2009年07月

2009年07月31日

ちょっと一息、木村カエラさん

8]  今日も、ちょっと一息。
  最近、TVやラジオで木村カエラさんの「BANZAI」や「Butterfly」の曲を、何度聴いたことか。
  木村カエラさんの曲を聴いていると、不思議な幻想の世界に引き込まれていくみたい。
  6/24にアルバム「HOCUS POCUS」をリリースされたとのこと。
  今、乗りに乗っていますね。
  アルバムのジャケットで、頭に付けている髪飾りは、お化粧のパフらしい。
  すごく奇抜だが、とてもよく似合っていた。
  モデルから歌手に転進して、もう5年になるのですね。
  木村カエラさんのこと、少し勉強しようと思い、木村カエラさんを特集している雑誌「papylus[パピルス]8月号」を買ってきました。
  この雑誌に載っている木村カエラさんの髪型やお顔を見ているだけで、何か楽しく、気持が落ち着くのはどうしてなのだろう?。
  9/23には、福岡でもライブがあるらしい。
  ※画像は、木村カエラさんを特集している雑誌「papylus[パピルス]8月号」の表紙(表紙のモデルは木村カエラさん)。

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2009年07月30日

加藤ミリヤさん(ファッションとアンティーク)

7]  一息ついたとき、加藤ミリヤさんの曲を聴こうと思い、HDDに録画していた「流派−R(7/7)」と「最新ヒット ウェンズデーJ−POP(7/8)」を開いた。
  内巻きのロングへヤーとかレースのワンピースを女らしすぎないように着こなすとか、加藤ミリヤさんのファッションを模した女性たちのことを「ミリヤー」というらしい。
  21歳のバースディ・ライブで、多くの「ミリヤー」たちが紫陽花の花を手にしての熱狂、すごい人気だ。同世代の女性たちに共感される憧れの歌手なのだろう。
  今回、加藤ミリヤさんがリリースしたアルバムのタイトル「Ring」は、10代に抱いていた孤独感が20代になっても消えることないと分かったので、この感情と戦い続けて行くという意味を込めてつけたという。
  加藤ミリヤさんは、10代には新しいもののみを追い求めたが、20代なって昔のものに対する尊敬の念が芽生えてきたという。
  アンティークな楽曲をよく聴くようになり、特にホワイトベースのさわやかなアンティークが好みで、アンティークな小物に凝る、そしてアンティークな髪に凝る、アンティークなもののなかに新しいものを求めようという気持が湧いてきているという。
  いわゆる温故知新の考え方ができるようになったということなのだろう。
  このアンティークを、反映された曲が「Love Forever(加藤ミリヤ×清水翔太)」だという。
  初めて、この曲を聴いたとき、本当にすばらしい曲だと思ったが、そんな気持が込められていたのか、だから、その気持が何となしに伝わってきのかもしれない。
  この「Love Forever」ほか、「恋シテル」や「FUTURECHECKA」、「LALA」、「Aitai」、「SAYONARAベイベー」などの曲もゆっくり聴かせてもらった。
  これからもっともっと伸びていってほしい。
  (※本ブログ5/20、6/27、7/18参照)。
  ※画像は、「LAWSONロッピーグッズカタログ(2009.7)」の表紙の載っていた「加藤ミリヤさん」(スクールオブロック)です。

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2009年07月29日

鐘崎・織幡神社でも汗・・・(7)武内宿彌

前回「鐘崎・織幡神社でも汗・・・(6)鐘崎の地名」からつづく。

 このテーマのブログを書き始めた7/21、たまたま織幡神社に行かれた人のブログを見た。その人の文が愉快で、思わず引き込まれた。カメラを持って旅をするのがお好きな人のようで写真も満載だった。

