2008年11月

2008年11月30日

「魅惑のスタンダード・ポップス」…ポップスの上手な知人に昨日

081015_20200002_4[1]  ポップスの上手な女性がいた。福岡でリサイタルをし、多くのファンがいた。CDも出した。彼女の歌は、いつも青春。
  昨日、久しぶりに携帯に電話した。いつも変わらぬ歯切れのよい声が飛び込んできた。「今、主婦しているよ」。幸せそう。でも、そのまま主婦で治まる人なのかなあ。今は、もう福岡にはいない。でも、いつかまた彼女の天から降ってくるような声のポップスが聴けるかもしれないと思っている。そう願っている。「また、電話してもよいですか」と尋ねたら、「もちろんよ」との返事あり、ホッとした。
  ところで、今夜は、テレビに釘付けになっていた。どうしても観たい番組は、1か月ぶり放映の「魅惑のスタンダード・ポップス」。ところが、毎週観ている「ダーウィンが来た」と「篤姫」と時間が重なっているので苦労する。HDDに入れて観ることにした。ところが数日前にテレビ等をデジタルテレビとBlu-ray Discに買い換えたばかりで取り扱い操作がわからず苦労した。「篤姫」の後は、どうしても「SCANDAL」を観てしまうので、結局、スタポーを観たのはその後になってしまった。
  いつも変わらぬ井上順と新妻聖子のさわやかな司会で始まった。今夜のスタートはやはり新妻聖子で、「ロコモーション(The Loco-Motion)」。「さァさァダンスのニュー・モード 誰でも一度で好きになる 小さい子供もOK ABC習うより やさしい Come on, Come on,do the Loco-motion with me お尻をピョンとはね スィングして・・・」、楽しく弾むようなテンポの歌に思わず一緒に口ずさむ。
  そして今夜のmedley10連発のテーマは、「花」・・・魅惑のポップス・ガーデンだった。森口博子とRinaの「Rose Garden(ローズ・ガーデン)」を皮切りに小野正利の「Red Roses For Blue Lady(ブルーレディに赤いバラ)」、清貴の「The Rose」など10曲、そのなかには前田美波里、bless4の「Edelweiss」などの静かな名曲もあった。胸躍る「Corazon De Melon(メロンの季節」(森口博子)も入っていた。
  そして、新妻聖子は、すがすがしい歌声でサンレモ音楽祭で生まれた「花のささやき(in Un Fiore)」を日本語で歌った。新妻聖子のドレスは真っ赤なドレスで胸元に花をあしらったデザイン、きっと今日のテーマにちなんでローズにしたんだね。とても似合っている。
  また上述出演者全員が日本語でコーラスした、同じくサンレモ音楽祭で生まれた「愛の花咲くとき」など、懐かしい。
  ポップスの伝説はロックンローラー山下敬二郎、言わずと知れた「ダイアナ」、ウエスタンの「思い出のグリーン・グラス」、それに「のっぽのサリー」など。凄い、声量はますます増すばかり、聴いていて気持ちが一気に青少年期に戻ってしまった。すばらしい。
  今日のポップス講座は「ブルースハープ」。ハーモニカを小さくした楽器だが、思うように上手に吹ける(吸える)ものではない。今日の講師は、妹尾隆一郎、歌の合間、合間にブルースハープを吹く(吸う)、曲芸を見ているようでもあった。
  スーパースターメドレーはビー・ジーズ(オーストラリアの3兄弟)、大ヒットした「マサチューセッツ」ほかのスタンダードナンバーの数々、そのなかで新妻聖子は「ホリデイ」を歌った。青春の日々がよみがえる。
  次回は、日曜日ではなく、12月27日(土)午後8:00〜9:58で、スペシャルという。年末、忘れないようにしておこう。
 ※画像は、ローズのドレスの新妻聖子。新妻聖子公式ブログからお借りしました。

