2008年12月

2008年12月31日

ハナ ハト マメ マス

IMG_1949  アルバムの頁をめくると「見ることのできなかった奉安殿の中の御真影と教育勅語」と書かれた頁があり、若き日の昭和天皇陛下と香淳皇后陛下の御真影と教育勅語の写真が貼ってある。
  戦前の教育は、良きにつけ悪しきにつけ教育勅語(明治23年10月30日制定)の精神に従った国体の一致があった。現在見直されている孔子の孝の精神も織り込まれた道徳の基本ともなるもので、戦前、戦時中の子供たちは丸暗記して学校の朝礼等で称えていたと聞いたことがある。
  「朕推フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ億兆ヲ一ニイテ世世厥ノ美ヲ清セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス・・・」
  思えば母も、この教育勅語とともに小学生活を送ったのだろう。毎日、この教育勅語の言葉を、お経を称えるように唱えていたのだろう。
IMG_1948  敗戦したとはいえ、戦時中に生まれ戦後の混乱のなかで育った私にもこの精神は受け継がれ、強い天皇(国)、強い家長・父親(家族・家庭)、この中心思想と精神こそが統一された日本国と家族・家庭を作るという精神を植えつけられていた。若い時代「生長の家」という宗教団体を信奉したのはそのためだったかもしれない。
  それにしては、今はどんな信念を抱いているのだろうか、もう一度自分を見つめなおすことが必要なのではなかろうか。
  次に開いた頁に「ハナ ハト マメ マス」と書いた「尋常小學國語讀本巻三」の写真が掲載されていた。
  大晦日の何かとあわただしいなかで、本日このブログを書きましたが、続きは年明けに書きたいと思います。本年、たくさんのご支援をいただきましたことを深く感謝します。来年もよろしくお願いします。ありがとうございました。
 ※画像は、「昭和天皇陛下・香淳皇后陛下御真影」と「教育勅語」(アルバム掲載分の複写)。

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2008年12月30日

ハナ ハト マメ マス(実母のアルバム・続)

IMG_1959  故実母が持っていた「小学校出てから 50年・ハナハト会」と題したアルバムの発行日は、昭和60(1985)年11月23日で、今より23年前(母60歳のとき)に作られたものである。
  表紙をめくると、「昭和28年冬」とペン書きの注記がある1枚の画像が貼ってある。左側の門柱に「篠栗小学校」と書かれた看板がみえるので、同小学校校門付近雪景色を描いた絵だとわかる。篠栗は、若杉山や八木山の山麓にあり、今でも雪が降ると積雪することが多い。
  現在は、「篠栗小学校」と彫りこまれた低い門柱が右側に立っている。その後方の通路の両側に数本の桜樹が立ち並んでいるので、絵に描かれている雪化粧をした樹木のトンネルは、桜並木だったのかもしれない。
  篠栗小学校の呼称は、戦後(昭和22年〜)からで、戦時中は篠栗国民学校(昭和16年〜)、戦前、母が在学したと思われる昭和6(1931)年〜昭和14(1939)年(高等科卒業)の間は篠栗尋常高等小学校であった。母らが在学当時の校門付近の風景は、多分、絵に描かれた風景と変わらなかったのかもしれない。
  アルバム1頁に「風雪の半世紀」と題した巻頭文がある。この文を読むと、同窓生が還暦(満60歳)を迎えたことを記念してアルバムを発行したことがわかる。文中にある「ところどころに戦火と血と別離をにじませた紋様」は、自分たちが生きた時代を感慨深く振り返ろうとしている言葉のようだ。
  在学中であった昭和12(1937)年、丁度尋常小学校6年を卒業した年に日中戦争が勃発、日本国が大戦への道をひたすら突き進むなかで同14年高等科卒業、その2年後の同16(1941)年に、およそ4年に及ぶ太平洋戦争が始まった。
  母らは、多感な少年少女時代から青春時代のさなかに、戦争抜きでは語れない時代を生きなければなかったのだ。この時代、誰一人として平穏な生活を送った人はいなかったのかもしれない。
  先日、出した喪中ハガキ49通のうち返事があり生存が確認された人は1人だけ。「宛所に尋ね当たらない」と返送された10人を含め、来世に旅立った人も多いことだろう。現在、生きておられれば83歳。戦前、戦中、戦後の激動の時代を生き抜いた人たちに与えられた称号は「後期高齢者」、やはり、いたわりのない響きのする言葉だ。
  次の文章は、アルバム巻頭文の転記である。
  「悠久の昔から私たちの祖先がつむいできた歴史
  そのなかからこの60年を裁断するとしたらほんの僅かな断片かも
  しれない
  しかしそこには私たちが生き喜び悲しみを織りなしてきた昭和と
  いう歳月がある
  肌にかようぬくもりとずっしりした重みが伝わってくる
  灰色に塗りつぶされ
  ところどころに戦火と血と別離をにじませた紋様
  枯れ草色から豊かな緑へ
  カーキ色から華やいだ黄金色へとかわった糸
  それらをないまぜた60年の断片の布にどんな絵柄が浮きでてくる
  のだろう
  不透明な混沌の今から惜しみなく生きる日々のあかしをどう織り
  ついでゆくのか
  現在の岸辺で半世紀の布を時間の河にさらしてみる
  一本一本の糸を確かめるために」。
 ※画像は、昭和28年冬の篠栗小学校校門付近の風景画(アルバムから転写)。

