2010年08月

2010年08月31日

加藤ミリヤさん、R-Festa 2010出演

R-Festa 2010  エキサイトニュース ※左は加藤ミリヤさんの出演画像(下記)。
 
  今日の「流派-R」は、「R-Festa2010」(8/2、新木場STUDIO COAST、出演アーティスト18組)の第二弾放送だった。

  予想していたとおり第二弾出演者のなかに加藤ミリヤさんがいた。そして、加藤ミリヤさんの歌は、思っていたとおり「BYE BYE」だった。それに意外、「X.O.X.O」も、合わせて2曲だったのか。すごい!!

  加藤ミリヤさんのパンチのきいたテンポの速い歌とパワーが湧き出るような舞台映えする奇抜なオリジナル・ファッション、会場を最高に盛り上げただろうネ。

  この盛り上がりを喜んでいて、ふと昨年1月、加藤ミリヤさんではないが、mihimaru GTさんらのライブをTVで観て、気持は盛り上がったが、手を上げることもできずに苦しんでいた頃のことを思い出した(後日、別記予定)。

  今は、ライブを見ながら手を上げることだってできるので、本当にあり難い。人はいつなんどき何があるのか分からない、はしゃげるときは大いにはしゃごう。

※本ブログ2010.8.26「COMA-CHIさん、R-Festa2010出演など」参照
※本ブログ2010.7.29「加藤ミリヤさんの「HEAVEN」を買った」参照
※本ブログ2010.8.3「加藤ミリヤさんの気になる5要素」参照

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2010年08月30日

高見神社(宗像市曲)に行く(5)〜三尊石大鷹の鷹見

 前回「高見神社(宗像市曲)に行く(4)〜高見の名称由来いろいろ」からつづく。

鷹 無料画像ダウンロード 高見神社が、「高見権現」(高見権現社)と言われていた背景には、高見神社が許斐山熊野神社との関係で創立された神社であり、熊野三所権現(熊野権現)を祭神としているので、許斐山において熊野三所権現が
「許斐権現」と称されたように、高見神社では「高見権現」と称されたのだろう。

 許斐山熊野神社には、神殿の後ろに「三尊石」の大岩が立ちはだかっているが、この大岩には、熊野三所権現三神が三羽の大鷹に乗って紀伊国熊野本宮から許斐山に飛来し、やがて三羽の大鷹は、三つの大岩と化し「三尊石」となったとの伝説がある。

 だとすれば、これは想像だが、紀伊国熊野本宮から御神体を乗せて飛来した三羽の大鷹は、この高見神社のある小丘陵で暫し休息して、これから向かう許斐山を見上げた。
 それ故にこの地を鷹見といい、のちに高見となった。

 或は、許斐山に飛来した三羽の大鷹は、許斐山に留まり、許斐山の周りを旋回するたびに、当初、許斐山に上る直前に立ち寄ったこの小丘陵にも飛んできた。
 それ故に、この地は、大鷹を見ることができる場所ということから鷹見となり、後に高見となった。
 高見神社の参道に古井戸の跡が残っていたので、ここに立ち寄り休憩するにしても水場の確保はできたであろう。

 このように想像した方が、許斐山「三尊石」の大鷹伝説ともつながり、地名の由来伝説としては遥かに面白いと思うのだが、そんな伝承は残っていなかったのだろうか。

 また、この集落の地名「曲(まがり)」は、珍しい地名だと思うが、地名の由来については知らない。ただ、この集落の取り付き道路を宮田(旧曲本村)まで歩いてみたら、かなり曲がりくねっており、宮田の集落内に入るとさらに曲がりくねっていた。
 こんな道路を称して、曲がりとなったのかどうかは分からないが、大鷹がこの地の上空で大きく旋回したから曲がりなのだろうと思ったりもしていた。
 なお、宗像地方では、今でも飛んでいる鷹を目撃することがある。

