2008年09月

2008年09月29日

魅惑のスタンダード・ポップス・新妻聖子、中川晃教ら

akki[1]中川晃教  9/28の BS2 「魅惑のスタンダード・ポップス」は、1か月前から楽しみに待っていた番組。今回は、「コーヒー・ルンバ」で幕開け、司会の新妻聖子がライブハウスの客と一緒に笑顔で歌った。この歌、軽快なルンバのリズムに乗って物語のように歌う歌詞が楽しい。
  「昔アラブの偉いお坊さんが 恋を忘れた 哀れな男に しびれるような 香りいっぱいの こはく色した 飲み物を教えてあげました やがて心 うきうき とっても不思議 このムード たちまち男は 若い娘に恋をした…」と、以前、皆でよく歌った歌だったが、今はすっかり忘れていた。
  新妻聖子は、司会の井上順が「21世紀が生んだ美しき歌姫」とし紹介したように、ミュージカルで歌う新妻聖子の歌唱力は抜群。また、丸顔で目が大きくてミュージカルの舞台でも一段と映える。たまたま一緒に見ていた妻が「可愛い女性ね。私も若いときは、こんな顔していたのかな」と言ったので、改めて新妻聖子の顔立ちを見つめなおして、そうだったのかとうなずいた。考えてみると妻も丸顔で目が大きい。
  新妻聖子は、ワンテーマ「宇宙」10連発(すべて英語)のなかで、高低音の難しい曲「星に願いを」を歌い、スーパースターメドレーでも「レモン・トゥリー」を軽快に歌った。
  ワンテーマは「宇宙」で、1950~60年代の宇宙開発(1969年米国アポロ11号月面着陸など)を時代背景にして生まれた懐かしいポップス曲、布施明の「太陽は燃えている」を皮切りに、かつてエレキギターの奏でる音に魅力を感じていた「朝日のあたる家」(速水けんたろう)や「ミスター・ムーンライト」(裏声もすばらしい中川晃教)と続く。
  「ペーパー・ムーン」(シルビア・グラブ)、「ブルー・ムーン」と「輝く星座」(最近ピンキーとキラーズを期限復活した今陽子)、ビートルズの「アクロス・ザ・ユニバース」(Rina)など本当に懐かしい曲が連続した。
  特に「宇宙のファンタジー」をペアで歌った中川晃教とRinaは、これからのポップス界を担う若い世代。明るいリズムの「レット・ザ・サンシャイ・イン」の合唱ではTVの前で肩を振った。
  また、「ポップスの伝説」は、愛称チャコ(飯田久彦)。「ルイジアナ・ママ」が大ヒットした1962年は、私は19歳の学生だった。
  「あの娘はルイジアナ・ママ やってきたのはニューオリンズ…」、耳にすると体がリズムに乗って動きだし青春時代がよみがえってくる。
  まだ白黒テレビが徐々に普及しだした時代で、当時まだラジオしか持ってなかった。平和島に来ていた飯田久彦のロケを見に行ったことを思い出した。
  飯田久彦は、シルビア・グラブとRinaと「小さい悪魔」を、デビュー曲「悲しき街角(1961)を中川晃教と一緒に歌ったが、その声量は若い歌手に負けず劣らず、声も若い、今の方がよりすばらしいと思えた。歌を歌い続けることは、若さを保つ秘訣だろう。
  ポップス講座は「ドラム」、出演は真矢。「サンシャイン・ラブ」「いとしのレイラ」を披露した。打楽器は、それのみでは曲になりにくいので、弦楽器等の伴奏がいる。なお、この日の伴奏は、上柴はじめ&POPS11など。
  スーパースターメドレーのコーナーは、1960年代の「ピーター・ポール&マリー」(3人)のメドレー。最初の曲は、あまりにも有名な「パフ」、Puff the magic dragon lived by the sea…名曲です。「くよくよするな」「レモン・トゥリー」「悲しみのジェット・プレーン」「サンフランシスコ湾ブルース」「500マイルも離れて」「朝の雨」「ロック天国」「花はどこへ行った」など誰もが一度は耳にしたことのある曲、あっという間に時間が過ぎた。
  トリは、開幕曲「コーヒー・ルンバ」を再度、出演者全員と客との大合唱。
  次回は、10月26日、オールドファンとしての楽しみが増えた。
※画像は、中川晃教と新村聖子(新妻聖子公式ブログ)。


