2010年05月

2010年05月31日

滝行地を再訪(2)〜養老の滝(続)

  現在、更衣室小屋はなくなり、そこには、その横の空き地部分を含め、谷あいの参道をまたぐような形でコンクリート建造物(一階部分に更衣室設置)が建っていた。

  かつて九字印を切ったときに対面した崖壁は、建物の後ろ部分に残っていた。懐かしい想いで、しばらくその崖壁を見つめていたが、建物後方の狭い空間で眺めていると圧迫感があった。

  養老の滝での滝行当時、自らの行力をつけるとの思いにとらわれていた。
  滝に入り行力をつけたと思っていても、他人のことをすると不浄仏霊等を受け被る、これを祓い清めるために滝に入るを繰り返した。
  そして、この繰り返しであったら、行力不完全で、神聖な滝を汚しているだけではないかと思うようになった。

  また、修験の入滝行法にしたがって格好良く滝に入るという形にもとらわれていた。
  滝行は、やり方を間違えれば、体を冷やし、体を壊す危険性もあり、勢い気合を入れて九字印を切り、滝に入り、肩を怒らし不動明王の真言をあげる、いつしか、その格好にとらわれ天狗になっていった。
  そして、本来の滝行の意味するものは何だったのか、何のために滝行をしているのかが分からなくなり、ここでの滝行は終わった。

  ※本ブログ、2009.5.13「ハナハトマメマス(10)~山中の滝行(その1)」参照(画像あり)。


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2010年05月30日

滝行地を再訪(1)〜養老の滝

  滝行(滝修行)を絶って久しく、かつて滝行した地を二度と訪れることもないと思っていた。
  ところが、最近になって、何かに誘われるかのように、そのうちの二つの滝に足を運んだ。

  一つは、養老の滝(篠栗町若杉)。
  五大明王を祭る明王堂へ登る階段道を進むと、正面に養老の滝が見える。
  滝量は、旧来と変わらず豊富だった。
  この日、滝行をしている行者の姿はなかった。

  この滝では、朝滝、昼滝、夜滝ともに滝行経験があり、かなりの数、お世話になった。
  昼の滝行を行ったある日、真っ青な顔をして滝から出てきて、更衣室の小屋(当時)のなかで倒れそうになったことがあった。
  更衣室にいたある行者が、「外で九字を切られたら良いですよ」と声をかけてくれた。
  「そうですね」と言って、小屋の横にあった空き地で、後方に立ちはだかっていた崖に向かって明を念じ九字印を切った。

  すっきりして更衣室に戻ったら、そこにいた数人の行者が全員倒れていた。
  払い落とした多くの憑依霊、魑魅魍魎が飛び散って、これらの行者に取り付いていた。
  今度は、こちらから「九字を切ってみてください」と声をかけることになった。
  行者らは、「そうだった」、「九字を切られたとき、ガードしていなかった」などと言って、一斉に外に飛び出して、同じ場所で九字印を切った。

  この滝には、五大明王の神力、霊力が強く、行者に憑依した浮かばれない人霊や動物霊、魑魅魍魎などの霊魂を落とし清める力があり、この滝で滝行をする行者は多い。
  そのために、時として滝が穢れていることも多かった。
  そして、滝の神が滝を清め終わるのを待たずに滝に入ったとき、これらの霊魂を受け被ってしまうことがあった。

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2010年05月29日

マイコさん(その2)

マイコさんのプロフィールから ※画像は、マイコさん。
  プロフィールからお借りしました。

  最近、TVコマーシャルで、マイコさんを観ない日がない。颯爽とスクーターに乗って建築現場に駆けつけるシーンが映し出される。

  一日使い捨てシリコーンハイドロゲル・コンタクトレンズのワンデー アキュビュー トゥルーアイのTV−CMである。マイコさんの健康で美しい瞳と溌剌さが、商品イメージと合致しているようだ。
  観ていて、マイコさんは、本当に瞳が綺麗で、すがすがしく感じる。

