シルクロード、ウズベキスタンの旅2

スペイン製の高速列車、アフラシャブ号に乗り爆睡をしている間にサマルカンドに着きました。
この日は、朝からハードスケジュールでした。乾燥した空気と、物凄い暑さで、購入したミネラルウォーターは、すぐになくなり何度もなんども購入しました。

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初めに行ったのは、ティムール朝の君主だったウルグ・ペグによって1420年代に建設されたウルグ・ペク天文台です。

偉大な天文学者であり、学問を重視した偉大な君主だったようです。
最盛期は70人くらいの天文学者たちが働いていたそうです。
建築物は全長11mあり、建設当時は地震から守るために3層構造で、地中に設置されていたそうです。
半径40.4mあり、当時は最大で全高は21m、敷地は南北170m、東西に85m。太陽の高天頂と赤緯からの距離を用いて毎日の正午を正確に出していたそうです。
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IMG_17261449年に保守的なイスラム教信者によって破壊され、この天文台が発見されたのは1908年で、それまで地中に埋まっていたそうです。

この時代に太陽年の長さを365日5時間49分15秒に決定したそうですが、実際の誤差は25秒で、コペルニクスによる計算の+30秒より、誤差が小さかったとガイドのノルディさんは力強く力説してくれました。
日本との学問、生活、どれをとっても進んでいた時代が明らかに有ったことは、やはりすごいと思いました。

また、ウルグ・ペグは赤道の傾斜角も計算していて23.52度は、コペルニクスや他の天文学者より精確で、それは現在までも続いているとの説明に、息子と一緒に「う~~~ん、すごいね」とつぶやきました。

それからガイドさん手配の車に乗り、アフラシャブの丘にあるシャーヒズィンダ廊郡に行きました。
ティムールの関係者のお墓が連棟されていて、青のタイル・モザイク・テラコッタなどで外壁・内壁を飾られている建物は、美しかったです。

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IMG_1802ウズベキスタンでは日本人が愛されているとのことで、どこへ行ってもウェルカムで迎えられ、またじーっと見つめられました。

ノルディさんから、この墓群にまつわる話を聞きましたが、それは676年に預言者ムハンマドの従兄のアッパースがイスラム教の布教のためにサマルカンドに来ていて、翌年、礼拝中にゾロアスター教徒に襲われて首を切られたそうです。でもアッパースは何事もなかったように礼拝を終え、その後自分の首を拾い、井戸に潜っていき、彼はそこで永遠の命を得、イスラムが危機に合うと助けに現れると言われているそうです。
人々は、二度、このシャーヒズィンダ廊郡に礼拝に来るとメッカに行ったことと同じ
みなされるので、ここに来る人たちが絶えないそうです。
今も信仰心の厚い人たちがお参りに来ています。
ノルディさんに何段あるか数えて上がってくださいと言われ、長い長い階段を上がっていきましたが、帰りの段数と違う人は、良くないと言われ、ちょっとドキドキでした。

それから、また車で裏通りを抜け、路地を抜けて、とりあえずランチになりました。

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なかなか小洒落たレストラン・オアシスに連れて行ってもらいました。
トイレのタイルの写真は必須だと思いパシャリ!

IMG_1811IMG_1812羊の肉料理でしたが、写真撮り忘れました。
パンは一般的なパンで、どの家庭でも食べているパンで、またスープはカボチャのスープでした。







ランチ後は、また車で、レギスタン広場へGO~

ティラカリ・メドレセ モスクとして使われていたそうです。 今は結婚の写真撮影の場所になったり、観光客が訪れています。
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遠近法を用いてマルク見えるようになっているそうですが、丸にしか見えませんでした。金箔と青のコントラストは目を見張るほど綺麗でした。
やはり宗教的な建築物は、異次元の世界を見せるために、どのようは宗教も同じだなと感じながら見ました。

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この広場の中にはモスクで勉強する学生たちの寮がありました。現在も使われていますが、昔使われていた寮を公開しています。
ノリディさんが、日本と同じに炬燵が有ったんですよ!それにロフトも!と。

IMG_1854IMG_1855IMG_1862今は土産物屋さんも入っている建物があり、土産物をしっかり買っちゃいました。
と言うよりは買わされちゃいました。





いつもだったらこういうところでは買わないのに、何故か、息子と一緒にいると、ここで買わないと買う時がなくなるんじゃないかと心配になり、高額の土産物を買う羽目になりました。
画家が直接売っている絵画を数枚購入でした。

それから歩いて、ビビ・ハニムに行きました。
このモスクは、ティムールの妃がインドから凱旋帰国するティムールを驚かそうと思って建てたものですが、ティムールが帰国するまでに完成が間に合わない状況を抱えてしまった妃が、建築家の誘惑に負けて頬にキスすることを許してしまい、帰国したティムールに知られ、建築家は死刑、妃も突き落とされて殺された説と、一生黒いベールで顔を隠して生きた説など多々あるそうです。

IMG_1856IMG_1857IMG_1859美人の若いママと可愛い子どもに出会い思わず写真に納めました。

ドレスもきれいでした。





IMG_1876IMG_1879IMG_1880IMG_1883モスクの中庭には、説教台がありますが、巨大な大理石でできていてオスマン・クラーンという最古のコーランを置いたそうです。






それからシヤブ・バザールに行きました。

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現在の庶民生活を垣間見ることができました。
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レギスタン広場の一角にはシェルド・マドラサ、グリ・アミール廊などが点在しています。
それを回りながら、青のタイルも、廊もどれも同じように見えて「え?また同じような建物?」と飽きてきました。
そして行くところ、行くところには土産物を売る店が並び、売り手につかまると言う感じでした。

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IMG_1926IMG_1927IMG_1928IMG_1930ホテルに送ってもらい一休みしてから、ノルディさんの家へ夕食にご招待されて行きました。






彼の奥さん(右・となりは兄嫁)は、18歳の奥さんで、それは一般的だそうです。

IMG_1932IMG_1933IMG_1931外壁の工事がまだ終わっていないそうです。

兄家族、弟、親たちと同居で、家の後を継ぐのは一番下の弟だそうで、日本の逆だそうです。

お父さんは亡くなり、お母さんは今モスクワへ旅行中との事でした。



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IMG_1939IMG_1942奥さんたちが腕を振るってくれた料理が並びました。
この国は男尊女卑の習慣がまだ残っているそうです。

私は外国人だからお兄さんたちと対等に話しても大丈夫で、また日本人だから、特に良いとの事。
ビールやお酒を飲む女性はあまりいないそうです。



偶然に私が持って行った日本からのお土産の髪飾りがとっても喜ばれました。
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IMG_1946子どもたちも柿ピーを大喜びで食べていました。
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ちびっ子たちが、私に伝統の帽子を被ってみてと言って、はしゃぎ回るので、リクエストに応えて被りましたぁ~。
可愛い子どもたちでした。

車のドライバーさんが、夜のレギスタン広場が美しいからとホテルに帰る途中で寄ってくれました。
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満月とともにライトアップされた青いタイルとドーム屋根。

本当に美しかったです。





この夜は、勿論ヘトヘトで爆睡した親子でした。
お休みなさい、お月様。
つづく

シルクロード、ウズベキスタンの旅1

久々に出発前から、かなりワクワクしていました。

成田からの出発は遅れもなく出発しましたが、韓国経由の便は、結局仁川(インチョン)空港で6時間半待たされました。

image01CEB783-9580-4067-86DA-C5C49A59831B63F227C2-05E7-4562-95C0-F42B25C4ED67タシュケントからのフライトの到着が気流の乱れで2時間半遅れて出発しました。

ランチと言うか夕食をと言うか、機内食がアシアナ航空なので期待できないと言うことで、仁川で食べて待ちました。




174C58D9-EDA6-4B13-A109-9E4C029B8F6C62874FED-6A6B-4439-A4FE-530E6EE7BDE3D6A0521B-81D9-441A-A685-15003FBFF82Cそして、夜の11時くらいに空港に到着し、そのままホテルへ行き、翌朝の列車が朝早いのでモーニングコールを6時に頼み、湯船につかって疲れを取り、そそくさと急いで1時半くらいには眠りました。

今回の旅は、息子に予約等すべてをお任せしたので、彼はガイドさんを依頼していました。

ガイドさんは、空港へ迎えに来ていて、車でそのままホテルに行きモーニングコールもガイドのノディルさんがてきぱきとすべてを進めてくれました。

ところが、翌朝モーニングコールで起こされたのは5時で、私たちは5時とは知らずに大慌てでフロントに行き、ノディルさんを待ちましたが、どうもおかしいと気が付き、1時間も早く起こされたことに気が付き、ではではと、レストランで朝食をとることにしました。

時間がないので、朝食は取れないと言うことでしたが、ゆっくり朝食をとった私たちです。
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タシュケントのホテルは、60年代のデザインの外観でしたが、レストランもエントランスも大きくて、エントランスの横にあるラウンジの横には、ウズベキスタン特有のおじいさんの陶器の人形が笑顔で立っていました。

自分へのお土産に、この人形を買いました。 見ているだけで心がほっこり、笑顔になるおじいちゃん人形です。
6時過ぎに迎えに来たノディルさんから、「今日は5カ所回るハードスケジュールです」と告げられて、4時間半の睡眠時間とこの暑さで、体調を崩さないかとちょっと心配でした。

ホテルを出て、私たちは特急列車、日本で言う新幹線のような電車に乗るために電車の駅に向かいました。
タシュケントからサマルカンドへ向かいましたが電車で2時間半くらいで着きました。

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車掌さんは、とびっきりの美人さんでした。



列車内ではお茶とクッキーのサービスがありイチゴクリームのクッキーとほうじ茶のような味のお茶をいただきました。
2017-08-02-12-45-342017-08-02-12-47-532017-08-02-12-48-03列車の中には、バーがありました。









車窓からは、綿花畑や工場や、乾燥した山々が見えましたが、気が付くといつの間にか息子のkaiもノディルさん、そして私も爆睡していました。
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2017-08-02-13-55-312017-08-02-13-58-15サマルカンドでは、60年代(?)くらいの車が走っていました。
ソ連(ロシア)の支配下にあった当時の建物・車、そして習慣、言葉などもまだまだたくさん残っていると言うことでした。

26年前にロシアから独立したウズベキスタンは、人望の厚い大統領のお陰で民主化がされて、経済的にもガス・石炭、鉱物などの輸出で国は潤ってきたとのことです。

優秀な人材が、海外で勉強して帰国し、国の発展を助けるようにとの政策やそのための国からの補助は充実しているそうです。
学費は高校生まで、医療費は掛からないととの事。
だから老後の不安は、日本のようにないし、戦後の日本のような家族制度(家長は父親で、子どもたちは両親に従い、家族の関係は強いそうです)
ノディルさん曰く、ひと昔前の古き良き日本の風習が残っていて、とてもよく日本に似ていると。
また、彼は日本で3年半、日本語を勉強してガイドになったそうです。
東京に住み、コンビニや宅急便の会社でアルバイトをして、日本の丁寧な仕事の仕方や最新のシステムを勉強したそうです。

年齢は息子と近く、二人はすぐ友達になりました。

青の建築物に胸をワクワクさせる旅が、この後始まりました。

つづく






そっと命が消えていった

6月の父の日を前に、父への思いをここに書きました。
このブログは息子たちへ残す私の思いから始めましたが、私が亡くなった後に、「母はこんなことを感じたり考えて生きていたんだ」と伝えたいと思い書き綴ってきました。

そんな思いは、私の母が亡くなってから生まれた思いです。
母ともっといろいろ一緒の時間を過ごせばよかったと思いながら、生前の母の言葉が私の中で、しっかり生きていて、何かあるたびに思いだされ、問題を乗り越えようとしたり、自己分析に対峙したりしていますが、父からの言葉や生き様なども、知らず知らずのうちに息づいていることを感じています。

IMG_3319 この写真は2年前の物です。まだ元気だったころの父です。



8月1日からのウズベキスタンへの旅の前に、下の息子と一緒に入院している父のお見舞いに行きました。
入院、ナーシングホーム、そしてまた入院と93歳から続いていた父へのお見舞いは、月一回をなるだけしようと、休みの日にしてきましたが、旅の前にも息子と一緒に寄りました。

それは、きっとこれがもう息子がおじいちゃんに会う最後のチャンスになるだろうと感じたからです。
横たわったやせ細った父は、苦しそうな息使いをしていて、唇と上あごは乾燥から切れて血がにじんでいました。
思わず「苦しいの?」と父に尋ねると眉間にしわを寄せて苦しいそうな顔が返ってきました。
手をさすっても、なんだか痛そうに顔をゆがめました。

息子がぽつりと「おじいちゃん、苦しそうだね。辛そうだね」とつぶやきました。

私は思わず息子の戸惑った目をみて、ただうなずきました。
言葉が全く浮かばずに、黙ったまま、頭を撫でながら、心の中で「お父さん、お父さん、苦しいの? 私の声が聞こえる?」と呼びかけていました。
いくら待っても、父からの言葉はなく、苦しいそうな息使いだけが返ってきました。
⭐️父からのクリスマスプレゼントのアルバムです。初めのページには、私が赤ちゃんだった時の写真が貼ってあり、父の丁寧な文字で 「啓子2歳当時 自宅にて と、書かれています。私のアルバムですが、書き込みは私視線で書かれています。
おしゃぶりをしゃぶっている写真には、「わたくしの大好きなおしゃぶりをしゃぶって」などと書かれています。


この二年間、父のお見舞いをしながら、自分自身に父が亡くなることへの心の準備をしなさいと言い続けてきました。
父が、私が子供のころ、可愛がっていた犬や猫たちが死んでしまったときに「形あるものは壊れ、命あるものはいつか命は尽きるんだよ。」と言っていた言葉を思い出しながら、「お父さんの命も消えるんだよね」と自分自身に言い続けてきました。

母の突然の死を迎えた時に、お母さんが亡くなるなんて考えもせずに生きていた自分を見つめることになり、悲しみは深く苦しみました。そしてそれ以来、本当に命はふっと消えてしまうんだと実感しています。
消えて亡くなっても、時間は止まることはなく、仕事に追われ過ぎていく空虚感と、そしてどんなに輝かしい人でも、忘れ去られていくんだという無情さを知りました。町の中で車の運転をしている時に、母 に似ているお年寄りを見ると亡くなっているのに、そこにいるはずもないのに「あ!お母さん?」と慌ててしまい、何年経ってもいなくなってしまった母への悲しみが薄れる事がなくて、深くなって行く事を、引きずりながら生きています。
だから、父の死が近づいてきていることを、それを全く知らなかったら、きっと乗り越えられない悲しみに向き合うことになる自分を感じていました。

