2011年01月

2011年01月31日

2月上旬は、若村麻由美さんのTV旬間?!

6あの海を忘れない綾野剛萬田久子 ※左の画像は、
 綾野剛さん、若村麻由美さん、
 萬田久子さん。
 (「あの海を忘れない」公式サイト
 からお借りしました)。


  昨日のブログテーマは、後で「花柳小菊訃報から…」に変えたが、最初は「阪東妻三郎(花柳小菊訃報欄)、及び田村正和・若村麻由美「告発」出演等」と何だかよく分からない長いテーマになっていた。

  花柳小菊さんの訃報欄にあった阪東妻三郎さんから子息田村正和さんに脱線して、田村正和さん主演のドラマ「告発〜国選弁護人」(テレビ朝日系)に出演する若村麻由美さんとなり、テーマが何だったのか分からなくなってしまったような次第だった。

  ところで、2月上旬は、その若村麻由美さんのTV出演番組が、この「告発〜国選弁護人(第4話・第5話)」の2作(2/3(木)、2/10(木)各PM9:00〜放送)を含めて4作ある。

  あと2作も同じテレビ朝日系放送で、うち1作は、第10回文芸社ドラマスペシャル「あの海を忘れない〜若年性アルツハイマー病を支えて」(2/6(日)PM2:00〜放送)。
  その公式サイトのintroductionには、次のように書いてあった。

  「41歳の響子(若村麻由美)は、12歳年下の恋人でミュージシャンの仁(綾野剛)と結婚を約束。「待った甲斐があった」と、その幸せに浮かれていた矢先、仁(綾野剛)の母親・睦美(萬田久子)が若年性アルツハイマー病を発症していることがわかって…!?」。

  いつなんどき、このような病気が襲ってくるとも分からない現代、
訳の分からない苦しみや戸惑い、その苦難をどう受容し乗り越えて行こうとするのか、胸を打たれそうな愛憎、愛情物語だと思う。
  Counselorとしては必見か。

  因みに綾野剛さんの誕生日は、花柳小菊さんが亡くなった1月26日とか。

  もう一つは料理番組で、若村麻由美さんは、「(第162回)二人の食卓〜ありがとうレシピ」(2/5(土)PM6:30〜放送)にゲスト出演するようだ。

  今回のありがとう…は、「阿藤快&若村麻由美」で、阿藤快さんが女優・若村麻由美さんへの想いを込めたレシピは、「ゴマ油のあったかみぞれうどんとショウガのきんぴら」だそうだ。

  2011年2月上旬は、まさに若村麻由美さんドラマ旬間となりそうだ!
  若村麻由美さんファンとしては、見逃さないように…のんびりできないや。

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2011年01月30日

花柳小菊さんの訃報から・・・

26花柳小菊さん逝去阪東妻三郎※画像は花柳小菊さんと阪東妻三郎さん(shoの映画部屋からお借りした)。

  昨日、花柳小菊さんの訃報を知り、「花柳小菊さん逝く(亡養母によく似た女優だった)」を書いた。

  子供の頃は別にして、近年、花柳小菊さんと言っても、私の周りにその名を知る人があまりいなくなっていたので、ついついその名を口にすると寂しくなるので、あまり花柳小菊さんのことを書くことはなかった。

  花柳小菊さんの訃報欄には、阪東妻三郎さんなどの懐かしい名があった。また、以前「養母は、花柳小菊、若村麻由美に似た人」と書いた記事も載せた。

  ところで、阪東妻三郎さんといえば、その子息田村正和さん出演のTV番組は、よく観ている。

  現在、田村正和さんは、「告発〜国選弁護人」(テレビ朝日)で主役佐原卓治弁護士役を演じている。放送時間が「渡る世間は鬼ばかり」(TBSテレビ)と重なるめ録画観賞している。

