日々を丁寧に生きること

最近、年齢を重ねて特に思うのだが、生きている時間を大切にしたいと思っています。

衣食住は、この仕事に就く前からこだわっていますが、特に子育て中は無添加の食品にこだわり、酵母パンを作ったりしていました。子供のスモックやズボンは大人の古くなったトレーナーを切り手作りし、仕事をずっとし続けてきましたが、住む空間も空気も綺麗に保ちたいと日々駆け足で走り抜けました。 帰宅後、夕飯を作り子供たちをお風呂に入れ、本を読んで寝かせ、その後洗濯を始め、夜干しをし、休みの日には趣味の洗濯を思う存分し、庭の木々、花の手入れをし、食材の買い物をし、デッキを作ったり、よく働いたと自分でも感心します。

休みには、かなり頻繁に友達を招いて、庭でバーベキューをしたり、春夏秋冬の休みには海、スキー、温泉を年間少なくても4回は、子供たちと行きました。

子供たちが独り立ちして自分の時間ができた今でも、手作りの料理にもこだわり続けていて、その時間は充実しています。休みの日の家中の拭き掃除後の気持ち良さを、母が言っていた通り感じている自分がいます。

一つだけあんまり好きじゃない事、それは服などを買いに行くことです。時間がもったいないので、必要だと思う物を最短距離と時間で購入する。何かのついでに目に留まったときに購入するという生活で、衣替えの時に捨てるものを必ず見つけて思い切って捨てると言うことをしています。
無駄なものは持たないと言うことを心掛けていますが、それでもいろいろ溜まっていきます。
日々の掃除、洗濯、料理をしっかりすることは、丁寧に生きると言うことと母から教わったと思います。働く姿でそれを伝えてくれました。

さて、そんな生活が日々流れていますが、カンボジアの孤児院の子供の一人が今、日本で働いていて彼に会ってきました。

IMG_0964IMG_0965名古屋の会社で働いているリスからの連絡で、今百合丘に出張で来ていると言うことだったので、仕事が終わった後、車を走らせ、百合丘まで向かい、夕ご飯を一緒に食べました。

22歳になったリスは、一生懸命日本語を勉強しながら名古屋の塗装会社で働いています。

シャイで言葉数が少ない子だったけど、質問攻めの私の言葉に、日本での仕事は楽しくて、社長さんはいい人。日本に来るのに50万円かかったので、今少しずつ返していること、自炊していること、彼の兄弟は8人いること、貧しいかったので親が孤児院のスントンさんに連絡して自分が孤児院に入り、学校へ通ったことなど片言の日本語で話してくれました。
そして愛の素が大学の学費を送っていたチュンライも6月か7月には日本に来ること、出張は6月末で終わること、チュンライは結婚して子供が二人いること、彼が日本に来たら彼も奥さんたちもさ寂しい、、、等々、あっという間の時間が過ぎていきました。

リスが、孤児院での思い出話をしはじめて、
私が教えた「友達を描こう」という授業で、仲良しの友達同士二人組になってお互いの顔を描く授業をしたとき、彼が「あなたを描きました。」と言ったので、私も彼を描いたことを思い出し、「そうねそうね、私はリスを描いたわね!それからサッカーでヘディングした時にリスと頭とおでこがぶつかり、私のおでこに大きな大きなたんこぶができたの覚えている?」と聞くと笑いながらうなずいていました。おでこに手をやり「こんなに大きかったね!あのたんこぶ!」
「あんな大きなたんこぶできたの初めてだったのよぉ~。でもぶつかった時に、君が心配してソーリー、ソーリーと何度も言ってくれたわね。優しい子だったわね」と言うと嬉しいそうな笑顔が返ってきました。

それから他の日本人は覚えていないけど「あなた、覚えている。忘れない」と言ったので、可愛すぎて「ママも覚えているわよ、リスのことも皆のことも」と言いました。
それから、他の友達のこと「スレイレン?ソムナン?チャック?セイハ?スレイモン?リナ?・・・」名前を挙げるとリスもそれぞれとの出来事を思い出したようにゆっくりうなずきながら笑いました。
最後に、彼はちゃんとした留学研修生証明カードを見せながら、後2年でカンボジアに帰るので、頑張りますと何度も言っていました。

孤児院の子供とこんな風に日本で会うことを全く想像したことがなかったので、不思議な気持ちで彼と会いました。小さかった彼が22歳の大人になっていたことにも驚きましたが、片言の日本語での会話ができたことにも、嬉しさと感慨深い時間でした。
一端にビールやカクテルを注文したリスは、日本に来る前にバーテンダーをしていたので、カクテルを作れると自慢気に言っていました。私は心の中で「大人ぶっちゃってぇ~」と微笑ましく聞きました。
そして、6月中にまた会うことを約束して、その夜はさよならをしました。

リス、私の生活は忙しくて君にいつ会えるか約束ができませんでした。でも会いましょうね^^6月末までには。


本当は、4月が誕生日の友達が忙しくて時間が取れずにお祝いするのが遅れていました。
でも、先日の水曜日に、彼女を相模湖駅でヒップアップして藤野芸術の家へ行き、サンドブラストをプレゼントしました。
形残る思い出の物がいいなと思っていたことと、私が以前作ったワイングラスを来客に割られてしまったので、補充のために作りたいと思っていたので、誘いました。
何かをオリジナルプレゼントは、書:短歌を差し上げただけでしたらいい機会になりましたと、彼女が言っていました。

IMG_1017IMG_1018IMG_1020友達が送ってくれた薔薇の写真をモチーフにしてその場でラインをカッティングしてオリジナルデザインのワイングラスを作り、贈りました。

彼女はご主人と自分のビールグラスを、作りました。

芸術の家には、たくさんの種類のシールがあり、それを貼地「切り取ればできるようになっています。
IMG_1107IMG_1108そこで彼女が選んだのは、フェニックスのシールをご主人に、そして自分用には可愛い花のシールを選んでそれを貼ってサンドブラストで削りました。

フェニックスの後ろには小さなエンジェルを貼り削りましたが、彼女が削り、黒い汚れのようなものが付いていたので、二人で変ね~???

私も「可笑しいわね~、何????この黒い物、私の方の機械でやってみるわね」と言って彼女から受け取り、私も削ったので削り過ぎてしまいました。

もう何度も来て作っているのに、削り過ぎるという危うい間違いを起こしてしまいましたが、それでも出来上がった彼女作の夫婦グラスと私作のワイングラスに大満足してくれたので、思い出に残るプレゼントになり、とっても嬉しかったです。

カッティングしているときは、お喋りな二人が物凄く集中していたので、無口になりとっても静かでした。


さて、先日、貸している家の外装工事を始める前に、自分で作ったデッキを壊すことにして、朝10時から12時半くらいまでかかって、腐ってしまったデッキの解体工事をしました。
またその日、軒天の補修も下職さんの石井君に依頼して直してもらいました。

IMG_1049IMG_1048モモンガか何か動物が軒天をかじって穴をあけていましたので、そこを切り取り、新しい軒天を貼ってもらいましたが、石井君が軒天を直して間に、
子育てをしたこの家を現在は貸し出していますが、貸す前に毎年11月の連休に塗装というメンテンンスを自分でしていました。
そして、もう何年も補修やデッキ作りは、プロの力を借りながらも自分で作ったデッキでした。

腐っている部分は3枚ほど、手でバリバリとはがせましたが、しっかりついている部分がほとんどでしたので、のこぎりで切れ目を入れて、バールを釘のところに差し込み、金槌でバールを叩き、バールの上部を足で押してはがしていきました。
IMG_1052IMG_10563.9mのヒノキ材を貼ったので、途中で切らないと1枚では剥がしにくかったので、そうしましたが、先日ろっ骨を痛めたので、かなりきつかったです。
殆ど剥がし終わり後、2,3枚残しで軒天張りの作業が完了した石井君にバトンタッチし、私は軽トラに廃棄処分の木材を積み込みました。

さすがの石井君は、電動丸鋸で一瞬に切り込みを入れてはがして完了しました。


それから、市内のごみ処分場へ持ち込む前に「まあさの家」でランチを食べました。

IMG_1059IMG_1060彼も若い時から知っていますが、もうすっかり大人になり、自分の会社を持っています。

金髪だった髪は結婚して子供が生まれ黒髪に、そして初めて会った時から8年、いつも変わらずに丁寧な対応です。
素敵な青年になりました。

ちなみにランチはオムライスにコーンスープ、サラダでした。デザートはラムレーズンのアイスクリーム。
美味しかったです。いつもながら食べ終わってから「あ!!!!写真撮るの忘れちゃったぁ~」
です。

ですから、ご紹介できずに残念です。

さて、日本では、自分で家をメンテナンスすることはできないと思っている人が多いですが、エジンバラに住んでいるとき、リバプールに住んでいるとき、近所のおばあちゃまたちは、自分でガレージドアを塗るとか、階段を塗るとか、いろいろやっていました。
可愛がって綺麗に住むということへの意識が高かったと思います。日本でも、そういう意識が育つといいなと思います。
それも自分の人生を丁寧に生きることにつながるんだと思います。

そして日本では、年齢を気にする人が多いですが、私は仕事で現場からの廃材の運搬もしますし、自分できることは自分でやろうと思っています。
要は気持ちだと思っています。やろうとする気持ち。得意不得意はありますが、子供たちにやる前に諦めないでと言っていたので、その私がそういう態度は取れないと思っています。
信頼は、行動からです。

お母さん、私は日々の生活を丁寧に生きていますか?

やってから物を言いなさいと言っていた両親の言葉は、私を強く突き動かしていますが、生活の一つも丁寧に生きられない人が何を言っても絵空事、重みがないこと、身の丈の生活をしっかり自分の足で立ち、続けていくこと、継続は力なりと言っていた言葉が、一ヶ月前に過ぎた母の日から、父の日を迎える今、そっと思っている私です。
























生きている時間


2月、3月と私のライフワーク(NPO法人愛の素・AINOMOTO    http://ameblo.jp/ainomotoainomoto )のカンボジアの養護施設の子供たちの教育支援の決算月で、事業報告書等の作成をし、提出しました。英語学校に行き始めた新しい3人の女の子たちは、みんな素直でまっすくに生きています。
Hoeun Athida, age 16years old,IMG_0615小さい時から見てきた子たちが、訪れるたびに大きくなっていき、今ではすっかりティーンエイジャーになりました。
施設を出て働いている子たちからかかってくる電話はFacebookでの電話です。今の生活について話してくれます。
そしてfacbookで、いつも「Thanks Mom」と書いてきます。  何をしてあげたわけではない子たちから「ママありがとう」の言葉。
 
でも、それを見るたびに、8年間、継続は力なり、と手探りだけど頑張ってきてよかったと思います。

彼らの学費は、フォスターペアレントさんたちからご支援をいただき、学校に通うことができていますが、国からの補助も得られないカンボジアの養護施設は、フン・セン大統領とその身内による独裁政権と共に、私腹を肥やす政府役人たちは、自分たちばかりが良い生活をすることに夢中です。
時々、言葉を失い、無力感に襲われますが、現在9人の子供たちの学費をおくっていることを考えると走り続けないといけないと思います。

そして愛の素には新しいメンバーが増えました。

IMG_0605IMG_0607IMG_0608IMG_0604竹田悦子さんからご連絡をいただき何度かお会いして、いろいろお話してメンバーになってくださいました。

可愛い圭君は、歯が生え始めたようで、私の指をカミカミ。

悦子さんはアフリカ支援をしていた方です。現在中学校の英語の先生です。
彼女と日本と海外での人の生き方の違いや価値観などについて話、アフリカもひどいけどカンボジアの子供たちの方が、酷さの質や内容が違っていますねと言われ、いつ会っても興味深い会話ができ、時間はあっという間に過ぎていきます。

檜山さん1哉子さんも今年に入ってからメンバーになってくださって、そしてフォスターペアレントにもなってくださっています。

私の仕事を通しての出会いですが、長いお付き合いをさせていただいています。
福祉のお仕事をしていらっしゃるので、日本の社会が抱えている老人問題、子供たちの問題にも問題意識が高くて、話をしていると私が気が付かなった置き去りにされている老人たちの生活の様子など知ることができ、未来に、カンボジアの子供たちに日本に来てもらい助けてもらうこともあるかもと思いっています。
愛の素もいつか、そういう仕事を子供たちと広げることができたらと願っています。

125899IMG_0591ロザリンは、カンボジアで子供の養護活動をしているNGOのデボラからの紹介で出会いました。彼女は日本人の建築家のご主人と、お子さんが2人と日本人に住んでいます。
お休みに日に、二人で美術館周りをしながら、お喋りをして、お互いの人生や子供たちの人生やなどをお喋りして、すっかり仲良しになりました。新しい出会いでした。



さて、それから
時々、保育園からの同級生から、庭で咲かせている様々な花の写真が送られてきます。輝いている花たちを見るたびに、いつも元気をもらいます。
そして、友達のその気持ちに心が温まります。最近送ってくれた美しい花たちを公開しますね。
気品がある花、可憐な花、、、、どの花も生き生きとその美しさを放っています。

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先日の休みにケリーとシドニーをランチに招待しました。ケリーとシドニーは、ママと娘。
ランチは、サラダにサーモンパスタ。いつもの簡単ランチです。   ごめんね。
IMG_0676IMG_0682IMG_0679ケリーがキャラメルケーキを焼いてきてくれたので、ソイカプチーノを作って美味しくいただきました。

シドニーは、とっても落ち着いている子で、彼女と私の夢が同じだったことに、2人でウンウン分かる、そうだよねと、喜びを分かち合いました。ちなみにその夢は馬を飼って乗ることです。
いつかそんな暮らしをしたいと願っている二人です。

 私は、今、愛の素ができる現地での経済的自立支援を探っていますが、先日いつもご協力をいただいている花咲爺様のお宅へお邪魔して、養蜂事業の調査結果のお話しを伺いました。
IMG_0683ひょんなことから、養蜂事業に目をつけて、経済的自立をの展開を
計画中で、リサーチ中です。
ですから、花咲爺様が養蜂をされている方にお会いして下さった結果のお話を伺いに鎌倉まで行きました。

花咲爺様には、いつも、暖かな視線で見守ってくださっていることに感謝しています。




IMG_0688先日、アメリカやカンボジアにご一緒した田中さんご家族から、連絡があり、息子さんの誕生日と私の友達のアンちゃんの誕生日を一緒にお祝いしましょうとお声をかけていただきました。




IMG_0691IMG_0687今はアンちゃんも田中さんご家族と友達になりました。
メニューは、私が伝授したタコスでパーティー~~~





IMG_0695IMG_0694新緑の美しい季節に、お庭でランチパーティー。

このエリアに引っ越してきて以来、庭でのパーティーができなくて、心が緑を求めていましたので、癒されたランチタイムでした。






547816114.61441IMG_0862先日の母の日には、上の子からお花が届きました。

下の子は、仕事が忙しい中、来てくれ、夜は近場の温泉で日ごろの疲れを取りました。 
翌朝、朝ご飯の後に、今年の親子海外旅行はどこにする?との会話になり、そして数年前の台湾への親子旅行の思い出話になりました。

大雨の中を1本の傘を差しながら延々と続く海岸線通りを歩いて見たかった建築のある場所へ行ったこと、途中の美術館が閉まっていたこと、
あの時、地図を見ながら「近いから歩こうよ」と言った息子の言葉を信じて歩き始めて、でも歩けど歩けどたどり着かず、橋を渡るときにビショビショに濡れて、海から押し寄せつ海水に打たれ、途中の休憩する東屋で休憩しても、濡れて、そこからまた歩き、向こう岸の町にたどり着き、歩くのをやめてバスを捕まえてバスに乗ったら、遥か遠かった目的地。  
目的地に着いたら雨が上がり、今までの豪雨は何だったの?と、二人でぽか~~~~んとしてしまったことを思い出し、大笑いしました。

仕事の大変さや忙しさから痩せている息子の身体を気に病んでいる母です。
野菜を食べている?運動はしている?今付けた体力は、残るのよ。。。なんて言っていますが、クレー射撃、付き合いゴルフを趣味にしている息子に必要なのは、しっかりした運動なのにと心の中でつぶやく母です。彼の一番の趣味は、温泉で癒されることですが、おじいちゃんみたいだから、まず身体鍛えて欲しいと願っています。
まだまだ温泉巡りをするには若過ぎますよ~~~と心の中で叫んでいる母です。(でもそうしないと乗り切れないのかな?とも思っています)

それから、先日、休日を利用して、愛の素のメンバーのこうこさんを訪ねました。
こうこさんから、愛の素の活動に興味のある人がいるからぜひ紹介したいと以前から言われていました。
彼女は宝塚に住んでいますが、いつも彼女がこちらに来て活動の手助けをしてくれます。
私は初めての宝塚でした。
ホテルは400年以上の宝塚ホテルに滞在しました。素敵な歴史のあるホテルで、あと二年したら解体されるので、違う場所に現在建築中です。

翌日は、姫路城へ足を延ばす予定でしたが、宝塚近辺も面白くて、姫路城は次回にしました。
宝塚劇場を見学し、天海祐希さんが行き付けだったお好み焼き屋さんでランチをいただき、その後、手塚治虫記念館へ行きました。
息子が大好きだったブラックジャック。私が大好きだったアトム、リボンの騎士、ジャングル大帝レオ、どれもこれも子供の時に夢中で見た漫画です。可愛いキャラクターたちに出会い、生きているような気さえしました。
偉大な手塚さんの品位と人間性が伝わってくる記念館の中で息づいているキャラクターたち。どの子もみ~~~んな大好きでした。子供の時のワクワク感が蘇ってきた時間でした。

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館内を興奮気味に見て回った私です。
そんな様子をこうこさんが「良かったわ、こんなに喜んでくれて」と言っていましたが、こうこさんといっしょに歩く街中や紹介された人たちにお会いするできたこと、一緒にビールを飲みながらお食事すること、どれもこれも楽しかったです。
私たちは同学年。
愛の素の活動も、一緒にもう長いです。彼女は立派なお母さんで、4人の子供を育てました。
その愛情をたっぷり受けて育ったお子さんたちは、皆さん立派に育っています。
それは私とって尊敬です。

さて、その後は高級住宅街のあるエリアが、息子さんが通った高校の上にあるからと言うので、そこにも行きました。
建築の勉強です。
行きは歩いて公園を通り抜け、住宅がある山まで登って行きました。
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新緑が萌えていて、公園では学校の遠足で来ていたたくさんの子供たちが歓声を上げながらお弁当を食べていました。

美味しそうなお弁当と子供たちの明るい元気な声が響き渡る公園で、私もつられて木登りをしようとしましたが、登ぼれませんでした。
やっぱり足場とは違う~~~。


生きてる時間は思ったよりずっと短くて、私の1時間、1日、そして1年は、忙しく過ぎていきます。
どの人にとっても同じように時間が過ぎていきます。

仕事での新しいお客様との出会い、そして完成、その後の長いお付き合い、それだけではなく生きている時間の中でいろいろな人たちと出会いが重ねられていきます。
それはどれも自分を見つめる、貴重で大切な出来事です。

出会った素敵な人たちは、私の心の中に、一瞬や長いお付き合いの中で、思い出を綴ってくれます。

緑が萌えている木々を見上げながら、風の音が通り過ぎていくのを聞きながら、光の中でお喋りを交わしている小鳥たちの鳴き声を聞きながら、空を見上げて洗濯物を干しながら、
出会った人たちとお喋りをしながら、一緒に汗をかきながら、

生きている時間は重なっていきます。

ありがとうの言葉が暗くならずに汚れずにそのままで進んでいくように生き続けたいと思っています。













恒例の親子温泉旅行

今年も1月の終わりに、お正月は毎年海外の私のために息子が誘ってくれる温泉旅行に行きました。
前夜に研修がありその足で来た息子と、朝はちょっとゆっくり目に起きて、彼が大好きな修善寺の菊屋さん(https://www.hotespa.net/hotels/kikuya/)へ向かいました。

ちなみに彼はこの老舗旅館は好きすぎて10回以上行っているそうです。古い建築が大好きで落ち着くそうです。
私は確か3回目だったと思います。初めて来たときと二回目は虹の郷へホタルやライトアップされた景色を見に行きました。
また、菊屋さんは夏目漱石が療養した旅館ですが息子は、おばあちゃんの家みたいで落ち着いていいよねと。
木枠のガラス戸や廊下などの古さがちょっとだけ似ているだけですが、小さな子供のころ夏休みに滞在した時の思い出と重なって、懐かしい素敵な思いに浸れるのかなと思っています。

到着後は、ウエルカムティで迎えられます。
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今回のお部屋は、
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職人さんの手の味わいがたっぷりの手すりなども、やはり暖かさと落ち着いた雰囲気を感じさせてくれます。



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私たちの部屋の前の廊下と階段には、こんな手摺が。
そして到着後、部屋で一休みしてからいつもだったらすぐにいろいろな種類の温泉があるので、まずは温泉にへ入りますが、

この日は、かなり早く着いたので、修善寺や竹林の道へいつものように散歩に出ました。
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あれれ?以前来た時は、こんなお坊さんの像があったかしら?

