷の「一橋スクール・オブ・ビジネス」に空き巣に入った。警備会社の社員が急行してきたため、ピストルを発射して逃走した。通報を受けた警視庁代々木署の警官が、午前5時頃に北参道を歩いていた永山を発見し職務質問したところ、胸ポケットのピストルを見つけて、緊急逮捕となった。
永山は北海道網走市呼人番外地生まれで、8人兄弟の7番目だった。父親が博打に手を出し、母親の行商で生活する日々だった。永山が5歳のとき、母親が8人のうち永山たち4人を残して青森県北津軽郡板柳町の実家に行ったために、港で魚を拾って暮らすような生活を送った。その後福祉事務所からの連絡で永山たちも板柳町に引き取られた。
板柳町で貧しい生活を送った永山は1965年3月の中学卒業後、東京へ集団就職した。フルーツパーラーや米店、クリーニング店、牛乳販売店などに勤めたが長続きしなかった。その間、貨物船無断乗船事件、食肉店での盗難未遂事件、米軍横須賀基地侵入事件などを起こして少年鑑別所に収容されることもあった。そして、連続射殺魔事件へとつながることになる。
永山の裁判は長引いた。裁判で「事件が起きたのはおれが無知だったからだ。無知だったのは貧乏だったからだ」などと発言し、弁護団をたびたび解任するなどの法廷闘争もあったため、一審判決までに約10年を費やすことになった。
1979年7月10日東京地裁は死刑判決。1981年8月21日東京高裁は一審判決を破棄し、無期懲役に減刑した。東京高裁の船田三雄裁判長は永山の情況を再検討し「出生以来きわめて劣悪な生育環境にあり」「愛情面においても経済面においてもきわめて貧しい環境に育ってきたのであって」「被告人は犯行当時19歳であったとはいえ、精神的な成熟度においては実質的に18歳未満の少年と同視し得る状況にあった」とその理由を述べた。控訴中の1980年12月に文通していた女性・和美と獄中結婚し、獄中で著述した書籍の印税を被害者に贈って慰謝の気持ちを表していることも減刑すべき有利な事情とした。
検察は死刑判決を求めて上告した。1983年7月8日最高裁は高裁判決を破棄差戻しとした。86年4月に妻の和美と離婚。
1987年3月18日東京高裁は死刑を宣告した一審判決を支持して、永山の控訴を棄却する判決を下した。判決では4人を射殺した罪質、重大性をかんがみると死刑をもって重すぎないとした。閉廷直後、永山は「戦争になりますよ。爆弾闘争で死刑廃止を」などと繰り返し、退廷させられた。1990年4月17日最高裁は上告を棄却、永山の死刑が確定した。
1997年8月1日午前10時39分死刑執行。享年48歳。
永山の著作は16冊ある。処女作『無知の涙』のほか、『人民を忘れたカナリアたち』『愛か―無か』『木橋』『捨て子ごっこ』『なぜか、海』『異水』『永山則夫の獄中読書日記』『華』など。印税は連続射殺魔事件の犠牲者遺族のほか、ペルーの貧しい子どもたちを支援する運動にも贈られている。