2019年08月17日

唐津街道赤間宿跡:辻田橋、赤間祇園祭御旅所〜辻田橋付近1(宗像市)

 ※前回「唐津街道赤間宿跡 匝豸(宗像市)」から続く。

 (1) 辻田橋

辻田橋、城山を望む ・前回記した「赤間搆口🚥」から県道503号(町川原赤間線)を南に240 m下ったところに、釣川中流域に架かる「辻田橋」ある。



 ※現「辻田橋」は、昭和42年<1967>架橋、長さ43m×幅6m。

 ・「赤間搆口🚥」は、江戸時代の唐津街道「赤間宿西搆口」(南構口とは言わない)があったところだから、ここから少し南に下ったところにある「辻田橋」は、当時の赤間宿(赤馬宿とも書く)から見れば、「赤間宿の枠外」である。

 ・しかるに、現在、赤間宿散策者向けの各種案内図には、この橋を載せているものが多い。なかには橋の図は描かれているけど、橋名が載っていないものもある。
 また、この橋際にある「釣川一番定石」や「道標」(右岸上流側/赤間3丁目)、「唐津街道赤馬宿碑」(左岸下流側/赤間1丁目)などを載せているものもある。

 ・このように「赤間宿西搆口」の外側にある「辻田橋」を載せている案内図が多いということは、事実上、ここが「唐津街道赤間宿の南側の出入口」だったことを知らしめているようにも思える。よって、本稿「赤間宿跡」のなかに「辻田橋」の項を設けた。

 ・因みに「辻田橋」から唐津街道を南下すると、宮田峠越え→宮田橋→原神社→原町宿→大穂町→畦町宿→青柳宿…に到る。
 なお、現県道503号線は、旧唐津街道と重なる部分もあるが、その途中にある集落地は、重なっていないところが多い。
 (※ただ、赤間宿跡は大部分が重なっている)。

 ※別記参照
 →「宮田の由来と唐津街道宮田峠及び赤間辻田橋(宗像市)
 →「唐津街道の宮田橋(宗像市宮田)
 →「原神社~原町宿へ(宗像市原町)
 →「原町宿のお大師様・釋迦堂は再建されるのか(宗像市)
 →「畦町宿跡の古民家(福津市畦町)


 (2) 赤間祇園祭・御神輿の御旅所

 ・赤間宿跡で、枠外の「辻田橋」が注目される理由の一つに、赤間宿の産神「赤間須賀神社(「赤間祇園宮」/もとは七社宮境内神社)」の祭礼で担がれる御神輿の「御旅所」が「辻田橋」の近くの土手(赤間2丁目1−6)に設けられることがある。

 即ち、毎年7月14・15日直近の土日の夕刻に行われる「赤間祇園祭の御神幸」で、その第1日目の御下りで担がれた御神輿は、赤間宿跡の東裏側を練った後、赤間搆口🚥から「辻田橋」に到り、この橋の近く(右岸下流側)の土手に設けられた「御旅所」で夜を明かし、ここが第2日目の御戻りの出発点となる。

 ・ところで平成以降、この御神幸を拝礼しておらず、また現在の状況も調べていないが、以前の記憶では、当時、その第1日目に、御神輿は「辻田橋」を渡り、右手の丘(赤間1丁目)を上り、高台で休憩した後、丘を下り再度「辻田橋」を渡り御旅所に行っていた。

 ・かつて、この高台からは、城山の下方に位置する祇園山〜赤馬山(七社宮)の杜、赤間宿跡、釣川流域の田畑等々の風景が一目の元に見渡せたので、辻田橋とこの丘は御神輿に上座した祇園神(素戔嗚命)が渡り訪れる神域であり、周りを見渡せる高台が、本来の「御旅所」だったのではないかと思ったりもしていた。
 しかし、現在、この丘陵には、ぎっしりと住宅が立ち並び、この光景は遮断された。

 ・なお、この赤間祇園の祭礼は400年の伝統があると聞くので、ということは、その往時から、この丘と「辻田橋」は、赤間宿の枠内とみなされていたような気もする。

 ・こう考えると、赤間宿跡の枠外「辻田橋」の橋際(赤間1丁目12-3/釣川桜づつみ公園の一部)に建てられた「唐津街道赤馬宿碑」(謹書瀧口凡夫・贈:西暦2000年堤芳実 みどり)も違和感がなくなってくる。