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2008年09月24日

「男たちの大和」を観て南方で戦死した実父想起

LZZZZZZZ[1]  日曜洋画劇場で「男たちの大和/YAMATO」(05年東映・佐藤純弥監督)を観た。何度観ても鈴木京香と仲代達矢のやり取りにひきつけられる。やがて、回想という形をとって戦艦大和が出撃する場面へと進んで行く。
  大和艦上で対空砲を発射し米軍の航空機と対戦した男たちが壮烈な戦死を遂げていく場面を観ていると涙がこみ上げ、戦死した実父のことが思い出された。実父が乗船した船は、南方戦場に向かう陸軍輸送船で、昭和19年3月16日午後4時頃、 北緯5度00分東経136度46分の南太平洋上で米軍機の攻撃を受けた。
  実父は、当日、下痢気味で船室で休んでいたが、急いで甲板に戻り対空砲を握った。しかし、午後4時23分、米軍機が発射した弾丸が頭部を貫通し絶命したという。
  私は、若い頃、日常的に頭痛に悩まされ鎮痛剤(バッファリン)を常用していたが、ある事情で小仏壇を買うことになり、借家の一室に置いて実父の供養を始めたら頭痛が治まった。これにより、実父が頭部を撃たれて死んだという話は事実だったのだと悟った。実父の霊は、私のところに還って来ていたという証でもあった。
  大和の対空戦さながらに、実父も輸送船の対空砲を握りしめ壮烈な死に方をしたのだろう。当時満26歳、私が満1歳の誕生日を迎える直前だった。実父の面影については、残されていた数枚の写真以外に記憶がない。実父が私を抱いたという話も耳にしたことがない。
  ただ、故祖母から次のような話を聞いたことがあった。実父が乗船した船が門司港に寄港したとき、「出航まで3時間停泊する、妻と子供に会いたい、タクシーで来させてほしい」と実家に電話を入れた。しかし、そのとき妻(実母)は、行く先も告げず子供(私)を連れて出かけていた。実母は、当時満19歳で、夫のいない家にじっとして耐えているといったタイプの人ではなかった。家族総出で探したが見つからず、実父は妻子に逢うことなく出港し還らぬ人となった。生まれた子を抱き上げることもないまま戦死したのだと思う。実父の戦死の公報は、同年6月26日暁第2953部隊(中川多計士部隊長)からもたらされたが、その部隊の詳細、また乗っていた船の名も知らない。
  実母は、若くして未亡人となり、凄いショックと子供の養育に不安を抱えていたと思う。今も私の左耳下に残る傷は、若さゆえに子供の養育に手を焼いた名残なのだろう。実父の本家が私を引き取り、実母は家を出た。養父は私が6歳のとき死んだ。またも父親との縁は薄かった。
  彼岸に入り墓参。墓には実父の法名は刻しているが、遺骨は入っていない。戦死公報とともに骨壷が届けられたとき、本家の戸主(後の養父)は激怒して、その場で骨箱を投げ捨てた。「誰の骨とも分からないものを持ってくるな」と怒鳴った。骨壷には、誰のものか分からない一かけらの骨が入っていたという。実父の骨は「大和」の戦死者と同じように海中の藻屑となったのだろう。今は養母も死に、先月実母が死に、親子が歩んだつらい戦後の戦い(歴史)がやっと収束したのかも知れない。
※画像は「男たちの大和/YAMATO」のポスター。

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2008年09月21日

ベリーダンス万歳!・実母の死後初めて笑う

IMG_1884  はっきりとは覚えていないが、学生時代の夏休みだったか、当時、実母が経営していたスナック(あるいは居酒屋だったかもしれない)を尋ねて行ったたことがあった。場所も覚えていないが、住吉だったかもしれない。考えてみると、それから年月を経て、当時のことを話しあったことはなかったので、記憶が霞の彼方に消えてしまっている。しかし、そこで実母からジルバ、マンボなどの軽快なダンスを習ったことだけは妙に覚えている。
  当時、実母はまだ30歳代後半で独身(未亡人)、肌が奇麗で人目をひくモダンガールだった。私を育てた養母が非常に厳格で威厳のある人だっただけに、見比べると実母は甚だ軽い。そんな人だったから気軽に親子でダンスを踊るなどができたのだろう。実母が再婚して以後、親子でダンスなどできなかったが、実母自身は、再婚した夫が20年前に死亡した後、数年前までダンス教室で社交ダンスを踊っていたようだ。
  実母が先月死んだ後、ある宴会で初めてベリーダンスの実演をみた。さすがに実母は、ベリーダンスのことは知らなかったと思うが、もし元気であったら年甲斐もなく踊ってみると言い出したかもしれない。
  この日、公演されたベリーダンサーは、大分・福岡を拠点に活躍されている添田直子さんと、その4人の生徒さんたち。皆さん、スタイルがよく美人揃い。とても気品のある添田直子さんとも挨拶を交わすことができて感激だった。
  ベリーとはお腹のことで、ベリーダンスはお腹と腰を中心に手足や全身を動かして踊る、アラブ諸国で発展した世界最古の踊りというが、添田直子さんは、最近、宮地嶽神社の舞台でも踊ったそうだから、神社でも踊れるような日本的な独自のダンススタイルを形成されているのだろう。
  ベリーダンスのことは、以前、NHKの趣味悠々で見たことがあったので知ってはいたが、やはり実演の迫力は違う。踊りの意味や内容はわからなくても充分に楽しめる。
  お腹を出して腰を振る様はセクシー、見ていて楽しくて、思わず舞台に駆け上がったら、ダンサーの1人が私の左手を握って頭上に上げた。会場から拍手喝采。ダンス好きだった実母の死後、久しぶりに笑った。
※画像は、ベリーダンサー添田直子さん。

