2008年06月

2008年06月30日

新妻聖子ミュージカル・アルバムCDを予約

080624_20310001[1]  ミュージカル界のシンデレラガール新妻聖子さんの待望のミュージカル・アルバムCD「MUSICAL MOMENTS」が7月16日に発売される。
  本人が「愛と魂こもった10曲です!」と言っているので相当の自信曲だと期待している。
  収録曲とその曲順は次のとおりということで、改めてこの曲目を見ていると、やはり、彼女が出演したミュージカルで歌った感動の曲ばかりで楽しみだ。
1.SEASONS OF LOVE…ミュージカル「レント」より。
2.命をあげよう…ミュージカル「ミス・サイゴン」より。
3.OVER THE RAINBOW…ミュージカル映画「オズの魔法使い」より。
4.I'LL NEVER FALL IN LOVE AGAIN…ミュージカル「プロミセス、プロミセス」より。 
5.THE LIGHT IN THE PIAZZA…ミュージカル「ライト・イン・ザ・ピアッツァ」より。 
6.THE VOICE IN MY HEART…ミュージカル「マリー・アントワネット」より。 
7.私だけに…ミュージカル「エリザベート」より)。
8.ON MY OWN…ミュージカル「レ・ミゼラブル」より。
9.EMORY…ミュージカル「キャッツ」より。
10.MAKE OUR GARDEN GROW…ミュージカル「キャンディード」より。
 ※画像は新妻聖子さんhttp://www.seikoniizuma.com/blog.html

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2008年06月23日

笛木優子似の女子社員

y_fueki[1]  先週(6/18)観た日本史サスペンス劇場「大奥の秘密スキャンダルを暴く!」に笛木優子が主演で出ていた。脇坂寺社奉行の部下の娘おなぎでおとり捜査をする役を演じていた。
  彼女が出ているドラマを観たのは、昨年10月新妻聖子が主題歌「愛をとめないで」を歌っていた「陽炎の辻〜居眠り磐音江戸双紙」以来のことだった。主役坂崎磐音の元いいなずけ奈緒で、吉原に乗り込む遊女白鶴役を演じていた。
  以前は、韓国映画やドラマに「ユミン」という名で数多く出演していた。当時観ていた連続ドラマ「オールイン」で、主役イナ(イ・ビョンホン)を一流のギャンブラーに育てるリエ役を演じたのが印象に残っている。ファンというほどのものではないが、笑ったとき両頬に出来る笑窪が可愛く印象に残る女優で、ついつい見とれてしまう。
  彼女の顔立ちや背格好を見ていると、最近、寿退職した女子社員を思い出す。いつも、どことなく笛木優子に似ていると思っていた。明るくて仕事熱心な社員で、いつまでもそばで働いて欲しいと思っていたが、結婚して外国で暮らすというので、それは叶わなかった。
  国内にいてもうつになる若い人も多いなかで、行ったことのない外国で暮らすのは勇気のいることだと思う。でも、何事にもくよくよ気に病まない彼女なら大丈夫。心から幸せを祈る。
  ※画像は、笛木優子(ユミン)。

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2008年06月22日

過信と裏切り雑感(秋月の乱・乃木希典や旧豊津藩士の動きを例として)

