イタリア・アルベロベッロへ1

四年前にイタリアへ行ったときに、12月31日、1月1日に行く予定だったアルベッロへ今回はピンポイントで行きました。

その時は、31日、1日は電車が動かないと、駅にチケットを買いに行った際に聞かされ、えぇぇぇぇ電車が動かないってあるのぅ?! と、かなり驚かされ、ひとり言のように「あり得ない!あり得ない!あり得ないようぉ~。。。。」と。
でも、どんなにつぶやいても動かず、泣く泣く諦めたアルベロベッロでした。


と言うことで、建築が観たかった、知りたかったトゥルッリ(1635年に築、石積みの住宅群)に滞在することにしてTrulli Holiday Resort(トゥルッリ ホリデー リゾート)を予約し、フライトを探して予約をして、やっと見れるとかなりワクワクしていました。

imageIMG_1806成田からローマ12時間半、待ち時間3時間半そしてローマからバーリ2時間のフライト、バーリからアルベロベッロ車で1時間。合計18時間半。
アルベロベッロでホテルのレセプションに寄り、チェックインをして私の部屋と言うか家のトゥルッリまで行き、説明を受けてた時は、真夜中12時を過ぎていました。
朝起きて一日が過ぎ、26,7時間でやっとベットに入ることができました。

暗くて細い道を入り、一通の多い街の中をくるくる回ってたどり着いたトゥルッリで、どこをどう通ったのか分からず、いつも迷子になる自分を思うと、かなり心細かったです。 また地図を渡され早口で朝食はここへ行って鍵を見せて、8時から10時までであとは閉まるからと。

えぇぇぇ地図! かなり不安でしたが、とにかくシャワーを浴びて、眠りにつきました。
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IMG_1811翌朝、9時20分過ぎにだったと思います。飛び起きて急いでレストランまで地図を見ながら向かいました。




IMG_1812IMG_1813レストランまでの道、独特のトゥルッリと住宅街を写真に収めながらこっちね、こっちね、と指をさしながら歩きました。

これがトゥルッリ♪見たかったトゥルッリ♪とウキウキでした。



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レストランは、町の中心の大きな広場の角。私の家から歩いて5分も掛かりませんでした。







IMG_1820IMG_1821IMG_1822IMG_1823朝食はかなり充実していて私には十分でした。

木の枝に照明!
なかなかやるなと感心。





お店の開店時間が午前中2時間半、午後と言うか夕方から2時間半。
レストランは開いているところもあれば閉まっているところもあるそうで、朝食の後、スーパーへとにかく行き水とヨーグルトは買わないと!と、道行く人にスーパーの場所を聞きました。

二人目で英語を話すおじいちゃんに会い、そこだよと途中まで連れて行ってもらい、水などをまずは確保。

B54DF588-58EC-45B0-92F9-8FAB6BD4480CIMG_1826IMG_9723家に帰るときに、この住宅街一体で、住人たちがワイワイ言いながら何やら準備していました。
夕べ到着後にレセプションでいただいた4日間のフェスティバルチケット。
このエリアで昔の生活を再現したフェスが行われるとの事だったので、その準備をしているんだとすぐ理解しました。申し込みをしてツアーに参加できるとの事でした。
道のコーナーや家の前にいろいろなブースを作っていました。

ピッザ?と聞くとホーカッチャと返事が返ってきました。
IMG_1827IMG_1828IMG_1825若者から年配まで、みんなでいろいろお喋りしながらブースを作っていました。

日本で言う自治会の行事のように、みんなで参加している感じでした。


英語を話しますか?と聞くと、一人の子が少しと答えてくれたので、今夜の準備をみんなでしている事などを確認できました。
そして写真をとってもいい?と聞くと、皆がワイワイ言いながら集まってくれました。毎年こんな風に地元の人たちで観光客相手にフェスを開いているとの事。
アルベロバッロ内のこのエリアは、ピッコラエリア、土産物店が並んでいる有名なモンティエリアは大通りを挟んで反対側です。
ですから25日から2日までの滞在期間中、地元の人のように家から出て何かをして帰宅すると言う感じで過ごすことができました。
D0C46A9D-3818-48E7-84E9-F6E106147B2FIMG_1827IMG_1829選んだトゥルッリは生活や建築をチャックするには抜群のロケーションでした。


でも、同じような道がたくさんあって、レストランから帰る道を間違えて、くるくる迷ってなかなか帰れませんでした。

自分の不甲斐なさに、やれやれとため息をつきながら、やっと戻りました。
私の家は49番と番号がありますが、違う通りにも43,45、があり、きっと次だわと思いながら進むと50番、え!えぇぇぇぇなんでないの!???と。ちゃんと帰れるのかしら?レセプションもどこにあるのか?地図にマークしてもらったけど、。。。。。
でも、1時間ぐらい迷ってレストランのある角を見つけて、そこから記憶をたどり、そうねそうねパニーニのお店が角にあって、その先の角には小さな八百屋さん。これを左に見ながら来たわよね。と逆に進みながら歩きましたが、その先がY地に分かれていて、さっきはこっちを通って行きつかなかったから、今度はこっちに進もうと進みながら、こんなの見たわね、この家も見たわねと言いながらやっと帰ることができました。
疲れ果てベッドにバタンと倒れ込んだ途端に、ドアをノックされ、飛び起きると、女性の声が。
ドアについているガラス部分を隠しているもう一枚の木製ドアだけを開けて、外を見るとシーツなどを抱えている女性が立っていました。

3A92DB0C-DC78-40AB-B767-7ADFD945DDA03CDD5FD4-0212-4873-88C4-465094BA24B47E54DFCA-0893-4E94-9332-F13406ADB3E6C03F2226-83A7-4D18-B667-EC54F0B1CDE0なるほど、ルームクリーニングなのね。とほっとして開けると、電気ホットやカップやトレー、スプーンを持った女性も洗われて、部屋にセッティングをして行きました。
バスルームの掃除をしてくれた女性にチップをあげて、日本から持参した日本茶を入れて、一息。
昨夜はベッドメーキングもされていなかったので、自分でしてから寝ましたが、ホテルからの対応に対するアンケートのメールが届いていたので、お茶を飲むこともできない、ベットメーキングも自分でしたと返信したので、翌朝のすぐの対応!  
IMG_9576IMG_9577IMG_9579IMG_9580良かったわ。とこれまた一息。
イタリア料理に飽きたら日本茶と年越しそばを食べなくちゃと持参したカップ麺・緑のたぬきも食べられなかったら、かなりテンション落ちるわと思っていたので、あ~~~ほ~~~~んと良かった!と声が出ていました。

それから、地図とにらめっこ!朝間違えた道を検証して、これから行く場所を決めて、

OK!OK! モンティエリアに行こうと決め、とにかく小さな町みたいだけど、有名な土産物店が並ぶテレビでも見たトゥルッリ街へ行かなくちゃと家を出たのはもう2時半を回っていました。
IMG_1836IMG_1838IMG_1847モンテエリアへは歩いて5分も掛からず、
さすが26日のボックスデイは人手が少なく、また曇り空でとっても寒かったです。気温をチェックしたらアルベロベッロは最高で7度、8度と。

下に降りて大通りを横切りモンティエリアに入り、一番上まで登っても10分。

IMG_1845IMG_1833IMG_1834一番上には聖アントニオ教会がありました。








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IMG_1844IMG_1846聖アントニオ教会の前には小さな公園があり、そこにはリサイクルボックスがありました。

あまりにも小さな町で、モンティエリアは、すぐ見終わってしまいましたので、一度反対側のレセプションのあるエリアに行こうと決めて、戻りました。



IMG_1850IMG_1852IMG_1854IMG_1856朝食を食べたレストランのある広場はモンティエリアから上がったこの広場の角にあります。
そこからまっすぐ通っている道を北側に進むと「あ!あった!ホテルのレセプションが」と、これまたほっとして、
真正面に見える聖メディッチ聖堂(正式名は聖メディッチ・コズマ・エ・ダミアーノ)へ。

ちょうど教会の鐘が鳴り始めて、晴れて眩しいくらいの青空の小さな町の空を鐘の音が覆っていました。
この教会は、どこからも見える!これをランドマークに散策すれば問題ないねと確認しました。
IMG_1860IMG_1863その後は、聖堂の裏にあるトッルッロ(トゥルッリの複数形らしい)・ソヴァラーノ(1744-1809年築)へ行きました。博物館になっていて昔の生活が観れます。

この建築は、トゥルッロ建築で2階建て住居。高さ14mあり12の円錐形の屋根があり、技術的に大きな発展があり、空積み建築の原型を保ちながら主要な壁を覆うようにローマンアーチで支えられています。



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エス・デザインのfacebookにもご紹介しましたが、(下記抜粋)

このトゥルッリの構造は石の組積造で、現在はセメントをつなぎ材として使っていますが、建築当時から長い間、モルタルや木材の使用を禁じられていたので、大きな石を積み上げ、隙間に小石を充填して作られていました。
1635年にアクアヴィーヴァ伯爵が自身の邸宅を建てた際に、パン窯、粉挽き屋、巡礼者達の宿、礼拝堂(聖メディチ聖堂、昨日鐘がなっている教会の動画でご紹介)など 建築を命じ、農民達に土地を与え、セーメントを使わずに建てたトゥルッリには免税の措置をしたらしいのです。
その理由は、国王の視察訪問を予知した伯爵が一夜のうちに壊し、住民達を遠ざけ、視察が終わるとまた、建て直し、領土拡大を図るためだったと。
だからモルタルの使用を禁じたんだそうです。この組積造の職人さん達は、円筒形の高さ2メートルの壁の上に円錐形の屋根を石をずらして積み上げて独創的な構造と安全性に富んだ建築を生み出し、歴史を重ねてきています。
壁の厚さは約800-900mm寒い冬❄️に、洞窟にいるような暖かさを保っています。


さて、その後地域資料館へ行きましたが、この建物は家からレストランまで帰る道のパニーニを売っている店のある小さな広場の家へ続く道沿いにありました。
な~~んだ、ここだったのね、と。
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この資料館は、日本語の本を売っていましたので、購入し、お腹が空いたの遅いランチを食べにまたモンティエリアに向かう大通りに戻り、レストラン探しをしました。

IMG_1889IMG_1890大通りに面した屋外のテーブルに座ってメニューを見ると、キャ!価格が高い!

このプラスチック容器に入ったパスタとワインで日本円で2,211円!
それにホークなどもプラ!

観光客は馬鹿にされてるなとしみじみ思いながら空腹を満たし、人でにぎわい始めた暮れていくモンティエリアへもう一度人間ウォッチングに行きました。

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そして私の滞在しているピッコラエリアに戻るとナイトツアーが始まっていました。
IMG_1920IMG_1922IMG_1923この昔の生活の再現フェスは食べ物、衣装、生活スタイル、すべて忠実に再現されているとの事。

小さなドーナツのような揚げパンを見て「これは何?」と聞くと食べて、どうぞ、どうぞと言いながらくださいました。

う~~~ん、まずい!
でもグラッチェとお礼を言いました。

IMG_1927IMG_1930IMG_1947トゥルッリ職人さん、布屋さん、パン屋さん、ホーカッチャ屋さん、色々なブースにはそれぞれが配置されていてイタリア語で説明したり、ダンスを踊ったり、商売の様子の寸劇をしたり、
面白かったです。
可愛い女の子が手を振ってくれました。



IMG_9567IMG_9568IMG_9569いくつもの20数名くらいのツアーグループがガイドさんの説明を聞きながら、そのブランチを回っていました。

残念ながら私はイタリア語、全く分からず、踊りや地元の人たちが演じる寸劇のレベルの高さ、表情や声などから想像していました。


一通り、全部を回って家に帰りシャワーをしようと思い、ふっと気が付いた壁!
IMG_1916バスルームと寝室を分けている壁は下地は石膏ボードで仕上げは石の模様の漆喰と気が付きました。

なるほどね。
今は、こうやって仕切っているのねと。
これは今の日本でもしていると思いました。

そして、何キロくらい歩き続けたのかな?と思いながら疲れ切ってこの日も爆睡でした。

つづく。

最近の私、休みと仕事とLife work

早いものですねぇ~、昨年の暮れから一月初め掛けカンボジアシェムリアップに教育支援に行き、その後ノルウェー、」ウズベキスタン、そしてカンボジアの子供たちの教育支援の為のチャリティーライブの準備に追われ、仕事も同時に3件進め、走り続けて気が付けばもう12月になってしまい今年も終わろうとしています。


でも、その間、友達とブドウ狩りに行き、11月の終わりに昇仙峡に行きました。

IMG_8681 IMG_8689日差しが強くて日焼け対策をしていきました。

生まれて初めてのブドウ狩り! 友達は何度も来ていると言ってテキパキ!





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私たちは巨峰を選びましたが、1房を食べただけでお腹がいっぱいになりました。

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サンシャインマスカットをお土産にして、連日粒が大きいので少しずつ楽しみながら食べました。
1房の大きさに、びっくりです!

息子にお誕生日を祝ってもらいましたぁ~~~~~♡♥💛
橋本にある予約制の懐石料理です。

いつもながら、日本料理の美しさは、やっぱり世界に誇れるとしみじみ実感します。
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毎年親子で思い出つくりをしているので、欲しいものはないからプレゼントはお食事でいいからと。

静岡からわざわざ来てくれてお食事をして翌朝、新幹線で帰った息子です。
ありがとう。母からのプレゼントは、オソロのサングラスとケースでしたが、私の兄お勧めの軽いサングラスでした。壊れるまで思い出を共有でしょ。

仕事では、会社のfacebookにも公開しましたが、ビックサイトの展示会へGO
展示会ではいつもカーテンの制作を依頼しているめいくまん、の鈴木さんに会い、インスタ用に設置された壁を使って、写真を撮りました。
もっともインスタは忙しいのでしていませんが。。。
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傘で空を飛んだり、チョコの壁を登ったり、エンジェルになったり、歩き疲れた展示会場の一角で、ちょっと一休みしました。
帰り、お台場の観覧車が綺麗な雪の結晶のようにライトアップされていました。

2017-11-28-13-49-47 2017-11-28-14-34-57お休みの日に、愛の素の活動を日ごろから支援してくださっている支援隊長の花咲爺様にプロジェクターの操作をお願いしましたので、その打ち合わせに来ていただきました。
いつも鎌倉から来てくださり、時間がない啓子さんだからと私の都合に合わせて下さっています。

人の心の優しさや暖かさをいつも感じさせて下さる花咲爺様です。
申し訳ないほどのお食事でしたが、時間いっぱいに使って写真の整理と動画選びをご一緒にしました。  ありがとうございますの言葉しかないです。

それから、お友達が誕生日に昇仙峡とぷくぷく温泉のバスツアーをプレゼントしてくれました。
彼女は何度もバスツアーに参加しているので、今回もテキパキ。いつも自分の車で行ってしまう私は、初めてなのでワクワクでした。
バスツアーの楽さもたっぷり知りました。
ハーブ園にGOoooooooooooo
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蘭やポインセチア、見たことがないハーブなど見ました。

2017-11-29-11-03-25 2017-11-29-11-06-32私の顔より大きな柑橘系の果物や、エンジェルの翼の形をしたアメジストの原石。

ちょっと暗いですが、アメジストからエネルギーをいただいた(?)私です。

ここでオーガニックハーブで作った化粧品を二つ購入してから昇仙峡へ向かいました。なかなかのハードスケジュールでしたが、温泉では町を見下ろしながらゆっくり入浴してから帰宅しました。


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昇仙峡は水晶が取れたそうで、どの土産物店も宝石がメインで売っていました。

2017-11-29-13-32-41子供たちが小さなとき、今から30年ぐらい前に一度来たことがありました。
その時とは、すっかり変わって観光客を見込んでのお店が立ち並んでいました。

でも滝の音は、なんだかいつも心が洗われるような気持になるのは修行僧たちの荒行のイメージがあるからかしら?