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2008年12月29日

Uさんの絵手紙(実母のアルバム−2)

IMG_1936  実母の死後、Uさん(福岡市早良区)から届いた絵手紙(ハガキ)が保管されているのに気付いた。
  その数90枚。
  日付(消印)を辿っていったら、平成11(1999)年5月14日(※左上の画像)から平成20年8月7日まで実に9年に亘っている。
  その絵は、優しいタッチで自ら描かれた花鳥風月の水彩画で、「ゆうこ」や「修子」と書かれた雅号朱印が押されてあり、絵心得は本格的と思える。
  また、達筆の文にもひきつけられた。その文には、母の健康を気づかっているものが多く、思いやりの気持が伝わってくる。
  そのなかから一枚選んで次に紹介する。
IMG_1942  「少しずつ春を感じますね。その後おからだの方は如何でございますか。折々の検診で病院へ行かれるのでしょうが外出しても汚れた空気やウィルスだの黄砂だと安心も出来ませんよ。おまけに花粉症ときたら目も当てらせんもの充分ご注意あそばしませ。このところ私は殆外出しておりません。少しは足ならしに歩かないとそのうち大変なことになると思いつつなかなかね。暖かくなったらと待機しています。絵手紙も御無沙汰ですが今回は春色の貼り絵でご機嫌伺いいたします。おからだ大切におすごしくださいませ(08.3.9)」。
  なお最後となった「立秋」と書かれたホオズキの絵手紙(※最下段の画像)は、表面に「夜毎の風は少しずつ秋の気配になってきました。しばらくお目にかかっておりませんが御活躍の事と思います。まだ暑い日が多いでしょうからムリされずお元気でおすごしください。またいづれ又」と文が書かれていた。(08.8.7)
IMG_1940  この文を読んで、この時点では、Uさんはまだ母が入院中であることを知らないことが分かった。
  入院中の母に絵手紙を届け、「この人は誰なの」と尋ねたら、「親友」と答え、「電話したい」と言った。
  すぐに母の携帯でUさんに電話を入れた。
  母が弱弱しいかすれ声で近況を話した。その後、私が替わり、初めてUさんと話した。
  母が話した内容は、殆ど聞き取れなかったようだったので、私が息子であることを告げ、母の現況を話した。Uさん自身は、高齢で遠出が出来ない状態で、書いた絵手紙は家族のものに出してもらっていると話された。電話での話を通してでもUさんの人柄のよさが伝わってきた。
  結果として、この絵手紙が、母が受け取った最後のものとなり、この日の電話が心の友と最後のお別れとなった。
  このとき、この絵手紙が届いていなかったら、電話をすることもなく、死後心残りとなっていたかもしれない。必要なときに必要な手紙が届くのは偶然とはいえない。
  この20日後に母は、息を引き取った。
IMG_1937  母の死後、Uさんからの絵手紙がたくさん出てきて、本当に心の友だったと推測できた。
  晩年の母にとって、このような思いやりのある唯一無比の友がいたことは、嬉しく、どんなに癒されていたことだろうかと思う。