 その人の文、(織幡神社の)「社殿は閉まっていましたが、中をのぞくと、おじいさんがいました。」には、思わず度肝を抜かれた。「えっ!!何?」と思ったほどだった。
 拝殿中央部の小窓(お賽銭を投げ込む小窓か)から、中を覗くと、絵馬に描かれた「おじいさん」の姿が目に入ったらしく、思ったままに「おじいさん」と表現されたのだろう。
 もちろん、この「おじいさん」が、主祭神の武内宿彌であろうということには気付いておられるのだが、そのことを述べる文のくだりも楽しかった。
 一部転記させてください。→「盗撮とも言えるかもしれません。神様、赦してくらさい。・・・おじいさん、神様!(笑)この神社の由来や祭神からすると、武内宿禰さんなのかも。こんな所にいらしたとは。」

 小窓から撮影された絵馬には、佐屋形山をバックにした浜辺で竹竿に吊るした紅白二流の旗を立てて、お付きの者を従えて立っている「おじいさん」の姿が描かれていた。
 この絵は、多分、神功皇后が三韓(新羅)進攻の航海の途次、この地に立ち寄ったとき、武内宿彌が紅白二流の旗を織って、竿(御手長)につけた、故に織幡という神社名由来の故事に基づいて描かれたものだろう。

 絵馬の白旗に、「富貴長命神」の神号が書かれていた。「富貴」と「長命」をもたらす神ということなのだろうが、この旗がたなびくたびに、この功徳が波風に乗って広まるという旗の御霊の信仰形態を表しているのだと思う。
 もちろん、白旗にこのような文字が書かれていたというような故事はないと思う。

 この絵は、浜辺で竿を立てているが、故事に「浜辺」で竿を「立てた」という記述があったのかどうかは分からない。
 当時、佐屋形山の地形がどんなだったかは分からないが、京泊の海岸を望む「沓塚」の辺りに立てたことにすれば、武内宿彌の昇天伝説は、旗に宿る御魂の功徳を昇華させた場所となり、伝説の舞台としての効果抜群だっただろうなんて、また勝手な空想を巡らした。

 ただ、この絵に描かれている武内宿彌は、髪毛から眉毛や鼻ひげ、顎ひげまですべて白髪で、本当に「おじいさん」過ぎる。武内宿彌が、神功皇后に従って従軍した頃は、もっと若々しかったと思う。
 織幡神社の「沓塚」が武内宿彌の昇天地であるという伝説にとらわれすぎて、こんな「おじいさん」の絵ができてしまったのだろうか。

 武内宿彌が旗を織ったというが、武内宿彌に機織の技術があったのだろうか。
 この故事は、この地に、武内宿彌を共通の祖とする機織の技術を有した秦氏などの渡来系の人々の存在があったことを物語っているのではないか。
 旗(はた)の文字は、秦(波多)に通じる。
 ※別記参照→「鐘崎・織幡神社の絵馬(武内宿禰の紅白二流旗)」。

 また、この故事で竿に象徴される宗像神と機織にかかわる伝承は、日本書紀応神紀37年条にあり、ここに出てくる「工女兄媛、弟媛、呉織、穴織」は、宗像大社末社「縫殿神社」(福津市奴山)の祭神として祀られている。

 織幡神社から海岸線に沿って東に進むと、「波津海岸」(遠賀郡岡垣町)に至る。
 神功皇后がこの海岸に旗を立てたので「旗の浦」という地名が生まれた、この「旗の浦」が後になまって、現在の「波津」となったという地名の由来の伝承がある。
 ここで注目したいのは、織幡神社の社外摂社に「大歳神社」(宗像市上八)があり、前述の「縫殿神社」の主祭神が大歳神であり、ここ波津にも大歳神を祀る「大年神社」があるということ。
 鐘崎、織幡神社とその周辺には、もうひとつ素盞鳴命や大歳尊にかかわる隠された歴史があったのではないかと思う。
 ※別記参照→「大原神社と波津の神々(2)〜付記 (岡垣町原・波津)」。
(この項おわり)

 ※別記→「織幡神社へ (宗像市鐘崎)」。
 ※別記→「鐘崎海女(石像)が見つめる沈鐘石と鐘崎の海(織幡神社)」。
 ※別記→「伊摩神社・煩悩越えの石段(1)」。

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2009年07月28日

鐘崎・織幡神社でも汗・・・(6)鐘崎の地名

前回「鐘崎・織幡神社でも汗をかいた(5)祭神・沓塚・今宮など」からつづく。

  鐘崎や織幡神社の発祥説話は、神功皇后伝説で彩られて、どうも真実の姿がぼやけている。
  神功皇后や武内宿彌は、実在した人だとは思うが、記紀を初め各地に残る伝承をそのまま信じるわけには行かないと思う。

