2009年10月

2009年10月30日

六の宮付近(2) [許斐山4]

 前回「王丸六の宮(六之神社)付近(1) [許斐山3]」からつづく。

六の宮3
  ※上の画像は、六の宮境内に残る珪化石の旧手洗い鉢。
   (2009.10.18撮影)

  「六の宮」参道の石段の上に、天保年間建立という古い「鳥居」が建っている。石の「額束」には、「六之神社」と刻銘されているらしいが、風化が進んでいるのか、読めなかった。

  鳥居をくぐって境内に入ると、最近、整地したばかりのような広い敷地の正面奥に並んで置かれている4つの「石祠」が目に飛び込んできた。もとから、こんな所に石祠があったかなと、自分の目を疑った。
  ここには敷地いっぱいに建つ古い神殿があったような記憶があったからだ。

  さらに、その手前の左、敷地のほぼ中央部分に真新しい小振りの立派な神殿(木造、「拝殿」は瓦葺・「本殿」は銅板葺)が建っているのを見たときは、本当にビックリした。
  神殿が建て替わり、文化財的な趣のあった旧神殿がなくなっていたからだった。
  カギのかかっている「拝殿」の扉の格子窓から中を覗いたが、中には賽銭箱も絵馬も何もなかった。
  「石の間」の後ろにある「本殿」の扉は、硬く閉ざされ、もちろん、中を覗くことはできない。

  手に持っていた「風と森との物語(平成15年5月発行)には、「古びた神殿のなかに木造の小振りの素朴な神像が置かれていて、室町期から江戸期のものであろう」と記されていたが、今、その神像がどうなっているについては、分からなかった。

  新しいのは、そればかりではなく、拝殿の前にある一対の「狛犬」も、一対の「常夜灯」も新しい。そのいずれにも「平成二十年十二月建立」の文字があり、まだ出来て1年も経っておらず、新しいはずだ。

  境内の敷地が、まだ整地したばかりに思えたのも、多分、昨年5月に神殿ほかを建立したときに整地したからだろうと納得した。
  では、なぜ神殿とともに、狛犬や常夜灯まで建て替える必要があったのだろう、古い狛犬や常夜灯が、どうして残っていないのだろうと、不思議に思った。

  さきほど、王丸登山口の右側に設置されていた案内板の案内図(※下の画像)に書いてあった「山津波跡」の表示を思い出した。
  その場所が、この六の宮あたりだったのかという思いが頭を過ぎった。この案内図が描かれたころ、山津波で六の宮の神殿ほかが崩壊していたので、案内図に、六の宮の表示がないのではないのかと考えたりもした。
  ここが表示にある「山津波跡」だと考えると、神殿ほかが建て替えられたことの説明としては納得できるが、ただ、この案内図は大まか過ぎるので、その場所がここだとは断定できない。
  
  なお、以前から境内にあったもので残存しているものは、前述の鳥居と石祠、それと鳥居の近くに置いてある「珪化石の手洗い鉢」(※上の画像)と、その後ろに建っている「六の宮説明板」もそうだと思う。
  これ以外は、見事といえるほど何も残っていなかった。何か、大切なものがなくなってしまったような感じもした。

  ※王丸登山口右側の案内板。(2009.10.18撮影)
登山口3

 ※つづく→「六の宮の縁起板(1) [許斐山5]」。

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2009年10月29日

王丸六之神社(六の宮)付近(1) [許斐山3]

 前回「許斐山王丸登山口 [許斐山2]」からつづく。

六の宮1
  ※上の画像は、砂防ダム付近。(2009.10.18撮影)

 王丸登山口(宗像市)から砂利道を少し進むと、上の画像にあるように、正面に「砂防ダム」が見えてくる。

 以下、上の画像を見ながら説明すると、その砂防ダムの手前にコンクリートの「小橋梁」がある。
 登山者は、この小橋梁を右から左に渡って、谷川を横切り、右に曲がり砂防ダム左端を通る山道を登ることになる。
 谷川の川底には、階段状に石畳が敷き詰められているが、水は流れていなかった。

 小橋梁の右に、「王丸六之神社=六之御前社」(以下「六の宮」という)の石段があるが、画像には、その石段の一部と手すりの一部が見える。
 ここから石段を数メートル上ると六の宮境内に入ることができる。
 画像の右上に、この六の宮の注連縄の一部が見える。