  最近、マイコさんは、RKB(TBS系)日曜劇場「新参者(阿部寛さん主演)」にも、清瀬直弘(三浦友和さん)の秘書、宮本祐理役で出演されている。
  毎週、「新参者」を観ているが、出ても一シーンあるかないかで会話も少ない。うっかりしていると見落とすほどだが、それでも意味深長な印象に残るような役を演じておられる。
  だが、明日(5/30)の放送では、清瀬社長の浮気相手だとみなされ捜査線上に上がるようなので、出番が多いのではないかと思い楽しみにしている。
(※マイコさんについては本ブログ2010.5.7「マイコさん」にも記載)。

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2010年05月28日

八重桜を観た日に紫花豆を買った

八重桜  先日、Zさんが電話してきて、
「失敗しました」と言った。

  「何がありました?」
  「若杉山で買った豆なのですが、作りすぎて、ここ数日、毎日、朝も、昼も、晩も、食べ続けています」

  最初、電話を受けたときは、何ごとかと、少し心配したけど、なんだ、「失敗しました」とは、そんなことだったのか。

  「あの豆は水につけると膨らむと言っていたでしょう」
  「はい、だから、袋の半分だけ作ったのですが、4分の1にしておけばよかった」

  あの豆とは、紫花豆のことで、5日に若杉山に行ったとき、篠栗霊場奥の院入口にある売店で買ったもの。
  この紫花豆は、1袋500g入り(価格500円)で、品質の良いものだったが、確かに1袋の量は多かった。
  紫花豆が大好きで、1袋買ったとき、Zさんも「私も買ってみよう」と言って、1袋買った。そして、「今まで見たことのない豆です」と言って、店員さんに作り方を尋ねていた。

  電話で「美味しかった」とは言っていたが、想像以上に大きく膨らんだので、1、2日では食べきれず、「作りすぎて失敗した」と言っていたのだった。そして、まだ半分残っているが、「当分、食べたくないです」と言っていた。

  電話の後、改めてその日に撮った写真を見直していたら、満開の八重桜の写真があった(※左上の画像)。
  この八重桜は、粕屋郡西国第一番霊場(※この霊場の詳細は知らない)のお堂が建っていた下段の広場の縁に植えられていたが、美しかった。

  あの日から、もう20日余過ぎ、庭では紫陽花の花がほのかに色づいてきている。もう梅雨の季節が迫ってきているのか。
  それにしても、今年の5月は肌寒い、まだファンヒーターを使っている。

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2010年05月27日

多礼の孔大寺神社(7)〜付記(大山阿夫利神社)

 ※前回「多礼の孔大寺神社(6)〜水神(高龗神・水波能売命)」からつづく。

 本題とは直接関係のないことだが、この「高龗(おかみ)神」の神名を見ていて、まだ幼かった長女(当時2歳)を連れて夫婦で大山詣でをしたときのことを思い出した。

 当時、大山(神奈川県伊勢原市)の麓、良弁の滝の近くにある旅館に一泊して、翌日、大山に登り、大山阿夫利神社(下社に高おかみ神、本社に大山祗神、奥社に雷神を祭る)と雨降山大山寺(本尊不動明王)を参拝した。

 大山阿夫利神社は、明治維新の神仏分離と大山修験の廃止により、大山石尊大権現の呼称を使えなくなり、明治6年、雨降山大山寺の雨降(あぶり)に阿夫利という漢字を当て、現神社名(旧来の延喜式神名帳の神社名に復活ともいう)とした。農水工商守護から開運、現世利益があるとして、大山詣でと称する講もあり参詣者が耐えない。

 その頃、伊勢原市に居を構えようとして、不動産屋さんと住宅購入契約を結び手付金を払ったが、諸事情で叶わなくなった。
 そして、違約金を支払わねばならない状態に追い込まれそうになっていたが、急転直下、逆に不動産屋さんの不手際ということになり、かつ棒に振っても仕方ないと思っていた手付金までが全額戻ってきた。
 これは、今でも、大山阿夫利神社や大山不動明王を泊りがけで、家族で参拝したお陰を頂いたものだと思っている。 (本稿おわり)
 
 ※つづく(追記1)→「指來神社(追記):なぜ一の鳥居は孔大寺神社なのか(宗像市多禮)2015.5.18

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2010年05月26日

多礼の孔大寺神社(6)〜水神(高龗神・水波能売命)