  鐘崎には、神功皇后が三韓(新羅)から持ち帰った釣鐘が、鐘岬の沖(鐘崎神社の北東沖)に沈んだという沈鐘伝説と、それ故に、「鐘岬」と「鐘崎」という地名ができたという地名の由来伝説がある。
  潮流が激しく海難事故が多発する鐘崎の暗礁(そね)もある海域だと聞くので、この近くで釣鐘を積んだ船が沈んだと考えても不思議ではない。別に唐から運ばれてきた釣鐘が竜神に沈められたというような話も聞いたことがある。

  この沈鐘伝説がいつ作られたものかは分からないが、長い間、人々に信じられてきたようで、室町〜江戸時代(文明5年[1473]宗像大宮司興氏・慶長9[1694]黒田長政ほか)に沈鐘を引き上げの試みがあったが、そのつど失敗したという記録が残っているそうだ。
  そして、大正時代になり、やっと伝説の沈鐘を引き上げることができたが、それは釣鐘状をした巨岩であったという。その巨岩は、鐘崎神社の入り口近くに置いてあり、ここを沈鐘公園と言っているようだ。
  それにしてもすごい話だと思う。おのおの引き上げに挑戦した人たちの歓喜と落胆の姿が想い浮かぶ。ときの為政者たちの心をも揺さぶるほど、すごいロマンのある物語である。

  もちろん伝説とか伝承を否定することはできない。この伝説があったから「鐘崎」の地名が生まれたことを否定するものではないが、もともと「鐘崎」と書いていたものかどうかについては、次のようなことも考えられるのはないかと思う。
  そもそも、いつの時代から「鐘崎」と書かれるようになったのだろう。
  前回記した宗像古縁起では「金崎織幡(大明神)・・・本地仏如意輪観音垂跡者武内大臣之霊神也」とあり、「鐘崎」は「金崎」となっている。15世中ごろの縁起だと聞いているので、その当時は「金崎」と記していたのだろう。
  ほかの記録を知らないので断定はできないが、多分、「鐘崎」のもとの地名は「金崎」だったのではないのか。もし「金崎」だったら、沈鐘伝説ではなく、金を産出・搬出する御崎(金岬)となるのだろうか。

  織幡神社の南東部に「宗像四塚」と称される湯川山、孔大寺山、金山、城山が連なっているが、この宗像四塚のなかに「金山」の名を冠する山がある。
  そして、これらの山々の麓には、金銀銅の鉱脈があり、古代より採掘されていた形跡があるらしく、今に旧金山址が多く残っているという話を聞いたことがある。
  このことから推察すれば、「鐘崎」のもとの地名は「金崎」で、その地名の由来は、金山採掘と関係があったのかも知れない。

  蛇足だが、先日(4/19)、鎮国寺で宗像五社の本地仏を拝観したが、どういうわけか、長い間、上記の孔大寺山の中腹に鎮座する孔大寺神社を含めて宗像六社と思い込んでいた。
  孔大寺神社には、これまでに1回しか参拝したことがない。背丈を越える夏草を掻き分け、何度も蜘蛛の巣を顔に受け、汗をかきながら、参道の山道を登って行った記憶がある。いつか再訪してみたい。

※つづく→「鐘崎・織幡神社でも汗・・・(7)武内宿彌」。

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2009年07月27日

鐘崎・織幡神社でも汗をかいた(5)祭神・沓塚・今宮など

前回「鐘崎・織幡神社でも汗をかいた(4)林のなかを右往左往」。

 これまで何度も織幡神社を訪れているが、不思議なことに境内で誰にも会ったことがなかった。ところが、この日(7/19)初めて人に会った。
 織幡神社の拝殿右手前の斜面にある「沓塚(石塔)」の前を通って、急斜面にある小さな石段を下り、表参道の石段の途中に出たとき、下から石段を上って来られる1人の高年配男性と出あった。
 「こんにちは」と声をかけたら、「こんにちわ」と返事を返された。そのまますれ違っただけのことだったが、がっちりした体格で、地元の漁師さんだったのだろうか。