 小橋梁の手前、10段の石段の上り口の右に、「猿田彦大神の石碑」(明治41年建立)が建っている。
 猿田彦大神は、六の宮の祭神六座のうちの一座でもあり、その関連を思わせるが、このあたりは、どうも登山道の付け替え工事がなされているようで、もとからこの場所にあったものかどうかは分からない。
 記憶のなかには、砂防ダムも、整備された谷川も石畳の川底も、また、小橋梁や、その前の石段を含む登山道もない。
 記憶が間違っていなければ、以前の登山道は、もっとなだらかに六の宮の石段の下(今より高い位置)を通り、六の宮の前を直進して登っていたような気がしてならない。
 砂防ダムがいつできたものか分からないが、登山道を含め、この辺りの様子が、以前に比べて一変していることは事実である。
 手持ちの冊子「風と森との物語」には、「砂防ダムの前を横切り」とあるので、この冊子が発行された平成15年5月には、「砂防ダム」があったことが分かる。

 ※つづく→「六の宮付近(2)[許斐山4] 」。 

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2009年10月28日

許斐山王丸登山口 [許斐山2]

 前回「ハナシュクシャ [許斐山1]」からつづく。
登山口
※上の画像は、現在の許斐山王丸登山口。(2009.10.18撮影)

  住宅と舗装道路が途切れるところの左側に許斐山王丸登山口があった。
  登山口の両側には、「許斐山案内板(イラスト地図)」が各一枚建っており、「熊野権現神社」「許斐山城」の説明板もあった。

  このうち左側の「許斐山案内板」(下の画像)を見ていて、「現在地(許斐山登山口)」と標示してある場所は、「本当にここなのかな」と思い、少し首をひねった。
  それは、この案内板には、「現在地」の表示の上に「なびき石・枡形井戸跡」が表示してあるが、「なびき石・枡形井戸跡」は、先ほど通り過ぎてきた「このみ公園」辺りにあったような記憶があったので、「現在地」の表示より下ではないのかと思ったからだった。
  ひょっとしたら、登山口が現在地に後方移動したときに、現在地の表示を書き直さないまま案内板も移設されたのではないのかと思ったりもしたが、もとより確証はない。

  手持ちの「風と森との物語(平成15年5月発行)」には、「案内板の<枡形井戸>が描かれているところには井戸を見つけられませんでした」と記されていた。
  この冊子に記されている「案内板」は、この左側の案内板のことだろうとは思うが、この案内板がいつ現在地に建てられたものかが分からないので、これ以上の詮索はできない。

  なお、右側に建っている案内板には、「現在地」より下に「なびき石・枡形井戸跡」が表示してあったので、登山者は、どちらの案内板が正しいのかと迷うだろうと思った。
  「なびき石・枡形井戸跡」の現況も由緒も知らないが、いずれにしろ、以前とは王丸登山口周辺の環境が変わってしまったことを物語っているとだ思った。

  いよいよ、ここから頂上まで、およそ1時間前後の登山道となる。
  許斐山は、標高(271m)は低いが、戦国時代に許斐山城があった山でもあり、山道はそれなりに急勾配だ。 

※下の画像は、登山口左側の「許斐山案内板」(2009.10.18撮影)
登山口2

 ※つづく→「六の宮付近(1) [許斐山3]」。

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2009年10月27日

ハナシュクシャ [許斐山1]

ハナシュクシャ
  ※上の画像は、「ハナシュクシャ」。(2009.10.13撮影)

 10/18、許斐山(271m)に王丸登山口(宗像市)から登った。

 「ハナシュクシャ(花縮砂/別名ジンジャー)」が、ひとつの集団を作って咲き誇っていた(上の画像)。
 甘い香りを漂わせる「ハナシュクシャ」の花びらは、純白で、大きく、美しい。茎の高さは1mを超えており、その高さの茎に密集するように長楕円形の大きな葉をつけ、その先端に咲く花は、あわせると100個近くはあるだろうか、その花々が咲き誇る光景は、なかなか圧巻。
 思わず、足を止めて、これらの「ハナシュクシャ」の花々を見入ったほどだった。