 ※「多礼の孔大寺神社(5)〜神功皇后の御旗(付記)」からつづく。

 指來神社の祭神のうち、「高龗神」(たかおかみのかみ/古事記では淤加美神)と「水波能売命」(みつはのめのかみ/古事記では弥都波能売神・日本書紀では罔象女神・水象女命とも書く)について補足する。

 伊弉册命が、最後に火神・迦具土神(火牟須比命)を産んだとき、その火で陰部を火焼して病の床で苦しんでいるとき漏らした尿のなかから産まれたのが「みずはめのかみ」で、伊弉册命は、このときの火傷が原因で死ぬ。怒った伊弉諾命が十拳剣を抜き、迦具土神の首を斬り落したときに生まれたのが「たかおかみのかみ」であるという日本神話がある。

 この2神は、ともに貴船神社本社(京都市)に祀られている「水神」である。
 なお、貴船神社本社の主祭神「高龗神」は、単に貴船神(貴船大神)、貴布禰明神とも称されることもあり、波折神社(福津市津屋崎)の主祭神「瀬織津姫大神」や、宗像大社の祭神(宗像三女神の一)「湍津姫神」(多岐津姫神)とも同体神だという説もある。
 波折神社の三神(瀬織津姫大神、住吉大神、志賀大神)については、もとは貴船大神一神であったが、後に貴船大神、住吉大神、志賀大神の三神となり、更に貴船大神を瀬織津姫大神にして現在の三神となったという説もあるらしい。つまり、瀬織津姫大神は、貴船大神のことで、それ故に水神でもあるのだ。
 (※波折神社の瀬織津姫大神については、本ブログ「2009.9.5波折神社を参拝(2)〜三霊石」・「2009.9.7同(4)〜瀬織津姫大神」・「2009.9.10同(7)〜因幡の白兎瀬織津姫神」に記載)。

 また、水波能売命については、この神を主祭神とする本宮があるのかどうかは知らないが、宗像大社の三女神を奉齋した筑後の水沼君は「みずはめ」から出たという説がある。
 (※みずはめのかみについては、本ブログ「2009.9.26白・黒なまず様のいる神社(6)」に記載/大森神社の配神で「水象女命」と表記)。

 ところで、多礼(旧多禮村)内で、最終的に指來神社に合祀される以前は、これらの水神は村内の3か所で祭祀されていた。
 つまり、高おかみ神1か所(貴船神社/字井尻)、水波能売命2か所(字岩ヶ鼻と字上多禮))である。

 多礼地区の集落は丘陵の山間に点在し、宗像地方最大の河川・釣川と後背地の丘陵に挟まれた耕地で耕作をしていた地域環境を考えると、雨、水の恵と被害にも敏感であったと思われる。そして、農耕と生活の守護神としてこれらの水神を祭祀したのだろう。
 多礼地区は、釣川を挟んで、対岸に宗像大社辺津宮の神域を眺望できる位置にある。宗像三女神は、上記湍津姫を含め、ともに水神でもあるともいわれているが、このような辺津宮と至近な地区に、高おかみ神や水波能売命などの水神を祀る神社があったことになる。

(※つづく→「多礼の孔大寺神社(7)〜付記(大山阿夫利神社)」)

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2010年05月25日

多礼の孔大寺神社(5)〜神功皇后の御旗(付記)

 前回「多礼の孔大寺神社(4)〜指來明神(旗指大明神・太禮明神)と神功皇后」からつづく。

 神宮皇后の御旗を掌ることは本人にとっては名誉なことであっても正史に残るような重大事ではない。ただ、地域の人々にとっては、それを誇りとして指來明神(旗指大明神)として祭ったと考えられなくもない。
 すべて想像の域を出ない戯言かもしれないが、かねてより神宮皇后伝承に興味を持っている者として、多礼にも神功皇后に連なるような事蹟があったということに対して心躍った次第である。

 付記すると、この近郷では、織幡神社や大歳神社等に良く知られた神功皇后の新羅進攻時の御旗に関わる故事が残っている。

 その一、織幡神社(宗像市鐘崎)には、主祭神の武内大臣が紅白二流の旗を織って竿=御手長につけたという由緒がある。
 拝殿内に、武内大臣と紅白二流の旗を描いた絵馬があり、白旗には「富貴長命神」と書かれていた。
 最近、白旗は瀬織津姫神(近くでは波折神社の祭神にあり/福津市津屋崎)を表すという説があることを知ったが、であれば富貴長命神とは瀬織津姫神のことか。或は、織幡神社の地主神(その名は伝わらないが、たとえば依岳大神)であったのだろうか。

