2009年09月

2009年09月30日

楯崎神社旧址にいた「沢蟹」 [楯崎神社(2)]

楯崎6

※上の画像は、楯崎神社旧址に残る旧鳥居台石の溝孔を這い上がるオスの沢蟹(2009.9.13撮影)

  今夏〜初秋、なぜか楯崎神社旧址に引き寄せられるように3回も行った。
  最初に行った8月23日、楯崎神社旧址祠付近で2匹、参道で1匹、沢蟹が這っているのに気付いた。
  旧址で、その沢蟹を写真に撮ろうとしてカメラを取り出した。しかし、何しろ沢蟹の動きの方が速く、あっという間に2匹とも見失った。
  あわてて、見失った付近を目視して、逃げた沢蟹を捜したが、見当たらなかった。

  楯崎神社旧址は、海岸の絶壁上にはなるが、薬師岳の斜面上にもなり、辺りは樹木で覆われ木陰になっており、湿気も多い。
  旧鳥居の台石や石塔、散乱している石もあり、また、つる状の雑草などもあり、沢蟹にとっては絶好の隠れ場所がたくさんある。

  2回目に行ったのは9月10日、この日は、まったく沢蟹を目にしなかった。

  3回目は、9月13日、楯崎神社旧址で3匹の沢蟹を目撃した。

  1匹目は、旧址祠付近にいた。前回より少しゆっくり歩いているように見えたので、今度は失敗しないぞとカメラを構えた。
  しかし、近づいた途端、急に歩行が速くなった。シャッターを切ったときは、鋏の一部が草陰に隠れていた(※下の画像)。

  2匹目は、旧鳥居の台石の溝孔の中にいた。ここには、雑草などの隠れる場所がないので、シメタと思い、カメラを向けた。その途端、孔から這い上がったので、追っかけるように撮った(※上の画像)。
  その後は、台石の下の隙間に潜られてしまった。

  3匹目は、旧址石段の上でじっとしていた。
  甲羅が赤っぽく朱色に近かったので、これは、死んでいるのかなと思い、近づいたところ、あっという間にいなくなった。何だか、だまされた、という思いになった。もちろん、写真は撮れなかった。

  こんなに海に近い場所に生息しているカニなのに、沢蟹と書いたが、甲羅が滑らかで毛や突起がないという沢蟹の特徴を持っているので、沢蟹に間違いないと思う。

  特に、※上の画像に写っている沢蟹は、右の鋏脚の方が左よりも大きく、オスの沢蟹の特徴を持っている。
  そうしてみると、※下の画像に写っている沢蟹は、メスなのかもしれない。

  沢蟹といっても、ここには沢といわれるような渓流は見当たらない。でも、沢蟹は、雑食性で生命力が強いので、雨水を蓄えている湿気の多い山中でも生きて行けるのだろう。
  また、歩行力が強く、歩きも速く、長距離歩行も何のそのと聞くと、のんびり写真を構えたのでは間に合わないはずだ。

  だから、この日見た沢蟹たちが、ここをねぐらにしているのかどうかは分からないとしても、今は、沢蟹が楯崎神社の神の使徒として楯崎神社旧址を守っているようにも思えた。

楯崎7

 ※前回→「(2009.9.13「旧楯崎神社のオガタマノキ[楯崎神社(1)]」)。
 ※つづく→「心に閉じていた奥の院へ… [楯崎神社(3)]」。

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2009年09月29日

魅惑のスタンダード・ポップスは、やはり青春

090726_新妻聖子さんブログ※左の画像は、新妻聖子さん。新妻聖子さんのブログ(2009年7月26日)からお借りしました。これは、9月27日放送のドレスではありません。

  先月30日は、衆議院議員選挙の投開票日で、選挙関係の放送ばかり観ていて、うっかり「魅惑のスタンダード・ポップス」の放送の方を見忘れてしまい、残念な思いを抱きつつ約1か月が過ぎた。指折り数えて待っていた9月27日の放送は、忘れずに観ることができた。

  いつものようにスターティングソングは、ライブハウスに入ったお客さまたちと一緒に司会の新妻聖子さんが笑顔で歌い、その曲を、出演歌手全員が揃ってエンディングソングとして歌う。
  今回の曲は、「青い空がお陽さまにとける 白い波が青い海にとける 青い空は恋の色・・・」で始まる「恋は水色(L’amour est bleu)」だった。
  いつも、往年のポップスファンなら誰でも知っているヒット曲が選ばれる。新妻聖子さんが生誕する以前の曲ばかりだが、音感のすばらしい新妻聖子さんは、どんなポップスでもすっきりと歌唱するので素敵だ。