(注)「的原神社も宗像五社の一つ?」を検索されて、本ページを開いた人は、本ブログ「2009年09月16日」を開いてください。
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2008年09月20日

胡蝶蘭香る観音会で実母の追善供養護摩

DYCS-1023[1]  18日夜、故実母の追善供養を兼ねて観音会を開催した。
  心配した台風13号の来襲はなく、先に花屋さんから頂いた白の花びらの胡蝶蘭を、観音会の間、道場拝殿から内殿に移して神前に供えた。故実母の「七日ごとの法要に供えてください」と、鹿児島県肝付市から取り寄せていただいたもの。その美しい胡蝶蘭の甘い香りが発露する真横で追善供養の護摩をたくことになった。

  これまで実母と私の交わりは「親密と疎遠」の繰り返しであったが、終末医療と分かった頃からは、毎日のようにその入院先に足を運んだ。実母が寝たきりの状態になってからは、実母が望むことを聞いてあげ、少しでもかなえてあげようとした。仕事で病院に行けない日があると、翌日、病床から「今日は来ますか」と電話をかけてきた。
  「お前は、これまでまったく私の面倒など見なかったので、最後はお前が面倒を見るようになっているんだよ」と口にしたこともあり、最後に頼ったのは、たった一人の実子である私だけだったのかもしれない。「最後はとは、ないだろ」と言うと、「そう退院したら温泉にもハワイにも行くんだった」と答えていたが、あるいは死期を悟っていたのかもしれない。

  何事にも前向きで、人の悪口を言わない人だったが、死ぬ前に唯一、悔しい口調で「何かと面倒をみてくれていた人が、実は泥棒だった」と語ったことがあった。そのことを耳にしたのは、実母が6月3〜4日に呼吸困難の危険な状態に陥り、急遽行った延命祈祷で生還した直後だった。担当医師は「この病状で生きていることの方が不思議」と驚いたが、もしこのとき生還していなければ、このことを知るよしもなかった。御守護の神仏が、その人物の実態を知らせるために実母を生還させられたのだった。
  その後、その人が持ち出した現金と預金通帳を返してもらったが、実母が口にしていた金額よりは遥かに少なかった。
  私の娘が、「そんな人を信じたおばあちゃんが悪い」と怒ると、最初のうちは、「半分死にかけているおばあちゃんを、そんなに怒らないで」と言っていたが、そのうち「おばあちゃんは、もうあんたと喧嘩する元気もなくなった」と口にしだした。徐々に死期が迫っていたのだろう。

  この娘とその娘(曾孫)は、実母にとっては、自慢の孫と曾孫だったようで、曾孫が習っている日本舞踊の来春の発表会を楽しみにしていたが叶わなかった。実母は、自ら三味線を弾き日舞を楽しむばかりでなく、ギターを弾き英語でポップス曲を歌い、また社交ダンスも踊る多芸な趣味を持った人でもあった。
  私が満1歳の誕生日を迎える直前に実父が戦死(当時実母は満19歳)していなかったら、お互いの人生はもっと違ったものになっていたかもしれないが、お互い生を受ける前からの因縁や業に支配されていたのかも知れない。
  満21歳のとき、満3歳の私を故実父の実兄に渡して離縁、私が成人後に再び出会った。その後、ずっと心ではお互いに思いあいながらも、なさぬ仲で面倒をかけあわない意地みたいなものがあった。