 鐘崎は、漁港で、漁師さんの町なので、鐘崎にある織幡神社の主神は海の神(わたつみ)の方が相応しいように思えるのだが、主祭神の武内大臣(以下武内宿彌と書く)は、海の神ではない。

 ところで、「沓塚」だが、主祭神の武内宿彌が沓を置いて昇天した場所だという。
 にわかには信じられない話だが、それにしても、主祭神武内宿彌が、なぜ急斜面の山の縁の、こんな狭い場所で昇天しなければならなかったのか。
 通常だと、神が昇天した場所に神社を建てると考える方が一般的だと思うのだが・・・。
 当時の佐屋形山の地形はどのようになっていたのだろうか。現在の形に整備されたのは、いつの頃だったのだろうか。そんなことを書いた記録には行きあたっていない。

 織幡神社相殿の祭神は、志賀大神、住吉大神、天照大神、宗像大神、香椎大神、八幡大神、壱岐真根子臣など。
 この中で武内宿彌と関わりが深い神は、香椎大神、八幡大神、それに壱岐真根子臣(武内宿彌の身代わりとなって死んだといわれる臣で、この子孫の一族の人が代々織旗神社の神官を務めている)で、武内宿彌が秦氏と関わりがあると考えれば宗像大神もということになりそう。

 また、本殿左後方に並ぶ境内神社は、須賀神社(素盞鳴命)、稲葉神社(宇賀御魂神)、海原神社(和多津見神)、御崎神社(埴安命)、白峰神社(顕仁命)、直日神社(大直日神)、高殿神社(応神天皇)、根岳神社(平家臣霊)と聞いている。
 この境内神社の社は、神霊の数に比して、かなり小さく感じるのだが、もとからこの程度のものだったのだろうか。

 境内神社といえば、もう一つ、表参道石段を下りきったところから海側(上り参道から見れば左側)に行ったところに「今宮神社」の石祠がある。
 以前から気になってはいたが、京都の今宮神社から勧請したものではないかとは思うものの、ここではその由緒、祭神についての説明がない。
 あるネットで、この「今宮神社」の祭神を武内大臣と書いてあるものを見たことがあるが、それだと、本殿の主祭神と同じになってしまう。
 今まで、この境内社の「今宮神社」について考証したものを見たことがないが、通常、参道の途中には地主神を祀ることが多いので、織幡神社の主神の座を譲った元神・鐘崎産土神を祀っているのではないか。また、「今宮神社」のすぐ下は海岸であり、海の神様を地主神として祀ったとも考えられないだろうか。

 境内のどこか分からないが、数基の箱式石棺があったという伝承もあるようで、また、境外摂社「大歳神社」のある場所には上八(こうじょう)貝塚があり、鐘崎は日本海女の発祥地でもあり、もともと織幡神社には武内宿彌よりも古い時代の海の神様が祀られていたのでなかろうか。
 織幡神社相殿に志賀大神、住吉大神、また、境内神社(海原神社)に和多津見神など、明らかに武内宿彌よりも古い時代の海の神々が祀られており、どこかで、何かのできごとで主祭神の入れ替わりがあったのだろうか。

 渡来系の秦氏が宗像に進出して宗像神と結びつき、古い海神系文化圏を持つ鐘崎に進出し、渡来系の氏族の祖として武内(大臣)宿彌を織幡神社の主祭神としたという説を聞いたことがある。
 上八(こうじょう)とか、朝鮮語読みでないと読めないというような地名が残っているのも、その証の一つなのだろうか。
 これにより、後に織幡神社は、「金崎織幡(大明神)・・・本地仏如意輪観音垂跡者武内大臣之霊神也」と宗像古縁起に記されるような、本地垂迹を持つ宗像五社の一つに数えられる宗像神郡における高い地位を得たのかもしれない。
 ・・・等々と、また勝手な想像を巡らしている。