 ・なお、丘陵の南部には、「宗像市立赤間小学校」(赤間1丁目4-1)、「田久瓜ヶ坂古墳1号墳」(桜美台4=旧:田久1)と、同1号墳を除き消滅した「田久瓜ヶ坂遺跡」(桜美台一体)、「節婦お政(阿政)の墓」(赤間1丁目1-1)等がある。

 ※別記→「田久瓜ヶ坂遺跡とガラス玉(宗像市田久)
 ※別記→「節婦お政(阿政)の墓(宗像市赤間1丁目)

 ・次回、辻田橋の側に在る「釣川定石一番碑」「道標碑」、及び「虚空蔵菩薩堂」ほかの宗像四国東部霊場等についても書き留めておくことにする。

※次回(予定)→作成中未稿。 

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2019年08月10日

唐津街道赤間宿跡 匝豸(宗像市)

 ・先に掲載した「畦町宿東構口(福津市畦町)」のなかに「畦町宿東構口は、上方(かみがた)方面、即ち約7km先にある赤間宿(西構口)の方向を向いているので、その名が付いたことが分かる」と記した。

 (1) 赤間宿(西構口)

1赤間宿西構口跡 ・その「赤間宿(西構口)」の跡は、現在の唐津街道と通称される福岡県道503号(町川原赤間線)が、同県道75号(若宮玄海線)と交わる地点にあったと思われる。
(※画像)


 ・現在、この交差点には「赤間搆口🚥」があり、北側の角にある民家の赤レンガ塀が当地のシンボル的存在にもなっている。
 そして、「搆口跡案内碑」(石柱)が、その対面の東側の角に建っている。

 ・「構口跡案内碑」に貼り付けてある陶板には、「構口は、宿場の両入口に置かれていた。南北600mの赤間宿には、180~200軒の家が建っていたが、その入口の石垣に土塀を築き、瓦屋根を葺いた門構えの搆口があった。」との説明文が記されている。

 ・この「搆口」の表示については、この構口跡案内碑のほか、「唐津街道赤間宿往時の想像絵図」(五郷西遷之碑前)に「搆口之跡」、「ふらり唐津街道筑前赤間宿」イラストmap(田中時彦さんの図)に「構口」と記されているが、いずれにも「赤間宿西構口」の文字はない。
 また、一般に配布されている「赤間宿まち歩きMAP」ほかのチラシ・案内図等にも「赤間宿(西構口)」の文字はなく、この交差点部分に上記🚥名の「赤間搆口」の文字を載せているのみである。

 ・当地は、かつて「赤間宿西搆口」があった所なので、「宿」の文字のない「赤間搆口」の🚥名には違和感もあるが、思い直すと、「赤間宿」とは過去のことで、現在、この通りには「赤間宿」という宿場はないので、とどのつまり「宿」の文字を除いて「赤間搆口」という🚥名になったのだろう。

 ・しかるに、この交差点付近に「赤間宿西構口」があったことは間違いなく、江戸時代の唐津街道「赤間宿」は、この西搆口から北(北東寄り)に約600m、ほぼ一直線に伸びた本通り道(現県道503号・75号重複)の両側に存在していた。


 (2) 赤間宿(東構口)

 ・上記「構口跡案内碑」には「構口は、宿場の両入口に置かれていた」と記されているが、不思議なことに北側の入口にあったはずの「赤間宿東構口」については、上記の「唐津街道赤間宿往時の想像絵図」「ふらり唐津街道筑前赤間宿」「赤間宿まち歩きMAP」等々には載っていない(単に「構口」との記載もない)。

2赤馬驛の圖(筑前名所図会) ・手持ちの筑前名所図会(昭和60年文献出版刊)で江戸時代後期の「赤馬驛の圖」(※画像)を見ていると、下(南)から上方(北方)に伸びた赤馬驛(←赤間宿駅のこと〜※下記(注)参照)の本通りが祇園宮(現須賀神社)入口の左方に突き当たって、ここから道が二股に分岐しており、多分、この突当りの場所に「赤間宿東構口」があったのではないかと想像される。