この二年の間、父を思うたびに、会うたびに言い聞かせてきた亡くなるという現実。
老いて小さくなって、厳しさも怖さも冗談を言う可愛らしさも強さも優しさも薄れて行き、弱々しくなって行く父でした。

2年前のある時、父が私と海のレストランに行った時、父が「音楽コンクールで銚子に行った時、おばあさん(母の事をその当時、そう呼んでいました)が作ってくれた大きなおにぎりを頬張っていたね。ふふふ、覚えているかい?」と可愛かったねと言わんばかりに言いました。
ちょっと恥ずかしくて「あれは銚子だったの?」と笑いながら返した私でした。


父は学校の行事は、全て出席して、学校教育に対しても熱心に取り組んでくれました。PTAの会長をして、私たちを守ってくれていました。
⭐️立っている女の子たちは、私の大の仲良しのお友達でした。私は左から二番目、黄色のセーラーカラーのブラウスの子です。父は、このお友達の家へ遊びに行く送迎をしていつもくれました。

そして、8月9日、ウズベキスタンから帰国後に私の帰国を待って父は息を引き取りました。
「待っててくれたんだね。もう、十分だね。苦しかったよね。」と言う言葉しか出てきませんでした。

3歳の時の七五三には、着物と薄ピンクのドレスを着せてくれました。なぜ着物とドレスを着たのか、記憶の中には残っていませんが、きっと、二通りの衣装で七五三を祝ってくれたんだろうと思います。
5歳の時も黒地に金糸、銀糸の蝶の帯と、華やかな緑や赤の着物を母が着付けてくれて、父と一緒にお参りに行き、千歳あめをいただきました。髪にも大きな髪飾りをつけていました。
7歳の時は、白のふわぁふわぁと広がった大きなリボンを腰の後ろで結んだドレスを着て、近くの神社へお参りに行った記憶があります。
その日は、薄曇りだったと覚えています。真っ白のソックスに黒のピッカピカに光った足の候にベルトのあるエナメルの靴がよみがえってきます。
ふわぁふわぁのドレスを手で押さえて靴を覗き込んだ、瞬間が写ります。
お姫様になったような気持ちでしたが、父はその日ちょっと不機嫌でした。7歳だった私は、その日の父の暗い顔の理由も分からず、父の後ろを歩いて神社に行った記憶がよみがえります。

毎年のクリスマスには、父のお友達やご近状の人たち、教会の牧師さん、そしてお坊さん、いろいろな人たちを招いて、パーティーを開いていました。もちろん、父からの言葉もありましたが、牧師さんやお坊さんたちからもお話がありました。
お食事は、ジンギスカンの鍋を2つセットし、クリスマスケーキは母が予約する2つ以外にお客様から頂くケーキで、5,6個になりました。
私がケーキがあまり好きじゃないのは、きっと子供のころ食べ過ぎて嫌いになったからだと思います。
その日は、母はお店の仕事をしながらお酒やビール、ジンギスカンの準備など、大変忙しく動いていました。
子どもたちは、長男を先頭にみんなでテーブルや椅子のセッティングをしました。
私たち、子どもが運転免許を取ってからは、母が電話で予約をして、ジンギスカンの肉とたれをちょっと離れたお肉屋さんまで私たちが取りに行きました。 それまでは、母の弟のおじさんが取りに行っていました。
パーティーが終わった翌日は、なんだかぽっかり気が抜けた時間を母も感じていましたし、私たちも片づけという大仕事を前にして、気が乗らない日を過ごした記憶があります。
そして、牧師さんの聖書からの抜粋した言葉と説明も、お坊さんの説法やお話も、全く記憶に残っていない毎年の恒例行事でした。
タダタダ、その日は朝から母の忙しさを見ながら、また兄や弟たちとお部屋の飾りつけをしたりしたことと、父の鍋奉行よろしく、「油の部分を鍋のトップにおいて鍋に全部鍋に塗りなさい」と指示が飛ぶ焼き方で焼いたジンギスカンの肉と特にリンゴとニンニクの入ったたれの美味しさだけが、思い出の中から蘇ってきます。 香ばしい匂いが鼻先に漂ってきます。

夏休みは海に連れて行ってくれました。九十九里浜、富津海岸などの海の家ではサザエのつぼ焼きやトコブシ、ナガラミと言った貝を食べるのが大好きでした。
毎年新しい水着を着て海と海の家でくつろいでいる父のところを行ったり来たりして夕方まで過ごし、海面を滑ってくるちょっと涼しく湿った風が疲れ切った体にしみこむ夕方には、ぼんやり気の抜けた頭と身体を海の家の床に投げだしながら、暮れていく海の向こうを見続けていました。
それから、車の中で爆睡して帰宅しました。車が止まったのを感じながらも疲れすぎている瞼を
開けられずにいると、父が母に布団を敷くように言っている声が遠くで聞こえ、それからしばらくして父が抱っこして車から降ろし、蚊帳のつってある和室に敷かれた布団まで運んでくれました。

私が息子たちに同じことしたときに、鮮明にこのシーンが思い出されました。私が息子たちにしていることを父も母もしてくれていたんだと思い出しました。
母が昼間干した布団は、奥の方で陽の匂いがして深い眠りに落ちて行きました。

小学生の高学年になったある日、自転車が乗れるようになっていたので、自転車で友達の家まで遊びに行き、5時に帰ると約束をした日がありました。
それまでは、父が車で友達の家へ送り迎えをしてくれていましたが、自立の道を歩き出した私はその日、自分の自転車をこぎ出し、遊びに行きました。
誰の家に行ったかは、思い出せませんが、日暮蝉が鳴いていました。保育園の角を曲がると父が店先を掃いているのが見えました。
「あ、お父さんだ!」
離れたところからも父が怒っている気が伝わってきました。
「ただいまぁ~」とちょっと小声で言うと父が持っていたほうきの枝で私の頭をゴツンと一度叩き、「何時だと思っているんだ!すぐ中に入りなさい!」と低い声で言いました。
私は「ハイ」と返事をし、自転車を中に入れ家の中に入りました。
それから父にお尻を三度叩かれました。初めてでした。
四つん這いにさせられ、お尻を叩かれ「約束の時間は守らないといけないんだ」と言われました。
父は叩くことがありませんでしたが、この時、叩かれながら私は恐怖で震えていました。
それ以後、子どもであろうと家に着くまでの時間が読めないという理由は通らないと言うことを思い知らされたので、約束を守りました。
父は優しくていろいろなことに挑戦させてくれましたが、反面、自由には責任が伴うと言うことを焼き付けた父でした。
決めた事は答えがでるまでやり通す事、約束は守る事、嘘はつくなと言われました。

⭐️母が30歳、父35歳呉服屋さんを切り盛りしていた可愛かった母です。

そんな父でしたが、私が小さい時には芸者遊びもしていて、2日目の夕方や3日目の朝に、私は家から1ブロック離れた歩いて2分弱の旅館に、父を迎えに行きました。前の家のお庭を「すみません、通らせてください」と声をかけて抜けていきました。  母からは「必ず大きな声で通らせてくださいと声をかけてから通らせてもらいなさいと、きつく言われていたので、私はその庭を通るたびに大きな声で言って通らせてもらっていました。
中からは「は~い、どうぞ」と言うおばさんの高い声が返ってきました。
その庭を通って大通りに出るとすぐ目の前に旅館がありました。
迎えに行ったというより母に迎えに行ってきてと頼まれて迎えに行くというのが流れで、母曰く「啓子が迎えに行ったら帰ってくるから」と言って私の役目でした。
大きな4枚のガラス戸が並ぶ真ん中のガラス戸を恐る恐る引いて開けてから「すみません、お父さんいますかぁ~?」と声をかけました。
なぜか、静かで声も何の返事も聞こえませんでした。気が付いてもらえずにだんだん大きな声を出す必要があることを感じて、大声で「す・い・ま・せ~~~ん、北原です!お父さんいますかぁ~」と声をかけると奥からハタハタと急ぎ足で入り口向かってくる気配がして、やっと中から芸者さんが出てきて、頭のてっぺんから抜けるような声で「あ~~~らけ~こちゃん、いらっしゃい!上がんなさいな」と言ってくれました。
私は「お父さんいますか?迎えに来ましたぁ」とすぐに言い、父が出てくるのを待ち、顔をだした父に「お父さん、帰ろう」と言いました。
父は「分かった、分かった」と言うような顔をしてから、私と一緒に帰りました。
小学生の低学年から高学年までの間に、何度もありました。
そのころの父は、私たちを愛しながらも、どこかちょっと自分の現実に背を向けて、瞬間の楽しさで満たそうとしていました。男の子が3人いて毎晩にぎやかで、忙しくお店と子育て、家事に動き回っている母が待っている家庭にちょっと背を向けて自分の時間が欲しかったんだと思いますが、まだ幼い私の心と頭は、それを理解できずに、そういう時の父が嫌いでした。
そしてちょっと酔いが残っている父に「どうして帰ってこないの?」と母の代わりに小言を言ったりして連れ帰ってきました。
父は、威厳を保ちながら無言でした。

何を思っていたの、お父さん?   私が迎えに行くたびに恥ずかしかったの?それとも自分の抱えている現実を受け入れようと思っていたの? それをいつか聞きたいと思っていたけど、聞かずにいたら、父は逝ってしまいました。

ハーレーを乗っていた父でした。オシャレなスカイラインも乗っていました。新車でも、躊躇うことなく私に運転を任せてくれました。

私が、まだ小学校入学前に、父は相撲巡業を呼び寄せ、お相撲さんたちが家で宴会を開き、泊って行きました。
奥の和室の襖の高さより背が高くて、二人のお相撲さんの腕にぶら下がったり、抱っこしてもらうとその高さに興奮していた私でした。
その晩はとってもにぎやかで、お相撲さんの歌も聞きました。お酒は出しても出しても足りずに、母も笑顔を振りまきながらくるくると刺身やお料理を出すのに追われていました。
あの晩がどんなふうに終わったのか、覚えていませんが、他のお相撲さんたちは、父が芸者遊びをしていた旅館に泊まりました。
そして、翌日は公園に作った土俵で巡業が開かれたと思います。人が好きだった父は、時々変わったことを巻き起こしていました。
お祭りを企画するのも好きでした。
親バカな父は、私を小町と呼んでいました。そして自分の目の届く範囲でお祭りに参加させてくれましたが、夜の盆踊りは行かせてはもらえず、昼間のお花見(毎年大きな祭りを開催していました)には、午前、午後に一度っきりならと行かせてくれました。⭐️弟と一緒にシャンシャンと鳴る杖をついて神輿の先を歩いたお祭りです。



私は、父がいる夜が大好きでした。眠る間に毎晩、創作話をして笑わせたり、怖がらせたりしてくれた父でした。最後は怖い話でちょびっと半べそになり眠りましたが、それでも暖かくてワクワクした時間でした。

生前、母がいないと何もできない父でしたが、母が亡くなってから深い悲しみの中、泣くのを始めて見せた父でした。そして身の回りのことをできるだけ自分でするようになりました。

小学生の時に、戦友が亡くなった時の話をしてくれました。海軍だった父は駆逐艦に乗っていて、アメリカ兵の攻撃を受け、海に投げ出され列を作り、他の戦友と泳いだそうです。褌を長く伸ばしてみんなで縦につながって泳いだそうです。それは海軍で学んだサメから身を守る術だったのに、一色と言う戦友がサメに襲われ亡くなったと話してくれたことが一度あります。、父も時々夢でうなされていたので、辛い出来事だったようで、この話は詳しく話してくれませんでした。きっと辛すぎて話せなかったんだろうと思います。 
そして、終戦を迎え、彼の奥さんを訪ねた話をしてくれました。持っていたお金をすべて差し出したという父の話に、人としてするべきこととはこういうことだと学びました。
また、父は戦争中はお国のためという美辞麗句に踊らされて戦ったけど、その後は今度は民主主義になると言い、教育が一変した時に、日本政府を鵜吞みにできない、ただ従うことは間違いだと知ったと、よく言っていました。あの戦争は間違いだったし、戦争から何も生まれない、唯憎しみの連鎖が生まれるだけだと事あるごとに言っていました。

私は高校生の時に、ソフトボール部入っていました。
夏の大会のある日、父は弟を連れてわざわざかなり遠い試合会場まで応援に来てくれました。
このブログに、以前その時のことを書いたのですが、それは、やっぱり気恥ずかしさと暖かな応援でした。

私の守備はサードで、いつものように守備につきました。
バッターが打った球がインフィールドフライのように上に上がり簡単なサードフライでした。でもその日は、父と弟がバックネットの裏側で私を見つめていて、バッター立った時も、緊張していい当たりを打てず、守備に出ても、なぜが落ち着ませんでした。他の部員が「いつもと違うよ、緊張してるよ!」と言っていて、私の緊張はマックスを迎えていました。
簡単だよと自分に言い聞かせたのに、なぜかその打ちあがった球をグラブの中に吸い込むことができずに硬い体と手は、落ちてくる球に向かってちょっと押し出してしまいました。
すると、その球はグラブからはじき出されてエラーになり、その球を拾い上げてファーストに投げようとした時は、もう打者はファーストベースを踏んでいました。

そんな恥ずかしいプレーをしたのに、帰宅した私に「けーこのスイングはすごく勢いがあったし、守備も素晴らしかったね」と晩酌しながら夕食を食べている私に言ってくれました。
「いやいやお父さん、贔屓(ひいき)に見過ぎですから」と心の中でつぶやいていました。
父は出会った人を褒める、まず人を信じる、子どもたちも、飼っていた犬や猫までほめる人でした。

志を曲げず、お金の話が嫌いでした。
40歳を過ぎた父は民主主義のために50年以上市民活動をしていました。ですから、色々な人が来て朝食、昼食、夕食、そしてお酒を共にし、よく語り合っていました。 子ども4人を抱え、母は嫌な顔せずにご馳走していました。でも、時々
お金が苦しいと呟く事があり、そんな時の父は母に向かって「お前は何を言っているんだ!この活動の意味を考えなさい!」と彼の理想を母に語っていました。