IMG_9941IMG_9942IMG_9943面白い顔のお坊さんたちの像を見て回りました。
「あ!いるいるこんな顔の人ぉ~」

それから、鐘を横目で見ながら
31日に来て除夜の鐘を突きたいね、今あそこへ行って突いたら怒られちゃうかな?
と子供のようなことを言う母。
息子はちょっとあきれ顔でしたが、やってみたら?
誰かが飛んできて怒られるよ、やっぱりね。
と。

そりゃそうだよねぇ~時間も決められているだろうしねと、当たり前の会話を交わしながらお参りした親子でした。

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Kai君が道で日向ぼっこをしていた猫ちゃんを撫でて癒されていました。
母は「病気があるかもしれないから素手で触らないほうがいいわね」と、冷めたことを言いました。
猫からの病気で亡くなった方がいたニュースを見たばかりでしたから。

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梅がもう春を呼んでいました。
Kai君がこっちのほうがきれいに撮れるアングルだよと。
真っ青な空と梅、綺麗でしたぁ~。

それから温泉にゆっくり入って、夕食をいただきました。
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日本のこういうプレゼンテーションには、いつも感心します。 
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ちょっと残念だったのは、味付けが濃くなっていたことです。
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IMG_9976これが夜のコースでしたが、いつもと同じで食べきれない量でした。

翌朝、カフェで前にいた中年の姉妹のお姉さんが”味がちょっと濃くなかった?”と話していました。始めてご家族みんなで来て、”呑み助がほとんどだからそれで良かったんじゃない?私はおいしかったよ”と妹さん。

そうかぁ~飲む人は、ちょっと濃い味がいいのねと一人納得して話を聞いていました。
でも菊屋さんは、やっぱり素敵な旅館です。現在建て替えに進んでいるそうです。すべてが新しくなったらちょっと残念ですね。

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こういう文字のデザインも味があります。
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部屋のネーミングもいいですね。
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息子曰く、時々ここにきてリラックスをしないと身体と心が持たないよと。
そうね~そういう時間を持てることに感謝です。

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IMG_0002IMG_0003漱石が滞在したころから変わっていない創りに歴史を感じます。
夕食後はTVを見ながら眠っていました。
そしてKai君に”夜泣きそばの時間だよ”と起こされ、
恒例の夜泣きそばを食べましたが、Kai君のを少しもらいました。

それから、日ごろの疲れをとるかのように朝まで約7時間半爆睡でした。
良く寝るなぁ~といつもながら感心します。



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夜、二回朝二回、温泉に入り、11時にチェックアウトしました。

IMG_0011いつも幸せな時間をありがとう。
今回は、小田原の新幹線乗り場で、kai君は慌てて乗り込みました。
じゃぁ~ねぇ~と手を振ってホームへ走って行きました。

あれれ、どこかで一緒の写真を撮ろうと言っていたのに、、、、。

思い出の二人の写真を撮っていませんでした。
ラインで、またいつでも撮れるでしょと。

そうだけどぉ~。。。。

ま、感謝感謝です。

イタリア・アルベロベッロの旅 最終章

IMG_2167旅は建築だけではなく、生活、そこに生きる人たちの人生、文化、歴史、価値観など、そして裏側に潜む問題、経済状況、犯罪、社会問題、教育問題などなど、知りたい事にばかりで、いつも時間は足りません。
そこでの出来事や考えた事、感じた事、出会った人たち、見た物全てが記憶に刻まれ、訪問や滞在した55以上の都市や国々での景観や経験は、きっとどこかで今の私を作っていると感じています.
また、それらすべてが私が手掛けるデザインや建築に向かう姿勢や引き出しにしまわれていて、いつでもだせる状況を生んでいると感じています。

日本の価値観が世界各国の価値観にはならない事は、初めてアメリカに行ったときにしっかり考えさせられたし、それは目を開かせてくれた事実でした。

だから
色々な国に行っても、誰にあっても、まず知りたいと言う思いがあり、自分の考えや感じた事をしっかり伝え、コミュニケーションを通して理解し合えることへの努力を、まずしようと思っています。それが本当のつながりを生み出し、生き抜く力になる事を実感してきました。
目をそらさずに人や出来事に向かい合って、正直に、そして人は理解し合えるという根底にある思いを失わずに、でも時には毅然とした姿勢が必要な時もありましたが、みんな愛する人や家族への思い、悲しみは同じように悲しみであり、幸せは同じように幸せでありました。
歴史や文化、価値観が違っても人は同じようなことで嬉しいし、幸せだし、悲しいし、辛いし、そしてその乗り越え方が文化、習慣、歴史、環境などに影響された価値観によって違うこともありますが、前を向いて生きることの素晴らしさに動かされる気持ちは変わらないと思っています。
また、甘いと言われてもそう信じたいです。

この旅の間、夜は部屋でゆっくり過ごすことができ、色々なことを考える時間を持てました。また立ち寄ったレストランでの対応等について価値や習慣などについて考えることが多かったです。

IMG_2145お一人様は嫌な顔をされるレストランで、ゴジゴジでゆでられていないパスタをゆでて欲しいと作り直しを依頼し待っている間、その時にかかっていた音楽は郷ひろみの哀愁のカサブランカでした。
あれれ?どっかで聞いたことがあるメロディ。。。なんだったかしら? 
あ~~~ヒロミ・ゴーの曲だ!と思いながら、向上心について考えていました。
この町に住む洋子さんが言っていたように、ここに住む人たちは、面倒くさいという表現が生活習慣に染みついていて、日本の競争社会の中で切磋琢磨しながらより美味しい食事を提供したいと追及し競争社会に勝ち抜いていく道しかない日本社会の中で戦っているレストランと、茹でられていないパスタ麺を面倒くさいからとさっさとだしてしまうことが許されている社会。
どちらが、生きやすいかと言えば当然、後者の方で、できれば何も考えないで変化もなく過ごしていくことの方が幸せなのかも知れないのかもと思いました。

でも私はそういう社会では生きられないな、世界一と言われる日本のサービス社会の根底にあるのは、おもてなしの気持ちから発展した文化、習慣だと思うけど、同じような価値観が世界の国々に当然ないのは当たり前だけど、食べる人の気持ちを考えて作る気持ちは持ってほしいと思っちゃいました。

この日、この食事の後に、また町を回りましたが、頭の中では”哀愁のカサブランカ”が流れ続けていいました。


IMG_9693今回のアルベロベッロは、とっても見たかった、滞在したかった町でしたが、建物以外かなりがっかりすることが続きました。

31日の夜、外でドンドン壁を叩く音を聞きながら、怖さをかき消すためにワインを飲みながら、デザインのTV番組にも飽きてTouTubeで音楽を聴き始めました。

現在の玉置浩二のメロディや、EXILE ATSUSHIのオーマイリトルガール、最後の雨などの歌を聞き、ふっと本物と偽物について考え始めました。

時間があるってこういう時間を持てるんだなとも、しみじみ感じました。
 
二人の歌を聴きながら薄っぺらな歌、ドラマが嫌いだとまた改めて思いました。
本物には、純粋さがあり、それは厳しさと責任の重さがあり、自分だけが純粋だと思っているような薄っぺらさではなく、自分もしっかり傷つく覚悟と強さと人を傷つけることから逃げずにしっかり向き合う純粋さだ上っ面の綺麗事はすぐ禿げるななどと思っていました。
 こういうラブソングやドラマなどで、「君を守る」と自分の力を過信して簡単に言う安い男、守られたいと虫のいいことを思い過信するバカな夢をみる安っぽい女たちのことが頭に浮かびました。
愛は作り事じゃない。本物は厳しさがある。
歌に対する真摯さが伝わる。
厳しさが伝わる。
嘘やごまかしのない強さ。
だから、ATSUSHIの愛燦燦の歌が心に伝わって来て、はじめて愛燦燦という歌をじっくり聴きました。
また、歳を重ねた玉置浩二のメロディ、
”・・・・あの頃は、何もなくて、それだって楽しくやったよ、 メロディ~いつのまに 大切なものなくした・・・”
心に染み入る二人の歌を始めてしっかり聴き、そしてこれは本物ねと。
 彼らを知らないけど、歌に対する真摯さだけは伝わってきて、その生きざまには人に対しても嘘や作り物でなく真剣に向かい合ってきたんだと感じました。
だった一つでもそういう物を持っている本物の美しい心を感じ、ちょっと酔って眠りました。

恐怖と闘いながら、ワインと二人の歌に微睡ながら、考えたこと、しっかり心に思い出として刻まれたと感じました。

2017年31日の夜、新年のご挨拶をラインで送り、「あら?父が亡くなったのにご挨拶はいらなかったのね」と気が付き、日本の常識さえ身についていない自分に苦笑しました。

それから、また爆睡。アルベロベッロに来てこんな時間が持てたこと、ちょっと嬉しく感じながら素敵な歌に包まれて眠りました。

翌日のランチは、

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IMG_21648日間の滞在中に
お一人様を歓迎して迎えてくれた二つ目のレストラン。
スタッフも素敵な笑顔と私のオーダーへの対応もとっても良かったので、チップ弾みました。




そして、帰国の朝、5時にお迎えのタクシーが来て1時間かかってバーリまで行き、チェックインをして、予定時間より少し遅れて出発をして、確か2時間~2時間半くらいでミラノに着きました。

ミラノで乗り換えだったので、チェックインカウンターに行くと私の飛行機は、到着した空港からは出発せずに、ここからバスで1時間離れた空港から出発だと言われました。

きゃ~~~あと3時間半はあるけど、バスの乗車ホームを探しながら空港の外でキョロキョロ。バスの出発時間も調べなくちゃと思いながら、バス停を探し始めました。

すると、お客をキャッチする身体の大きな45,46歳くらいのタクシードライバーが寄ってきて、どこへ行くの?
その空港は遠いし、バスはすぐには出ないと言いました。
「いいの、いいのバス停を探しているから」と断ってキョロキョロ。
「距離もあるし渋滞になったらバスは進みずらいよ」と、また言ってきたので「じゃ、タクシー代はいくらなの?」と聞きました。
飛行機に乗り遅れたら大変だと焦りが出てきました。

1時間のタクシー代は、アルベロバットからバーリまでのタクシー代を考えると片道75€と思っていましたが、45€だと、そのドライバーは言いました。
「じゃ、45€ね!絶対にそれ以上は払わないわよ」と約束をして乗り込みました。道の状況もよく分からないので渋滞にはまったら遅れるから3時間を切ったので急いで決断したほうが良いと思いました。

ドライバーはすぐに車を出し走り始めました。
そして1時間ミラノってこんなに離れた空港もミラノ市内なの?と思いましたが、バーリから私が乗った飛行機はミラノの隣のベルガモ市郊外にあるオリオ・アル・セーリオ空港に着いたので、ミラノのアルペンサ空港へ行かなくればならなくなったようでした。
雪が山々を覆い、いくつかの町の中心を通り抜け、本当に1時間かかってアルペンサ空港に着きました。

料金を払おうとしたら、ドライバーが急に「168€だから」と言いました。
荷物を先に下ろし、私の荷物を握りしめたドライバーと、車外で「いやいやあなたは45€って約束したじゃない!」と押し問答。
近くにいたイタリア人家族のお父さんらしい人に助けて視線を送っても薄笑いしか返ってこず「あ~~~やられているんだな、でも自分には関係ないことだから面倒なことに首を突っ込むのはやめよう」
そんな表情で、私を見ていました。

何度も押し問答して、結局150€を払いました。
ホテルの予約したドライバーも片道75€、迎えと送りで150€を払いました。でもそれはホテルの利益が乗っているからで、このドライバーがまたセーリオ空港に帰り、多く見積もったとしても45€で、往復90€でいいのに。。。。
約束は45€!どんなに言っても荷物を渡してくれず、早くチェックインをしないとと言う焦りもあり、結局150€を払いました。
車内でイタリアの政治について聞いた時に「自分は右翼で、戦争難民の受け入れを拒否したいから、今度の選挙で、拒否している右翼政党に投票する。イタリアの政治は右翼化していて、とっても嬉しいよ」と言った男。イタリアの貧困、中国人や中国企業への依存、日本のサッカー選手、色々な話題を話して楽しそうだった男。
でも、お金に汚いイタリア人が立っていました。
コインランドリーもそうでしたが、お金に汚いイタリア人が多いと今回の旅では思いました。
数年前にローマに滞在した時は、ポンペイへのツアー(イタリア語、英語のみ)のガイドさんは、「日本人が好き、日本人の勤勉さがあったらイタリアの経済は、こんなに悪くならなかったし、経済も復活するのに」と言っていましたが、彼女やローマの人たちは、良い人たちばかりででした。
そんな思い出を胸に旅をしたアルベロベッロ、そして経由したミラノ。

でも、それは歴史的な建物に覆われ、旅人を餌食に成り立っていました。
きっとそれは、貧しさの中で、観光客が来始めて、日銭が入る生活が始まり、その経済的な流れに喜び、戸惑い、どうやって受け止めるかの節度がないままに、今この時を過ごしているんだと思いました。

でも、イタリアへは、後10年は行かないと最後に心に刻んだ旅でした。

救われる思いは、レッチェで出会った子供たち。人生にどう立ち向かって行くのか、手探りしている子供たち。
彼らの優しい瞳だけが、今回の素敵な思い出となりました。
それと私が滞在したトゥルッリのあるエリアの入り口にあった八百屋さんの正直さに救われた旅でした。
道を聞けばよく教えてくれるお年寄りたち、どこの国も同じです。

でも、アジアの貧しい国々へは何度も行っていて、ストリートチルドレンや、騙そうとする人たちにはたくさん会いましたが、アジアのような貧困さよりはずーっと裕福なアルベロベッロ、ミラノで、心の浅ましさ、汚さが見え、やっぱりちょっと傷ついて帰国した私です。

アルデベルチ イタリア







イタリア・アルベロベッロへ4

€写真はクリックすると拡大します。

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IMG_2118IMG_2119後半の4日間は、この町をもっと深く調査しようと思い、連日朝食後に部屋に戻り、ジョギングの服装に着替えて走り出しました。






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30日は、まずは町の中心にあるホテルのレセプションへ行き、コインランドリーの場所を聞きました。

そのレセプションからランドリーの方向へ走り出すと、私の後から走る足音が聞こえてきましたが、気にせず進みました。
バタバタバタバタ。

Yの字の分かれ道を右って言ってたよねと立ち止まり、レセプションのマネージャーが言っていたブルーの看板をキョロキョロと探していたら、昨夜、レッチェから帰る道でフェスのゲートにいたおじさん、と言って45,6歳の男性が、私のすぐ横に息を切らし、かがみこみました。

ギョ!何?
すると彼がニコニコと満面の笑顔で見上げて笑いかけてきました。
え?私をレセプションからつけてきたの?。。。 
その瞬間、彼に無言で一瞥をして余裕を見せて走り出しました。
「ついてこれるんだったらついてきなさ~い、そんな走りじゃ私についてこれないから」と内心思いながらもビビっている様子を見せたくなくて、余裕を見せて走り出しました。

IMG_2140日本人の女の子たちは海外でただ日本人だからと言うことで人気があるのを、勘違いして「わ、私モテてるぅ~」と笑顔で隙を見せ、ついて行ったりして犯罪や騙しに合っています。いい人じゃない?と軽く思うのも要注意です。
どの国の人ともしっかり向かい合って話す強い姿勢をかもし出さないと危険な目にあいます。勘違いの日本人女性が多いので、世界に出た時は、より一層注意が必要です。時に若い子の中には、本当に勘違いをして浮かれている子をたくさん見てきました。 ですから、無意識にこういう時の目線の強さと姿勢をはっきり表現することが身についている私ですが、日本の女の子や女性たちにも、そういう自分を守る術を身につけて欲しいと思います。

さて、変なおじさんを置き去りにして、町の中を走る抜け、坂道を下り、坂道を上り、町の外れまで来てブルーの看板を見つけられずに、きょろきょろしていると、向こうから60歳くらいの女性がIpadのチラシを手に歩いてきました。

IMG_9582IMG_9583「すみません、コインランドリーを探しているんですが、ご存じですか?」と聞くとイタリア語と笑顔で「ごめんなさい、英語が分からないの」と返ってきました。多分。
そこで、ジェスチャーでコインを入れて服をぐるぐる回して洗う動作をして最後に「コインランドリー~」と言いました。
すると彼女が笑顔で「ついてきて、一緒に行ってあげるわ」とイタリア語で言いました。、多分(笑)
そして一緒に歩き出し、裏道からランドリーまで連れて行ってくれました。
ランドリーまでの道のり、彼女が持っていたチラシを指して「Ipad?, Iphone?を買いに行く途中なの?」と聞きました。
IMG_9584IMG_9586すると、全く分からないイタリア語で、でも多分「このチラシ?! ただちょっと見に行くだけなのよ~」と言っているかな?と思いました。チラシをカシャカシャ音をさせて振りながら、ぞんざいに扱い、その後も多分「でもIphoneもipadもどんどん新しい物が出てきてついていけないわ、でもそうそろ買わなくちゃと思っているの」と、多分(笑)言っているようなと気がしました。
イタリア語が分からない私に向かってイタリア語でずーっとお喋りを続けながら案内をしてくれた女性に、
「ごめんなさい、イタリア語が分からないの」と苦笑すると彼女もイタリア語で苦笑しながら「私も英語が分からないの」と。多分ね。(笑)
二人で顔を見合わせてクスッと笑い合いました。 心温まる時間でした。

IMG_9588IMG_9591ランドリーの店内で、使い方を教えてくれた彼女に、「今は洗濯物持っていないの、このジョギングの服を汗をかくから後で洗いに来たいの」と告げるとシーシーと。

それから彼女と抱きしめ合ってほっぺにお互いにキスをして手を振り合って別れました。
よし!これで洗濯ができる!と嬉しくなり、(何しろ趣味は洗濯ですから)また走り出しました。

IMG_2141IMG_2157モンティエリアのマリアさんと洋子さんのお店に行く予定でしたので、コインランドリーから町の端を走る道路に出て、街の反対側をぐるっと回って土産物店が並ぶモンティエリアの階段を上り始めました。
すると、さっき追いかけてきた男性がハーァーハァーと息を切らして、急に私の横に現れ、苦しそうにしゃがみ込み、私を笑顔で見上げました。

IMG_2158IMG_2159ゲゲゲ!ついてきたの!
何か言いたそうにしたので、一瞥をして、「そんなに苦しいんだったらなんでついてくるの!」とちょっと馬鹿にした目線を送り、また走り出し、
日本のTVにも出ていたモンティエリアで有名なマリアさんの店に入りました。
入った途端に、彼女に3日前に来た時にまたくるって約束したら来ましたよと言うと、屋根に上がって見て行ってねと。
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屋上に上がらせてもらい景色を堪能しましたが、
先日伺ったときも同じこと言って屋上を見せてくれて、そして「私は日本へ何度も言っているのよ。白川郷とアルベロベッロは姉妹都市で、白川郷の土産物も売っているの。女優の弾***サンもここへ来たのよ」と全く同じ説明を写真を見せながらしてくれました。
日本人が大好きよと。