※つづく→「鐘崎・織幡神社でも汗・・・(6)鐘崎の地名」。

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2009年07月26日

魅惑のスタンダードポップス/ダンスミュージックにわくわく

29新妻聖子ブログ2  楽しみにしていた2か月ぶりの「魅惑のスタンダードポップス」、今日の出演メンバーも豪華だった。
  いつものように、井上順さんの司会で、新妻聖子さんがライブハウスでお客さまと一緒に、笑顔で和やかに歌うポップスで幕開け。
  今日の、このスタートミュージックは、「ロリポップ・リップス(Lollipop lips)」だった。いつ聞いても新妻聖子さんの歌、そして英語の発音もすばらしい。
  今回のワンテーマ・メロディコーナーは、ダンスだった。
  そのトップバッターが、渡辺真知子さんの「ダンス天国(The land of thousand dances)」だったので、すごく嬉しかった。
  さらに、このコーナーのラストナンバーだった「ヤングマンY.M.C.A」も、渡辺真知子さんのリード歌唱、良かったねえ。
  いつもわくわくするような渡辺真知子さんの力強い歌声ありがとう。
  渡辺真知子さんの歌声は、いつも青春だ。私もまだ老いてはおられないなあ。
  このほか、久しぶりに聞いた「踊り明かそう(I could have danced all night)」(ナオミ・グレースさん)、その他数々のダンスミュージックに酔いしれた。
  それから今回、知念里奈さんが初出演し、シルビア・グラブさんも出ていたので、新妻聖子さんと合わせてミュージカル「ミスサイゴン」の仲間3人が揃った感じだった。
  このメンバー見ていて、今年の博多座新春公演にかけられた「ミスサイゴン」のすばらしい舞台を思い出した。今もペリコプターの音が聞こえるようだ。
  あ、そうだ、冒頭に「今日のメンバーも豪華だった」と書いたが、このほかに菅原洋一さんや田辺靖雄さん、小野正利さん、清貴さん、SEASONさん、(それに映画評論の山田五郎さん、シーズンの皆様の「燃えよドラゴンのテーマ」の演奏)ら、豪華メンバーが出演。今も菅原洋一さんのタンゴには聞き惚れた。
  これらの、とても声量のあるベテランから若い歌手の皆さんたちが、この「魅惑のスタンダードポップス」の番組を支えているから、聴いていて、いつも、どんどん魅惑のポップスの世界に引き込まれていくのだろう。
  今日は、魅惑のスタンダードポップスに、とても満足したので、ゆっくり眠れそうだ。
  次回は、8月30日放送とのこと。この日は、たまたま衆議院議員選挙の投票日、でも、投票終了時間前後の時間帯の放送だから、投票を済ませてからゆっくり楽しめそう。
  ※画像は、新妻聖子さんのブログ(2009.5.29)からお借りしました(新妻聖子さんと知念里奈さん、シルビア・グラブさん)。

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鐘崎・織幡神社でも汗をかいた(4)林のなかを右往左往

前回「鐘崎・織幡神社でも汗をかいた(3)小賀玉の木」からつづく。

 織幡神社本殿の裏山は、天然のイヌマキ、シイ、タブ、ヤマツバキなどの群落で覆われており、福岡県の天然記念物地域に指定されている。
 本殿の裏山で神域ではあるが、不入地にはなっていないので、この林のなかに入ることはできる。
 以前、何度も行ったことがあるが、当時は、林のなかに小道がついていたので、その道を辿って行けば鐘岬の断崖絶壁に至り、岬から続く潮流の激しい暗礁(そね)の先にある地島を望むことができた。
 しかし、今はどうなっているか分からない。

 こんな話をHさんにしたら、「行ってみたい」と言われたので、一瞬「どうしようか」と迷った。
 この季節に、人があまり行き来しない林のなかに入ると、道が夏草に覆われて踏み跡が消えて道に迷うことが多く、また、知らない虫に刺されたり噛まれたりする。
 こんなことを今まで何度も経験していたので、ここもそうではないかという予感がしたからだった。
 少し不安はあったが、「岬までそんなに遠い距離でもないし、とにかく行ってみるか」と思った。「途中で道が消えていたら危険だから引き返すよ」と言って、林の中に入った。