母は現実的に経済的に苦しいと言っているだけなのに、その現実を母に負わせて自分は理想に燃えて志を通して来ました。お金があろうがなかろうが、お金の話をされるのが大嫌いでした。
思春期の私は、そんな父の矛盾を理解できずにいました。強い父を尊敬もしていましたが、その矛盾に納得のいかない気持ちを長い間引きずっていました。
20代のはじめの頃、檀一雄の火宅の人と言う小説が単行本で出た時、父をしばらくうちの火宅の人と呼んで比喩していました。
ピント外れの父は、「啓子は私をライバル視しているんだろうね」と言っていました。私は笑うしかなくて、可笑しさとため息まじりに母に私の思いを説明した事を、その時の母の微笑む顔とともに思い出します。
母は大変だったと思います。1人でお店を切り盛りしながら、子育て、家事、そして、父の活動を裏で支えていましたから。
でも時々経済的に苦しい状況の愚痴を言いながらも、母も色々な人が来てお食事を差し出す事を楽しんでいました。

私に「誰々がお母ちゃん、お母ちゃんと言ってよく来るんだよ。」と。「みんなご飯を食べてないからね」と。
父の活動を理解して、そして精一杯共に歩んでいた母でした。

我儘で少年の心を持ち続けた父でした。
そしてそんな父を、愛し続けた母でした。

あっちもこっちもといい顔をしない父でした。侍のように責任を背負って生きた父でした。頑固で志を曲げない父でした。
40歳から市民活動に関わってから、その道一筋を通し、清らかに責任を負う事に美を求めた父でした。

父は舟木一夫の学園広場を酔うと歌いました。

「空に向かってあげた手に、若さがいっぱい飛んでいた。
学園広場で肩組み合って、友と歌った若い歌

涙流した友もある、愉快に騒いだ時もある、
学園広場に咲いている花の一つ一つが思い出さ

学園広場は青春広場  夢と希望がある広場」


この詩を噛み締めながら、父の心を思いました。
清らかに生きる事は、けじめを持って生きる事ですよね?
そこには本当の強さが必要ですね。責任を負うと言うことは、潔さが伴いますね。

父の葬儀を前に、1人父を思っています。
2017年8月17日







ノルウェー2

帰国して4日が過ぎて、仕事、生活もすっかり元に戻り、今、お風呂から上がって身体をベランダのチェアーに座って涼みながら、このブログを書き出しています。

隣の公園には犬の散歩をしている人たちが街灯に照らされて見えます。
フィヨルドで見た大きな空とは、 全く違った 小さな低い空。
座ったまま見れる限られた視野、左右に60度上下に180度。
ダウンコートを着て甲板に立っていた数日前。
今は蚊取りのスプレーを数回押して、空を見上げています。

たった一度の人生の、一瞬一瞬が風に飛ばされるように過ぎていきますね。
そんなことを思いながら
見上げた空や、感じた風を思い出しています。

ノルウェーは、眠らない国、白夜でした。

2017-06-22-17-37-362017-06-22-23-21-36真夜中12時ごろに少し暗くなりました。

この写真をクリックして拡大して見ていただいて空気の冷たさや、風の強さを感じていただけたら嬉しいです。

船は、壮大なフィヨルドを過ぎていきましたが、ずーっと見ているといつの間にか見慣れてしまいました。そんな贅沢すぎる時間を過ごしました。



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この瞬間が、何時なのか分からなくなり時間を見失い、迷子になったような気がしました。



接近してきた岩や反対側に広がる草原や小さな家。
そこに住みながら、どんな人生を送っているのかしら?
あの家の中で家族の歴史が過ぎて行っていると思うと、尋ねて行ってみたい気がしました。
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雪解け水が滝になって、大きな音を立てながら流れ落ちていました。

手ですくって飲んだから、きっと飛び上がるほど冷たくて、でもすっきり切れ味のいい水の味がするんじゃないか?と思いました。
2017-06-23-00-12-362017-06-22-22-43-53ランチの後に、この日は鮨パーティーがありました。

物おじしないま~ちゃんが、「誰か、サーモンを持ってみますか?」の問いかけに、元気よく手を上げて、大きなサーモンを抱えて屋上に集まったたくさんの人たちに見せていました。


さすが、ま~ちゃんです♪ 

2017-06-23-05-37-25そしてこの日は、館内放送で、ま~ちゃんの歌声が響き渡りました。

甲板で、一人で歌を歌っていたま~ちゃんに、船長さんが気が付き、館内放送で一曲クラッシックを歌わせてもらい、翌日には、

レストランの入り口付近にあるレセプションのマイクを通して、二曲を歌いあげました。

綺麗な透き通った彼女の歌が船の中を通って行きました。

彼女は、お食事の時などに、隣り合わせになった人たちやウェイトレスの人たちと、お喋りを2017-06-23-02-25-372017-06-23-02-26-28して、すぐ仲良しになり、それは彼女の特技です。


覚えだしたノルウェー語、留学していた時に覚えたドイツ語や英語を使って、いろいろな国の人たちと元気で楽しいお喋べりをしていました。

私も物おじはしないほうですが、彼女のガンガン攻める勢いには、いつも関心させられます。。そして母親の心境で見つめています。
若さといつもニコニコの笑顔の彼女のパワーは、人の心を開き、周りの人たちを笑顔にしていました。
それは彼女の良さで、チャームポイントだといつも思っています。

今回のクルーズの中で、一番楽しみにしていたのは、乗馬でした。
モンゴルの草原を走った時から、自由に乗れる乗馬が大好きになった私です。
と言うことで、乗馬をしました。

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約4時間のアクティビティでした。

2017-06-23-04-01-39牧場から海岸に出て、丘を登り、降りて、また海岸に出て、黄色の花が一面に咲いている草原を抜けてまた牧場に帰ってきました。

初心者が3人と私の4人での参加でしたので、馬を走らせたのは最後の草原から馬場の中を一周した時だけでした。
馬に乗りながら、バイキングが昔住んでいたという丘にはセカンドハウスが点在していて、そこを通りましたが、私は住んでいる人たちに思いっきり手を振って、ご挨拶をしました。住人の人たちも窓越しから手を振ってくれました。また庭でお茶をもんでいた人たちには、「素敵なお家ですね」と大声で、声をかけると、ありがとうと笑顔が返ってきました。

海に向かって開口部が大きくデザインされていて、夕日や一日の海の様子を眺めながら生活ができるその家々は、素敵でした。
私の馬も、他の馬もみんな大人しく、整列して歩くことを訓練されていました。

馬場まで帰ってきたとき、「速足にしますか?」と問いかけられて、「Yeah~~~~~!」と答えて、走り出した時、ま~ちゃんが後ろで何度も「落ちるぅ~~~~」と叫んでいました。^^付き添いの人が、手綱を引いて!と言っているのが聞こえました。

でも、本当にそんなには早く走っていなかったですし、落ちても砂だし、大丈夫だと思いました。
チョンチョンというくらいにお尻を少しリズムに合わせて上げての速足くらいでした。

モンゴルでは、中腰で、みんな「ヒーハー~~~」と叫びながら草原をものすごい勢いで走り、川をバシャバシャと渡り、、、、う~~~~ん本当に忘れられない思い出になりました。
あの時、頬や体を通り抜けていった風や馬が走り込み、大地を蹴上げる強さを体中に感じたその感触は、きっと死ぬまで鮮明に残っていると思います。本当に楽しかったです。

だから、今回の乗馬は、のんびりパッカポコパッカポコと乗っただけなので、乗馬の楽しさと言うよりは、景色の美しさだけを体中に吸い込みました。

牧場に帰ってきたら出迎えてくれた小さな馬が、私をじっと見ていました。
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次回があるとしたら、もっと思い切って走らせてみたいです。





お食事は、夕食はコース料理、朝、昼はバイキングでした。


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タラバガニがランチで出た時には、思いっきり食べちゃいました。

いろいろな種類のチーズ、トナカイの肉などもいただきましたが、
結局3K太って帰国しました。



ですから今、減量中です。。。

クルーズから帰った翌日は、朝から、これまた懐かしいムンク美術館に、まーちゃんのお父さんと行きました。
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フラッシュをしなければ、撮影OKと言うことでしたので、いろいろ撮ってしました。^^
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ムンクはフランスでモナに影響を受けています。


彼の代表作の叫びは、後半に描かれていますが、その前は印象派に影響を受けて絵を描いていました。
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ムンクがノルウェー人だと知っている人は、日本では、きっと少ないと思います。
小学生の高学年で、ムンクの叫びを勉強して以来、興味を持った画家ですが、20年前にもこの美術館に来ました。その時にも彼のスキルに驚かされ、子どものころから描いていた絵を見ました。

医者の家族の中で育ち、両親と兄弟、姉妹を病気で亡くし、絶望の中での彼の絵は、深い悲しみや絶望感が漂っています。

どの絵を見ても、感動するばかりでした。

そして、出発の前日の夜、ま~ちゃんが教えている書道の生徒さんの書道パフォーマンスがあると言うことで、それを見に行きました。

2017-06-24-01-29-14私もイギリスに住んでいた時、短歌を書道で描いて、個展をして売りましたが、海外で経済的自立をするのは難しいです。

ですから、ま~ちゃんがこれからどんなふうに自立していくのかを見守りたいです。

その大変さもよく分かっているので、遠くから見守るだけしかできませんが、きっと彼女は、そのバイタリティーでガンガン切り開いていくと思います。

そしてそれを願っています。
彼女の人生が輝いて欲しいと願っています。

頑張れ~~~~~、ま~~~ちゃん!

20年ぶりのノルウェー1

*写真はクリックして拡大して見てください。

今回のノルウェー行きは、カンボジアの孤児たちの教育支援を一緒にしている愛の素のメンバーのま〜ちゃんに会うのとフィヨルドクルーズ、そして20年ぶりのノルウェーの住宅の状況を見にいくことが目的でした。

   ま~ちゃんのお父さんと羽田で待ち合わせをし、 19日の夜中0:00頃に羽田を発ち、ドバイ経由で時差-8時間のオスロに到着したのは、天候が悪くオスロ上空で約40分旋回しながら待ち、13:30頃でした。
羽田から通常ですと10時間45分でドバイに到着しま宇sが、旋回時間があり、約12時間かかり、
ドバイからオスロまでは7時間です。

イギリスに住んでいるときに、オスロへ行った際には、飛行機が上がって、すぐ下がった記憶しかないので、日本からは、こんなに時間がかかるんだと、へとへとに疲れて実感しました。

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飛行機から見えたノルウェーは緑に覆われた国でした。 20年前は、二月に行ったので、雪に覆われていました。

2017-06-19-22-24-05 2017-06-19-22-25-38 到着後、ホテルにチェックインをして、すぐま~ちゃんとお父さんと食材を買い出しに行きました。





移民者が買い物に来る価格の安いマーケットは、他国民の人たちがたくさんいました。

2017-06-19-22-28-09 そして、見慣れない果物を発見! どうやら桃らしいのですが、、、食べたことがないので、甘いのかどうか、分かりません。多分ケーキに使う桃だと思います。

その日の夕食は、ま~ちゃんとボーイフレンドが住んでいる新しいアパートで、彼らが作ってくれたタコスをいただきました。
ま~ちゃんは、日本で教師の仕事をしているときより、はるかに、はるかに幸せそうでした。
ストレスの多い日本での仕事は、彼女には合いませんでした。
1年目から、上下関係やパワハラなどに苦しんでいました、泣きながら電話がかかってきて、その度に、全体が見えるまで3年は頑張ってね。クラスを持つまで頑張ってね。と言い続けた私でした。
彼女とはアフリカのウガンダで出会って以来の年の差無用の友達です。
ですから、もう8年以上のお付き合いですが、彼女の自由さと呑気さを考えると日本のストレス社会は合わないので、ノルウェーは、生きやすいのではないかと感じました。

30歳を前にして、何よりも愛を求めて旅立ち、恋を見つけて、そこに突き進んだのだから彼女は夢をかなえたんだと思います。  その行動力には脱帽です。そういう幸せの見つけ方があるんだとまざまざと見せてくれた彼女です。
彼とは漫画オタク同士でつながったようで、彼も日本語がペラペラで、正直で優しい彼で、安心しました。

2017-06-20-15-49-30 2017-06-20-15-11-20 2017-06-20-15-03-58 翌日は朝早く起きてまたオスロ空港まで電車で行き、それから国内線に乗り、キルケネスに向かいました。

料理が好きじゃないと言っていたま~ちゃんが作ってくれたあんこ入りのパンケーキ、お茶ケーキ、人参ケーキは、びっくりするくらい美味しかったです。

よく家に泊まりに来ていた時も、料理も掃除も好きじゃないと公言していたのですが、すっかり変わっていました。
やっぱり、恋をすると変わるのねぇ~と、ちょっとからかっちゃいましたが、言葉使いも「:::っすよ!」と言っていた言葉も消えて、女の子らしい言葉になっていました。  思わずふふふって微笑んじゃう事が度々でした。
2017-06-21-13-57-57 2017-06-20-21-35-31 2017-06-20-18-51-24 キルケネスから400km北には北極点があります。

現在もロシアからの買い物客が多いそうです。


ダウンコートを持っていきましたが、オスロ市内では18~20度前後でしたから必要じゃありませんでしたが、さすが、ノルウェーの北では、まだ雪が残っていました。寒かったですが、白夜なので、真夜中でも明るかったです。
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舟は強風の吹くフィヨルドを南下していきましたが、乗船した時は船が揺れて酔ってしまいそうでしたので、酔い止めを飲んでとりあえず眠りました。甲板の上を強風が吹きすぎていき、立っているのがやっとでした。

でも、気持ち良い寒さと風でした。
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2017-06-21-03-24-42 2017-06-21-23-21-11 2017-06-21-15-29-02 曇った空と冷たい風が吹きぬける海、船から見える陸地は色が抜けた、白黒の写真のようでした。








2017-06-21-22-58-15 2017-06-21-22-58-26 舟の上にはパノラマルームがあり、暖かな部屋からフィヨルドの景色を見ることができます。

下の階には、バー、レストラン、カフェラウンジなどありますが、このパノラマルームから景色やいろいろな色や形に変わっていく空を見上げてコーヒーを飲んだりしてのんびり過ごすのが一番良かったです。
ま~ちゃんのお父さんは、ビールやワインを飲んで、朝からまったりしていました。


2017-06-21-23-21-32 2017-06-21-17-54-44 2017-06-21-17-54-47 翌日はま~ちゃんとお父さんは、違う町に降りて違うコースを進みました。

私は、Hammerfestと言う町に降りました。
ここで2時間のハイキングコースに参加しました。

サミー人(エスキモー人やモンゴルの遊牧民と同じようにゲルで移動しながら生活している現地人)の家を見ることができましたし、一般的な家も見ることができました。

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港から見える丘に登るコースですが、ガイドのハリーナに、いろいろ質問をしました。
この町の中心には2000人の人が住んでいて、近隣には1000人が住んでいるそうです。

小さな町ですが、ガスをロシアやUSをメインに売っているので、裕福な街だそうです。

2017-06-21-18-14-29 2017-06-21-18-02-05 2017-06-21-18-02-09 今、移り住む人が多くて建築ラッシュで、家賃は1Roomで800$ですから98,000円くらいでしょうか?