  そして、新妻聖子さんは、今回の「ワンテーマ・メドレー」の[POPSファッションショー]のなかでは、「Buttons and bows(ボタンとリボン)」を歌った。わくわくする「・・・bu ttons and bows」の部分だけは、テレビの前で口ずさんだ。
  また、新妻聖子さんは、今回のSuperstar medley[レイ・チャールズ]のヒットナンバーのなかから「in the heat of the night」も歌ったが、さすがに名曲、この曲は口ずさめない。

  新妻聖子さんの歌を聴くだけでも大満足なのではあるが、今回も懐かしいヒットナンバーが目白押しだった。
  そのなかでも、中川晃教さんが歌ったS.Adamoの大ヒット曲「En blue jeans et blouson(ブルージーンと皮ジャンバー)」は、よかった。字幕を見ながら思わず口ずさんだ。
  「アン・ブルージン・エブルーゾン・ドクール スカシてみても だけどなんとなく こころはブルー アン・ブルージン・エブルーゾン・ドクール きばってみても ままにはならない このうきよさ 若いいのちの燃えるままに クダをまいても 心じゃ泣いてる 俺たちだって まともになりたい せめて 可愛いあの娘のためにも・・・」。
  内面の揺れ動く若者の心がみえるような歌で、青春そのものの歌であった。よく覚えている。

  「ポップスの伝説」は、平尾昌晃さんだった。
  昭和33年2月8日第1回ウェスタンカーニバルに、平尾昌晃さんがロカビリー3人組(ミッキー・カーチス、山下敬二郎と)で出演、一躍ロックンロールが注目されたのが語り草。
  歌の世界でも大きな変革のうねりがきた時代だった。
  そんな歌に刺激されつつ私らも育った。
  平尾昌晃さんがエルビス プレスリーのナンバーから「ハートブレイククホテル」を歌われたが、この曲、当時、どれほど口ずさんでいたものか。

  魅惑のスタンダード・ポップスの数々の曲を聴くたびに心が青春時代にかえって行く。楽しくもあり、懐かしくもあり、青春時代の悔恨もよみがえってくる。心の通じ合う友もいた。よい時代だった。

  今回の出演は、松崎しげるさん、Rinaさん、中川晃教さん、桑江知子さん、シャンティ・スナイダーさん、布施明さん、Luxisさんと平尾昌晃さん、及び鈴木史朗さん(映画コーナー)、[司会]井上順さん、新妻聖子さんなどだった。
  次回は、10月25日(日)19:30~NHK・bs2放送予定、なんと「ポップスの伝説」に旗照夫さん登場という。楽しみだ。

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2009年09月28日

珍しい「大きいかぼちゃ」

大かぼちゃ

※上の画像「大きいかぼちゃ」(みなみの里にて2009/09/27撮影)。

  みなみの里(筑前町)に立ち寄ったとき、屋外の通路に、「大きいかぼちゃ」が展示してあるのに気付いた。
  思わず、近づいて見たが、大きい、これ本物のかぼちゃかな、と疑ってみたほどだった。
  でも、食用に適さない「大きいかぼちゃ」の世界大会などもあると聞いて納得した。
  そばの張り紙には、「製造者:楠田正人氏、提供日:H21.9.9」と記されていたが、これ以外は何も書いてなかった。
  少し説明が欲しいと思った。
  それでも、こんな「大きいかぼちゃ」は滅多に見られるものではないと思い、写真に撮った。
  寸法は測っていないが、後ろを歩いている人の大きさと見比べて、おおよその大きさを想像してみてください。


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2009年09月27日

彼岸過ぎ、初めて観た「ショウキズイセン」

ショウキズイセン

 ※上の画像は、黄色のヒガンバナ「ショウキズイセン(鍾馗水仙)」
  (2009.9.27筑前市で撮影)。

  昨日、秋の彼岸が明けた。
  そして今日、筑前市U家観音堂に行ったとき、その横のツゲの植え込みのなかから顔を出して咲いている黄色のヒガンバナの花を初めて観た。

  すごく美しい花で、その花の形から、最初は、黄色のユリかと思い、横にいたKeに訊ねたら、Keも「ユリですね」と答えた。
  珍しいユリだと思い、カメラに撮っていたとき、少し遅れて傍にきたKaが、「黄色のヒガンバナって珍しいですね」と言った。
  「えっ、ユリではないのですか(?)」と聞くと、「ユリじゃないですよ。花が咲いているのに、葉がないでしょうが。」と言われた。
  慌てて、ツゲの根元から伸びているこの花の花茎の根元を覗き込んだ。
  確かに、どこにも葉がない。
  花が咲いているときに葉がない、(花が散って葉が出る)というヒガンバナのハミズハナミズ(葉見ず花見ず)の特徴を呈していた。