akiduki_ran_zu[1] 他人を信じて大事なことを話したり任せたりして裏切られたことはありませんか。裏切られたと分かったときのつらさ、苦しさは並大抵のことではありません。裏切りに遭うと、ことのほか言動が慎重になり、行動力が鈍り、そのまま落ち込んで「うつ」になってしまう人もいます。
  ある友人が「今年は、善悪がはっきり形として現れる年です。深みにはまる前に善悪がわかったときは、被害が少なくてよかったと思いましょう」と言った。確かにそう考えれば、早々に裏切り行為を目にすることができれば、誰が善人で、誰が悪人かが分かり、その後の付き合い方を変えることができます。
  最近、毎日新聞で図書「斜陽に立つ」の広告を見た。毎日新聞日曜版(06.10〜08.2)に連載された古川薫さんの小説(2月28日のブログ参照)。
  広告の見出しに「乃木は愚将に非ず」とあり、ふと、小倉歩兵第14連隊隊長心得だった乃木希典(28歳)が知将ぶりを発揮して、豊津藩士に裏切りを画策し、鎮圧軍を率いて秋月の乱を鎮圧したことを思い出した。
  明治9年(1876)10月、熊本神風連の乱に呼応し、旧秋月藩の不平士族秋月党250人が、長州萩で蜂起を企図していた前原一誠隊に合流するために挙兵し豊津に向かったが、乱に同調すると思っていた旧豊津藩士の裏切りにあって、何の成果も上げることなく山中をさまよい1週間ほどで壊滅したという。
  その足跡をたどると、挙兵時に明元寺で穂波半太郎警部(29歳)を刺殺した以外には戦功はない。なお、昨年までの福岡県警殉職者は158人、その第1号が穂波警部で、明元寺境内にその殉職碑が残されている。警官の職務を全うするあまり殉職の道を歩まねばならなかったことはさぞ無念であったことだろう。
  秋月の乱の首謀者とされた宮崎車之助(38歳)は、江川谷(栗河内)で自刃した。自刃するとき、「西郷が立たねば駄目だ」と語ったというが、その西郷隆盛が挙兵した西南の役は、この3か月後のことであった。宮崎は、弟の今村百太郎の挙兵に引きずられるように秋月の乱に加わり、あっけなく敗戦しただけに、西郷が立つときを待って挙兵していれば、豊津藩士の裏切りもなく、あるいは福岡本藩の同調者も共に立ち上がっていただろうと思っていたことだろう。
  その辞世「散ればこそ別れもよけれ三芳野の 散ずば花の名残なからめ」に無念さが忍ばれる。どれほど残念で悔しかったことだろう。総大将の今村百太郎(35歳)も12月に刑死した。しかし、裏切られ消滅しても彼らは歴史にその名を残した。
  これといった戦略もないままに挙兵したのは、秋月の兵が立てば、必ず各地の呼応者が挙兵するだろうという過信があったからだともいう。特に豊津藩は、小倉から豊津に移動した藩で、慶応2年(1866)長州征伐の敗戦で小倉城を焼き払い幼君小笠原忠忱(ただのぶ)が熊本の細川家を頼って落ち延びるとき、秋月の人々が助力した恩があるで、秋月が立てば必ず呼応してくれるという過信があったと思う。
  しかし、過信は、打ち砕かれると頓挫して、往々にして行方を見失ってしまうことになりやすい。過信で行動を起こした場合、裏切られる確立も高くなる。計画には、常に同志の裏切りを想定し、代案を持って行動することが望ましい。
  霊的に考えると、今、身の回りで起きる裏切りは、生死に関わるものでなければ、自分が抱えていた悪因縁の噴出現象です。ひょっとしたら自分も他人を裏切ったことがあるかもしれません。だとしたら、これで帳消しになりますね。そして、落ち込むことなく、今後の善後策を考え執行して行くようにしましょう。
 ※画像は、青春の城下町からお借りしました。(豊津で乃木軍と戦う秋月党:西南鎮静録)http://inoues.net/club/akiduki/akiduki5.html

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2008年06月17日

筑紫舞との出会い(5)

IMG_1855  公演プログラムを見ていて、筑紫舞本部稽古場が香椎地区の下原(当時)にあることを知った。
  古田武彦氏は、「日本書紀の景行天皇の九州大遠征の説話は、筑前の王者『前つ君』の九州一円平定譚で九州王朝の発展史である」と指摘されているが、私は、以前からこの『前つ君』は大歳尊(天照国照彦天火明希甕玉饒速日尊)ではないかとイメージしていた。
  このイメージで小論「饒速日尊」を書いたこともあるが、下原にも、この大歳尊(饒速日尊)を祀る下原大歳宮がある。下原に本部稽古場を開かれたということは、目に見えぬ縁があったのかと思った。なお、現在、本部稽古場は香住ヶ丘に移っている。
  この後、8月、久しぶりに朝闇神社を訪ねたら、周辺がきれいに整備され、猿沢の池の後ろには筑紫舞の小道なども作られていたのでびっくりした。ガマ蛙が鳴いていた猿沢の池は、水草が浮く池に変身していた。
  古田武彦氏の著書に、宗家の言葉として、筑紫舞の大切な舞の一つ「早舟」の詞に「猿沢の池の…身の上は篠竹の越の竹の」という一節がある、この池には、この詞に合わせて舞うふりと同じ姿で、「竹や柳などの木の枝が横に伸びて垂れさがっていた」と目ざとく娘の光寿(当時若翠)が指摘した、と述べられているが、それは、整備前に見た風景であった。
  朝闇神社の絵馬(天保4年奉納)は、全体がすっかり赤茶色に色褪せて、見る影もなくなっていたが、その模写が筑紫舞の小道にある一枚の陶板レリーフにされていた。しかし、この模写図は、省略部分があまりにも多い。さらに、このほかのレリーフは筑紫舞とは直接関係なく、自然を変えてまで造る価値があったのだろうかと思った。
  初めて筑紫舞と出会った頃のことを思い出しながら本稿を草した。 いっそうの筑紫舞の発展を祈念します。
※画像は、筑紫舞の小道の壁面に填め込まれていた1枚の陶板レリーフを見ながら描いた「ルソン足」の線画。
(本稿おわり)

