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グレイスランド&蔭山敬吾のブログ

2008年06月

 日本経済新聞の「私の履歴書」(朝刊の最終面・文化面にある有名なコラム欄。各界の著名人自身の書き下ろしによる自伝を毎回連載)を読んでいると、「神の手」が働いていることがよく分かる。著名人それぞれの人生の中で、偶然ではあるのだがとても偶然とは思えないような不思議な出来事が必ず数回起きていて、その偶然がその人の運命を大きく左右しているのだ。その「偶然ではあるのだがとても偶然とは思えないような不思議な出来事」というのが、僕がいうところの「神の手の働き」なのだ。
 この「神の手の働き」は、何も著名人にだけに起きているわけではなく、このブログの読者の方も、これまでの人生を振り返ると、不思議な出来事が起きていて自分の運命を変えていることに気付かれるはずだ(そもそも私たちの父と母が偶然に出会い、私たちが生まれてきていること自体が不思議な出来事なのだが)。
 一一というようなおかしなことを書いているのも、この「広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか」の連載のために、先週、僕が2歳上の兄貴一一この兄貴は、拓郎さんのお母さんを電話で怒鳴ったことで、拓郎さんに覚えられた、という変な“経歴”を持っている。というのは、拓郎さんや僕や広島フォーク村のメンバー十数人で東京にレコーディングに行っていたときに、広島に帰るのが予定よりも遅くなり、拓郎さんが家に帰ってこないので心配になったお母さんが、毎晩寝静まった頃に「あなたの家の敬吾さんは帰られましたか?」と電話をしてくるので、業を煮やした兄貴が「敬吾もまだ戻っとらんです。ほじゃが、拓郎さんも敬吾もはー大学生なんじゃけ、心配せんでもえーですよ。毎晩毎晩、電話で起こされて、えー迷惑じゃけ、はー、電話かけてきんさんなや!」と怒鳴ったのだ一一に取材メールをして、不思議なことが分かったからだ。
 兄貴のメールは次の通りだ。

● ギターの件、下記の様でした。
・ギターを買った時期一一ワシが高校を卒業した3月位に「やまひろ」と言う
 アイスクリーム屋でアルバイトをした給料で、ギターとスラックスを買っ
 たんよ(クラッシクギターだったらしい)。それをいつの間にか敬吾が、自
 分の物にしてしもーたんヨ。最後ごろは、何か!赤や緑のペンキを塗っとっ
 たデー!!(何を持たせても荒い!)……だから、高校1年位の時じゃろー?
・朝日ソノラマの件一一朝日ソノラマのことは覚えてない。ギターを買ったと
 き、初心者用の本も一緒に買って、その本を見て、ワシは出窓の所でよく「漕
 げよマイケル」を練習してました。また、それを敬吾が横取りし、加山雄三
 の「旅人よ」とかを弾いていたデー!?

 このメールでわかった不思議な点は、そんなに音楽が好きでもなかった兄貴がなんでギターを買ったのか、ということと、初心者用の本(おそらくギターのコードが出ていたに違いない)まで買っていたのか、ということだ。高校を卒業したときのアルバイトの給料といえば、普通は遊びのための軍資金にするだろうし、色気づいている年齢だからスラックスだけでじゃなくて、シャツなども買うはずだ。それなのに、なぜギターを買ったのか。僕の記憶では、そのとき兄貴は、たしか3千円で買ったと言ったから、バイト料の半分ちかくをギターに使ったことになる。
 そのようにして、僕はまずギターを“手に入れた”。当時を振り返ると、ギターを手に入れた後に、もう一つ僕には不思議なことが起きている。なぜか、朝日ソノラマの「PPMフォロワーズ」を入手しているのだ(上記の兄貴のメールにあるように、入手経路は不明)。
 この「PPMフォロワーズ」のソノシートによる「音楽の魔法」の体験の興奮はいつまでも忘れない。
 「PPMフォロワーズ」のソノシートというのは、正確には、朝日ソノラマの「小室等とPPMフォロワーズによる、PPM(ピーター・ポール&マリー)のギター教則本+ソノシート」のことだ。ペラペラの赤い盤(ソノシート)をプレイヤーにかけるとピーター・ポール&マリーの曲のギター・パート
だけの音が出て、それを聴きながら、教則本を見ながらギターの練習をするのだ。
 兄貴が買っていた本のお蔭で、左手によるギターのコードの押さえ方は知っていた。教則本には右手の弾き方が書かれていた。親指と人指し指と中指の3本だけを使って弾く奏法だった。3本の指だけによる奏法だから「スリー・フィンガー奏法」だと書かれていた。本を見ながら左手でコードを押さえながら右手の3本の指をゆっくり動かしていくと、少しずつ「らしい」音が出た。毎日繰り返していると、左手のコードチェンジもだんだん速くできるようになり、右手の3本の指もスムーズに動くようになっていった。練習していた曲は「ドント・シンク・トゥワイス・イツ・オーライト」(ボブ・ディランの曲をピーター・ポール&マリーがアレンジしてヒットさせた、当時のフォークソング・ブームの代表曲)だった。
 そしてある日、「ではカポタストを3フレット目にして、ソノシートの演奏に合わせて弾いてみましょう」ということが書かれているページになった。初めてカポタストをはめて、弾いてみた。そうしたら、なんと!僕の(兄貴の)全音のクソギターが、ソノシートと同じ音楽を奏でたのだ。ぶったまげた。一瞬にして、自分がフォーク・ギタリストになったような気がした。