 「ハナシュクシャ」は、6~9月頃の日没前に開花する花と聞いていたが、10月中旬の昼間にも咲いており、思わぬ場所で、暫し観賞することができたので、何だか嬉しかった。
 そして、今回、急遽、王丸登山口に変えたのは、この「ハナシュクシャ」を愛でるために、お神様の導きがあったのかもしれないと思い感謝した。

 実は、先月(9/13)、八並吉原登山口(福津市)を確認(10/13ブログ参照)していたが、駐車場(未舗装)の出入口にある橋が狭く、かつ溝を斜めにまたいだ変形橋なので車の出入りがしにくく、近くの路上にあるトイレが古いなどの難点があり、急遽、王丸登山口から登るように変更したのだった。
 前日、手元にあった冊子「風と森との物語・私たちの許斐山(許斐山愛好会十周年記念誌/平成15年5月24日発行)」の山道散策の記事を読んでいて、王丸登山口近くに駐車場もトイレも整備されていることを知り、この案内に従って登ってみようと思ったからでもあった。

 前回、王丸登山口から登ったのは、いつだったか思い出せないが、今回行ってみて、王丸登山口周辺の環境の変わりようには、びっくりした。
 山裾まで住宅地開発が進み、車の離合が楽にできる舗装道路もできており、この住宅地が途切れる部分まで、登山口は後退していた。
 ありがたかったのは、登山口の少し手前に、上述冊子に書いてあったとおり、水洗トイレ(男女別)付きの立派な舗装駐車場が造られていたことだった。
 以前は、この駐車場のある場所まで車で登ることはできなかったし、もちろん周辺には、駐車場もトイレもなかった。

 駐車場の一段上(舗装道路の左下)に、水と緑の「このみ公園」が設けられていた。
 山峡の谷川(左)に沿うような形で、公園の縁に散策路が付けられおり、この小路を通っても登山口に行くことができる。
 小路に沿って各種の観賞用の樹木が植えられていたが、樹木の後ろ(右)には水路も造られていたので、水路のあるところに入るのは避けた方がよい。 

 ※つづく→「許斐山王丸登山口 [許斐山2]」。

 ※下の画像は、「このみ公園」表示石。(2009.10.13撮影)
このみ公園表示石


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2009年10月26日

聴き飽きない魅惑のポップス

091019_ブログ  ※左の画像は、新妻聖子さん。
  (新妻聖子さんのブログ/2009年
  10月19日からお借りしました)。
  ※画像のドレスは、次回放送の
  「魅惑のスタンダード・ポップス」で
  着用されるそうです。

    昨夜(10/25)放送(BS2)され
  た「魅惑のスタンダード・ポップス」
  をゆっくりと観た。
    青春時代を思い出すポップス
  の数々、歌われた歌は27曲。
    TVの前で一緒に体を揺らして
  口ずさんだりしていると、あっとい
  う間に1時間半が過ぎた。

  いつものように、司会の新妻聖子さんが、お客さまたちと一緒に歌ってスタート、今回の曲は、1960年アメリカで大ヒットした「パイナップル・プリンセス」だった。
  「…赤いスカーフ首にまき風になびかせお散歩よ…」、楽しい歌で、よく歌ったなあ。

  今回の「ワンテーマ・メドレー/家族」のトップ、「踊ろよベイビー」(山崎育三郎さん)の曲が始まるや、
  「…Oh, baby do you wanna dance
   Do you do you do you do you wanna dance
   Do you do you do you do you wanna dance」
と、ひとりでに口ずさんでいた。
  軽快なリズムに乗って繰り返しの歌詞で歌いやすく、わくわくする。

  「シーズ・ア・レイディ」(鈴木綜馬さん)、「ベイビー・フェイス」(megさん)、「子供じゃないの」(新妻聖子さん)、「イパネマの娘」(村上ゆきさん)、「ミセス・ブラウンのお嬢さん」(bless4さん)、「ルイジアナ・ママ」(ささきいさおさん)…と、ヒット曲が続く。

  なかでも、「マンマ(Mamma)」(今陽子さん)は、大好きなカンツォーネで、暇さえあれば、
  「Mamma, solo per te la mia canzone vola
  Mamma, sarai con me, tu non sarai piu sola!…」
と口にしていた思い出がよみがえってきた。
  あれは、いつ頃のことだったのだろう、マザコンだったのかもしれないな。