※前回→「筑紫舞との出会い(4)」。
※本稿トップ゜→「筑紫舞との出会い(1)」。


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2008年06月16日

筑紫舞との出会い(4)

IMG_1851  筑紫舞伝承後援会の三隅治雄相談役の講演を聞いて、古田武彦著「よみがえる九州王朝」に書かれていた内容を思い出していた。足腰を使って飛び跳ねるような振り付けは、流暢な日本舞踊にはない筑紫舞独特の舞であり、これが古代九州王朝の古代舞だという。
  古代九州王朝の存在の可否には賛否両論があるが、私は、八女市で開催されている「磐井」の演劇を見て、九州王朝の系譜に筑紫の君磐井がおり、磐井は九州独自の年号(元号)を持って君臨していたが、継体の反乱に敗れ九州王朝が消滅したという説(反乱を起こしたのは磐井ではなく継体であるとの説)に共鳴している。
  公演の出演者小照には、古田氏の著書で見た西山村光寿さんや筑紫さん(上の画像)の名がなく、総帥西山村津奈寿さんと大師範西山村邑寿さんの名があった。宗家西山村光寿斉(本名は河西[旧姓山本]光子)さんは、当時81歳と聞いたが、まだまだ元気で、今後も古代九州王朝の宮廷舞を伝えて行かれることを願った。
  戦前、宗家に筑紫舞を渡した菊邑検校や傀儡子と言われた無名の舞い手たちは、戦争を境に消息が絶えたという。こうして残された古代九州王朝の宮廷舞のすべてを宗家ひとりが引き継ぐことになり、後に福岡に移り住み、九州で筑紫舞を舞い、絶やすことなく後進に伝えていく、これを自らの余生の使命とされたのだと思う。

※前回→「筑紫舞との出会い(3)」。
※次回→「筑紫舞との出会い(5)」。 

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2008年06月15日

筑紫舞との出会い(3)

IMG_1847  筑紫舞の宗家、西山村光寿斉師匠が、福岡市香椎方面に居住されていることを知ったのは、平成12(2000)年5月21日に放映されたTV「九州街道ものがたり」を観てであった。画面に「筑紫舞、西山村光寿斉」の文字が出たとき、私の目は釘付けになった。昭和62年頃、朝闇神社を訪れた後、心の中にしまいこんでいた筑紫舞の記憶を一気に呼び起こされた。
  TVを観た後、福岡市の電話帳で西山村の名前を探したが、見つけることができなかった。しかし、宗家が福岡に居られるのであれば、筑紫舞を観賞できる時期が近まったとの直感があったので、それ以上調べることはしなかった。
  7月に入り、家族で先祖崇祀の御神霊を祀る櫛田神社境内社を参拝後、飾り山笠見学を兼ねて川端通りを歩いた。何気なく立ち寄った商店で商品を眺めていたとき、娘が私の肩をたたき、その店のショーウィンドーに貼られているポスターを指差した。
  それは、「第15回筑紫舞公演」のポスターであった。このとき、先祖の神霊が、このポスターを目にするために、この商店に立ち寄らされたのだと感じた。そして、やはり5月の直感もあたっていたと思った。
  公演日の7月29日(土)は、仕事があったが、観賞できることを願った。プレイガイドで観賞券がなかったので、ネットに連絡先と書いてある「ふくや」の電話番号にダイヤルしたら関係ない会社が出た。あわてて、電話帳で「ふくや」の電話番号を調べ、かけなおして二人分の観賞券を予約した。なお、当家では、いつも老舗「ふくやのからし明太子」を買っている。
  公演当日、仕事を午前中で終えることができたので、娘と待ち合わせして大濠公園能楽堂に行き、ついに長年の念願であった筑紫舞を観賞することができた。
  筝、三絃、笛などの調方のすばらしい謡曲演奏にあわせて舞う、ルソン足など筑紫舞独特の舞いの数々を、実際に自分の目で観ることができたので感激ひとしおであった。
  この公演は、このとき既に15回。毎年1回開催されているということは、初めて朝闇神社で絵馬を見た直後に、既に福岡で第1回公演が開催されていたことになる。15年間もそれを知らず、長い空白期間を経ての筑紫舞との出会いであった。(次回につづく)
 ※画像は、筑紫舞宗家西山村光寿斉師匠(第15回公演プログラム)。