3赤間東構口辻井戸 ・その場所の前(右折点)には、現在「須賀神社の一の鳥居」が建っており、この鳥居をくぐるとすぐ左側(須賀神社入口)に、かつて旅人や馬が喉を潤した東構口の「辻井戸」が残っている。



 ・また、上記突当り部分の角には、現在「従是右木屋瀬・従是左芦屋」と刻した御影石の道標(再建か)が建っている。
  ここで分岐する道を右に進むと木屋瀬に到る。この道は、(現須賀神社入口の先から右に坂を下った後、左折し、ほぼ現県道29号線に沿って)遠賀郡木屋瀬宿に向かった唐津街道赤間〜木屋瀬ルート(長崎街道に通じる中筋往還)である。
  ここから左(現在はほぼ直進)に上る道を進むと芦屋に到る。この道は、(現JR教育大駅前を右折し、ほぼ国道3号線に沿って) 遠賀郡芦屋宿に向かって北進する唐津街道赤間〜芦屋ルート(芦屋往還)である。

 ・この道標は、当地に上記唐津街道両ルートの赤間口があったことを示しており、ここを「赤間宿東構口」とする表示はないが、ここに「赤間宿東構口」があったことを暗示させている。

 ・なお、現在、法然寺の南側(五郷西遷之碑前)と対面の法然寺駐車場の間を県道(75・29号線)が通り、この県道が赤間宿跡の本通りを横切っているので、ここにある交差点「赤間上町🚥」より南側のみが、赤間宿跡であったような印象(錯覚)を受けてしまうが、この県道がここを通る以前は、ここにも赤間宿跡の家並みがあった。

 (注) [筑前名所図会]〜「赤馬驛 今赤間と言誤なり 昔神武天皇、日向より東征し、袖の湊にかへり給ふとき、一神ありて赤馬に乗 此里民に下知せり、土人是によって赤馬と名つく 赤馬の十村とは、吉冨、竹丸、藤原、石丸、名残、溱原、多久、三郎丸、楞厳寺、赤馬町なり、無かはハ此十村なへて赤馬と稱す、宿驛となりしは長政公入国の後なり」。(※筑前名所図会の著者奥村玉蘭は江戸時代後期の博多の文化人で、同書は文政4年<1821>に完成していたが発刊されなかったと聞く。)

 ※次回「唐津街道赤間宿跡:辻田橋、赤間祇園祭御旅所〜辻田橋付近1(宗像市)」。

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2019年07月31日

高良内古墳<大谷古墳群1号墳>(高良山麓巡り54)

※前回「高良内八幡神社(高良山麓巡り53)」から続く。

 ・高良内古墳(大谷古墳群1号墳)の所在地
  福岡県久留米市高良内町876-1(旧字は大谷)。
  高良内八幡神社(八幡宮)境内

1大谷1号墳天井石 ・高良内八幡神社拝殿前の石敷き参道の左方に、こんもりと盛り上がった小丘があり、その前に「史蹟高良内古墳」碑が建っているので、この小丘が同古墳の墳丘(盛土・封土)だと分かる。(※画像)


 ・史蹟碑の横に立っている古墳の説明板(久留米市教育委員会)には「大谷古墳群(1号墳)」とあり、「高良内古墳」は通称名と記されているが、石碑には「史蹟高良内古墳」とあるので、地元では、この通称名が定着しているのかもしれない。
 (※本稿では、以下「1号墳」と書く)。

 ・1号墳の墳丘上に一個の巨石(縦横各約1m余)が乗っているが、これは、この古墳(横穴式石室)の「玄室の天井石」らしい。
 この巨石は、平成11〜12年度に行われた発掘調査の前から露出していたというので、長い年月の経過のなかで、巨石を覆っていた封土が流れ落ちていったのだろう。
 このことから、造営当時(原形)の墳丘の高さは、今よりもっと高かったことが伺える。

 ・また、封土の流出により、墳形やその大きさ(幅の長さなど)も分からなくなっているが、上記発掘調査により「直径18mの円墳」で、かつ、その周りに「周溝」が掘られていたことも分かったというので、現状よりも遥かに大きく立派な古墳であったことが分かる。