それから美術館へ
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2017-11-29-13-56-33 2017-11-29-13-57-15 2017-11-29-13-57-35 2017-11-29-13-58-02山下清の作品も展示してありました。








2017-11-29-13-58-30 2017-11-29-14-02-44彼に見えた世界をほんのちょっと垣間見ることができました。
自然や人の生活への暖かさを感じました。

そして、子どものころから好きだった竹久夢二のコピーを久々見ました。


彼の絵の中の女性たちから、母の若いころの可憐さを感じるので、大好きでした。


2017-11-29-14-02-52 2017-11-29-14-02-58 2017-11-29-15-04-30 2017-11-29-15-05-25






2017-11-29-15-10-11 2017-11-29-15-10-29一本の木から虎や龍を彫り込んだ作品なども、外国からの観光客には受けていました。


宝石で埋められた庭をガイド付きで見て回り、その後宝石を買うことになるであろう店内へ。


なるほど、バスツアーとはこういうことなんだなと思いました。
メインの温泉は、露天風呂が気持ち良かったです。♪
ブドウ狩りに来た時に、車尾走らせながら下から見えたぷくぷく温泉です。「あ~~~あの時の温泉ね~」と友達と話ながら、暮れていく街を見降ろしていました。

それから、私のlife workの愛の素の活動で、相模原市民活動サポートセンターへ

さがせんチャリティーのリーフレットを持っていきながら、受け付けてくれたスタッフの皆さんです。

相模原市内には、びっくりするほどたくさんの市民活動をしていることを知りましたが、このサポートセンターに行くと、いつも必ず何か良いアドバイスなどをいただけます。

でもこの日伺ったのは、FMさがみ83.9MHzの朝の帯番組で、地道に活動しているボランティアを番組の中でご紹介して下さると言う企画があるので、その番組に出演依頼をしに行きました。



と言うことで、

FMsagami11月21日、9:10から出演し、愛の素のチャリティーライブの告示と愛の素の活動についてお話しする機会をいただきました。

実は2000年に帰国してから約2年、仕事をしながら日曜の夕方18:00~19:00までの一時間番組を持っていましたので、久々のラジオを通してのお喋りでした。
ラジオDJの竹中さんからお久しぶりですと挨拶があり、楽しい時間をお過ごしながらも、活動内容やチャリティーの宣伝をさせていただきました。
ご協力に感謝申し上げます。

この他に、4ヶ月の間大学生のサークルや大学に訪問し、休み返上で宣伝に動き回りました。
夜も連日、いろいろな人たちと会い、ネットワークを広げました。

一番大きな出会いは、県央福祉会(http://tomoni.or.jp/index.html)の理事長や職員の方、そして理事長付きで尚且つ、もざいくハウス(https://ameblo.jp/mosaiclife/  https://www.facebook.com/mosaiclife2014/ )の代表の林さんでした。

2017-12-06-15-04-17 2017-12-06-15-04-38県央福祉会のすぷらにて、林さんと。

実は、愛の素の活動が私一人にかかっている現実を抱えながらNPO法人の登録をとりましたが、模索しながらの活動内容は、カンボジアの子供たちが抱えている貧しさと社会的問題は解決されず、やっといただいた寄付を送り続けることに疲れ、そして一人で動いていてる活動に疲れ果て疲弊していました。


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ですから、「できることをできるだけ」と自分に言い聞かせながら、また無理しないことが長い支援活動につながると言い聞かせながら約7年間続けてきました。

仕事が終わって帰宅すると疲れ果てていて、もうIpad もメールもlineもfacebookも、何もチェックせず、昼間の仕事をしながらの活動時間のみにする!と決めて動いていました。
それは、心と身体と頭を休めたいと言う思いからでした。
現地から何度も届く子供たちの米代がないというSOSに苦しみ、それはかなりストレスになりました。
実際、仕事をしながらやり続けることは、仕事だけでも大変な時が多々あり、時間的にまた心の疲れもあり大変です。ですからそういう線引きは必要だと思っていました。

でも、林さんのフットワークの良さに目を開かされ、
愛の素と言う特定非営利活動法人を立ち上げたのは私ですから、まだまだ休んでいる時間はないと思い直した年になりました。

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12月15日、愛の素チャリティーライブ&トークショーです。 2017-12-16-13-40-50





時々、カンボジアの子供たちの話をすると「余裕とお金があるからできるのよ」と他人事のように言われますが、カンボジアの孤児たち、貧しい村の中でお風呂に入ることもできずに真っ黒に垢が貯まったままの小さな子供たちがたくさんいる現実や、親たちは仕事にも付けず、怠けることが習慣のようになって、酒におぼれ、子どもには食べるものを与えられず、大人たちも苦しみの中にいて、子供たちはシンナーを吸い空腹を紛らわせる現実を見るとカンボジア政府の問題で、私たちには関係ないとは言えないとしみじみ思います。
同じ時代に生きている人間同士、カンボジアに進出したベトナム・中国・韓国、そして日本の金持ちたちから建材を買い入れたり、安い賃金で働かせながら企業が日本経済の一部を動かしていることを見ると、私たちの生活は、貧しい国の人たちからの搾取で成り立っていると感じることがあります。

一人の大人として、この世界に生き、生かされていることへの感謝や責任をできるだけ果たすことは、必要な事で、自分だけが良ければいいという価値観が蔓延しているこの世の中で、地道にボランティア活動をしている人たちの活動に目を向け、心を開き、人生を全うすることに人としての本当の美しさがあると思っています。
🌟左から三ツ矢くんと、菅野さん、次はアンちゃん、三枚目は私のお客様のS様、そして桜美林大のカンボジア支援をしているちょんれーんのみなさんと。🌟

ですから、来年はもう一歩、踏み出して、時々弱音を吐きながらも、進んでいけたらと思っています。
www.facebook.com/ainomotoainomoto  
2017年、12月16日、そんなことを感じながら仕事の合間に、これを書きました。
このチャリティにご協力いただきました高橋秀明会計事務所の皆様、ちょんれーんの皆様、菅野ファミリーの皆様、そしてシンガーソングライターの三ツ矢君、そして兵庫からいつも来て助けてくれるメンバーのこうこさん、 たくさんの方々にご協力いただきましたこと、心よりお礼申しあげます。
さて、仕事に戻りま〜す🎵

え?!これってさぼりになっちゃうのぉ~~~  てへっ







シルクロード、ウズベキスタンの旅3

IMG_2008IMG_2009初めに、写真はクリックすると拡大します。

さて、翌朝も慣れない早起きをして、朝食をいただきまたエクスプレス列車に乗り、2500年の歴史ブラハへ向かいました。





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IMG_2018そしてまず、ホテルに荷物を置きに行きました。IMG_2030

私が好きな素材感と職人の手と歴史を感じる建物でした。
中庭があり、そこから各部屋に入れる動線です。





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IMG_2037IMG_2040IMG_2041IMG_2039バーには日本酒がありました。








IMG_2042IMG_2043荷物を置いてから、ランチを食べに行きました。

真っ白な外壁、内壁、天井のインテリアに、アンティーク風の照明器具が付いていました。

私も時々使う照明器具で、中国で作られているものです。
中国で作られ、ヨーロッパ・アメリカ・アジア・ロシアなどで売られています。
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伝統的な織物のテーブルクロスに、伝統的なお食事。お皿も伝統的な絵皿です。

IMG_2050IMG_2051私たち親子は、揃って食がそんなに太くないので、実を言うと何だか、暑さと、毎回同じようなメニューに目で見ただけで胸までうっぷと来るくらいのお食事でした。

でも来たからには、頑張って食べようと試みた親子でした。


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ランチ後は、
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IMG_2080IMG_2082このテラコッタのおじいちゃん人形をお土産に買いました。

今、家のTVがおいてあるガラスのテーブルの上にちょこんと立って、笑っています。

愛嬌のある可愛いおじいちゃんです。




小さなホテル建設現場を見学させてもらいました。壁の断熱はその厚さで生み出していましたが、屋根断熱は、かなりお粗末な工事でした。
気温が40度以上になるのに、断熱材を入れずに高い天井つくりをすることで、熱を遮断するという考え方でした。
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IMG_2104IMG_2105路地を歩いていて発見したスサを入れた昔ながらの土壁の塀。


この日は一日、日干しレンガの建築物を歩いてみて回りました。、アルク城・パラハウズモスク・イスマィール・サーマーニ廊などを、回りました。

その途中で結婚式に行く家族とご近状の方たちに出会いました。
動画でその様子を取りましたが、花嫁へのプレゼントを次々に抱えて行進していきましたが、ラッパと子供たちが叩くカスタネットの音が、ガンガン響いていました。

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お土産物屋さんが並ぶバザールへ連れて行ってもらい、息子のkaiは、有名なハサミと大皿を購入しました。
私は、冬はきっとかなり暖かいだろうと思えた毛皮の帽子を被ってみましたが、購入はやめました。
息子は、美人さんのお土産物の売り子さんと記念写真を。
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夕食はサンセットが見えるレストランへ。
IMG_2133IMG_2135足元に香取のスプレイをシュッシュとまき、落ち着かない夕食をいただきました。

でも夕日は綺麗でした。向こうに見えるのは光塔です。




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ワインをグラス1杯だけいただき、ホテルに帰りましたが、中庭は雰囲気があって、良い空間でした。


日本の家にも、こういう雰囲気のある広い中庭が作れたらいいなといつも思います。


この日も親子で爆睡でした。
翌日も、日干し煉瓦の建築物を見に行きました。
マゴキ・アタリ寺院・ウルグベク・カラーンモスク、リャビハウズなどなど、盛り沢山で覚えきれないほどでした。

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IMG_2181IMG_2197城の大きさにびっくり! 城の大きさを伝えたくて走り出した私の木陰で休んでいたおじさんたちが息子に、お母さんは何しているの?と聞いたそうです。






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この頃から、息子に異変が起きました。乾燥と暑さと食べ物で気分が悪くなり、顔色が真っ青に!

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それでもやめようと言わない息子はちょっと苦しいそうでしたが、見て回りました。
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メドレセ(神学校)は、現在も使われていますが、観光客が一部見学出来るように公開しています。
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身内の期待に応えて一生懸命勉強した子供や若者たちの姿が、この回廊を歩きながら見えたような気がしました。
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IMG_2240IMG_2241IMG_2251小さな路地を通った時に、伝統的なパン屋さんを見つけ、その作り方を見せていただき、思お土産に購入しました。



ホカッチャ?のようなパンです。

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ランチで、さっき買ったパンをいただきましたが、焼き立てなので美味しかったです。
それから、ホテルに帰り、高速列車:アフラシャブ号でタシケントまで帰り、空港へ向かいました。

IMG_8483IMG_8484乾いた空気と物凄い暑さと、羊の肉料理と、歴史的な建築物の数々と、(レギスタン広場、シャヒジンダ廊群、ビビ、ハニム、モスク、グリアミール廊、アルク城、バラハウズモスク、イスマィール、サーマーニ廊、マゴギ、アタリ寺院、ウルグベク、メドレセ、カラーンモスク、リャビハウズ等)見た数は、多くて、名前と建物が思い出せないけど、一年の一度の親子旅行が終わりました。

疲れ切ったKaiは体調を崩しての帰国、心配しながら帰国後に体調を崩した私、いつも元気なのにこんな旅の終わりは初めてでした。

でも、いつまで続けられるか分からないけど、今年の思い出つくりも終わりました。
ふっと乾いた空気や夜空に浮かんだ月の美しさを思い出します。

気が付けばもう12月、仕事と愛の素の活動に追われてあれよあれよという間に一年の終わりを迎えました。

さてさて、来年は、どこ行こう?
残せるものは思い出だけですから。

母のいろんな顔や話したことを忘れないでね。
今年もありがとうね、Kai君。



シルクロード、ウズベキスタンの旅2

スペイン製の高速列車、アフラシャブ号に乗り爆睡をしている間にサマルカンドに着きました。
この日は、朝からハードスケジュールでした。乾燥した空気と、物凄い暑さで、購入したミネラルウォーターは、すぐになくなり何度もなんども購入しました。

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初めに行ったのは、ティムール朝の君主だったウルグ・ペグによって1420年代に建設されたウルグ・ペク天文台です。

偉大な天文学者であり、学問を重視した偉大な君主だったようです。
最盛期は70人くらいの天文学者たちが働いていたそうです。
建築物は全長11mあり、建設当時は地震から守るために3層構造で、地中に設置されていたそうです。
半径40.4mあり、当時は最大で全高は21m、敷地は南北170m、東西に85m。太陽の高天頂と赤緯からの距離を用いて毎日の正午を正確に出していたそうです。
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IMG_17261449年に保守的なイスラム教信者によって破壊され、この天文台が発見されたのは1908年で、それまで地中に埋まっていたそうです。

この時代に太陽年の長さを365日5時間49分15秒に決定したそうですが、実際の誤差は25秒で、コペルニクスによる計算の+30秒より、誤差が小さかったとガイドのノルディさんは力強く力説してくれました。
日本との学問、生活、どれをとっても進んでいた時代が明らかに有ったことは、やはりすごいと思いました。

また、ウルグ・ペグは赤道の傾斜角も計算していて23.52度は、コペルニクスや他の天文学者より精確で、それは現在までも続いているとの説明に、息子と一緒に「う~~~ん、すごいね」とつぶやきました。

それからガイドさん手配の車に乗り、アフラシャブの丘にあるシャーヒズィンダ廊郡に行きました。
ティムールの関係者のお墓が連棟されていて、青のタイル・モザイク・テラコッタなどで外壁・内壁を飾られている建物は、美しかったです。

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IMG_1802ウズベキスタンでは日本人が愛されているとのことで、どこへ行ってもウェルカムで迎えられ、またじーっと見つめられました。

ノルディさんから、この墓群にまつわる話を聞きましたが、それは676年に預言者ムハンマドの従兄のアッパースがイスラム教の布教のためにサマルカンドに来ていて、翌年、礼拝中にゾロアスター教徒に襲われて首を切られたそうです。でもアッパースは何事もなかったように礼拝を終え、その後自分の首を拾い、井戸に潜っていき、彼はそこで永遠の命を得、イスラムが危機に合うと助けに現れると言われているそうです。
人々は、二度、このシャーヒズィンダ廊郡に礼拝に来るとメッカに行ったことと同じ
みなされるので、ここに来る人たちが絶えないそうです。
今も信仰心の厚い人たちがお参りに来ています。
ノルディさんに何段あるか数えて上がってくださいと言われ、長い長い階段を上がっていきましたが、帰りの段数と違う人は、良くないと言われ、ちょっとドキドキでした。

それから、また車で裏通りを抜け、路地を抜けて、とりあえずランチになりました。

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なかなか小洒落たレストラン・オアシスに連れて行ってもらいました。
トイレのタイルの写真は必須だと思いパシャリ!