  この「告発〜国選弁護人」第4話(2/3放送)と第5話(2/10放送)に、上記の若村麻由美さんがゲスト出演するという。

  若村麻由美さんの役は、「鬼の母」と呼ばれて人々を驚駭させた殺人犯清水熱子役。
  若村麻由美ブログには、第4話「二つの顔を持つ女」と第5話「記憶を消した女」で「熱子役&ゆめ子役&」をするとあったので、かなり複雑な事件の二重三重人格的な役を演じるのだろうか。
  この弁護を担当する佐原卓治弁護士が田村正和さん。事件の舞台は、甲府か。

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2011年01月29日

花柳小菊さん逝く(亡養母によく似た女優だった)

亡花柳小菊さん  一昨日(1/27)の毎日新聞で、
花柳小菊さんの訃報を読んだ。

「花柳小菊さん89歳(はなやぎ・こぎく本名・斎藤芳子、女優)26日心不全のため死去。葬儀は近親者のみで行う。喪主は長男斎藤達樹さん。

  東京の花街、神楽坂でスカウトされ、1935年の日活映画「恋愛人名簿」でデビュー。二枚目俳優の滝口新太郎と共演した映画では「あこがれコンビ」と呼ばれた。
  阪東妻三郎や片岡千恵蔵、市川右太衛門ら有名スターの相手役として時代劇にも数多く出演。新派の舞台でも活躍した。」とあった。

  花柳小菊さんは、亡養母と容貌容姿がすごく似ていた人だったのでよく覚えている。
  このことは、以前(2007.12.20)、「宝塚ミュージカル長崎しぐれ坂を観て」及びのなかで、「養母は、花柳小菊、若村麻由美に似た人で、和服を着こなし、舞踊や調方の三絃、筝などの芸ごとを一通り修めた人だった。」と書いたことがあった。

  子供の頃から、なぜか花柳小菊さんが出演していた映画をよく観に行っていたが、いつも、花柳小菊さんの容貌容姿、身のこなし方から声、話し方まで、養母にすごく似ていると思っていた。

  当時、周りの人たちの誰もが、「(あなたの)お母さんは花柳小菊に似ている」、と言っていたので、自分の主観だけではなかったのだろう。

  60年安保闘争後だったか、急速に東映時代劇の全盛時代が終焉、花柳小菊さんの姿が銀幕から消え、数度TVでみかけたことはあったが、以後のことは知らなかった。

  そういえば、花柳小菊さんは、「徹子の部屋」(テレビ朝日)に出演したことがあったようで、黒柳徹子さんは、また一人、同番組出演者の冥界への旅立ちを見送ったことになる。

  私にとって、半玉の花柳小菊さんがスカウトされた神楽坂は若い時代の縁故地、花柳小菊さんが亡くなった1/26は亡養母の月命日で孫娘の誕生日、また、ともに当家一統の日本舞踊は花柳流…。
  何か言い知れない縁を感じ、いろんなことが思い出されて、また一人母を亡くしたような気持にもなった花柳小菊さんの訃報であった。

  今、冬の寒さにもめげずに、庭で咲き続けている数本の「小菊」の花を観て思わず合掌、故花柳小菊さんのご冥福を祈った。

 ※左上の画像は、若い頃の花柳小菊さん(ブログ「shoの映画部屋」からお借りしました)。 

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2011年01月28日

渋井陽子さんの走りに興奮!(選抜女子駅伝北九州)

渋井陽子さん  先日(1/23)行われた第22回選抜女子駅伝北九州大会は、最終5区で渋井陽子さん(31歳)の快走(区間賞)が光り、トップに躍り出て三井住友海上に逆転初優勝の栄冠をもたらした。

  渋井陽子さんの走りは、その実力、そして勝負勘も、健在だった。

  アナウンサーが「帰ってきた渋井陽子」と賞賛した。

  本当に、1年半ほど前のアクシデント(右足疲労骨折)から立ち直った渋井陽子さんの気力溢れる力強い快走ぶりには、醍醐味を満喫できるほど興奮した。

  渋井陽子さんのフルマラソン復帰も間近。(2/27東京にエントリーと聞く)



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2011年01月27日

花立山・城山公園から花立山穴観音古墳へ(5)