※前回→「筑紫舞との出会い(2)」。
※次回→「筑紫舞との出会い(4)」。

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2008年06月14日

筑紫舞との出会い(2)

238[1]  長安寺(朝倉市)の森に囲まれた丘陵の斜面に、ひっそりとたたずむように建っている朝闇神社(旧大行事社か)を、初めて訪れたのは、昭和62年頃だった。
  小さな拝殿のなかの見返り部分の鴨居に、左手に盃を持った長者風の人の前で4人の坊主頭の修験者らしき人たちがかかとを立てて舞を舞う絵馬が掲げてあった。この爪先立ちで飛び跳ねるように踊る舞は、古代舞踊(九州王朝の宮廷舞)の原型の一つで、筑紫舞ではこの足の形を「ルソン足」というらしい。
  もっともこのことを知ったのは、この直後に読んだ古田武彦著「よみがえる九州王朝―幻の筑紫舞(角川選書)」によってであった。この本のことは、当時入会していたヤマタイ国研究会(福岡市)で教えられた。この本には、著者自ら撮ったという不鮮明な朝闇神社の絵馬の写真も掲載されていた。
  私は、当時同研究会の絵馬修復保存呼びかけに応じて協力金を供したこともあった。その後、この色褪せた絵馬の修復は不可能だったようで、筑紫舞の小道が整備され、絵馬の一部分が複写された陶器カラーレリーフが作られた。レリーフは、5枚あるが、4枚のデザインは筑紫舞とは関係ないのではないかと思う。
  また、この本を読んで「筑紫舞」という名前、そして姫路に筑紫舞の師匠西山村光寿斉さんが居られること、故菊邑検校さんが彼女に「筑紫舞」を伝えたことなどを知った。さらに筑紫舞で重要な舞である「翁」を舞う西山村光寿さんや筑紫さん(師匠の娘)らの優美な写真も脳裏に刻まれた。以来、先祖の神霊が必要とあれば、いつか姫路に行き実際の舞を観賞する日が来るのではないかと思っていた。
  それから14~5年経って平成12年、偶然のように筑紫舞の師匠西山村光寿斉宗家が福岡市香椎方面に居住されていることを知った。姫路まで行くことなく筑紫舞を福岡で観賞する機会が巡ってきた。また、上述の筑紫舞の小道のレリーフを初めて見たのも、同じ年であった。これらのことは、次回記したい。
 ※朝闇神社周辺の風景画像は、http://www.geocities.co.jp/hurutashigaku_tokai/trip2.htmからお借りしました。

※前回→「筑紫舞との出会い(1)」。
※次回→「筑紫舞との出会い(3)」。

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2008年06月12日

筑紫舞との出会い(1)

IMG_1841  筑紫舞伝承後援会から第23回筑紫舞の会の案内が届いた。「目前に米寿を迎えようと致して居ります まだまだ元気に頑張る事の出来ますのは一重に皆様の温かいご支援の賜と…」と記された宗家西山村光寿斉さんの手紙が添えられていた。
  宗家と直接言葉を交わしたことはないが、ご高齢になっても動きの激しい筑紫舞を舞い続けることができる宗家の姿には、幻の九州王朝の舞を伝承してゆかねばという意気込みを感じる。私が、初めて筑紫舞の公演を観たのは第15回公演(2000年7月29日、大濠公園能楽堂)で、宗家が「比良や小松」や「菊慈童」を舞われたのを覚えている。
  この日の公演で、筑紫舞独特の「ルソン足」という足先を立て舞う舞いや、飛び上がって回転するしぐさや、兎飛びのような姿勢をして前進するしぐさなどを初めて目にし、驚きと感激が交錯した。
  このような日本舞踊にはない舞い方が傀儡子に伝えられたという九州王朝の古代舞の形だったのだろうか。日本舞踊は、筑紫舞の足腰を鍛錬するような過激なしぐさを排除して流暢に流れるように洗練されたものかも知れないと思った。
  実は、この筑紫舞の「ルソン足」のことは、それよりさらに14~5年遡る昭和62年頃に古田武彦著「よみがえる九州王朝―幻の筑紫舞(角川選書)」を読み、朝倉方面を行脚修行中に朝闇神社を訪れ、拝殿に掲げられてあった絵馬を見て知っていた。
  しかし、その後、宗家が福岡に移住されていることは知らなかったので、実際の舞いは姫路に行かないと観ることは出来ないものだと思っていた。それだけに、感激もまた深かったのかもしれない。
  このことを知った経緯や朝闇神社の絵馬のことなどは、思い出して次回記したい。
 ※画像「雲井の曲」の舞い。