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2008年12月28日

今年最後の魅惑のスタンダードポップス

081125_22110002[1]  昨日(12/27)放送された今年最後の魅惑のスタンダード・ポップスは、「大人になりたい(新妻聖子)」「ロック・アラウンド・ザ・クロック(Rina・藤岡正明)」「ラ・バンバ(BabyBoo)」「イパネマの娘(ジュディ・オング)」「ダンシング・クィーン(純名りさ)」「シェリーに口づけ(新妻聖子)」「ロシアより愛をこめて(今井清隆)」「上を向いて歩こう(中川晃教)」など聴きなれたポップス・メロディやフランジアのミュージック・ベルの演奏など聴いていて実に楽しくあっという間に過ぎた2時間スペシャルだった。
  スペシャル企画「ウェルカム・トゥ・ジャパン」コーナーに、リチャード・カーペンターが登場、彼の奏でるピアノに合わせて、その娘ミディ・カレン・カーペンターが歌った「Little Alter Boy」は、じっくりと心が揺さぶられるほどすばらしかった。
  その後、園まり・中尾ミエ・伊東ゆかりが「ポップスの伝説」コーナーに登場し、一転賑やかになった。彼女たちは既に還暦を過ぎているが、その歌が大ヒットした頃は10代、当時、盛んにツイストが踊られた時代で「スパーク三人娘」といわれていた。
  中尾ミエが「ポップスを歌っているときは、永遠に娘でいられる」と言っていたが、確かにポップスは年を越えても変わらない。中尾ミエの気炎は、「80歳まで歌い続ける」「若さの秘訣は若い男だ」と衰えを知らない。
  この三人娘が次々にヒット曲を飛ばし続けていた頃は、まだカラオケなどない時代、ミュージックボックスやレコードで流れる歌に合わせて歌い踊ったものだった。なかでも中尾ミエが好きで、この日歌った「可愛いベイビー」や「夢見るシャンソン人形」などよく口ずさんだ。
  そして、ザ・ビートルズのヒットナンバー、1963(昭和38)年デビュー曲「プリーズ・プリーズ・ミー」から1970(昭和45)年解散前の最後のナンバー「レット・イット・ビー」までの選曲ナンバーを出演した歌手が歌い綴った。この中で新妻聖子は、運動会の入場行進曲を思わせる「イエロー・サブ・マリン」を歌った。
  ビートルズが来日しヒルトンホテルに宿泊した日の物々しい警戒態勢、その頃、私はその近くで働いていたので、今も心に残っている。
  昨日は、実母の月命日だった。母が亡くなって早や4か月、実母が好きだったポップス、この日に今年最後の魅惑のスタンダード・ポップスが放送されてよい供養になった。今は喪中でもあるので、正月を迎えるに当たって黄色の実をつけた南天を生けた。
 ※画像はスタポー出演中の新妻聖子(公式ブログからお借りしました)。

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2008年12月26日

シンビジューム「伊都の新星」(新種)を飾る

IMG_1932  一般的にシンビジュームは、まず、鉢の中で数本の力強い茎がまっすぐ伸び、その茎にたくさんの蕾をつけて、次々に可憐な花を咲かせる。その期間が長く、毎日見ていて楽しい。
  でも、なかなか思うようには茎がでてくれない。育て方に気が回らなくなって、ついつい庭に出して放置していると勝手に生育して花を咲かせたりすることがある。
  そのときは嬉しくて大事にしているが、長期間、花を楽しみすぎて弱らしてしまったり、いつの間にか鉢の中に巣を作った蟻に根を食い荒らされて、枯れてしまったりしたものもある。
  そんなことを思っているとき、井上花屋さんが、「お母様(故実母)のご供養に供えてください」と新種のシンビジュームをお歳暮代わりに届けられた。
  3立の茎が「しだれ」(サイズ7.0)になっており、まっすぐ伸びてはいないので、一瞬「これは本当にシンビジュームなのか」と思ったが、どうもそこが新種である所以のようだ。
  このシンビジュームの名は、「伊都の新星(Ito no Shinsei)」(現在、品種登録出願中、品種権利者は日高定輝氏(有)日高農園)というそうだ。薄緑に覆われた中に可憐な白い花が咲いているような感じで、とてもシックですがすがしい。(※画像参照)
  この花屋さんは、私がシンビジュームを好きなことを知り、わざわざ目新しく珍しい品種のシンビジュームである「伊都の新星」を探し出して、福岡花市場を通して取り寄せられたらしい。ありがたく嬉しいかぎりである。
  今夏、故母の葬儀に際してこの花屋さんから生花を買ったことを恩義に感じて、「夏場の一番花の売れない時期に大量の花を買っていただいたのが嬉しくて、そのお礼に」と、届けられたものだが、とても律儀な花屋さんだと思う。これからもいっそう繁盛されることを祈る。
  このシンビジューム「伊都の新星」を、二月堂(お経机)の上に塗鉢ごと乗せて仏間に飾った。
  実母の位牌は、私の家にはないが、仏間で供養できる。きしくも仏間で、26日は養母の月命日、27日は実母の月命日、28日は納本尊供養会と供養行事が続き、一連の追善供養に、このシックな一鉢が花を添えてくれそうだ。合掌。