  彼岸の頃になると、田畑の畦などで赤色のヒガンバナ(曼珠沙華)や白色のシロバナヒガンバナ(白花曼珠沙華)の花が、行列を作って咲いている風景は見慣れていたが、この黄色のヒガンバナといわれる「ショウキズイセン(鍾馗水仙)」の花を見たのは初めてだった。
  「鐘馗蘭(ショウキラン)」ともいうらしい。

  この「ショウキズイセン」の花の、長く伸びた花糸が、「鐘馗神」の長く伸びた頬ひげ、いわゆる「鐘馗髯(しょうきひげ)」にたとえられるらしく、花の名は、この「鐘馗髯(しょうきひげ)」で覚えると覚えやすいかもしれない。
  と、今、言っていても、すぐに忘れるのだが・・・。

  U家観音堂の観音様に招かれるように同所に行ったのだったが、思いもかけず美しい「ショウキズイセン」の花を観させてもらえた。
  これまで、この場所に、この「ショウキズイセン」の花が咲いていたのを見たことがなかっただけに嬉しく、良いご供養にもなったと思った。

  ※下の画像は、赤色の「ヒガンバナ(曼珠沙華)」
   (2009.9.27筑前市で撮影)。
曼珠沙華


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2009年09月26日

大森神社ァ糎羣弯析暫

なまずの郷運動公園※左の画像は、大森神社の「なまず(鯰)」の名を採った福津市総合運動公園「なまずの郷」にある噴水。借用画像。





 「由緒」には、御祭神(六柱)名を、右列と左列に分けて各三柱ずつ記してあった。
 「右記御祭神は、往時よりの御鎮座、飯盛社、小盛社、西塔田若宮社の御祭神也」。
 「左記御祭神は、嘉元二年甲辰三月社職の河津駿河守藤原重房、本国産神、伊豆権現、箱根権現、三島権現の三社の御祭神」。

 まず、「右記御祭神」の往時御鎮座三社であるが、三社各々の祭神名については明記されていない。
 これを「右記御祭神」の記述順どおりに当てはめてみると、飯盛社=伊弉諾命小盛社=伊弉册命西塔田若宮社=事代主命となる。
 同様に「左記御祭神」を記述順どおりに当てはめると、伊豆権現=水象女命箱根権現=大山祇命三島権現=石長姫命となってしまうので、この考えは間違いである。

 「右記御祭神」のうち、特に飯盛小盛神社(飯盛社と小盛社)の祭神「飯盛明神」を「伊弉諾命・伊弉册命」の二柱と考えてよいのかに絞って以下考えてみた(私見)。

 「飯盛明神」は、通常、「伊弉册命」である。

 飯盛山の登山口近くに「愛宕神社」があり、愛宕神は、火の神ないし火伏せの神の「迦具土神(かぐつちのかみ)」。修験道では愛宕神の本地仏は勝軍地蔵。飯盛山には修験道の影が見え隠れする。
 この愛宕神社と飯盛山は係わりがあったと考えると、その麓の「小盛社」御祭神は、水を掌る神、「水象女命(みずはめのみこと)であったかもしれない。
 「宗像三女神」を奉齊した筑後の水沼君は、「みずはめ」から出たとの説もあり、「水象女命」であれば、「宗像七拾五社の一」としても違和感はないように思う。

 この、「伊弉册命」「迦具土神」「水象女命」の三神は、下記[付記]に記したように日本神話では、伊弉册命の死に関して切っても切れない関係にある。

 私見では、「右記御祭神」(往時三社)は、「伊弉册命(飯盛社)・水象女命(小盛社)・事代主命(西塔田若宮社)」。
 「左記御祭神」(勧請神)は「伊弉諾命(伊豆権現)・石長姫命(箱根権現?)・大山祇命(三島大明神)」となる。
 (この勧請神のことは下述)。

 なお、「福岡縣神社誌」では、「右記御祭神」(往時三社)を「伊弉諾命・水象女命・事代主命」とし、左記勧請神を「伊弉册命・大山祇命・石長姫命」としており、由緒の「伊弉册命」と「水象女命」とが入れ替わっている。いずれにしろ「水象女命」は勧請神には該当しない(下述)。