IMG_1811IMG_1812羊の肉料理でしたが、写真撮り忘れました。
パンは一般的なパンで、どの家庭でも食べているパンで、またスープはカボチャのスープでした。







ランチ後は、また車で、レギスタン広場へGO~

ティラカリ・メドレセ モスクとして使われていたそうです。 今は結婚の写真撮影の場所になったり、観光客が訪れています。
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遠近法を用いてマルク見えるようになっているそうですが、丸にしか見えませんでした。金箔と青のコントラストは目を見張るほど綺麗でした。
やはり宗教的な建築物は、異次元の世界を見せるために、どのようは宗教も同じだなと感じながら見ました。

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この広場の中にはモスクで勉強する学生たちの寮がありました。現在も使われていますが、昔使われていた寮を公開しています。
ノリディさんが、日本と同じに炬燵が有ったんですよ!それにロフトも!と。

IMG_1854IMG_1855IMG_1862今は土産物屋さんも入っている建物があり、土産物をしっかり買っちゃいました。
と言うよりは買わされちゃいました。





いつもだったらこういうところでは買わないのに、何故か、息子と一緒にいると、ここで買わないと買う時がなくなるんじゃないかと心配になり、高額の土産物を買う羽目になりました。
画家が直接売っている絵画を数枚購入でした。

それから歩いて、ビビ・ハニムに行きました。
このモスクは、ティムールの妃がインドから凱旋帰国するティムールを驚かそうと思って建てたものですが、ティムールが帰国するまでに完成が間に合わない状況を抱えてしまった妃が、建築家の誘惑に負けて頬にキスすることを許してしまい、帰国したティムールに知られ、建築家は死刑、妃も突き落とされて殺された説と、一生黒いベールで顔を隠して生きた説など多々あるそうです。

IMG_1856IMG_1857IMG_1859美人の若いママと可愛い子どもに出会い思わず写真に納めました。

ドレスもきれいでした。





IMG_1876IMG_1879IMG_1880IMG_1883モスクの中庭には、説教台がありますが、巨大な大理石でできていてオスマン・クラーンという最古のコーランを置いたそうです。






それからシヤブ・バザールに行きました。

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現在の庶民生活を垣間見ることができました。
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レギスタン広場の一角にはシェルド・マドラサ、グリ・アミール廊などが点在しています。
それを回りながら、青のタイルも、廊もどれも同じように見えて「え?また同じような建物?」と飽きてきました。
そして行くところ、行くところには土産物を売る店が並び、売り手につかまると言う感じでした。

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IMG_1926IMG_1927IMG_1928IMG_1930ホテルに送ってもらい一休みしてから、ノルディさんの家へ夕食にご招待されて行きました。






彼の奥さん(右・となりは兄嫁)は、18歳の奥さんで、それは一般的だそうです。

IMG_1932IMG_1933IMG_1931外壁の工事がまだ終わっていないそうです。

兄家族、弟、親たちと同居で、家の後を継ぐのは一番下の弟だそうで、日本の逆だそうです。

お父さんは亡くなり、お母さんは今モスクワへ旅行中との事でした。



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IMG_1939IMG_1942奥さんたちが腕を振るってくれた料理が並びました。
この国は男尊女卑の習慣がまだ残っているそうです。

私は外国人だからお兄さんたちと対等に話しても大丈夫で、また日本人だから、特に良いとの事。
ビールやお酒を飲む女性はあまりいないそうです。



偶然に私が持って行った日本からのお土産の髪飾りがとっても喜ばれました。
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IMG_1946子どもたちも柿ピーを大喜びで食べていました。
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ちびっ子たちが、私に伝統の帽子を被ってみてと言って、はしゃぎ回るので、リクエストに応えて被りましたぁ~。
可愛い子どもたちでした。

車のドライバーさんが、夜のレギスタン広場が美しいからとホテルに帰る途中で寄ってくれました。
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満月とともにライトアップされた青いタイルとドーム屋根。

本当に美しかったです。





この夜は、勿論ヘトヘトで爆睡した親子でした。
お休みなさい、お月様。
つづく

シルクロード、ウズベキスタンの旅1

久々に出発前から、かなりワクワクしていました。

成田からの出発は遅れもなく出発しましたが、韓国経由の便は、結局仁川(インチョン)空港で6時間半待たされました。

image01CEB783-9580-4067-86DA-C5C49A59831B63F227C2-05E7-4562-95C0-F42B25C4ED67タシュケントからのフライトの到着が気流の乱れで2時間半遅れて出発しました。

ランチと言うか夕食をと言うか、機内食がアシアナ航空なので期待できないと言うことで、仁川で食べて待ちました。




174C58D9-EDA6-4B13-A109-9E4C029B8F6C62874FED-6A6B-4439-A4FE-530E6EE7BDE3D6A0521B-81D9-441A-A685-15003FBFF82Cそして、夜の11時くらいに空港に到着し、そのままホテルへ行き、翌朝の列車が朝早いのでモーニングコールを6時に頼み、湯船につかって疲れを取り、そそくさと急いで1時半くらいには眠りました。

今回の旅は、息子に予約等すべてをお任せしたので、彼はガイドさんを依頼していました。

ガイドさんは、空港へ迎えに来ていて、車でそのままホテルに行きモーニングコールもガイドのノディルさんがてきぱきとすべてを進めてくれました。

ところが、翌朝モーニングコールで起こされたのは5時で、私たちは5時とは知らずに大慌てでフロントに行き、ノディルさんを待ちましたが、どうもおかしいと気が付き、1時間も早く起こされたことに気が付き、ではではと、レストランで朝食をとることにしました。

時間がないので、朝食は取れないと言うことでしたが、ゆっくり朝食をとった私たちです。
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タシュケントのホテルは、60年代のデザインの外観でしたが、レストランもエントランスも大きくて、エントランスの横にあるラウンジの横には、ウズベキスタン特有のおじいさんの陶器の人形が笑顔で立っていました。

自分へのお土産に、この人形を買いました。 見ているだけで心がほっこり、笑顔になるおじいちゃん人形です。
6時過ぎに迎えに来たノディルさんから、「今日は5カ所回るハードスケジュールです」と告げられて、4時間半の睡眠時間とこの暑さで、体調を崩さないかとちょっと心配でした。

ホテルを出て、私たちは特急列車、日本で言う新幹線のような電車に乗るために電車の駅に向かいました。
タシュケントからサマルカンドへ向かいましたが電車で2時間半くらいで着きました。

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車掌さんは、とびっきりの美人さんでした。



列車内ではお茶とクッキーのサービスがありイチゴクリームのクッキーとほうじ茶のような味のお茶をいただきました。
2017-08-02-12-45-342017-08-02-12-47-532017-08-02-12-48-03列車の中には、バーがありました。









車窓からは、綿花畑や工場や、乾燥した山々が見えましたが、気が付くといつの間にか息子のkaiもノディルさん、そして私も爆睡していました。
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2017-08-02-13-55-312017-08-02-13-58-15サマルカンドでは、60年代(?)くらいの車が走っていました。
ソ連(ロシア)の支配下にあった当時の建物・車、そして習慣、言葉などもまだまだたくさん残っていると言うことでした。

26年前にロシアから独立したウズベキスタンは、人望の厚い大統領のお陰で民主化がされて、経済的にもガス・石炭、鉱物などの輸出で国は潤ってきたとのことです。

優秀な人材が、海外で勉強して帰国し、国の発展を助けるようにとの政策やそのための国からの補助は充実しているそうです。
学費は高校生まで、医療費は掛からないととの事。
だから老後の不安は、日本のようにないし、戦後の日本のような家族制度(家長は父親で、子どもたちは両親に従い、家族の関係は強いそうです)
ノディルさん曰く、ひと昔前の古き良き日本の風習が残っていて、とてもよく日本に似ていると。
また、彼は日本で3年半、日本語を勉強してガイドになったそうです。
東京に住み、コンビニや宅急便の会社でアルバイトをして、日本の丁寧な仕事の仕方や最新のシステムを勉強したそうです。

年齢は息子と近く、二人はすぐ友達になりました。

青の建築物に胸をワクワクさせる旅が、この後始まりました。

つづく






そっと命が消えていった

6月の父の日を前に、父への思いをここに書きました。
このブログは息子たちへ残す私の思いから始めましたが、私が亡くなった後に、「母はこんなことを感じたり考えて生きていたんだ」と伝えたいと思い書き綴ってきました。

そんな思いは、私の母が亡くなってから生まれた思いです。
母ともっといろいろ一緒の時間を過ごせばよかったと思いながら、生前の母の言葉が私の中で、しっかり生きていて、何かあるたびに思いだされ、問題を乗り越えようとしたり、自己分析に対峙したりしていますが、父からの言葉や生き様なども、知らず知らずのうちに息づいていることを感じています。

IMG_3319 この写真は2年前の物です。まだ元気だったころの父です。



8月1日からのウズベキスタンへの旅の前に、下の息子と一緒に入院している父のお見舞いに行きました。
入院、ナーシングホーム、そしてまた入院と93歳から続いていた父へのお見舞いは、月一回をなるだけしようと、休みの日にしてきましたが、旅の前にも息子と一緒に寄りました。

それは、きっとこれがもう息子がおじいちゃんに会う最後のチャンスになるだろうと感じたからです。
横たわったやせ細った父は、苦しそうな息使いをしていて、唇と上あごは乾燥から切れて血がにじんでいました。
思わず「苦しいの?」と父に尋ねると眉間にしわを寄せて苦しいそうな顔が返ってきました。
手をさすっても、なんだか痛そうに顔をゆがめました。

息子がぽつりと「おじいちゃん、苦しそうだね。辛そうだね」とつぶやきました。

私は思わず息子の戸惑った目をみて、ただうなずきました。
言葉が全く浮かばずに、黙ったまま、頭を撫でながら、心の中で「お父さん、お父さん、苦しいの? 私の声が聞こえる?」と呼びかけていました。
いくら待っても、父からの言葉はなく、苦しいそうな息使いだけが返ってきました。
⭐️父からのクリスマスプレゼントのアルバムです。初めのページには、私が赤ちゃんだった時の写真が貼ってあり、父の丁寧な文字で 「啓子2歳当時 自宅にて と、書かれています。私のアルバムですが、書き込みは私視線で書かれています。
おしゃぶりをしゃぶっている写真には、「わたくしの大好きなおしゃぶりをしゃぶって」などと書かれています。


この二年間、父のお見舞いをしながら、自分自身に父が亡くなることへの心の準備をしなさいと言い続けてきました。
父が、私が子供のころ、可愛がっていた犬や猫たちが死んでしまったときに「形あるものは壊れ、命あるものはいつか命は尽きるんだよ。」と言っていた言葉を思い出しながら、「お父さんの命も消えるんだよね」と自分自身に言い続けてきました。

母の突然の死を迎えた時に、お母さんが亡くなるなんて考えもせずに生きていた自分を見つめることになり、悲しみは深く苦しみました。そしてそれ以来、本当に命はふっと消えてしまうんだと実感しています。
消えて亡くなっても、時間は止まることはなく、仕事に追われ過ぎていく空虚感と、そしてどんなに輝かしい人でも、忘れ去られていくんだという無情さを知りました。町の中で車の運転をしている時に、母 に似ているお年寄りを見ると亡くなっているのに、そこにいるはずもないのに「あ!お母さん?」と慌ててしまい、何年経ってもいなくなってしまった母への悲しみが薄れる事がなくて、深くなって行く事を、引きずりながら生きています。
だから、父の死が近づいてきていることを、それを全く知らなかったら、きっと乗り越えられない悲しみに向き合うことになる自分を感じていました。

この二年の間、父を思うたびに、会うたびに言い聞かせてきた亡くなるという現実。
老いて小さくなって、厳しさも怖さも冗談を言う可愛らしさも強さも優しさも薄れて行き、弱々しくなって行く父でした。

2年前のある時、父が私と海のレストランに行った時、父が「音楽コンクールで銚子に行った時、おばあさん(母の事をその当時、そう呼んでいました)が作ってくれた大きなおにぎりを頬張っていたね。ふふふ、覚えているかい?」と可愛かったねと言わんばかりに言いました。
ちょっと恥ずかしくて「あれは銚子だったの?」と笑いながら返した私でした。


父は学校の行事は、全て出席して、学校教育に対しても熱心に取り組んでくれました。PTAの会長をして、私たちを守ってくれていました。
⭐️立っている女の子たちは、私の大の仲良しのお友達でした。私は左から二番目、黄色のセーラーカラーのブラウスの子です。父は、このお友達の家へ遊びに行く送迎をしていつもくれました。

そして、8月9日、ウズベキスタンから帰国後に私の帰国を待って父は息を引き取りました。
「待っててくれたんだね。もう、十分だね。苦しかったよね。」と言う言葉しか出てきませんでした。

3歳の時の七五三には、着物と薄ピンクのドレスを着せてくれました。なぜ着物とドレスを着たのか、記憶の中には残っていませんが、きっと、二通りの衣装で七五三を祝ってくれたんだろうと思います。
5歳の時も黒地に金糸、銀糸の蝶の帯と、華やかな緑や赤の着物を母が着付けてくれて、父と一緒にお参りに行き、千歳あめをいただきました。髪にも大きな髪飾りをつけていました。
7歳の時は、白のふわぁふわぁと広がった大きなリボンを腰の後ろで結んだドレスを着て、近くの神社へお参りに行った記憶があります。
その日は、薄曇りだったと覚えています。真っ白のソックスに黒のピッカピカに光った足の候にベルトのあるエナメルの靴がよみがえってきます。
ふわぁふわぁのドレスを手で押さえて靴を覗き込んだ、瞬間が写ります。
お姫様になったような気持ちでしたが、父はその日ちょっと不機嫌でした。7歳だった私は、その日の父の暗い顔の理由も分からず、父の後ろを歩いて神社に行った記憶がよみがえります。