 拓郎さんが「何か弾いてみろ」と言ったとき、僕はすかさずカポタストを取り出して、全音のクソギターにはめて、「ドント・シンク・トゥワイス・イツ・オーライト」を弾いた。弾き終えたら、拓郎さんが「弾けるじゃないか、習わなくてもいいよ」と言った。すごく嬉しかった。
 僕はすぐに拓郎さんに言った。「スリーフィンガーじゃなしに、リズムギターを教えて欲しいですが。ただ、お金がないけ、授業料払えんのですが、なんとかしてもらえませんか……」
 「わかった、えーよ、払わなくて。遊びに来いや……ちょっとこっちへ……」と拓郎さんが言うので着いていくと、隣の部屋にギターを持った大学生風の男性がいた。拓郎さんがその男性に言った。
 「白髭、来週から、この蔭山が来るから、俺の教室が終わるまでこの部屋で二人でギター弾いてろ」

※以下続く(次回は、吉田拓郎直伝のリズムギター奏法を公開します。お楽しみに)





 僕は、小説「ナーバス・プロデュース」(広島の2流の大学を出た若者が大手のレコード会社に入り、上京し、コンプレックスと東京と音楽業界に苦しみながらも、拓郎さんの応援を受け、なんとか愛奴、浜田省吾をデビューさせていく物語)の前半で、このコンテストのことを次のように書いている。
 
 コロムビアのフォーク・コンテストを観ていたときに、僕は自分の心の中に太陽のようなものが生まれたことを感じた。そして、僕の青春がにわかに緑色に輝き始めたことをはっきりと意識した。魂から熱いエネルギーが溢れ出て、若い血液とともに体全体に流れ始めたのだ。僕は高校2年生だった。
 太陽のようなものが魂の中心に生まれたのは、少しうつむきかげんで恥ずかしそうにステージに登場した「モッズ」が、課題曲の1曲「花はどこへ行ったの」を演奏し始めた瞬間だった。
 「モッズ」が登場するまでに見た出場者たちは、選んだ課題曲こそ違っていたが、半袖の白い開襟シャツに黒い学生ズボンもしくはスカート、というその服装(演奏衣装)に似て、演奏スタイルも、フィンガリング奏法(アルペジオ奏法とも。クラシックギターの奏法のように、4本の指先の爪を弦に当てて音を出す)か、なにか腫れ物を触るような感じでピックを6本の弦に当てているとしか思えないようなストローク奏法によるギター伴奏をしながらの「歌声喫茶的歌唱」、というワンパターンだった。
 「モッズ」は、それまでの出場者たちとはなにもかもが違っていた。なによりもまず見かけがカッコよかった。長髪で、背が高くて、細身で、足が長くて、色が白くて、サングラスが似合う形の顔をしていた。ただ、その程度のカッコいい若者なら、街の通りやジャズ喫茶の前や楽器店などで見かけたことがある。「モッズ」にはそうしたファッション的なカッコよさとは別種の、ギターで弾き語りしながら生きていくように生まれついた者だけが持っている、ミュージシャン独特のカッコよさが備わっていた。そのまま洋楽音楽雑誌の『ミュージックライフ』に出ていても違和感がないように思えた。
  「モッズ」が課題曲の「花はどこへ行ったの」のイントロを弾き始めると、一瞬にして、「モッズ」のファッションのことなどはどうでもよくなるようなエモーションが場内に満ちあふれた。それまではざわざわしていた観客席が静まりかえり、観客全員の意識が「モッズ」に集中した。「モッズ」が出るまでは、
落ち着きがなくしきりと体を動かし、口元をもぐもぐさせていた審査員(後に、広島フォーク村のアルバムの東京でのレコーディングのときにディレクターを務めることになる浅沼氏)も体の全部の動きを止めて、「モッズ」の演奏に耳を傾けていた。