 次に、「左記御祭神」(勧請神)だが、由緒は、「(河津)重房の本国氏神勧請合祭」と「(河津)興光・・・我祖の生国伊豆箱根両権現、三島大明神の加護なり(福岡縣神社誌)」の「重房の本国氏神」と「興光・・・我祖の(神)」は同じであるとして、「嘉元二年甲辰三月社職の河津駿河守藤原重房、本国産神、伊豆権現、箱根権現、三島権現の三社の御祭神を合齊」と記したものではないのかと思うが、「三島権現」には違和感がある。「三島大明神」の方が正しいと思う。

 重房の本国駿河国にあるのは「伊豆権現」と「三島大明神」で、「箱根権現」は隣国の相模国にあるが、古来、伊豆権現と箱根権現を合わせて「箱根伊豆二所権現」といわれたので、深く考えることはない。
 因みに、「伊豆権現」(伊豆山神社の御祭神)は、火牟須比命、伊邪那伎命、伊邪那美命。
 「箱根権現」(箱根神社の御祭神)は、瓊瓊杵尊・木花咲耶姫命・彦火火出見尊。
 「三島大明神」(三島大社の御祭神)は大山祇神・事代主神である。

 これを勧請神に当てはめると、「伊豆権現=伊弉諾命(伊邪那伎命)」。「箱根権現=?、・・・(瓊瓊杵尊・木花咲耶姫命・大山津見命などの関連神と考えれば確証はないが)石名姫命(石長姫命)」。「三島大明神=大山祇命(大山津見命)」となる。
 やはり、勧請神に該当する「水象女命」はなく、六柱の御祭神の右左配列と順番は、上述の私見で良いのかなと思ってみたりしている。

 [付 記]
 大森神社の御祭神には、神代七代の伊弉諾命、伊弉册命と、それに続く国土経営神が並んでおり、かなり神格が高く、「なまず博士」といわれる「秋篠宮」様が参拝されたこともある。
 大森神社の御祭神の使途、鯰魚使神もまた「なまずの郷」も、皇室にも知られているほど有名であるということなのだろう。地元の人々にとっては、まことに名誉なことである。

 頭を整理する意味で、御祭神に関わる上述の神々について、日本神話における神々の関係を以下にまとめてみた。
 (上記「御祭神名」の文字をそのまま使用)。

 □大山祇命(大山津見命)は、伊弉諾命(伊邪那伎命)と伊弉册命(伊邪那美命)との子で全国山の神総本家。
 □大山祇命の五子のなかに石長姫命木花咲耶姫命がいる。
 大山祇命が娘木花咲耶姫命を瓊瓊杵尊(天孫降臨の主役)に嫁がせたとき、石長姫命を添えたが、瓊瓊杵尊は石長姫命の顔を嫌い返したために短命だった。
 □彦火火出見尊は、木花咲耶姫命と瓊瓊杵尊の子(山幸彦)。
 □伊弉册命が、最後に産んだ子が火神・迦具土神(火牟須比命)。
 その火で陰部を火焼して病の床で苦しんでいるとき漏らした尿のなかから産まれたのが「水象女命」。
 伊弉册命は、このときの火傷が原因で死に、怒った伊弉諾命は十拳剣を抜き、迦具土神の首を斬り落す。
 □宗像三女神は、伊弉諾命の子天照大神(女神)が、弟素盞鳴命が腰にしていた十拳剣を取り誓約(うけい)の儀式の中で生まれた神々。
 □事代主命は、素盞鳴命の子孫大国主命の子で出雲国譲りの主役恵比寿様。(おわり)
 
 大森神社トップ→「大森神社(福津市)〜黒なまず様」。

※前回「大森神社ぁ組喟校(大守社)」。
※参照「神武神社つ鉄櫃了畤澄産神に非ず(?)…(福津市)」。
※次回「武守神社〜白鯰の恩返し1(宗像市)」。

※別記参照→「大森神社の梛〜秋篠宮殿下の御参拝記念樹(福津市)」。

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2009年09月25日

大森神社ぁ組喟校(大守社)

大森神社参道

 ※上の画像は、大森神社参道にあった植木と花。
  (名前は知らない/2009.7.30撮影)