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2008年11月29日

若い頃の実母は新珠三千代似だった(実母のアルバム)

d12[1]  故実母の家に残っていた「小学校出てから50年・ハナハト会」と題したアルバムがある。色あせてあちこちに茶色の染みがついている。
  母が卒業したS尋常高等小学校同窓会アルバムで、このアルバムを見るまでは、母が小学校時代S町に居住していたなど知る由もなかった。
  実母の口から、その頃のことなど一度も聞いたことがなかった。言いたくない理由があったのかどうか分からないが、私の方からも尋ねたことはなく、関心がなかった。というより、母はU町で生まれU町で育ったものとばかり思っていたからからだろう。
  母がS町にいた当時、当地はまだ炭鉱の採掘が盛んであったので、炭鉱に関係していたかもしれない。その後、母が父と結婚した当時、父は貝島炭鉱資材課にいたので、炭鉱とのつながりを感じないでもない。
  アルバムの発行日は、昭和60年(1985)11月23日となっているので、そのまま50年遡れば昭和10年(1935)になる。しかし、母たちが尋常6年生を卒業したのは昭和12年(1937)、高等科卒業は昭和14年(1939)だから少し計算は合わない。
  それはさておき、掲載されている数枚の集合写真を何度も開いては、そのなかに写っているはずの母の顔を探してみたが、どうも分からない。小学生の頃の母は、どんな顔をしていたのだろうか。
  私が知っている若い頃の母の容姿は、女優の新珠三千代(故人)に似ていた。どういうわけか私は、高校の頃、この新珠三千代が好きで、この人の出演している映画をよく見に行っていた。ところが、故養母は、なぜかこの女優を好きではなかった。あれだけ宝塚歌劇の好きだった養母が、どうして宝塚出身の女優を好きでないのか理解できなかった。
  今になって思うに、ひょっとしたら、私は知らず知らずのうちに、幼児期に脳裏に焼きこまれていた実母の面影を新珠三千代に重ねて見ていたのかもしれない。私が、実母と再会するのは、それより後のことだから、高校生当時は、まだ実母の顔は知らなかった。また、養母が彼女を好きでないと言っていたのは、私の実母に似ているが故だったのかもしれないと思うのは考えすぎだろうか。養母には、何かこだわりのようなものがあったように思えてならない。
  好きだった新珠三千代という女優に、こんな戸惑いながら過ごした青少年期の思い出が残っている。(つづく)
 ※画像は新珠三千代。http://www.fjmovie.com/tposter/trump/d12.htmからお借りしました。

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2008年11月28日

10年間拒否していたMRI検査を受けた

kensa_01[1]  脳神経外科に行き、初めてMRI検査を受けた。
  実は10年前に一度、ペインクリニックの紹介で別の脳神経外科に受けに行ったことがあったが、そのときは検査の直前になって、急に怖くなって止めている。ベッドに仰向けになり、MRI検査装置の穴のなかに上半身がすっぽりと入ったとき、「怖い、怖い」と叫んだので、そのまま検査が中止になった。医師に、「100人に1人くらい、こんな人がいる」と言われた。
  このとき、私は閉所恐怖症なのかと思った。以後、自らを注意して見ていると、やはり閉所に対する恐怖感があることに気付いた。では、どうしてそうなったのだろうと自問自答をしてみたが思い当たるところがなかった。
  ところが、ある日、棺桶の中で「自分は死んでない!」と叫んでいる夢をみた。このとき、養母の葬儀のときのことを思い出した。私が子どもときから成人するまで大事に育ててくれた養母、この養母の告別式のときは、人目もはばからずに泣いた。狭い棺桶に仰向けに入った養母、蓋が閉じられたときの悲しみ、そして、戸惑いながら火葬炉の点火ボタンを押した自分を思い出した。当時の火葬場は、遺族の代表者が点火ボタンを押していた。ひょっとしたら、このときの悲しい思いが深く心の中にずっと残っていて、閉所恐怖症が始まっていたのかもしれない。
  激しい肩こりと首筋の痛み、手がしびれる等の症状がずっと続いていたので、数日前、漢方薬局に鎮痛剤を買い行ったとき、薬局の主人が、「頚椎症が考えられるので、鎮痛剤を飲む前に、MRI検査を受けた方がよい」と言われ、MRIを持っている上記M脳神経外科を教えられた。そして、「自分も閉所恐怖症だが、MRI検査を受けるときは最初から目をつぶっていれば大丈夫」と言われた。
  そこで、今回勇気を奮ってMRI検査に挑戦したのであった。だが、やはりMRI検査機を見たときは、「こんな狭い空間に入るのは怖い」と思った。ベッドの上で検査技師に「右向きがよい」、「いや左向き」とか言って手こずらせたが、結局上向きになり、顔の上に野球のキャッチャーが被るようなマスクを乗せた。狭い空間の中に顔が入る前に目を瞑った。
  約20分間、各種の検査音が鳴り続けていたので、時間が経つのが早く感じた。幸いMRI検査では、脳神経のどこにも異常はなく、その前に受けていた頚椎のレントゲン検査でも骨に異常は見られなかった。心身の疲労と運動不足から肩や首がこり、筋肉痛を起こしているのではないか、冬場は肩辺の冷えに注意するようにと言われ、各種の薬を調合した鎮痛剤を処方された。
  考えてみると、今年は、実母の看護と死、その後の各種の処理事項、職場でも各種騒動が続き、精神的疲労で脳が疲労いている。運動不足もある。
  ただ、今回のMRI検査で閉所恐怖症が解消したわけではないが、10年間尻込みして検査拒否を続けていた一つの恐怖はクリアしたことになりホッとしている。
 ※画像はMRI。http://www7.ocn.ne.jp/~n.brain/mri_mra.htmからお借りしました。