※つづく→「筑紫舞との出会い(2)」。


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2008年06月09日

戸田菜穂とりょうのファッション対決(ホカベン)

kuraki_3[1] 4/16から放映されている「ホカベン」というTVの題名を、最初に見たときは、思わず「ほっかほっか亭」(最近プレナスが分裂「ほっともっと(Hotto Motto)」)のことかと思ってしまったが、「ホカベン」とは新米弁護士のことだった。
 弱者救済をモットーとする新米弁護士堂本灯(上戸彩)が主役で、その指導弁護士杉崎忠志(北村一輝)との弁護活動を巡る意見の衝突や掛け合いも見所ではあるが、どうも脇役の倉木しおり(戸田菜穂)と工藤怜子(りょう)の女の皮肉交じりのことばの対決の方に気が引かれる。
 そして、主役の二人がほとんど同じ服を着ているのに対し、この二人の脇役は、一回の番組なかで次々と服を着替え、まるでファッション対決をしているようでもある。
 「ホカベン」は、何が正義で本当の弱者救済なのかを問う弁護士活動の裏面に迫り、時として固くて暗い内容に緊張させられるが、そのようななかでこの二人は、明るい服でお色直しを繰り返して、心を和ませる役を演じているようでもある。
 最終回も近いのかとは思うが、戸田菜穂のファンの1人として観賞をお勧めします。
 (日本TV系、水曜日PM10:00~放映)。
 ※ ホカベン出演中の戸田菜穂画像は、公式サイトhttp://www.ntv.co.jp/hokaben/fashon/index.htmlから転写しました。

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2008年06月08日

宗像浜宮と幻の赤い木柵

  「五月・浜宮祭斎行」の記事(機関紙宗像6月号)を読んでいて思い出したことがある。
  宗像75社探訪修行時代、炎天下のなかで浜宮(宗像市神湊)の場所を探していたときのことだ。釣川河口から砂丘上の道路を神湊の中心地に向かって進んでいたとき、右方向に、浮島のように盛り上がった樹木の茂る丘陵が見え、そこに神域を示す赤い木柵が並んで立っているのが目に入った。
  その近くまで行かなかったものの、てっきりそこに浜宮があるものだと思いこみ、その日同行していたK教師と共に同所に向かって合掌、遥拝した。
  ところが、それからあまり日を空けずに、再び同教師と共に同所を訪れたとき、まったく赤い木柵など立っておらず、それらしきものがあった形跡もないことに気付いた。二人とも呆然として立ちすくんだ。私たちは、前回、二人して幻の赤い木柵を見ていたのだろうか。
  そして、浜宮の社祠のある場所が、反対側(左)の樹林に囲まれた砂丘の丘陵上であることに気付いたのは、その後、しばらく経て同地を訪れたときのことだった。
  もともと浜宮とは、皐月祭(早苗月の信仰)を行う5月5日に釣川河口の海上に設けられた浮き殿造りの社殿であったらしい。そこを「濱殿」と称し、皐月祭のとき、田島宮(辺津宮)に集結した宗像五社(宗像三宮と許斐宮、織幟宮)の神輿が御神幸したという。
  この「濱殿」が置かれた場所が、現在の浜宮や五月宮(宗像市江口)のある場所ではないかと推測されているという。
  何の確証はないが、ひょっとしたら私たちが赤い木柵の幻を見た場所は、その「濱殿」のひとつであったかもしれない。そのことを神霊に教えられていたのかもしれない。これも不思議な体験のひとつである。機会があれば再度訪れる必要があるのかも知れない。

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