そして一緒に写真を撮って、こっちからとこっちからと両方から撮って紹介してねと、娘さんも言い出し、撮りました。

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それから商魂たくましく土産物を進められました。やや、閉口気味でしたが、自分への記念のお土産に3回吹くと幸せが来るのよと言う説明に押されて、鳥の笛を購入。

アーティストが作っているのと言う説明にも心引かれちゃいました。
日本円で約5110円、高いけど、もう二度とこないこの町の思い出には丁度いいかなと思いました。


それから洋子さんの店に寄りました。イタリア人の背の小さなご主人が店の前に近ずくと「洋子います、洋子います」と日本語で連呼。
彼女もTVのドキュメンタリーで紹介され、この町で暮らす日本人ですが、彼女にいろいろな質問をしたくて寄りました。
ご主人は私より背が低く、洋子さんは163cmくらいですらっと痩せ型の女性でした。そして洋子さんも屋上に上がって景色を見て行ってと進めてくれましたので、上がらせてもらいました。(facebookには動画で上げてあります。)

まず、レッチェで見た10歳くらいの子供たちの喫煙いついて、問題はないの?と質問をすると、それは個人の問題でしょ!とばっさり。  いやいやそうだけど、学校とか両親とかはどうなのかしら?と聞くと、そういうことについて何も言わないわ、だって個人の問題で学校教育でするのは勉強でしょ!と。そして親もそれは個人の問題だから言わないわと。
なるほど、そういう価値観ね。

それからずっと気になっていたレストランでのおひとり様お断りの対応について、聞くと、それは当たり前でしょうね、一人より一度にたくさんのお客さんが入ってお金を落としてくれた方が面倒じゃないし、一人でテーブルを取るのは、嫌がられるのは仕方ないとの事。
なるほどね。だから断られたり、露骨に一人だというと嫌な顔されたんだと納得。

彼女が、イタリア人の義母との関係を話だし、人生の先輩だし、この国の文化伝統を知り尽くしているから従っているわと。綺麗好きで掃除は徹底的にするのが奥さん、お母さんの務めだから、それにも従っていると。
でも自分の息子のガールフレンドが、息子に対して失礼な態度をとるのはムカッとするわと。そんな時は、はっきり言いたいけど、控えめに言っていると。
イタリアのお母さん、主婦は、家を守ってなんぼだという価値観があるから、お母さんに逆らうなんてできないわと。
なるほど。そういう価値観ね。

彼女の店、このトゥルッリも改築した時、世界遺産だから勝手に改築できなかったけど、職人さんに彼女がここに壁、ここに窓ねと一つ一つ説明したのに、全く違って作ってあったことや、職人が来ないからどうしたかと連絡したら「今日は仕事する気がしない」と言われたと。
ある時は材料がないからできないと言われ洋子さんが一緒に買いに行ったこと。だから建築に詳しくなった事。何にも知らなかったのに!と、

ここには「面倒くさい」と言う方言があり、その文化習慣が染みついていると。
やっぱり。。。。

私がレストランで体験したことや感じたこと、「なにか面倒くさがっている。。。仕事をすることに対して向上心がないの?」と言う思いは当たっていたとはっきり彼女から伝えられました。

毎日を唯々、決められた仕事を楽にこなして人生に変化を持たずに、一日5時間だけ働いで同じような日々を過ごしていくことが一番いいという価値観。

「勉強して何かのスキルを身に付けたいとか思わないの?」と聞くと、全く思わない人たちばかりよ。そういうことは面倒だから、したくないという価値観だとの事。

こんなにも違った価値観の中で生きて、人生を過ごす。それも幸せなのかもしれない。。。
彼女と一時間も立ち話で子育て、日本文化とイタリア文化、息子さんの教育、私の息子の事や、仕事の事などいろいろ話しました。

それから、遅いランチを食べにレストランを探しに、また走り出しました。
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レセプションの後ろにあったレストランに入ると、若い女の子のウェートレスがにこやかに迎えてくれました。
初めて笑顔での受け入れでした。
お隣の人たちが食べているリゾットが美味しそうだったので、同じものを下さいと言うと、笑顔が返ってきて、良かった、嫌な顔されないかったわとほっとしました。
このレストランは初めて美味しいと思いましたが、よくよく後から味を思い出すと対応の良さで美味しいと思ったけど、日本で食べるリゾットの方がやっぱりレベルが上かな?と思い直しました。
それから、またジョギングで反対側を回りました。
小さな路地まですべて制覇して、それから
家に帰りシャワーを浴びてからまた中心まで歩き、コインランドリーへ向かい洗濯をしましたが、ランドリーの人が洗ってあげるから大丈夫よと言うので洗濯機に洗濯物を一緒に入れました。
料金は洗濯2ユーロ、乾燥2ユーロと洗濯機に明記してあるのに、コインがない私に7ユーロだという女性。
やれやれ、お金に汚いなと思いながらもまぁ~いいかと払いました。
(実は翌日も8ユーロを払わせられました。自分で洗剤も購入し、2ユーロも入れたのに、あと6ユーロだと言われ、「いえいえ私はもう2ユーロを入れたからと説明し、洗濯機にも2ユーロ投入の表示が出ているのに、言い張っている女性に、お手上げでした。)

洗濯乾燥とかなりの時間、1時間以上かかりましたので、
帰宅が8時半ごろになってしまって、時々、後ろをチェックしました。
あの変な人がついて来ていたらと思うと内心怖かったので、まっすぐには帰らずに道を巻きながら家に帰りました。

その夜は、写真の整理と持ってきた3冊の本を読み切らなくちゃとならない思い持ってきた本を読み、ラインで家族や友達にメッセを送りました。

しばらくすると外で、ドンドンと壁を叩くものすごい音がして、それが30分くらい続いたのでレセプションに連絡しましたが、返事はありませんでした。

怖かったのでIpadで音楽を聴き、ワインをグラス一杯飲みながら、「本物と嘘物、本物の生き方、嘘で作った生き方」について考えて、頭の中の考えをまとめ整理してから眠りました。
聞いていた音楽が本物と嘘物、二人の異なるシンガーの生きざまから見える本物と嘘物を感じ、その理由を整理してなるほどねと納得してから眠りにつきました。

IMG_9592IMG_9594IMG_9595翌朝も、朝食後着替えをしてまた1時間町を走り抜けました。

じっくりと家をや店を観察しようと決めて回りました。


不動産屋さんの場所も教えてもらい3店舗回りましたが、昼間は開いていないのでスタッフと話すことができませんでした。
夜は、前夜の音の恐怖があり、暗くなる前に帰ることに決めていましたが、朝、レストランへ行く道で、また追いかけてきた男性が、付いて来て投げキッスをしてきたので、
「いい加減にしなさい!私を何歳だと思っているの!」煮えたぎる怒りと、貴方には全く興味がないから失せろ!と言う強い軽蔑の視線を送り睨みつけました。
イタリアに来てから迎えのタクシードライバーには、歯の浮くようなお世辞を何度も言われ、イタリアのこういう文化はそれこそ面倒臭いとイライラがマックスでした。


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この日のランチは、レセプションで美味しくて有名な店を教えてもらいました。

IMG_2136IMG_2137トゥルッリ ガーデンと言う名前で、私のトゥルッリへ向かう角にありました。

店の中には家族ずれと韓国からの学生たちが大きなテーブルを占めていました。

遅いランチを楽しんでいるようでしたが、私が、また一人で入ったので、本当に面倒くさそうでした。


IMG_2138IMG_2139一人だと悪いと思い、サラダにワインにメインのパスタを頼みましたが、頼む前に、「どのくらいのサイズですか?」と聞くと、返事が返ってこず、もう一度聞くと5,6個の包み込んだパスタだよと返事。

やれやれここもなの?
結局食べきれずに残しました。
そして
態度の悪いところでは、チップななし!

食べれない子供たちが世界中にたくさんいるのに、残すことへの罪悪感があり、聞いているのに、、、、
お金にならないお客さんは面倒だという態度に、正直辟易していました。
そして味だって美味しいわけじゃない。。。。アルベロベッロのこういう態度は、何だかがっかりしていました。

それから、部屋に戻り、本を集中して読みました。

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IMG_9634IMG_964231日の夜もランドリーに行き、洗濯を早めに終わらせて帰宅しましたが、お店が開いていました。
ここへきて初めて開いている店舗、ショッピング通りの店店を見ました。

最もその時間に、私が町をうろつかないからなのですが、31日なので人通りが多かったです。



IMG_9648IMG_9643夜はTVでcasa desgin style と言う番組を流しっぱなしにしていました。
それはインテリア、アーティスト、家具、建築家、コーディーネーターたちの仕事ぶりを紹介する番組でしたから。






1日は、店も閉まっているとの事だったのでメールを送ったりラインを送ったり、調べ物をしたりして部屋で過ごしました。




IMG_2148IMG_2149IMG_2152トゥルッリの中が暗いので、初めてドアについているもう一枚のドアを開けてみました。

なるほどね。ここを開ければ明るいのねと、今までちょっと怖くて開けれなかった窓を開けて、その明るさを実感しました。。




それからランチに1時くらいに出ました。

IMG_9635IMG_9658ドアなどの写真を撮りました。







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ご自由にご覧下さいと英語日本語で書かれた看板があり、中を見せてもらいました。
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今はアルミの玄関ドアに交換されてる家が多かったです。
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IMG_9686IMG_9688近くの八百屋さんの果物はとっても安かったです。
夜ご飯はランチでお腹がいっぱいで、果物・ヨーグルトなどで済ませました。




1日の夕方、夕日がとってもきれいだったので町に出て、眺めました。

IMG_9689IMG_9691IMG_9692雲の流れとともに一瞬で形を変えるサーモンピンクの空。

この町のどこかの誰かさんも、
今この瞬間に、この空を見上げて
綺麗ねと思っていると思いました。

洗濯物を取り込む、お母さんかな?
友達とフッドボールをして家に向かって歩き出した男の子かな?

息子たちを育てながら、何度も見上げた空。
夕暮れ。
こんな空を、スペインのサンタンデールでも日本でも見たわねと思い出しました。

文化も違う、歴史も違う、人生も違う、
ここに住む女性の中に、子どもの中に、きっと今、この瞬間にこの空を
見上げている人がいると感じていました。

地球は小さな星です。一人の人生も小さいです。
帰国を迎え、2018年、
私はどう生きるの?
と問いかけながら見上げたこの空とこの日を忘れないと思いました。

つづく

















イタリア・アルベロベッロ3 出会い

レッチェのゴシック建築は、パリのノートルダム寺院やミラノのドゥオーモ大聖堂などを見ているので期待外れで、コロシアムはローマのコロッセオよりかなり小さくて、でもここで殺し合いを観覧すると言う野蛮な歴史があったと思うと、変な気を感じました。急いで、ゴシック建築を見て回り、

IMG_2103IMG_2100そそくさと駅に向かい、アルベロベッロ行きをチェックすると出発まで約1時間もあり、駅構内にはベンチもなく、店もスナック類と水のような飲み物類などしか売っていないちいさな売店(?)しかなく、カフェもない。。。。。

仕方ないからプラットホームに出てベンチに座って待とうと思いました。

私が乗る電車の出発ホームは一番奥の端っこ。


IMG_2101IMG_2105わわわ、ベンチもない。。。。。
しばらくホームの真ん中で立って待っていましたが、乗り降りの乗客の邪魔になるので、ホームの端っこへ移動して待ちました。

でも、やっぱり1時間、立ったまま待つのは疲れちゃうなと15分くらい待って思い直し、キョロキョロ。

あ!あった!
隣の隣のホームに小さな木製のベンチが一脚。   
地下通路から改札に向かうホームの手前にあるベンチに座り,その日に撮った写真のチェック初めましました。
すると、ベンチのあるホーム、私のすぐ目の前に鳩が二羽降り立ち、水たまりの水を美味しそうに飲み始めました。見ているとあーーーー喉が渇いたぁーーー   うーーーん美味しい---と言っているような表情で二羽 の鳩が水溜りの水を飲み続けました。くちばしですくっては空を見上げゴクゴク。 喉を通る水の音が聞こえてきそうでした。

それを「可愛い~、美味しそうに飲むのね」と思いながらじっと見ていました。
すると、そこへ4人のティーンエイジャーが近づいてきて、その中の小さな女の子が私に向かってイタリア語で何かを言いました。
きっと可愛いねと言ったと思ったので、「Cute?...Cute!」可愛い?、、、、可愛いね!とその女の子を見て言うとニコッと笑顔が返ってきました。

貧困の国、格差が蔓延している国では、こういう若い子たちが犯罪を犯す可能性が高いので、他の男の子たちの目、表情をチェックしました。
みんなちょっと寂しげで、でも人懐っこい表情をしていました。一人だけ、ウロウロ動き回りちょっとイライラ感が出ていました。
そのイライラ感は、自分の人生、生活、未来への不安を感じていて、ちょっと怒りが入っている瞳かな?と思えました。
スコットランドのエジンバラに住んでいるときに鋭い表情の子供たちの目に出会っています。またベトナムやイタリア、ローマで、スリを働く子供集団にも会っています。今まで被害にあったことはありませんが、貧困に苦しむ人たちが多い国では、ちょっと危険な目をした子供や大人たちがいます。この列車の車窓から駅にたむろしていた10,12,13歳くらいの子供たちが数人集まってたばこを吸っているの何度か見ました。いっぱしの大人のような態度で、肩をすぼめ手のひらで風を防ぎながらライターの火をもらいあう子供たち。ちょっと荒んだ光景でした。

IMG_2106IMG_2107でもこの子達は、荒れた目をしていませんでした。
人懐っこそうに話しかけてきました。
「ジャポネ?」  シーシーと返事。
皆な身長が小さく、157cm弱の私がまっすぐに立つとどの子よりも大きかったです。
女の子が私たちはピッコロ 、小さいのと言いました。

左の男の子と女の子が兄弟、左から二番目の子が18歳でシェフの見習い、一番右の子がうろうろしながら落ち着きのない子で、この4人は10年前から友達だと言っていました。
お互いに自己紹介をしあいましたが、もうみんなの名前を忘れてしまいました。
シェフの子は、Leandro Vigilia で彼とはfacebookでつながりました。

女の子がスマホの翻訳機能を使って、私に質問し、私の質問の単語をそのアプリを使って理解し、理解できたら大喜びをするという子どもたちでした。
何故ここにいるの?仕事は何をしているの?何歳?色々聞かれましたが、シェフ見習の子のガールフレンドをみんなで迎えに来ていること、たばこは10歳から吸っているのと自慢げに話してくれました。

そして女の子は、私の仕事を聞いて、親指と人差し指、中指をすりすりさせて手の候を見せて「big money?」と聞いてきました。大人のようにそんなジェスチャーをして目をキラキラさせて給与のことを聞いてくる女の子が、可愛くて、ちょこっと吹き出してしまいました。
そしてあなたは可愛いわねと思わず言うと、4人の子供たちがみんな嬉しそうな笑顔を見せてくれました。
皆の妹と言う感じです。
日本でシェフはビッグマネーを得られる事や、私には息子がいて、きっと私はあなたたちのグランマ(おばあちゃんね)と言うと、皆ニコニコと笑顔でした。
息子は何歳なの?と聞いてきて説明をすると、うなずいていました。
4人の子たちの目が温かくて優しさに溢れていました。
私も日本は好き?何が好き?などと聞きましたが「てんぷら」と返事。
鮨は?と聞くとちょっと表情をゆがめて生の魚は食べれないと。
ドラゴンボール?マリオ?と聞いてカメハメハーーーーと手の中に気を集めて投げる格好をするとみんな大喜びでした。
彼らにイタリアの料理は好き?と聞かれて好きよ、でも日本のイタリアンの方がおいしいかも?東京では世界の料理が食べれるのよなどなど、話すとうん、いつか行ってみたいと。
OK、いつか来たら東京を案内してあげるわねと私。
心から、この子達が日本に来た時、案内してあげたいと思いました。そして「私が死ぬ前に来てね」と言うと、みんなちょっとクスっと笑いましたが、すぐ真剣な顔で「日本は高いでしょ?」と。私が思いっきり「ノ、ノ、ノー」と言って食事もホテルも安いわよ。もし来たら泊めてあげるわね」と言うと、ちょっと信じられないけど嬉しいと言う顔をみんなしていました。
この子達はシェフ見習のリンドロ(?)をとっても尊敬していました。ちゃんと仕事をしている事、自立していること、それはみんなのあこがれのようでした。彼らと会話の中でそれが十分すぎるほど伝わってきました。

親たちが失業したりして貧しい生活の中、きっとこの子達は4人で支え合ってきたんだと強い絆を感じました。

イタリア語話せるの?と聞かれて「4つしか分からないし話せないの」と言うと、4つだけ!!!!!とみんな驚いて、旅は大丈夫なの?と聞かれて、
「大丈夫よなんとかなってるわ」と私。
「どれくらいいるの?」
「10日間の旅ね」
「4つの言葉は何?」
「シー、グラッチェ、ティアーモ、チャオ」と指を折って数えながら4つの言葉を言うと、女の子とお兄ちゃんも指を折りながら私の言った言葉の後から同じ言葉を言って最後に4つの言葉しか話せないのに旅をしているの!と翻訳アプリを見せてまた言いました。
私もちょっと大げさに目をばっちり開けて「シーシー」と笑いながら自慢げに言うと、皆大笑い^^

それから帰りの電車は大丈夫なの?とかいろいろ聞かれて、私はアルベロベッロまで帰るけど大丈夫よと答えると、

お兄ちゃんが私の電車の出るホームに走って行って、何やら黒人の男の子と話して戻ってきました。
そして、一緒に来てとジェスチャーで言うのでみんなにチャオ・アルベデルチと挨拶してホームまで行きました。
すると、お兄ちゃんは黒人の子を指してイングリッシュと言うので、
その子に英語話せるの?と聞きました。すると彼は母国語が英語だからと。

そうです。お兄ちゃんは私の帰りを心配して英語を話せる子を探してくれたんです。
途中の5駅まで彼と一緒に帰れるから大丈夫だよと、どうやら言っているとの事。
私は、その優しさに思わずお兄ちゃんを抱きしめて「グラチェ」と言いました。
IMG_2108IMG_2110君は本当に優しいのね、ありがとうと英語で言って黒人の子Gyan Simonに通訳して伝えてもらいました。

それから、他の子もホームに呼んで、記念撮影をしfacebookのメンセンジャーを交換しました。

それから、いつか日本に来ることを待ってるわね。と言って別れました。
こういう出会いは、旅の中で一番嬉しい出会いです。彼らの一人でも英語が話せたら彼らの生活、人生を聞いてみたかったです。


それからシャイなギャンと一緒に電車に乗りました。
ギャンがちょっと恥ずかしそうに黙って私の前に座っていましたので、どこの国から来たの?何歳?仕事は?
と質問しました。
ガーナから来たギャンは20歳、サッカー選手だと言う。 わ~~~凄い!と言うと、「そんなにすごい選手じゃないんだ」と、恥ずかしそうに言いました。
「でもそれが仕事でしょ!だったら凄いわ」と言うと小さくうなずきました。
あんまり根掘り葉掘り聞くのもシャイな子にはきついをよねと思い、その後黙りました。

しばらく沈黙が続き、彼が恥ずかしそうに、小さな声で、周りに聞こえないように「ヤギの肉を買ってきたんだ。臭くない?」と彼の足元に置かれたビニール袋を目で追いながら言いました。
「大丈夫よ、全然臭くないから、」と言うと
ヤギの肉は日本では食べるの?と。
「ヤギはあまり食べないけど羊は食べるわ。子羊もね。と私。
するとほっとした顔をして初めて笑いました。
子羊は美味しいわよね~、と私。
このヤギの肉は今夜のパーティーで食べるんだと彼。
家族と一緒なの?そうなのね~、家族も来ているのね、ガーナから。  じゃ、寂しくないわねと私。