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2008年12月25日

師走収穫の伊万里梨「愛宕」の大きさにビックリ

imrinasi   NASI[1]  近所の人が箱詰めの「伊万里梨」をくれた。箱を開けてビックリした。
  直径約15cmもある大きな梨が5個、箱の中を占拠。その梨のあまりの大きさにビックリしたのである。一個の重さは5kgくらいあると思う。
  これまで荒尾のジャンボ梨のことは、梨狩りに行ったことがあるので知っていたが、伊万里にもあったのだ。しかも、実りの秋の収穫ではなく、師走の寒い季節に収穫されるのも珍しい。
  説明によると、この伊万里梨は「愛宕」といい、お歳暮用のみに限定栽培されているものらしい。大きさに負けないほどに水気も多く味が良い。日が経つと鮮度がおちるので早めに食べた方が良いようだ。
  結構有名な梨らしいが、今まで知らなかったので勉強不足だった。伊万里といえば伊万里焼、と、私の頭の中には、焼き物の里のイメージしかなかったので少し反省。ビックリしたついでにお知らせまで。
  なお、伊万里梨には、このほか8月上旬〜中旬に生産される「幸水」、9月上旬〜中旬の「豊水」、10月上旬の「新高」などがあるそうだ。
 ※画像は伊万里梨、「imrinasi」http://www.hachigamenet.ne.jp/~masaaki/imari/html2-2.htmからお借りしました。

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2008年12月24日

「ジュリアン」の花、冬の庭を彩る

IMG_1931  冬の庭、山茶花がチラホラ咲きだしたが、まだまだ蕾が多い。
  肥後椿が一輪咲いた。今年は、肥後椿が珍しくたくさん蕾をつけている。
  いずれも満開になるのは、年が明けてだろう。
  南庭のアジサイは、今夏1輪だけの開花で寂しかった。今秋、株分けして、その後にサルスベリの小さな苗を移植した。
  窓からその場所を見ると、やたら土の色ばかりがめだつ。
  娘が彩のあるジュリアンの花を買ってきたので、少し分けてもらい、そこに移植したら華やかになった。
  寒さに強い花だから、しばらく楽しめそう(※画像掲載)。

  今年は、不和あり、実母の死あり、加えて今秋の急激な経済の冷え込み、迷いも多く意気の上がらない年であった。
  それでも、未知のことを学習し体験し、散々迷った挙句、深みにはまる前に収拾できたことも多かった。きっと神仏の助けを頂いたのだと思う。
  たとえば、持ち株の下落による売却、買値の半値で手放したが、そのまま持っていれば紙切れ同然になっていた。業者一括借り上げ方式によるアパートの建設を契約間際に思いとどまった。経済の先行きが見えないときに膨大な借財を抱えるべきではないようだ。

  「運命をひらく」という花言葉のあるジュリアンの花々や、冬の寒さを吹き飛ばすように鮮やかに咲く山茶花や肥後椿の花々のように、来年は華やかな光明の射す年になればと願っている。