かなり高いそうです。また建築が間に合わずに、移り住めない人たちがたくさんいてまっているそうです。



2017-06-21-18-28-30 2017-06-21-18-41-34 2017-06-21-19-07-30 2017-06-21-18-40-44 2017-06-21-18-45-33









町を見下ろす丘からの眺めは、下に広がる家々の屋根を見下ろし、通りを見下ろし、晴れた日にここに来たら、きっと好きになり移り住みたいと思っちゃうかもと思いました。

2017-06-21-18-02-47 2017-06-21-18-02-52 ヒットラーが攻撃してきた後に建築された教会、町は壊滅状態だったそうです。

ハリーナは、日本にいつか行きたいと言っていましたが、参加者のドイツ人の人たちにはドイツ語で、私には英語で説明してくれました。

留学のお金は、政府が出してくれるたので彼女はドイツに留学してドイツ語を勉強したと、確か言っていたと思います。
2017-06-21-18-23-54 ドイツ人の他の3人の参加者とハリーナに、日本の学校給食や家庭科で料理を習う事を話して、日本の食育について説明しました。
みんな日本の教育は、素晴らしいと言っていました。  私としては、ストレス社会と競争教育についても話せばよかったとその夜、会話を思い出して思っていました。






2017-06-21-19-19-48 2017-06-21-19-19-54 2017-06-21-19-25-53 丘の北側には、雪が残っていて
時々冷たい小雨が降る中で、雪に飛び込み泳ぎました。

雪に大喜びする私を見て、ハリーナもとっても喜んでいました。

2017-06-21-19-27-32 2017-06-21-19-28-31 2017-06-21-19-28-34 サミー人のゲルやエコハウスを見て、時間が無くなってしまって、駆け足で丘を下り、ハリーナにお礼を言い、船に乗り込みました。
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いつか彼女が日本に来て勉強できるがあったらいいなと思います。
一期一会、彼女お人生がこれからも輝いて欲しいと思いました。

2017-06-21-18-27-05 2017-06-21-18-27-25 Fammerfestに行くまでに8カ所の町に止まりましたが、時間が短く30分くらいでした。
その間に、急いで町の中を走り、家々の写真を撮りました。





2017-06-22-02-32-02 2017-06-22-02-33-53 2017-06-22-02-34-43 2017-06-22-02-34-53






2017-06-22-02-35-14 2017-06-22-02-38-02 2017-06-22-02-38-43 2017-06-22-02-40-33







20年前と変わらないデザインの家々と街並み。

北欧から、ヨーロッパからアメリカに移民していった人たちがたくさんいますが、アメリカの家を見るたびに、「あ、これはスペイン系ね、北欧系ね、イギリス、オランダ」などなど思いますが、ルーツを見る思いです。

その夜、Tromsoで11時過ぎから教会でコンサートがあると言うことで、観に行きました。

2017-06-22-06-55-25 2017-06-22-06-57-45 2017-06-22-06-59-32 ノルウェーの田舎にある教会のデザインは、入り口付近の屋根が急こう配で、雪が流れ落ちるのを考えてのデザインだそうです。

ここでコンサートがありましたが美しい透き通った声が教会の中を透き通ったまま響いていました。

あまりの美しさに、感動して涙が流れてきました。

ここに動画でご紹介したかったのですが、ちょっと無理なのが残念です。

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続く。。。

父の日を前に

大正11年生まれの父は今年の3月5日で、95歳になりました。

お腹が痛いと言って入院した約2年前、ただの便秘だったにもかかわらず、夜ベットから出て自分でトイレに行こうとした父をベットに手足を縛り、睡眠薬を投与して夜中にトイレに起きないようにした病院の対応は、最悪でした。
その説明も、一人で勝手にトイレに行こうとして、看護婦さんが気が付き、ベッドに戻ってと言っても「自分でトイレに行けますから」と言って指示に従わないから、縛りました。薬も起きないようにたくさん投与しましたと言うものでした。
ケースワーカーをしている友達に今年になって尋ねたら「病院は人手が足りないから、勝手にトイレに行って滑って転んだりしたら病院への責任を問われるからそうするのよ」と言う説明でした。

私たち兄弟、家族は、看護婦さんの指示に従わずベットに立ち上がるという説明受け、足が悪いのに立ち上がる訳がない、何か変だ、でも何が何だか分からない状態でした。
父は人に迷惑をかけるのが好きではないので、できることは一人でなんでもしようと生きていました。
それまでの父は庭の掃除やごみの処分、木の枝の選定など、一人でしていました。
母が亡くなってからは、お湯飲み茶わんをかたずけたり、食器を洗ったりもしていました。
会話も普通に冗談を言い、難しい社会問題についても会話し、元気にくるくる動き回っていました。
木の枝を選定している際に梯子から足を滑らせ、入院したこともありましたが、その際も会話ができました。

でも、今回は入院してすぐに口が回らなくなり、意識がいつ行っても朦朧としていました。目は虚ろで、いつ行っても眠ってばかりいました。

どう考えても病院の言っていることは変だと感じ始め、足を痛めている父が一人でベットに立ち上がることはできない状態なのに、「ベットに立ち上がり危ないんです」と言う病院の説明を、日を重ねるごとに信頼ができなくなり、兄二人と弟に、「退院させよう、違う病院へ移そう」と言い続けました。

「自宅介護で、デイサービスに通ってもいいんじゃない?」「いや~親父は、そういうところへ行くのいやなんじゃないの」などなど、兄や弟と話してもなかなか良知が明かず、とりあえず、私がまず市に相談に行って、などなどいろいろ調べ、兄弟たちに提案しました。

IMG_8005そして、約2か月後やっとナーシングホームに移りました。
それから、月一で父のお見舞いに二番目の兄、くんちゃんとみち子さん夫婦と一緒に行き、車いすを施設からお借りして実家に外出をするということをしてきました。
二番目の兄家族は千葉に住んでいて、父のお見舞いは、いつも彼らを迎えに行ってからホームへ行きます。

私一人では、抱えきれない父を、兄嫁のみち子さんが、介護の仕事をしているので、要領よく車いすに座る介助をしてくれたり、車に乗り降りの介助をしてくれるので、とても助かります。

実家では、一番上の兄の奥さんの静子さんが、「おじいちゃんは水ようかんが好きだから」と言って、いつも用意して待っていてくれます。
父はそれを美味しそうに平らげて、犬のこうちゃんを抱き、撫で、それから移動で疲れるのか横になって眠ります。

3月の父の誕生日前に行った際に、来月は桜を見せてあげるねという約束をしていたので4月の初めの休みに施設を訪れましたが、その日は冷たい風が吹いていて、到底外には連れ出せませんでした。
兄夫婦とランチ後に爆睡している父の寝顔をみんなで見て、「今日は寒いし眠っているから、起こすの可哀そうだね」と言って、その日は帰ってきました。

ですから、今週の水曜日のお休みの日に、約1ヶ月半ぶりに行きました。
ナーシングホームに移ってから父は会話もできるようになり、よく外に散歩に行こうと言ったり、会話もできるようになりました。

24日に迎えに行った時は、スタッフの方々から、「最近は自分で食事をしなくなってしまいました」と聞かされ、やせ細った父に驚きました。

約2週間前に食欲が減退している父の脳に問題があるのかをチェックしてもらいました。
そして、問題はないとの回答を脳スキャンの画像を見せていただきながら受け、兄たちと安心しました。、脳の萎縮はなく、認知症ではないという状態もよく分かり、本当に良かったと思いました。
ただ、自分で食事をする、自分で立ちあがるなどの行動意欲がなくなってしまった原因が分かりません。
父の知り合いが父を訪ねるとしっかりと目を開き、毅然とした態度で向かい合っていますというホームのスタッフからのお話に安心しましたし、みち子さんへの感謝を話したり、お茶目に私を脅かしたりしました。

久しぶりだったので「私はだ~れか分かる?」と尋ねるとフルネームで「きたはらけいこ」とニヤリと答えました。

その後に、私を見て
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手をこんな風にお化けの真似を3度も脅かしました。
私は思わず「な~~~にぃ????それ」と尋ねましたが、その後は知らんぷりの父でした。

父は、私が小さかった時、夜になるとよくお話をしてくれましたが、、お話の最後はいつも怖いお話になり、私を脅かすというパターンが繰り返されました。

そのたびに最後は母に泣きつきながら「怖い話するぅ~お父さんが」と告げ口をすると、母が父に「夢でうなされるから」と窘めてくれました。

さて、そんな実家に父を連れ兄夫婦と一緒に帰った水曜日でしたが、いつものように兄弟と兄嫁たちを囲んで、大爆笑が起こりました。

笑い上戸の私たち兄弟、妹は、子供のような冗談で涙を流しながら笑います。

一番上の兄が左側の歯が奥から数本抜けていて、父と同じようになっていたので、私が大げさに「何言っているのか分からないぃ~ふぁふぁふぁって抜けてるぅ~」と笑いながら言うと
くんちゃんが「話にならない。歯なしだから話にならない」と親父ギャグを言って、笑い出し、涙を流しながら大笑いを一番上の兄と一緒に始めました。
兄が「ふぁふぁふぁ」と何を言っているか分からない言葉をわざと発して、「ここから音が漏れるんだよぉ~」と右手で左側の歯が抜けたほうを覆いながら、歌舞伎役者のように何度も同じしぐさをしてみんなを笑わせました。

二人で同じように同じ言葉を繰り返し大笑いし、涙を拭いていました。

私はあまりのバカバカしさに「ねぇ~なんで一番上の兄貴なのに、髪が黒くて、薄くならないの? ホント、気が楽にできているからだよねぇ~」と、言うと、
くんちゃんが「うちの家族はみんな若く見えるのは遺伝子のせいだよ」と、嬉しそうに言いました。そして「まぁ~うちはみんな楽天的だからじゃないのぉ~、そうだよ、」と。

母が時々私たちに「上を見たらきりがない、下を見たらきりがない。人生ケセラセラだよ」と言っていたねと兄が思い出し、話し出したので、
そうだね、そうだったねと。

そして私たち子供には「貧乏な人を笑うんじゃない、学力のレベルが低い人を笑うんじゃない」と言うことをよく言っていました。養女になって苦労した生い立ちから生まれた言葉でした。
そんなことで人の価値は決まらないという教えでした。

父は噓をつくことを徹底的に許しませんでした。清く生きるという教えでした。

そんな教えを私たちは時々思い出しながら人生を重ねています。


そして、静子さんが作った杏仁豆腐とお茶をいただきながら、私たちは思い出話をしました。
私が、今日迎えにいったらお父さんがこんな風にお化けの真似をして何度も私を驚かせたんだよぉと兄たちに言うと、
二人の兄が、それは「啓子に会えて照れていたんだよ。嬉しかったんだよ」と。

私は「えぇぇぇぇ、そうなのぉ~?意味が分からなかったわ、突然そんなことしたんだもの、ね。みち子さんも見てたでしょ~」とみち子さんを見ると笑いながらうなずいていて、

彼女と二人でうんうんとうなずきながら「何だったんだろうねぇ~?」「何が言いたかったのかしら?」と。

でも、兄たちが言うように「久しぶりに会ったので嬉しくて照れ隠しだよ」と言う言葉が、今はよく分かります。

そうだよね、1か月半ぶりだもんね、と。

内心、古い男性は、言葉で言わないで、そんなことで表現するの?と思いながら首都高速を走りながら帰ってきた私です。

兄たちとの会話は、子供のころ父は私に「女の子でも何でもできるんだよ」と育てたのに、母が亡くなるまでは、家事一切手伝ったことのなかったよねぇ~。
私はよく父に「お父さん、自分のお茶くらい自分で入れなさ~い」とか言われていたけど、そのたびにニヤッっと笑ってごまかしていたよねぇ~とか、
母が養女に出された先の兄弟、姉妹をここで(実家)で受け入れ、花嫁修業や人との付き合い方などを学ばせてから、みんな結婚し、独立していったねと話をしました。

そして母の生家の姉妹も受け入れていたこと、私たち子供が4人もいたのに、大変だったけど、受け入れて独立できるまで家にいたよね、みんな。と昔を思い出して、そんな会話をして帰宅しました。

自分の兄弟、姉妹を大切にしたけど、母のたくさんの兄弟、姉妹たちも受け入れていたよねと。

やせ細った父の身体をみち子さんが、お姫様抱っこして実家に買っておいてある車いすに座らせてくれるその姿に、胸が熱くなりました。
みち子さんが、父の足を触って「わ、こんなに痩せっちゃって。。。。」とつぶやいた言葉が、私の心の中で、ぐるぐる回っていました。
そしてみち子さんが風で乱れた父の髪をそっと撫でて直してくれるその優しさに、胸が熱くなりました。
本当の娘のように、父に接してくれる兄嫁たちに感謝の気持ちでいっぱいです。

私は、兄が酔って起こしたいたずらを思い出し、「あれは、何したかったのぉ?」と大笑い。
くんちゃんも「兄貴が***して持ってきたあの***は、ずっと庭の横に置いてあったよね」と大笑い。

でも、酔っていろいろないたずらをした兄を一括した父は厳しい父でした。
父も母も口癖は「まっすぐに生きなさい」でした。

母が私たちが若い時によく「うちの子供たちが誰一人として道を外さなかったことは、奇跡だね」と言っていましたが、それほど、父は強くて厳しい人でした。基本を曲げない人でした。でもお茶目でもありました。

大人になってから、家では威厳のある父が実は友達同士の間では、酔って腹踊りをしたことがあるという話を聞いた時ほど、驚かされたことはなかったと、私が話すと、兄が「あれでなかなか面白かったんだよ」と。

眠る前にしてくれた指人形のお話も、詩的で独創的でした。
でも、反抗期の私は口もききませんでした。父の矛盾が受け入れられずに。

そんな時、母は私に「人は白と黒に分けられないこともあるんだから」と、窘めてくれました。
そして、私を溺愛をした父が、私に「けいこは***小町で可愛いから、誘拐されちゃうからお祭りは行っちゃいけない、***に行っちゃいけない」と言っていました。 
それを聞きながら母は、父と私に「どれだけ親バカなの」と言い、私に自分を客観的に見ること、父から見たら私は可愛いけど、一般的にはそうでもないんだという事実を伝えてくれました。
その反面、父は中身を磨きなさいともよく言っていました。
そのお陰で、そういう意識を私たち兄弟にしっかりと植えつけました。