  死ぬ前夜は入浴もして綺麗な体で死を迎えることになった。肝臓から全身に転移した病根の痛みを悲壮に訴えることはなかった。荒い息使いが治まった後、ゆっくりと眠るように旅立っていった。負の遺産を含めて残したもののすべてを私に託すことができたので、安心して寿命を全うし、これ以上生の苦しみを味わうことなく霊界へと旅立ったものだと思った。

  実母が口にしたとおり、結局、最後は私が面倒を看、最期を看取り、喪主として葬式を出し、導師を務め成仏法を修し、納骨、仏壇(位牌)の手配をもすべてを取り仕切ることになった。35日を過きた後に遺産を処分し、その後のことは実母が後妻に行った先の子息に託すことにしている。

  実母逝去以来、忌中で入室を控えていた道場内殿に、観音会のこの日初めて入った。主として観音経と光明真言を勤行する観音会のなかで、合わせて胡蝶蘭の極楽の香りの漂うなかで清清しく故実母追善成仏護摩を修することができた。合掌。
  ※画像は「決定版フォーク・ポップス黄金時代」http://www.sonymusicshop.jp/cdbox/folk


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2008年09月12日

純白の胡蝶蘭で花供養

IMG_1876  花屋さんが、「お母様の七日ごとの追善法要にお供えください」と言って、純白の「胡蝶蘭」を贈られた。
  実のところ、8月下旬に逝去した実母の法要は、3日目に料亭で、初七日から七七日忌(四十九日)までの法要を繰り上げ「三日斎(みっかどき)」として仕上げの法事を営み、既に秋の彼岸入りに間に合うようにと納骨も済ませていたので、このようなときに立派な「胡蝶蘭」をいただきとても恐縮した。
  今回、「三日斎」を営んだのは、実母の通夜、葬儀等の法要のすべてを私自身が導師となり成仏修法を執行していたからである。
  「三日斎」の語源は、地獄に堕ちた北斉の梁氏の遺族が三日目に僧を招いて斎(とき)=食事を供えて追善供養を行ったところ故人が地獄の責め苦を免れたという故事によると聞いたことがあるが、大事なことは、成仏法を確実に修しておけば七七日忌法要にはこだわらなくてもよいということなのだろう。
  納骨を急いだのは、誰もいない実母宅に四十九日間も遺骨を置いたままにすることはできないという思いがあったからである。ただそれでも五七日(ごしち)35日の法事は少人数でするが、親の死とともに親の親族との交際は途絶えていくだろう。
  こう書くと、せっかく頂いた「胡蝶蘭は、どうするの?」ということになるが、三七日(みなのか)21日目を過ぎた時点で、実母の追善供養を兼ねて道場で観音会を開くことにしており、この法要に供えるすばらしいお供物になると思う。
  実母は、どんなことでも前向きに考え、特に真心の篭った贈り物には大感激する人だったので、この「胡蝶蘭」を目にすることができたら、さぞ喜んだことだと思う。今回の観音会は、この「胡蝶蘭」の花びらが映えるよい供養会になることだろう。

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2008年09月11日

白い玉スダレの開花と実母の旅立ち

IMG_0410  我が家の庭では、ときどき花々が不思議な咲き方をすることがある。
  毎年盂蘭盆を過ぎて養母の本祥月命日に合わせるように開花する白ユリ(高砂異種)がある。養母の好きだった花なので、養母の白ユリ供養と思って一輪開花するたびに合掌しては浄土での冥福を祈っていた。この白ユリは、養母の死から22年咲き続けていたが、今年は一輪も開花せず枯れてしまった。どうしたのだろうかと思いつつ、その命日の夜、23回忌法要をした。
  その翌早朝、毎日のように訪れていた実母の入院先から電話があり、慌てて駆けつけたが、実母は、私の目の前で息を引き取った。養母の命日をやり過ごし、その翌朝旅立ったのである。
  そして、この日、我が家の庭には、白いタマスダレの花が一面に開花していた。このタマスダレは実母の好きな花で、その元球根は実母の家の庭から持ってきて植えていたものだった。今年、白ユリが開花せずに枯れたのは、養母の御霊が実母の死を予感していたのかもしれない。それ故に、今年はタマスダレに席を譲っていたのだろう。今後、タマスダレの開花を見ると養母を思い出して合掌することになるのかもしれない。
  また、この花に混じって、タマスダレに良く似た形をしたピンクのサクラモドキの花も、色を添えるかのようにたくさん咲いていた。
  考えてみると、養母も実母も死ぬときは私の姓とは違っており、私は生涯で二人の姓の違う母の喪主を勤めたことになる。そして、その命日は一日違い、不思議な巡り合わせとはいえ、養母の死から23年経って、やっと養母がその命日に実母を迎えに降りてきて、その翌朝、その手を引いて霊界へと導いて行かれたのだと信じたい。
  今は、まだ心に穴があいたような状態だが、このことを記していないと、この後、何も書けないような気がするので、ここに書き留めておくことにした。