それからバックに入っていた日本から持ってきたキャンディーとグミとクッキーを彼にあげました。
食べてみて?日本のお菓子を食べるのは初めてでしょ?
うんとうなずきながら手渡したグミを彼が食べました。
私はどう?美味しい?と聞きました。
ギャンがうんうんとうなずいて嬉しそうでしたので、じゃ、他のも食べてみてと進めました。
ミカンの飴をなめて、「これはこっちでも同じ味だ」と。
そうなのねぇ~とうなずく私。

それから、聞きたかったことの一つの質問を彼に尋ねました。
「ここへ移民してきて一番難しいことは言葉と仕事を得ること?」と。
彼は私と同じような言葉で同じように一番難しいことは言葉と仕事を得ることと言いました。
私は「よく分かるわ、私はイギリスに住んでいた時に、同じような経験をしているの」
イギリスに住んでいたの?    そうそう、もう20年も前になっちゃうけど。
それから、
でも、さっきあの子たちとイタリア語で話していたじゃない?だから言葉は大丈夫そうじゃない?と聞きました。
いやまだまだなんだと。
移民してから2年が過ぎて生活は大変そうな様子がヒシヒシと伝わってきました。
そうなのねぇ~、そして仕事を見つけるのはとっても難しいそうね?この国の失業率は高いから。ガーナと比べたらどっちが大変なの?仕事を見つけるのは。
と聞くと、まだこっちの方がまだいい。ガーナはもっと苦しいからと。
そうかぁ~。。。
ガーナからきた20歳の若者は目を伏せました。

それから沈黙が続きました。
でも彼を元気付けたくて「素敵な服ね!オレンジとトップのジェケットがとってもお洒落で似合ってわ!」と言いました。
彼がほっぺを赤らめて「ありがとう」と恥ずかしそうに笑いました。
でももっともっと元気付けたくて「本当よぉ~すっごく素敵!似合ってるわ!」と、もう一度力を込めて言いました。
すると彼が本当に本当に嬉しそうに「ありがとう」と言いました。

良かったわほんの少しでも喜んでもらえてと心の中で思っていました。

IMG_2111それからキョロキョロして彼が「僕の駅は次だから、降りるね」と。
OK ありがとう~。助けてくれたありがとうと言うと、facebookのメッセンジャーを交換しようと。
OKOKそれから交換をして降りていく彼を見送りました。

この国の裏側には、貧困問題があります。若者たちが仕事をしたくてもできない状況があり、また移民者たちにも厳しい状況です。

日本の経済が壊れる、先送り先送りされている借金問題の深刻さに、まだ気が付いていない多くの日本人がいます。
IMG_2115また、移民者受け入れの世界最低レベルの日本。人口が減っているにもかかわらず、滅びに向かっている日本ですが、ここで出会った学校へ行かない、行けない子供たち。仕事が得られない若者、それを思うと帰りの電車で暗い気持ちになりました。

暮れていく空を車窓から見ながら、「どうぞ、今日出会った子供たちが幸せな未来をつかめますように」と心から、心から願っていました。
後、20年、30年、世界はどうなっているんだろう?

今朝、たった一人で心細さでいっぱいだったアルベロベッロの電車の駅には、人がいました。
駅からは歩いて10分くらいで家に着きました。

その夜29日が最後のフェスの夜でした。私のトゥルッリのエリアの入り口にはゲートがあり、チケットを見せないと家までは帰れません。
説明してもトウセンボをするおじさん。
バックからチケット出して見せると態度急変でOKOKと。(でもこのおじさん、翌日からストーカーになりました!)

私の家へ向かう道にはたくさんの観光客がツアーに参加し、あっち、こっちのブースには人が集まっていました。

夜は、外から聞こえてくる人々の声や、フェスの音楽やツアー参加者たちの話声が微かに聞こえてきましたが、ゆっくりシャワーを浴びて、本を読んで眠りにつきました。

つづく







イタリア・アルベロベッロへ2~レッチェへ

翌日は、快晴!トゥルッリのとんがり屋根の横にある小さな窓から射す光に飛び起きました。
IMG_1956朝食をいただくために急いで支度をして向かいました。
ごみ収集のおじさんに会いましたが、3輪車の小ささにビックリ!こんな車は子供のころに日本では走っていましたから。





IMG_1957IMG_1958家を出るとちょうど前の家がリモデリング中!

わわわ、モルタルをこねてる!と言うことで、作業している方に、その材料はモルタル?と聞くと英語が分からないと言いながらも「モルタ~~~ル」と返事が。
中見ていい?と聞くと、強面の一人のおじさんがダメとだめ!と。
他の二人のおじさんたちは「いいよ」と言ってくれたのに、・・・

イタリア語が話せたら、私の仕事を説明したいけど、話せないので、渋々諦めました。滞在中にまた、いつか見れるかもしれないからと思いながら、レストランへ向かいました。

IMG_1964IMG_1965IMG_1966古いフィアットや、転びそうにガーガーとエンジン音をたてながら、何だかやっと走っているような三輪車を数台見ました。お花屋さんの前の道に停まっていたので、気兼ねせずに撮った車の写真です。

他でも古い自動車をたくさん見ましたが、古いものを大切にしている事がよく分かりました。



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快晴でしたが、北風が下から吹き上げてきてとっても寒かったです。
朝食後、モンティエリアへまた行きました。

IMG_1971IMG_1973IMG_1972天辺にある聖アントニオ教会の写真を撮るのを忘れたので、もう一度行き、中へ入ると、座っている男性がいてお金を頂戴、頂戴と何度もジェスチャーで訴えかけてきました。
敬虔な信徒さんたちの優しさに訴えている様子。身なりは小綺麗でしたので、私も他の人たち同様にスルーしました。
(ちなみに貧しい国、海外で出会うストリートチルドレンには、お金ではなくお菓子を買ってあげることにしています。 お金は親たちの酒代やドラッグに変わってしまうことが多いので、子どもたちに直接あげられるものにしています。もし出会ったらそうしてあげてください。子供たちの喜ぶ顔に出会えます)
アルベロベッロではストリートチルドレンは見ませんでした。

その後、教会の前の道を下がって行き、下の道を歩いて回りました。
IMG_1976IMG_1977IMG_1980IMG_1983この日もぐるぐる回って町中を歩きました。

路地や大通り、町の外側を回っている道も少し歩いてみました。
一般住宅を見たくて探しました。


IMG_1989IMG_1990IMG_1991倒産したホテルや人が住んでいない家もたくさんあります。

滞在中に不動産屋2件を回りましたが、その話は、また後で、ここに記したいと思います。


ランチは、またまた食べれない量で、一人のお客様はどうやら嫌らしく、滞在中7件のレストランに断られました。
だから入ると、ワインは?と聞かれるので、毎回注文をしました。

IMG_1986IMG_1987IMG_1988こんなに残してごめんなさい。私は小さいから食べられないのと笑いながら言うと、笑ってくれるウェイターさんもいれば不愛想な人もいます。

でも笑ってもらえるとその笑いにちょっと救われた気持ちでした。





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新しい低層共同住宅を発見。 前面に停まっている車はアウディ・ゴルフ・ベンツ・フィアットなど、格差社会が見えました。

そして現在建築中の現場発見!
IMG_1999IMG_2001IMG_2002柱・梁は鉄筋コンクリート(?)多分。
外壁や床・間仕切り壁は空気の層があるブリックです。

カンボジアやイギリス・アメリカなどで見たブリックは穴が大きいですが、この小さな穴のブリックは初めて見ました。

道の舗装状態は悪いです。

こういうところに国も貧困さがでます。アルベロベッロは田舎の観光地で世界遺産になっているので最近は観光客が多いけど、イタリアの貧しさとこの町の貧困さは、レストランと土産物屋さん以外は、厳しいと感じました。

IMG_2005IMG_2008高圧洗浄で外壁を洗っていました。これもきれいになって観光客のホテルになるようです。

イタリアの失業率はとても高く(11%以上、日本は2,9%くらい2017年8月現在)、数年前にローマに滞在しているときにタクシー運転手のおじさんから、息子たちはイタリアで生活できないからアメリカやイギリスに住んでいるとのことでした。
またポンペイへ行った時のイタリア人ガイドさんの話で、イタリア人が日本人のように勤勉だったら、イタリアはこんなに貧しい国にならなかった、日本人を真似するべきと言っていました。
ホテルのレセプションで、「政治的な問題や経済問題はどういう状態?」と質問した際に、「年が明けて選挙があるから、やる気がない役人ばかりです」と返事が返ってきました。

一日5時間しか働かない、土産物店と数軒のレストラン以外、気が付けば店も閉まっている時間で、
カフェも閉まっていておまけに、スタンドカフェのみ。
街角のカフェでのんびり人間ウォッチングをしながらwifiを使ってメールやSNSやネットを開こうと思っていましたが、そういう店は町中探しても探してもなく、朝、出社前にスタンドカフェに寄って仕事に行くという事らしく、スタバやゆっくり座れるカフェがなく、またwifiがないという返事で、結局滞在していているトゥルッリの家に帰って作業をすると言うことになりました。
こんな時じゃないとできないIpadやIphoneの写真の整理や、溜まっている本読みなどを連日少しずつしました。

そして、下調べをしたゴシック建築の町、レッチ(Lecce)ェへ3日目に行くことにして、翌朝早朝6時過ぎに出る電車で片道3時間かかるらしいので、TVのCASA DESIGN STYLE(カーサ デザイン スタイル)と言うリフォームやアート、陶芸、料理や建築家やアーティストのインタビューなどを紹介しているチャンネルを観て眠りました。
滞在中は、イタリア語が分からないので、このチャンネルと音楽番組のみでしたが、ちょっと羨ましいなといつも思うのは、日本にはこういう生活に密着したチャンネルがないことです。

翌朝、5時に起きてシャワーをして買い貯めしてあるヨーグルトとバナナ、リンゴ、オレンジ、そして前日買っておいたパニーニの半分を食べて、アルベロベッロの電車の駅に向かいました。

IMG_2012IMG_2015真っ暗でだれ一人歩いていない道を速足でトットコトットコと地図を見ながら歩きました。

外灯がなく暗くて、かなり心臓はバクバクでしたが、坂道を降りていくとぼんやりした明かりがついた駅が見えました。
良かった!あれだわ!小さなドアが一つついている入口を開けて入ると、駅員室の中に、一人の駅員さんが窓口に背を向けて座ってPCで何かしていました。

Hi good morning と声をかけると振り向きました。そして、レッチェへ行くチケットを下さいと言うと、何かを面倒くさそうに言っている。。。。
え?分からない。。。そこでIpadで昨夜写真に撮った電車のタイムスケジュールと地図を見せて、またレッチェへ行きたいのと言うと、英語が話せない職員のおじさん、本当に本当に面倒くさそうに外に出てきて、壁に貼られた電車の時刻表を指さしながらまた、何かを言っている。。。。
そしてすぐまた室内に入ってしまって、背を向けて何かを始めました。

実は、私にとって海外でこんな風に扱われたのは珍しく、大概ニコニコと対応してもらうことが多かったので、びっくりしてしまいましたが、聞くしかない!と腹をくくってもう一度聞きました。
IMG_2020IMG_2019さっきおじさんが射していた電車のタイムテーブルをIpadで撮って、それを小さな窓口から見せながら、アルベロベッロからレッチェへ行く電車の時刻を指しながら6:55?と聞くと、NO~~NO~と言っている。。。。

そしてまた出てきてくれて二つの時刻表を交互にさして何かを言っている。マルティナフランカを連発するおじさん。そしてまた言い終わるとさったと入室、。。。。かなり苛立っている!

でも、私は行くと決めたから、ここで諦めるわけにはいかない!と思い、
OKay! もう一度! 彼に向って
マルティナフランカ(Martina Franca)? と聞くとシーシーと返事!
OKAY!!!まずマルティナフランカに行くのね?と英語で聞くとシーと返事。
どうやってそこまで行くの?と聞くとバ~ス、バ~スと連発。
Okay!バス乗り場はどこ?と聞くと椅子に座ったまま、腕を上げそっちだよと。そして半円を描いた腕と共にまた何かを言っている。。。
え?どういう意味?
私も同じようにおじさんが射している方に腕を上げ、あっちね?!と。
なんだかおかしくなって吹き出しそうになった私。笑わないようにコラえる私。でもおじさんイライラマックス!

でもおじさんまた面倒くさそうに、それでも外へできてくれて駅前のYの字の右側の道をさしてこっちの道を行って1ブロック目の右側だと言っているよう。。。そしてまた半円。???

でも、とにかくおおおおお、シーシーと返事する私。
そんなに怒らなくても、へへへと可笑しさをコラえて返事をして、とにかく行ってみるしかないと思い向かいました。雨の降る真っ暗な道を歩きながらひとり言
「あ~~~なたね、そんなに面倒くさがらなくてもいいんじゃない?なんども出てきて説明してくれたのはありがたいけど、一回目でゆっくり向かい合ってくれたら、何度も出てこなくてよかったのに、、、そして勤務時間中にネットでな~~~に見てるの!そりゃあ~~~なたの時間を奪ったかもしれないけど、ね、それはあなたの仕事でしょ?」と。デビ夫人みないな”あ~~~なたね”のアクセントをつけて、言ってみて、ひとりクスクス笑っちゃいました。

IMG_2024角を曲がったところに女性が一人立っていて、どうやらバスを待っている様子。
しばら彼女の横でちょっとほっとして待っているとバスが来て、その女性は乗り込みました。
私は彼女に続き、ドライバーにマルティナフランカ?と聞きました。

ドライバーは、NO NOと言ってすぐ発車してしまいました。
ポツンと取り残された私。   え~~~どこから乗るの?どこ~~~~?とひとり言。。。

よし!探そう~と反対側にGSの横かな?バスの駅をイメージしていたので横にある広場に行きましたが、どうやら病院の駐車場らしいのです。
そこでGSの建物に入って聞こうと思って入ると、おじいさんたちが奥の方で4,5人お喋りしていて、私を見るとこんな時間に何なんだ?といぶかしげな顔をして見ました。

IMG_2021IMG_2022おおっと!あそこで聞く勇気はないなぁ~と、。。。とにかくバス出発の55分まで20分くらいあるからカプチ~ノを飲んでから聞こうと思い、注文しました。

するとちっちゃなおじいさんが入ってきて私を見ました。
「よし!この人ね!」と思い、マルティナフランカ?バス?と聞きました。
すると、おじいさんが「おいで」と言って雨の降るGSの前のバス停に連れて行ってくれました。
「な~~~んだ、さっきのバス停の反対側ね~、あ!そうか!駅員さんが半円を描いて何か言っていたのは道の反対側と言う意味ね!」と気が付きました。
やっと言っていた意味が分かって可笑しさマックスになった私です。


そしてバス停で待っていると51分にバスが来ました。 え?早い!イタリアなのにこんなことあるの?と思いながら待っている間にボールペンで手のひらにMartina Franca=マルティナフランカと書いた文字をドライバーに見せながら聞くとシーシーと笑顔の返事。

イタリアでもこんなことあるのねぇ~早く来て早く出ちゃう~  でも あ~~~良かった!早めにバス停で待っていて!乗り遅れなくって!とほっとしていました。

バスには誰も乗っていなくて私一人。
ドライバーのすぐ後ろの席に座って暗い雨の町を抜けていく車窓から見えるくらい景色を見つめていました。

するとニコニコしながら運転手さんが「ジャポネ?」と聞いてきたので「シーシー」とお返事。
「ビューティフル 僕は日本人が好き」と英語で彼が言ったので、
「あなたは日本人が好きなのね~」と。日本?日本人?どっちが好きなの?と聞きましたが英語が分からない様子なので、「日本の文化が好き?」と聞くと「シーシー」と。そして彼がまた「I love ジャポネ」と言ったので、日本人を代表して「グラッチェ」=ありがとうと言いました。

他愛無いイタリアでよくある会話が何度か行ったり来たり、でも彼の誉め言葉が退屈なので、「私、レッチェに行くの、ゴシック建築を見たいの。電車でね。でもどれくらいかかるの?」と言うと、
何やら驚いた様子。
そしてどうやらこのバスはマルティナフランカの電車の駅には行かないと言っているみたい。。。
えぇぇぇぇ じぁ、このバスはどこに行くの?さっき手のひらを見せてマルティナフランカ?と聞いた時、シーシーって言ってたじゃない!?と心の中で呟きながら、頭の中で「どうしよう?どうする?」と自問自答。

困った顔をしている私に、このバスは電車の駅には行かないけど、・・・と彼も困った顔。
心細くて無口になった私の頭の中は「、なるようにしかならない、ここまで来たら駅は歩いてでも行けるよね」と。
それからしばらくするとバスは町に入りました。
彼に「マルティナフランカ?」と聞くとそうだと。
とにかくマルティナフランカまでは来たのね!じゃ停まる所で停まってから考えようと思っていたら、彼の運転するバスは町の中へ中へと走りました。
それからバス停前で停まり、「ここで待っていたらバスが来るから、」と片言の英語で言ってくれました。私は「レッチェ?トレイン?」と聞くと笑顔で「シーシー」と。

どうやら彼は私のバスが来るバス停への道に回ってくれたようで、「大丈夫、5分で来るから待っていて」と何度も言ってくれました。
私も「グラッチェ、グラッチェ」とお礼を何度も言いながら降りました。
息子と同じ年位のドライバーさんは人のよさそうな笑顔を見せてバスのドアを閉めながら何度も手を振ってくれました。

ほつんと暗い街のバス停に降り立った私は、人懐っこいドライバーさんが運転するバスが角を曲がって見えなくなるのを目で追いながら
5分ね、5分ねと時計を見ました。

しばらく待っているとちょっと生活にくたびれた感じの女性が道の反対側を歩いて通り過ぎていきました。
「あぁぁ起きている人いるんだね」とちょっとほっとして、「そうだよねだって7時過ぎているんだもんね」と思ってバスが来るの待ちました。
5分はあっという間に過ぎ、またまた不安になりましたが「ここはイタリア!もしかしたら私がGSののバス停で乗るはずだったバスが来るのかもしれない。。」そんなことを思いながら10分が過ぎ、
それからしばらくして若者が一人、私の前を足早に通り過ぎて行きました。坂道を上がってくる彼の表情を見ようと目を凝らしました。
50以上の色々な国や都市に行っているので、こういう時に必ず顔をチェックする習慣がついています。
それは危険か危険じゃないかを確認するためです。
OKAY! 彼は大丈夫ね。強盗をするような顔じゃない。。。。。危険をキャッチする臭覚は、以外に鋭くて危険な目には今まで一度もあったことがない自分の臭覚を疑いながらも、毎回信じてよかったと思う私です。
また、現地に住んでいるように小さなバックパックを背負っているだけでし、その町に住んでいる東洋人面をしています。

それから5,6分してやっとバスが来ました。また手のひらをマルティナフランカ?トレインステーション?と聞き、シーシーと返事をもらいそそくさと飛び乗り、10分くらして駅に着きました。

電車の駅の改札でレッチェと言うと、女性の駅員さんが「それ電車、もう出発!」とイタリア語で叫びながらホームを指をさしてながら、走って出てきてくれました。

急いで!急いで!(多分)と叫びながら電車の近くまで来てこれよ!これ!(多分)と言っているようでした。
IMG_2031IMG_2033私もかなり慌てて指さしながらレッチェ?とまた聞きましたが、
私より後から乗りそうな人が後ろに見えたので乗る前に写真をパチリ!
2両編成のローカル線で、かなり汚い電車でした。

チケットはアルベロベッロのイライアラおじさんから購入してありましたが、改札を通してないからどうなるんだろうと思って乗っていると、走り出してしばらくすると車掌さんがきました。


