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 広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか。40年の歳月が流れて、今、その理由がはっきりと見えてきた。
 その理由を書く前に、広島フォーク村とはいったい何だったのか、ということについて、僕なりの考えを書いておこう一一広島フォーク村というのは「自分たちでつくった、自分たちのための発表の場」だったのだと思う。そして、そのことは現在も変わっていない。今年の8月2日の記念ライブも、誰かに言われてやるのではなく、自分たちで企画してお金を出して、自分たちの新曲や新しいアレンジや演奏を発表するためにやるのだ(だから、ライブの内容が単なる“同窓会(懐メロ大会)”にならないのは当然のことだ)。
 団体や組織やリーダーにはメンバーを引きつける何らかの魅力が必要だ。その魅力が強くなっていけばいくほど、求心力が高まっていく。広島フォーク村が最初に持った魅力は「発表の場」だった。1968年(昭和43年)の11月に第1回目の会合を行って、12月23日にはもう「開村コンサート」を行っているのだ。当時の広島のアマチュアの音楽シーンの間には、「広島フォーク村に入れば、
コンサートに出られるかもしれんど」という空気が流れたように思う。
 とここまで読んだ人の中には、「発表の場」っていうが、それなら、ヤマハのライトミュージックコンテストだって、レコード会社主催のフォークソング・コンテストだって「発表の場」なんだから、同じことじゃないか。どこが何が違うっていうのか、と思った人がいると思う。
 ではその違いを説明しよう。ごくシンプルにいえば、広島フォーク村のコンサートはコンテストではない、ということだ。誰かに審査されることなく、出演者それぞれが、持ち時間の中で「自由」に歌えるコンサートだった。そして、
これが実に重要なことなのだが、僕が宮城と組んでいたサータレ・グループのような下手くそバンドでも出られる機会が与えられていた、ということだ。
 「自由」という言葉が出たので、少し横道にそれることにしよう。と書いた途端に、広島フォーク村に奇跡が起きた理由の一つがはっきり見えた。奇跡が起きた理由の一つは、この「自由」ということだった。
 信じがたいことだが、広島フォーク村にはかつても現在も規約一つないのだ。会費を払う義務もないし、スローガンもないし、正式な住所録すらない。だから、これまで僕は年上の仲間から命令されたことなど一度もなかったし、年下の仲間に何かを押し付けたこともなかった一一かつて、ほんの一時期、会費を集めたり、中学生はメンバーになれない、というような規則をつくったことがあったように記憶しているが、いつの間にかそれらは“雲散霧消”した。
 なにもかもがすごく自由だった。いつ行ってもよかったし、誰と話してもよかったし、どんな曲(オリジナル曲でも洋楽のコピーでも)を歌ってもよかったし、コンサートの手伝いをしてもいいししなくてもいいし、巡業や合宿も自由参加だし、恋愛をしてもよかったし……つまり、経済と人間(上下)関係と義務と規則にまったく縛られない団体だったのだ。
                   
*以下続く