 小説で書いている「モッズ」とは拓郎さんのことだ。拓郎さんはストローク奏法でギターを激しくかき鳴らし、細身の体をよじりながら「花はどこへ行ったの」をシャウトしながら歌い続けた。良い声だった。ハスキー気味なのに甘くてやさしい声だった。グルーブ感にあふれたリズムギターが鳴り続け、ギターのリズムに乗りながらヴォーカルが続いた。僕はすごく気持ちよくなっていた。刑務所の前の貧しい家のことも、お金がなくて恋人をつくれないやるせなさも、高校の青春を味わえていない焦りも、なにもかもすべて忘れて、別の世界に入り込んでいた。そこは、ラジオでビートルズなどを聴きながら行ってたところと同じ世界だった。
 拓郎さんの演奏を聴きながら僕は決心した。この人のところに行こう!この人にギターを教わろう!
 
 その日が来た。僕は全音の最悪の最低のクラシック・ギターを抱えて家を出て、バスで八丁堀まで行き、天満屋裏のカワイ・ショップに入った。エレベーターで5階に行くと、小さな教室のドアが開いていて、教室の中に拓郎さんと白髭さんがいた。拓郎さんが白髭さんにギターを教え終えたところだった。
 僕は勇気を出して、拓郎さんに言った。
 「ギターを教えて欲しいんですが」
 拓郎さんは僕の目を見て「ギター持ってきてるじゃないか、何か弾いてみろ」と言った。

以下、続く

 この10曲を見ると、拓郎さんを知っている人なら誰でも、「この課題曲の中からだったら、拓郎さんは『風に吹かれて』を選んだに違いない」と思うだろう。しかし、拓郎さんが選んだのは「花はどこへ行ったの」だった。なぜか?
 その理由は、拓郎さんはこのコンテストで優勝したかったからだ。優勝するためには(勝ち抜くためには)、競争相手より抜きん出たことをして、それを成功させて、他の出場者より自分が優れていることを審査員にアピールし、認めさせなければならない。
 その当時の拓郎さんは、まわりのアマチュアミュージシャンと比べて自分が抜きん出ているものは、ギターのストローク奏法(リズムギター)だ、ということを強く認識していたに違いない。自由曲での、オリジナル曲「土地に柵する馬鹿がいる」がそれを証明している。というのは、このオリジナル曲は4分の5拍子でつくられている。例のデイブ・ブルーベックの「テイク・ファイブ」のあのリズムだ。つまり、あのリズムをストローク奏法で刻みながら「♪土地に柵する馬鹿がいる〜」と歌っているのだ。そんなことができるアマチュアミュージシャンは現代でもいない。拓郎さんとしては、このリズムを刻みながら歌えば、必ず審査員の興味を引くことができるだろう、と考えたに違いない。
 「花はどこへ行ったの」を選んだのも「土地に柵する馬鹿がいる」と同じ理由だ。自分のリズムギターの上手さを審査員にアピールするためだ。「風に吹かれて」は、ミディアムテンポの「トンチャン・トカチャン」というシャッフル・ビートなので、どんなにリズム良く弾いても、ストローク奏法の腕前をアピールできない。だから「花はどこへ行ったの」だったのだ。この曲であれば、
エイトビートで弾ける。あの、フォークソングを代表するかのようなやさしくて美しいメロディーを、エイトビートのリズムでギターを激しくかき鳴らしながらシャウトして歌うと、審査員たちはきっと「課題曲のフォークソングを見事にロックにアレンジしている」と評価するだろう、と拓郎さんは考えたに違いない。
 またしても横道にそれるが、天才的なミュージシャンは、ここぞ、というときに、勝負だ、というときに、当時の拓郎さんがしたことと同じようなことをする。ボブ・ディランも1966年のイギリス・ツアーのときにそれをやっている。そのときディランが勝負した相手はビートルズとストーンズだった。
 ディランは自分のコンサートをビートルズとストーンズが見に来ることをマネージャーから聞いていた。イギリスに向かう前にディランは秘策を練った。
天才のジョンとポールとミックに「俺は君たちのようにポップミュージックの王様を目指してはいない。俺が目指しているのは、ポップミュージックを使って、芸術の王国に入ることだ」と宣言する秘策を。
  秘策とは、変則チューニングだった。そして、その変則チューニングで歌うのは「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」。アルバム「ブロンド・オン・ブロンド」の中の、雨に濡れたようなサウンドの名曲「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」を、ギター1本で、変則チューニング(6弦を2音下げて一一つまりCにして一一5カポで演奏 ※これは岡崎倫典に教えてもらった)で歌うことにしたのだ一一その結果はここには書かない。ぜひ自分の耳で聴いてたしかめて欲しい(アルバム名「BOB DYLAN LIVE 1966」)。
 コンテストの拓郎さんの話に戻ろう。