 ・なお、「大谷古墳群」の名称は、かつて当大谷地区に数多く存在し消滅した古墳を含む総称で、1号墳は、このうち現在残っている3基の古墳の一つだが、これらの古墳は、すべて古墳時代後期(6世紀後半頃/約1400年前)頃に造られたと推定されている。

 ・だが、それらのすべてが6世紀後半の築造だとすれば、継体天皇21年(527)に筑紫君磐井が蜂起し高良山麓が主戦場となった磐井の乱より後の時代ということになるので、俄には納得しがたい。

 ・つまり、大谷地区には、次の事象から推察しても、それ以前から人々が生活していたことは確かで、6世紀後半に突然古墳群が発生したとは考えにくいからだ。

   大谷遺跡の発掘により、大谷地区には、既に縄文時代から人々が生活していたという痕跡が見られること。

1-2高良内八幡1号墳の杜   八幡宮鎮座地は、四世紀前半、景行天皇が九州巡幸の砌に滞在された「御座」があった古跡地であること(八幡神社由緒記)。 





   △茲蠍鼎せ代に、弦田物部氏が居住した地であること。弦田物部氏は、明星山に住まいした筑紫弦田物部祖天津赤星(饒速日命の天孫降臨に供した五部人の一人)に始まる。
   1号墳は、その天津赤星の古墳であるという伝承があり、この伝承が今日に至るまで根強く伝えられていること。等々。

 ・なお、「天津赤星の古墳」の記事は、赤星神社由緒記(福岡縣神社誌)のなかに「今妙見の祠の側に石窟あり、極めて廣大なり、天津赤星の古墳なれば」とあり、1号墳が、その「天津赤星の古墳」であると推定されているようだ。


2大谷1号墳石室図 ・1号墳の横穴式石室は、説明板によると、石室の中は、手前に小さな前室、その奥に広い後室があり、死者を埋葬した石室の形は、筑後地区特有の円形に近いドーム状になっていた。(※画像)



 ・また、石室からの出土した副葬品は、ガラス玉や貝輪(貝製のブレスレット)・耳環(イヤリング)などの装飾品や、馬具、お供えをした土器など、大量であったと伝えている。なお、これらは、久留米市埋蔵文化財センター(久留米市諏訪野町1830-6、0942-34-4995)で見学できる。

 ・1号墳は、発掘調査後、埋め戻されたので、その入口がどこにあったのかは分からないが、墳丘の南の側面に置いてある(別の)巨石が、その「入口にあった天井石」らしいので、その辺りに南向きに開口していたのかもしれない。
 

3大谷古墳1号墳の桜 ・1号墳の墳丘上に生えている数本の大樹の幹、枝葉が古墳を覆っているが、そのなかに植樹されたと思われるソメイヨシノの桜樹があり、春、この桜の花が満開となったときの光景は美しい。(※画像)









 ・「大谷古墳群3号墳」〜高良内八幡神社境内に建つ高良内町二町内公民館の右裏、擁護壁の後ろにある盛り土がそれ。通称「八幡塚古墳」。1号墳と同時に行われた発掘調査で横穴式石室を有する直径30mの円墳(※1号墳よりかなり大きい)と判明した。盗掘孔があり、そこから石室内部を覗き見できる。

 ・「大谷古墳群2号墳」〜八幡神社正面の里道を挟んで対面の民家の庭にあり、唯一横穴式石室のみが保存されている。封土が失われており、確かな墳形、規模等は分からないが、円墳だったのではないかとみなされている。

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2019年07月29日

高良内八幡神社(高良山麓巡り53)

 ※前回「富松神社ぁ塑弯澄岩竹古墳2号墳など(高良山麓巡り52)」から続く。

1高良内八幡社殿正面 ・高良内八幡神社(八幡宮)の鎮座地
 福岡県久留米市高良内町876-1
 (旧字は大谷)。

 ・高良内八幡神社名の通称名:
高良内八幡宮」。



 …石鳥居の額束の刻は「八幡宮」だが、本稿では「高良内八幡神社」の社名を用いる。

 (1) 高良大社御神幸祭の巡行地

 ・先に掲載した「朝妻の清水・味水御井神社(8)〜屯宮・御神幸祭(高良山麓巡り37)」のなかに「(3) 平成24年御神幸祭巡幸経路」を書いた。

2高良内八幡境内 ・この神幸祭で、高良大社の御神輿を担いだ大行列が最後に立ち寄るところが高良内町の(旧村社)「高良内八幡神社」である。

 