 林の入口から小道を少し進むと、小道の上をシダやジャガーが占拠して、小道が途切れ途切れにしか見えないような様相を呈していた。
 多分、予感が的中しているのではないかとは思ったが、慎重に足元の道跡を探しながら進んだ。
 倒木をまたぎ乗り越えると、夏草に混じって、膝くらいまで伸びたヤマツバキの枝木が所々で道をさえぎりだした。
 さらに生い茂るシイやタブ、ほかの雑木の新葉が道を覆い隠し、最後は立ち枯れの枝木などもある藪のなかに突っ込んだ。
 いくら何でもこれほどまで荒れているとは想像していなかった。最初から踏み跡もなかったし、最近、誰も通っていないと確信した。

 林のすぐ前方に青い空が見えており、潮風も吹き付けてきていたので、目的地の鐘岬の断崖はすぐ眼前にあると分かった。
 無理して直進することもできたが、行くには行けても、帰路に自信が持てなかった。
 「もう、これ以上、無理して進んだら帰れなくなくなるよ、引き返そう」と言った。
 Hさんも同じように思ったようで、すぐに同意した。ここから引き返した後、すぐに道に迷ったので、この判断は、間違っていなかったと思う。

 二人とも、ここまで登ってきた道がどこだったか、まったく分からなくなっていた。
 登ってくる途中にあった巨木の幹(全く見上げていないので何の木だったかは分からない)を帰りの目印にと思っていたが、いざ下りだしたら、登るときに気付かなかった巨木が何本もあり、どれがどれか分からなくなっていた。
 結果、道なき林の中を上下左右に右往左往することになった。
 どこをどう通ったのかなど分かるよしもないが、何とか林の入口に戻ってきた。着ていたポロシャツやスボンは泥だらけになっていた。

 Hさんは、汗を拭きながら、「まさか戻るときに道が分からなくなるなんて思ってもみませんでした、山(林のなかで迷ったとき)の怖さがよく分かりました」と言っていた。
 私は、汗を拭きながら、数日前(7/17)泌尿器科で検診を受けたとき、1か月前(6/16)に手術した左尿管の体外衝撃波結石破砕術(ESWL)は、ほとんど破砕されておらず失敗していたことが分かったばかりだったので、道に迷ったときに痛みなどが出ないでよかったと思っていた。
 二人とも薮蚊に刺されていたようではあったが、悪戦苦闘した割には怪我がなくてよかった。神に感謝した。

 ※別記→「鐘ノ岬の原生林」。

 ※つづく→「鐘崎・織幡神社でも汗をかいた(5)祭神・沓塚・今宮など」。

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2009年07月23日

鐘崎・織幡神社でも汗をかいた(3)小賀玉の木

 前回「鐘崎・織幡神社でも汗をかいた(2)京泊」からつづく。

オガタマキノキの葉 織幡神社表参道の石段をのぼりきったところの左に「オガタマノキ」(モクレン科の常緑高木)がある。
 説明板に「小賀玉の木(緒霊樹) 現在天ノ岩戸神社と当社境内に残る貴重な木で太古より玉串はこの木を用いていました、今は榊を用いています」とある。

 「緒霊樹」という書き方は珍しいが、もともと「オガタマ」は、「招霊」のことなので、「招霊(オガタマ)の木)」と書いた方がわかりやすいような気もする。
 「小賀玉の木」は、「招霊(オガタマ)」を読みやすくめでたい漢字に置き換えた当て字なのだろう。なお、このうちの「玉」の文字は、「玉串」の「玉」を当てたのかもしれない。

 太古(神話の時代)、アメノウズメノミコトは、天岩戸の前で真坂樹を持って踊ったとされているが、実は「招霊(オガタマ)の木」だったのではとも考えられ、この木は、太古から神前での招霊のための神楽舞や玉串奉奠のときに用いられていたようだ。
 ※別記参照→「山口八幡宮(5) 天岩戸・アメノウズメ絵馬図(宮若市山口)」。