毎年のクリスマスには、父のお友達やご近状の人たち、教会の牧師さん、そしてお坊さん、いろいろな人たちを招いて、パーティーを開いていました。もちろん、父からの言葉もありましたが、牧師さんやお坊さんたちからもお話がありました。
お食事は、ジンギスカンの鍋を2つセットし、クリスマスケーキは母が予約する2つ以外にお客様から頂くケーキで、5,6個になりました。
私がケーキがあまり好きじゃないのは、きっと子供のころ食べ過ぎて嫌いになったからだと思います。
その日は、母はお店の仕事をしながらお酒やビール、ジンギスカンの準備など、大変忙しく動いていました。
子どもたちは、長男を先頭にみんなでテーブルや椅子のセッティングをしました。
私たち、子どもが運転免許を取ってからは、母が電話で予約をして、ジンギスカンの肉とたれをちょっと離れたお肉屋さんまで私たちが取りに行きました。 それまでは、母の弟のおじさんが取りに行っていました。
パーティーが終わった翌日は、なんだかぽっかり気が抜けた時間を母も感じていましたし、私たちも片づけという大仕事を前にして、気が乗らない日を過ごした記憶があります。
そして、牧師さんの聖書からの抜粋した言葉と説明も、お坊さんの説法やお話も、全く記憶に残っていない毎年の恒例行事でした。
タダタダ、その日は朝から母の忙しさを見ながら、また兄や弟たちとお部屋の飾りつけをしたりしたことと、父の鍋奉行よろしく、「油の部分を鍋のトップにおいて鍋に全部鍋に塗りなさい」と指示が飛ぶ焼き方で焼いたジンギスカンの肉と特にリンゴとニンニクの入ったたれの美味しさだけが、思い出の中から蘇ってきます。 香ばしい匂いが鼻先に漂ってきます。

夏休みは海に連れて行ってくれました。九十九里浜、富津海岸などの海の家ではサザエのつぼ焼きやトコブシ、ナガラミと言った貝を食べるのが大好きでした。
毎年新しい水着を着て海と海の家でくつろいでいる父のところを行ったり来たりして夕方まで過ごし、海面を滑ってくるちょっと涼しく湿った風が疲れ切った体にしみこむ夕方には、ぼんやり気の抜けた頭と身体を海の家の床に投げだしながら、暮れていく海の向こうを見続けていました。
それから、車の中で爆睡して帰宅しました。車が止まったのを感じながらも疲れすぎている瞼を
開けられずにいると、父が母に布団を敷くように言っている声が遠くで聞こえ、それからしばらくして父が抱っこして車から降ろし、蚊帳のつってある和室に敷かれた布団まで運んでくれました。

私が息子たちに同じことしたときに、鮮明にこのシーンが思い出されました。私が息子たちにしていることを父も母もしてくれていたんだと思い出しました。
母が昼間干した布団は、奥の方で陽の匂いがして深い眠りに落ちて行きました。

小学生の高学年になったある日、自転車が乗れるようになっていたので、自転車で友達の家まで遊びに行き、5時に帰ると約束をした日がありました。
それまでは、父が車で友達の家へ送り迎えをしてくれていましたが、自立の道を歩き出した私はその日、自分の自転車をこぎ出し、遊びに行きました。
誰の家に行ったかは、思い出せませんが、日暮蝉が鳴いていました。保育園の角を曲がると父が店先を掃いているのが見えました。
「あ、お父さんだ!」
離れたところからも父が怒っている気が伝わってきました。
「ただいまぁ~」とちょっと小声で言うと父が持っていたほうきの枝で私の頭をゴツンと一度叩き、「何時だと思っているんだ!すぐ中に入りなさい!」と低い声で言いました。
私は「ハイ」と返事をし、自転車を中に入れ家の中に入りました。
それから父にお尻を三度叩かれました。初めてでした。
四つん這いにさせられ、お尻を叩かれ「約束の時間は守らないといけないんだ」と言われました。
父は叩くことがありませんでしたが、この時、叩かれながら私は恐怖で震えていました。
それ以後、子どもであろうと家に着くまでの時間が読めないという理由は通らないと言うことを思い知らされたので、約束を守りました。
父は優しくていろいろなことに挑戦させてくれましたが、反面、自由には責任が伴うと言うことを焼き付けた父でした。
決めた事は答えがでるまでやり通す事、約束は守る事、嘘はつくなと言われました。

⭐️母が30歳、父35歳呉服屋さんを切り盛りしていた可愛かった母です。

そんな父でしたが、私が小さい時には芸者遊びもしていて、2日目の夕方や3日目の朝に、私は家から1ブロック離れた歩いて2分弱の旅館に、父を迎えに行きました。前の家のお庭を「すみません、通らせてください」と声をかけて抜けていきました。  母からは「必ず大きな声で通らせてくださいと声をかけてから通らせてもらいなさいと、きつく言われていたので、私はその庭を通るたびに大きな声で言って通らせてもらっていました。
中からは「は~い、どうぞ」と言うおばさんの高い声が返ってきました。
その庭を通って大通りに出るとすぐ目の前に旅館がありました。
迎えに行ったというより母に迎えに行ってきてと頼まれて迎えに行くというのが流れで、母曰く「啓子が迎えに行ったら帰ってくるから」と言って私の役目でした。
大きな4枚のガラス戸が並ぶ真ん中のガラス戸を恐る恐る引いて開けてから「すみません、お父さんいますかぁ~?」と声をかけました。
なぜか、静かで声も何の返事も聞こえませんでした。気が付いてもらえずにだんだん大きな声を出す必要があることを感じて、大声で「す・い・ま・せ~~~ん、北原です!お父さんいますかぁ~」と声をかけると奥からハタハタと急ぎ足で入り口向かってくる気配がして、やっと中から芸者さんが出てきて、頭のてっぺんから抜けるような声で「あ~~~らけ~こちゃん、いらっしゃい!上がんなさいな」と言ってくれました。
私は「お父さんいますか?迎えに来ましたぁ」とすぐに言い、父が出てくるのを待ち、顔をだした父に「お父さん、帰ろう」と言いました。
父は「分かった、分かった」と言うような顔をしてから、私と一緒に帰りました。
小学生の低学年から高学年までの間に、何度もありました。
そのころの父は、私たちを愛しながらも、どこかちょっと自分の現実に背を向けて、瞬間の楽しさで満たそうとしていました。男の子が3人いて毎晩にぎやかで、忙しくお店と子育て、家事に動き回っている母が待っている家庭にちょっと背を向けて自分の時間が欲しかったんだと思いますが、まだ幼い私の心と頭は、それを理解できずに、そういう時の父が嫌いでした。
そしてちょっと酔いが残っている父に「どうして帰ってこないの?」と母の代わりに小言を言ったりして連れ帰ってきました。
父は、威厳を保ちながら無言でした。

何を思っていたの、お父さん?   私が迎えに行くたびに恥ずかしかったの?それとも自分の抱えている現実を受け入れようと思っていたの? それをいつか聞きたいと思っていたけど、聞かずにいたら、父は逝ってしまいました。

ハーレーを乗っていた父でした。オシャレなスカイラインも乗っていました。新車でも、躊躇うことなく私に運転を任せてくれました。

私が、まだ小学校入学前に、父は相撲巡業を呼び寄せ、お相撲さんたちが家で宴会を開き、泊って行きました。
奥の和室の襖の高さより背が高くて、二人のお相撲さんの腕にぶら下がったり、抱っこしてもらうとその高さに興奮していた私でした。
その晩はとってもにぎやかで、お相撲さんの歌も聞きました。お酒は出しても出しても足りずに、母も笑顔を振りまきながらくるくると刺身やお料理を出すのに追われていました。
あの晩がどんなふうに終わったのか、覚えていませんが、他のお相撲さんたちは、父が芸者遊びをしていた旅館に泊まりました。
そして、翌日は公園に作った土俵で巡業が開かれたと思います。人が好きだった父は、時々変わったことを巻き起こしていました。
お祭りを企画するのも好きでした。
親バカな父は、私を小町と呼んでいました。そして自分の目の届く範囲でお祭りに参加させてくれましたが、夜の盆踊りは行かせてはもらえず、昼間のお花見(毎年大きな祭りを開催していました)には、午前、午後に一度っきりならと行かせてくれました。⭐️弟と一緒にシャンシャンと鳴る杖をついて神輿の先を歩いたお祭りです。



私は、父がいる夜が大好きでした。眠る間に毎晩、創作話をして笑わせたり、怖がらせたりしてくれた父でした。最後は怖い話でちょびっと半べそになり眠りましたが、それでも暖かくてワクワクした時間でした。

生前、母がいないと何もできない父でしたが、母が亡くなってから深い悲しみの中、泣くのを始めて見せた父でした。そして身の回りのことをできるだけ自分でするようになりました。

小学生の時に、戦友が亡くなった時の話をしてくれました。海軍だった父は駆逐艦に乗っていて、アメリカ兵の攻撃を受け、海に投げ出され列を作り、他の戦友と泳いだそうです。褌を長く伸ばしてみんなで縦につながって泳いだそうです。それは海軍で学んだサメから身を守る術だったのに、一色と言う戦友がサメに襲われ亡くなったと話してくれたことが一度あります。、父も時々夢でうなされていたので、辛い出来事だったようで、この話は詳しく話してくれませんでした。きっと辛すぎて話せなかったんだろうと思います。 
そして、終戦を迎え、彼の奥さんを訪ねた話をしてくれました。持っていたお金をすべて差し出したという父の話に、人としてするべきこととはこういうことだと学びました。
また、父は戦争中はお国のためという美辞麗句に踊らされて戦ったけど、その後は今度は民主主義になると言い、教育が一変した時に、日本政府を鵜吞みにできない、ただ従うことは間違いだと知ったと、よく言っていました。あの戦争は間違いだったし、戦争から何も生まれない、唯憎しみの連鎖が生まれるだけだと事あるごとに言っていました。

私は高校生の時に、ソフトボール部入っていました。
夏の大会のある日、父は弟を連れてわざわざかなり遠い試合会場まで応援に来てくれました。
このブログに、以前その時のことを書いたのですが、それは、やっぱり気恥ずかしさと暖かな応援でした。

私の守備はサードで、いつものように守備につきました。
バッターが打った球がインフィールドフライのように上に上がり簡単なサードフライでした。でもその日は、父と弟がバックネットの裏側で私を見つめていて、バッター立った時も、緊張していい当たりを打てず、守備に出ても、なぜが落ち着ませんでした。他の部員が「いつもと違うよ、緊張してるよ!」と言っていて、私の緊張はマックスを迎えていました。
簡単だよと自分に言い聞かせたのに、なぜかその打ちあがった球をグラブの中に吸い込むことができずに硬い体と手は、落ちてくる球に向かってちょっと押し出してしまいました。
すると、その球はグラブからはじき出されてエラーになり、その球を拾い上げてファーストに投げようとした時は、もう打者はファーストベースを踏んでいました。

そんな恥ずかしいプレーをしたのに、帰宅した私に「けーこのスイングはすごく勢いがあったし、守備も素晴らしかったね」と晩酌しながら夕食を食べている私に言ってくれました。
「いやいやお父さん、贔屓(ひいき)に見過ぎですから」と心の中でつぶやいていました。
父は出会った人を褒める、まず人を信じる、子どもたちも、飼っていた犬や猫までほめる人でした。

志を曲げず、お金の話が嫌いでした。
40歳を過ぎた父は民主主義のために50年以上市民活動をしていました。ですから、色々な人が来て朝食、昼食、夕食、そしてお酒を共にし、よく語り合っていました。 子ども4人を抱え、母は嫌な顔せずにご馳走していました。でも、時々
お金が苦しいと呟く事があり、そんな時の父は母に向かって「お前は何を言っているんだ!この活動の意味を考えなさい!」と彼の理想を母に語っていました。

母は現実的に経済的に苦しいと言っているだけなのに、その現実を母に負わせて自分は理想に燃えて志を通して来ました。お金があろうがなかろうが、お金の話をされるのが大嫌いでした。
思春期の私は、そんな父の矛盾を理解できずにいました。強い父を尊敬もしていましたが、その矛盾に納得のいかない気持ちを長い間引きずっていました。
20代のはじめの頃、檀一雄の火宅の人と言う小説が単行本で出た時、父をしばらくうちの火宅の人と呼んで比喩していました。
ピント外れの父は、「啓子は私をライバル視しているんだろうね」と言っていました。私は笑うしかなくて、可笑しさとため息まじりに母に私の思いを説明した事を、その時の母の微笑む顔とともに思い出します。
母は大変だったと思います。1人でお店を切り盛りしながら、子育て、家事、そして、父の活動を裏で支えていましたから。
でも時々経済的に苦しい状況の愚痴を言いながらも、母も色々な人が来てお食事を差し出す事を楽しんでいました。

私に「誰々がお母ちゃん、お母ちゃんと言ってよく来るんだよ。」と。「みんなご飯を食べてないからね」と。
父の活動を理解して、そして精一杯共に歩んでいた母でした。

我儘で少年の心を持ち続けた父でした。
そしてそんな父を、愛し続けた母でした。

あっちもこっちもといい顔をしない父でした。侍のように責任を背負って生きた父でした。頑固で志を曲げない父でした。
40歳から市民活動に関わってから、その道一筋を通し、清らかに責任を負う事に美を求めた父でした。

父は舟木一夫の学園広場を酔うと歌いました。

「空に向かってあげた手に、若さがいっぱい飛んでいた。
学園広場で肩組み合って、友と歌った若い歌

涙流した友もある、愉快に騒いだ時もある、
学園広場に咲いている花の一つ一つが思い出さ

学園広場は青春広場  夢と希望がある広場」


この詩を噛み締めながら、父の心を思いました。
清らかに生きる事は、けじめを持って生きる事ですよね?
そこには本当の強さが必要ですね。責任を負うと言うことは、潔さが伴いますね。

父の葬儀を前に、1人父を思っています。
2017年8月17日







ノルウェー2

帰国して4日が過ぎて、仕事、生活もすっかり元に戻り、今、お風呂から上がって身体をベランダのチェアーに座って涼みながら、このブログを書き出しています。

隣の公園には犬の散歩をしている人たちが街灯に照らされて見えます。
フィヨルドで見た大きな空とは、 全く違った 小さな低い空。
座ったまま見れる限られた視野、左右に60度上下に180度。
ダウンコートを着て甲板に立っていた数日前。
今は蚊取りのスプレーを数回押して、空を見上げています。

たった一度の人生の、一瞬一瞬が風に飛ばされるように過ぎていきますね。
そんなことを思いながら
見上げた空や、感じた風を思い出しています。

ノルウェーは、眠らない国、白夜でした。

2017-06-22-17-37-362017-06-22-23-21-36真夜中12時ごろに少し暗くなりました。

この写真をクリックして拡大して見ていただいて空気の冷たさや、風の強さを感じていただけたら嬉しいです。

船は、壮大なフィヨルドを過ぎていきましたが、ずーっと見ているといつの間にか見慣れてしまいました。そんな贅沢すぎる時間を過ごしました。



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この瞬間が、何時なのか分からなくなり時間を見失い、迷子になったような気がしました。



接近してきた岩や反対側に広がる草原や小さな家。
そこに住みながら、どんな人生を送っているのかしら?
あの家の中で家族の歴史が過ぎて行っていると思うと、尋ねて行ってみたい気がしました。
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雪解け水が滝になって、大きな音を立てながら流れ落ちていました。