 前回、大森神社(福津市)の「由緒」の前半部分を転記し読んでみたが、なお分からない部分が多くあったので、次に掲げてみた。

 鎮座時期は不明で、「由緒」にも書いてない。

 「主祭神六柱の内、右記御祭神は、往時よりの御鎮座、飯盛社小盛社西塔田若宮社の御祭神也」とあるなかの「御鎮座」の地は、冒頭部分の「往時、飯盛山の麓大森に鎮座」とは現在地、或はその近くか。
 この「由緒」には記されていないが、中近世に、神社の廃絶、再建、焼失、移転を繰り返す等があったようなので、もともとの鎮座地は、現在地以外の場所にあったとも考えられる。

 また、「往時よりの御鎮座」したという「飯盛、小盛、西塔田若宮社三社は、宗像七拾五社の一とあり」というが、「宗像七拾五社の一」に数えられる各社が、最初から同じ場所に鎮座していたとは考えられない。 なお、この「三社は、宗像七拾五社の一とあり」と書いてあるが、「小盛社」が「宗像七拾五社の一」であったというような記憶はない。

 「大森宮・大守宮・大守六宮と奉称せり」とあるが、森と守と盛は同音で、神社の杜、若しくは飯盛社小盛社を合わせて大守社と称したのかもしれない。守は神でもある。

 神社名については、「福岡縣神社誌」に「宗像社記曰飯盛小盛神社と有り後世大森神社と改む」と記されているので、このことは、当初、別々のところにあった「飯盛社」と「小盛社」の二社が、最初に合併して「飯盛小盛神社」と称したことを物語っているだろう。

 若しくは、この二社は、別々の場所に鎮座はしていたが、もとに「飯盛明神」を祀る一体の神社だったので、この二社を合わせて「飯盛小盛神社」と称していたとも考えられる。
 たとえば、「飯盛社」が仮に飯盛山頂にあったとして、「小盛社」がその麓の小盛にあったと考えると、この二社は、上宮(山宮)と外宮(里宮、遥拝宮)の形態になっていたと考えられる。

 また、上記のように「小盛社」は、単独での「宗像七拾五社の一」ではなく、「宗像七拾五社の一」は、「飯盛社」と「小盛社」の二社が一体の「飯盛小盛神社」であったと考えられる。
 それは、「宗像社記曰飯盛小盛神社と有り後世大森神社と改む則七十五社の一也」(福岡縣神社誌)とあるのを見ても分かる。

 続いて「而して蓑生郡宗社也小盛に鎮座」とあるので、「飯盛社」が、小盛にあった「小盛社」に遷ったと考えてもよさそうである。

 「飯盛社が仮に飯盛山頂にあったとして」と上記したが、「飯盛社」は、その名称からして、もとは飯盛山に鎮座していたと考えた方が分かりやすい。
 多分、飯盛山に中世山城が築城されたときに、「飯盛宮」は、飯盛山の麓小盛にあった里宮「小盛社」に遷され合祀されたのかもしれない。この小盛の地は、現在地付近だったかもしれない。

 飯盛山(福津市内殿)は、大森神社(現在地)の南東約1.7kmのところにある神奈備形の山(157.2m)で、頂上からの見晴らしはよく、山城を設けるにはもってこいの場所であった。現在、飯盛山の南方眼下に九州自動車道・古賀SA(古賀市)が見えるが、地形的にも交通の要所であった。往古、飯盛山頂に、飯盛山を神体山とする神社があったとしてもおかしくはないと思う。

 なお、戦国期、飯盛山城は、当初、大森神社の社職も兼ねた河津氏が本城を亀山城に移すまでは、河津氏の本城だったようで、亀山城に移動後も、立花城(糟屋郡立花町)に拠る大友氏方の立花氏に対する押さえの出城としての役割を担っていたと聞く。
 亀山城は、大森神社の北西約1.5km、福津市四角区切寄の丘陵にあり、丘陵の頂上部にある亀山神社の鎮座地は前方後円墳か。