今思うと、父は私が、「友達の**ちゃんと**ちゃんと***ちゃんと一緒にピクニックに行くから迎えに来てね」と頼むと、夕方車で迎えに来てくれて、友達をみんな家まで送ってくれました。
友達のうちに遊びに行きたいと言うと、車で連れて行ってくれました。
私を大切に思ってくれていたんだと、よく分かります。

思い出話は涙をながしながらの大笑いと腹痛に終わりましたが、
いつも集まると、言いたいことを言いあって、喧嘩したり笑いあったり、相変わらずしています。

きっと、どの家族も一緒だと思いますが、特別にうちの家族は楽天的だというくんちゃんや兄、そして弟との会話は、いつも大笑いで終わりますが、それはみ~~~んな、父と母のお陰です。

母が私を生前、「あら、極楽とんぼさん」と呼んでいましたが、極楽とんぼに育ててくれてありがとうと心から思います。

そしてみんな涙もろいお年頃になりました。
笑い上戸の上に、涙もろくなったので、母の話をしながら兄弟で泣き笑いをするときがあります。

どんな状況の中にも、毅然と生きようとする父の姿に、清く生きる姿勢を見せてくれてありがとうございます。あなたの生きざまは立派ですと言いたいと思います。

来月は、いつ会いに行けるかな?
またお茶目にお化けの真似をして、私を笑わせてくれますか?
お父さん。






















カンボジアの孤児たちのフォスターペアレントに

IMG_7448私は、毎年、1,2回カンボジアのシムリアップにある身寄りのない子どもたちを保護し育て、学校に通わせている養護施設(CPCSO=カンボジアの貧しい子どもたちを支援する会)へ訪問し、音楽(リコーダー、ピアニカ、日本の歌)絵画、料理、文化(書道)、運動などを支援者方々と一緒に、そして時に一人で教えに行っています。

立ち上げたボランティ活動組織、設立後7年目を迎えました。

そして、学費をもう数年間送り続けています。米代も送っていますが、支援金不足で送れない時もありますが、ボランティア活動のメンバーも増え、メンバーや支援者の方々の協力を得て、愛の素は昨年、”特定非営利活動法人 愛の素・AIOMOTO”の登録をしました。

これまでの活動の様子は、動画を含めて公開しているfacebook( https://www.facebook.com/ainomotoainomoto/)
や、ホームページとして作成している アメブロ
( https://ameblo.jp/ainomotoainomoto/entry-12270340387.html?frm_src=thumb_module )
( https://ameblo.jp/ainomotoainomoto/entry-12271514526.html?frm_src=thumb_module )
にてご覧になっていただけます。

現在、6人の子供たちの学費援助をしていますが、フォスターペアレントの募集を始め、やっと6人の子供たちの教育費の目途が立ちました。 ペアレントになっていただいた方々には、本当に感謝しかありません。


院内には約40名の子供と近隣の村には子供たち140人が、まだ支援を待っています。

親に捨てられた子、親が亡くなってしまって一人で生きていかなくてならなかった子、保護された子供たちの生きていた状況を知ると、言葉がありません。

IMG_7684愛の素の活動の様子を時間のある時にぜひ、覗いてみていただけますか?

壮絶な環境で生きている子供たちに会うと、日本で目的もなく楽に生きようとしている人や、自立もせず親や異性に寄生しながら生きている人をみると、生きてることに心から感謝しているこの子達の本当の純粋さに、心が打たれます。必死で生きている子供たちの健気さに、涙があふれることがあります。 


ですから、自分の人生を切り開こうと頑張っているこの子達をちょっとでも手助けできたらと思っています。

私がちょっと疲れた表情をしたりしていると「け~こさん、はい」と言って椅子を差し出してくれる子供たちの暖かさや優しさは本物で、その心の美しさに触れると自分の心も美しくなります。

子どもたちに出会えたことに、本当に本当に心から感謝です。

望まないのに逆境の中で生きざるを得なかった子どもたちは、初めはいろいろな問題を抱えて保護される子もいます。
怠けたり、嘘をついたり、盗癖があったり、いじめたり、でも、他の子と一緒に生活しながら、学校に行き、未来を見つめるチャンスを得て、いろいろ考え、感謝が生まれ優しい子どもに変わっていきます。

愛の素は子供たちを直接支援をしている小さなNPOです。

ですから、力不足で時々自己嫌悪に陥ります。
でも、やり続けることに意味があると言い聞かせながら、今日まで来ました。

IMG_7818この子どもたちの未来が、開けて、自立できるお手伝いをぜひご一緒にしませんか?

フォスターペアレント、大、大、大募集です♪♪♪

また現地滞在(施設に泊まって)ボランティ活動にご興味ある方も、大々的に募集しています。






IMG_7815昨夜は上の息子が母の日のプレゼントのカーネションを持ってきてくれました。
水道の栓がついたちょっと変わったお花を彼が選んだとのことでしたが、ピンクと赤のお花が混ざっていて可愛いです。

水曜日のお休みに、私はいろいろなお料理を作り置きしていますが、下味をつけておいたアサリのパスタとシソとにらの餃子で迎えました。 私は仕事が終わってからなので、「簡単なものしか作れないからね」と言っていましたが、
「これ、美味しい♪」と食べていました。
パスタは初め薄味だと言っていましたが、塩分の取り過ぎはダメよと、食事と運動と睡眠は、しっかりとってねと、母の顔で言った私です。

可愛いお花をありがとう。

施設の中で生活しているの子供たちの中には、全く身寄りのない子供もたくさんいます。
息子たちのように、こんな風に帰る場所のない子、お母さんの手料理を食べることのできない子、私に経済力があったら、たくさんの子供たちを学校に行かせてあげたい、一緒に食事をし、未来について語り合いたいと思います。

今年の訪問は、多分暮れになると思いますが、ぜひご一緒しませんか?

素敵な思い出と、貴重は経験が待っています。








野点のお茶会に

22日の土曜日は、現在建築中のケンジントン・ハウスのオーナーT様の庭で一品持ち寄りでランチをいただいた後に、野点のお茶会が開催されました。


IMG_1061IMG_1063先日の世田谷でのウォーキングに出会った日本のIT会社で仕事をしている日本語がペラペラのベトナム人のトゥアン君、中国のウイグルから日本語の勉強に来ているサワティ君、そしてインドネシア大使館でご主人が働いているメイラさん、(ちなみに彼女は以前インドネシアのTVのニュースキャスターだったそうです。娘さんは早稲田に通っています。)そしてアメリカ人のジェニファーを誘ってお茶会に参加させていただきました。

T様のお茶の生徒さんはアメリカ人のジェニファー、ナオミ、そしてその家族の皆さん、それから日本人の数人の女性の生徒さんたちとそのご家族、ご近所のご家族、たくさんの人数でした。
IMG_1065IMG_1066IMG_1067IMG_1068メイラとサワティ、トゥアンです。

オレンジの着物を着ているヤングレディは、6年前にT様からご紹介されてからお付き合いしているIさんの娘さんです。彼女の隣に着物着ている女性がIさんです。


IMG_1069IMG_1071IMG_1072T様ご夫妻です。      私の友達のジェニファーです。

彼女は、やはり日本文化に興味があって、T様にいろいろ質問していました。

ランチの前に、T様の提案で参加者は皆さん自己紹介をしました。

穏やかで、そして楽しい自己紹介の時間でした。

また、お茶をいただいた後に、Tさまが印刷物を用意してくださっていたので、お茶碗に書かれた小野小町についてなども、印刷物を渡しながら説明してくれました。

私は、私の友達たちにお茶の歴史や背景について、ぜひ説明してくださいとT様にお願いしましたが、とても丁寧に、そして流暢な英語で説明していただいて、友達はみんな喜んでいました。
もっともT様の準備が万全だったことが、一番でした。

そして25,6名の参加者が変わり番にお茶をいただきました。

練り物とお干菓子で2服いただきました。

私は朝から16穀米に黒ゴマ、昆布を入れて炊き込んだご飯を稲荷寿司にし、ツナとリンゴとアボガドのサラダを作り、それから6年振りに着物を着ました。
野点で略式のお茶会だと言うことでしたので、小地谷紬にちりめんの帯の着物を着ました。
昔は5分で着ることができた着物を帯だけに15分もかかってやっとの思いで結びました。
やっぱり着慣れていないと、こういう時に四苦八苦するんだと、しみじみ思いました。

これから、時々は着物でお出かけもいいかなぁ~なんて思いましたが、大股歩きの私が歩くと、絹のシュ、シュと擦れる音が大きな音で漏れるので、うううううん、やっぱり忙しい生活だし、やめようとすぐに思い直しました。

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IMG_1098IMG_1099IMG_1100ジェニファーがお点前を披露しました。








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IMG_1121IMG_1126IMG_1131ジェニファーのお点前も完璧でした。
ナーバスで、手が震えたと言っていた彼女ですが。素晴らしかったです。







IMG_11333時少し前に終わりましたが、経験できないお茶会参加にメイラとトゥアン、サワティはとっても喜んでいました。
彼らから楽しかったの言葉をいただき、私も幸せでした。

それから彼らを駅まで送り、その後私は会社に戻って仕事をしました。

皆さんの写真を撮ることや、ちょっとのアシストをさせていただいた日でしたが、自然豊かな日本の庭で、こんな風にお茶をいただけて、楽しい時間をいただきました。







誕生日のお祝いと北鎌倉、東慶寺、円覚寺

4月初めの定休日に、友達の誕生日をお祝いするために、久々に夕食のお料理を頑張りました。
彼女とは約17年のお付き合いになりますが、いい時も悪い時ものお付き合いです。
thumbnail_IMG_7453
thumbnail_IMG_7452夜は、春巻き、なます、エリンギのホタテ風焼き、煮物、もやしの胡麻和え、メインは鳥肉のパリパリ揚げ卵とじを作りました。

翌朝は、アボガドと鮭とリンゴのマヨ乗せトーストと、フルーツの盛り合わせとバナナと小松菜の豆乳スムージー、トマトときゅうりのサラダを作りました。

この日は、彼女のリクエストに応えて大山登山をしました。


花粉症の二人ですが、まだ寒いから花粉がないねぇ~なんて会話をしながら登りました。
私は昨年の11月か12月の初めにニコールと初めて登っているのですが、雪が残っていて今回は頂上までは登れませんでした。

おまけに私は車に携帯を忘れてきてしまったので友達が撮ってくれた写真をUPします。

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thumbnail_IMG_7459thumbnail_IMG_7465thumbnail_IMG_7463この日は暖かくて、でも雪の匂いのする風が吹いていて、「心がリフレッシュするね」と二人で何度も言っていました。

汗をかいた体にちょっと冷たい雪の風が本当に気持ち良かったです。
でも、4月に雪が残っているなんて知らなくて、運動靴で登った私たちです。



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山から下りてきて遅めのランチは、有名は山菜カレーをいただきました。

美味しかったです。でもご飯の盛り付けが山になっていて、笑っちゃいました。

この後は、また別の茶屋に入り、彼女はアイスクリームとお団子を食べ、私はニコールと来た時も食べたモツの煮込みを食べました。
車の運転が待っているので、飲めないねぇ~と、つぶやきながら。


21日は、オリジナルデザインのドアやサンドブラストなどの制作を依頼しているスティーブの娘さん、藍ちゃんが東慶寺のギャラリーで個展を開いていると言うことで、見に行きました。

IMG_0979彼女の作品です。








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北鎌倉の駅は、19歳の時に降り立った駅で、それ以来来ていませんでした。その時は、雪が降っていて私は白のフード付きの細身のロングコートを着ていました。
その時の寒さだけが思い出され、駅をいろいろ見ましたが、記憶の彼方に行ってしまっていて、こんなに明るい駅だったかしら?とちょっと戸惑いました。

ギャラリーでたくさんの絵を見てから、東慶寺を散策しました。
こんなときじゃないと見れないだろうと思いましたので、ゆっくり見て回りました。
東慶寺は昔離婚できな女性たちが逃げてきた駆け込み寺です。
逃げ込んでやっと心安らかに生きる人生を見つけられた女性たちの思いが深く沈んでいるのかな?と思いながら見ましたが、桜が終わり萌えだした緑に包まれた境内は、柔らかな生命力に溢れていました。

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藁ぶき屋根の中門は、時を重ねた美しさがありました。

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IMG_0999IMG_1001庭の美しさも日本独特の苔の美しさも、心が洗われるようでした。








IMG_1002IMG_1003IMG_1005それからランチを近くのレストランでいただきましたが、ちょっと贅沢にワインとチーズの盛り合わせもいただきました。

自分にご褒美ねと心の中で呟きましたが、「どんだけご褒美上げるんかい!」と言う突っ込みも聞こえてきました。



IMG_1009IMG_1010鴨の燻製の地場の野菜つけ麺は美味しかったです。




ワイン・各チーズ、レーズンの産地の説明がありましたが、覚えられませんでした。でもチーズとレーズンとワイン、そして鴨の燻製はとびっきり美味しかったです。

駅までの道に、円覚寺があったので、まだ時間的に余裕があったので、「よし!ここも見よう!」と強く心に決めて、見ました。
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建築も庭園もすべて美しかったです。「もう、これはちゃんと時間を割いて見に来ないといけないな」と思いながら見て回りました。
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近くに?に住んでいながらこれらの美術品を見に来ていなかったことに、改めて「何やっているんだろう、今まで!見に来るべきだよね!」と自分を叱りたい気持ちになりました。

IMG_1041IMG_1042IMG_1043翔子さんの書もありました。IMG_1044









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言葉もなく、ただただ命があふれだした緑の木々を見つめていました。

それから帰社して、3時半くらいには通常の仕事に戻りました。
こんな時間は、やっぱり必要だねとしみじみ感じた半日でした。













交際交流 in 世田谷

先日、三軒茶屋駅から豪徳寺、そして松陰神社まで歩く国際交流のウォーキングアクティビティーに参加しました。
thumbnail_IMG_7339 裏道や商店街を歩いたので、参加者の方々と楽しくお喋りしながら、いろいろな国の方々と交流を持ちながら歩くことができました。

途中で見つけた枝垂れ桜です。
日当たりの良い遊歩道の脇に、こんなに開花していました。
海外からの参加者の人たちも、桜にはかなり興奮して「美しい~」と連発していました。