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2008年12月23日

前登志夫さんの歌碑で思い出したこと雑記

  前回、「吉野山に前登志夫さんの歌碑が建立された」の文を書いたとき、ブログ「短歌と英語大好きのおばさんの日々」の文章の一部を引用させていただいたが、その著者(「ふうさん」といわれる)からコメントをいただき嬉しかった。

  それによると、「前登志夫さんは華やぎ、さびのある歌人」で、今、歌集「落人の家」を読んでおられるとのこと。前さんの短歌には、多くのファンがおられたのだと改めて知らされた。私など、蔵王讃歌に感動して、それのみを後生大事にしていたに過ぎない。そういえば、蔵王讃歌には、華やぎ、さびも歌いこまれている。吉野の山の華やぎとさびを歌いこみ宗教音楽として最高の出来栄えだと思える。ふうさんのコメントを読んで改めて感じた。
  そんなことも考えずに、私は、22年前の金峯山寺蔵王堂昭和大修理落成慶讃大法要初日、秘仏本尊蔵王権現の御開帳にあわせ、約150人の混声大合唱で奉唱された「蔵王讃歌」に、ただただ感動して、その余韻をずっと引きずっていただけだったのか。

  昨日、F社のY支社長が年末の挨拶に来られたとき、「ブログ読みました。吉野に前登志夫さんという立派な歌人がおられたのですね。知らなかったことを知り、とても勉強になります」と言われた。こうして、少しでも多くの人に今は亡き前さんのことを知ってもらえることは嬉しい限り。

  ふうさんは、短歌大好きのお方だが、私は作ったことない。だが、どういうわけか、毎月購読している機関紙「宗像」に掲載されている「宗像大社歌会詠草(大野展男選)」だけは、いつも楽しみに見ている。面白い歌もあるが、身が縮むような歌に出会うこともある。1首見ているだけで、その人のおおよその年齢や心情、あるいは情景が思い浮かんでくるのが不思議に思える。たとえば、

  「歳のこと話題となりきしみじみと鏡の中のわが顔を見る」(天野玲子)

  「そうだよなあ」と思って、感動ともため息ともつかないような感慨にふけったりすることもある。

  ところで、前登志夫さんの歌碑が蔵王堂から妙法殿への道筋に建立されたと知り、そのあたりの風景を思い浮かべていたとき、いろんな思い出がよみがえってきた。

  たとえば、妙法殿だが、私が蓮華奉献で新客として初めて山上ヶ岳(大峰山)に登ったとき、仮眠をとったのが妙法殿だった。
  不謹慎なことだが、前夜11時頃までビールを数本飲んで布団に入った。寝る間もなく午前2時起床、鈴懸に着替え東南院台所に行き朝食、炊事の女性(ここで働く女性も早朝から行者のために大変な「隠行」をしておられるのだと思った)に腰弁当用のおにぎりを作ってもらい、午前4時、蔵王堂を出発した。

  このとき、柳澤真悟師(現金峯山寺副住職)が千日回峰行を修行中で、その疾風のような速さで過ぎ去って行く後ろ姿を見送りながら忍者を連想していた。昭和55(1980)年だったと思う。

  また、入壇潅頂[昭和61(1986)年]及び開壇潅頂[平成2(1990)年]を終え金峯山寺五條順教管長から印信を渡されたのも妙法殿だった。まだまだあるが、必至に何かを求めていた時代のことばかり。