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2008年11月27日

犬走りと排水枡の上を白い玉石で覆う

IMG_1909  強い雨が降っている。以前は、こんな強雨が降ると庭から流れてくる雨水が、犬走り(土間)上にある排水枡に向かって音を立てて流れ込んでいた。ところが、最近、少し様子が違ってきた。
  それは、先月20日に排水枡の蓋の上を、たくさんの白い玉石で覆ったため、排水の流れが見えなくなっているからである。
  犬走りとその一部に設置している排水枡3か所の蓋上に細目の網を敷き、その上に玉石を敷き詰めたのである。 そのため、一見雨水の排水路を遮断しているかのように見えるが、雨水は、玉石の下に吸い込まれ流れが見えなくなっているだけで、確実に排水枡までは届いている。網を敷いたのは、排水を遮断しないで、大量の重い玉石が土中に沈まないようにするためである。
  この玉石は、娘の家の庭から移動した。娘は、草抜きが嫌いで、そのために自分の家の南庭の一部に玉石を敷き詰めていたが、それでも雑草は生えるので、今度はこの玉石を取り除き、草が生えないという化成土(?)に替えたのである。 そこで、不要となったこの玉石を、私の家の庭に運び込んだという次第である。
  最近、町委託の下水道工事業者が敷地内の排水路調査に来た。この地区は、1年後に下水道が通る予定であるという。もし下水道が通れば、せっかく敷いた玉石をいったん取り除いて汚水路新設工事をすることになるだろう。敷地内のこの工事費は各家持ちだという。我が家の壁際の景観はまだ定まらないということか。