 ・「高良大社御神幸祭」は、平成24年に再興され、以後5年毎(10月中旬頃)に斎行されているが、この日、御神輿に乗り遷られた高良大社の御祭神(高良大神、八幡大神、住吉大神)は、高良大社一の鳥居に下り、ここから、御井・山川・高良内地区の奉斎者大行列に守られて、境外末社「味水御井神社」(朝妻の清水)、兼務社「 高良御子神社」(坂本神社・王子宮)、兼務社「高良下宮社」、兼務社「高良内八幡神社」を巡行・神事を斎行し、高良大社一の鳥居に引き返す。

 ・高良内地区の(旧村社)「高良内八幡神社」は、数ある高良大社の境外末社、摂社、兼務社のなかで、高良大社の御神幸で御神輿が巡行する神社の一であり、それだけでも由緒ある神社といえるのだろう。

 ・また、高良内町には、ほかに兼務社(旧無格社)「富松神社」や兼務社(旧村社)「赤星神社(妙見宮)」があり、隣接する御井町宗崎の兼務社(元境外末社/旧村社)「印鑰神社」などがあるが、そのなかでは最も多くの氏子を有している。

 ・この地区(高良内町、御井町宗崎)は、古代、筑紫弦田物部祖天津赤星を始祖とする弦田物部氏の居住地で、当地から高良大社の大祝(おおほうり)が出るなど高良大社と係わりが深い。


3高良内八幡大谷1号墳 ・特に「天津赤星の古墳」とも言われる「高良内古墳(大谷古墳群1号墳)」を境内に有する高良内八幡神社が、御神幸の巡行地となったのかもしれない。





 (2) 高良内八幡神社の祭神、由緒

 ・福岡縣神社誌(昭和19年)の由緒記によると、次のようである。
 ・祭神:應神天皇

 ・由緒
  古老の伝記〜当所は、景行天皇が九州を御巡幸されたとき、御滞在された古跡である。故に、後に当所に作られた八幡宮鎮座地は、今に至るまで景行天皇の「御座」と呼ばれているという。
  八幡神社(祭神: 應神天皇)の鎮座時期不詳。
  大正12年(1923)11月16日、字内野鎮座の無格社「八幡神社」(祭神應神天皇)を合祀、祭神同一に付き合霊。

 ※注:景行天皇は第12代天皇、四世紀前半、九州王朝の大王か。應神天皇は第15代天皇、四世紀後半、九州王朝の王か。

 
4高良内八幡宮社殿内 ・その他、次の記事がある。
 例祭日 12月15日。
 建造物 神殿・中殿・拝殿。
 境内坪数 250坪。
 氏子数 約315戸。


 ・境内神社は、天満神社(菅原神)・山神社(大山咋命)・水天神社(安徳天皇)


 (3) 現境内状況

 ・高良内町二町内公民館
 〜平成12年竣工、社務所の役割も兼ねているのだろうか。
 なお、この右横(裏側)にある盛土の縁に作られている擁護壁は、同竣工時に作られたものか。この盛土は「大谷古墳群3号墳(八幡塚古墳)」である。

5高良内八幡境内天満宮、公民館 ・木造社祠一棟
 〜境内正面の右側入口(里道際/高良内町二町内公民館玄関の下方)にある。
 この木造社祠は、かなり風化が進んでおり痛々しい感じがする。早めの補修が望まれる。


 社祠内に御神像一体(菅原神か)安置あり、境内神社「天満神社」か。
 なお、ほかの上記境内神社2社の社祠の有無は不詳。

6高良内八幡正面参道、公民館 ・石造物
〜「八幡宮(額束)」の石鳥居一基
 幟立石一対二基
 石燈籠一対二基
 狛犬二対四基
 石段
 石垣
 石敷
 ブロック塀。