歩くこと約1時間で豪徳寺に着きました。

thumbnail_IMG_7340 thumbnail_IMG_7342 日本企業で働いている3人のベトナムの若者たちです。

IT関係の仕事をしていて、日本の生活は楽しいと言っていました。
トゥアン(私の横の男の子)は日本語が完璧!ペラペラでした、女の子たちは、日本語勉強中で、英語での会話もできないので、片言の日本語でお喋りしました。

私がベトナムに行くんだったらどこがいいの?と聞いたので、
ベトナムに行くんだったらダナンがいい、でもパクチーを食べれないとベトナムでの
食事は、ちょっと困るかも?と。
でも、私はホーチミンに2001年か2002年に行っているので、食べ物は大丈夫よぉと。
トゥアンによるとベトナム人も新婚旅行に行きたい場所はダナンで、ビーチが綺麗ということでした。
今年の息子との旅行の行き先を、まだ決めかねているので、ダナンを調べてみようと思いました。
みんな20代前半の若者でいい子たちでした。

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この日、私は豪徳寺が招き猫の発祥の地と言われているのを初めて知りました。

thumbnail_IMG_7349 thumbnail_IMG_7350 thumbnail_IMG_7356 ウキペディアに書かれていますが、この日のコーディナーターの方の説明も同じでした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%AA%E5%BE%B3%E5%AF%BA

招き猫発祥の地とする説がある。井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所としたという[2] [3]

豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)」と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置く。招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫である。
以上ウキペディアから。

奉納されている招き猫の多さにびっくりしました!
thumbnail_IMG_7351 thumbnail_IMG_7353 thumbnail_IMG_7354 台湾人のチュァユーが撮ってくれた写真です。
彼女も日本企業で働いていて、今日本語猛勉強中だそうです。

私も台湾人の友達二人がいて、彼女たちとの思い出や出来事を話しました。

日本企業で働き、お金を貯めてフォトジャーナリストの夢に向かって世界一周旅行に旅立ち、北欧から回ったイスラエルの山道で、足を滑らせ、突然天に上がってしまったゆーちんとの思い出を私は話しました。
その思い出は、私の心に深く、深く生き続けていて、彼女が旅先から送ってくれた私が行きたかった場所の写真や、美術館で観た私に似ている像の写真をはがきにして、啓子を思い出して元気をもらったよと書かれていて、その葉書が彼女が亡くなってから1か月くらい後に届いて、泣き崩れたしまったこと、今も深い悲しみだと話しました。  でも、彼女は自分の夢に向かって進んでいたとも話ました。

ゆーちんは有名な大手日本企業に働きながら、仕事の中での差別に苦しんでいました。その苦しみを話したくて私の家に何度も泊まりに来ましたが、チュァユーは、そんな問題ないのかな?と思い、彼女に日本で働くのは楽しい?と聞いたところ、「はい、楽しいです。日本語も勉強中ですから」と。
「良かったわ」そんな会話を交わしました。

そして、今建築中のKensington Houseのデザイン・建築を依頼していただいたTさんが今月開催するお茶会に興味があったら来ない?と誘いました。
すると「はい!行きたいです!」と、即答でした。

スェーデン人のジェニーは日本人の男性と結婚していて英語教師をプライベートの学校で教えているそうですが、彼女も日本語が話せました。
豪徳寺の中には三重塔があり、招き猫の彫刻が真正面についていました。

thumbnail_IMG_7359 thumbnail_IMG_7360 thumbnail_IMG_7363 小さな白い彫り物が招き猫です。

私は、中国人の友達が来るたびに持ってきてくれたいろいろな小さな招き猫の置物があり、現在5個あるので、その友達として小さな、小さな招き猫を記念に買いました。

それから、参加者役50人くらいは通訳の方に促されて井伊直孝のお墓の見学をしました。
thumbnail_IMG_7365 このお墓の珍しいデザインは、屋根がついていることです。
初めて見た墓石でした。





そこから歩いて区の自治センターまで行き、ランチタイムでしたが、私はイギリス在住の際に時々作っていた鮭と玉ねぎ、リンゴ、レタスのマヨのサンドイッチにアボガドも入れたビックサンドを作って持っていきましたので、数人とシェアしました。
Tさんは、巻き寿司を作って持ってきてくださったので、サンドイッチとシェアしました。
それから、松陰神社まで、また歩きました。


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豪徳寺、そして松陰神社と寺と神社の両方を訪問し、その違いをバイリンガルに説明を受けました。
外国人の参加者はみんな、興味深く聞き入っていました。 私は、ちょうどその時、建築を見て回っていましたので、聞き逃してしまいました。

thumbnail_IMG_7371 一番奥にあるこの鏡のことについても説明があったと思いますが、スピーカーから流れてくる説明を離れたところまで、聞こえてきましたが、建築の目が行ってしまい、今思いだそうとしても細かな説明は全く思いだせません。

でも、鏡はそこにありのままの自分を映し出すもの、自分を見つめるものとしてあるという説明をされていたようでした。

ネットで調べたら、こんな文章を見つけました。

 神社に鏡があることは、外なる神さまを拝んでいるようにみえて、実は鏡に映った内なる
 自分自神を拝んでいるということに気づけば、自ずと拝み方も分かってきます。

 要するに、発した祈りが、そのまま自分に返ってくるということですから・・・

   無理ある祈りには、無理なる人生が・・・
   笑顔で祈ると、笑顔の人生が・・・
   不満の祈りには、不満の人生が・・・
   感謝の祈りには、感謝の人生が・・・

 と、いって、本音ではない祈りをしても、自分の神さまを通じて、神社の神さまにも情報が
 漏れており、すべてお見通しなので嘘は通用しません。


と書かれていました。
うむうむと読んでちょっと納得。そんな風に考えて自分と対峙する習慣を持つことはいい事ねと。

thumbnail_IMG_7373 thumbnail_IMG_7375 thumbnail_IMG_7374 神社内には、吉田松陰のお墓もありました。

豪徳寺と松陰神社は、因果関係が深いですが、外国人の方々はそのお話を興味深く聞いていました。

吉田松陰が開いた松下村塾の模造建築物がありました。

下記ウキペディアより
松陰神社について

東京都世田谷区若林に所在する。旧 社格 府社。付近には 国士舘大学 (世田谷キャンパス)や世田谷区役所がある。 東急世田谷線 松陰神社前駅下車。

鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。松陰が 安政の大獄 で刑死した4年後の1863年文久3年)、 高杉晋作 など松陰の門人によって小塚原回向院 にあった松陰の墓が当地に改葬された。1882年明治15年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は 1927年 から1928年にかけて造営されたものである。

松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文木戸孝正 山縣有朋桂太郎乃木希典 井上馨青木周蔵などの名前が刻まれている。 松下村塾 を模造した建物、頼三樹三郎広沢真臣 らの墓もある。松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、明治元年(慶応4年)、木戸孝允がこれを修復整備した。墓域には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。また、敷地に隣接する形で 桂太郎 の墓もあるが、案内が不十分なこともあり、参拝者は少ない。桂自身の遺言により、この地に埋葬された。

ともに松陰神社がある縁から、1996年に世田谷区と萩市は友好都市提携を行っている[1]。1992年より世田谷と萩では商店街などの民間交流がはじまった [1] 。若林では「萩・世田谷幕末維新祭り」が開催されている[1]

なお、徳富蘆花の「謀反論」でも書かれているが、谷を挟んだ向こう側には 豪徳寺 がある。豪徳寺は吉田を刑死させた安政の大獄を起こした 井伊直弼 菩提寺である。


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藁ぶき屋根の下地が見える模型がありました。

数年前に松山に行った際に、文化財に指定された藁ぶき屋根の家を見学に行き、藁の葺き屋根の葺き替えに2千万かかるから個人ではできないと言うお話をオーナーに伺いました。
そんな話を思い出しながら、数人の日本人の方とお話しました。

まず藁が手に入らない、職人さんがいない、と言う理由が高値の原因ですが、囲炉裏でいぶされて虫も来なくなり、梁も炭化されて空気の清浄効果(?)もあると言われていて、断熱効果が高いのは、通気がとれて空気の層ができるからだと、説明させていただきました。 イギリスやアイルランドにもある藁ぶき屋根の家は、やはり高価で、今も価値が高いけど、職人さんは、日本よりいると思います。
伝統と良いものが残り受け継いでいく文化は、やっぱり素晴らしいと思います。
外壁と床下の断熱をしっかりしたら、素晴らしく住みやすい家になると思っている私です。
いつか、私も藁ぶき屋根の断熱効果の高い家をリノベーションでも新築でもしてみたいと、憧れています。

thumbnail_IMG_7378 さて、この日出会ったインドネシアの大使館にご主人が勤務していてマイラさんと早稲田大学に通っている娘さんのインドネシア人親子もお茶会に参加したいということで、誘って良かったと思っています。
彼女たちとは、三軒茶屋の駅で朝、出会ってすぐにお友達になりました。

また、ウィグル地区から来ている青年も、ぜひぜひ参加したいとのことで、楽しみにしているとラインで言ってきました。

彼とはウィグルの社会情勢について話しましたが、英語は殆ど分からないので、もっか猛勉強中の日本語で会話しました。でも、公安(中国の警察)の取り締まりが厳しくてネットもできない状況だということを聞いて、18年前に中国の広州工業大学で教えていた時と変わらないんだと実感しました。でも私は学生たちとの心温まる思い出があります。だから学生たちはみんな一生懸命勉強し、素敵な思い出があるのと話しました。
ただTVの検閲も思い出し、またクラスで社会問題についてディスカッションができなかったので、その話もしました。  やはりまだ国家権力・公安の力は、恐怖なんだと思いました。

その他には、タイ人の女性と話しました。また数人の日本人の方々と話しました。
楽しい興味深いお喋りとしました。
インドネシアやタイにも何度か行っているので、そんな話で、弾みました。

Tさんから「北原さんは今日一日で全員の外国人と友達になるんじゃない?」と言われましたが、日本語を勉強している人たち、そしてたくさんの国の人たちの文化や人間性に興味がある私としては、話すために参加したので、機会があればどんどん話そうと思っていました。
そして、友達になった人たちは、ニコっと笑顔で向かってくる人たちばかりなので話さない訳にはいきませんねと。

私はどんな人でも心をまず開いて向かい合います。だから、イギリスに住んでいるときも「ケイコは出会う人達とすぐ仲良くなれるね。僕には話してくれないけどケイコにはよく話していたね」と良く言われました。

そんな時、こちらが心を開いて向かい合っているからだよねと答えました。

でも当然、相手が開かない場合は、それ以上は人間関係は深くなりません。そして、時々、まっすぐに生きていることの強さや正直さが、取り繕ってその場で適当なことを言う人や嘘をつく人たちには、怖いと感じられるかも知れないと思う時があります。
その生き方の大切さや大変さ、厳しさの両方を背負って生きていくことが私の生き方だと思うし、上っ面の優しさも優しさの一つだけど厳しい中にこそ、本当の優しさがあると思っているので、自分が正直に向かい合って厳しい状況に対峙しなければならないことも多々ありますが、逃げずに頑張って向かいあってきました。

また、私の行動が日本人ぽくないことで誤解を生むことが日本に帰ってきてからは、多々ありました。
イギリスに住んでいるときに結論を先に言うことが大切で、その理由を後から説明することと、よく注意されました。
私が先に説明から入ると何がポイントだか、分からないよと言われました。
ですから、まず結論があって、その後に説明。その習慣が身についているので、そういう展開で話をすることは、日本人にとってはストレートすぎると言われます。


そんな話を帰宅する電車の中で、Tさんと話しました。
こんな会話も正直に向かい合っているからすることだろうなと思いました。

お茶会を楽しみにしている出会った人たちと、またお茶会で会うのを楽しみにしている私です。










パリの家=La Logement de Paris

このブログに、仕事のことを書くのは久しぶりになります。Facebook に現場報告を上げるようになってから、このブログには仕事の件は控えてきましたが、今年の1月26日に、お引き渡しをして完成披露パーティーにご招待をいただき、とても楽しい時間をいただき、工事期間中の思い出とともに、記録し残しておこうと思いました。

*すべての写真はクリックすると拡大します。

DSCN3569昨年の5月頃だったと思います。
バリアフリー、ホームエレベーター設置等のリフォームでお話をいただき、リフォームをしても高低差の問題がすっきり解決しない旨をお伝えするとわずか2週間くらいでお住まいの近くに約75坪の土地をご購入したと連絡をいただき、約1か月で地鎮祭・地盤調査、そして1か月を迎えた7月30日には、上棟を迎えましたが、その間に、照明器具・外構工事のデザインをし見積もりもまとめ、建築費と付帯工事を含めた予算を組み、全職人さんたちとの工事工程会議を開き、輸入材に発注をし基礎工事に入り、検査を受け、迎えた上棟でした。

2N7A00592N7A0395プランは初めのプランで気に入っていただきましたので、すぐに実施設計に入ることができましたが、仕様内容の打ち合わせをお客様のY様とし、その後、各業者さんたちとの打ち合わせを重ね、見積の手配をし、上がってきた見た見積書の内容を確認し、数社と相見積書を取り、中途半端な妥協をせずに、ご予算内にまとめました。

もの凄い忙しさでした。 

2N7A05702N7A0580そして現場に足を運びながら、各職人さんたちと打ち合わせをし、確認し、工事の手配し、走り続けた6か月でした。

55坪のパリの家には床暖房、サーキュラー階段、珪藻土、輸入のベランダ手摺や門扉、エコキュートなどの設備があり、そしてご要望にあった天井の高さを取るための天井デザインを作っていくために、埋め込みエアコンや2階のキッチンの給排水の配管など、現場で大工さんや電気、水道屋さんとの打ち合わせを重ねました。
そして、それらすべてがすっきり予定通りにまとまり、完成を迎え、次には外構工事のシャッターボックスを収めるゲートのデザインやご要望に合わせて庭のお手入れが楽なデザイン、3台収容可能な駐車スペースの現場打ち合わせは、Y様のご要望に合わせ、そしてご確認していただきながら完成を迎えました。

2N7A05842N7A0590Y様ご夫妻のご要望のテイストは、お会いしている中で、これだろうというものが伝わってきて、ご提案させていただいたものがお気にめして下さったのは、とっても嬉しかったです。
いつもたわいない会話の中に、お客様のご要望が詰まっていて、私に伝わってきますので、そういう時間はとても大切です。

プロのキャメラマンに撮影を依頼していますが、その写真をここにすべて公開します。

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玄関の床は大理石・他の壁天井は珪藻土です。
トイレ、洗面・浴室はブルーがお好きなので、ブルーを差し色にカラーデザインをしました。
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ダイニングの椅子の差し色は床に合わせてブラウンとオレンジです。