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2008年11月26日

ジュリアン子孫の先祖探索記事を読み、思い出したこと

jurian_03[1]  昨日の毎日新聞に、11月24日、日本で初めて長崎市で開かれた列福式に、天正遣欧少年使節の1人中浦ジュリアン(1568?~1633年)の子孫が列席されたとの記事が載っていた。
  中浦ジュリアンは、キリシタン大名大村純忠の命により、1585年ローマ法王グレゴリオ13世に謁見したものの、基督教禁教令の渦中に帰国し1633年殉教した。「聖人」といわれてもよい人ではないかとは思っていたが、これまで聖人に次ぐ「福者」にすら列せられていなかったのか。今回、この「福者」の意味を知り、不思議に思えた。
  そして、この中浦ジュリアンの命脈につながる子孫が現存しておられたとは…、すごく驚かされた。
  その人は、小佐々学さん(68歳、さいたま市見沼区居住)で、亡父が亡くなる前年に語った「昔、南蛮に行った祖先がいる。代々、世間には口外しなかった」の言葉を聞き、「それは誰なのか」という思いにかられ先祖のルーツ捜しの旅に出たらしい。
  イエズス会の資料や各地の小佐々家を訪ねたりして、長崎市北部海域を領有した小佐々水軍の有力者の子息が中浦ジュリアン(生涯独身)で、その叔父から14代目の子孫が自分であることが分かったそうだ。中浦ジュリアンが重罪人だったので口外することをはばかってきたのだろう。それにしても自宅に、途中途切れているとはいえヒントとなる先祖代々の家系図が残っていたことはすごい、そして、この探究心には敬服させられた。
  私も、若いとき自分の先祖に関心を持ったことがある。家系図は存在していたらしいが、関心を持った頃にはすべて焼き捨てられていた。その家系図には、菊池一族とあったらしいが、そのすべてが正しかったかどうかは分からない。
  戸籍を遡り一族を調べまわり、養母に「お前は何をしているのか、そんな探索などするな!」と怒られたことがあった。なぜ養母が怒るのかが分からなかったが、後になってその意味が分かった。
  つまり、養母が怒ったのは、先祖探しの順番が間違っている、それを気付けということだった。戸籍上にある親族を訪ねても何も分からず、菊池一族という伝承にも、菊池地方に私と同姓の神社が存在すること以外には何の手がかりもなかった。
  行き詰まり、霊山や滝での修行、霊地やお堂での瞑想等を繰り返すなかで、「近くの先祖を捜して遡るのではなく、まず大先祖を探してから上から下れ」という霊示を悟った。
  そして、修行中に脳裏に浮かんだ地名を頼りに、数年の間、各地を駆け巡った。そうしているうちに、いつか大先祖の霊地へと導かれて行った。大先祖が、そこへと引っ張って行かれたのだと思う。そして、当時、その姓名、生没年、家族構成などもすべて脳裏にあった。
  上述の小佐々家は、小佐々水軍の子孫ということであるが、私の先祖を下ると同じく長崎県に君臨した松浦水軍の一翼(田平方面)を担っていた一族がいたようだ。親戚に大村市出身者もおり、小佐々水軍とはどこか共通するところがあり、ひょっとしたら先祖同士の間では接点があったかもしれない。
  中浦ジュリアンの子孫という小佐々学さんの列福式列席の新聞記事を読み、かつて私自身も先祖のルーツ捜しの旅をしていたことを思い出した。
※画像は、中浦ジュリアン。さいかいシティ.ねっと、http://kankou.saikaicity.net/history/saikai.html掲載画像をお借りしました。

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2008年11月25日

高血圧の人にも勧めた錠剤「ルミンA」について

ic-drug_y0130[1]  私は、もともと血圧は低い方であるが、外気が寒くなると、ときどき高くなることもある。
  たとえば、朝、起きたとき「寒い」と思いながら、血圧を測ると上下ともに高くなっているときがある。
  こんなことが続くと、「大丈夫かな」と不安になることもある。だからと言って血圧の薬を飲むのも大げさすぎるし、どうしたものかと思う。
  病院の高血圧の薬を飲みだすと勝手にやめられなくなると聞いたことがある。素人考えではあるが、血流をよくするために血管を風船のように膨らます、それが高血圧の薬で、薬を止める膨らんだ血管が急激にしぼみ、血流の流れが悪くなり危険ということなのだろうか。
  でも、薬を飲み続けて血管を膨らましたままの状態にしていたら、血管そのものの張りがなくなり、薄くなって破れってしまうことってないのだろうか。
  私も、あるとき、某医院で冒頭のようなことを話したら、すぐに高血圧の薬を出されたことがあった。服用すると、そのつど頭がふらふらしだすので止めた。
  その後、某漢方薬局で勧められた漢方薬を服用したところ、すぐに平常値に戻った。効果が早かったので、いつも高血圧の話ばかりして悔やんでいる知人に、その薬を勧めたら、「臭いがくさい」と言ったので、かわりに「ルミンA」の服用を勧めた。
  この「ルミンA」は漢方薬ではないが、同じ漢方薬局で「血圧にも効果のある」と聞いていたからであった。それ以来、その人は血圧の話をまったくしなくなったので効果があったのだろう。
  同じく高血圧で苦しんでいた別の人にも話したら、後日、「お陰で高かった血圧が下がった」と感謝された。この「ルミンAは、即効的に高血圧を下げる効果はないが、漢方薬と同じように徐々に効いてくる」と聞いていた。その人の場合、服用を始めて40日くらいたってから効果が現れてきたという。
  説明によると、この薬の有効成分クリプトシアニンO.A.コンプレックスが組織細胞を復活、生長させ、細網内皮系機能を高め細動脈の血行を旺盛にするらしい。
  この作用で体にできた炎症や症状は元の状態になるように修復されるという。したがって「急性化膿性疾患、末梢神経系疾患、湿疹、創傷、熱傷、凍傷、汗疱性白癬」などに効果があるそうだ。
  そういえば、以前、急性パニック症で不安な日々を送っていた人にも勧めたことを思い出した。その人は、少し時間はかかったが、半年後にはすっかり症状が治まり、元の明るく元気な姿に戻った。
  最近、寒い朝など血圧が上がることがあり、ふと、心身の万能薬のようなこの薬のことを思い出して漢方薬局で買ってきた。この薬は漢方薬ではないので一般の薬局でも売っている。
 ※画像は、錠剤「ルミンA−100γ」の外箱(森田薬品発売、林原生物化学研究所製造、定価9975円)。