 この旗は、潮満珠・潮干珠の霊力と合体して新羅進攻を成功に導いたともいわれるもので、この旗指を掌った神が「指來明神」であったとしたら物語になるのだが。
 もし、多礼の古地名が太禮であり、太禮が「指來明神」の故事との関わりから生まれた地名であったとしたら、太禮には深い意味がありそうだ。

 その二、大歳神社(遠賀郡岡垣町波津)には、神功皇后が波津の海岸に旗を立てたので、この海岸を旗の浦というようになり、後にその旗が訛って波津となったという地名由来伝承がある。

 なお、指來神社の祭神について、気長足姫命は、神功皇后御旗の旗指の由緒により主神となったのだろうが、阿蘇津彦命が何故ここに祭られているのかについては分からない。
 また、大己貴命と少彦名命(孔大寺神社祭神)、及び豊日別命(豊日神社/豊前坊祭神)は修験道絡みの地区的勧請か(前述)。
 高龗神(貴船神社祭神)と水波能売命(貴船神社配神)は次回記述する。

 (※織幡神社と大歳神社における神功皇后の御旗伝承は、本ブログ2009.7.29「鐘崎・織幡神社でも汗・・・(7)武内宿禰」にも記載。
 ※参照→「織幡神社へ (宗像市鐘崎)
 波折神社に関しては、本ブログ2009.9.2~10「波折神社を参拝(1)~(7)」に記載)。 

(※つづく→「多礼の孔大寺神社(6)〜水神(高龗神・水波能売命)」)

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2010年05月24日

多礼の孔大寺神社(4)〜指來明神(旗指大明神・太禮明神)と神功皇后

 ※前回「多礼の孔大寺神社(3)〜指來神社」からつづく。 

 ところで、二・四の鳥居の額束に掲げてある「指來明神」は、指來神社の神名だろうが、指來神社の祭神のなかに「指來明神」の名はない。
 では、「指來明神」とは、指來神社の二祭神(気長足姫命と阿蘇津彦命)なのか、若しくは、このうちの一神なのかということになるが、そうでもない。

 由緒では、「気長足姫命、阿蘇津彦命は此村(元多禮村)の産土神也村民の説に此神は神功皇后異国御征伐の時御旗を司り給ひし神也故に旗指大明神と云しを今は訛り指來明神と云とも又一説には阿蘇津命を祀るとも云へり舊記伝らずして由緒審ならず」とのみある。
 つまり、「指來明神」は、神功皇后が異国(新羅)に進攻したときに御旗を掌った神だというのであれば、気長足姫命は神功皇后のことなので該当しない。
 また、阿蘇津彦命は阿蘇神社(熊本県阿蘇市)の祭神健磐竜命(神武天皇の孫)のことで、神功皇后とは年代が違いすぎて関わりがあるとは思えない。

 この「指來明神(旗指大明神)」は、多分、多礼地区の人々の先祖に関わりある神であったかもしれない。
 先祖が、異国進攻の総大将神功皇后の御旗を掌ったということは、かなり名誉なことで、それを称えるべく「旗指大明神(後に指來明神)」の神名で残したのではないのか。
 また、それ故に大正5年、指來神社が孔大寺神社と合併したときも、当時、祭神名からは「指來明神」の名は消えていても、地元の人たちは、「指來明神」の鳥居額束を掲げている指來神社の名の方を残したのではないのか。

 なお、「指來明神」は、宗像大社二十末社のなかにはなかったが、宗像七十五社のなかには「太禮明神(指來神社)」の名であった。
 太禮とは、多礼(多禮)の元の地名なので、「太禮明神」だと、いっそう地元の大先祖神らしくなる思える。

(※つづく→「多礼の孔大寺神社(5)〜神功皇后の御旗(付記)」)

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2010年05月23日

励まされた、魁皇関1000勝!