 こんなことをいろいろ思い浮かべながら行脚していると、猛暑の暑さを少しだけ忘れることができた。

 ところで、鷹といえば、福岡ソフトバンクスホークスのタカのキャラクター「ハリーホーク」が思い浮かぶなあ。  
 それから、二の腕と両脚を絡ませながら身体のバランス能力を向上させるヨガーのポーズのひとつにワシのポーズもある。
 堂々とした鷲を真似て夏バテに対抗しよう。  
 ※画像は、タカ/鷹の無料クリップアート素材からお借りしました。

 ※つづく→「高見神社(宗像市曲)に行く(6)〜加具突智神」。

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2010年08月29日

映画音楽に乾杯!新妻聖子さんも出演

20100829s2_[映画音楽に乾杯]  本日放送(BS2/19:30~20:58)の
「映画音楽に乾杯!サマースペシャル」
のプレイリストと歌手、演奏等が分かった。

  ゲストに八千草薫さんを迎え、小堺一機さんと宮崎美子さんの司会で、ヒットした映画音楽20曲が披露されるらしい。

  東京フィルハーモニー交響楽団(指揮渡邊一正さん)演奏やピヤニスト島健さん、ギター(大久保明、小堀浩さん)、バラライカ田代耕一郎さん、或はTeamKダンサーズ、コーラス(山田洋子、風雅なおと、宮本良子さんら)などを織り交ぜて、これらをバックにして実力派の歌手が歌うという。

  かつてBS2スタボーにも出演したミュージカル歌手新妻聖子さん、それに今陽子さん、シルビア・グラブさん、井上芳雄さんなどのミュージカル歌手、アルベルト城間さん(ラテン)、砂川涼子さん(ソプラノ)、大澄賢也さん(ダンサー)らが並ぶ。

  もちろん、新妻聖子さんのファンの一人として、その出番には、特に注目。そんなこと考えていたら、なんだか緊張してきた。

  新妻聖子さんは、次の5つに名を連ねている。
  (1)マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン:「タイタニック」から
  (2)ワン・ナイト・オンリー:「ドリーム・ガールズ」から
  (3)ス・ワンダフル:「パリの恋人」から
  (4)アイ・ガット・リズム:「ガール・クレイジー」から
  (5)トゥナイト:「ウエスト・サイド物語」から

  このなかに、これまで何度も観て聴いた「ドリーム・ガールズ」が入っているのも嬉しい。
  この夏、まさに見逃せないサマースペシャルで、スタボー(魅惑のスタンダードポップス)以来の楽しみだ。

  ただし、20:00~の時間帯は、家族が観ている龍馬伝や、はるな愛さんのゴールと重なるので録画予約しておこう。
  なお、9/3(土) 20:00〜21:28にBS hiで再放送の予定もあるようだ。

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2010年08月28日

高見神社(宗像市曲)に行く(4)〜高見の名称由来いろいろ

 前回「高見神社(宗像市曲)に行く(3)〜旧曲村」からつづく。

52高見神社口から許斐山望む ※左の画像は、高見神社(宗像市曲)入口付近から許斐山の山容を望む。

 前述南郷コミセン特集第5号に「許斐山から見下ろすこの芝原が高く見える所から高見神社といわれました」とあった。

 「芝原」とあるのは、曲(宗像市)の広い穀倉地帯(稲作主体)のことを指しているのだろうか。
 或は、高見神社創建当時は、一面芝原であったのだろうか。

 高見神社からその南にある許斐山までは、直線にして1里弱の距離しかないので、許斐山からこの地を見下ろすと、一面に広がる芝原(緑色又は茶色に見える田畑)が眼下にあり、この小丘陵が周りより一段高く見えるのは間違いない。

 ただし、私がこの特集第5号を読んだのは、高見神社に行った後のことだから、実際に高見神社に行ったときには、これとは別のこと、又はまったく逆のことを考えていた。

 一つは、現在、高見神社の社殿が建つ小丘陵上は、樹木に囲まれて周りの見晴らしが利かないが、樹木で見晴らしが遮断されてなかったときは、周りの田畑地帯より一段高いこの小丘陵上から見晴らしは抜群だった。
 だから、高見神社の高見は、この小丘陵上の高台からの見晴らしがよいということから付いたのだろうと思っていた。
 因みに北側に広がる宗像四塚連山のパノラマも抜群である。