 それだけに、現在でも「オガタマノキ」は、多くの神社仏閣に植えられ、関東以西に広く分布し、宗像地方でも楯崎神社奥院や年毛神社等でも見られるので、説明板にある「現在天ノ岩戸神社と当社境内に残る貴重な木」という意味はよくわからない。
 或は「貴重な木」の意味は、上記2社のみに残る「オガタマノキ」の自生林、又は原木ということなのだろうか。
 しかし、オガタマノキは、古木ともなると幹が太く20mの高さにも達するといい、ここ織幡神社の「オガタマノキ」は、高さは10m有余あると思うが、原木にしては少し幹が細いかなあ。

 いつだったか2〜3月頃、まだ寒いなか、織幡神社を訪れたとき、この木に白い花が咲き、ほのかな香を発していた記憶がある。

 もともと、光沢と厚みのある楕円形の葉を持つ常緑広葉樹に神が降臨するという思想があったらしく、これに該当する「オガタマノキ」や「本榊」、「非榊・姫榊」、「梛木(ナギ)」、「ネズミモチ」などの木々を、依代(よりしろ)として玉串に用いたようだ。
 したがって、「榊」(ツバキ科サカキ属)が「オガタマノキ」に取って代わって玉串に用いられるようになったということでもなさそう。ただ「榊」は、身近で手に入りやすいので、近年、用いられることが多くなったのかな。
 なお、「榊」の文字は、明らかに「木」と「神」を組み合わせ「神の木」とした日本製漢字。

 ※画像は、オガタマノキの葉。織幡神社で写真を撮るのを忘れてしまっていたので、「オガタマノキの画像」からお借りしました。

 ところで説明板の「緒霊樹」の「緒」の文字を見て、「オガタ(マ)」と読んだとき、ふと「緒方」の文字が浮かび、「緒方三郎惟栄(義)」の名が浮かんだ。
 海人発祥伝承もある緒方氏は、招霊とかかわりある一族であったのかもしれない、などと、また勝手な想像(空想)を始めた。
 ※別記参照→「緒方三郎惟栄と緒方三社」。
 ※別記参照→「緒方8・・・緒方三郎惟栄に対する想い」。
 ※別記参照→「緒方氏の始祖は大蛇神(龍神・竜神)」。
 ※別記参照→「瓶子紋(家紋)と緒方氏(豊後大神氏/緒方三郎惟栄)」。
 ※別記参照→「故緒形拳さんが、魂が還る旅をした緒方町」。

 ※つづく→「鐘崎・織幡神社でも汗をかいた(4)林のなかを右往左往」。

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2009年07月22日

鐘崎・織幡神社でも汗をかいた(2)京泊

前回「鐘崎・織幡神社でも汗をかいた(1)」からつづく。

 「京泊」、なんとなく優雅か感じのする地名だなあ。
 京から訪れた船が停泊する海岸(波止場)という意味から付けられた地名なのだろうか。
 昔、「京泊」で下船した京の人たちが、思い思いの衣服を着て、まず波止場の上に鎮座される神にご挨拶するため、「京泊」の参道を通って織幡神社を目指して歩いて行く風景を想像するとロマンチックになる。
 しかし、「京泊」は、もとは「経泊」だったという説もある。鎌倉時代(1231年)に勧進僧の往阿弥陀仏がここに鐘崎波止(船瀬・防波堤)を築いたが、そのとき、その礎石にお経文を書いたので「経泊」と言われた、というのである。
 でも、京というと平安貴族が思い浮かぶように、平安時代に「京泊」の地名が発生したと考えれば、「京泊」の地名は、「経泊」説がでる以前からあったことになる。そう思った方がロマンがある。  
 いずれにしても、「京泊」の参道は、既に鎌倉時代にはあったということになるのだろうか。
 そこで、仮に鐘崎神社に神仏混淆(習合)による本地仏如意輪観世音菩薩を祀る神宮寺があったとすると、この神宮寺は、「京泊」の参道が表参道に行き着くところ辺りにあったと考えると分かりやすい。つまり、その場所は、丁度、建ったばかりの社務所がある辺りということになる。
 ここ(社務所の裏)に立って、松林が広がる美しい「京泊」の海岸風景を眺めながら、こんなどうでも良いような、勝手な想像(空想)を巡らしていると楽しかった。
 同行しているHさんに、「では、ここからは一気にのぼろうか」と声を掛けた。「はい」と元気の良い返事が返ってきた。
 ここからは、暑さで若干疲れも出てきだしていたので、ゆっくりと表参道の石段を一歩一歩踏みしめてのぼったが、最上部の石段をのぼりきったところで立ち止まったら、一気に汗が噴出した。
 Hさんは、最初、境内の入口で、この山を見上げたとき、「想像していたほど高い山ではありませんね」と言っていたが、「実際、のぼってみると結構疲れますね」と言った。Hさんも汗をかいていた。
 ところで、ここ鐘崎神社境内では一枚の写真も撮っていなかった。想像以上に疲れていたのだろう。