  ところで、「往時よりの御鎮座」のもう一社、「西塔田若宮社」は、確かに「宗像七拾五社の一」に間違いはなく、後に蓑生郡五郷の何処から遷され合祀されたものだと思う。

※つづく→「大森神社ァ糎羣弯析暫」。

※前回「大森神社〜旧蓑生郷宗社」。

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2009年09月24日

大森神社〜旧蓑生郷宗社

 ※前回「 大森神社◆疎腓覆泙才佑陵浬」から続く。

大森神社由緒

 前回、大森神社(福津市)の由緒後半部分にある大なまず(鯰魚使神)のことを書いたが、飛ばしていた前半部分も読んでみた。
 (※画像は、大森宮御由緒書き)。

 「蓑生郷宗社大森宮由緒 筑前国宗像郡蓑生郷 上西郷、下西郷、久末、津丸、手光、五ヶ村の産神也。 往時、飯盛山の麓大森に鎮座、大森宮・大守宮・大守六宮とも奉称せり。
 御祭神 (右) 伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉册命(いざなみのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)。
 (左) 水象女命(みずはめのみこと)・大山祇命(おおやまずみのみこと)・石長姫命(いわながひめのみこと)。
 主祭神六柱の内、右記御祭神は、往時よりの御鎮座、飯盛社、小盛社、西塔田若宮社の御祭神也。
 左記御祭神は、嘉元二年甲辰三月社職の河津駿河守藤原重房、本国産神、伊豆権現、箱根権現、三島権現の三社の御祭神を合齊せしと伝えたり。
 この六柱の大神を合齊せしを以て俗に大守六社宮と称号し、郷民の鎮守様と尊宗する皇神是なりと云う。
 飯盛、小盛、西塔田若宮三社は宗像七拾五社の一也とあり、往時は御神田四拾四町余あり、社運も豊に年中行事も盛大なり、御奉賛の儀も厳しく齊行の趣宗像社記に詳しく記されたり。」

 「蓑生郷宗社大森宮」とあり、旧筑前国宗像郡蓑生郷五か村の「宗社」を名乗る神社にしては、現在の大森神社境内や社殿を見た限り、境内社地(622坪)も狭く、社殿も小さいように思えた。
 ただ、「往時は御神田四拾四町余あり、社運も豊に年中行事も盛大なり、御奉賛の儀も厳しく齊行の趣」とあるので、神田を有し社運盛大な時代があったことは分かるが、いつの時代のことか、社地面積も分からない。

 この「由緒」だけでは、よく分からないが、福岡縣神社誌によると、大内氏の所領時代(室町時代)、一時荒廃し神領没収、廃社となった時期があり、文明11年(1479)地頭河津弘業が、大内政弘から神領八町余の寄付を受け再興した。

 さらに江戸時代、「享保の末、社殿焼失、その後当所に移転、社殿新築」ともある。社殿焼失後、当所に移転したとなると、旧宮地は、別の場所にあったということなのか。

 当地の旧字は、「宗像郡上西郷村大字上西郷字ヤケミドウ」となっているが、この小字「ヤケミドウ」は、「焼け御堂」のことではないかと想像できる。かつてあった御堂が焼失しここに再建したという意味なのだろう。
  かつて大森神社は、蓑生郷宗社に相応しい神領と規模を有していたが、時代の変遷のなかで縮小していったということなのだろう。

 ※つづく→「大森神社ぁ組喟校(大守社)」。

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2009年09月23日

大森神社◆疎腓覆泙才佑陵浬

 ※前回「大森神社(福津市)〜黒なまず様」から続く。

大森神社絵馬

 大森神社(福津市)の入口に建っていた「由緒」説明板(奉納:大森宮氏子総代一同)」を読んでいたら、その後半部分に、大森神社の「なまず(鯰)」についての次のように由緒が述べられていた。

 「応仁・文明年間に渉りし応仁の乱興り、たまたま往時、河津民部少輔 藤原興光、武職、社職兼任の責を以て、大内家の命をうけ山城国舟岡山の合戦に参加せし砌、不覚にも吾が身に深手を負い、困迷傷心[※混迷傷心のことか]の態となり。たまたま戦場と本陣との間に大河あり、渡ることを得ず危機に面したり。
 其の折、河西に大鯰、背に鞍を置き出現いたし。興光 速やかに乗り移り、対岸の本陣に無事帰参。家臣の手厚き看護を蒙り一命を得たりと。其の後、何者たりかを尋ねども知れず、大森六社宮の御祭神の権化なると覚り、鯰魚は使神なりと尊宗せり。
 以後、蓑生郷の産子、なまず喰する事なしと云う伝え也。」

 ※上記「由緒」に対し、以下補足(要修正あり)する。

 「由緒」板を読んでいると、京都で起きた「応仁の乱」(応仁1年(1467)5月〜文明9年(1477)11月)の最中に河津興光が参戦した「舟岡山の合戦」があったように読み取れるが、「舟岡山の合戦」があったのは、既に「応仁の乱」が終息して34年後のことである。