以下続く

♪更新する時間がないので、「吉田拓郎直伝チューニング法」を先に公開します(ただし、現在の拓郎さんがまだこの方法でチューニングしているかどうかは分かりません)。お試しください。

1.5弦3フレットの「ド」と2弦1フレットの「ド」を合わせます
 ※これで、5弦と2弦が合ったことになります。
2.4弦オープン弦の「レ」と2弦3フレットの「レ」を合わせます
 ※これで、5弦と2弦と4弦が合ったことになります。
3.4弦2フレットの「ミ」と1弦オープン弦の「ミ」を合わせます
 ※これで、5弦と2弦と4弦と1弦が合ったことになります。
4.3弦オープンの「ソ」と1弦3フレットの「ソ」を合わせます
 ※これで、5弦と2弦と4減と1弦と3弦が合ったことになります。
5.4弦2フレットの「ミ」と6弦オープンの「ミ」を合わせます
 ※これで、5弦と2弦と4弦と1弦と3弦と6弦が合ったことになります。
6.チェック1で、5弦オープンの「ラ」と3弦2フレットの「ラ」を合わせます
7.チェック2で、上記の1〜7、つまりオクターブを順に、
 「ド」と「ド」、「レ」とレ」、「ミ」と「ミ」
 「ソ」と「ソ」、「ミ」と「ミ」、「ラ」と「ラ」とチェックします

つまり、この方法は、オクターブ・チューニング方法です。
5弦の「ラ(A)」の音さえピアノなどと合わせれば、
残りの5弦は自分で全部合わせることができますし、
演奏中にトラブルでチューニングが狂っても、簡単に直すことができる訳です。

以下続く

 実は、当時(1966〜1969)の広島の音楽シーンの中心地はカワイホールだった。このホールが中心だった理由は、入場無料、ライブの時間帯が午後、高校生のバンドも出演、という3点だ。つまり、お金はないけど流行や音楽に敏感な高校生や大学生にとってみれば、理想的なホールだったのだ。ビートルズの歴史を紹介するビデオなどで、ビートルズが演奏しているのをティーンエイジャーたちがかぶりつきで見ているキャバーンクラブのシーンの映像がよく使われているが、あれに少し似た状況が生まれつつあった(一番の人気バンドはダウンタウンズで、すでにグルーピーも数人いた)。
 そのホールでのダウンタウンズのライブをよく見にいっていた高校生の一人が僕だ。僕は高校受験期に蓄膿症を患ってしまい、男女共学の公立高校の受験に失敗し、広島市内にある崇徳高校という私立の男子校で灰色の日々を送っていて、ラジオの「9500万人のポピュラーリクエスト」で洋楽を聴くことと、高校からの帰り道にレコード店に寄って、カタログやチラシなどで音楽情報を収集することだけが唯一の楽しみ、という実に情けない高校生だったが、神様はそんな高校生に、ちゃんと大切な情報を届けてくれた。
 その情報をどこで、何によって知ったのかは思い出せないが、何かに引き付けられるようにして、僕はその日、一人で見真講堂に行ったのだった。「コロムビア全国フォーク・ソング・フェスティバル フォークソングコンテスト中国地区大会」を見るために。昭和41年6月9日のことだ(後から分かったことだが、そのコンテスト会場には、後に広島フォーク村の村長になる伊藤明夫さんもいたそうだ)。
  そのコンテストの課題曲は「500マイル/7つの水仙」(ブラザース・フォア)、「風に吹かれて」(ボブ・ディラン)、「花はどこへ行ったの」(ピート・シーガー)、「グリーン・グリーン」(ニュー・クリスティー・ミンストレルス)、「キャッチ・ザ・ウィンド」(ドノヴァン)、「ターン・ターン・ターン」(バーズ)、「朝(あした)の雨」(チャッドとジェレミー)、「サウンド・オブ・サイレンス」(サイモン&ガーファンクル)、「こげよマイケル」(ハイウェイメン)、「リヴァプールを離れて」(クランシー・ブラザース)の計10曲だった。
 拓郎さんが選んだのは「花はどこへ行ったの」だった。拓郎さんはこの課題曲を演奏するにあたってアイデアを考えていた。