手ですくって飲んだから、きっと飛び上がるほど冷たくて、でもすっきり切れ味のいい水の味がするんじゃないか?と思いました。
2017-06-23-00-12-362017-06-22-22-43-53ランチの後に、この日は鮨パーティーがありました。

物おじしないま~ちゃんが、「誰か、サーモンを持ってみますか?」の問いかけに、元気よく手を上げて、大きなサーモンを抱えて屋上に集まったたくさんの人たちに見せていました。


さすが、ま~ちゃんです♪ 

2017-06-23-05-37-25そしてこの日は、館内放送で、ま~ちゃんの歌声が響き渡りました。

甲板で、一人で歌を歌っていたま~ちゃんに、船長さんが気が付き、館内放送で一曲クラッシックを歌わせてもらい、翌日には、

レストランの入り口付近にあるレセプションのマイクを通して、二曲を歌いあげました。

綺麗な透き通った彼女の歌が船の中を通って行きました。

彼女は、お食事の時などに、隣り合わせになった人たちやウェイトレスの人たちと、お喋りを2017-06-23-02-25-372017-06-23-02-26-28して、すぐ仲良しになり、それは彼女の特技です。


覚えだしたノルウェー語、留学していた時に覚えたドイツ語や英語を使って、いろいろな国の人たちと元気で楽しいお喋べりをしていました。

私も物おじはしないほうですが、彼女のガンガン攻める勢いには、いつも関心させられます。。そして母親の心境で見つめています。
若さといつもニコニコの笑顔の彼女のパワーは、人の心を開き、周りの人たちを笑顔にしていました。
それは彼女の良さで、チャームポイントだといつも思っています。

今回のクルーズの中で、一番楽しみにしていたのは、乗馬でした。
モンゴルの草原を走った時から、自由に乗れる乗馬が大好きになった私です。
と言うことで、乗馬をしました。

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約4時間のアクティビティでした。

2017-06-23-04-01-39牧場から海岸に出て、丘を登り、降りて、また海岸に出て、黄色の花が一面に咲いている草原を抜けてまた牧場に帰ってきました。

初心者が3人と私の4人での参加でしたので、馬を走らせたのは最後の草原から馬場の中を一周した時だけでした。
馬に乗りながら、バイキングが昔住んでいたという丘にはセカンドハウスが点在していて、そこを通りましたが、私は住んでいる人たちに思いっきり手を振って、ご挨拶をしました。住人の人たちも窓越しから手を振ってくれました。また庭でお茶をもんでいた人たちには、「素敵なお家ですね」と大声で、声をかけると、ありがとうと笑顔が返ってきました。

海に向かって開口部が大きくデザインされていて、夕日や一日の海の様子を眺めながら生活ができるその家々は、素敵でした。
私の馬も、他の馬もみんな大人しく、整列して歩くことを訓練されていました。

馬場まで帰ってきたとき、「速足にしますか?」と問いかけられて、「Yeah~~~~~!」と答えて、走り出した時、ま~ちゃんが後ろで何度も「落ちるぅ~~~~」と叫んでいました。^^付き添いの人が、手綱を引いて!と言っているのが聞こえました。

でも、本当にそんなには早く走っていなかったですし、落ちても砂だし、大丈夫だと思いました。
チョンチョンというくらいにお尻を少しリズムに合わせて上げての速足くらいでした。

モンゴルでは、中腰で、みんな「ヒーハー~~~」と叫びながら草原をものすごい勢いで走り、川をバシャバシャと渡り、、、、う~~~~ん本当に忘れられない思い出になりました。
あの時、頬や体を通り抜けていった風や馬が走り込み、大地を蹴上げる強さを体中に感じたその感触は、きっと死ぬまで鮮明に残っていると思います。本当に楽しかったです。

だから、今回の乗馬は、のんびりパッカポコパッカポコと乗っただけなので、乗馬の楽しさと言うよりは、景色の美しさだけを体中に吸い込みました。

牧場に帰ってきたら出迎えてくれた小さな馬が、私をじっと見ていました。
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次回があるとしたら、もっと思い切って走らせてみたいです。





お食事は、夕食はコース料理、朝、昼はバイキングでした。


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タラバガニがランチで出た時には、思いっきり食べちゃいました。

いろいろな種類のチーズ、トナカイの肉などもいただきましたが、
結局3K太って帰国しました。



ですから今、減量中です。。。

クルーズから帰った翌日は、朝から、これまた懐かしいムンク美術館に、まーちゃんのお父さんと行きました。
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フラッシュをしなければ、撮影OKと言うことでしたので、いろいろ撮ってしました。^^
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ムンクはフランスでモナに影響を受けています。


彼の代表作の叫びは、後半に描かれていますが、その前は印象派に影響を受けて絵を描いていました。
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ムンクがノルウェー人だと知っている人は、日本では、きっと少ないと思います。
小学生の高学年で、ムンクの叫びを勉強して以来、興味を持った画家ですが、20年前にもこの美術館に来ました。その時にも彼のスキルに驚かされ、子どものころから描いていた絵を見ました。

医者の家族の中で育ち、両親と兄弟、姉妹を病気で亡くし、絶望の中での彼の絵は、深い悲しみや絶望感が漂っています。

どの絵を見ても、感動するばかりでした。

そして、出発の前日の夜、ま~ちゃんが教えている書道の生徒さんの書道パフォーマンスがあると言うことで、それを見に行きました。

2017-06-24-01-29-14私もイギリスに住んでいた時、短歌を書道で描いて、個展をして売りましたが、海外で経済的自立をするのは難しいです。

ですから、ま~ちゃんがこれからどんなふうに自立していくのかを見守りたいです。

その大変さもよく分かっているので、遠くから見守るだけしかできませんが、きっと彼女は、そのバイタリティーでガンガン切り開いていくと思います。

そしてそれを願っています。
彼女の人生が輝いて欲しいと願っています。

頑張れ~~~~~、ま~~~ちゃん!

20年ぶりのノルウェー1

*写真はクリックして拡大して見てください。

今回のノルウェー行きは、カンボジアの孤児たちの教育支援を一緒にしている愛の素のメンバーのま〜ちゃんに会うのとフィヨルドクルーズ、そして20年ぶりのノルウェーの住宅の状況を見にいくことが目的でした。

   ま~ちゃんのお父さんと羽田で待ち合わせをし、 19日の夜中0:00頃に羽田を発ち、ドバイ経由で時差-8時間のオスロに到着したのは、天候が悪くオスロ上空で約40分旋回しながら待ち、13:30頃でした。
羽田から通常ですと10時間45分でドバイに到着しま宇sが、旋回時間があり、約12時間かかり、
ドバイからオスロまでは7時間です。

イギリスに住んでいるときに、オスロへ行った際には、飛行機が上がって、すぐ下がった記憶しかないので、日本からは、こんなに時間がかかるんだと、へとへとに疲れて実感しました。

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飛行機から見えたノルウェーは緑に覆われた国でした。 20年前は、二月に行ったので、雪に覆われていました。

2017-06-19-22-24-05 2017-06-19-22-25-38 到着後、ホテルにチェックインをして、すぐま~ちゃんとお父さんと食材を買い出しに行きました。





移民者が買い物に来る価格の安いマーケットは、他国民の人たちがたくさんいました。

2017-06-19-22-28-09 そして、見慣れない果物を発見! どうやら桃らしいのですが、、、食べたことがないので、甘いのかどうか、分かりません。多分ケーキに使う桃だと思います。

その日の夕食は、ま~ちゃんとボーイフレンドが住んでいる新しいアパートで、彼らが作ってくれたタコスをいただきました。
ま~ちゃんは、日本で教師の仕事をしているときより、はるかに、はるかに幸せそうでした。
ストレスの多い日本での仕事は、彼女には合いませんでした。
1年目から、上下関係やパワハラなどに苦しんでいました、泣きながら電話がかかってきて、その度に、全体が見えるまで3年は頑張ってね。クラスを持つまで頑張ってね。と言い続けた私でした。
彼女とはアフリカのウガンダで出会って以来の年の差無用の友達です。
ですから、もう8年以上のお付き合いですが、彼女の自由さと呑気さを考えると日本のストレス社会は合わないので、ノルウェーは、生きやすいのではないかと感じました。

30歳を前にして、何よりも愛を求めて旅立ち、恋を見つけて、そこに突き進んだのだから彼女は夢をかなえたんだと思います。  その行動力には脱帽です。そういう幸せの見つけ方があるんだとまざまざと見せてくれた彼女です。
彼とは漫画オタク同士でつながったようで、彼も日本語がペラペラで、正直で優しい彼で、安心しました。

2017-06-20-15-49-30 2017-06-20-15-11-20 2017-06-20-15-03-58 翌日は朝早く起きてまたオスロ空港まで電車で行き、それから国内線に乗り、キルケネスに向かいました。

料理が好きじゃないと言っていたま~ちゃんが作ってくれたあんこ入りのパンケーキ、お茶ケーキ、人参ケーキは、びっくりするくらい美味しかったです。

よく家に泊まりに来ていた時も、料理も掃除も好きじゃないと公言していたのですが、すっかり変わっていました。
やっぱり、恋をすると変わるのねぇ~と、ちょっとからかっちゃいましたが、言葉使いも「:::っすよ!」と言っていた言葉も消えて、女の子らしい言葉になっていました。  思わずふふふって微笑んじゃう事が度々でした。
2017-06-21-13-57-57 2017-06-20-21-35-31 2017-06-20-18-51-24 キルケネスから400km北には北極点があります。

現在もロシアからの買い物客が多いそうです。


ダウンコートを持っていきましたが、オスロ市内では18~20度前後でしたから必要じゃありませんでしたが、さすが、ノルウェーの北では、まだ雪が残っていました。寒かったですが、白夜なので、真夜中でも明るかったです。
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舟は強風の吹くフィヨルドを南下していきましたが、乗船した時は船が揺れて酔ってしまいそうでしたので、酔い止めを飲んでとりあえず眠りました。甲板の上を強風が吹きすぎていき、立っているのがやっとでした。

でも、気持ち良い寒さと風でした。
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2017-06-21-03-24-42 2017-06-21-23-21-11 2017-06-21-15-29-02 曇った空と冷たい風が吹きぬける海、船から見える陸地は色が抜けた、白黒の写真のようでした。








2017-06-21-22-58-15 2017-06-21-22-58-26 舟の上にはパノラマルームがあり、暖かな部屋からフィヨルドの景色を見ることができます。

下の階には、バー、レストラン、カフェラウンジなどありますが、このパノラマルームから景色やいろいろな色や形に変わっていく空を見上げてコーヒーを飲んだりしてのんびり過ごすのが一番良かったです。
ま~ちゃんのお父さんは、ビールやワインを飲んで、朝からまったりしていました。


2017-06-21-23-21-32 2017-06-21-17-54-44 2017-06-21-17-54-47 翌日はま~ちゃんとお父さんは、違う町に降りて違うコースを進みました。

私は、Hammerfestと言う町に降りました。
ここで2時間のハイキングコースに参加しました。

サミー人(エスキモー人やモンゴルの遊牧民と同じようにゲルで移動しながら生活している現地人)の家を見ることができましたし、一般的な家も見ることができました。

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港から見える丘に登るコースですが、ガイドのハリーナに、いろいろ質問をしました。
この町の中心には2000人の人が住んでいて、近隣には1000人が住んでいるそうです。

小さな町ですが、ガスをロシアやUSをメインに売っているので、裕福な街だそうです。

2017-06-21-18-14-29 2017-06-21-18-02-05 2017-06-21-18-02-09 今、移り住む人が多くて建築ラッシュで、家賃は1Roomで800$ですから98,000円くらいでしょうか?

かなり高いそうです。また建築が間に合わずに、移り住めない人たちがたくさんいてまっているそうです。



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町を見下ろす丘からの眺めは、下に広がる家々の屋根を見下ろし、通りを見下ろし、晴れた日にここに来たら、きっと好きになり移り住みたいと思っちゃうかもと思いました。

2017-06-21-18-02-47 2017-06-21-18-02-52 ヒットラーが攻撃してきた後に建築された教会、町は壊滅状態だったそうです。

ハリーナは、日本にいつか行きたいと言っていましたが、参加者のドイツ人の人たちにはドイツ語で、私には英語で説明してくれました。

留学のお金は、政府が出してくれるたので彼女はドイツに留学してドイツ語を勉強したと、確か言っていたと思います。
2017-06-21-18-23-54 ドイツ人の他の3人の参加者とハリーナに、日本の学校給食や家庭科で料理を習う事を話して、日本の食育について説明しました。
みんな日本の教育は、素晴らしいと言っていました。  私としては、ストレス社会と競争教育についても話せばよかったとその夜、会話を思い出して思っていました。






2017-06-21-19-19-48 2017-06-21-19-19-54 2017-06-21-19-25-53 丘の北側には、雪が残っていて
時々冷たい小雨が降る中で、雪に飛び込み泳ぎました。

雪に大喜びする私を見て、ハリーナもとっても喜んでいました。

2017-06-21-19-27-32 2017-06-21-19-28-31 2017-06-21-19-28-34 サミー人のゲルやエコハウスを見て、時間が無くなってしまって、駆け足で丘を下り、ハリーナにお礼を言い、船に乗り込みました。
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いつか彼女が日本に来て勉強できるがあったらいいなと思います。
一期一会、彼女お人生がこれからも輝いて欲しいと思いました。

2017-06-21-18-27-05 2017-06-21-18-27-25 Fammerfestに行くまでに8カ所の町に止まりましたが、時間が短く30分くらいでした。
その間に、急いで町の中を走り、家々の写真を撮りました。





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20年前と変わらないデザインの家々と街並み。

北欧から、ヨーロッパからアメリカに移民していった人たちがたくさんいますが、アメリカの家を見るたびに、「あ、これはスペイン系ね、北欧系ね、イギリス、オランダ」などなど思いますが、ルーツを見る思いです。

その夜、Tromsoで11時過ぎから教会でコンサートがあると言うことで、観に行きました。

2017-06-22-06-55-25 2017-06-22-06-57-45 2017-06-22-06-59-32 ノルウェーの田舎にある教会のデザインは、入り口付近の屋根が急こう配で、雪が流れ落ちるのを考えてのデザインだそうです。

ここでコンサートがありましたが美しい透き通った声が教会の中を透き通ったまま響いていました。

あまりの美しさに、感動して涙が流れてきました。

ここに動画でご紹介したかったのですが、ちょっと無理なのが残念です。

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続く。。。

父の日を前に

大正11年生まれの父は今年の3月5日で、95歳になりました。

お腹が痛いと言って入院した約2年前、ただの便秘だったにもかかわらず、夜ベットから出て自分でトイレに行こうとした父をベットに手足を縛り、睡眠薬を投与して夜中にトイレに起きないようにした病院の対応は、最悪でした。
その説明も、一人で勝手にトイレに行こうとして、看護婦さんが気が付き、ベッドに戻ってと言っても「自分でトイレに行けますから」と言って指示に従わないから、縛りました。薬も起きないようにたくさん投与しましたと言うものでした。
ケースワーカーをしている友達に今年になって尋ねたら「病院は人手が足りないから、勝手にトイレに行って滑って転んだりしたら病院への責任を問われるからそうするのよ」と言う説明でした。