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2008年11月24日

村主章枝失速のニュースに一瞬「えっ!?」

サンケイスポーツ・ロシアspm0811211552000-p1[1]  フィギュアスケート・グランプリ(GP)シリーズ第5戦ロシア杯女子SP(11/21)で村主章枝(27歳)が首位に立ったというニュースを見たときは、これで総合2位以内に入ればGPファイナル進出が決まる、「今年はやったね」と思っていた。
  ところが、翌日、女子フリー(11/22)で3位、総合3位に終わったという。このニュースを耳にしたとき、一瞬「えっ!?」、「どうしたのだろう?」と思った。
  TV実況放送はなかったので詳しいことは分からないが、ニュースによると、演技後半に乱れたようで、ジャンプで転倒することはなかったものの、ジャンプで小さなミスを重ねたという。今回もやはり回転不足等に難点のあるジャンプだったのか、「重圧はなかったが…」とのコメントがあったが、残念だっただろうなあ。
  これで2シーズンぶりに目指していたファイナル進出が危ぶまれる状況になったが、行かせてあげたいなあ。でもファイトのある人だから、今後も簡単に諦めることなく、また再起を誓い奮起することだろう。これまで彼女の頑張る姿を見て勇気付けられきた私としては、彼女が頑張り続ける限り今後も変わらぬ応援を続ける。
 ※画像はサンケイスポーツ(ネット) http://www.sanspo.com/sports/photos/081121/spm0811211552000-p1.htmからお借りしました。

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2008年11月23日

「列福式」直前のホテル予約OKは奇跡に近いこと

産経ニュースacd0811151047004-n1[1]  長崎で法事があったので、昨夜、長崎のホテルに泊まった。数日前、ホテルを予約するとき、市内のどのホテルも満室で、あちこち探しているうちに、偶然のようにシングル1室のキャンセルが出たところに巡りあわせ、予約をした。
  ホテルに着いた後、長崎の知人とあって食事をした。知人に、「ホテルを取るのに苦労した」ことを話し「連休の間は、長崎はホテルが取れないように観光客が多いのですね」と言ったところ、「いえ、そうではなく、今日、ホテルが取れたのは奇跡に近いことですよ」と言われた。
  「なぜ?」と問うと、「24日に長崎で列福式があり、バチカンを始め世界からカトリック信者が、続々と長崎に集まってきていますから、ホテルは一週間ほど前からどこも満室になっているはずです」と言われた。
  「そうなんですか、だったら運が良かったんですね」と言うと、「そうですよ」と言われた。この知人は、カトリックの信者なので、この列福式に期待をしているようだった。私が列福式の意味を知っていると思われたのか、それ以上の説明はされなかったが、実のところは初めて聞く言葉だったので、何のことかよく分からなかった。
  今朝、たまたまホテルに置いてあった読売新聞(11/22付)の「広告のページ」を見ていて、やっとその意味が分かった。そこには次のように書かれていた。
  「江戸時代に殉教した日本人カトリック信者188人を、ローマ教皇庁が正式に「福者」に列する「列福式」が11月24日、わが国では初めて長崎市で行われる。」
  「福者は、カトリック教会において死後その人の徳と聖性が認められたことを証する敬称で、「聖人」に次いで崇敬される。福者の列に加えられることを「列福」といい、これを公式に宣言する式が「列福式」。」
  今朝、法事の会場に向かうタクシーの中でも、運転手さんが同じ話をされ、「長崎市内には、参集するカトリック信者3万人を収容できるだけのホテルの客室が、ファッションホテルを含めてもないので、長崎県下はもちろん、佐賀、福岡のホテルに至るまで予約でいっぱいになっているはずですよ」と言われた。
  このような世界的規模の行事が行われる最中にホテルが取れたということは、まさに「奇跡に近いこと」と言われたことが理解できた。これはきっと神仏の仕組みがあったのだと感謝した。
  次の話は、列福式とは関係ないが、前述のカトリック信者の知人(私と同年齢)が、仏式で亡父50年忌法要をされたことを付記する。
  「父が死んだときは、仏式で葬儀を出しましたが、子どもの私たちがカトリック信者となったため、以後父の供養をする者がおらず仏壇も位牌もすべて焼き捨てました。ところが、最近になってもう父の死から50年経っていることに気付いて、やはり供養は仏式でしてあげねばいけないのではと思いました。もともとの檀家であった寺を訪ねたら、戒名の記録が残っており、その寺で供養してもらいました。今までカトリックの信者としてお寺で合掌をしたり法事をすることなど絶対に許せないことだと思っていましたが、この歳になってやっと亡父はカトリック信者ではなかったのだから仏式でやってあげなければと思うようになれました。そして、それをする自分を許すことができました。こんな気持ちになれるまで、これだけの齢を重ねなければならなかったのです」と言われた。
  確かに、家の宗教と自分の信仰とは別のもので、自分の信仰は一代限りで、家の宗教を変えることは好ましいこととはいえない。仏教徒というか一般的な日本人は宗教に対する肝要さ、言い換えれば「いい加減さ」があるが、カトリック信者となると、そんないい加減さは許せないのかも知れないのだろうと思った。知人は、本当によいことをされたと思う。