IMG_2034IMG_2037ニコニコ笑顔で、レッチェでパチンと改札でしてねと、どうやら言っているらしく、私も「シーシー」とお返事。

それから、往復チケットを購入したけど大丈夫でしょ?マルティナフランカ ツゥ レッチェ?  レッチェ ツゥ アルベロベッロ?と聞くと「シーシーと。
いろいろな国でコミュニケーションは、人たい人の関係なので言葉が通じなくてもなんとかとれるので、一度も心配したことがありません。
難しい会話以外だったら、心配はいりません。

IMG_2039それでもコトコトコトコト、かなり遅く走る電車は3時間かかってレッチェに着きました。
シートは、板の上にビニール製のクッションシートで、長い時間はきつかったです。
でも、タイからカンボジアへ向かう電車は板張りのシートでしたから、それから比べたら、いいねと汚れた窓枠とガラスを見ていました。

レッチェまでは長い長い3時間でした。

レッチェの文字が見え、電車から降り、改札らしいところもなく人もいないので、チケットにパチンと切り込みを入れられず、そのまま駅舎から出ました。

IMG_2041駅前は、広い道路が中心に向かって真っ直ぐに進んでいました。

この町で、今回初めてホームレスを見ました。(ローマにはたくさんいました)
そして、中心に向かうまっすぐ伸びた道路の右側を中心に向かって歩き始めると眼光の鋭い移民者らしい人たちが所々にたむろしていました。

NYのハーレムみたいだと感じ、危険かも?と思いバックパックを前にかけ直し足早に歩きました。

1ブロック、2ブロック、3ブロックとまっすぐの道を進みましたが、前夜に読んだこの町に訪れた旅人のブログを思い出し、この道をまっすぐ行って突き当ったら左ねと思いながら信号待ちをしていました。
すると、ちょっとおしゃれで小綺麗な身なりをしている37,8歳の男性が横に並びました。
「すみません。英語話しますか?」と聞くと「ほんの少し」と。
私もほんの少しですからと言うと笑ってくれました。
ゴシック建築のある中心に行きたいので、道を教えてくださいと言うと、一緒に行ってあげますと言って連れて行ってくれました。
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中心まで行く道は、これで安心ねと思い、私はゴシック建築を見に来たのと彼に言いいました。この町はたくさんあるんでしょ?と。
するとちょっと誇らしげにそうそうたくさんあるからと言って、広場まで連れて行ってくれ、私がツーリストインフォメーションへ行きたいのと言うと、広場に入ったすぐ右側にあり、彼が笑いながら「そこにあります」と。
広場の中心で、ぐるぐる周りを見回している私を待っていてくれ町を案内してくれるという彼に「大丈夫、一人で大丈夫」とお礼を言ってインフォメーションセンターに入りました。
地図を購入後、センターの横にミュージアムがあったので、歴史を知りたいと思い入りました。
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でも入った博物館が、コピー品ばかりで、またガイドさんが、イタリア語しか話せずに、まったく分かりませんでした。

ジーザスの首をを切って持っている女性像の意味がわかりませんでした。
始めて見ました。調べるのに時間がかかりそうです。

IMG_2074IMG_2075博物館を出るとにぎやかな音楽が流れてきて、パレードが広場に来ました。

子どもたちを連れた家族がパレードの後ろをついて来ていました。
木製のキリンや像などを木製の滑車が付いていてそれを男性たちが力いっぱい押していました。
パレードの参加者に「これは子供のお祭りですか?」と尋ねるとそうだと。

子どもたちはペロペロキャンディーのような飴を舐めながら歩いていました。
コスチュームを着た大人の女性にキャンディーをあげるわと差し出されましたが、子どもたちにあげてねと言ってお断りしました。

IMG_2080この広場の横の道を入って、ランチを食べました。
もう、気兼ねせずに食べられる量のも注文しました。



ジェノバのパスタとカプチーノをいただきました。 でも残した私です。
やっぱり日本のイタリアンの方がレベルが高い!
美味しいイタリアンは日本で!

一挙にゴシック建築を見ながら、奴隷同士や奴隷と猛獣を戦わせた競技場のある広場まで行きました。

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人間は残酷です。戦うの見て、死んでいくのを見て楽しんだんですから。
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これらを一気に見て回り、3時間以上かかるアルベロベッロまで帰るので、急いで駅に向かいました。暗くなったら危険なので、いそいそと駅に向かいました。

今度はちゃんと直通で帰れるかしら? 一日朝と午後それぞれに2本くらいしかない電車の発車時間が分からないから、まず駅まで行って調べようと思いました。

後で、イタリアに住んでいる日本人に聞いたら、レッチェは学生の町だとの事。
これも調べたいと思ったことの一つです。

駅で電車を待っていた時に素敵な出会いがありました。 忘れられない出会いでした。
次にこの思い出を記録したいと思います。

つづく



イタリア・アルベロベッロへ1

四年前にイタリアへ行ったときに、12月31日、1月1日に行く予定だったアルベッロへ今回はピンポイントで行きました。

その時は、31日、1日は電車が動かないと、駅にチケットを買いに行った際に聞かされ、えぇぇぇぇ電車が動かないってあるのぅ?! と、かなり驚かされ、ひとり言のように「あり得ない!あり得ない!あり得ないようぉ~。。。。」と。
でも、どんなにつぶやいても動かず、泣く泣く諦めたアルベロベッロでした。


と言うことで、建築が観たかった、知りたかったトゥルッリ(1635年に築、石積みの住宅群)に滞在することにしてTrulli Holiday Resort(トゥルッリ ホリデー リゾート)を予約し、フライトを探して予約をして、やっと見れるとかなりワクワクしていました。

imageIMG_1806成田からローマ12時間半、待ち時間3時間半そしてローマからバーリ2時間のフライト、バーリからアルベロベッロ車で1時間。合計18時間半。
アルベロベッロでホテルのレセプションに寄り、チェックインをして私の部屋と言うか家のトゥルッリまで行き、説明を受けてた時は、真夜中12時を過ぎていました。
朝起きて一日が過ぎ、26,7時間でやっとベットに入ることができました。

暗くて細い道を入り、一通の多い街の中をくるくる回ってたどり着いたトゥルッリで、どこをどう通ったのか分からず、いつも迷子になる自分を思うと、かなり心細かったです。 また地図を渡され早口で朝食はここへ行って鍵を見せて、8時から10時までであとは閉まるからと。

えぇぇぇ地図! かなり不安でしたが、とにかくシャワーを浴びて、眠りにつきました。
IMG_1808IMG_1809IMG_1810
IMG_1811翌朝、9時20分過ぎにだったと思います。飛び起きて急いでレストランまで地図を見ながら向かいました。




IMG_1812IMG_1813レストランまでの道、独特のトゥルッリと住宅街を写真に収めながらこっちね、こっちね、と指をさしながら歩きました。

これがトゥルッリ♪見たかったトゥルッリ♪とウキウキでした。



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レストランは、町の中心の大きな広場の角。私の家から歩いて5分も掛かりませんでした。







IMG_1820IMG_1821IMG_1822IMG_1823朝食はかなり充実していて私には十分でした。

木の枝に照明!
なかなかやるなと感心。





お店の開店時間が午前中2時間半、午後と言うか夕方から2時間半。
レストランは開いているところもあれば閉まっているところもあるそうで、朝食の後、スーパーへとにかく行き水とヨーグルトは買わないと!と、道行く人にスーパーの場所を聞きました。

二人目で英語を話すおじいちゃんに会い、そこだよと途中まで連れて行ってもらい、水などをまずは確保。

B54DF588-58EC-45B0-92F9-8FAB6BD4480CIMG_1826IMG_9723家に帰るときに、この住宅街一体で、住人たちがワイワイ言いながら何やら準備していました。
夕べ到着後にレセプションでいただいた4日間のフェスティバルチケット。
このエリアで昔の生活を再現したフェスが行われるとの事だったので、その準備をしているんだとすぐ理解しました。申し込みをしてツアーに参加できるとの事でした。
道のコーナーや家の前にいろいろなブースを作っていました。

ピッザ?と聞くとホーカッチャと返事が返ってきました。
IMG_1827IMG_1828IMG_1825若者から年配まで、みんなでいろいろお喋りしながらブースを作っていました。

日本で言う自治会の行事のように、みんなで参加している感じでした。


英語を話しますか?と聞くと、一人の子が少しと答えてくれたので、今夜の準備をみんなでしている事などを確認できました。
そして写真をとってもいい?と聞くと、皆がワイワイ言いながら集まってくれました。毎年こんな風に地元の人たちで観光客相手にフェスを開いているとの事。
アルベロバッロ内のこのエリアは、ピッコラエリア、土産物店が並んでいる有名なモンティエリアは大通りを挟んで反対側です。
ですから25日から2日までの滞在期間中、地元の人のように家から出て何かをして帰宅すると言う感じで過ごすことができました。
D0C46A9D-3818-48E7-84E9-F6E106147B2FIMG_1827IMG_1829選んだトゥルッリは生活や建築をチャックするには抜群のロケーションでした。


でも、同じような道がたくさんあって、レストランから帰る道を間違えて、くるくる迷ってなかなか帰れませんでした。

自分の不甲斐なさに、やれやれとため息をつきながら、やっと戻りました。
私の家は49番と番号がありますが、違う通りにも43,45、があり、きっと次だわと思いながら進むと50番、え!えぇぇぇぇなんでないの!???と。ちゃんと帰れるのかしら?レセプションもどこにあるのか?地図にマークしてもらったけど、。。。。。
でも、1時間ぐらい迷ってレストランのある角を見つけて、そこから記憶をたどり、そうねそうねパニーニのお店が角にあって、その先の角には小さな八百屋さん。これを左に見ながら来たわよね。と逆に進みながら歩きましたが、その先がY地に分かれていて、さっきはこっちを通って行きつかなかったから、今度はこっちに進もうと進みながら、こんなの見たわね、この家も見たわねと言いながらやっと帰ることができました。
疲れ果てベッドにバタンと倒れ込んだ途端に、ドアをノックされ、飛び起きると、女性の声が。
ドアについているガラス部分を隠しているもう一枚の木製ドアだけを開けて、外を見るとシーツなどを抱えている女性が立っていました。

3A92DB0C-DC78-40AB-B767-7ADFD945DDA03CDD5FD4-0212-4873-88C4-465094BA24B47E54DFCA-0893-4E94-9332-F13406ADB3E6C03F2226-83A7-4D18-B667-EC54F0B1CDE0なるほど、ルームクリーニングなのね。とほっとして開けると、電気ホットやカップやトレー、スプーンを持った女性も洗われて、部屋にセッティングをして行きました。
バスルームの掃除をしてくれた女性にチップをあげて、日本から持参した日本茶を入れて、一息。
昨夜はベッドメーキングもされていなかったので、自分でしてから寝ましたが、ホテルからの対応に対するアンケートのメールが届いていたので、お茶を飲むこともできない、ベットメーキングも自分でしたと返信したので、翌朝のすぐの対応!  
IMG_9576IMG_9577IMG_9579IMG_9580良かったわ。とこれまた一息。
イタリア料理に飽きたら日本茶と年越しそばを食べなくちゃと持参したカップ麺・緑のたぬきも食べられなかったら、かなりテンション落ちるわと思っていたので、あ~~~ほ~~~~んと良かった!と声が出ていました。

それから、地図とにらめっこ!朝間違えた道を検証して、これから行く場所を決めて、

OK!OK! モンティエリアに行こうと決め、とにかく小さな町みたいだけど、有名な土産物店が並ぶテレビでも見たトゥルッリ街へ行かなくちゃと家を出たのはもう2時半を回っていました。
IMG_1836IMG_1838IMG_1847モンテエリアへは歩いて5分も掛からず、
さすが26日のボックスデイは人手が少なく、また曇り空でとっても寒かったです。気温をチェックしたらアルベロベッロは最高で7度、8度と。

下に降りて大通りを横切りモンティエリアに入り、一番上まで登っても10分。

IMG_1845IMG_1833IMG_1834一番上には聖アントニオ教会がありました。








IMG_1835IMG_1840IMG_1841IMG_1842IMG_1843









IMG_1844IMG_1846聖アントニオ教会の前には小さな公園があり、そこにはリサイクルボックスがありました。

あまりにも小さな町で、モンティエリアは、すぐ見終わってしまいましたので、一度反対側のレセプションのあるエリアに行こうと決めて、戻りました。



IMG_1850IMG_1852IMG_1854IMG_1856朝食を食べたレストランのある広場はモンティエリアから上がったこの広場の角にあります。
そこからまっすぐ通っている道を北側に進むと「あ!あった!ホテルのレセプションが」と、これまたほっとして、
真正面に見える聖メディッチ聖堂(正式名は聖メディッチ・コズマ・エ・ダミアーノ)へ。

ちょうど教会の鐘が鳴り始めて、晴れて眩しいくらいの青空の小さな町の空を鐘の音が覆っていました。
この教会は、どこからも見える!これをランドマークに散策すれば問題ないねと確認しました。
IMG_1860IMG_1863その後は、聖堂の裏にあるトッルッロ(トゥルッリの複数形らしい)・ソヴァラーノ(1744-1809年築)へ行きました。博物館になっていて昔の生活が観れます。

この建築は、トゥルッロ建築で2階建て住居。高さ14mあり12の円錐形の屋根があり、技術的に大きな発展があり、空積み建築の原型を保ちながら主要な壁を覆うようにローマンアーチで支えられています。



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エス・デザインのfacebookにもご紹介しましたが、(下記抜粋)

このトゥルッリの構造は石の組積造で、現在はセメントをつなぎ材として使っていますが、建築当時から長い間、モルタルや木材の使用を禁じられていたので、大きな石を積み上げ、隙間に小石を充填して作られていました。
1635年にアクアヴィーヴァ伯爵が自身の邸宅を建てた際に、パン窯、粉挽き屋、巡礼者達の宿、礼拝堂(聖メディチ聖堂、昨日鐘がなっている教会の動画でご紹介)など 建築を命じ、農民達に土地を与え、セーメントを使わずに建てたトゥルッリには免税の措置をしたらしいのです。
その理由は、国王の視察訪問を予知した伯爵が一夜のうちに壊し、住民達を遠ざけ、視察が終わるとまた、建て直し、領土拡大を図るためだったと。
だからモルタルの使用を禁じたんだそうです。この組積造の職人さん達は、円筒形の高さ2メートルの壁の上に円錐形の屋根を石をずらして積み上げて独創的な構造と安全性に富んだ建築を生み出し、歴史を重ねてきています。
壁の厚さは約800-900mm寒い冬❄️に、洞窟にいるような暖かさを保っています。


さて、その後地域資料館へ行きましたが、この建物は家からレストランまで帰る道のパニーニを売っている店のある小さな広場の家へ続く道沿いにありました。
な~~んだ、ここだったのね、と。
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この資料館は、日本語の本を売っていましたので、購入し、お腹が空いたの遅いランチを食べにまたモンティエリアに向かう大通りに戻り、レストラン探しをしました。

IMG_1889IMG_1890大通りに面した屋外のテーブルに座ってメニューを見ると、キャ!価格が高い!

このプラスチック容器に入ったパスタとワインで日本円で2,211円!
それにホークなどもプラ!

観光客は馬鹿にされてるなとしみじみ思いながら空腹を満たし、人でにぎわい始めた暮れていくモンティエリアへもう一度人間ウォッチングに行きました。

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そして私の滞在しているピッコラエリアに戻るとナイトツアーが始まっていました。
IMG_1920IMG_1922IMG_1923この昔の生活の再現フェスは食べ物、衣装、生活スタイル、すべて忠実に再現されているとの事。

小さなドーナツのような揚げパンを見て「これは何?」と聞くと食べて、どうぞ、どうぞと言いながらくださいました。

う~~~ん、まずい!
でもグラッチェとお礼を言いました。

IMG_1927IMG_1930IMG_1947トゥルッリ職人さん、布屋さん、パン屋さん、ホーカッチャ屋さん、色々なブースにはそれぞれが配置されていてイタリア語で説明したり、ダンスを踊ったり、商売の様子の寸劇をしたり、
面白かったです。
可愛い女の子が手を振ってくれました。



IMG_9567IMG_9568IMG_9569いくつもの20数名くらいのツアーグループがガイドさんの説明を聞きながら、そのブランチを回っていました。

残念ながら私はイタリア語、全く分からず、踊りや地元の人たちが演じる寸劇のレベルの高さ、表情や声などから想像していました。


一通り、全部を回って家に帰りシャワーをしようと思い、ふっと気が付いた壁!
IMG_1916バスルームと寝室を分けている壁は下地は石膏ボードで仕上げは石の模様の漆喰と気が付きました。

なるほどね。
今は、こうやって仕切っているのねと。
これは今の日本でもしていると思いました。

そして、何キロくらい歩き続けたのかな?と思いながら疲れ切ってこの日も爆睡でした。

つづく。

最近の私、休みと仕事とLife work

早いものですねぇ~、昨年の暮れから一月初め掛けカンボジアシェムリアップに教育支援に行き、その後ノルウェー、」ウズベキスタン、そしてカンボジアの子供たちの教育支援の為のチャリティーライブの準備に追われ、仕事も同時に3件進め、走り続けて気が付けばもう12月になってしまい今年も終わろうとしています。


でも、その間、友達とブドウ狩りに行き、11月の終わりに昇仙峡に行きました。

IMG_8681 IMG_8689日差しが強くて日焼け対策をしていきました。

生まれて初めてのブドウ狩り! 友達は何度も来ていると言ってテキパキ!





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私たちは巨峰を選びましたが、1房を食べただけでお腹がいっぱいになりました。

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サンシャインマスカットをお土産にして、連日粒が大きいので少しずつ楽しみながら食べました。
1房の大きさに、びっくりです!

息子にお誕生日を祝ってもらいましたぁ~~~~~♡♥💛
橋本にある予約制の懐石料理です。

いつもながら、日本料理の美しさは、やっぱり世界に誇れるとしみじみ実感します。
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毎年親子で思い出つくりをしているので、欲しいものはないからプレゼントはお食事でいいからと。

静岡からわざわざ来てくれてお食事をして翌朝、新幹線で帰った息子です。
ありがとう。母からのプレゼントは、オソロのサングラスとケースでしたが、私の兄お勧めの軽いサングラスでした。壊れるまで思い出を共有でしょ。

仕事では、会社のfacebookにも公開しましたが、ビックサイトの展示会へGO
展示会ではいつもカーテンの制作を依頼しているめいくまん、の鈴木さんに会い、インスタ用に設置された壁を使って、写真を撮りました。
もっともインスタは忙しいのでしていませんが。。。
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傘で空を飛んだり、チョコの壁を登ったり、エンジェルになったり、歩き疲れた展示会場の一角で、ちょっと一休みしました。
帰り、お台場の観覧車が綺麗な雪の結晶のようにライトアップされていました。

2017-11-28-13-49-47 2017-11-28-14-34-57お休みの日に、愛の素の活動を日ごろから支援してくださっている支援隊長の花咲爺様にプロジェクターの操作をお願いしましたので、その打ち合わせに来ていただきました。
いつも鎌倉から来てくださり、時間がない啓子さんだからと私の都合に合わせて下さっています。

人の心の優しさや暖かさをいつも感じさせて下さる花咲爺様です。
申し訳ないほどのお食事でしたが、時間いっぱいに使って写真の整理と動画選びをご一緒にしました。  ありがとうございますの言葉しかないです。

それから、お友達が誕生日に昇仙峡とぷくぷく温泉のバスツアーをプレゼントしてくれました。
彼女は何度もバスツアーに参加しているので、今回もテキパキ。いつも自分の車で行ってしまう私は、初めてなのでワクワクでした。
バスツアーの楽さもたっぷり知りました。
ハーブ園にGOoooooooooooo
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蘭やポインセチア、見たことがないハーブなど見ました。

2017-11-29-11-03-25 2017-11-29-11-06-32私の顔より大きな柑橘系の果物や、エンジェルの翼の形をしたアメジストの原石。

ちょっと暗いですが、アメジストからエネルギーをいただいた(?)私です。

ここでオーガニックハーブで作った化粧品を二つ購入してから昇仙峡へ向かいました。なかなかのハードスケジュールでしたが、温泉では町を見下ろしながらゆっくり入浴してから帰宅しました。


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昇仙峡は水晶が取れたそうで、どの土産物店も宝石がメインで売っていました。

2017-11-29-13-32-41子供たちが小さなとき、今から30年ぐらい前に一度来たことがありました。
その時とは、すっかり変わって観光客を見込んでのお店が立ち並んでいました。

でも滝の音は、なんだかいつも心が洗われるような気持になるのは修行僧たちの荒行のイメージがあるからかしら?