 一つは、この南に聳える許斐山が一段と高く見えるので高見の名が付いたのだろうということ。
 こう考えると、許斐山から見下ろされて高見の名が付いたというよりは、ここから一際高くそびえる許斐山を見上げたので高見の名が付いた考えた方がより主体的のような気がする。

 恐らく、御神体を許斐山に運ぶ一行も、ここで休憩したときに、高くそびえる許斐山を見上げていたに違いないだろう。
 こんな想像を巡らしていると硬くて味気なくなりがちな参拝行脚も楽しくなる。

 もう一つ、高見神社の名が、許斐山との係わりで付けられたのだとしたら、許斐山熊野神社の三尊石の大鷹の伝承との係わりでも考えられるのではないかと想像を巡らした。
 つまり、鷹見(→高見)である。

 ※つづく→「高見神社(宗像市曲)に行く(5)〜三尊石大鷹の鷹見」。

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2010年08月27日

亡母の遺骨を新車で運んだ思い出

  昨日は、養母の本祥月命日、今日は、実母の本祥月命日と、二人の母の追善法要が続いた。
  それぞれ亡くなった年代には開きがあるが、二人の母の遺骨を納骨したときのことを思い出した。

  養母の遺骨は、25年前、当時納車したばかりの新車に乗せて墓地に運んだ。まさに、その遺骨が初めての同乗者でもあった。

  2年半前、新車(現在使用中の車)購入後、実母が入院、死亡、その遺骨を乗せて墓地に運んだ。
  実母の遺骨は、改葬により、1年余の間に二度乗せた。

  遺骨は、既に肉体から魂の抜けた亡骸(殻)ではあるが、たとえ亡骸であっても、遺骨を新車の乗せて運ぶことは、霊界に旅立つ母らの魂が新車に乗って霊界に還ることにつながる、と妙に納得していた。

  ところで、現在使用中の車だが、実母の死後、2年の間に接触事故を三度(対物1、自損2)も起こしたので、これは、実母の遺骨を運ぶことで役割が終わった、とのお知らせではないかと考えた。
  実母3回忌を期として、今、出費はかなり痛いが、エコカー減税があるうちに、小回りがきく小さなファミリーカーに買い換えようかと模索している。


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2010年08月26日

COMA-CHIさん、R-Festa2010出演など

 COMA-CHI)ティニーシャ・ケリー ※左の画像は、COMA-CHI/ティニーシャ・ケリー、「ラヴ・ハーツ」。

  今週(8/24)の「流派-R」は、8/2新木場STUDIO COAST開催の「R-Festa2010」第一弾だった。出演アーティストは総勢18組、第2弾は、次回(8/31)放送。

  第一弾出演者のなかに、東京No.1フィメールラッパーといわれるCOMA-CHIさんがいたのは嬉しかった。
  COMA-CHIさんの歌は、やはり、「STEP UP!」だった。
  この曲、最高に盛り上がるネ。
  (※本ブログ、2010.5.1「COMA-CHIさんの「STEP UP!」を聴いた」参照)。

  そういえば、昨日(8/25)、COMA-CHIさんとJAY'EDさんとのデュエット、心温まるようなバラード「ザ・ライ ト・ウェイ」が着うた配信された。
  既に大ヒット配信中のティニーシャ・ケリー(Tynisha Keli)さんとのコラボ曲「ラヴ・ハーツ(feat. COMA-CHI)」に続くものだ。

  また、昨日(8/25)リリースされたティニーシャ・ケリーさんの2nd ALBUM「The 5th Element(ザ・フィフス・エレメント)」にも、「Love Hurts (feat. COMA-CHI)」が収録されている。

  それに、同日リリースされた人気モデルの紗羅マリーさんの1st
ALBUM「MY NAME IS」にも「Mirror Mirror feat. COMA-CHI」が収録されている。