 ※画像は、「列福式」で福者となる、天正遣欧少年使節の中浦ジュリアンの像=10月、長崎県西海市。産経ニュースhttp://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081115/acd0811151047004-n1.htmからお借りしました。


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2008年11月22日

たまたまチラシで見た青春のアイドル吉沢京子さん

image1[1]吉沢京子  たまたま手にした「リンクル化粧品」のチラシに女優吉沢京子の顔写真が載っていた。
  現在も女優として各方面で活躍しておられるのだとは思うが、まったくその様子を知らず、私の脳裏には、若い頃の吉沢京子の顔だけが残っていた。そのため、このチラシを見たとき、すぐに吉沢京子だとは分かったが、一瞬、脳裏に残っていた吉沢京子のイメージと違うと思った。
  それもそのはずで、私が、最後に吉沢京子が出演している映画を見たのは31歳の頃のことで、以後、舞台でも雑誌でも見た記憶がないので、そのとき見た吉沢京子の印象が35年間ずっと脳裏に刻まれたままだったのだろう。その映画のタイトルは「涙のあとから微笑みが(1974年作品)」、吉沢京子20歳のときの作品だったと思う。かなり心に響く衝撃的な映画だった。
  チラシの見出しには「デビューから41年」と書いてあり、また「柔道一直線のヒロイン」と注釈のある当時のセーラー服姿の写真も載っていた。この「デビューから41年」というのは、13歳で映画デビューした「燃えろ!太陽(1967年)」を指しているのだと思う。続いて「柔道一直線(1969年、桜木健一主演)」のヒロイン(ミキッペ)を演じたときは15歳で実に可愛かった。
  その後、「さぼてんとマシュマロ(1971年)」や「父ちゃんのポーが聞こえる」などに主演し、同学年の岡崎友紀とともに清純派アイドルと称された。現在の「アイドル」という言葉や概念は、当時、この二人によって確立されたそうだ。
  吉沢京子がデビューし、アイドルとして活躍していた当時、私は既に社会人になっていた。青春の夢の実現に人生を賭けて戦い破れ、方向転換を余儀なくされた時代のなかで、吉沢京子の活躍を横目で見ていた。私にとっても青春のアイドルだった。その吉沢京子も既に54歳(1954年3月生)、つくづく年月は知らない間に経過して行くものと思うが、久しぶりに苦難の時代の青春のアイドルに巡りあえたような気分だ。活躍を祈る。
 ※画像は、若き日の吉沢京子。「京子ファン」http://kyokofan.hp.infoseek.co.jp/からお借りしました。