以下続く

 もう一つのギター教室はカワイショップ(河合楽器の店)で行われていた。カワイショップは、楽器センターから歩いて1分のところにあった。このショップは、こんどは天満屋デパートの裏に位置していた(楽器センターは今はもうないが、カワイショップは現在も天満屋の裏にある)。つまり、広島市内の2大デパートの真裏に2つの楽器店があり2つのギター教室が行われていたのである。このカワイショップのほうのギター教室の先生が吉田拓郎さんで、「イメージの詩」のリードギターを弾いている白髭健次さんとベースを弾いている僕はその教室の生徒だった一一だから、見方を変えれば、あの「イメージの詩」は吉田拓郎ギター教室の先生と2人の生徒による演奏発表ということになる。
 吉田拓郎ギター教室がどんなギター教室だったかということはこの後に詳述する一一このブログの読者だけに特別に吉田拓郎直伝のギター・チューニング方法もお教えします一一として、先にこのカワイショップのことを説明しておきたい。というのは、このカワイショップも広島フォーク村に奇跡が起こることになった重要な要素の一つだからだ。
 楽器センターの1階には主にレコードとフォークギターが置かれていた。そしてこのカワイショップの1階にはレコードとエレキギターが置かれていた。楽器センターの2階には教室部屋があったが、カワイショップの5階にはホール一があった一一このホールで吉田拓郎さんがいたロックバンドのダウンタウンズが定期的に演奏を行っていた。つまり、フォーク系の人は楽器センターに出入りし、ロック系の人はカワイショップに出入りしていたのだ。当時の広島の若者の音楽シーンはエレキバンドが主流で、フォークがじわじわと浸透し始めていたのである。

以下続く
 

 話を的場さんのギター教室にもどそう。このギター教室は、広島楽器センターという楽器店の2階の部屋で行われていたのだが、実は、この楽器店があった位置も、広島フォーク村に奇跡が起こることになった重要な要素の一つなのだ。
 楽器センターの住所は、当時の表記では、広島市堀川町6番1号。楽器センターが広告などの印刷物にこの番地を表記するときには、番地の後に必ず「福屋裏」という3文字が添えられていた。
 当時、広島市の中心部にはデパートは福屋と天満屋しかなく、広島市民にとって、「街に買い物に出る」ということは、老若男女を問わず「『本通り』を歩いて、福屋と天満屋に行く」ということを意味していた(おそらくそれは今でも変わっていないのではないか)。つまり、楽器センターが福屋の裏にある、ということは、広島の超一等地にその店があり、その店の2階にフォークギター教室があった、ということである。
 楽器センターの1階にはヤマハやモーリスなどのフォークギターがたくさん並べられていた。楽器センターの店員さん(広島フォーク村村民に親切にしてくださった波佐本保男さん)と的場さんが「ギター教室の生徒さんがフォークギターを買う場合は、よろしく」というような話をしなくても、生徒さんであれば当然、多少の値引きサービスを受けることができたから、自然に、ギター教室の生徒はこの店でフォークギターを買うようになるし、全国的にもフォークブームが起こっていた頃だから、楽器センターのギター教室の生徒は増え続け、フォークギターはよく売れた。結果、的場さんも波佐本さんも笑顔になる。
だから、広島フォーク村の発起人の一人である的場さん一一的場さんは広島フォーク村が発足したときの「年寄」だ。伊藤明夫さんが村長で、的場さんと吉田拓郎さんが“ナンバー2”である年寄だった一一が波佐本さんに「ギター教室の生徒さんだけでなく、広島フォーク村のメンバーであれば、教室をやっていないときにはこの部屋の出入りは自由、ということにしていただけると有り難いのですが。広島フォーク村の活動拠点というかたまり場ができる、ということになりますので」と提案してみたところ、快くOKになった、ということが起きてもおかしくない。
 そんな訳で、ワシらは、「発表の場」と「たまり場」を手に入れることができたのだ。アーケード通り(広島市の場合は「本通り」)がある地方都市の高校生や大学生は、今でもみんなそうだろうが、学校帰りには必ずといっていいくらいにアーケード通りをブラブラする。金はないから、とにかくブラブラ歩き、すれ違う若い異性をチェックする。アーケードが終わるとそこでUターンする。2往復3往復は平均だ。そして、歩き疲れたら、やっと家路につく。しかし、ワシらは歩き疲れても家路につく必要はなくなった。楽器センターの2階に行けばよかった。行くと村長や的場さんや、メンバーの誰かに会えた。