  COMA-CHIさんは、多くのライブやフィーチャリングに参加し、客演作品であっても堂々と歌い上げ、その存在感を示す。
  やはり、COMA-CHIさんは、周囲に元気を振りまく力のある魅力的なラップ歌手だ。

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2010年08月25日

高見神社(宗像市曲)に行く(3)〜旧曲村

 前回「高見神社(宗像市曲)に行く(2)〜熊野三所権現暫時遷座跡」からつづく。

 実は、高見神社には、前述南郷コミセン特集第5号を見る前、原神社(宗像市原町)を参拝した日に行っていた。

 旧唐津街道を原町宿から赤間宿に向かうとき、原神社を出るとすぐ朝町川(旧宮田川)にかかる宮田橋があるが、この橋の南西から、釣川に高瀬川と朝町川が合流する辺りにまで広がる一帯が曲で、今も田園が広がる穀倉地帯である。

 この合流地点にやや近い位置に丘陵があり、高見神社は、この丘陵の南東の角から真っ直ぐ緩やかに登る参道の頂に鎮座していた。
 丘陵は、高見神社の後背地に延々と伸びているので、元の神域は、後背地にもっと広がっていたのかもしれない。
 高見神社鎮座地の字名が「宮の後」となっているが、これを、どのように解釈したらよいものか。

 「風と森との物語」掲載の「宗像郡曲村絵図・寛政6年(1794)5月冨永軍次郎」(中村嘉彦家所蔵)には、高見神社は「高見権現」とあり、この丘陵の南側山裾一帯にある集落は「下曲下」と書いてあった。
 神社より前方に「下曲上」、「下谷・上谷」、「本村」の集落が、古田(田園)を前にして連なっている。
 絵図を観ていると、当時の曲村の「本村」は、貴船神社(宗像市宮田2丁目)の後方、宗像市宮田1丁目辺りにあったように思える。
 多分、旧曲村は、現在の曲地区よりは広く、宮田、自由ヶ丘などを含んでいたのではないかと思う。

 なお、宮田は、かつて宗像神社(宗像大社)の宮田(祭田)があったことを意味する。
 また、自由ヶ丘一帯は、かつて御山、御証拠山、百姓預山などと言われた山々があったところで、これらの山は、すべて団地造成で消滅した。
 貴船神社は、高見神社境内にもがあったが、当地が穀倉地帯だったので、農耕に恵をもたらす水神様として祀られていたのではないかと思う。

 ※つづく→「高見神社(宗像市曲)に行く(4)〜高見の名称由来いろいろ」。

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2010年08月24日

高見神社(宗像市曲)に行く(2)〜熊野三所権現暫時遷座跡

 前回「高見神社(宗像市曲)に行く(1)〜原神社の北方」からつづく。

  前述「南郷コミセン特集第5号」に載っていた高見神社の説明は、「熊野三社(伊邪那美尊、事解之男命、速玉之男命)の御神を祀っています。文徳天皇が天安元年(857年)、紀州の熊野本宮より許斐山に向かう途中にこの場所で一夜を明かしました(芝原)。許斐山から見下ろすこの芝原が高く見える所から高見神社といわれました。」とあった。

  このなかの「文徳天皇が…この場所で一夜を明かしました」の部分を読んだとき、かなり自分の目を疑い、何度も読み直した。

  今まで、文徳天皇(もんとくてんのう)が許斐山(宗像市王丸/福津市八並)に下向したというような話は聞いたことはなかったからだ。
  確かに許斐山の熊野神社(許斐権現)は、文徳天皇の御世天安元年(857年)に熊野三所権現を勧請したと熊野神社の縁起にはあるが、この勧請に文徳天皇が同行したというような話は聞いたことがない。
  文徳天皇(827~858)は、平安時代前期に、藤原良房が擁立した55代天皇(在位850~858)で、急死(32歳)した前年の天安元年(857)に京都を離れることなどできただろうか。

  福岡縣神社誌に、高見神社の由緒は、「創立天安元年許斐山に熊野神社勧請で有りし時紀伊國牟漏郡の本社より神体體を暫く遷座有りし故其跡に社を建て祝祭す」とあり、文徳天皇の記載はない。