花立山穴観音古墳説明板  (前回続き)。いつの時代かに開口していた花立山麓にある岩屋の穴(古墳石室)内に誰かが観音像(石仏か)を祀ったので、後に花立山穴観音(古墳)と呼ばれるようになったのだと思うが、既に江戸時代に穴観音信仰があったと聞いたことがある。

  もし江戸時代に祀られていた観音像(石仏)があったら、明治維新における廃仏毀釈の波のなかで破壊、或は消滅したとも考えられる。

  近年、学術調査が行われ、この花立山穴観音古墳の築造時期が6世紀末頃と確定したようだが、穴観音信仰の元になった観音像(石仏)があったというような報告はなかったと思う。
  また、石室に施されていた線刻にも、後世の穴観音信仰の対象となるようなものはなかった。

  古墳を出て、林を通り抜けると、花立山穴観音古墳の概要を記した「県指定史跡花立山穴観音古墳(小郡市教育委員会)」説明板が立っていた。(※左上の画像=画像の上で左クリックすると拡大する)。

  なお、この説明板には記されていないが、横穴石室の構造には目を見張ったことを書き添えておく。

  説明板の前に、丘陵の縁に沿った農道があり、その前面には田地が広がっていた。
  この農道が、以前歩いた平坦道であったどうか思い出せないが、丘陵の縁を右に回りこむように歩いて戻ることにした。
  しかし、その途中、吹きつけてきた北風のあまりの寒さに震え上がり、あわてて冷風を避けるように今来た道を引き返した。

  この日、花立山穴観音古墳に足が向いたものの、その意味することが何だったのかは分からない。(おわり)

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2011年01月26日

花立山・城山公園から花立山穴観音古墳へ(4)

  (前回の続き)。薄暗い檜林の中にある花立山穴観音古墳の墓道から、南向きに開口している横穴の羨道口を眺めたとき、何かすごく不気味にも見えた。
  一人で行ったら、よほど強い信仰心がないと容易に近づけないような雰囲気もあり、同行したZさんも少し尻込みしていたが、2人で入れば怖くないと勇気を振り絞って古墳の中に入った。

  花立山穴観音古墳は前方後円墳だというが、墓道と横穴の地面は同じ高さだった。
  ただ、墓道が低い切り通しになっており、切り通しの左上に「祭祀跡」と書いた立て札が立っていたので、元はこの墓道部分にも盛り土があり、帆立貝様式の前方部が造られていたのだろう。

  羨道口の天井岩は、思ったより低い位置にあり、少ししゃがんで中に入ったが、出るとき、うっかりして頭部を思い切り打った。
  被っていた帽子が、少しはクッションになってくれたようで大事には至らなかったが、何か無礼があったのだろうかと思った。

  思い当たる節としては、羨道(前室)を10mくらい進んで玄室(後室)入口で足を止め、それ以上は中に入らず、その場で玄室に向かって軽く合掌はしたものの、何も言わずにさっさと出てきたことだった。
  でも、よく確かめもせずに玄室内に入って、古墳の神を自らの足で踏み付けることになってはいけないとの思いがあったからだ。

  否、それ以上に玄室の奥にあった基壇に何か分からない違和感を抱いたことだった。
  元々こういう形の基壇があったように思えず、また、その上に並べて置いてあった10数体の石仏にも違和感を覚えてのことであった。

  このなかに穴観音信仰の元になった観音石仏があったのだろうか。(直感的にはなかったが)、その有無を霊的に確かめもせず、何の供養もせずに、さっさと引き上げたので、頭部を打ったのだろうか。(つづく)

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2011年01月25日

花立山・城山公園から花立山穴観音古墳へ(3)

花立山穴観音古墳入口  前回、花立山穴観音古墳(福岡県小郡市干潟字城山)の墓道(※左の画像)に、「城山四国第二十二番札所」と「城山西国第九番札所」刻した石柱があったと書いた。