私たち兄弟、家族は、看護婦さんの指示に従わずベットに立ち上がるという説明受け、足が悪いのに立ち上がる訳がない、何か変だ、でも何が何だか分からない状態でした。
父は人に迷惑をかけるのが好きではないので、できることは一人でなんでもしようと生きていました。
それまでの父は庭の掃除やごみの処分、木の枝の選定など、一人でしていました。
母が亡くなってからは、お湯飲み茶わんをかたずけたり、食器を洗ったりもしていました。
会話も普通に冗談を言い、難しい社会問題についても会話し、元気にくるくる動き回っていました。
木の枝を選定している際に梯子から足を滑らせ、入院したこともありましたが、その際も会話ができました。

でも、今回は入院してすぐに口が回らなくなり、意識がいつ行っても朦朧としていました。目は虚ろで、いつ行っても眠ってばかりいました。

どう考えても病院の言っていることは変だと感じ始め、足を痛めている父が一人でベットに立ち上がることはできない状態なのに、「ベットに立ち上がり危ないんです」と言う病院の説明を、日を重ねるごとに信頼ができなくなり、兄二人と弟に、「退院させよう、違う病院へ移そう」と言い続けました。

「自宅介護で、デイサービスに通ってもいいんじゃない?」「いや~親父は、そういうところへ行くのいやなんじゃないの」などなど、兄や弟と話してもなかなか良知が明かず、とりあえず、私がまず市に相談に行って、などなどいろいろ調べ、兄弟たちに提案しました。

IMG_8005そして、約2か月後やっとナーシングホームに移りました。
それから、月一で父のお見舞いに二番目の兄、くんちゃんとみち子さん夫婦と一緒に行き、車いすを施設からお借りして実家に外出をするということをしてきました。
二番目の兄家族は千葉に住んでいて、父のお見舞いは、いつも彼らを迎えに行ってからホームへ行きます。

私一人では、抱えきれない父を、兄嫁のみち子さんが、介護の仕事をしているので、要領よく車いすに座る介助をしてくれたり、車に乗り降りの介助をしてくれるので、とても助かります。

実家では、一番上の兄の奥さんの静子さんが、「おじいちゃんは水ようかんが好きだから」と言って、いつも用意して待っていてくれます。
父はそれを美味しそうに平らげて、犬のこうちゃんを抱き、撫で、それから移動で疲れるのか横になって眠ります。

3月の父の誕生日前に行った際に、来月は桜を見せてあげるねという約束をしていたので4月の初めの休みに施設を訪れましたが、その日は冷たい風が吹いていて、到底外には連れ出せませんでした。
兄夫婦とランチ後に爆睡している父の寝顔をみんなで見て、「今日は寒いし眠っているから、起こすの可哀そうだね」と言って、その日は帰ってきました。

ですから、今週の水曜日のお休みの日に、約1ヶ月半ぶりに行きました。
ナーシングホームに移ってから父は会話もできるようになり、よく外に散歩に行こうと言ったり、会話もできるようになりました。

24日に迎えに行った時は、スタッフの方々から、「最近は自分で食事をしなくなってしまいました」と聞かされ、やせ細った父に驚きました。

約2週間前に食欲が減退している父の脳に問題があるのかをチェックしてもらいました。
そして、問題はないとの回答を脳スキャンの画像を見せていただきながら受け、兄たちと安心しました。、脳の萎縮はなく、認知症ではないという状態もよく分かり、本当に良かったと思いました。
ただ、自分で食事をする、自分で立ちあがるなどの行動意欲がなくなってしまった原因が分かりません。
父の知り合いが父を訪ねるとしっかりと目を開き、毅然とした態度で向かい合っていますというホームのスタッフからのお話に安心しましたし、みち子さんへの感謝を話したり、お茶目に私を脅かしたりしました。

久しぶりだったので「私はだ~れか分かる?」と尋ねるとフルネームで「きたはらけいこ」とニヤリと答えました。

その後に、私を見て
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手をこんな風にお化けの真似を3度も脅かしました。
私は思わず「な~~~にぃ????それ」と尋ねましたが、その後は知らんぷりの父でした。

父は、私が小さかった時、夜になるとよくお話をしてくれましたが、、お話の最後はいつも怖いお話になり、私を脅かすというパターンが繰り返されました。

そのたびに最後は母に泣きつきながら「怖い話するぅ~お父さんが」と告げ口をすると、母が父に「夢でうなされるから」と窘めてくれました。

さて、そんな実家に父を連れ兄夫婦と一緒に帰った水曜日でしたが、いつものように兄弟と兄嫁たちを囲んで、大爆笑が起こりました。

笑い上戸の私たち兄弟、妹は、子供のような冗談で涙を流しながら笑います。

一番上の兄が左側の歯が奥から数本抜けていて、父と同じようになっていたので、私が大げさに「何言っているのか分からないぃ~ふぁふぁふぁって抜けてるぅ~」と笑いながら言うと
くんちゃんが「話にならない。歯なしだから話にならない」と親父ギャグを言って、笑い出し、涙を流しながら大笑いを一番上の兄と一緒に始めました。
兄が「ふぁふぁふぁ」と何を言っているか分からない言葉をわざと発して、「ここから音が漏れるんだよぉ~」と右手で左側の歯が抜けたほうを覆いながら、歌舞伎役者のように何度も同じしぐさをしてみんなを笑わせました。

二人で同じように同じ言葉を繰り返し大笑いし、涙を拭いていました。

私はあまりのバカバカしさに「ねぇ~なんで一番上の兄貴なのに、髪が黒くて、薄くならないの? ホント、気が楽にできているからだよねぇ~」と、言うと、
くんちゃんが「うちの家族はみんな若く見えるのは遺伝子のせいだよ」と、嬉しそうに言いました。そして「まぁ~うちはみんな楽天的だからじゃないのぉ~、そうだよ、」と。

母が時々私たちに「上を見たらきりがない、下を見たらきりがない。人生ケセラセラだよ」と言っていたねと兄が思い出し、話し出したので、
そうだね、そうだったねと。

そして私たち子供には「貧乏な人を笑うんじゃない、学力のレベルが低い人を笑うんじゃない」と言うことをよく言っていました。養女になって苦労した生い立ちから生まれた言葉でした。
そんなことで人の価値は決まらないという教えでした。

父は噓をつくことを徹底的に許しませんでした。清く生きるという教えでした。

そんな教えを私たちは時々思い出しながら人生を重ねています。


そして、静子さんが作った杏仁豆腐とお茶をいただきながら、私たちは思い出話をしました。
私が、今日迎えにいったらお父さんがこんな風にお化けの真似をして何度も私を驚かせたんだよぉと兄たちに言うと、
二人の兄が、それは「啓子に会えて照れていたんだよ。嬉しかったんだよ」と。

私は「えぇぇぇぇ、そうなのぉ~?意味が分からなかったわ、突然そんなことしたんだもの、ね。みち子さんも見てたでしょ~」とみち子さんを見ると笑いながらうなずいていて、

彼女と二人でうんうんとうなずきながら「何だったんだろうねぇ~?」「何が言いたかったのかしら?」と。

でも、兄たちが言うように「久しぶりに会ったので嬉しくて照れ隠しだよ」と言う言葉が、今はよく分かります。

そうだよね、1か月半ぶりだもんね、と。

内心、古い男性は、言葉で言わないで、そんなことで表現するの?と思いながら首都高速を走りながら帰ってきた私です。

兄たちとの会話は、子供のころ父は私に「女の子でも何でもできるんだよ」と育てたのに、母が亡くなるまでは、家事一切手伝ったことのなかったよねぇ~。
私はよく父に「お父さん、自分のお茶くらい自分で入れなさ~い」とか言われていたけど、そのたびにニヤッっと笑ってごまかしていたよねぇ~とか、
母が養女に出された先の兄弟、姉妹をここで(実家)で受け入れ、花嫁修業や人との付き合い方などを学ばせてから、みんな結婚し、独立していったねと話をしました。

そして母の生家の姉妹も受け入れていたこと、私たち子供が4人もいたのに、大変だったけど、受け入れて独立できるまで家にいたよね、みんな。と昔を思い出して、そんな会話をして帰宅しました。

自分の兄弟、姉妹を大切にしたけど、母のたくさんの兄弟、姉妹たちも受け入れていたよねと。

やせ細った父の身体をみち子さんが、お姫様抱っこして実家に買っておいてある車いすに座らせてくれるその姿に、胸が熱くなりました。
みち子さんが、父の足を触って「わ、こんなに痩せっちゃって。。。。」とつぶやいた言葉が、私の心の中で、ぐるぐる回っていました。
そしてみち子さんが風で乱れた父の髪をそっと撫でて直してくれるその優しさに、胸が熱くなりました。
本当の娘のように、父に接してくれる兄嫁たちに感謝の気持ちでいっぱいです。

私は、兄が酔って起こしたいたずらを思い出し、「あれは、何したかったのぉ?」と大笑い。
くんちゃんも「兄貴が***して持ってきたあの***は、ずっと庭の横に置いてあったよね」と大笑い。

でも、酔っていろいろないたずらをした兄を一括した父は厳しい父でした。
父も母も口癖は「まっすぐに生きなさい」でした。

母が私たちが若い時によく「うちの子供たちが誰一人として道を外さなかったことは、奇跡だね」と言っていましたが、それほど、父は強くて厳しい人でした。基本を曲げない人でした。でもお茶目でもありました。

大人になってから、家では威厳のある父が実は友達同士の間では、酔って腹踊りをしたことがあるという話を聞いた時ほど、驚かされたことはなかったと、私が話すと、兄が「あれでなかなか面白かったんだよ」と。

眠る前にしてくれた指人形のお話も、詩的で独創的でした。
でも、反抗期の私は口もききませんでした。父の矛盾が受け入れられずに。

そんな時、母は私に「人は白と黒に分けられないこともあるんだから」と、窘めてくれました。
そして、私を溺愛をした父が、私に「けいこは***小町で可愛いから、誘拐されちゃうからお祭りは行っちゃいけない、***に行っちゃいけない」と言っていました。 
それを聞きながら母は、父と私に「どれだけ親バカなの」と言い、私に自分を客観的に見ること、父から見たら私は可愛いけど、一般的にはそうでもないんだという事実を伝えてくれました。
その反面、父は中身を磨きなさいともよく言っていました。
そのお陰で、そういう意識を私たち兄弟にしっかりと植えつけました。

今思うと、父は私が、「友達の**ちゃんと**ちゃんと***ちゃんと一緒にピクニックに行くから迎えに来てね」と頼むと、夕方車で迎えに来てくれて、友達をみんな家まで送ってくれました。
友達のうちに遊びに行きたいと言うと、車で連れて行ってくれました。
私を大切に思ってくれていたんだと、よく分かります。

思い出話は涙をながしながらの大笑いと腹痛に終わりましたが、
いつも集まると、言いたいことを言いあって、喧嘩したり笑いあったり、相変わらずしています。

きっと、どの家族も一緒だと思いますが、特別にうちの家族は楽天的だというくんちゃんや兄、そして弟との会話は、いつも大笑いで終わりますが、それはみ~~~んな、父と母のお陰です。

母が私を生前、「あら、極楽とんぼさん」と呼んでいましたが、極楽とんぼに育ててくれてありがとうと心から思います。

そしてみんな涙もろいお年頃になりました。
笑い上戸の上に、涙もろくなったので、母の話をしながら兄弟で泣き笑いをするときがあります。

どんな状況の中にも、毅然と生きようとする父の姿に、清く生きる姿勢を見せてくれてありがとうございます。あなたの生きざまは立派ですと言いたいと思います。

来月は、いつ会いに行けるかな?
またお茶目にお化けの真似をして、私を笑わせてくれますか?
お父さん。






















カンボジアの孤児たちのフォスターペアレントに

IMG_7448私は、毎年、1,2回カンボジアのシムリアップにある身寄りのない子どもたちを保護し育て、学校に通わせている養護施設(CPCSO=カンボジアの貧しい子どもたちを支援する会)へ訪問し、音楽(リコーダー、ピアニカ、日本の歌)絵画、料理、文化(書道)、運動などを支援者方々と一緒に、そして時に一人で教えに行っています。

立ち上げたボランティ活動組織、設立後7年目を迎えました。

そして、学費をもう数年間送り続けています。米代も送っていますが、支援金不足で送れない時もありますが、ボランティア活動のメンバーも増え、メンバーや支援者の方々の協力を得て、愛の素は昨年、”特定非営利活動法人 愛の素・AIOMOTO”の登録をしました。

これまでの活動の様子は、動画を含めて公開しているfacebook( https://www.facebook.com/ainomotoainomoto/)
や、ホームページとして作成している アメブロ
( https://ameblo.jp/ainomotoainomoto/entry-12270340387.html?frm_src=thumb_module )
( https://ameblo.jp/ainomotoainomoto/entry-12271514526.html?frm_src=thumb_module )
にてご覧になっていただけます。

現在、6人の子供たちの学費援助をしていますが、フォスターペアレントの募集を始め、やっと6人の子供たちの教育費の目途が立ちました。 ペアレントになっていただいた方々には、本当に感謝しかありません。


院内には約40名の子供と近隣の村には子供たち140人が、まだ支援を待っています。

親に捨てられた子、親が亡くなってしまって一人で生きていかなくてならなかった子、保護された子供たちの生きていた状況を知ると、言葉がありません。

IMG_7684愛の素の活動の様子を時間のある時にぜひ、覗いてみていただけますか?

壮絶な環境で生きている子供たちに会うと、日本で目的もなく楽に生きようとしている人や、自立もせず親や異性に寄生しながら生きている人をみると、生きてることに心から感謝しているこの子達の本当の純粋さに、心が打たれます。必死で生きている子供たちの健気さに、涙があふれることがあります。 


ですから、自分の人生を切り開こうと頑張っているこの子達をちょっとでも手助けできたらと思っています。

私がちょっと疲れた表情をしたりしていると「け~こさん、はい」と言って椅子を差し出してくれる子供たちの暖かさや優しさは本物で、その心の美しさに触れると自分の心も美しくなります。

子どもたちに出会えたことに、本当に本当に心から感謝です。

望まないのに逆境の中で生きざるを得なかった子どもたちは、初めはいろいろな問題を抱えて保護される子もいます。
怠けたり、嘘をついたり、盗癖があったり、いじめたり、でも、他の子と一緒に生活しながら、学校に行き、未来を見つめるチャンスを得て、いろいろ考え、感謝が生まれ優しい子どもに変わっていきます。

愛の素は子供たちを直接支援をしている小さなNPOです。

ですから、力不足で時々自己嫌悪に陥ります。
でも、やり続けることに意味があると言い聞かせながら、今日まで来ました。

IMG_7818この子どもたちの未来が、開けて、自立できるお手伝いをぜひご一緒にしませんか?