 ・石碑
 〜「消防義会記念碑」(大正十年一月)、「消防義会寄付芳名録」碑、「史蹟高良内古墳」碑、「祝金寄附」碑ほか。

7高良内八幡絵馬 ・奉納絵馬
 〜拝殿内に相当数あるが、詳細不詳。

 拝殿の入口の格子戸は、通常施錠されているので、なかに入れないが、祭礼時は開放される。 




8高良内八幡天井絵 ・天井絵馬
 〜拝殿の天井の全面に「花鳥図」が描かれている。詳細不詳。

 ・祭神輿
 〜拝殿内に祭神輿一基が安置してある。



9高良内八幡宮天満と桜 ・杜の樹木
 〜境内に樟、染井吉野桜ほかの樹木が点在している。

 ・大谷古墳群
 (※次回掲載)
 〜境内に2基(1、3号墳)、境外に1基(2号墳)。
 


10高良内八幡境内仏堂 ・仏堂一棟
 〜本殿の左側に仏堂が建っており、堂内には仏像が三体安置されているが、神仏習合の名残りか。詳細不詳。
 …弥勒菩薩坐像 千手観世音菩薩立像 弘法大師坐像。



11高良内八幡横の倉庫 ・その他、境外
 〜当社の右2軒目に民家の古い木造倉庫二棟(うち一棟は赤レンガ+木造)があり、思わず足を止めて見惚れていた。





 その右側の民家の入口(里道沿い/左側角地)に石祠「水神社」(すいじんしゃ)あり。
 上記境内神社「水天神社(安徳天皇)」に相当するものか、詳細不詳。
 なお、大谷地区には、縄文時代の遺物などが採集された大谷遺跡があり、由緒より古い時代から人々が居住していたことが分かる。

 ※次回→「高良内古墳<大谷古墳群1号墳>(高良山麓巡り54)」。

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2019年07月26日

富松神社ぁ塑弯澄岩竹古墳2号墳など(高良山麓巡り52)

 ※前回「富松神社〜本殿跡(高良山麓巡り51)」から続く。

 ◇ 岩竹古墳2号墳(岩竹古墳群2号墳・岩竹2号墳)

 ・所在地:福岡県久留米市高良内町979富松神社境内。

 ・前回、「富松神社本殿跡の石垣に囲まれている盛り土は、岩竹古墳2号墳で、この墳丘上に本殿が建てられていたことなる」と書いた。

1富松神社岩竹2号墳入口 ・「岩竹古墳2号墳」(岩竹古墳群の一)は、横穴式石室(前室+玄室)を有する古墳で、その石室の入口は、本殿跡(墳丘上)に上る中央石段の上り口のすぐ右横にあった。 

 


 ・現在、そこには多数の土嚢が積まれて、入口が塞がれているが、以前は、石室の入口の天井岩やそれを支える脇石などが露出し石室が覗ける程度に開口していた。

 ・平成20年(2008)8月に社殿(本殿、拝殿)が焼失したとき、火災時の火炎、火煙が石室内を襲い、或は消防車の消火水等が石室内に入ったのか、入口の天井石が落下するほかの被害もあったようで、地盤が緩んだ状態のまま放置すると古墳全体が崩壊する恐れもあったらしい。

 ・そのため、平成22年度に発掘調査が行われ、その後、古墳の強度を保つために石室内部に真砂土を詰め、入口に土嚢を積み上げ、塞いだようだ。

 ・発掘調査で、石室内から須恵器、馬具、装身具、金属製の錘等の副葬品が出土し、当地方の有力豪族の墳墓と推測された。

 ・古墳の形は、墳丘の形から推して二段構築の円墳とみることもできるが、帆立貝式前方後円墳のようにも思える。

 ・後世、富松神社本殿が造営されたとき、盛土(墳丘)の表面を削って石垣が作られたと考えたら、もとは高さ、幅ともにもっと大きな墳丘だったと想像され、かつ、この墳丘に接続している拝殿敷地の壁部分(参道部分より一段高い)にも石垣が施されていことなどを見ていて、帆立貝式前方後円墳もあり得ると推測した。