  この「城山」は、城山公園や花立山穴観音古墳の所在地である小郡市干潟字城山の、城山の字名によると考えられなくもない。

  だが、「花立山」(小郡市山隈字花立)を、地元で「城山」(しろやま、じょんやま)と呼んでいるので、この場合、花立山(城山)の山麓(字城山を含む)一帯を指していると考えてもよいのではないかと思う。

  花立山の南西側は小郡市で、その山麓に城山や花立の字名が残っているのでややこしいが、あまり深く考え込むことでもなさそうだ。
  花立山には、南北朝時代〜戦国時代に山隈城(花立山城ともいう)が築かれていたといい、その由緒により城山とも言うのだろう。

  なお、花立山の北東側は朝倉郡筑前町で、山麓に花立山温泉(筑前町上高場)があるが、筑前町の人たちも花立山のことを城山と呼んでいるのかについては定かでない。
  
  花立山穴観音古墳の墓道前の叢に立派な四角の手水鉢が、放置されたような状態で置かれていた。
  以前、この手水鉢の上に屋根のある囲いがあったが、今は、その柱が腐って倒壊し、この上に倒れ掛かっていた。
  とりあえず、手作業でできる部分だけは取り除いたが、道具を持っておらず周辺整備はできなかった。

  また、この横には、古墳内に供えられていたと思われる生花(枯花)ほかが捨てられてゴミの山を作っていた。
  信仰者のマナーを疑うも、もとより、こんなことを想定して訪れたわけではなく、見過ごすより仕方なかった。

  この手水鉢には、「御願成就 奉納 昭和拾弐年五月立石村干潟 内山忠教」の刻銘があった。
  多分、花立山穴観音古墳の神仏に御願成就を祈願して奉納されたもので、そのご利益の強さ、そして深い信心者の姿が思い浮かぶが、奉納された時期は、戦前のことである。

  この年号を見た限りにおいて類推すると、花立山穴観音古墳を含む城山四国札所、或は城山西国札所としての霊場信仰が盛んだった時期は、今次大戦以前だったのかも知れないと思った。
  多分、戦前のある時期に、現世利益を祈願する城山西国三十三観音霊場札所が設けられ、また弘法大師お遍路信仰による城山四国四十八所霊場札所が設けられていたのかもしれない。

  かつて藪を掻き分けて山中に入り、思いも寄らぬ場所に祀ってあった観音石祠に行き着いたことがあったが、現在、上記各札所の分布範囲、所在地、残存の有無などを確認できるようなものはあるのだろうか。多分、そのすべてを辿ることはできないのではないかと思っている。(つづく)

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2011年01月24日

花立山・城山公園から花立山穴観音古墳へ(2)

花立山穴観音古墳墳丘  勘田ヶ浦築堤は、護岸工事が行われたときに外側斜面にサツキなどが植えられて、きれいに整備されたようだ。

  築堤を渡りきったとき、その正面の小丘陵を登るように林のなかに細い山道が続いていたので少し戸惑った。

  以前、花立山穴観音古墳に行ったときは、こんな細い山道ではなく、もう少し広くて平坦な道を歩いたような記憶があったからだが、その取り付き口が何処だったのかの記憶がなく、別ルートを辿ったのかもしれない。

  小丘陵越えの道を登りきったところの右手に小円墳らしき盛り土があり、その頂きに石祠が見えた。しかし、その手前にロープが張られていたので、近づくことはできなかった。
  山道からは、石祠(注1)の中を覗くことはできなかった。

  ここから山道は下りになり、また右側に小円墳らしき土盛が見え、その上にも石祠(注2)が設置されていた。しかし、ここにもロープが張ってあり立ち入りできないようになっていた。
  この道筋で2か所もロープで石祠に入る道が塞がれているということは、今は、これらの札所巡りなどは行われていないということなのだろうか。

  花立山の周りには、大きな花立山穴観音古墳(福岡県指定前方後円墳/小郡市)や焼ノ峠古墳(国指定前方後円墳/筑前町)のほかにも、古墳時代中期から終末期にかけて造られた多くの小円墳(群集墳)の存在(消滅したものも多い)が知られており、石祠が、この小円墳の上に設置されているケースも見られる。

