先日、ある団体の会合で、このブログを読んでいただいた方から声を掛けていただきました。フィードバックをいただくことは、何よりも励みになることです。今日、こうやってパソコンに向かう気になったのも、そのときの会話がきっかけです。

働くことと人生の関係

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さて今回は、最近話題の「働き方」について、少し違った角度から考えてみたいと思います。

よく、経営者は労働者を「働かせる」、労働者は「働く」という言い方をすることもありますが、ここでは、経営者については、労働者を雇って事業をすることを以て「働く」、労働者は経営者に雇用されて「働く」ということで、どちらも「働く」という言葉で話を進めます。

この定義で考えると、よく経営者は「仕事は、自分の人生そのもの」という方が多くいます。一方で、私自身は、このような言い方をするサラリーマンに出会ったことはありません。ざっくり言うと、労働者にとって働くことは「生きるための手段」であるという考え方です。つまり、労働者には、働くことのほかに人生があるということになるのではないでしょうか。

たしかに、会社の方針や上司の命令、今どき流行りの「忖度」など、自分の意思に合わない行動を強いられがちな労働者にとっては、仕事こそ自分の人生とは思いたくないという気持ちもよくわかります。職場でのセクハラやパワハラ、マタハラなど、多くの我慢を強いられる現実を考えても、仕事は我慢するもの、人生は別なところにあると考えるのも、もっともです。

一方で私は、このよう考え方、つまり仕事は人生を生きるための手段とする考え方には、人生をつまらないものにしたり、過労死につながるきっかけが潜んでいるのではないかと考えました。つまり、「ここで我慢しなければ」、「ここを頑張らなければ」、「ここを乗り切らなければ」、自分の本当の人生を豊かにする何かを失うのではないかという漠然とした不安が、自分の意に反して無理を重ねる行動につながるのではないでしょうか。

昭和時代の仕事観を改めるとき

最近思うのですが、「昭和時代」は、もう歴史の教科書の1ページになるのかもしれないのに、私たちは、その時代の倫理観にいまだにとらわれて、新しい働き方、職業観、労働市場を築けずにいるように思います。

残業、休日出勤、出張、転勤、単身赴任など、企業にとっては高度成長と同時に脳裏に刻み込まれ、企業の成果・成長=f(長時間労働、出張、転勤、単身赴任....)などという、後から考えてみると成立しそうもない関数を生み出した時代です。この時代の仕事観が、日本企業の成長と同時に我々のメンタルモデルに刻み込まれているため、昭和時代を経験した平成時代の経営者にとって、過去の仕事観の負の部分の払拭に時間がかかっているのだと思います。

団塊の世代が支えられる側に回る時代が目の前に来ています。この時代は、少なからぬ数の団塊ジュニアの方々が、育児と介護のダブルパンチに見舞われる可能性を示唆しています。仕事と人生を切り分けて考えられない時代が来るということではないでしょうか。明らかに、「仕事一筋」に代表される昭和の時代の仕事観のままでは、経営者の皆様は、ひと括りで部下を評価をできない時代が目前に迫っていると言えるでしょう。

職場は我慢の場から自己表現の場にしよう

以前、ベルギー人の友人と品川で久しぶりの乾杯をしたときのことです。品川のその酒場は、サラリーマンのグループで満席でしたが、そこでの会話が、あまりに大声であることに閉口しました。友人曰く、「日本人は会議では全く発言しないのに、飲み会の席では、上司の批判や仕事中の出来事についての大声の会話がうるさい!」

会議(職場)は、「波風立てずに乗り切る、安定した報酬を得るための場」で、夜の飲み会は、「自分の気持ちの発露の場」、つまりうっぷん晴らしの場というわけですね(笑) 。たしかに、どこで飲んでも、隣のグループの声の大きさは耐え難いものです。私の感覚では声の大きさに女性、男性に差はありません。それだけ人生の手段の場では、我慢しているひとが多いという証なのでしょうか。

皆さんは、飲み屋で大声で話すほうですか、それとも静かに会話を楽しみたいほうですか?(2018.6.10 山下記)