 因みに、「舟岡山の合戦」は、永正8年(1511)に洛北の舟岡山(京都市北区の船岡山、見学したことある)で起きもので、発端は永正5年(1508)に細川高国・大内義興(大内氏第30代当主)の支援で足利義稙が将軍職に復帰したことに対し、その後、前将軍足利義澄が細川澄元・赤松義村らの支援を得て将軍職奪還を図ったところにあった。この騒乱は、舟岡山の合戦で足利義澄が大敗し終結した。

 当時、大森神社を宗社とする宗像郡蓑生郷は、大内氏の所領筑前国内にあり、同郷地頭職(神職も兼ねていたのか)河津興光は、大内義興の命を受け足利義稙方としてこの舟岡山の合戦に参陣したのあろう。

 守護大名大内氏は、応仁の乱(当時の大内家当主は第29代大内政弘で山名宗全に与力、細川勝元と対立)をはさんで、室町幕府との関わりの中で台頭し、次の大内義興の時代には、室町幕府管領代(将軍後見)、7か国守護となるなど全盛期を迎えた。なお、蓑生郷を含む筑前国は、既に大内氏第28代当主大内教弘の時代には大内氏の所領となっていた。

 「福岡縣神社誌」に、文明11年(1478)、第29代大内政弘が、当時の地頭河津掃部助弘業の要請を受け入れ、当時、廃絶していた大森神社を再興したとの記述がある。当時、大森神社と言っていたのかどうかは分からないが、多分、上記「由緒」に、河津興光が「大森六社宮の御祭神の権化なると」と書かれてあり、その以前となるので「大守六社宮(大守六宮)」と呼ばれていたかもしれない。

 大森神社の東方の内殿地区を流れる「大内川」(西郷川の上流)の名は、大内氏所領時代の名残なのだろうか。
 また、大森神社の東南400mの所に、大内氏が創建したという太平寺(曹洞宗)がある。「ふくつ巡礼ぐるぐるスティ(福津市観光協会作成パンフレット)に、「大内義興が長禄元年(1457年)に創立。寺宝として阿・吽の水竜の彫刻、釈迦涅槃図等がある」と書いててあったが、大内義興の生誕は文明9年(1477年)であり、義興の創立などは絶対にありえない。この創立年号が正しければ、義興の祖父、大内教弘の時代になる。いずれにしろ太平寺は、大内氏所領時代の名残りなる寺院ではあるのだろう。

 鯰を大森神社の使神とした経緯について、次のような記述が「福岡縣神社誌」に載っていた。
 「・・・興光、之れ故郷の産神大森権現、殊には我祖の生国伊豆箱根両権現、三島大明神の加護なりとし、厚く感謝をなし、同九年春鯰魚使神を合祀せり、此の時より西郷三百町の産土鯰魚を喰ふ事を禁制す、今に至る迄然るなり、現に皮膚病の神として崇敬者甚だ多し」。

 大森神社の産神を「大森権現」としているが、当地に「伊豆箱根両権現」と同じような神仏混淆や修験道の信仰があった証とみてよいのだろうか。
 また「鯰魚使神」を合祀したとあるが、本殿に合祀したのか、「由緒」の祭神名のなかには「鯰魚使神」の名は書かれていないので、境内の神社に祭ったと思われる。 

 ※画像は、舟岡山の合戦で創を被った河津興光を背に乗せて河を渡る大なまず(鯰)を描いた絵馬(大森神社/平成13.7.3奉納)。
 この絵馬にも「応仁の乱、大内家の命をうけ山城国舟岡山の合戦・・・」との記載があるが、上述のとおり応仁の乱と舟岡山の合戦は時代が違う。応仁の乱の文字は消した方がよいのではないかと思う。

 ※別記参照→「太平寺の創建由来に疑問(福津市上西郷)」。

 ※つづく→「大森神社〜旧蓑生郷宗社」。

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2009年09月22日

大森神社(福津市)〜黒なまず様

大森神社鯰

 前回「白なまず様」のいる豊玉姫神社(嬉野市)に行ったと書いたが、この日「黒なまず様」のいる神社に行ったことを思い出していた。

 福津市上西郷に「なまずの郷総合運動公園」があるが、「なまずの郷」の名前は、その近くにある「大森神社」の「なまず(鯰)様」にあやかって名付けられたらしい。
 公園内にある和風庭園の池では、約100匹のなまずが飼育されているそうで、午前9時(開門)の餌やり時には、その姿を見ることができるという。(開門9時〜17時、月曜休み、P有)。