それから美術館へ
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2017-11-29-13-56-33 2017-11-29-13-57-15 2017-11-29-13-57-35 2017-11-29-13-58-02山下清の作品も展示してありました。








2017-11-29-13-58-30 2017-11-29-14-02-44彼に見えた世界をほんのちょっと垣間見ることができました。
自然や人の生活への暖かさを感じました。

そして、子どものころから好きだった竹久夢二のコピーを久々見ました。


彼の絵の中の女性たちから、母の若いころの可憐さを感じるので、大好きでした。


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2017-11-29-15-10-11 2017-11-29-15-10-29一本の木から虎や龍を彫り込んだ作品なども、外国からの観光客には受けていました。


宝石で埋められた庭をガイド付きで見て回り、その後宝石を買うことになるであろう店内へ。


なるほど、バスツアーとはこういうことなんだなと思いました。
メインの温泉は、露天風呂が気持ち良かったです。♪
ブドウ狩りに来た時に、車尾走らせながら下から見えたぷくぷく温泉です。「あ~~~あの時の温泉ね~」と友達と話ながら、暮れていく街を見降ろしていました。

それから、私のlife workの愛の素の活動で、相模原市民活動サポートセンターへ

さがせんチャリティーのリーフレットを持っていきながら、受け付けてくれたスタッフの皆さんです。

相模原市内には、びっくりするほどたくさんの市民活動をしていることを知りましたが、このサポートセンターに行くと、いつも必ず何か良いアドバイスなどをいただけます。

でもこの日伺ったのは、FMさがみ83.9MHzの朝の帯番組で、地道に活動しているボランティアを番組の中でご紹介して下さると言う企画があるので、その番組に出演依頼をしに行きました。



と言うことで、

FMsagami11月21日、9:10から出演し、愛の素のチャリティーライブの告示と愛の素の活動についてお話しする機会をいただきました。

実は2000年に帰国してから約2年、仕事をしながら日曜の夕方18:00~19:00までの一時間番組を持っていましたので、久々のラジオを通してのお喋りでした。
ラジオDJの竹中さんからお久しぶりですと挨拶があり、楽しい時間をお過ごしながらも、活動内容やチャリティーの宣伝をさせていただきました。
ご協力に感謝申し上げます。

この他に、4ヶ月の間大学生のサークルや大学に訪問し、休み返上で宣伝に動き回りました。
夜も連日、いろいろな人たちと会い、ネットワークを広げました。

一番大きな出会いは、県央福祉会(http://tomoni.or.jp/index.html)の理事長や職員の方、そして理事長付きで尚且つ、もざいくハウス(https://ameblo.jp/mosaiclife/  https://www.facebook.com/mosaiclife2014/ )の代表の林さんでした。

2017-12-06-15-04-17 2017-12-06-15-04-38県央福祉会のすぷらにて、林さんと。

実は、愛の素の活動が私一人にかかっている現実を抱えながらNPO法人の登録をとりましたが、模索しながらの活動内容は、カンボジアの子供たちが抱えている貧しさと社会的問題は解決されず、やっといただいた寄付を送り続けることに疲れ、そして一人で動いていてる活動に疲れ果て疲弊していました。


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ですから、「できることをできるだけ」と自分に言い聞かせながら、また無理しないことが長い支援活動につながると言い聞かせながら約7年間続けてきました。

仕事が終わって帰宅すると疲れ果てていて、もうIpad もメールもlineもfacebookも、何もチェックせず、昼間の仕事をしながらの活動時間のみにする!と決めて動いていました。
それは、心と身体と頭を休めたいと言う思いからでした。
現地から何度も届く子供たちの米代がないというSOSに苦しみ、それはかなりストレスになりました。
実際、仕事をしながらやり続けることは、仕事だけでも大変な時が多々あり、時間的にまた心の疲れもあり大変です。ですからそういう線引きは必要だと思っていました。

でも、林さんのフットワークの良さに目を開かされ、
愛の素と言う特定非営利活動法人を立ち上げたのは私ですから、まだまだ休んでいる時間はないと思い直した年になりました。

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12月15日、愛の素チャリティーライブ&トークショーです。 2017-12-16-13-40-50





時々、カンボジアの子供たちの話をすると「余裕とお金があるからできるのよ」と他人事のように言われますが、カンボジアの孤児たち、貧しい村の中でお風呂に入ることもできずに真っ黒に垢が貯まったままの小さな子供たちがたくさんいる現実や、親たちは仕事にも付けず、怠けることが習慣のようになって、酒におぼれ、子どもには食べるものを与えられず、大人たちも苦しみの中にいて、子供たちはシンナーを吸い空腹を紛らわせる現実を見るとカンボジア政府の問題で、私たちには関係ないとは言えないとしみじみ思います。
同じ時代に生きている人間同士、カンボジアに進出したベトナム・中国・韓国、そして日本の金持ちたちから建材を買い入れたり、安い賃金で働かせながら企業が日本経済の一部を動かしていることを見ると、私たちの生活は、貧しい国の人たちからの搾取で成り立っていると感じることがあります。

一人の大人として、この世界に生き、生かされていることへの感謝や責任をできるだけ果たすことは、必要な事で、自分だけが良ければいいという価値観が蔓延しているこの世の中で、地道にボランティア活動をしている人たちの活動に目を向け、心を開き、人生を全うすることに人としての本当の美しさがあると思っています。
🌟左から三ツ矢くんと、菅野さん、次はアンちゃん、三枚目は私のお客様のS様、そして桜美林大のカンボジア支援をしているちょんれーんのみなさんと。🌟

ですから、来年はもう一歩、踏み出して、時々弱音を吐きながらも、進んでいけたらと思っています。
www.facebook.com/ainomotoainomoto  
2017年、12月16日、そんなことを感じながら仕事の合間に、これを書きました。
このチャリティにご協力いただきました高橋秀明会計事務所の皆様、ちょんれーんの皆様、菅野ファミリーの皆様、そしてシンガーソングライターの三ツ矢君、そして兵庫からいつも来て助けてくれるメンバーのこうこさん、 たくさんの方々にご協力いただきましたこと、心よりお礼申しあげます。
さて、仕事に戻りま〜す🎵

え?!これってさぼりになっちゃうのぉ~~~  てへっ







シルクロード、ウズベキスタンの旅3

IMG_2008IMG_2009初めに、写真はクリックすると拡大します。

さて、翌朝も慣れない早起きをして、朝食をいただきまたエクスプレス列車に乗り、2500年の歴史ブラハへ向かいました。





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IMG_2018そしてまず、ホテルに荷物を置きに行きました。IMG_2030

私が好きな素材感と職人の手と歴史を感じる建物でした。
中庭があり、そこから各部屋に入れる動線です。





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IMG_2037IMG_2040IMG_2041IMG_2039バーには日本酒がありました。








IMG_2042IMG_2043荷物を置いてから、ランチを食べに行きました。

真っ白な外壁、内壁、天井のインテリアに、アンティーク風の照明器具が付いていました。

私も時々使う照明器具で、中国で作られているものです。
中国で作られ、ヨーロッパ・アメリカ・アジア・ロシアなどで売られています。
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伝統的な織物のテーブルクロスに、伝統的なお食事。お皿も伝統的な絵皿です。

IMG_2050IMG_2051私たち親子は、揃って食がそんなに太くないので、実を言うと何だか、暑さと、毎回同じようなメニューに目で見ただけで胸までうっぷと来るくらいのお食事でした。

でも来たからには、頑張って食べようと試みた親子でした。


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ランチ後は、
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IMG_2080IMG_2082このテラコッタのおじいちゃん人形をお土産に買いました。

今、家のTVがおいてあるガラスのテーブルの上にちょこんと立って、笑っています。

愛嬌のある可愛いおじいちゃんです。




小さなホテル建設現場を見学させてもらいました。壁の断熱はその厚さで生み出していましたが、屋根断熱は、かなりお粗末な工事でした。
気温が40度以上になるのに、断熱材を入れずに高い天井つくりをすることで、熱を遮断するという考え方でした。
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IMG_2104IMG_2105路地を歩いていて発見したスサを入れた昔ながらの土壁の塀。


この日は一日、日干しレンガの建築物を歩いてみて回りました。、アルク城・パラハウズモスク・イスマィール・サーマーニ廊などを、回りました。

その途中で結婚式に行く家族とご近状の方たちに出会いました。
動画でその様子を取りましたが、花嫁へのプレゼントを次々に抱えて行進していきましたが、ラッパと子供たちが叩くカスタネットの音が、ガンガン響いていました。

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お土産物屋さんが並ぶバザールへ連れて行ってもらい、息子のkaiは、有名なハサミと大皿を購入しました。
私は、冬はきっとかなり暖かいだろうと思えた毛皮の帽子を被ってみましたが、購入はやめました。
息子は、美人さんのお土産物の売り子さんと記念写真を。
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夕食はサンセットが見えるレストランへ。
IMG_2133IMG_2135足元に香取のスプレイをシュッシュとまき、落ち着かない夕食をいただきました。

でも夕日は綺麗でした。向こうに見えるのは光塔です。




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ワインをグラス1杯だけいただき、ホテルに帰りましたが、中庭は雰囲気があって、良い空間でした。


日本の家にも、こういう雰囲気のある広い中庭が作れたらいいなといつも思います。


この日も親子で爆睡でした。
翌日も、日干し煉瓦の建築物を見に行きました。
マゴキ・アタリ寺院・ウルグベク・カラーンモスク、リャビハウズなどなど、盛り沢山で覚えきれないほどでした。

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IMG_2181IMG_2197城の大きさにびっくり! 城の大きさを伝えたくて走り出した私の木陰で休んでいたおじさんたちが息子に、お母さんは何しているの?と聞いたそうです。






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この頃から、息子に異変が起きました。乾燥と暑さと食べ物で気分が悪くなり、顔色が真っ青に!

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それでもやめようと言わない息子はちょっと苦しいそうでしたが、見て回りました。
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メドレセ(神学校)は、現在も使われていますが、観光客が一部見学出来るように公開しています。
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身内の期待に応えて一生懸命勉強した子供や若者たちの姿が、この回廊を歩きながら見えたような気がしました。
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IMG_2240IMG_2241IMG_2251小さな路地を通った時に、伝統的なパン屋さんを見つけ、その作り方を見せていただき、思お土産に購入しました。



ホカッチャ?のようなパンです。

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ランチで、さっき買ったパンをいただきましたが、焼き立てなので美味しかったです。
それから、ホテルに帰り、高速列車:アフラシャブ号でタシケントまで帰り、空港へ向かいました。

IMG_8483IMG_8484乾いた空気と物凄い暑さと、羊の肉料理と、歴史的な建築物の数々と、(レギスタン広場、シャヒジンダ廊群、ビビ、ハニム、モスク、グリアミール廊、アルク城、バラハウズモスク、イスマィール、サーマーニ廊、マゴギ、アタリ寺院、ウルグベク、メドレセ、カラーンモスク、リャビハウズ等)見た数は、多くて、名前と建物が思い出せないけど、一年の一度の親子旅行が終わりました。

疲れ切ったKaiは体調を崩しての帰国、心配しながら帰国後に体調を崩した私、いつも元気なのにこんな旅の終わりは初めてでした。

でも、いつまで続けられるか分からないけど、今年の思い出つくりも終わりました。
ふっと乾いた空気や夜空に浮かんだ月の美しさを思い出します。

気が付けばもう12月、仕事と愛の素の活動に追われてあれよあれよという間に一年の終わりを迎えました。

さてさて、来年は、どこ行こう?
残せるものは思い出だけですから。

母のいろんな顔や話したことを忘れないでね。
今年もありがとうね、Kai君。



シルクロード、ウズベキスタンの旅2

スペイン製の高速列車、アフラシャブ号に乗り爆睡をしている間にサマルカンドに着きました。
この日は、朝からハードスケジュールでした。乾燥した空気と、物凄い暑さで、購入したミネラルウォーターは、すぐになくなり何度もなんども購入しました。

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初めに行ったのは、ティムール朝の君主だったウルグ・ペグによって1420年代に建設されたウルグ・ペク天文台です。

偉大な天文学者であり、学問を重視した偉大な君主だったようです。
最盛期は70人くらいの天文学者たちが働いていたそうです。
建築物は全長11mあり、建設当時は地震から守るために3層構造で、地中に設置されていたそうです。
半径40.4mあり、当時は最大で全高は21m、敷地は南北170m、東西に85m。太陽の高天頂と赤緯からの距離を用いて毎日の正午を正確に出していたそうです。
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IMG_17261449年に保守的なイスラム教信者によって破壊され、この天文台が発見されたのは1908年で、それまで地中に埋まっていたそうです。

この時代に太陽年の長さを365日5時間49分15秒に決定したそうですが、実際の誤差は25秒で、コペルニクスによる計算の+30秒より、誤差が小さかったとガイドのノルディさんは力強く力説してくれました。
日本との学問、生活、どれをとっても進んでいた時代が明らかに有ったことは、やはりすごいと思いました。

また、ウルグ・ペグは赤道の傾斜角も計算していて23.52度は、コペルニクスや他の天文学者より精確で、それは現在までも続いているとの説明に、息子と一緒に「う~~~ん、すごいね」とつぶやきました。

それからガイドさん手配の車に乗り、アフラシャブの丘にあるシャーヒズィンダ廊郡に行きました。
ティムールの関係者のお墓が連棟されていて、青のタイル・モザイク・テラコッタなどで外壁・内壁を飾られている建物は、美しかったです。

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IMG_1802ウズベキスタンでは日本人が愛されているとのことで、どこへ行ってもウェルカムで迎えられ、またじーっと見つめられました。

ノルディさんから、この墓群にまつわる話を聞きましたが、それは676年に預言者ムハンマドの従兄のアッパースがイスラム教の布教のためにサマルカンドに来ていて、翌年、礼拝中にゾロアスター教徒に襲われて首を切られたそうです。でもアッパースは何事もなかったように礼拝を終え、その後自分の首を拾い、井戸に潜っていき、彼はそこで永遠の命を得、イスラムが危機に合うと助けに現れると言われているそうです。
人々は、二度、このシャーヒズィンダ廊郡に礼拝に来るとメッカに行ったことと同じ
みなされるので、ここに来る人たちが絶えないそうです。
今も信仰心の厚い人たちがお参りに来ています。
ノルディさんに何段あるか数えて上がってくださいと言われ、長い長い階段を上がっていきましたが、帰りの段数と違う人は、良くないと言われ、ちょっとドキドキでした。

それから、また車で裏通りを抜け、路地を抜けて、とりあえずランチになりました。

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なかなか小洒落たレストラン・オアシスに連れて行ってもらいました。
トイレのタイルの写真は必須だと思いパシャリ!

IMG_1811IMG_1812羊の肉料理でしたが、写真撮り忘れました。
パンは一般的なパンで、どの家庭でも食べているパンで、またスープはカボチャのスープでした。







ランチ後は、また車で、レギスタン広場へGO~

ティラカリ・メドレセ モスクとして使われていたそうです。 今は結婚の写真撮影の場所になったり、観光客が訪れています。
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遠近法を用いてマルク見えるようになっているそうですが、丸にしか見えませんでした。金箔と青のコントラストは目を見張るほど綺麗でした。
やはり宗教的な建築物は、異次元の世界を見せるために、どのようは宗教も同じだなと感じながら見ました。

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この広場の中にはモスクで勉強する学生たちの寮がありました。現在も使われていますが、昔使われていた寮を公開しています。
ノリディさんが、日本と同じに炬燵が有ったんですよ!それにロフトも!と。

IMG_1854IMG_1855IMG_1862今は土産物屋さんも入っている建物があり、土産物をしっかり買っちゃいました。
と言うよりは買わされちゃいました。





いつもだったらこういうところでは買わないのに、何故か、息子と一緒にいると、ここで買わないと買う時がなくなるんじゃないかと心配になり、高額の土産物を買う羽目になりました。
画家が直接売っている絵画を数枚購入でした。

それから歩いて、ビビ・ハニムに行きました。
このモスクは、ティムールの妃がインドから凱旋帰国するティムールを驚かそうと思って建てたものですが、ティムールが帰国するまでに完成が間に合わない状況を抱えてしまった妃が、建築家の誘惑に負けて頬にキスすることを許してしまい、帰国したティムールに知られ、建築家は死刑、妃も突き落とされて殺された説と、一生黒いベールで顔を隠して生きた説など多々あるそうです。

IMG_1856IMG_1857IMG_1859美人の若いママと可愛い子どもに出会い思わず写真に納めました。

ドレスもきれいでした。





IMG_1876IMG_1879IMG_1880IMG_1883モスクの中庭には、説教台がありますが、巨大な大理石でできていてオスマン・クラーンという最古のコーランを置いたそうです。






それからシヤブ・バザールに行きました。

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現在の庶民生活を垣間見ることができました。
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レギスタン広場の一角にはシェルド・マドラサ、グリ・アミール廊などが点在しています。
それを回りながら、青のタイルも、廊もどれも同じように見えて「え?また同じような建物?」と飽きてきました。
そして行くところ、行くところには土産物を売る店が並び、売り手につかまると言う感じでした。

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IMG_1926IMG_1927IMG_1928IMG_1930ホテルに送ってもらい一休みしてから、ノルディさんの家へ夕食にご招待されて行きました。






彼の奥さん(右・となりは兄嫁)は、18歳の奥さんで、それは一般的だそうです。

IMG_1932IMG_1933IMG_1931外壁の工事がまだ終わっていないそうです。

兄家族、弟、親たちと同居で、家の後を継ぐのは一番下の弟だそうで、日本の逆だそうです。

お父さんは亡くなり、お母さんは今モスクワへ旅行中との事でした。



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IMG_1939IMG_1942奥さんたちが腕を振るってくれた料理が並びました。
この国は男尊女卑の習慣がまだ残っているそうです。

私は外国人だからお兄さんたちと対等に話しても大丈夫で、また日本人だから、特に良いとの事。
ビールやお酒を飲む女性はあまりいないそうです。



偶然に私が持って行った日本からのお土産の髪飾りがとっても喜ばれました。
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IMG_1946子どもたちも柿ピーを大喜びで食べていました。
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ちびっ子たちが、私に伝統の帽子を被ってみてと言って、はしゃぎ回るので、リクエストに応えて被りましたぁ~。
可愛い子どもたちでした。

車のドライバーさんが、夜のレギスタン広場が美しいからとホテルに帰る途中で寄ってくれました。
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満月とともにライトアップされた青いタイルとドーム屋根。

本当に美しかったです。





この夜は、勿論ヘトヘトで爆睡した親子でした。
お休みなさい、お月様。
つづく

シルクロード、ウズベキスタンの旅1

久々に出発前から、かなりワクワクしていました。

成田からの出発は遅れもなく出発しましたが、韓国経由の便は、結局仁川(インチョン)空港で6時間半待たされました。

image01CEB783-9580-4067-86DA-C5C49A59831B63F227C2-05E7-4562-95C0-F42B25C4ED67タシュケントからのフライトの到着が気流の乱れで2時間半遅れて出発しました。