フォスターペアレント、大、大、大募集です♪♪♪

また現地滞在(施設に泊まって)ボランティ活動にご興味ある方も、大々的に募集しています。






IMG_7815昨夜は上の息子が母の日のプレゼントのカーネションを持ってきてくれました。
水道の栓がついたちょっと変わったお花を彼が選んだとのことでしたが、ピンクと赤のお花が混ざっていて可愛いです。

水曜日のお休みに、私はいろいろなお料理を作り置きしていますが、下味をつけておいたアサリのパスタとシソとにらの餃子で迎えました。 私は仕事が終わってからなので、「簡単なものしか作れないからね」と言っていましたが、
「これ、美味しい♪」と食べていました。
パスタは初め薄味だと言っていましたが、塩分の取り過ぎはダメよと、食事と運動と睡眠は、しっかりとってねと、母の顔で言った私です。

可愛いお花をありがとう。

施設の中で生活しているの子供たちの中には、全く身寄りのない子供もたくさんいます。
息子たちのように、こんな風に帰る場所のない子、お母さんの手料理を食べることのできない子、私に経済力があったら、たくさんの子供たちを学校に行かせてあげたい、一緒に食事をし、未来について語り合いたいと思います。

今年の訪問は、多分暮れになると思いますが、ぜひご一緒しませんか?

素敵な思い出と、貴重は経験が待っています。








野点のお茶会に

22日の土曜日は、現在建築中のケンジントン・ハウスのオーナーT様の庭で一品持ち寄りでランチをいただいた後に、野点のお茶会が開催されました。


IMG_1061IMG_1063先日の世田谷でのウォーキングに出会った日本のIT会社で仕事をしている日本語がペラペラのベトナム人のトゥアン君、中国のウイグルから日本語の勉強に来ているサワティ君、そしてインドネシア大使館でご主人が働いているメイラさん、(ちなみに彼女は以前インドネシアのTVのニュースキャスターだったそうです。娘さんは早稲田に通っています。)そしてアメリカ人のジェニファーを誘ってお茶会に参加させていただきました。

T様のお茶の生徒さんはアメリカ人のジェニファー、ナオミ、そしてその家族の皆さん、それから日本人の数人の女性の生徒さんたちとそのご家族、ご近所のご家族、たくさんの人数でした。
IMG_1065IMG_1066IMG_1067IMG_1068メイラとサワティ、トゥアンです。

オレンジの着物を着ているヤングレディは、6年前にT様からご紹介されてからお付き合いしているIさんの娘さんです。彼女の隣に着物着ている女性がIさんです。


IMG_1069IMG_1071IMG_1072T様ご夫妻です。      私の友達のジェニファーです。

彼女は、やはり日本文化に興味があって、T様にいろいろ質問していました。

ランチの前に、T様の提案で参加者は皆さん自己紹介をしました。

穏やかで、そして楽しい自己紹介の時間でした。

また、お茶をいただいた後に、Tさまが印刷物を用意してくださっていたので、お茶碗に書かれた小野小町についてなども、印刷物を渡しながら説明してくれました。

私は、私の友達たちにお茶の歴史や背景について、ぜひ説明してくださいとT様にお願いしましたが、とても丁寧に、そして流暢な英語で説明していただいて、友達はみんな喜んでいました。
もっともT様の準備が万全だったことが、一番でした。

そして25,6名の参加者が変わり番にお茶をいただきました。

練り物とお干菓子で2服いただきました。

私は朝から16穀米に黒ゴマ、昆布を入れて炊き込んだご飯を稲荷寿司にし、ツナとリンゴとアボガドのサラダを作り、それから6年振りに着物を着ました。
野点で略式のお茶会だと言うことでしたので、小地谷紬にちりめんの帯の着物を着ました。
昔は5分で着ることができた着物を帯だけに15分もかかってやっとの思いで結びました。
やっぱり着慣れていないと、こういう時に四苦八苦するんだと、しみじみ思いました。

これから、時々は着物でお出かけもいいかなぁ~なんて思いましたが、大股歩きの私が歩くと、絹のシュ、シュと擦れる音が大きな音で漏れるので、うううううん、やっぱり忙しい生活だし、やめようとすぐに思い直しました。

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IMG_1098IMG_1099IMG_1100ジェニファーがお点前を披露しました。








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IMG_1121IMG_1126IMG_1131ジェニファーのお点前も完璧でした。
ナーバスで、手が震えたと言っていた彼女ですが。素晴らしかったです。







IMG_11333時少し前に終わりましたが、経験できないお茶会参加にメイラとトゥアン、サワティはとっても喜んでいました。
彼らから楽しかったの言葉をいただき、私も幸せでした。

それから彼らを駅まで送り、その後私は会社に戻って仕事をしました。

皆さんの写真を撮ることや、ちょっとのアシストをさせていただいた日でしたが、自然豊かな日本の庭で、こんな風にお茶をいただけて、楽しい時間をいただきました。







誕生日のお祝いと北鎌倉、東慶寺、円覚寺

4月初めの定休日に、友達の誕生日をお祝いするために、久々に夕食のお料理を頑張りました。
彼女とは約17年のお付き合いになりますが、いい時も悪い時ものお付き合いです。
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thumbnail_IMG_7452夜は、春巻き、なます、エリンギのホタテ風焼き、煮物、もやしの胡麻和え、メインは鳥肉のパリパリ揚げ卵とじを作りました。

翌朝は、アボガドと鮭とリンゴのマヨ乗せトーストと、フルーツの盛り合わせとバナナと小松菜の豆乳スムージー、トマトときゅうりのサラダを作りました。

この日は、彼女のリクエストに応えて大山登山をしました。


花粉症の二人ですが、まだ寒いから花粉がないねぇ~なんて会話をしながら登りました。
私は昨年の11月か12月の初めにニコールと初めて登っているのですが、雪が残っていて今回は頂上までは登れませんでした。

おまけに私は車に携帯を忘れてきてしまったので友達が撮ってくれた写真をUPします。

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thumbnail_IMG_7459thumbnail_IMG_7465thumbnail_IMG_7463この日は暖かくて、でも雪の匂いのする風が吹いていて、「心がリフレッシュするね」と二人で何度も言っていました。

汗をかいた体にちょっと冷たい雪の風が本当に気持ち良かったです。
でも、4月に雪が残っているなんて知らなくて、運動靴で登った私たちです。



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山から下りてきて遅めのランチは、有名は山菜カレーをいただきました。

美味しかったです。でもご飯の盛り付けが山になっていて、笑っちゃいました。

この後は、また別の茶屋に入り、彼女はアイスクリームとお団子を食べ、私はニコールと来た時も食べたモツの煮込みを食べました。
車の運転が待っているので、飲めないねぇ~と、つぶやきながら。


21日は、オリジナルデザインのドアやサンドブラストなどの制作を依頼しているスティーブの娘さん、藍ちゃんが東慶寺のギャラリーで個展を開いていると言うことで、見に行きました。

IMG_0979彼女の作品です。








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北鎌倉の駅は、19歳の時に降り立った駅で、それ以来来ていませんでした。その時は、雪が降っていて私は白のフード付きの細身のロングコートを着ていました。
その時の寒さだけが思い出され、駅をいろいろ見ましたが、記憶の彼方に行ってしまっていて、こんなに明るい駅だったかしら?とちょっと戸惑いました。

ギャラリーでたくさんの絵を見てから、東慶寺を散策しました。
こんなときじゃないと見れないだろうと思いましたので、ゆっくり見て回りました。
東慶寺は昔離婚できな女性たちが逃げてきた駆け込み寺です。
逃げ込んでやっと心安らかに生きる人生を見つけられた女性たちの思いが深く沈んでいるのかな?と思いながら見ましたが、桜が終わり萌えだした緑に包まれた境内は、柔らかな生命力に溢れていました。

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藁ぶき屋根の中門は、時を重ねた美しさがありました。

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IMG_0999IMG_1001庭の美しさも日本独特の苔の美しさも、心が洗われるようでした。








IMG_1002IMG_1003IMG_1005それからランチを近くのレストランでいただきましたが、ちょっと贅沢にワインとチーズの盛り合わせもいただきました。

自分にご褒美ねと心の中で呟きましたが、「どんだけご褒美上げるんかい!」と言う突っ込みも聞こえてきました。



IMG_1009IMG_1010鴨の燻製の地場の野菜つけ麺は美味しかったです。




ワイン・各チーズ、レーズンの産地の説明がありましたが、覚えられませんでした。でもチーズとレーズンとワイン、そして鴨の燻製はとびっきり美味しかったです。

駅までの道に、円覚寺があったので、まだ時間的に余裕があったので、「よし!ここも見よう!」と強く心に決めて、見ました。
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建築も庭園もすべて美しかったです。「もう、これはちゃんと時間を割いて見に来ないといけないな」と思いながら見て回りました。
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近くに?に住んでいながらこれらの美術品を見に来ていなかったことに、改めて「何やっているんだろう、今まで!見に来るべきだよね!」と自分を叱りたい気持ちになりました。

IMG_1041IMG_1042IMG_1043翔子さんの書もありました。IMG_1044









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言葉もなく、ただただ命があふれだした緑の木々を見つめていました。

それから帰社して、3時半くらいには通常の仕事に戻りました。
こんな時間は、やっぱり必要だねとしみじみ感じた半日でした。













交際交流 in 世田谷

先日、三軒茶屋駅から豪徳寺、そして松陰神社まで歩く国際交流のウォーキングアクティビティーに参加しました。
thumbnail_IMG_7339 裏道や商店街を歩いたので、参加者の方々と楽しくお喋りしながら、いろいろな国の方々と交流を持ちながら歩くことができました。

途中で見つけた枝垂れ桜です。
日当たりの良い遊歩道の脇に、こんなに開花していました。
海外からの参加者の人たちも、桜にはかなり興奮して「美しい~」と連発していました。



歩くこと約1時間で豪徳寺に着きました。

thumbnail_IMG_7340 thumbnail_IMG_7342 日本企業で働いている3人のベトナムの若者たちです。

IT関係の仕事をしていて、日本の生活は楽しいと言っていました。
トゥアン(私の横の男の子)は日本語が完璧!ペラペラでした、女の子たちは、日本語勉強中で、英語での会話もできないので、片言の日本語でお喋りしました。

私がベトナムに行くんだったらどこがいいの?と聞いたので、
ベトナムに行くんだったらダナンがいい、でもパクチーを食べれないとベトナムでの
食事は、ちょっと困るかも?と。
でも、私はホーチミンに2001年か2002年に行っているので、食べ物は大丈夫よぉと。
トゥアンによるとベトナム人も新婚旅行に行きたい場所はダナンで、ビーチが綺麗ということでした。
今年の息子との旅行の行き先を、まだ決めかねているので、ダナンを調べてみようと思いました。
みんな20代前半の若者でいい子たちでした。

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この日、私は豪徳寺が招き猫の発祥の地と言われているのを初めて知りました。

thumbnail_IMG_7349 thumbnail_IMG_7350 thumbnail_IMG_7356 ウキペディアに書かれていますが、この日のコーディナーターの方の説明も同じでした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%AA%E5%BE%B3%E5%AF%BA

招き猫発祥の地とする説がある。井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所としたという[2] [3]

豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)」と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置く。招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫である。
以上ウキペディアから。

奉納されている招き猫の多さにびっくりしました!
thumbnail_IMG_7351 thumbnail_IMG_7353 thumbnail_IMG_7354 台湾人のチュァユーが撮ってくれた写真です。
彼女も日本企業で働いていて、今日本語猛勉強中だそうです。

私も台湾人の友達二人がいて、彼女たちとの思い出や出来事を話しました。

日本企業で働き、お金を貯めてフォトジャーナリストの夢に向かって世界一周旅行に旅立ち、北欧から回ったイスラエルの山道で、足を滑らせ、突然天に上がってしまったゆーちんとの思い出を私は話しました。
その思い出は、私の心に深く、深く生き続けていて、彼女が旅先から送ってくれた私が行きたかった場所の写真や、美術館で観た私に似ている像の写真をはがきにして、啓子を思い出して元気をもらったよと書かれていて、その葉書が彼女が亡くなってから1か月くらい後に届いて、泣き崩れたしまったこと、今も深い悲しみだと話しました。  でも、彼女は自分の夢に向かって進んでいたとも話ました。

ゆーちんは有名な大手日本企業に働きながら、仕事の中での差別に苦しんでいました。その苦しみを話したくて私の家に何度も泊まりに来ましたが、チュァユーは、そんな問題ないのかな?と思い、彼女に日本で働くのは楽しい?と聞いたところ、「はい、楽しいです。日本語も勉強中ですから」と。
「良かったわ」そんな会話を交わしました。

そして、今建築中のKensington Houseのデザイン・建築を依頼していただいたTさんが今月開催するお茶会に興味があったら来ない?と誘いました。
すると「はい!行きたいです!」と、即答でした。

スェーデン人のジェニーは日本人の男性と結婚していて英語教師をプライベートの学校で教えているそうですが、彼女も日本語が話せました。
豪徳寺の中には三重塔があり、招き猫の彫刻が真正面についていました。

thumbnail_IMG_7359 thumbnail_IMG_7360 thumbnail_IMG_7363 小さな白い彫り物が招き猫です。

私は、中国人の友達が来るたびに持ってきてくれたいろいろな小さな招き猫の置物があり、現在5個あるので、その友達として小さな、小さな招き猫を記念に買いました。

それから、参加者役50人くらいは通訳の方に促されて井伊直孝のお墓の見学をしました。
thumbnail_IMG_7365 このお墓の珍しいデザインは、屋根がついていることです。
初めて見た墓石でした。





そこから歩いて区の自治センターまで行き、ランチタイムでしたが、私はイギリス在住の際に時々作っていた鮭と玉ねぎ、リンゴ、レタスのマヨのサンドイッチにアボガドも入れたビックサンドを作って持っていきましたので、数人とシェアしました。
Tさんは、巻き寿司を作って持ってきてくださったので、サンドイッチとシェアしました。
それから、松陰神社まで、また歩きました。


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豪徳寺、そして松陰神社と寺と神社の両方を訪問し、その違いをバイリンガルに説明を受けました。
外国人の参加者はみんな、興味深く聞き入っていました。 私は、ちょうどその時、建築を見て回っていましたので、聞き逃してしまいました。

thumbnail_IMG_7371 一番奥にあるこの鏡のことについても説明があったと思いますが、スピーカーから流れてくる説明を離れたところまで、聞こえてきましたが、建築の目が行ってしまい、今思いだそうとしても細かな説明は全く思いだせません。

でも、鏡はそこにありのままの自分を映し出すもの、自分を見つめるものとしてあるという説明をされていたようでした。

ネットで調べたら、こんな文章を見つけました。

 神社に鏡があることは、外なる神さまを拝んでいるようにみえて、実は鏡に映った内なる
 自分自神を拝んでいるということに気づけば、自ずと拝み方も分かってきます。

 要するに、発した祈りが、そのまま自分に返ってくるということですから・・・

   無理ある祈りには、無理なる人生が・・・
   笑顔で祈ると、笑顔の人生が・・・
   不満の祈りには、不満の人生が・・・
   感謝の祈りには、感謝の人生が・・・