以下続く


4

 5ページ目の見出しは「曲目解説」で、曲目解説が6ページまで続いている。こんな解説だ。

・Hush-a−bye
  子守唄で、母親の子に対する愛情がにじみでている。

・Flora
 「私はルイビルで、レキシントンから来たフローラという女の子に心を奪
  われた。彼女のバラのような頬、ルビーのような唇に私の胸は高まり打
  ち震えた……彼女の名はフローラ、西部の百合。結局、最後はフローラ
  は見向きもされないというはかない失恋の歌。
   ※ 「フローラは見向きもされない」ではなく「フローラには見向きもさ
     れない」だろう。

・Don’t think twice,it’s all right
 「……この道をぼくはずっと考えごとをしながらさすらっていく。自分はか
  つてある女を愛した。いやそいつは子どもだったといった方がよい。ぼく
  は彼女に心をやったけど、彼女はぼくの魂までもほしがったっけ、でも…
  …いいんだよ、くよくよするなよ」
  ボブ・デュランの作品。

* 「ボブ・デュラン」という表記が出てきている。昔、中村とうようが「BOB
DYLANの発音の仕方が分からなくて、ボブ・ダイランと訳していた時期があった」と書いていたのを読んだことがあるが、広島大学では「ボブ・デュラン」と訳していたことが、このプログラムでわかった。この「Don’t think twice,it’s all right」のPPMバージョンのギターは、的場さんの十八番だったし、ボブ・ディランについても一番研究熱心だったから、その的場さんが「ボブ・デュラン」と書いているということは、的場さんのツーフィンガーの演奏テクニックを高く評価していた拓郎さんは、おそらく的場さんの影響で「ボブ・デュラン」と発音していたのではないかと考えられる。
 それにしても、当時のプログラムというのは実に有り難い“証拠品”だ。人の記憶はあやふやなものだし、人は脚色したり誇張して話すことがあるので、額面通りに受け取ることができないが、このプログラムという印刷物は、事実そのものを自ら伝えてくれるので、100%信用できる。
 すでに気づいている読者もいると思うが、僕がこうして、当時のプログラムを完全コピーして、このブログに掲載しているのも、読者に当時の雰囲気を少しでも味わってもらいたい、と思ったからだ。それに少し想像力を働かせると、このコンサートに、「ザ・パイオニアーズ」というプロのフォークグループ(2人組)がゲスト出演していて、「隣の人にコンニチワ」「小鳩には空がない」などという歌を歌っていることだけでも笑えるし、このプロのフォークグループの「「隣の人にコンニチワ」という曲をアマチュアだった拓郎さんがどんな風に感じただろうか、と想像するだけでも愉しいことだから、その愉しみを読者と共有したいと思って、こうして書き写している(ここまで読んだ人は、明日必ず、隣の人にコンニチワしんさいよ!一一笑)

♪以下続く

3.

 「ポップ・ミュージック大好き集団」だったので、自然の流れとして、広島フォーク村は、当時、全国に無数にあったフォークソング同好会とは全然違うであろう雰囲気を持った団体になっていき、そのことが、アルバムのレコーディングに結びつく大きな要因となり、そのアルバムがきっかとなって拓郎さんがデビューし、愛奴、浜田省吾、岡崎倫典……とつながっていったのだ、というようなことを書くつもりだが、それは後に詳述するとして、この回では、広島フォーク村とは、要は、実際はどのようになっていたのか、ということを書いていこうと思う。
  広島フォーク村の中心にあったのは二つのギター教室だ。一つは、広大の学生だった的場民主(まとば・たみお)さんが広島楽器センターの2階の小部屋一一8畳くらいの広さの細長い部屋で、壁にはビートルズやボブ・ディランやサイモン&ガーファンクルのなどの小さなパネルが掛けられ、備品として古いガットギターやフォークギターが何本も置かれ、片隅のテーブルの上にはフォーク雑誌やギターのコード・ブックや歌本などが置かれていて、パイプ椅子も6、7脚くらいあった一一で教えていた教室で、教えていた内容は、ピーター・ポール&マリーが得意としていたギター奏法である「ツー・フィンガー/スリー・フィンガー奏法」だった。
 的場さんの名前が出てきたので、的場さんがらみの話の中で、このブログをお読みの方だけに超貴重な情報一一吉田拓郎さんの熱心なファンの方だったら、「なに!拓郎にそんなオリジナル曲が2曲もあったのか!どんな曲なんだ!その曲が録音されているものはどこかに残っていないのか!探せ!絶対に探しだすんだ!!」と超興奮するであろう情報一一をお教えすることにしよう。
 今、私の手もとに「青少年のための広島フォークソング連盟主催 第1回フォークソングの夕」と題されたコンサート・プログラム(広島フォーク村の仲間の男熊薫さんが保存されていたものをお借りしてコピーさせてもらった)がある。表紙の下にはこのように書かれている。