ランチと言うか夕食をと言うか、機内食がアシアナ航空なので期待できないと言うことで、仁川で食べて待ちました。




174C58D9-EDA6-4B13-A109-9E4C029B8F6C62874FED-6A6B-4439-A4FE-530E6EE7BDE3D6A0521B-81D9-441A-A685-15003FBFF82Cそして、夜の11時くらいに空港に到着し、そのままホテルへ行き、翌朝の列車が朝早いのでモーニングコールを6時に頼み、湯船につかって疲れを取り、そそくさと急いで1時半くらいには眠りました。

今回の旅は、息子に予約等すべてをお任せしたので、彼はガイドさんを依頼していました。

ガイドさんは、空港へ迎えに来ていて、車でそのままホテルに行きモーニングコールもガイドのノディルさんがてきぱきとすべてを進めてくれました。

ところが、翌朝モーニングコールで起こされたのは5時で、私たちは5時とは知らずに大慌てでフロントに行き、ノディルさんを待ちましたが、どうもおかしいと気が付き、1時間も早く起こされたことに気が付き、ではではと、レストランで朝食をとることにしました。

時間がないので、朝食は取れないと言うことでしたが、ゆっくり朝食をとった私たちです。
382C5700-BF78-4166-AEC5-A4F76E8A2C810003AD38-379C-4DA7-AC5D-E0508682731A4A3FC826-B45C-4F27-82D1-9D8EB9B5697EBD42C8C5-2B9C-477C-B6E6-E00921476971








618ACD3F-65A2-46C1-A0F3-F7DE418AA796AFD5783A-B060-4460-BF18-08206B470F23F09B21AA-3C8B-4EC4-9F76-4B308A16EF302017-08-02-10-36-3437E4FE81-98D0-4F03-901B-0A980BD29FB0









タシュケントのホテルは、60年代のデザインの外観でしたが、レストランもエントランスも大きくて、エントランスの横にあるラウンジの横には、ウズベキスタン特有のおじいさんの陶器の人形が笑顔で立っていました。

自分へのお土産に、この人形を買いました。 見ているだけで心がほっこり、笑顔になるおじいちゃん人形です。
6時過ぎに迎えに来たノディルさんから、「今日は5カ所回るハードスケジュールです」と告げられて、4時間半の睡眠時間とこの暑さで、体調を崩さないかとちょっと心配でした。

ホテルを出て、私たちは特急列車、日本で言う新幹線のような電車に乗るために電車の駅に向かいました。
タシュケントからサマルカンドへ向かいましたが電車で2時間半くらいで着きました。

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車掌さんは、とびっきりの美人さんでした。



列車内ではお茶とクッキーのサービスがありイチゴクリームのクッキーとほうじ茶のような味のお茶をいただきました。
2017-08-02-12-45-342017-08-02-12-47-532017-08-02-12-48-03列車の中には、バーがありました。









車窓からは、綿花畑や工場や、乾燥した山々が見えましたが、気が付くといつの間にか息子のkaiもノディルさん、そして私も爆睡していました。
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2017-08-02-13-55-312017-08-02-13-58-15サマルカンドでは、60年代(?)くらいの車が走っていました。
ソ連(ロシア)の支配下にあった当時の建物・車、そして習慣、言葉などもまだまだたくさん残っていると言うことでした。

26年前にロシアから独立したウズベキスタンは、人望の厚い大統領のお陰で民主化がされて、経済的にもガス・石炭、鉱物などの輸出で国は潤ってきたとのことです。

優秀な人材が、海外で勉強して帰国し、国の発展を助けるようにとの政策やそのための国からの補助は充実しているそうです。
学費は高校生まで、医療費は掛からないととの事。
だから老後の不安は、日本のようにないし、戦後の日本のような家族制度(家長は父親で、子どもたちは両親に従い、家族の関係は強いそうです)
ノディルさん曰く、ひと昔前の古き良き日本の風習が残っていて、とてもよく日本に似ていると。
また、彼は日本で3年半、日本語を勉強してガイドになったそうです。
東京に住み、コンビニや宅急便の会社でアルバイトをして、日本の丁寧な仕事の仕方や最新のシステムを勉強したそうです。

年齢は息子と近く、二人はすぐ友達になりました。

青の建築物に胸をワクワクさせる旅が、この後始まりました。

つづく






そっと命が消えていった

6月の父の日を前に、父への思いをここに書きました。
このブログは息子たちへ残す私の思いから始めましたが、私が亡くなった後に、「母はこんなことを感じたり考えて生きていたんだ」と伝えたいと思い書き綴ってきました。

そんな思いは、私の母が亡くなってから生まれた思いです。
母ともっといろいろ一緒の時間を過ごせばよかったと思いながら、生前の母の言葉が私の中で、しっかり生きていて、何かあるたびに思いだされ、問題を乗り越えようとしたり、自己分析に対峙したりしていますが、父からの言葉や生き様なども、知らず知らずのうちに息づいていることを感じています。

IMG_3319 この写真は2年前の物です。まだ元気だったころの父です。



8月1日からのウズベキスタンへの旅の前に、下の息子と一緒に入院している父のお見舞いに行きました。
入院、ナーシングホーム、そしてまた入院と93歳から続いていた父へのお見舞いは、月一回をなるだけしようと、休みの日にしてきましたが、旅の前にも息子と一緒に寄りました。

それは、きっとこれがもう息子がおじいちゃんに会う最後のチャンスになるだろうと感じたからです。
横たわったやせ細った父は、苦しそうな息使いをしていて、唇と上あごは乾燥から切れて血がにじんでいました。
思わず「苦しいの?」と父に尋ねると眉間にしわを寄せて苦しいそうな顔が返ってきました。
手をさすっても、なんだか痛そうに顔をゆがめました。

息子がぽつりと「おじいちゃん、苦しそうだね。辛そうだね」とつぶやきました。

私は思わず息子の戸惑った目をみて、ただうなずきました。
言葉が全く浮かばずに、黙ったまま、頭を撫でながら、心の中で「お父さん、お父さん、苦しいの? 私の声が聞こえる?」と呼びかけていました。
いくら待っても、父からの言葉はなく、苦しいそうな息使いだけが返ってきました。
⭐️父からのクリスマスプレゼントのアルバムです。初めのページには、私が赤ちゃんだった時の写真が貼ってあり、父の丁寧な文字で 「啓子2歳当時 自宅にて と、書かれています。私のアルバムですが、書き込みは私視線で書かれています。
おしゃぶりをしゃぶっている写真には、「わたくしの大好きなおしゃぶりをしゃぶって」などと書かれています。


この二年間、父のお見舞いをしながら、自分自身に父が亡くなることへの心の準備をしなさいと言い続けてきました。
父が、私が子供のころ、可愛がっていた犬や猫たちが死んでしまったときに「形あるものは壊れ、命あるものはいつか命は尽きるんだよ。」と言っていた言葉を思い出しながら、「お父さんの命も消えるんだよね」と自分自身に言い続けてきました。

母の突然の死を迎えた時に、お母さんが亡くなるなんて考えもせずに生きていた自分を見つめることになり、悲しみは深く苦しみました。そしてそれ以来、本当に命はふっと消えてしまうんだと実感しています。
消えて亡くなっても、時間は止まることはなく、仕事に追われ過ぎていく空虚感と、そしてどんなに輝かしい人でも、忘れ去られていくんだという無情さを知りました。町の中で車の運転をしている時に、母 に似ているお年寄りを見ると亡くなっているのに、そこにいるはずもないのに「あ!お母さん?」と慌ててしまい、何年経ってもいなくなってしまった母への悲しみが薄れる事がなくて、深くなって行く事を、引きずりながら生きています。
だから、父の死が近づいてきていることを、それを全く知らなかったら、きっと乗り越えられない悲しみに向き合うことになる自分を感じていました。

この二年の間、父を思うたびに、会うたびに言い聞かせてきた亡くなるという現実。
老いて小さくなって、厳しさも怖さも冗談を言う可愛らしさも強さも優しさも薄れて行き、弱々しくなって行く父でした。

2年前のある時、父が私と海のレストランに行った時、父が「音楽コンクールで銚子に行った時、おばあさん(母の事をその当時、そう呼んでいました)が作ってくれた大きなおにぎりを頬張っていたね。ふふふ、覚えているかい?」と可愛かったねと言わんばかりに言いました。
ちょっと恥ずかしくて「あれは銚子だったの?」と笑いながら返した私でした。


父は学校の行事は、全て出席して、学校教育に対しても熱心に取り組んでくれました。PTAの会長をして、私たちを守ってくれていました。
⭐️立っている女の子たちは、私の大の仲良しのお友達でした。私は左から二番目、黄色のセーラーカラーのブラウスの子です。父は、このお友達の家へ遊びに行く送迎をしていつもくれました。

そして、8月9日、ウズベキスタンから帰国後に私の帰国を待って父は息を引き取りました。
「待っててくれたんだね。もう、十分だね。苦しかったよね。」と言う言葉しか出てきませんでした。

3歳の時の七五三には、着物と薄ピンクのドレスを着せてくれました。なぜ着物とドレスを着たのか、記憶の中には残っていませんが、きっと、二通りの衣装で七五三を祝ってくれたんだろうと思います。
5歳の時も黒地に金糸、銀糸の蝶の帯と、華やかな緑や赤の着物を母が着付けてくれて、父と一緒にお参りに行き、千歳あめをいただきました。髪にも大きな髪飾りをつけていました。
7歳の時は、白のふわぁふわぁと広がった大きなリボンを腰の後ろで結んだドレスを着て、近くの神社へお参りに行った記憶があります。
その日は、薄曇りだったと覚えています。真っ白のソックスに黒のピッカピカに光った足の候にベルトのあるエナメルの靴がよみがえってきます。
ふわぁふわぁのドレスを手で押さえて靴を覗き込んだ、瞬間が写ります。
お姫様になったような気持ちでしたが、父はその日ちょっと不機嫌でした。7歳だった私は、その日の父の暗い顔の理由も分からず、父の後ろを歩いて神社に行った記憶がよみがえります。

毎年のクリスマスには、父のお友達やご近状の人たち、教会の牧師さん、そしてお坊さん、いろいろな人たちを招いて、パーティーを開いていました。もちろん、父からの言葉もありましたが、牧師さんやお坊さんたちからもお話がありました。
お食事は、ジンギスカンの鍋を2つセットし、クリスマスケーキは母が予約する2つ以外にお客様から頂くケーキで、5,6個になりました。
私がケーキがあまり好きじゃないのは、きっと子供のころ食べ過ぎて嫌いになったからだと思います。
その日は、母はお店の仕事をしながらお酒やビール、ジンギスカンの準備など、大変忙しく動いていました。
子どもたちは、長男を先頭にみんなでテーブルや椅子のセッティングをしました。
私たち、子どもが運転免許を取ってからは、母が電話で予約をして、ジンギスカンの肉とたれをちょっと離れたお肉屋さんまで私たちが取りに行きました。 それまでは、母の弟のおじさんが取りに行っていました。
パーティーが終わった翌日は、なんだかぽっかり気が抜けた時間を母も感じていましたし、私たちも片づけという大仕事を前にして、気が乗らない日を過ごした記憶があります。
そして、牧師さんの聖書からの抜粋した言葉と説明も、お坊さんの説法やお話も、全く記憶に残っていない毎年の恒例行事でした。
タダタダ、その日は朝から母の忙しさを見ながら、また兄や弟たちとお部屋の飾りつけをしたりしたことと、父の鍋奉行よろしく、「油の部分を鍋のトップにおいて鍋に全部鍋に塗りなさい」と指示が飛ぶ焼き方で焼いたジンギスカンの肉と特にリンゴとニンニクの入ったたれの美味しさだけが、思い出の中から蘇ってきます。 香ばしい匂いが鼻先に漂ってきます。

夏休みは海に連れて行ってくれました。九十九里浜、富津海岸などの海の家ではサザエのつぼ焼きやトコブシ、ナガラミと言った貝を食べるのが大好きでした。
毎年新しい水着を着て海と海の家でくつろいでいる父のところを行ったり来たりして夕方まで過ごし、海面を滑ってくるちょっと涼しく湿った風が疲れ切った体にしみこむ夕方には、ぼんやり気の抜けた頭と身体を海の家の床に投げだしながら、暮れていく海の向こうを見続けていました。
それから、車の中で爆睡して帰宅しました。車が止まったのを感じながらも疲れすぎている瞼を
開けられずにいると、父が母に布団を敷くように言っている声が遠くで聞こえ、それからしばらくして父が抱っこして車から降ろし、蚊帳のつってある和室に敷かれた布団まで運んでくれました。

私が息子たちに同じことしたときに、鮮明にこのシーンが思い出されました。私が息子たちにしていることを父も母もしてくれていたんだと思い出しました。
母が昼間干した布団は、奥の方で陽の匂いがして深い眠りに落ちて行きました。

小学生の高学年になったある日、自転車が乗れるようになっていたので、自転車で友達の家まで遊びに行き、5時に帰ると約束をした日がありました。
それまでは、父が車で友達の家へ送り迎えをしてくれていましたが、自立の道を歩き出した私はその日、自分の自転車をこぎ出し、遊びに行きました。
誰の家に行ったかは、思い出せませんが、日暮蝉が鳴いていました。保育園の角を曲がると父が店先を掃いているのが見えました。
「あ、お父さんだ!」
離れたところからも父が怒っている気が伝わってきました。
「ただいまぁ~」とちょっと小声で言うと父が持っていたほうきの枝で私の頭をゴツンと一度叩き、「何時だと思っているんだ!すぐ中に入りなさい!」と低い声で言いました。
私は「ハイ」と返事をし、自転車を中に入れ家の中に入りました。
それから父にお尻を三度叩かれました。初めてでした。
四つん這いにさせられ、お尻を叩かれ「約束の時間は守らないといけないんだ」と言われました。
父は叩くことがありませんでしたが、この時、叩かれながら私は恐怖で震えていました。
それ以後、子どもであろうと家に着くまでの時間が読めないという理由は通らないと言うことを思い知らされたので、約束を守りました。
父は優しくていろいろなことに挑戦させてくれましたが、反面、自由には責任が伴うと言うことを焼き付けた父でした。
決めた事は答えがでるまでやり通す事、約束は守る事、嘘はつくなと言われました。

⭐️母が30歳、父35歳呉服屋さんを切り盛りしていた可愛かった母です。

そんな父でしたが、私が小さい時には芸者遊びもしていて、2日目の夕方や3日目の朝に、私は家から1ブロック離れた歩いて2分弱の旅館に、父を迎えに行きました。前の家のお庭を「すみません、通らせてください」と声をかけて抜けていきました。  母からは「必ず大きな声で通らせてくださいと声をかけてから通らせてもらいなさいと、きつく言われていたので、私はその庭を通るたびに大きな声で言って通らせてもらっていました。
中からは「は~い、どうぞ」と言うおばさんの高い声が返ってきました。
その庭を通って大通りに出るとすぐ目の前に旅館がありました。
迎えに行ったというより母に迎えに行ってきてと頼まれて迎えに行くというのが流れで、母曰く「啓子が迎えに行ったら帰ってくるから」と言って私の役目でした。
大きな4枚のガラス戸が並ぶ真ん中のガラス戸を恐る恐る引いて開けてから「すみません、お父さんいますかぁ~?」と声をかけました。
なぜか、静かで声も何の返事も聞こえませんでした。気が付いてもらえずにだんだん大きな声を出す必要があることを感じて、大声で「す・い・ま・せ~~~ん、北原です!お父さんいますかぁ~」と声をかけると奥からハタハタと急ぎ足で入り口向かってくる気配がして、やっと中から芸者さんが出てきて、頭のてっぺんから抜けるような声で「あ~~~らけ~こちゃん、いらっしゃい!上がんなさいな」と言ってくれました。
私は「お父さんいますか?迎えに来ましたぁ」とすぐに言い、父が出てくるのを待ち、顔をだした父に「お父さん、帰ろう」と言いました。
父は「分かった、分かった」と言うような顔をしてから、私と一緒に帰りました。
小学生の低学年から高学年までの間に、何度もありました。
そのころの父は、私たちを愛しながらも、どこかちょっと自分の現実に背を向けて、瞬間の楽しさで満たそうとしていました。男の子が3人いて毎晩にぎやかで、忙しくお店と子育て、家事に動き回っている母が待っている家庭にちょっと背を向けて自分の時間が欲しかったんだと思いますが、まだ幼い私の心と頭は、それを理解できずに、そういう時の父が嫌いでした。
そしてちょっと酔いが残っている父に「どうして帰ってこないの?」と母の代わりに小言を言ったりして連れ帰ってきました。
父は、威厳を保ちながら無言でした。

何を思っていたの、お父さん?   私が迎えに行くたびに恥ずかしかったの?それとも自分の抱えている現実を受け入れようと思っていたの? それをいつか聞きたいと思っていたけど、聞かずにいたら、父は逝ってしまいました。

ハーレーを乗っていた父でした。オシャレなスカイラインも乗っていました。新車でも、躊躇うことなく私に運転を任せてくれました。

私が、まだ小学校入学前に、父は相撲巡業を呼び寄せ、お相撲さんたちが家で宴会を開き、泊って行きました。
奥の和室の襖の高さより背が高くて、二人のお相撲さんの腕にぶら下がったり、抱っこしてもらうとその高さに興奮していた私でした。
その晩はとってもにぎやかで、お相撲さんの歌も聞きました。お酒は出しても出しても足りずに、母も笑顔を振りまきながらくるくると刺身やお料理を出すのに追われていました。
あの晩がどんなふうに終わったのか、覚えていませんが、他のお相撲さんたちは、父が芸者遊びをしていた旅館に泊まりました。
そして、翌日は公園に作った土俵で巡業が開かれたと思います。人が好きだった父は、時々変わったことを巻き起こしていました。
お祭りを企画するのも好きでした。
親バカな父は、私を小町と呼んでいました。そして自分の目の届く範囲でお祭りに参加させてくれましたが、夜の盆踊りは行かせてはもらえず、昼間のお花見(毎年大きな祭りを開催していました)には、午前、午後に一度っきりならと行かせてくれました。⭐️弟と一緒にシャンシャンと鳴る杖をついて神輿の先を歩いたお祭りです。



私は、父がいる夜が大好きでした。眠る間に毎晩、創作話をして笑わせたり、怖がらせたりしてくれた父でした。最後は怖い話でちょびっと半べそになり眠りましたが、それでも暖かくてワクワクした時間でした。

生前、母がいないと何もできない父でしたが、母が亡くなってから深い悲しみの中、泣くのを始めて見せた父でした。そして身の回りのことをできるだけ自分でするようになりました。

小学生の時に、戦友が亡くなった時の話をしてくれました。海軍だった父は駆逐艦に乗っていて、アメリカ兵の攻撃を受け、海に投げ出され列を作り、他の戦友と泳いだそうです。褌を長く伸ばしてみんなで縦につながって泳いだそうです。それは海軍で学んだサメから身を守る術だったのに、一色と言う戦友がサメに襲われ亡くなったと話してくれたことが一度あります。、父も時々夢でうなされていたので、辛い出来事だったようで、この話は詳しく話してくれませんでした。きっと辛すぎて話せなかったんだろうと思います。 
そして、終戦を迎え、彼の奥さんを訪ねた話をしてくれました。持っていたお金をすべて差し出したという父の話に、人としてするべきこととはこういうことだと学びました。
また、父は戦争中はお国のためという美辞麗句に踊らされて戦ったけど、その後は今度は民主主義になると言い、教育が一変した時に、日本政府を鵜吞みにできない、ただ従うことは間違いだと知ったと、よく言っていました。あの戦争は間違いだったし、戦争から何も生まれない、唯憎しみの連鎖が生まれるだけだと事あるごとに言っていました。

私は高校生の時に、ソフトボール部入っていました。
夏の大会のある日、父は弟を連れてわざわざかなり遠い試合会場まで応援に来てくれました。
このブログに、以前その時のことを書いたのですが、それは、やっぱり気恥ずかしさと暖かな応援でした。