  「ポップスの伝説」に登場された旗照夫さんは、かつてNHK紅白歌合戦の常連出演者で、子供のときに名前を覚えたハンサムなジャズ歌手だった。
  もう76歳になられると思うが、恰幅がよくお元気ですね。
  「慕情」、「テネシー・ワルツ」、さすが、さすが、昔とちっとも変わりない、聴かせてくれました。

  藤村俊二さんの青春の映画ストーリー(井上順さんの「5つの銅貨」は、すごくシックだった)や、スーパースターメドレー(バート・バカラックの曲)など、本当にあっという間に時間が過ぎて行く「魅惑のスタンダード・ポップス」。

  毎回、この番組で次から次に歌われる魅惑のポップスを聴くたびに、こんなにポップスを聴いていたのかと思う。
  ポップス大好きの時代に、自分が老いて行くことなど考えていなかったな。
  聴くたびに青春時代に返れる「魅惑のスタンダード・ポップス」は、欠かせない番組になっている。次回放送は、11月29日か。

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2009年10月25日

旧勝浦塩田の製塩神 「年毛神社(5)」

 ※前回「神功皇后と大海神、名児山、霊石等[年毛神社(4)]」からつづく。

年毛10

 ※上の画像は、年毛神社の裏参道で海に向かって建つ鳥居。
  (2009.9.13撮影)

  年毛神社の社殿は、宗像大社辺津宮高宮の方向を向いて建っている。
  これは、年毛神社が「宗像七十五社」の一であり、宗像大社境内摂社にも「年毛明神」として祀られていることなどを意識してのことだと思う。
  また、年毛神社は、鎌倉時代中期には「宗像十六社」の一にも数えられたほどの由緒も有しているが、その祭神に宗像姫大神(宗像三女神)の名がない。
  宗像姫大神は、数ある境内神社のなかに祀られているのかもしれない。
  なお、境内神社のなかには、古代出雲王国軍の進軍足跡を示す大歳神や須佐男命などの神も含まれているのではないかとも思う。

  三柱の残りの一柱の祭神である「塩竃大明神」は、江戸時代中期に「勝浦塩田」が開発されたことに伴い祀られたものだという。
  「塩竃大明神」の「塩竃」は、「製塩」を表しているのではないかと思う。
  製塩の神といえば、通常「シオツチノオジ」なので、「縁起案内板」に「塩竃大明神」を「猿田彦神」と書いてあるのを見たときは、何かしら違和感を感じた。
  「猿田彦神」は、天孫邇邇芸尊の降臨神話の先導神で、宗像地方と縁のない神ではないが、製塩の神とは思えない。
  どうして「塩竃大明神」が「猿田彦神」となっているのかは、よく分からない。

  「塩竃大明神」をいずこの神社から勧請したのかについての記載もないが、一般的には、「総本宮鹽竈神社」(宮城県塩竈市)、若しくは同神社の関連神社(塩竃神社の表記もある)から勧請されたのではないかと想像される。
  したがって、「塩竃大明神」は、「鹽竈神社」の主神「塩土老翁」(シオツチノオジ)ではないのだろうか。

  「シオツチノオジ」の表記は、先代旧事本紀[塩土老翁]、日本書紀[塩土老翁・塩筒老翁]、古事記[塩椎神/シオツチノカミ]となっている。
  なお、「福岡縣神社誌」には、年毛神社祭神の一神として、「鹽津智翁/シオツチノオジ」(鹽竈神/シオカマカミ)の文字で書いてある。
  いずれにしろ、年毛神社の「塩竃大明神」は、「シオツチノオジ」だろうと思う。
  なお、「シオツチ」の意味は、「潮つ霊」、「潮つ路」で、潮流を司るということらしい。

  「勝浦塩田」の開発は、寛文6年(1666)頃で、明治44年(1911)に閉鎖されたらしい。
  「勝浦塩田」の場所は、「塩浜」と呼ばれている地区(県道502号・玄海田島福間線に「塩浜口」、「塩浜」などのバス停がある)で、約27ヘクタールの広さだったという。

  市販地図を見ていると、奴山川の河口(梅津の浜と新町の浜の間)に海に突き出た細い線が見えるが、これは「勝浦塩田」に海水を引き込むために築かれた「突堤」であるという。
  新町の浜の松林のなかに、この突堤が文政9年(1826)に造られたことを記した「築堤碑」があると聞き、行ってみようと思った。
  しかし、新町集落内の細い路地に入り、車を停めるどころか、通り抜けるのが精一杯で、意気消沈して行くのをあきらめた。(おわり)