 と、いって、本音ではない祈りをしても、自分の神さまを通じて、神社の神さまにも情報が
 漏れており、すべてお見通しなので嘘は通用しません。


と書かれていました。
うむうむと読んでちょっと納得。そんな風に考えて自分と対峙する習慣を持つことはいい事ねと。

thumbnail_IMG_7373 thumbnail_IMG_7375 thumbnail_IMG_7374 神社内には、吉田松陰のお墓もありました。

豪徳寺と松陰神社は、因果関係が深いですが、外国人の方々はそのお話を興味深く聞いていました。

吉田松陰が開いた松下村塾の模造建築物がありました。

下記ウキペディアより
松陰神社について

東京都世田谷区若林に所在する。旧 社格 府社。付近には 国士舘大学 (世田谷キャンパス)や世田谷区役所がある。 東急世田谷線 松陰神社前駅下車。

鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。松陰が 安政の大獄 で刑死した4年後の1863年文久3年)、 高杉晋作 など松陰の門人によって小塚原回向院 にあった松陰の墓が当地に改葬された。1882年明治15年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は 1927年 から1928年にかけて造営されたものである。

松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文木戸孝正 山縣有朋桂太郎乃木希典 井上馨青木周蔵などの名前が刻まれている。 松下村塾 を模造した建物、頼三樹三郎広沢真臣 らの墓もある。松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、明治元年(慶応4年)、木戸孝允がこれを修復整備した。墓域には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。また、敷地に隣接する形で 桂太郎 の墓もあるが、案内が不十分なこともあり、参拝者は少ない。桂自身の遺言により、この地に埋葬された。

ともに松陰神社がある縁から、1996年に世田谷区と萩市は友好都市提携を行っている[1]。1992年より世田谷と萩では商店街などの民間交流がはじまった [1] 。若林では「萩・世田谷幕末維新祭り」が開催されている[1]

なお、徳富蘆花の「謀反論」でも書かれているが、谷を挟んだ向こう側には 豪徳寺 がある。豪徳寺は吉田を刑死させた安政の大獄を起こした 井伊直弼 菩提寺である。


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藁ぶき屋根の下地が見える模型がありました。

数年前に松山に行った際に、文化財に指定された藁ぶき屋根の家を見学に行き、藁の葺き屋根の葺き替えに2千万かかるから個人ではできないと言うお話をオーナーに伺いました。
そんな話を思い出しながら、数人の日本人の方とお話しました。

まず藁が手に入らない、職人さんがいない、と言う理由が高値の原因ですが、囲炉裏でいぶされて虫も来なくなり、梁も炭化されて空気の清浄効果(?)もあると言われていて、断熱効果が高いのは、通気がとれて空気の層ができるからだと、説明させていただきました。 イギリスやアイルランドにもある藁ぶき屋根の家は、やはり高価で、今も価値が高いけど、職人さんは、日本よりいると思います。
伝統と良いものが残り受け継いでいく文化は、やっぱり素晴らしいと思います。
外壁と床下の断熱をしっかりしたら、素晴らしく住みやすい家になると思っている私です。
いつか、私も藁ぶき屋根の断熱効果の高い家をリノベーションでも新築でもしてみたいと、憧れています。

thumbnail_IMG_7378 さて、この日出会ったインドネシアの大使館にご主人が勤務していてマイラさんと早稲田大学に通っている娘さんのインドネシア人親子もお茶会に参加したいということで、誘って良かったと思っています。
彼女たちとは、三軒茶屋の駅で朝、出会ってすぐにお友達になりました。

また、ウィグル地区から来ている青年も、ぜひぜひ参加したいとのことで、楽しみにしているとラインで言ってきました。

彼とはウィグルの社会情勢について話しましたが、英語は殆ど分からないので、もっか猛勉強中の日本語で会話しました。でも、公安(中国の警察)の取り締まりが厳しくてネットもできない状況だということを聞いて、18年前に中国の広州工業大学で教えていた時と変わらないんだと実感しました。でも私は学生たちとの心温まる思い出があります。だから学生たちはみんな一生懸命勉強し、素敵な思い出があるのと話しました。
ただTVの検閲も思い出し、またクラスで社会問題についてディスカッションができなかったので、その話もしました。  やはりまだ国家権力・公安の力は、恐怖なんだと思いました。

その他には、タイ人の女性と話しました。また数人の日本人の方々と話しました。
楽しい興味深いお喋りとしました。
インドネシアやタイにも何度か行っているので、そんな話で、弾みました。

Tさんから「北原さんは今日一日で全員の外国人と友達になるんじゃない?」と言われましたが、日本語を勉強している人たち、そしてたくさんの国の人たちの文化や人間性に興味がある私としては、話すために参加したので、機会があればどんどん話そうと思っていました。
そして、友達になった人たちは、ニコっと笑顔で向かってくる人たちばかりなので話さない訳にはいきませんねと。

私はどんな人でも心をまず開いて向かい合います。だから、イギリスに住んでいるときも「ケイコは出会う人達とすぐ仲良くなれるね。僕には話してくれないけどケイコにはよく話していたね」と良く言われました。

そんな時、こちらが心を開いて向かい合っているからだよねと答えました。

でも当然、相手が開かない場合は、それ以上は人間関係は深くなりません。そして、時々、まっすぐに生きていることの強さや正直さが、取り繕ってその場で適当なことを言う人や嘘をつく人たちには、怖いと感じられるかも知れないと思う時があります。
その生き方の大切さや大変さ、厳しさの両方を背負って生きていくことが私の生き方だと思うし、上っ面の優しさも優しさの一つだけど厳しい中にこそ、本当の優しさがあると思っているので、自分が正直に向かい合って厳しい状況に対峙しなければならないことも多々ありますが、逃げずに頑張って向かいあってきました。

また、私の行動が日本人ぽくないことで誤解を生むことが日本に帰ってきてからは、多々ありました。
イギリスに住んでいるときに結論を先に言うことが大切で、その理由を後から説明することと、よく注意されました。
私が先に説明から入ると何がポイントだか、分からないよと言われました。
ですから、まず結論があって、その後に説明。その習慣が身についているので、そういう展開で話をすることは、日本人にとってはストレートすぎると言われます。


そんな話を帰宅する電車の中で、Tさんと話しました。
こんな会話も正直に向かい合っているからすることだろうなと思いました。

お茶会を楽しみにしている出会った人たちと、またお茶会で会うのを楽しみにしている私です。










パリの家=La Logement de Paris

このブログに、仕事のことを書くのは久しぶりになります。Facebook に現場報告を上げるようになってから、このブログには仕事の件は控えてきましたが、今年の1月26日に、お引き渡しをして完成披露パーティーにご招待をいただき、とても楽しい時間をいただき、工事期間中の思い出とともに、記録し残しておこうと思いました。

*すべての写真はクリックすると拡大します。

DSCN3569昨年の5月頃だったと思います。
バリアフリー、ホームエレベーター設置等のリフォームでお話をいただき、リフォームをしても高低差の問題がすっきり解決しない旨をお伝えするとわずか2週間くらいでお住まいの近くに約75坪の土地をご購入したと連絡をいただき、約1か月で地鎮祭・地盤調査、そして1か月を迎えた7月30日には、上棟を迎えましたが、その間に、照明器具・外構工事のデザインをし見積もりもまとめ、建築費と付帯工事を含めた予算を組み、全職人さんたちとの工事工程会議を開き、輸入材に発注をし基礎工事に入り、検査を受け、迎えた上棟でした。

2N7A00592N7A0395プランは初めのプランで気に入っていただきましたので、すぐに実施設計に入ることができましたが、仕様内容の打ち合わせをお客様のY様とし、その後、各業者さんたちとの打ち合わせを重ね、見積の手配をし、上がってきた見た見積書の内容を確認し、数社と相見積書を取り、中途半端な妥協をせずに、ご予算内にまとめました。

もの凄い忙しさでした。 

2N7A05702N7A0580そして現場に足を運びながら、各職人さんたちと打ち合わせをし、確認し、工事の手配し、走り続けた6か月でした。

55坪のパリの家には床暖房、サーキュラー階段、珪藻土、輸入のベランダ手摺や門扉、エコキュートなどの設備があり、そしてご要望にあった天井の高さを取るための天井デザインを作っていくために、埋め込みエアコンや2階のキッチンの給排水の配管など、現場で大工さんや電気、水道屋さんとの打ち合わせを重ねました。
そして、それらすべてがすっきり予定通りにまとまり、完成を迎え、次には外構工事のシャッターボックスを収めるゲートのデザインやご要望に合わせて庭のお手入れが楽なデザイン、3台収容可能な駐車スペースの現場打ち合わせは、Y様のご要望に合わせ、そしてご確認していただきながら完成を迎えました。

2N7A05842N7A0590Y様ご夫妻のご要望のテイストは、お会いしている中で、これだろうというものが伝わってきて、ご提案させていただいたものがお気にめして下さったのは、とっても嬉しかったです。
いつもたわいない会話の中に、お客様のご要望が詰まっていて、私に伝わってきますので、そういう時間はとても大切です。

プロのキャメラマンに撮影を依頼していますが、その写真をここにすべて公開します。

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玄関の床は大理石・他の壁天井は珪藻土です。
トイレ、洗面・浴室はブルーがお好きなので、ブルーを差し色にカラーデザインをしました。
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ダイニングの椅子の差し色は床に合わせてブラウンとオレンジです。

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2階のLDKの照明器具はスワロスキーです。陽が差し込むとキラキラとした光を拡散させてくれます。

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照明をつけた夜も落ち着いた暖かさを感じる素敵な空間です。
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2N7A04142N7A0474各個室には、十分なクローゼットを設けました。






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吹き抜けには、イギリス人アーティストに制作依頼したシュウメイ菊のモチーフのサンドブラストの窓をつけました。
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思いっきり楽しみながら作り上げた現場です。







そして完成後にホームパーティにご招待をいただきました。

CIMG1888CIMG1908Y様ご夫妻です。可愛い奥様とカリスマ性のあるY様は、ご家族と過ごしていらっしゃるときは、とっても楽しい遊び心をお持ちでした。
忘年会のDVDを見せていただき、ぴこ太郎の衣装を着てPPAPを踊るY様や、ご家族皆さんが、面白い事や楽しいことがお好きなんだと実感しました。



奥様の妹さんがフラダンスを踊り、いらした方々の心を癒し、妹さんの娘さんがバイオリンを弾いて素敵な演奏を披露してくれました。

CIMG1891CIMG1892CIMG1893新築祝20170212行きつけのお寿司屋さんの出張出前があり、美味しいお通しやお煮つけ、お寿司を皆さんでワイワイ楽しくおしゃべりしながら、冗談を言い合って、いただきました。



CIMG1898CIMG1903CIMG1902バイオリンを披露してくれた小さな可愛いアーティスさんとパパです。

愛があふれたご家族の様子を見ていて、私たちも心を温めました。





IMG_7052IMG_7054IMG_7055浴室からは坪庭をご覧になっていただけますが、木の成長をもうちょっと待っていただけたらと思います。

表のシンボルツリーは花水木です。

ご家族の皆様が、パリの家に集まり、素敵な思い出を重ねていってくれたら、嬉しいです。
シンボリツリーや坪庭の木のように、まだ小さくて思い出のページは開いたばかりですが、これから立派なシンボルツリーに育ってくれると思います。
また、坪庭のもみじも枝を垂らして色を変えて四季を重ねていってくれると思います。


まあさの家のケーキ、そして息子と

IMG_7288昨日の午後、久しぶりに約3年前にデザインと建築を賜った「まあさの家」に行きました。
ランチをいただいているお客様がいらして、ゆっくりお話はできませんでしたが、久々にいただいたホームメイドのチョコレートケーキとラムレーズンのバニラアイスクリームは、絶品でした。

地元酪農家さんから届く濃厚な牛乳(さらっとしているのに濃い甘さを感じます)と、割るとこんもりと盛り上がるこだわりの卵で作るアイスクリームやケーキは、他では食べられない味です。

https://tabelog.com/rvwr/006558173/rvwdtl/B255236766/

現地農家さんから野菜を購入してつくるお料理は、地元に根付いていて、新鮮な野菜をたっぷり食べられます。今はワカサギのから揚げや、鹿やイノシシの御料理などもあるそうです。(イノシシや鹿の料理はまだ食べていませんが、予約を入れて食べに行きたいです)

ぜひ、相模湖、三ヶ木、青山方面に行かれた時は、お立ち寄りください。オーナー兼シェフの飯田さんもイギリス・リバプール在住経験があり、会うと思い出話をしたりします。

夜は、研修で帰ってきた息子とフレンチディナー。
帰宅途中の古淵駅近くにあるフレンチレストランですが、予約を入れて初めて行きましたが、音楽はキャロル・キングがかかっていて、落ち着いていました。
家族連れや女子会、何かのサークルのメンバーのグループで賑わっていました。

IMG_7294Kai君がお料理をオーダーする前に、お店の人に「ワインは何があります?」と聞いてくれましたが、私が「白のシャルドネでいいわ」とオーダーし、お料理も「今日のお勧めは?」と、すべてKai君にお任せでした。

4時くらいに「まあさの家」でいただいたチョコレートケーキとアイスクリームでまだお腹が空いていなくて、少しずついただきました。

IMG_7289IMG_7290お通しは、フレンチ風茶碗蒸し:ダシが聞いていてとびっこのプチプチとぴったりでした。

今日のお勧めのマグロのカルパッチョ。
トマトの酸っぱさと合っていました。




IMG_7291IMG_7292IMG_7295テリーヌには、クルミが入っていてコリコリとした触感がとっても良かったです。

サーモンの包み焼は、私が作ったものと変わらずでしたが、食材のサーモン、それ自体が美味しかったです。
最後にフレンチなのにアラビアータをオーダーしましたが、二人とも東て食べられませんでした。

日本酒をお代わりしましたが、私が本田真凛ちゃんのフィギュアスケートをTVで観たくて、kai君が「ゆっくりでいいよ」と言ってくれましたが、そそくさと車に乗り込み、彼女のスケートを観ながら帰宅しました。

結果発表を家の駐車場で車を止めて二人で観て、悔しそうだね、どうしてもロシアの子には勝てないね~などと話してから入室。

Kaiが、「頑張っている子は、応援したくなるね」と。
「そうだよね~、一人で戦っていて、相当頑張らなくちゃいけない世界だし」
「まだ15歳だしね」

IMG_7293母もそうやって戦ってきたのを知っているKai君ですが、今年の親子海外旅行は、ベトナムにしようか?と話し合っています。

私はホーチミンには行っていますが、ハノイには行っていないので、行きたいなぁと思っています。


今日もある取得講習会に参加の彼ですが、夜8時まであるそうで、明日も参加して、火曜日から仕事に戻ります。

身体には気を付けて、身体を鍛えて、心と身体を健康に保って、人生を作って行ってほしいと願っています。





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