私の守備はサードで、いつものように守備につきました。
バッターが打った球がインフィールドフライのように上に上がり簡単なサードフライでした。でもその日は、父と弟がバックネットの裏側で私を見つめていて、バッター立った時も、緊張していい当たりを打てず、守備に出ても、なぜが落ち着ませんでした。他の部員が「いつもと違うよ、緊張してるよ!」と言っていて、私の緊張はマックスを迎えていました。
簡単だよと自分に言い聞かせたのに、なぜかその打ちあがった球をグラブの中に吸い込むことができずに硬い体と手は、落ちてくる球に向かってちょっと押し出してしまいました。
すると、その球はグラブからはじき出されてエラーになり、その球を拾い上げてファーストに投げようとした時は、もう打者はファーストベースを踏んでいました。

そんな恥ずかしいプレーをしたのに、帰宅した私に「けーこのスイングはすごく勢いがあったし、守備も素晴らしかったね」と晩酌しながら夕食を食べている私に言ってくれました。
「いやいやお父さん、贔屓(ひいき)に見過ぎですから」と心の中でつぶやいていました。
父は出会った人を褒める、まず人を信じる、子どもたちも、飼っていた犬や猫までほめる人でした。

志を曲げず、お金の話が嫌いでした。
40歳を過ぎた父は民主主義のために50年以上市民活動をしていました。ですから、色々な人が来て朝食、昼食、夕食、そしてお酒を共にし、よく語り合っていました。 子ども4人を抱え、母は嫌な顔せずにご馳走していました。でも、時々
お金が苦しいと呟く事があり、そんな時の父は母に向かって「お前は何を言っているんだ!この活動の意味を考えなさい!」と彼の理想を母に語っていました。

母は現実的に経済的に苦しいと言っているだけなのに、その現実を母に負わせて自分は理想に燃えて志を通して来ました。お金があろうがなかろうが、お金の話をされるのが大嫌いでした。
思春期の私は、そんな父の矛盾を理解できずにいました。強い父を尊敬もしていましたが、その矛盾に納得のいかない気持ちを長い間引きずっていました。
20代のはじめの頃、檀一雄の火宅の人と言う小説が単行本で出た時、父をしばらくうちの火宅の人と呼んで比喩していました。
ピント外れの父は、「啓子は私をライバル視しているんだろうね」と言っていました。私は笑うしかなくて、可笑しさとため息まじりに母に私の思いを説明した事を、その時の母の微笑む顔とともに思い出します。
母は大変だったと思います。1人でお店を切り盛りしながら、子育て、家事、そして、父の活動を裏で支えていましたから。
でも時々経済的に苦しい状況の愚痴を言いながらも、母も色々な人が来てお食事を差し出す事を楽しんでいました。

私に「誰々がお母ちゃん、お母ちゃんと言ってよく来るんだよ。」と。「みんなご飯を食べてないからね」と。
父の活動を理解して、そして精一杯共に歩んでいた母でした。

我儘で少年の心を持ち続けた父でした。
そしてそんな父を、愛し続けた母でした。

あっちもこっちもといい顔をしない父でした。侍のように責任を背負って生きた父でした。頑固で志を曲げない父でした。
40歳から市民活動に関わってから、その道一筋を通し、清らかに責任を負う事に美を求めた父でした。

父は舟木一夫の学園広場を酔うと歌いました。

「空に向かってあげた手に、若さがいっぱい飛んでいた。
学園広場で肩組み合って、友と歌った若い歌

涙流した友もある、愉快に騒いだ時もある、
学園広場に咲いている花の一つ一つが思い出さ

学園広場は青春広場  夢と希望がある広場」


この詩を噛み締めながら、父の心を思いました。
清らかに生きる事は、けじめを持って生きる事ですよね?
そこには本当の強さが必要ですね。責任を負うと言うことは、潔さが伴いますね。

父の葬儀を前に、1人父を思っています。
2017年8月17日







ノルウェー2

帰国して4日が過ぎて、仕事、生活もすっかり元に戻り、今、お風呂から上がって身体をベランダのチェアーに座って涼みながら、このブログを書き出しています。

隣の公園には犬の散歩をしている人たちが街灯に照らされて見えます。
フィヨルドで見た大きな空とは、 全く違った 小さな低い空。
座ったまま見れる限られた視野、左右に60度上下に180度。
ダウンコートを着て甲板に立っていた数日前。
今は蚊取りのスプレーを数回押して、空を見上げています。

たった一度の人生の、一瞬一瞬が風に飛ばされるように過ぎていきますね。
そんなことを思いながら
見上げた空や、感じた風を思い出しています。

ノルウェーは、眠らない国、白夜でした。

2017-06-22-17-37-362017-06-22-23-21-36真夜中12時ごろに少し暗くなりました。

この写真をクリックして拡大して見ていただいて空気の冷たさや、風の強さを感じていただけたら嬉しいです。

船は、壮大なフィヨルドを過ぎていきましたが、ずーっと見ているといつの間にか見慣れてしまいました。そんな贅沢すぎる時間を過ごしました。



2017-06-22-17-50-462017-06-22-17-50-512017-06-22-17-50-552017-06-22-21-41-11

   




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2017-06-22-23-36-422017-06-22-23-59-55
この瞬間が、何時なのか分からなくなり時間を見失い、迷子になったような気がしました。



接近してきた岩や反対側に広がる草原や小さな家。
そこに住みながら、どんな人生を送っているのかしら?
あの家の中で家族の歴史が過ぎて行っていると思うと、尋ねて行ってみたい気がしました。
2017-06-23-00-00-012017-06-23-00-01-112017-06-23-00-02-052017-06-23-00-04-052017-06-23-00-10-35









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雪解け水が滝になって、大きな音を立てながら流れ落ちていました。

手ですくって飲んだから、きっと飛び上がるほど冷たくて、でもすっきり切れ味のいい水の味がするんじゃないか?と思いました。
2017-06-23-00-12-362017-06-22-22-43-53ランチの後に、この日は鮨パーティーがありました。

物おじしないま~ちゃんが、「誰か、サーモンを持ってみますか?」の問いかけに、元気よく手を上げて、大きなサーモンを抱えて屋上に集まったたくさんの人たちに見せていました。


さすが、ま~ちゃんです♪ 

2017-06-23-05-37-25そしてこの日は、館内放送で、ま~ちゃんの歌声が響き渡りました。

甲板で、一人で歌を歌っていたま~ちゃんに、船長さんが気が付き、館内放送で一曲クラッシックを歌わせてもらい、翌日には、

レストランの入り口付近にあるレセプションのマイクを通して、二曲を歌いあげました。

綺麗な透き通った彼女の歌が船の中を通って行きました。

彼女は、お食事の時などに、隣り合わせになった人たちやウェイトレスの人たちと、お喋りを2017-06-23-02-25-372017-06-23-02-26-28して、すぐ仲良しになり、それは彼女の特技です。


覚えだしたノルウェー語、留学していた時に覚えたドイツ語や英語を使って、いろいろな国の人たちと元気で楽しいお喋べりをしていました。

私も物おじはしないほうですが、彼女のガンガン攻める勢いには、いつも関心させられます。。そして母親の心境で見つめています。
若さといつもニコニコの笑顔の彼女のパワーは、人の心を開き、周りの人たちを笑顔にしていました。
それは彼女の良さで、チャームポイントだといつも思っています。

今回のクルーズの中で、一番楽しみにしていたのは、乗馬でした。
モンゴルの草原を走った時から、自由に乗れる乗馬が大好きになった私です。
と言うことで、乗馬をしました。

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約4時間のアクティビティでした。

2017-06-23-04-01-39牧場から海岸に出て、丘を登り、降りて、また海岸に出て、黄色の花が一面に咲いている草原を抜けてまた牧場に帰ってきました。

初心者が3人と私の4人での参加でしたので、馬を走らせたのは最後の草原から馬場の中を一周した時だけでした。
馬に乗りながら、バイキングが昔住んでいたという丘にはセカンドハウスが点在していて、そこを通りましたが、私は住んでいる人たちに思いっきり手を振って、ご挨拶をしました。住人の人たちも窓越しから手を振ってくれました。また庭でお茶をもんでいた人たちには、「素敵なお家ですね」と大声で、声をかけると、ありがとうと笑顔が返ってきました。

海に向かって開口部が大きくデザインされていて、夕日や一日の海の様子を眺めながら生活ができるその家々は、素敵でした。
私の馬も、他の馬もみんな大人しく、整列して歩くことを訓練されていました。

馬場まで帰ってきたとき、「速足にしますか?」と問いかけられて、「Yeah~~~~~!」と答えて、走り出した時、ま~ちゃんが後ろで何度も「落ちるぅ~~~~」と叫んでいました。^^付き添いの人が、手綱を引いて!と言っているのが聞こえました。

でも、本当にそんなには早く走っていなかったですし、落ちても砂だし、大丈夫だと思いました。
チョンチョンというくらいにお尻を少しリズムに合わせて上げての速足くらいでした。

モンゴルでは、中腰で、みんな「ヒーハー~~~」と叫びながら草原をものすごい勢いで走り、川をバシャバシャと渡り、、、、う~~~~ん本当に忘れられない思い出になりました。
あの時、頬や体を通り抜けていった風や馬が走り込み、大地を蹴上げる強さを体中に感じたその感触は、きっと死ぬまで鮮明に残っていると思います。本当に楽しかったです。

だから、今回の乗馬は、のんびりパッカポコパッカポコと乗っただけなので、乗馬の楽しさと言うよりは、景色の美しさだけを体中に吸い込みました。

牧場に帰ってきたら出迎えてくれた小さな馬が、私をじっと見ていました。
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次回があるとしたら、もっと思い切って走らせてみたいです。





お食事は、夕食はコース料理、朝、昼はバイキングでした。


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タラバガニがランチで出た時には、思いっきり食べちゃいました。

いろいろな種類のチーズ、トナカイの肉などもいただきましたが、
結局3K太って帰国しました。



ですから今、減量中です。。。

クルーズから帰った翌日は、朝から、これまた懐かしいムンク美術館に、まーちゃんのお父さんと行きました。
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フラッシュをしなければ、撮影OKと言うことでしたので、いろいろ撮ってしました。^^
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ムンクはフランスでモナに影響を受けています。


彼の代表作の叫びは、後半に描かれていますが、その前は印象派に影響を受けて絵を描いていました。
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ムンクがノルウェー人だと知っている人は、日本では、きっと少ないと思います。
小学生の高学年で、ムンクの叫びを勉強して以来、興味を持った画家ですが、20年前にもこの美術館に来ました。その時にも彼のスキルに驚かされ、子どものころから描いていた絵を見ました。

医者の家族の中で育ち、両親と兄弟、姉妹を病気で亡くし、絶望の中での彼の絵は、深い悲しみや絶望感が漂っています。

どの絵を見ても、感動するばかりでした。

そして、出発の前日の夜、ま~ちゃんが教えている書道の生徒さんの書道パフォーマンスがあると言うことで、それを見に行きました。

2017-06-24-01-29-14私もイギリスに住んでいた時、短歌を書道で描いて、個展をして売りましたが、海外で経済的自立をするのは難しいです。

ですから、ま~ちゃんがこれからどんなふうに自立していくのかを見守りたいです。

その大変さもよく分かっているので、遠くから見守るだけしかできませんが、きっと彼女は、そのバイタリティーでガンガン切り開いていくと思います。

そしてそれを願っています。
彼女の人生が輝いて欲しいと願っています。

頑張れ~~~~~、ま~~~ちゃん!

20年ぶりのノルウェー1

*写真はクリックして拡大して見てください。

今回のノルウェー行きは、カンボジアの孤児たちの教育支援を一緒にしている愛の素のメンバーのま〜ちゃんに会うのとフィヨルドクルーズ、そして20年ぶりのノルウェーの住宅の状況を見にいくことが目的でした。

   ま~ちゃんのお父さんと羽田で待ち合わせをし、 19日の夜中0:00頃に羽田を発ち、ドバイ経由で時差-8時間のオスロに到着したのは、天候が悪くオスロ上空で約40分旋回しながら待ち、13:30頃でした。
羽田から通常ですと10時間45分でドバイに到着しま宇sが、旋回時間があり、約12時間かかり、
ドバイからオスロまでは7時間です。

イギリスに住んでいるときに、オスロへ行った際には、飛行機が上がって、すぐ下がった記憶しかないので、日本からは、こんなに時間がかかるんだと、へとへとに疲れて実感しました。

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飛行機から見えたノルウェーは緑に覆われた国でした。 20年前は、二月に行ったので、雪に覆われていました。

2017-06-19-22-24-05 2017-06-19-22-25-38 到着後、ホテルにチェックインをして、すぐま~ちゃんとお父さんと食材を買い出しに行きました。





移民者が買い物に来る価格の安いマーケットは、他国民の人たちがたくさんいました。

2017-06-19-22-28-09 そして、見慣れない果物を発見! どうやら桃らしいのですが、、、食べたことがないので、甘いのかどうか、分かりません。多分ケーキに使う桃だと思います。

その日の夕食は、ま~ちゃんとボーイフレンドが住んでいる新しいアパートで、彼らが作ってくれたタコスをいただきました。
ま~ちゃんは、日本で教師の仕事をしているときより、はるかに、はるかに幸せそうでした。
ストレスの多い日本での仕事は、彼女には合いませんでした。
1年目から、上下関係やパワハラなどに苦しんでいました、泣きながら電話がかかってきて、その度に、全体が見えるまで3年は頑張ってね。クラスを持つまで頑張ってね。と言い続けた私でした。
彼女とはアフリカのウガンダで出会って以来の年の差無用の友達です。
ですから、もう8年以上のお付き合いですが、彼女の自由さと呑気さを考えると日本のストレス社会は合わないので、ノルウェーは、生きやすいのではないかと感じました。

30歳を前にして、何よりも愛を求めて旅立ち、恋を見つけて、そこに突き進んだのだから彼女は夢をかなえたんだと思います。  その行動力には脱帽です。そういう幸せの見つけ方があるんだとまざまざと見せてくれた彼女です。
彼とは漫画オタク同士でつながったようで、彼も日本語がペラペラで、正直で優しい彼で、安心しました。

2017-06-20-15-49-30 2017-06-20-15-11-20 2017-06-20-15-03-58 翌日は朝早く起きてまたオスロ空港まで電車で行き、それから国内線に乗り、キルケネスに向かいました。

料理が好きじゃないと言っていたま~ちゃんが作ってくれたあんこ入りのパンケーキ、お茶ケーキ、人参ケーキは、びっくりするくらい美味しかったです。

よく家に泊まりに来ていた時も、料理も掃除も好きじゃないと公言していたのですが、すっかり変わっていました。
やっぱり、恋をすると変わるのねぇ~と、ちょっとからかっちゃいましたが、言葉使いも「:::っすよ!」と言っていた言葉も消えて、女の子らしい言葉になっていました。  思わずふふふって微笑んじゃう事が度々でした。
2017-06-21-13-57-57 2017-06-20-21-35-31 2017-06-20-18-51-24 キルケネスから400km北には北極点があります。

現在もロシアからの買い物客が多いそうです。


ダウンコートを持っていきましたが、オスロ市内では18~20度前後でしたから必要じゃありませんでしたが、さすが、ノルウェーの北では、まだ雪が残っていました。寒かったですが、白夜なので、真夜中でも明るかったです。
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舟は強風の吹くフィヨルドを南下していきましたが、乗船した時は船が揺れて酔ってしまいそうでしたので、酔い止めを飲んでとりあえず眠りました。甲板の上を強風が吹きすぎていき、立っているのがやっとでした。

でも、気持ち良い寒さと風でした。
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2017-06-21-03-24-42 2017-06-21-23-21-11 2017-06-21-15-29-02 曇った空と冷たい風が吹きぬける海、船から見える陸地は色が抜けた、白黒の写真のようでした。








2017-06-21-22-58-15 2017-06-21-22-58-26 舟の上にはパノラマルームがあり、暖かな部屋からフィヨルドの景色を見ることができます。

下の階には、バー、レストラン、カフェラウンジなどありますが、このパノラマルームから景色やいろいろな色や形に変わっていく空を見上げてコーヒーを飲んだりしてのんびり過ごすのが一番良かったです。
ま~ちゃんのお父さんは、ビールやワインを飲んで、朝からまったりしていました。


2017-06-21-23-21-32 2017-06-21-17-54-44 2017-06-21-17-54-47 翌日はま~ちゃんとお父さんは、違う町に降りて違うコースを進みました。

私は、Hammerfestと言う町に降りました。
ここで2時間のハイキングコースに参加しました。

サミー人(エスキモー人やモンゴルの遊牧民と同じようにゲルで移動しながら生活している現地人)の家を見ることができましたし、一般的な家も見ることができました。

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港から見える丘に登るコースですが、ガイドのハリーナに、いろいろ質問をしました。
この町の中心には2000人の人が住んでいて、近隣には1000人が住んでいるそうです。

小さな町ですが、ガスをロシアやUSをメインに売っているので、裕福な街だそうです。

2017-06-21-18-14-29 2017-06-21-18-02-05 2017-06-21-18-02-09 今、移り住む人が多くて建築ラッシュで、家賃は1Roomで800$ですから98,000円くらいでしょうか?

かなり高いそうです。また建築が間に合わずに、移り住めない人たちがたくさんいてまっているそうです。



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町を見下ろす丘からの眺めは、下に広がる家々の屋根を見下ろし、通りを見下ろし、晴れた日にここに来たら、きっと好きになり移り住みたいと思っちゃうかもと思いました。

2017-06-21-18-02-47 2017-06-21-18-02-52 ヒットラーが攻撃してきた後に建築された教会、町は壊滅状態だったそうです。

ハリーナは、日本にいつか行きたいと言っていましたが、参加者のドイツ人の人たちにはドイツ語で、私には英語で説明してくれました。

留学のお金は、政府が出してくれるたので彼女はドイツに留学してドイツ語を勉強したと、確か言っていたと思います。
2017-06-21-18-23-54 ドイツ人の他の3人の参加者とハリーナに、日本の学校給食や家庭科で料理を習う事を話して、日本の食育について説明しました。
みんな日本の教育は、素晴らしいと言っていました。  私としては、ストレス社会と競争教育についても話せばよかったとその夜、会話を思い出して思っていました。






2017-06-21-19-19-48 2017-06-21-19-19-54 2017-06-21-19-25-53 丘の北側には、雪が残っていて
時々冷たい小雨が降る中で、雪に飛び込み泳ぎました。

雪に大喜びする私を見て、ハリーナもとっても喜んでいました。

2017-06-21-19-27-32 2017-06-21-19-28-31 2017-06-21-19-28-34 サミー人のゲルやエコハウスを見て、時間が無くなってしまって、駆け足で丘を下り、ハリーナにお礼を言い、船に乗り込みました。
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いつか彼女が日本に来て勉強できるがあったらいいなと思います。
一期一会、彼女お人生がこれからも輝いて欲しいと思いました。

2017-06-21-18-27-05 2017-06-21-18-27-25 Fammerfestに行くまでに8カ所の町に止まりましたが、時間が短く30分くらいでした。
その間に、急いで町の中を走り、家々の写真を撮りました。





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20年前と変わらないデザインの家々と街並み。

北欧から、ヨーロッパからアメリカに移民していった人たちがたくさんいますが、アメリカの家を見るたびに、「あ、これはスペイン系ね、北欧系ね、イギリス、オランダ」などなど思いますが、ルーツを見る思いです。

その夜、Tromsoで11時過ぎから教会でコンサートがあると言うことで、観に行きました。

2017-06-22-06-55-25 2017-06-22-06-57-45 2017-06-22-06-59-32 ノルウェーの田舎にある教会のデザインは、入り口付近の屋根が急こう配で、雪が流れ落ちるのを考えてのデザインだそうです。

ここでコンサートがありましたが美しい透き通った声が教会の中を透き通ったまま響いていました。

あまりの美しさに、感動して涙が流れてきました。

ここに動画でご紹介したかったのですが、ちょっと無理なのが残念です。

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続く。。。
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