     日時 1967年4月28日 PM 6:00
     場所 広島青少年センター
     後援 広島楽器センター
        日本コロムビア
        中国新聞社

 そして、表紙をめくると、1ページ目の上欄に「ごあいさつ」という見出しがあって、的場さんが次のようなあいさつ文を書いている。

 私たちは歌が好きです。
 ギターを手にして苦しいこと、悲しいこと、楽しいことを歌います。
 私たちは歌に語り、歌は私たちのために歌ってくれます。
 フォークソング(民謡)とは、ただ人間としての何か一一いつわってない人間の心を
 歌ったもの、それと思うのです。
 本日、この「フォークソングの夕」でそんな素朴さを我々の演奏するフォークソングに
 感じていただければ何よりです。
 私たちは、今日は一生懸命に歌いますからどうぞ最後までごゆっくりおすごしください。


 広島フォークソング連盟、少し堅苦しい名ですが、ただフォークソングを好きな者どもの集まりです。
 フォークソングをお好きな方はどなたでもご入会下さい。連絡は ○○郡○○町 
 広島フォークソング連盟 的場民主まで。
 
 また、フォークソングに関するギター等の研究会としてフォークソング教室を開いています。
 ツーフィンガー奏法など、ともに研究していきたいと思っています。

 この「ごあいさつ」の下欄には、「YMCAで価値ある青春を! 高校生、グループ、クラブ会員募集中 だれでも気軽に入会できます お問い合わせは広島YMCA少年部」という広告が入っている。
 2ページ目には「みんなで歌おう」という見出しがあって、「風に吹かれて」と「ウイ・シャル・オーバー・カム」の英語の歌詞が掲載されている。
 そしていよいよ、超貴重情報が飛び出してくるページだ。この3ページと4ページは「プログラム」という見出しになっていて、演奏者と曲目が次のように紹介されていた。

● The Willows
・Hush-a−bye
・Flora
・Don’t think twice,it’s all right
・etc

        Member 的場民主
             山本浩二(この人もフォーク村のはず)
            ※他2名(省略)

●リーフレッツ
・ こげよマイケル
・ 花はどこへいったの
・ ドナ ドナ
・ 500マイルも離れて
        ※Menber は省略

●The Briars
・ スワニー河
・ ターンアラウンド
・ 島の女
・ 銀色の道
        ※Menber は省略

●ゲスト出演 ザ パイオニアーズ(コロムビア)
・ 君と二人で
・ 隣の人にコンニチワ
・ 太陽の道
・ 小鳩には空がない
・ その他

●ザ ウオッシャーズ
・ 風にふかれて
・ 平和はいつくるの(オリジナル)
・ 山のじいさま
・ そうらん節

●吉田拓郎
・ 風にふかれて
・ ポーランドタウン ※校正ミス。正しくは「ポートランドタウン」
・ 戦争の親玉
・ アル中の歌(オリジナル)
・ ヒザ上10センチ(オリジナル)

●フーテナニー
・ ウイ・シャル・オーバー・カム
・ 若者たち
・ 風にふかれて

 
*以下続く

 僕は当時(僕は19歳で、広島商科大学の1年生だった)、日本のフォーク・シーンのことは詳しくなかったが一一村長が一番詳しかったはずだ一一全国各地に、「○○フォーク村」(例えば、沖縄フォーク村)というのができていることくらいは知っていた。また、「フォーク村」という名称は使っていなくても、さまざまなフォークソング同好会が全国に無数にあることも、雑誌などによって知っていた。だから、広島フォーク村が何か特別な団体・組織だと思ったことなど一度もなかった。そうした無数にあるフォークソング同好会の一つだと思っていた。
 しかし、僕自身もそうだったが、仲間たちの多くは、フォークソングにかぶれているという状態ではなかった。だいたいが、村長自身が、ビートルズ・フリークだったし(ただし、村長はアメリカのフォークや日本のフォークのことも詳しかったが)、村の若年寄の一人である拓郎さんはダウンタウンズというバンドでリズム&ブルースやポップなオリジナル曲をやっていたし、もう一人の若年寄の中田秀丸さんは、ビートルズやママス&パパス等のサウンド分析では東京の楽譜出版社以上のレベルだったし一一拓郎さんが「『夢のカリフォルニア』のコード進行は秀丸がコピーして弾いてる進行が一番正確だ」と言っていた……個々の思い出を語るより、以下の曲目表を見ていただいたほうが話が早い(これは広島フォーク村とその周辺で流行っていた曲目である)。つまり、広島フォーク村はフォークソング同好会というより、「ポップ・ミュージック大好き集団」だったのだ。