  いずれにしろ熊野三所権現の御神体が許斐山に入る前に、暫く(一夜なのかどうかは分からないが)この地に留まったことは確かなのだろう。
  高見神社が、この由緒により創立されたのであれば、御祭神に熊野三社の御神(熊野三所権現)を祀ったのは当然のことだろう。

  なお、熊野三所権現は、許斐山熊野神社に建っている「縁起板」には、熊野権現三尊とあり、鎌倉実記に基づき伊弉册尊、泉津事解男命、泉津速玉命の三神と書いてあったが、もとより上記伊邪那美尊、事解之男命、速玉之男命と同神である。

 ※つづく→「高見神社(宗像市曲)に行く(3)〜旧曲村」。

 ※参照→「熊野神社と三尊石(1)[許斐山12]」2009年11月10日)。

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2010年08月23日

高見神社(宗像市曲)に行く(1)〜原神社の北方

 前回「原神社に行く(4)」(2010.8.17)からつづく。

 前回、原神社の祭神は、素盞鳴命と軻遇突智命かと書いたが、「南郷コミセン(南郷地区コミュニティ運営協議会)HP事務局だより特集第5号(H18.12)に、「原神社は、南郷村大字野坂字榎ヶ元(現在の原町)に位置し、由緒は不詳、軻遇突智命・菅原神・素盞鳴尊が奉られています。元旦祭・御祇園祭・お宮座・神待(かんまち)等の行事が残っています。境内には疫神社(2神社)と天満神社の三社も奉られています」と書いてあった。

 手帳に書きとめていた原神社の祭神名「素盞鳴命と軻遇突智命」の二神のほかに菅原神が入っているが、由緒は分からないとあり、予想していた原比女明神に関する記述はやはりなかった。

 なお、原神社境内の御神輿は、素盞鳴命が乗る祇園祭の行事のときに使うことは間違いないだろう、それに原神社が広い拝殿を有していたのは宮座や神待等の習慣が残っているからなのだと納得した。

 ところで、前回、「原神社の北方約1.8キロの地点にある高見神社(宗像市曲)の祭神は、許斐権現三神と加具突智神(軻遇突智命・迦具土神に同じ)であり、この神社との関係はなかったか」とも書いていたが、高見神社も上記特集第5号に載っていた。

 高見神社の所在地、宗像市曲は、旧南郷村(←旧宮田村←旧曲村)の内だから、確かに南郷コミセンの範囲になる。

 ※つづく→「高見神社(宗像市曲)に行く(2)〜熊野三所権現暫時遷座跡」。


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2010年08月22日

ノカンゾウとタカサゴユリ/子孫につなげ

ノカンゾウとタカサゴユリ ※左の画像は、庭のノカンゾウの花が咲く花壇のなかで開花したタカサゴユリ。

  今年は、庭のタカサゴユリは1本のみと思っていたが、予想外のところで2本伸びたので3本となった。
  それぞれに1輪の花が開花した。
  今年の3本の茎は、いずれも細く、花の大きさも小さい。

  昨年、開花した1本は、種を付けることなく枯れたので、この3輪に種ができるとよいのだが、と思っている。

  人々は、子孫繁栄のために家族の歴史を作って行くので、それを思うと、たとえ花であっても、その子孫繁栄の手助けをしてあげたいと思っている。
  かつてユリ御殿と称された庭の面影はないが、これまで何とか開花をつないできた。子孫に命つなげタカサゴユリ。

  最近の気候(酷暑など)も植物の生育にも影響を及ぼしているのかもしれないが、ここで絶やしてしまうわけには行かないと思っている。特に、タカサゴユリは、亡養母が大好きだった花だけにその想いが強い。
  それにしも暑い日々、一向に涼しくなる気配がない。
  「熱中症」が時代の病気・用語にもなっているほどに暑い残暑だ。

 ※本ブログ2009.8.24「花壇のタカサゴユリ開花」、2010.6.15「初めてみたユリの花」参照。

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