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2008年09月07日

陽炎の辻2の主題歌は前回と同じでラッキー

story02[1]  昨年7~10月にNHK木曜時代劇で放映された「陽炎の辻〜居眠り磐音江戸双紙〜」の続編「陽炎の辻2」が、今回は土曜時代劇の枠で始まった。
  脱藩浪人・坂崎磐音(山本隆史)や磐音に気のあるおこん(中越典子)などのレギュラーキャストはほぼ前回と同じ。また、かつて磐音の婚約者だったが、今は吉原の花魁となった奈緒(笛木優子)との再会もありそうで、今後のドラマの展開が楽しみだ。
  それにもまして、前回の主題歌である新妻聖子の「愛をとめないで〜Always Loving You〜」(岩里祐徳作詞、佐藤直紀作曲)が、今回もその主題歌になっていたのが嬉しかった。シックで心が癒されるような歌詞と音曲、そして新妻聖子の哀愁を誘うような素敵な歌声は、江戸人情と男女の心の機微を描く時代劇の主題歌としては相応しいものとなっていると思う。
  昨年9月、このCDを購入、HDDに録音し、これまで数限りなく車運転中に聴いていたが、今回また同じ歌をTVドラマのなかでも聴くことができるのが嬉しい(ラッキー)。
 ※画像は、坂崎磐音(山本隆史)と由蔵(近藤正臣)NHK。http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/kagerou2/html_kage2_story.html

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2008年09月01日

「魅惑のポップス」を聴き実母の死を悼む

080719_21100001_2[1]  8月下旬、入院中の実母(83)の病状が悪化し死亡し、ずっとTVを観ていなかった。今まで生きていた身近な人が、突然声を発しなくなり、形もなくなり消えていく。やはり悲しく、心が虚しくなる。昨夜、そのような気持ちを鎮めるかのように、やっと開いたチャンネルが「魅惑のスタンダードポップス」(NHK-BS2)だった。
  実母は、若い頃からダンスが好きで、またアメリカンポップスやジャズ・カンツォーネなどのポップス曲を英語で歌うなど、なかなかのモダンガールであった。私は、このような実母の影響も受けたが、性格が似すぎて相容れないところもあった。お互いにずっと気にかけあっていたものの同居した日々は僅かであった。この番組で数々のポップスを聴きながら、若い頃、水商売にも手を染め、色白の美人と、もてはやされたこともあった実母の思い出を辿っていた。
  番組は、左耳元に白い花の髪飾りをつけた新妻聖子が歌う「太陽の彼方に(日本語)」で開幕した。その「のってけ のってけ のってけサーフィン 波に 波に 波に乗れ乗れ 踊れ 踊れ 踊れサーフィン 太陽の彼方」という楽しいリズムに乗った歌詞を思わず口ずさんだ。
  この後、新妻聖子と井上順の司会で、「恋はみずいろ(日本語)」(meg)をトップに色をワンテーマとしたメドレーが始まった。続いて、すっかり年老いたが、今も味わいのあるデューク・エイセスのハーモニィメロディ、また鍵盤ハーモニカを奏でるピアニカ前田、さらにスーパースターメドレーはシナトラ一家と、1950年代から70年代までに歌われた馴染みの曲の数々が披露された。そのすべての旋律に心ときめき、まさにポップスは、熟年世代にとっては「心の歌」であると思った。
  新妻聖子は、中盤でも「幸せの黄色いリボン」や「にくい貴方」を英語で歌った。新妻聖子の発音は綺麗で、ポップスも流暢に歌う。このほかアルベルト・シロマ、宙美、今井清隆、Bless4、庄野真代などのベテランと若手の歌手が競演し、見ごたえ、聴き応えがあった。
  この放送曲を聴いていて、若い頃の実母のことを思い出すことができ、きっと実母も一緒に聴いていたかも知れないと思うと、ずっと沈んでいた心が少し和んだ。そして、次回9月28日の続編放送も観たいと思った。
 ※画像は、「魅惑のスタンダードポップス」に出演・司会もした新妻聖子(公式ブログ7/19から転載)。

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