  今度、吉野山に帰山するときは、妙法殿近くに建つ前さんの歌碑を拝見することを楽しみにしよう。

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2008年12月19日

吉野山に前登志夫さんの歌碑が建立された

081126_08180002[1]  12月7日に、たまたま目にしたブログ「短歌と英語大好きのおばさんの日々」に「前さんの歌碑が、吉野山の金峯山寺の境内の南朝皇居跡公園に立てられたという記事があった。刻まれた歌は、さくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへり  歌集「青童子」より  ご自身がわかりやすい歌をと、生前に選ばれたものだという。05年のころから歌碑建立の話があり、碑の文字も自筆の色紙から採ったものとのこと」と書かれていたのを見て、すばらしいことだと思っていた。(http://blogs.yahoo.co.jp/fumanband/45849064.html)
  前さんと直接を言葉を交わしたことはないが、昭和60(1985)年10月14日金峯山寺蔵王堂前で「蔵王讃歌」の大合唱が披露されたときお見かけしたことがあり、以来、お名前は、作詞された「蔵王讃歌」とともに忘れたことはなかった(4月8日記載ブログ参照)。
  最近(10月8日)では、ブログsomething like that で、次のような文を見て、私も読んでみたいと思っていたほどである。それは、「前さんと駿台」というテーマで「10月5日に行われた駿台予備校の全国模試をちらちらみていたら、国語の問題に、前登志夫さんの「存在の秋」の一節が引用されていた。吉野の桜の話、ビルマで戦死されたお兄さんのしてくれた楠正行の話などであった。」(http://pinecones.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-ebc9.html)
  そんな折、金峯山寺から届いた「金峯山時報(12月10日発行)」で「前登志夫氏の歌碑 有志により建立する」の記事を見た。
  記事を見ると、建立除幕式は11月25日に執行され、その場所は妙法殿前辺りのようだ。そういえば、そこに「南朝皇居跡」の石碑が建っていたような記憶がある。ここを南朝皇居跡公園というのだろう。昭和56年から27年間、毎年、「金峯山時報」新年号に掲載されてきた前氏の新春短歌集を金峯山寺にて編集発刊したとのこと。また遺弟の集い「山繭の会」の萩岡良博氏が歌碑の詩を披講されたという。「山繭」は「やままゆ」と読むのだろうか。
  この後で、金峯山寺・田中利典宗務総長のブログ「山人のあるがままに」を読んだ。「吉野のサクラをこよなく愛し、また自分自身が吉野の山林に定住して、山川草木の深い慟哭を聴き続けて来たことでしられる歌人」で、「今年新年号の最後の歌が「一基だに われの歌碑なき吉野山 雪ふみくだる いさぎよかりき」であった。この歌をいただいたとき、えーー、先生の歌碑はたくさん建っているのに吉野山にはなかったのだとはじめて気づき、ま、督促していただいたようなものだと悟って、早速建立話を寺内ですすめるところとなった。先生の意向もお聞きして「さくら咲く ゆふべの空のみづいろの くらくなるまで人をおもへり」という自筆の歌を刻むことを指示いただいたが、生前中の建立はかなわず、昨日ようやく建立をみて、4月に亡くなった先生の遺影にささげたのであった。」とあり、ようやく歌碑建立の経緯が分かった。
  また、金峯山寺に寄稿された歌は、昭和45年以来の分を含めると99首もあるそうだ。
  前登志夫さんは、山深い山中の集落(自宅/下市町広橋)で生育され、林業に携わる傍らで、吉野山の自然をこよなく愛し讃える短歌を詠み続けられ、土俗の前衛的歌人とも称されていたが、本年4月5日吉野の山桜の咲く季節に82歳で亡くなられた。
  死後にはなったものの念願の歌碑が吉野山、しかも吉野櫻に包まれた修験道の総本山金峯山寺境内に建ち、きっと霊界で喜んでおられることだろう。この歌碑は前氏の菩提碑と言ってもよく、すばらしい供養碑となることだろう。今度帰山したときは、必ず見学し合掌を捧げたいと思っている。
 ※画像は、「山人のあるがままに」http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-e2de.htmlからお借りしました。

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2008年12月11日

朝日新聞Miss Saigonメッセージに新妻聖子

31  12月1日から朝日新聞西部本社版朝刊に、来春1月5日から博多座で公演されるMiss Saigonのプリンシパル24人のメッセージ広告が掲載されています。枠は小さいがカラーで載っているので、すぐに目に付く。毎日、楽しみに見ているが、今日は、新妻聖子だったので嬉しかった。メッセージを次に転記します。
  「新妻聖子が博多座で「ミス・サイゴン」キム役を演じるのは、もしかしたら一生に一度かもしれません。あなたに、観ていただきたいです!! 2月18日まで博多の街に滞在しながら、心を込めて日々の舞台を勤めます。是非、この感動を目撃しにいらしてください!!」
 ※画像は新妻聖子公式ブログ(8/31、スタボー出演時のもの)からお借りしました(朝日新聞掲載ミス・サイゴンの画像ではありません)。

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