  この先の右側の檜林のなかに大きな丸い墳丘が見えた。花立山穴観音古墳の墳丘である(※左上の画像)。

  花立山穴観音古墳の墓道の入口に、「城山四国第二十二番札所」と刻した石柱があったので、今辿ってきた道順から数えて、上記(注2)が「同二十三番札所」で、(注1)が「同二十四番札所」だったのではないかとも思った。

  そう考えれば、勘田ヶ浦築堤前の藤棚下にあった石祠の「二十五番札所」と、札所の番号がつながり、「二十五番札所」の石柱の欠損した上の部分は「城山四国第」だったのだろうと思い、何となく自己満足していた。

  ただ、花立山穴観音古墳には、もう一つ、この「城山四国第二十二番札所」と並んで、「城山西国第九番札所」と刻した石柱が置いてあったので、にわかにややこしくなった。(つづく)

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2011年01月23日

花立山・城山公園から穴観音古墳へ(1)

  昨日、久しぶりの好天気につられて、Zさんと花立山の麓にある城山公園(福岡県小郡市干潟)に行った。

  隣接する田地で凧揚げをしている母子の微笑ましい風景も見られたが、好天気とは言え冷たい北風が肌寒く、ゆっくり公園内の散策を楽しむような雰囲気ではなかった。

  この季節、公園内の桜もツツジもまだ開花までに間があり、菖蒲池にも花なく、池のボートも浮かんでいないし、鳥のさえずりも聞こえてこなかった。
  因みに、ここ城山公園の桜は、満開時には「桜花天衣競」(公園内に石碑あり)といわれるほどに爛漫である。

  冷風を避けるように足が自然と花立山登山口方向に向かった。
  そして、勘田ヶ浦堤の前にある藤棚の前で立ち止まり、直進して花立山に登るか、右折れして築堤上を進み穴観音古墳に行くかと、決めかねた。

  因みに、これまで何度も登った花立山の、頂上に鎮座する英彦山権現を祀る日方神社の「日方」は、当地の地名「干潟」のことではないかと思った。

  藤棚の下にある観音石祠に何気なく合掌したら、自然と勘田ヶ浦築堤上を歩き出した。

  この観音石祠の下に、上部が欠けた石柱があり、「二十五番札所」と刻されていたので、この石祠は、城山三十三観音霊場の二十五番なのだろう。
  そこで、今日は、この観音霊場の一つである穴観音古墳に行けと指示されたのかも知れない。(つづく)


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2011年01月22日

間寛平さんのゴール…まさに修行者に匹敵!

2010126間寛平ブログ  ※左の画像は、アースマラソン中の間寛平さん(間寛平から皆様へ公式BLOGからからお借りしました)。

  昨夜、TVで「間寛平アースマラソン地球一周41040キロ!今夜完全放送ゴール」を観た。

  間寛平は、さんまさんから走り終えて今何をしたいかと問われたとき、応援してくれた皆様にお礼を言います、と的外れの返答をした。
  間寛平さんの頭のなかは、皆さんの声援があったからこそ、くじけずに目標を達成できた、という感謝心で一杯だったのだろう。

  この2年間、ただひたすら走り続けることができたことを感謝する…
  この世界一周そのものが精神的、肉体的にも命がけのことであったろうし、途中で前立腺がんが見つかり、その手術後も死を覚悟して走り続けるなど、数々の試練を乗り越えて生きてこのゴールに到達できた…
  間寛平さんにとっては、自分の走りを見守り支え続けた人々や神仏に対しての感謝のゴールだったのではないかと思った。

  観ていて、これは修験者の大峰山千日回峰行にも匹敵する修行だと思った。その意味では間寛平さんは、試練や苦難を乗り越えて仏の悟りに近づいた修行者でもあると思う。
  しかも、謙虚心や感謝心を忘れない、人間性溢れる心暖かいお笑い芸人だと思い、そのゴールに感激し心から祝福した。
  後光が差しているようにすら思える、この快挙は、きっと多くの人々の励みになると思う。嬉しい感動をありがとう。

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