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2階のLDKの照明器具はスワロスキーです。陽が差し込むとキラキラとした光を拡散させてくれます。

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照明をつけた夜も落ち着いた暖かさを感じる素敵な空間です。
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2N7A04142N7A0474各個室には、十分なクローゼットを設けました。






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吹き抜けには、イギリス人アーティストに制作依頼したシュウメイ菊のモチーフのサンドブラストの窓をつけました。
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思いっきり楽しみながら作り上げた現場です。







そして完成後にホームパーティにご招待をいただきました。

CIMG1888CIMG1908Y様ご夫妻です。可愛い奥様とカリスマ性のあるY様は、ご家族と過ごしていらっしゃるときは、とっても楽しい遊び心をお持ちでした。
忘年会のDVDを見せていただき、ぴこ太郎の衣装を着てPPAPを踊るY様や、ご家族皆さんが、面白い事や楽しいことがお好きなんだと実感しました。



奥様の妹さんがフラダンスを踊り、いらした方々の心を癒し、妹さんの娘さんがバイオリンを弾いて素敵な演奏を披露してくれました。

CIMG1891CIMG1892CIMG1893新築祝20170212行きつけのお寿司屋さんの出張出前があり、美味しいお通しやお煮つけ、お寿司を皆さんでワイワイ楽しくおしゃべりしながら、冗談を言い合って、いただきました。



CIMG1898CIMG1903CIMG1902バイオリンを披露してくれた小さな可愛いアーティスさんとパパです。

愛があふれたご家族の様子を見ていて、私たちも心を温めました。





IMG_7052IMG_7054IMG_7055浴室からは坪庭をご覧になっていただけますが、木の成長をもうちょっと待っていただけたらと思います。

表のシンボルツリーは花水木です。

ご家族の皆様が、パリの家に集まり、素敵な思い出を重ねていってくれたら、嬉しいです。
シンボリツリーや坪庭の木のように、まだ小さくて思い出のページは開いたばかりですが、これから立派なシンボルツリーに育ってくれると思います。
また、坪庭のもみじも枝を垂らして色を変えて四季を重ねていってくれると思います。


まあさの家のケーキ、そして息子と

IMG_7288昨日の午後、久しぶりに約3年前にデザインと建築を賜った「まあさの家」に行きました。
ランチをいただいているお客様がいらして、ゆっくりお話はできませんでしたが、久々にいただいたホームメイドのチョコレートケーキとラムレーズンのバニラアイスクリームは、絶品でした。

地元酪農家さんから届く濃厚な牛乳(さらっとしているのに濃い甘さを感じます)と、割るとこんもりと盛り上がるこだわりの卵で作るアイスクリームやケーキは、他では食べられない味です。

https://tabelog.com/rvwr/006558173/rvwdtl/B255236766/

現地農家さんから野菜を購入してつくるお料理は、地元に根付いていて、新鮮な野菜をたっぷり食べられます。今はワカサギのから揚げや、鹿やイノシシの御料理などもあるそうです。(イノシシや鹿の料理はまだ食べていませんが、予約を入れて食べに行きたいです)

ぜひ、相模湖、三ヶ木、青山方面に行かれた時は、お立ち寄りください。オーナー兼シェフの飯田さんもイギリス・リバプール在住経験があり、会うと思い出話をしたりします。

夜は、研修で帰ってきた息子とフレンチディナー。
帰宅途中の古淵駅近くにあるフレンチレストランですが、予約を入れて初めて行きましたが、音楽はキャロル・キングがかかっていて、落ち着いていました。
家族連れや女子会、何かのサークルのメンバーのグループで賑わっていました。

IMG_7294Kai君がお料理をオーダーする前に、お店の人に「ワインは何があります?」と聞いてくれましたが、私が「白のシャルドネでいいわ」とオーダーし、お料理も「今日のお勧めは?」と、すべてKai君にお任せでした。

4時くらいに「まあさの家」でいただいたチョコレートケーキとアイスクリームでまだお腹が空いていなくて、少しずついただきました。

IMG_7289IMG_7290お通しは、フレンチ風茶碗蒸し:ダシが聞いていてとびっこのプチプチとぴったりでした。

今日のお勧めのマグロのカルパッチョ。
トマトの酸っぱさと合っていました。




IMG_7291IMG_7292IMG_7295テリーヌには、クルミが入っていてコリコリとした触感がとっても良かったです。

サーモンの包み焼は、私が作ったものと変わらずでしたが、食材のサーモン、それ自体が美味しかったです。
最後にフレンチなのにアラビアータをオーダーしましたが、二人とも東て食べられませんでした。

日本酒をお代わりしましたが、私が本田真凛ちゃんのフィギュアスケートをTVで観たくて、kai君が「ゆっくりでいいよ」と言ってくれましたが、そそくさと車に乗り込み、彼女のスケートを観ながら帰宅しました。

結果発表を家の駐車場で車を止めて二人で観て、悔しそうだね、どうしてもロシアの子には勝てないね~などと話してから入室。

Kaiが、「頑張っている子は、応援したくなるね」と。
「そうだよね~、一人で戦っていて、相当頑張らなくちゃいけない世界だし」
「まだ15歳だしね」

IMG_7293母もそうやって戦ってきたのを知っているKai君ですが、今年の親子海外旅行は、ベトナムにしようか?と話し合っています。

私はホーチミンには行っていますが、ハノイには行っていないので、行きたいなぁと思っています。


今日もある取得講習会に参加の彼ですが、夜8時まであるそうで、明日も参加して、火曜日から仕事に戻ります。

身体には気を付けて、身体を鍛えて、心と身体を健康に保って、人生を作って行ってほしいと願っています。





春、はる、♪

昨年の12月26日出発で恒例のカンボジア、シェムリアップの孤児院(CPCSO  https://www.facebook.com/cambodianpcso)での教育支援活動(特定非営利活動法人 愛の素・AINOMOTO   https://www.facebook.com/ainomotoainomoto )現地滞在から帰国後、お引き渡し物件が完了し、次の物件、3階建てファミリー向けアパート、イギリスのブリックを一部使用したデザインが始めりましたが、仕事の様子はhttp://www.facebook.com/es-design.architect/ にて、現場からのレポートを紹介していますので、そちらをご覧ください。

最近は、
J1 愛の素の活動として、少し動ける日があり、いつもご支援をいただいている農場レストラン・モナの丘 (http://www.monanooka.com/wp/?page_id=9)のオーナーの桑田さんにお会いしながら、友達のジェニファーとランチをいただきに伺いました。

いつもあたたかく迎えて下さる桑田さんですが、「元気の秘訣は黒ニンニクだよ、このアフォエンもいいんだよ」と開発販売をしている商品の効能など、一生懸命に説明してくださいました。
ジェニファーは、最近友達になりましたが、フェミニストで、同年齢で、いつも答えは明確で、瞬殺と言う言葉があるので瞬答?と言う言葉を一つ造語して、表したいと思っています。
瞬答ができるということは、常日頃、そのいろいろな事柄に対して考えていて、今はこういう答えが自分の答えとしてもっているからできることだと思っています。
そして、常に冗談を言って笑わせてくれます。
ご主人は、エンジニアだそうですが、暖かくなったらバイクでツーリングうをしようと誘われていますが、「え!バイク持ってないしぃ~、、、」と言うと「私の夫の背中につかまって行こう」と言われました。
驚いて噴き出しちゃいましたが、「オッケーやらない前に断るのもなんだし、一度はやってみようかな?」と、今は思っています。

ニコールがアメリカに帰国してから、「keikoにぴったりの友達になると思う」と紹介されましたが、今までに出会ったことのないタイプのキャラクターです。

そして、帰国したニコールから、帰国前に見つけた仕事がぴったりの仕事で、キャリアになるし、やりがいがあり、職場は面白いとメールが届きました。帰国前に、スカイプでの面接を何社も受けて、やっと納得いく仕事を見つけ、それをゲットした彼女は、新たしい人生を走り始めました。
現在、アメリカの経済状況が良くないので、なかなか面接が通らず、何度も失意に陥りましたが、私が帰国後に年齢的に厳しく、履歴書を送っただけで、「うちは40歳までです」と断られ、だから2000年当時は年齢差別が実際にある日本の状況に、普通に持ち合わせる自信すらなくなりそうだったけど「仕事に対する熱い思いが面接を通すから」と彼女に伝え、彼女はまだ若く、やる気も十分だから、きっとうまくいくと確信していると何度も伝えました。

また、自分のキャリアアップやスキルアップを図ることの大切さを私たちはよく話しました。
自己投資はいろいろなことを我慢してでもしなればならない時があると思うし、人生は思ったより短いから、時間を無駄にできないし、若さはその大変さを乗り切れるし、そして、彼女はきっと素敵な仕事が見つかると確信していると話しました。
だから、新しい生活と仕事に燃えている彼女からのメールは、心から嬉しかったです。
そして心の中で「ほら、やっぱりゲットできたでしょ♪、」と不安そうな彼女の顔を思い出しながら、そしてきっと今はキラキラ輝いている彼女の顔を想像しながら、心が弾みました。
きっと今日もバリバリ働いていると思います。人生は一期一会。彼女との出会いも別れも、そして一緒にいろいろなことをして楽しんだことは、良い思い出になりました。彼女の思い出の中に、変わった日本人のkeikoとの出会いが真実を語り合う友として残ってくれたら嬉しいと思っています。

ジェニファーとの思いで作りは、まだ始まったばかりですが、人として興味深い彼女です。
会った時の会話は、なかなか難しいサブジェクトばかりです。
先日もお休みの日に、彼女が日本の宗教に興味があるといっていたので、鎌倉の「おてらカフェ」で待ち合わせをしました。

愛の素の活動へのご支援をいただいている花咲爺様(ニックネームです)から、孤児院への支援の件で、お話がありますと連絡いただき、お住まいの鎌倉まで行きました。

2017,3,1J カフェで写経ができることを調べ、ジェニファーに一緒にやらない?と進めました。
花咲爺様も参加することになり、3人で、写経をに挑戦してみました。

花咲爺様もfacebookにて、その様子を詳しくご紹介していますので、ご興味のある方は、こちらをご覧ください。
https://www.facebook.com/hideo.ishihara.3?fref=nf&pnref=story

カフェで、
クリスチャンの彼女からの質問は、仏教の各派の違いについて、仏教と神道の違いについてでしたが、仏教の各派の違いについて英語で内容を説明するのは本当に難しかったです。 カフェのお坊さんのお話を聞き、どうやって説明したらいいんだろうと絶句した瞬間が何度もありました。
私の英語力では宗教的な専門用語も分からず、いやいや根本的に宗教哲学をほとんど知らない私が説明できるはずもなく、お坊さんの説明を易しい言葉で説明しようとしても無理があり、力不足を痛感した日になりました。

でも、日々これ勉強なりですね。
ジェニファーが私に日本の宗教に興味があるといわなければ、こういう機会を設けなかったし、午後の空いた時間にわざわざ鎌倉まで私と一緒にお茶を飲もうと来てくれ、夜の7時には横浜に行かなければならない忙しさの中で来てくれたことこに感謝します。
突然、始めた会った花咲爺様との会話も、お互いにフレンドリーに対応してくれ、ジェニファーも花咲爺様も、充実した時間だったと言ってくれたので、良かったです。
大人同士は、無駄な気を遣わずに済むので、感謝ですね。

2017,2,22 IMG_7125 それから、2月の終わりの週末に、愛の素のメンバーの亨子さんが息子さんの結婚式前 に、会いたいねと言って相模原まで来てくれました。
仕事中なので、ランチを一緒に食べて愛の素の活動内容について話し合いました。

兵庫県から時々来てくれる彼女ですが、愛の素の活動に「フォスターペアレント募集」を入れることを話し合いました。

彼女からの要望で、一人の子供の学費の援助をしたいので、学費がしっかり学費として使われるように、現地と確認してから、定款にそれを盛り込むことにしました。

中身の濃い話し合いは、ランチをしながら楽しい会話とともに、あっという間の1時間でした。

先月は、28日しかないにもかかわらず、プライベートは忙しかったです。
休みの日に、友達の新築祝いに都内まで行き、彼女の家に一泊しました。
優しいご主人と仲睦まじく暮らしている友達です。結婚前から 時々私の家に泊まり、ワインを開け、楽しい時間を過ごす友達ですが、もう17年のお付き合いです。

thumbnail_IMG_7157[1] 翌日は、近くの池上本願寺に彼女と一緒に建築様式を見に行きました。
実物は、建物の中に保管されていました。

こういう建築を考えるオリジナリティーに脱帽です。

それから、一緒に横浜のキリンビール工場へ

2017,2,22bee 2017,2,22beer 彼女は公職についているので、写真は公開できませんので、私の写真のみです。

ビールが無添加でできていると初めて知りました。



2017,2,22b1 2017,2,22be ランチを工場の敷地内にあるレストランで取りました。

見学は無料、運転しない人はビールが飲める!