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2009年10月24日

神功皇后と大海神、名児山、霊石等 「年毛神社(4)」

 前回「境内の雑草花[年毛神社(3)]」からつづく。

年毛4

  年毛神社(福津市)境内に真新しい「縁起案内板」が建っていた。
  御祭神三座七神名と御由緒(平成17年1月記)が書いてあるが、以前から気になっていた珍しい年毛神社という名前の由来については書いてなかった(※上の画像)。

  年毛神社は、勝浦浜の砂丘上に鎮座、社殿の後背地は、防風林の後ろに玄界灘、したがって参拝者は、大海に向かって大海神を拝んでいることになる。
  また、裏参道の鳥居は、海を向いて建っており、大海神をお迎えする鳥居であることが分かる。
  まさに、年毛神社の神は、大海神であり、大海神たる綿津見三神を祭神のトップに書いてあるのは当然のことなのだろう。
  縁起には、綿津見三神を、「志賀大明神〜底津少童命、中津少童命、表少童命」と書いてあり、少童を「わだつみ」と読む。

  勝浦浜一帯は、松林(防風林)になっているが、裏参道の鳥居の正面には、松林はなく、わずかに竹垣が組まれている。
  鳥居からは、竹垣越しに海が見える。
  鳥居と竹垣の間は、急斜面で、切り立ったような段差が付いている。
  以前、この鳥居の柱の一部が砂に埋まっていた光景を見たことがあった。
  人が勝浦浜との間を往来するときは、竹垣の脇を抜ければよいが、浜砂は、強風に乗って竹垣の上を飛び超えてくるのだろう。
  また、夏場、この段差部分に雑草が生い茂って、通れないこともあった。

  年毛神社の社殿正面の、東方に延びる表参道からは、名児山(なちごやま)の山並みが眺望できる。
  名児山の頂上(165m)は、山並みのやや右寄りになるが、「縁起」では、神功皇后がこの名児山(東の岳)に登り、「かつら」と宣したことから、この山を勝浦岳、里を勝浦、島を勝島、このあたり一帯を勝浦潟というようになった、このとき、年毛神社に志賀大神と住吉大神を祭神したと伝えている。
  勝島は、勝浦浜の北(右)の先端に位置する神湊の草崎岬の先に見える島である。

  宗像大社境内摂社に「年毛明神」とは別に「勝浦明神」があり、「宗像七十五社」の一に「勝浦嶽」があるが、これらは上記縁起の勝浦岳(名児山)のことだったのだろうか。

  名児山の麓に桂区があるが、上記縁起の「かつら」にあやかって「桂」の字をあてて付けたのだろう。
  その一角に「あんずの里運動公園」があり、園内の「レストランあんず」の下に、
    「少彦名の 神こそは 名づけ始めけめ
     名のみを 名児山と負ひて
     わが恋の 千重の一重も 慰めなくに(大伴坂上郎女)」
と刻まれた「名児山万葉歌碑」が建っている。
  この歌は、天平2年(730年)に奴山から田島に抜ける大坂越で詠んだものといわれているが、名児山には、通称名児山越えと言われる古代官道が走っており、古くに開けた地区であった。
  以前、雑草に覆われたこの山越え道を歩いたことがあったが、今は、どうなっているのだろう。

  なお、同上公園展望台には、鎌倉時代中期に勝浦を望んで詠んだ後九条内大臣九条基家の歌碑「秋の夜の潮干の月の かつらがた やままでつづく 海の中道」も建っている。

  神功皇后は、住吉大神(住吉三神)を深く崇敬し、行く先々で住吉大神を祭祀しているので、年毛神社でも同神を祭祀し、その足跡を残されたのであろう。
  志賀大明神(綿津見三神)は、住吉大神(住吉三神)とセットの誕生神なので、一緒に祭祀されてもおかしくはない。

  なお、「縁起案内板」には記されていないが、年毛神社の御神体は、昔、社殿が炎上した年の晦日の夜、氏子らがその跡に集まっているときに、海からやってきた霊石であるという。
  最初、沖の方で大きな火が見えて、磯に近づくにつれて火が消え、漂い着いた石を拾い上げ、この石を御神体として現在地に社殿を建てたという。
  火の石というと隕石を想像できないではないが、神秘ともいえる話で、年毛神社の祭神、大海神の神威の強さを表している。