※つづく→「鐘崎・織幡神社でも汗をかいた(3)小賀玉の木」。

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2009年07月21日

鐘崎・織幡神社でも汗をかいた(1)

 山田地蔵尊(宗像市山田)を後にして、鐘崎(宗像市)に向かった。

織幡神社 鎮国寺本堂に祀られていた如意輪観世音菩薩が織幡明神の本地仏とあったので、この織幡明神とは鐘崎にある織幡神社の祭神に違いないと思い、今回の宗像行きの目的地を鐘崎に定めたのであった。(4/21の「宗像大社、鎮国寺参拝2~ツツジ満開」参照)。

 この織幡神社に如意輪観世音菩薩を祀る神宮寺があったのだろうか。
 ※別記参照→「安延山承福寺の如意輪観音(宗像市上八)」。

 何度見ても読み方を忘れる「上八(こうじょう)」の信号を過ぎて、鐘崎漁港の集落に入ると、鐘崎の岬(鐘岬)の突端部にある円形の小山が見え隠れする。この山が、織幡神社が鎮座する佐屋形山(小夜形山)である。
 佐屋形山という山名の由来は、確か、遠くから眺めると小さな屋形に見える山という意味だったかと思う。この鐘岬から地の島が目前に見えるので、往古より玄界灘を通る船は、この佐屋形山を格好の目印としたことであろう。
 織幡神社の入口近くに車を停め、車のドアを開けると潮の香りを吸い込んだ。
 その右の方に、以前にはなかった山に上る舗装中の車道(工事中の看板あり)ができているのが目に入った。
 この道は、山下遥拝所横から上る脇参道に接続し拡張し車が上下できるようにしているのではないのかと思った。そうしてみると、脇参道の途中にあった小さな石段などは寸断されているのではないのかと思った。
 表参道の石段を途中まで上ったら、右手に立派な社務所が建っていた。まだ完成して間もないようだ。その横には、車が数台駐車できるスペースがあった。社務所の裏手に回ってみたら、やはりこの駐車場まで車道(坂道)が上ってきていた。まだ完全に舗装工事が完了していないので「工事中」なのだろう。
 ここに社務所を建築するために、この車道を作り、社務所まで車で上って行けるようにしたのであろう。でも、この社務所の建物は、周りの景観と馴染んでいないように感じる。このような場所に社務所を作る必要があったのだろうか。

 ただ、社務所の裏から京泊の海岸が見えたのは、気持が良かった。車道の縁に壊れた鳥居の残骸が積み重ねて置かれていたが、その鳥居の向こうは京泊に至る松林で、参道は見えない。
 以前、京泊の海岸に行ったときの記憶を辿っていたら、確か海岸線近くの松林の中にも鳥居が建っていた記憶がよみがえってきた。かつて京泊の海岸からここに上って行く参道があったのだろう。そして、この参道は、いつしか使われなくなって松林のなかに埋もれてしまったのかもしれない。どうせなら、壊れた鳥居と、この参道の復活もしてほしいものだ。
 ※画像は、織幡神社鳥居から参道(佐屋形山)を望む (織幡神社 - Wikipediaからお借りしました)。

※つづく→「鐘崎・織幡神社でも汗をかいた(2)京泊」。

keitokuchin at 23:59|PermalinkComments(2)TrackBack(0)