 「なまず」を神の遣いとして崇敬している「大森神社」を数度訪ねたことがある。最近、訪ねたのは7/30で、Haさんと宮地嶽山頂に登り宮地嶽神社旧址を参拝した帰りに立ち寄った。

 大森神社が、「なまず」を神の遣いとして尊重している様子は、参道入口や拝殿前に大なまず様の彫像が置かれているのを見ても分かる。
 ただし、ここでは、「大なまず様」に水をかけて祈願するというような施設はない。

 大森神社の参道の途中に石橋があり、そこに「なまず池」があるが、池の水は濁っているおり、ここで「なまず」の姿を見たことはない。
 また、今でも当地では、なまずを神の遣いとして食べない習慣が残っているそうだ。

 ところで、大森神社で「黒なまず」というような呼称はないが、前回、豊玉姫神社の「白なまず様」と書いたので、それと対照させるために、ここ大森神社の「なまず様」を「黒なまず様」とした。

 なお、大森神社の参道の横にあった広場に駐車、その一角に「谷底神社」の社殿が建っていた。市販の地図のなかには、「谷底神社」の表記があって「大森神社」の表記のないものや、この場所に鳥居マークが付いていない地図もある。
 以前から気にはなっていたが、谷底神社は、戦時中、上西郷の(多分、対面の道路の向こう側の)いづこか(谷底)から遷されて来た稲荷神社のようで、大森神社との直接的な関係はないと思う。
 (※別記参照→「谷底神社 (福津市上西郷)」)。

 ※画像は、大森神社の大なまず様の彫像。

 ※つづく→「大森神社◆疎腓覆泙才佑陵浬」。

 ※前回「豊玉姫神社(嬉野市)〜白なまず様」。

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2009年09月21日

豊玉姫神社(嬉野市)〜白なまず様

豊玉姫神社の白鯰様

  昨日、一斉開花した「タマスダレ」の白い花のことを書いたが、「白い」と書いて、先日(8/27)行った「豊玉姫神社」(嬉野市/豊玉姫大神・住吉大神・春日大神を祭神)境内に祭られていた「白なまず(白鯰)様」ことを思い出していた。
  (※上の画像=豊玉姫神社の白なまず様)。

  その日、嬉野バスターミナルで、武雄行バスを待っていたが、その発車時間までに間があったので、近くにあった「豊玉姫神社」に立ち寄った。
  大正屋ホテル前から「豊玉姫神社」の参道を通って境内へ、「白なまず様」は、本殿社殿の右手前に祭ってあった。

  石の台の上に置かれた白磁の「白なまず」の彫像が、「白なまず様」で、この「白なまず様」に水をかけて、美肌祈願や肌の病の快癒を祈願すると効用があるという。
  嬉野川の両岸に沿って湧出する嬉野温泉は、美肌の湯とも言われているので、まことに嬉野温泉に相応しい神様なのだろう。

  「美肌の神様・豊玉姫神社縁起」の案内板には、次のように書いてあった。
  「・・・豊玉姫神社のお遣いは、『なまず』です。嬉野川を支配し、郷の守りについて、国に大難あるときには六尺の大なまずが現れて、神託を告げると語り伝えられています。この『なまず様』は、古来より『肌の病』にご利益があるといわれています。豊玉姫様は、(海神の娘で、竜宮城の)乙姫様であり、その肌は美しく、嬉野の
  温泉の効能と相まって『美肌の神様』として広く親しまれています」

  説明板によると、単に「なまず」又は「なまず様」で、どこにも「白なまず様」とは書いてなかったが、祭られているのは、間違いなく全身が白い肌の「白なまず様」であった。

  妻は、「白なまず様」に水をかけて合掌していたが、何をお祈りしたのだろう。
  やはり、美肌は女性の命、アトピーや皮膚病などで苦しんでおられる人たちに少しでも光明とご利益があることを願い祈った。

  実は、この前日(8/26)の午前中、亡養母の本祥月命日供養を行い、午後から「JR駅長お勧めの湯プラン」を利用して嬉野温泉・萬象閣敷島ホテルに行き一泊していた。
  上記の豊玉姫神社・白なまず様参拝は、その翌日(8/27)の昼頃のことで、その日の午後、帰宅してから亡実母一周忌法要を行った。
  ともに温泉が好きな人たちだったので、並んでいる二人の各本祥月命日に、その供養を兼ねて温泉の旅をした次第。こんな形の追善供養法もある。

 ※次回→「大森神社(福津市)〜黒なまず様」。

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