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2008年11月21日

故実母供養の純白の胡蝶蘭の花びら散る

IMG_1872  昨夜、拝殿に置いていた3連の純白の胡蝶蘭の花びらがすべて散り終わった。9月12日に飯塚市の花屋さんが、「お母様の七日ごとの追善法要にお供えください」と言われ、贈られたものだった。それから数えて、すべての花びらが散るまで実に70日間(母の死から86日)かかったことになる。
  その間に母が残したもろもろの残務処理、相続手続きを完了することができ、花びらが散ったこの日は、丁度、母が卒業した尋常高等小学校の同窓生の人たちに出した喪中ハガキが、届き終わった頃であり、この散花は、これで一区切りがついたという証なのだろう。
  思い返してみると、実母の死後、母の家にあった遺品の数々は、一部の親族が跡形もなく持ち出した。形見分けという類ではなく、持ち出した品の多くは、リサイクルセンターや質店などに持ち込んで換金したと聞く。また、代理店として所有し残っていた大量の健康食品と得意先名簿や領収書を持ち出した人もおり、得意先に売却したものと推定される。これらのことを見聞するにつけ浅ましくも思えた。
  その後、残っていた大量のゴミを出し、廃品を業者に頼んですべて処分した。同時に母が所有していた古アパートの退去者が残していた大量の廃品ゴミも処分してもらった。この廃品処理に要した費用のほかに、これまで支払った費用はかなりの額になる。
  たとえば入院治療費、葬祭費、火葬費、お斎費、仏壇修理費、位牌代、霊園管理料、納骨費、未払いの固定資産税、後期高齢者保険料、介護保険料、所得税、町県民税、死亡所得者確定申告による税金と税理士報酬、電話通信料、電気代、ガス代、下水道代、鍵付け替え代、ゴミ袋代、アパート屎尿処理代、火災保険料、不動産移転登記料と司法書士報酬、相続税にかかわる税理士報酬、香典返し品代、喪中ハガキ印刷発送代、諸手続き(戸籍・改製原戸籍・除籍謄本、住民票、固定資産評価額証明、登記簿謄本、交通費、通信費)、その他雑件。
  これからも不動産を所有する限り付帯して支払わねばならない費用がある。たとえば、家屋修理費、植木の消毒や剪定費、除草処理代、電気代、アパートの屎尿処理費、固定資産税、所得税、町県民税、火災保険料費等等。
  母が残すはずであった現金は、生前、親切に母の面倒を見てくれていたAが持ち出した。追求してやっと返金してくれた額は僅かであった。母が一時呼吸困難に陥った6月初めに、彼は、それを待ちかねていたかのように、金庫を開け、現金、預金通帳、印鑑を持ち出したのであった。銀行では、印鑑で引き出した事実もあり、印鑑盗難にすることを勧められたが、身内から犯罪者を出したくないという思いから、それはしなかった。しかし、母は死ぬまでAを許してなかった。
  また、健康食品代理店をして、大量の健康食品を仕入れ高額の仕入れ費を支出していた。いつも大量の在庫を抱え、自分でそれらを飲みすぎて肝臓を壊しただけで、採算が取れていたとは思えない。これらのことがあり、現金も預金もさほど残ってはいなかったが、諸々の支払の一部に充てることはできた。
  母にしてみれば、死後の処理のすべてを私に託して逝ったのだと思い、生前、母のためにさほど孝行らしきことをしてあげられなかった私としては、それに応えてあげなければという思いがあり、掛かる費用はすべて支払う覚悟で遺産相続した。
  遺産となった高台にある140坪の敷地上に建つ屋敷(築35年)、ここからの見晴らしは良いが、坂道の奥まったところにある土地で、売却するには面積が広すぎる。さらに不況の時代、売却するにしても貸家にするにしても難航しそうである。
  古アパートもほぼ同時期に建てられたもので空き室も多い。解体費をかけて解体するにしても居住者の立退きが容易ではなく、空き室を低家賃で貸すにしても改修費にかなりの費用がかかる。
  負の財産を相続したようなものだが、今はこの不動産問題を残すのみになっており、一応、諸々の雑件処理は片付いたといってよく、純白の胡蝶蘭は、これを見定めて、残っていた最後の花びらを散らしたのだと思う。
  母は、死後のことをすべて私に託し、それに応えるように次々に処理して行ったのを霊界から見守り満足して極楽往生している。厭離穢土 欣求浄土、南無阿弥陀仏。

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