「ドック・オブ・ザ・ベイ」「グロリア」「メロディ・フェア」「ウッドストック」「キャリー・オン」「ティーチ・ユア・チルドレン」「ミセス・ロビンソン」「ボクサー」「サウンド・オブ・サイレンス」「四月になれば彼女は」「スカボロー・フェア」「ライク・ア・ローリングストーン」「テル・ミー」「サティスファクション」「風に吹かれて」「悲しみはぶっとばせ」「カラーズ」「スループ・ジョンB」「ウィズ・ア・リトルヘルプ・フロム・マイ・フレンド」「この胸いっぱいの愛を」「渚のヴォード・ウォーク」「ホワイト・ルーム」「夢のカリフォルニア」「マンデー・マンデー」「愛なき世界」「アイ・ガット・ユー・ベイブ」「愛しのルネ」「ノック・オン・ウッド」「ターン・ターン・ターン」「ミスター・タンブリンマン」「サイレンス・イズ・ゴールデン」「レッド・ラバー・ボール」「青春の光と影」「ハング・オン・スルーピー」「風は激しく」「あの娘のレター」「ハッピー・トゥゲザー」「ノルウェイの森」「カミング・イントゥー・ロサンジェルス」(アーロー・ガスリーの曲で、この曲のギターをコピーして自分のものにしていた高校生の岡崎倫典が広島フォーク村に颯爽と登場した)……

以下続く

1.

 広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか。40年の歳月が流れて、今、その理由がはっきりと見えてきた。
 その理由を書く前に、広島フォーク村とはいったい何だったのか、ということについて、僕なりの考えを書いておこう一一広島フォーク村というのは「自分たちでつくった、自分たちのための発表の場」だったのだと思う。そして、そのことは現在も変わっていない。今年の8月2日の記念ライブも、誰かに言われてやるのではなく、自分たちで企画してお金を出して、自分たちの新曲や新しいアレンジや演奏を発表するためにやるのだ(だから、ライブの内容が単なる“同窓会(懐メロ大会)”にならないのは当然のことだ)。
 団体や組織やリーダーにはメンバーを引きつける何らかの魅力が必要だ。その魅力が強くなっていけばいくほど、求心力が高まっていく。広島フォーク村が最初に持った魅力は「発表の場」だった。1968年(昭和43年)の11月に第1回目の会合を行って、12月23日にはもう「開村コンサート」を行っているのだ。当時の広島のアマチュアの音楽シーンの間には、「広島フォーク村に入れば、
コンサートに出られるかもしれんど」という空気が流れたように思う。
 とここまで読んだ人の中には、「発表の場」っていうが、それなら、ヤマハのライトミュージックコンテストだって、レコード会社主催のフォークソング・コンテストだって「発表の場」なんだから、同じことじゃないか。どこが何が違うっていうのか、と思った人がいると思う。
 ではその違いを説明しよう。ごくシンプルにいえば、広島フォーク村のコンサートはコンテストではない、ということだ。誰かに審査されることなく、出演者それぞれが、持ち時間の中で「自由」に歌えるコンサートだった。そして、
これが実に重要なことなのだが、僕が宮城と組んでいたサータレ・グループのような下手くそバンドでも出られる機会が与えられていた、ということだ。
 「自由」という言葉が出たので、少し横道にそれることにしよう。と書いた途端に、広島フォーク村に奇跡が起きた理由の一つがはっきり見えた。奇跡が起きた理由の一つは、この「自由」ということだった。
 信じがたいことだが、広島フォーク村にはかつても現在も規約一つないのだ。会費を払う義務もないし、スローガンもないし、正式な住所録すらない。だから、これまで僕は年上の仲間から命令されたことなど一度もなかったし、年下の仲間に何かを押し付けたこともなかった一一かつて、ほんの一時期、会費を集めたり、中学生はメンバーになれない、というような規則をつくったことがあったように記憶しているが、いつの間にかそれらは“雲散霧消”した。
 なにもかもがすごく自由だった。いつ行ってもよかったし、誰と話してもよかったし、どんな曲(オリジナル曲でも洋楽のコピーでも)を歌ってもよかったし、コンサートの手伝いをしてもいいししなくてもいいし、巡業や合宿も自由参加だし、恋愛をしてもよかったし……つまり、経済と人間(上下)関係と義務と規則にまったく縛られない団体だったのだ。
                   
*以下続く

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