と言うことで、海外からのゲストを連れてくるのは、いい場所だねと。


残念ながら私は運転なので、飲めませんでしたぁ~。

kirin 帰りに、貯金箱になるという写真入りのビールボックスを作成して、(ちなみにこちらも無料)帰ってきましたが、今、机の上で小銭を入れています。




箱いっぱいに小銭が貯まるのはいつかな?と思いながら、仕事に疲れた時に、のぞいています。


そして昨日、
愛の素の活動に協力してくださるというNPO法人「 おもちゃの病院 さがみはら」 さんが100個以上ありますと子供たちに分けるおもちゃを持ってきてくれました。
http://www.sagami-portal.com/hp/dnt10031/

thumbnail_IMG_7217[1] thumbnail_IMG_7218[1] ボランティア団体のミーティングでの出会いが形になりました。
わざわざたくさんのおもちゃの中から、小さくて軽いおもちゃを選んでくださって、お持ちいただいたことに感謝です。

たくさんあり過ぎて保管に困るとおっしゃっていたので、ではカンボジアの村の子供たちにいただけますかとお願いして、「喜んで、ご協力しますよ」と言ってくださって、私の会社まで持ってきてくれました。
ありがとうございました。


2月に2か月ぶりに父のお見舞いにも行けました。
少ない休みを使って会いに行きますが、

父は年々可愛くなっていきます。
おやつの時間に、どら焼きを頬張り、一口があまりにも大きかったので、私が「ねぇ、大きすぎない?」と聞くと「ははは」と笑って、リンゴジュースを飲みました。そして最近は戦争の時のことをよく思い出すんだよと言った父です。

だから、もうすぐ桜に季節だねと言いました。すると嬉しそうにうなずいていました。
それから私たちに「私の誕生日は3月5日だからね」と。
その日は、来れないねと兄と兄嫁のみちこさんと一緒に話しましたが、「仕事が一番だから」と言う父の言葉は返ってきませんでした。 でも説明するといつもうなずいて、そうだねと言う父です。

それから、私にテーブルの反対側に座っていた看護婦さんを右手を開いて指しながら「あの方はどなた?」と、尋ねたので「看護婦さんでしょ。」と言うと「あ~そうだね、いつも大変お世話になっているんだよ」と言って彼女に微笑みながらお辞儀をしました。
そして「ありがとうございます」といつものようにお礼を言った父でした。
兄のくんちゃんが「親父~随分丁寧じゃないの?」と言って笑わせました。父も笑っていました。

でも、私の記憶の中の父は、晩酌しながら丁寧な言葉で話していました。 私が家族の中でたった一人の女の子だったからかも知れないと、今思います。

前に座っていた看護婦さんがマスクを外して顔を見せて「みんな同じマスクしているし、ピンクのユニホームを着ているし、体格も同じくらいだから、分からなくなりますよね~」と。

父の記憶が遠くに行ってしまわないように、会うたびに願っています。
実家に車いすを購入して置きました。
桜を見せてあげたいと思います。

今度はお花見に行こうね、今日は寒いから暖かくなってからねと言うと、「うん、そうだね」とうなずいた父でした。
基本をずらさない頑固な父でした。

自分の中のその血に時々、手を焼く私です。でも、それも私なんだと思います。

子供のころ、毎年お花見の季節に、「もう公園のソメイヨシノが咲いたね」と言っていた父と、3月の終わりにお花見に行こうと思います。

季節は休みのたびに、物凄い速さで過ぎていくと感じています。











息子からの誕生日プレゼントは

11月の終わりに、休みとれるの?と息子から電話。
「誕生日でしょ、菊屋さんに行く?」「もちろん行くぅ~~~」休みにガンガン仕事をして日曜日、お休みして修善寺へ行きました。


大好きな菊屋さんです。^^http://www.hotespa.net/hotels/kikuya/index.html
新幹線で、旅気分を味わいながら行きました。
カンボジアの子供たちに新幹線の動画を駅から送りました。未来に希望をもって、いつか日本に来てほしいと願っています。

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着いてから、お食事までの間、ちょっと散歩をしました。

IMG_0533IMG_0534kai君と一緒に行ったモンゴルで自分の買った、ウールの帽子を被っていきました。

桂川沿いを歩き、竹林の小道、修善寺回廊は、前回も歩いた道ですが、指月殿(暗殺された源頼家の冥福を祈って実母、北条政子が建てた経堂。お堂の中心には鎌倉期の作品である釈迦如来坐像が安置され、静岡県の文化財に指定されている。指月殿の横には源頼家の墓がある。 )まで歩きました。

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ちょっと変わった母と一緒に、いつもいろいろお喋りしながら歩く息子です。
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修善寺の前の通りは人で溢れていました。紅葉の季節だからねとうなずきながら菊屋さんまで帰ってきました。






それから、温泉に入り、お食事をいただきました。
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いつも日本料理の繊細さと美しさに心から楽しみ、海外ではこんな風に落ち着けないなと思います。
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IMG_0556二人でちょっと違ったメニューをいただき、シェアしました。いつも食べきれない量です。
食べきれないねぇ~と、毎回言い合っている小食の親子です。

ランチは、しっかりいただけるのに、・・・

お食事をしながら「虹の郷がライトアップしているので、行く?」聞かれて、「行く行くぅ~~~」と一つ返事。
忙しい私は何も調べずに、ただ、息子とのんびりできればいいなと思いながら、小さな旅は殆ど体一つで出てきますから、そういう情報は、とっても、とっても嬉しかったです。

しっかり者のkai君に任せておけば、そこは大丈夫といつも信頼しています。

苦しいお腹を抱えて、運動がてら送迎バスが出るから、それで行ってもいいし、タクシーで行ってもいいし、と。
バスで行っても数分だからと言うことで、バスで向かいました。

IMG_0570IMG_0574以前は昼に来ましたが、今度は夜の虹の郷でした。
子供のように、ウキウキ、まったく逆になってしまった親子です。

ライトアップされた紅葉は、何とも言えない美しさでした。
日本人が四季に心を動かされ、感動し、人生を重ねて感じるという文化は、独特で、息子曰く、「日本人で良かった」と感じる時間です。

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ipadで撮ったので、あまり美しく撮れていませんが、この美しさを共有できたら嬉しいです。
IMG_0597IMG_0602コスプレの撮影会があったようで、たくさんの女の子たちが、漫画の主人公になっていました。







IMG_0603IMG_0604IMG_0605彼女たちと一緒に写真を撮らせていただいたら、
kaiが離れたところから「ありがとう」な~~んてお礼を彼女たちに言っていましたが、それを聞きながら、「やれやれ、いつから私を子ども扱いしているのかしら?」とちょっと不思議な気持ちでした。
面白い経験でした。それぞれにアニメのキャラクターの名前を言われましたが、全く分かりませんでした。



IMG_0610IMG_0611IMG_0615ホテルに帰ってから、また温泉へ、そして足裏マッサージを受けました。

最高の夜でした。


翌朝も温泉へ、GO
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やっぱり古いものの中に、変わらずに美しく輝くものはあります。
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9時過ぎに朝食をとり、その後書家の金澤翔子さんのギャラリーへ行きました。

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静かに息をしている庭園や木々、建物を見ながら、

IMG_0644ギャラリーへ足を踏み入れましたが、彼女の純粋で力強い言葉や書を見ていたら、感動で泣いてしまいました。

隣に座っているkai君に、「母、感動して涙が出っちゃう」とつぶやきました。





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芸術は心を磨くと思います。彼女の無垢さが眩しかったです。

IMG_0675IMG_0676http://kanko.city.izu.shizuoka.jp/form1.html?c1=9&c2=1&c3=1&pid=3952
彼女のギャラリーは新井旅館の中にあります。
この旅館も建物は素晴らしかったです。






翔子さんの書を見てから、新幹線のある小田原まで帰ってきてから、ウナギを食べて、帰宅した私たちです。
IMG_0678新幹線のホームで、「keikoはこっちだからね、俺はこっちだから、keikoのほうが先に来るよ、」と、子供のように私に言うkai君とハグして新幹線に乗り込みました。

走り出した新幹線の窓から、ホームを見ると、kai君が小さく手を振っていました。
私も小さく振って「じゃ~ね、ありがと」と口を動かしました。

ホームに立ちながら見送っているkaiも、「じゃぇ~ねぇ」と口が動きました。

小さなとき、仕事をしている私に電話をかけてきて「おやつ、もっと食べていいですか?」と聞いてきたkaiくんに、「夕ご飯が食べれなくなるから、チョコ三つでおしまいよ」と告げました。
お皿におやつを用意しておきましたが、足りないと時々電話がかかってきました。

そして、「みっつだけよ」という私に、元気よく「はい!」了解しましたとばかりに、元気に明るく返事をしていました。

それから、「じゃ、kai君が先に切ってね」と言うと「母から切って」と。二人で「先に切って」「ううん、先に切って」と電話を切るのを惜しむ恋人同士のような会話をしていました。
そして、最後は「じゃ、一緒にね、いちにのさんで」と言って、切ろうとするのですが、お互いに、どっちが先に切るかを待っていました。
切らないお互いの様子に笑いながら、「ほんとのほんとの最後ね」なんて言い合っていました。
疲れた仕事の合間に、ほんの短い会話でしたが、心があったかくなる会話でした。

そんな小さなkai君が、私を子ども扱いして、ホームに立ちながら手を振って送ってくれました。
涙があふれてきて、思いっきりの笑顔で、泣き顔を隠しました。

ありがとう。思い出はいっぱい詰まって、いいことも悪いことも、いつも支えてくれたkaiです。
kaiの心が幸せで満たされることだけを、いつも願っている母です。



楽しい仲間たち

9月のカンボジアから帰国後は、かなりの忙しさで、仕事に走り続けました。

でも、そんな中でも、私の家には、いろいろな人が良く来てくれました。

今のところ、ボランティアのメンバーが一番多いのですが、海外からのゲストもボランティアで受け入れることもあり、それでも今年は忙しく、オーストラリアからの1家族のみを受け入れました。(その様子は、以前このブログに書きましたが)

また時々、このブログに出演しているアメリカ人のニコールとは、ランゲージエックスチェンジをしているので、週1回、彼女は家に来ていますが、私たちはお互いの言葉を教えるというより、今はタダタダお喋りをしていて、時にはランチの時に来て、翌朝帰ることもありました。話すことがたくさんありすぎて、お喋りが止まらないニコールですが、お互いに年齢の差を超えて、良い友達になりました。


IMG_6286 こうこさんは、カンボジアの孤児たちの教育支援をするためにボランティア組織、愛の素を立ち上げてから、一年後くらいから支援をいただき、もう5年以上のお付き合いです。

彼女は、応援しているシンガーソングライターの子が、都内でライブショーがあるときに来て、一泊して帰りますが、その際に、愛の素の活動の内容を話したりしています。

また、三宅島に住んでいる娘さんに会いに行くときも兵庫から来て、一泊して行きます。
こういう時じゃないと、顔を合わせて活動について話し合えないので、いつも忙しく走り続けている私の生活ペースに合わせて、一泊の滞在でも来てくれます。

11月は私の誕生日でしたので、毎年お互いの誕生日を祝いあう16年来の友達も、シャンペンを持ってお祝いしに来てくれて、一緒に近くの温泉に行き、朝の3時ころまで楽しいお喋りをしました。

それから、

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愛の素のメンバーの早紀ちゃんは、2年のカンボジアで"ホームスティー&スタディーツアー"の企画を展開しながら、孤児院の子供たちにボランティアで日本語・英語を教えていましたが、とりあえず一旦帰国をし、日本で仕事をするために、就活を展開するために、名古屋から上京し私の家に、この2か月で数回来て滞在していきました。彼女の素晴らしい行動力と能力で、もちろん就活成功を収めて、来年からは都内で働きます。
私も近くに行動力のあるメンバーが来てくれるので、力強いです。

滞在中の休みの日に、シャンペングラスのサンドブラスト製作を一緒にしました。素敵な思い出の作品になり、喜んで持ち帰った早紀ちゃんでした。
IMG_6651 IMG_5485 一緒に、「まあさの家」でランチをとり、また「モナの丘」のオーナーの桑田さんにも会いに行きました。

まあさの家のオーナーの飯田さんと、この日はゆっくりお喋りができなかったので、また来年に、会いに行きたいと思います。



11月の休みには、ニコールと一緒に大山に登りました。
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彼女も帰国前には、大山に登りたいと思っていたそうで、紅葉の綺麗な季節を二人で、たっぷり楽しみました。
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登山中、トランプとヒラリーの大統領選後の状況について話したり、就活している彼女の仕事のことについたり、アメリカの経済状況について話したり、充実した会話をいつもできるので、彼女との会話は、面白いです。

その日は、早紀ちゃんもいましたが、彼女は面接で都内に行っていたので、残念ながらいっしょに行けませんでした。

私は、夜、久々鍋を作りました。このマンションに越してから初めての鍋です  でも美味しかったです。
鶏、タラ、サーモン、牡蠣、ハマグリなどを入れたので、自然のだしがたっぷりでました。
お鍋は簡単な夕食ですが、なかなか食べごたえがありますね。

IMG_6532 IMG_6533 それから、ニコールと早紀ちゃんが誕生日をお祝いしてくれ、一緒にイタリアンレストランでお食事をした夜もありました。

早紀ちゃんは、気を使って可愛いケーキを買って帰ってきました。
カンボジア帰りで、お金がないのに、気を使わせちゃっいました。
可愛いケーキを一緒に食べて、可愛いお祝いをしました。

家族や中国の大学の教え子、知り合いからもメッセが届き、一年に一度の誕生日の夜は、あたたかな気持ちで過ぎていきました。

そして、11月の最後のイベントは、一年前に立ち上げたバトミントングループの忘年会でした。
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現在メンバーは17名です。
肩こりが酷いので、左右で打つというプレイで肩こり解消を目指して立ち上げましたが、
日によっては、休む時間もなく今度は右で、今度は左でとプレイをすることになります。
やり初めは、左が打てず、変な格好になるので、お腹が痛くなるほど笑い転げてプレイをしていました。

でも、今ではみんなかなり上達してしまい、おでこでシャトルを受けたりすることもなく、またサーブが打てずに何度もなんどもやり直すこともなくなりました。

ですから、もう試合形式で、プレイをしています。最近ではポイントを取るとそれぞれに好き勝手なダンスをして喜びを分かち合っています。

仕事も年齢も関係のない交流です。
それは、それぞれが抱える仕事のストレスを解消するには、ひったりの運動?遊び?だと思っています。
立ち上げたときの目標というかポリシーは、国籍、年齢、職種、性別、経験、未経験にこだわらず、イコールの関係で、ただただ楽しむ、笑うでした。
そして、その目標、ポリシーはかなえられています。

毎週参加できる人、できない人、仕事の状況により変わりますが、それでも長くこのグループを続けたいと思っています。

愛の素は、この活動を通してメンバーが成長しあえたらいいなという思いも含めて立ち上げました。お互いをしっかり見つめ合い、手探りのボランティア活動ですが、その中でも、成長し合えるような関係を作り上げたいと思っています。
お互いの意見をしっかり聞きながら、また人生で困ったことがあったら、お互いに支え合う関係になれたと思っています。
なぜなら、メンバーはみんなピュアな心の持ち主だからです。尊敬と、愛を基本に向かい合うということで結びつき、継続は力なりと、地道に一歩一歩進めていきたいと思っています。
来年も、そうやって活動していくつもりです。

バトのメンバーは、仕事以外の関係ですが、一年の活動を通して、気心が知れてきました。
力関係などなく、こちらも純粋に遊ぶという関係ですから本当に楽しいです。
21歳から上は63歳まで、このグループも楽しい仲間に育っていってほしいと思っています。

中島みゆきの歌「糸」の歌詞のように、「なぜ、めぐり合うのかを私たちは、誰も知らない、いつめぐり合うのかを私たちは、いつも知らない」のように、偶然出会った人との関係を、輝くかせるかは、それぞれにかかっています。
だから、輝かせて行きたいと思っています。



次回は、息子からの誕生日プレゼントと題して、一泊の旅について書きたいと思っています。














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