※つづく→「旧勝浦塩田の製塩神[年毛神社(5)]

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2009年10月23日

菊の葉の上に親子バッタ

親子バッタ  庭の花畑に植えている菊の葉の上に、子供を背中に乗せたバッタがいた。
  こんな光景を久しぶりに観て、何だか微笑ましく思えて、写真に撮った
  (※左の画像)。

  小学生の孫に、「親子バッタがいるから観てごらん」と声をかけたら、飛んできた。

  孫が、「お母さんバッタが、口を大きく開けて、(菊の)葉っぱを食べているよ」と言った。

  確かに、真剣に葉を食べていた。
  私たちが側にいるのを気にするような様子もなかった。
  葉を食べると言っても、蝶や蛾の幼虫に比べたら比較にならないほど少量である。

  それにしても、背中に乗っている小さな子供バッタに、どのようにして食べさせるのだろう、などと考えていた。
  昆虫の生態など、はるか昔に習っていたはずなのに、何にも覚えていない。
  これまで、そんなことに関心を持たなくなるような生活を長く続けてきたということなのだろう。

  孫に、「どうして、このバッタはお母さんバッタなの?」と尋ねたら、「体の色が違うからお母さんだと思うよ」と答えた。
  「・・・?」。

  菊の茎の高さは、30~50cmくらいで、あまり伸びていない。
  夏場に高く茂るように伸びていたので、そのすべての茎を根元から切ったら、以後なかなか伸びてこなかったが、それでも丁度よいくらいの高さには伸びた。
  蕾も付け出しているので、開花したら仏壇に活けようと思っている。
  その前の今の時期に、少しの葉を、親子バッタの餌にしてあげることは良い布施となるのだろう、と思ったりもした。

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2009年10月22日

境内の雑草花 「年毛神社(3)」

 前回「海辺の花[年毛神社(2)]」からつづく。

勝浦2

  1か月前(9/13)、年毛神社(福津市)境内の日当たりのよい空き地に、足の踏み場もないほどたくさん生えていた雑草花(画像)。
  ちょっと可愛く感じたので、カメラに撮った。
  暖かい日差しのなかで、暫したたずんで花を眺めていたら、藪蚊に刺された。油断大敵。

勝浦1

  それから画像はないが、社務所横に小高い場所があり、その奥の方に生えていた2本の大きな樹木が気になった。
  参道より背丈ほど高い段差があり、背の高い雑草も生い茂り近づけなかったが、オガタマノキのような感じもした。(つづく)

  ※(追記)上の画像の雑草の名前は、「スルボ」というそうです。
    亀さんからコメントいただきました。ありがとうございます。

※つづく→「神功皇后と大海神、名児山、霊石等[年毛神社(4)]」。

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2009年10月21日

海辺の花 [年毛神社(2)]

 ※前回「宗像大神「みあれ祭」の絵馬[年毛神社(1)]」からつづく。

勝浦3

  マイピクチャを開いて見ていたら、9月13日に撮った植物の写真が数枚あった(上・下の画像)。
  丁度1か月前のことだか、すぐには、どこで撮ったものかと思い出せなかった。

  そのうち、海辺の砂浜で撮ったものだったことを思い出した。
  砂浜といえば、その日、年毛神社(福津市)を参拝した後、一緒に行ったHaさんが「海岸に行ってみたい」と言ったので、その裏参道から勝浦浜の海岸に出て、しばらく一緒にその砂浜を散歩したことがあった。
  そのとき、砂浜のどこかの縁で撮ったのだ。

  潮風が吹き付ける日当たりの良い海岸にしか咲かない花なのだろうと思う。
  美しい花ではあったが、何花なのかは知らない。知っている人がおられたら教えてください。
  (別の雑草の画像もあった。明日のブログに載せようと思うが、やはり名前は知らない)。
  知らない花の名前を調べるとなると、なかなか…。

  これらの花は、撮ってから既に1か月も経っているので、今もう、花は散り、種や実ができていたら落下する頃かもしれない。
  何でこんなに月日が経つのが早いのだろう。 

勝浦4

※つづく→「境内の雑草花[年毛神社(3)]」。

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