  今日の大相撲夏場所千秋楽中継で魁皇・琴欧洲戦を観た。
  両国国技館がまるで優勝戦のように盛り上がっていた。
  館内の掛け声は、すべて「かいおー!」。
  観戦者の誰もが魁皇関の1000勝達成を望んでいるようだった。

  このような雰囲気が直接伝わるなかで戦う琴欧洲にとっては、本当に一番やりづらい一戦だっただろう。
  決まり手は、魁皇関が、得意の右上手を引いて寄り切り勝ち。
  勝った魁皇関も、負けた琴欧洲関も、戦い終わって、お互いにホッとしたのではないかと思ったほど。
  両大関に拍手を送った。

  魁皇関の、序ノ口以来の勝ち星1000勝達成は、千代の富士関(現九重親方)の1045勝に次いで、史上2人目の快挙だという。
  負けた数は665(154休)あり、それを合わせた数の対戦を、ひたすら戦い続けて今日の勝ち星を積み重ねてきた。
  その平常心が素晴らしい。 

  腰痛ほかの故障を押して凛として土俵に上がる魁皇関を観ていると、時として痛々しく感じることはあるが、励まされることの方が多い。
  今、大相撲を盛り上げているのは、魁皇関のようにすら思える。
  本当に、今日は盛り上がった。
  感動、感動、ありがとう。


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2010年05月22日

多礼の孔大寺神社(3)〜「指來神社」

 前回「多礼の孔大寺神社(2)〜二・四の鳥居は指來明神」からつづく。

 福岡縣神社誌によると、七柱の祭神名は、「気長足姫命、阿蘇津彦命、大己貴命、高おかみ神、少彦名命、水波能売命、豊日別命」となっていた。

 かなりややこしいが、これらの神々は、かつて宗像市多礼地区(旧多禮礼村=旧田島村大字多禮)内の各集落で祭祀されていた六神社が合併して、当地(現宗像市大字多礼字袖木・指來神社)に合祀されたようである。

 この七柱を分離すると、次のようになる。[ ]内は、旧鎮守地の字名。
  (一)「村社指來神社」 [字袖木]・・・(1)気長足姫命(主神)、(2)阿蘇津彦命
  (二)「孔大寺神社」 [字三重<産土神>]・・・(3)大己貴命、(4)少彦名命
  (三)「貴船神社」 [字井尻]・・・(5)高龗(おかみ)神
  (四)神社名不詳 [字上多禮]・・・(6)水波能売命(貴船神社配神)
  (五)神社名不詳 [字岩ヶ鼻]・・・(6)水波能売命(貴船神社配神)
  (六)「無格社豊日神社」 [字岩ヶ鼻]・・・(7)豊日別命。

 まず上記(二)孔大寺神社が、上記(三)・(四)・(五)の三社を吸収合併、続いて上記(一)・(六)の二社を合併(大正5.6.5)して当地「村社指來神社(明治5.11.3村社被定)」鎮守地に移転。

 その際、「村社指來神社」の名をそのまま残して「村社指來神社」と改称、旧多禮礼村全体の産土神としたのではないか。
 そして、孔大寺神社が当地に移転したときに移設した鳥居が、現在、一の鳥居「孔大寺宮」として残っているのではないのか。

 それゆえに現在、ここに「孔大寺宮」の鳥居が建っていても、また、地図に「孔大寺神社」の名が記載されていても、この神社の名は指來神社となって久しく、既に地元では、指來明神の名で呼ばれることはあっても、孔大寺神社の名で呼ばれることはないのだ。

 さらに、本殿の横に石祠が三つあったが、このうちの一つが移設された旧・孔大寺神社の石祠ではないかと思う。
 残りの石祠は、旧・貴船神社(記銘あり)と旧・豊日神社か。これらの石祠は、上記神社合併・移転のときに当地境内に移設されたものではないかと思う。

 なお、三の鳥居「豊前坊」は、旧・豊日神社の祭神豊日別命が英彦山内の「豊前坊高住神社」の主祭神なので、類推して旧・豊日神社に建っていた鳥居を当地に移設したものではないかと思う。
 したがって、もともとの孔大寺神社のものではないので、この鳥居を以って当初、推測した孔大寺山と英彦山修験道を直接結びつけるのは難しいが、多礼地区には、石鎚神社の存在を含めて考えると、修験道の存在の素地があったことは否めない。

(※つづく→「多礼の孔大寺神社(4)〜指來明神(旗指大明神・太禮明神)と神功皇后」)

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