 ・古墳の築造時期については確定できないが、六世紀中期以降(古墳時代後期)説や、それよりもっと古いとする説もあるようだ。

 ・六世紀中期以降築造説には、高良内町に居住した古代物部氏が、継体天皇21年(527)に反乱を起こした磐井を高良山麓で鎮圧したヤマトの将軍・物部麁鹿火に始まると推測したことにあるようだ。
 だが、この物部麁鹿火が、本当にヤマトの将であったかどうかは疑わしく、また、当地の物部氏は、筑紫君磐井の挙兵に味方していたはずで、その物部氏が物部麁鹿火に始まるとするのは考えにくい。因みに岩竹の岩は、磐井(岩井)の岩に通じる。


2地図 ・富松神社の社殿、及び岩竹古墳の入口は、彼方(南東方向)に見える明星山(明星岳・一之岳/362.3m)を向いており、被葬者は、この明星山とも係わる人物が想像される。



 ・その明星山に住まいした明星(妙見)神は、富松神社の祭神「筑紫弦田物部祖天津赤星」にほかならない。
 つまり、高良内町に居住した古代物部氏は、弦田物部氏で、物部麁鹿火より遥かに古くに明星山に降臨した天津赤星の系譜であり、この岩竹古墳の被葬者は、天津赤星、若しくは天津赤星の系譜と係わる人物だと想像する。(※下記祭神の項参照)

 ・上記掲載地図を見ていると、岩竹古墳2号墳・富松神社(「↓」の地点)は、当所と明星山(一之岳)を結ぶ線と、高良山(二之岳)を結ぶ線がほぼ直角に交差する地点にあり、両山との係わりを示す絶妙な位置に造営されているようにも思える。

 ・なお、岩竹古墳群のもう一つ「岩竹古墳1号墳」がどこにあるのかが分からなかったが、その後、「山歩き古墳巡り」さんから、そのブログの「岩竹1号墳」の記事に「参考に」として教えいただきました。感謝感激です。その場所は、高良内八幡神社の右方に鎮座している「水神社」(石祠)の角を山側に曲がり、その先の二股を左に上ると、すぐ右側(空き地)にある。次の機会に訪れたいと思っている。


 ◇ 富松神社の祭神

 ・富松神社の祭神の「筑紫弦田物部祖天津赤星」は、先代旧事本紀にいう饒速日命の天孫降臨に際して、「副従為(そえしたがい)て天降(あまくだり)供奉(つかえまつ)らした」五部人の一人で、明星山に住まいして明星神、妙見神とも称された。
 ※赤星(あかぼし)→明星(あかぼしみょうじょう)→妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう/妙見菩薩)と集合か。

 ・筑紫弦田物部祖天津赤星は、その名のとおり、筑紫弦田物部氏の祖で、高良内町の古代弦田物部氏は、この天津赤星を祖とする一族で、高良内町内には天津赤星を祀る「赤星神社」(妙見宮/久留米市高良内町759)があり、また、大谷古墳1号墳(高良内八幡宮境内/久留米市高良内町876−1)を天津赤星の墳墓とする説が根強くあるが、富松神社の岩竹二号墳もその一つに加えても良いようにも思う。

 ・なお、富松神社の社号は、三階松などの神紋を掲げる九州王朝との係わりも想像される。

 因みに、三階松の神紋は、高良下宮社(高良玉垂命)内(右側)の「幸神社」(祭神:孝元天皇/履中天皇元年(400)創建)で見た記憶があり、高良下宮社と九州王朝のつながりが推測される。
 また、高良内町の弦田物部氏は、古代から高良大社の大祝(おおほうり)を担っており、その高良大社には、九州王朝とのつながりを示す九州王朝年号が残っていると聞いたことがある。
 後に高良山で挙兵し敗れた筑紫君磐井は、九州王朝の後裔とされる人物である。
 富松神社には、まだまだ隠れた事柄があるのかもしれない。(おわり)。

 ※筑紫君磐井の伝承、磐井の乱については、下記参照(別記)
  →「高樹神社 (高良山麓巡り14)」。
  →「磐井川起点から旗崎・磐井の清水・応永地蔵(高良山麓巡り21)」。
 ※本項「富松神社」のトップ→「富松神社 岨夏擦寮仟な(高良山麓巡り49)」。

 ※次回→「高良内八幡神社(高良山麓巡り53)」。

keitokuchin at 13:47|PermalinkComments(0)