2011年05月

2011年05月31日

壱岐島にて(24)〜箱崎八幡神社3(月読神社の遷座)

(前回つづき)
  箱崎八幡神社(芦辺町箱崎釘の尾触)に残る記録では、元禄13年(1700)同社に遷座した式内社月読神社(高御祖神社併設)の原初鎮座地は、男岳(おんだけ/芦辺町)にあったという。
  その後、いつの時代かに山を下り上里の東屋敷→下里の辻→新庄村の宮地山を経て、箱崎村根抵(もとかぶ)山の箱崎八幡神社に遷座したという。

  これ以後、月読神社が遷座したという記録はないというので、現在の月読神社(芦部町国分)は、往古の式内社月読神社との直接的つながりはないようだ。

  やはり、古代、月神を祀る霊地は、視界を遮るものがなく、きれいに月が見える山上が相応しかっただろうと思う。
  しかし、常に山上で月神を祈念し亀卜を行うために、祭祀者や人々が夜毎、山上へと往来するのも難儀で、いつか山下に里宮を作り、そこで祭祀するようになったのではないのだろうか。
  さらに、祭祀者の代の入れ替わりや各種事情があって適地を選んで転々とし、最終的に箱崎八幡神社に遷座合祀され、いつしか月読神社、高御祖神社の名が箱崎八幡神社のなかで埋没していったのではないのかと推測した。

  月読神社の箱崎八幡神社への遷座の背景には、代々箱崎八幡神社の祠官を勤めた吉野氏が、かつて壱岐の月読神社(月神)を葛野坐月読神社(京都)に祭祀した壱岐県主の祖忍見宿禰の後裔であるという縁もあったのかもしれない。
  また、忍見宿禰に連なる壱岐氏一族で卜部氏を名乗った者は、代々亀卜等による占いを行い、現在の月読神社(芦部町国分)周辺に居住している人たちもいるらしい。(「壱岐島にて(21)〜月読神社」参照)

  なお、上記遷座の考えとは別に、『壱岐神社誌』に、箱崎八幡神社は、最初式内社月読神社として創立→海神の配祀又は龍神の合祀等により龍神又は海裏宮となる→八幡神の配祀あり箱崎八幡神社の社号となる→延宝四年査定過誤で式外社となったが、古来式内月読神社であるが故に壱岐島の名社として崇敬厚い(壱岐七社の一)といったことが記されているとも聞いた。
  つまり、当地は、箱崎八幡神社の名で八幡神が鎮座する以前に、式内月読神社→海裏宮という神社が存在していたということになる。
  この考え方から想像すると、当地には当初、男岳にあった月読神社の里宮(下宮)、或は男岳を奥宮とする月読神社の本宮が創立されていたということなのか。

  いずれにしろ、これ以上の詮索は止めにして、この後、当地から北東約2キロの地点にある月読神社の原初鎮座地・男岳(男岳神社)へと向かった。(つづく)

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2011年05月30日

壱岐島にて(23)〜箱崎八幡神社2(高御祖神社と月読神社)

(前回つづき)
  「壱岐島にて(21)〜月読神社」に、高御祖(たかみおや)神社の祭神高皇産霊神(たかみむすびのかみ)は、月読神社の祭神月神=天月神命=月読尊、月夜見尊、月弓尊の祖と書いた。

  芦辺町諸吉触に高御祖神社があるが、ここはもと熊野権現社と言われていたところで、本来の式内社高御祖神社ではないという。
  本来の式内社高御祖神社は、本来の式内社月読神社とともに箱崎八幡神社(芦辺町箱崎釘の尾触)に合祀されていたのではないかという。

  また、神社考(吉野政長)には、古代より壱岐島では高御祖神社と月読神社が同所に鎮座していたとあるらしく、であれば、やはり、現在、箱崎八幡神社に合祀されている高御祖神社と月読神社が式内社ということになるのか。

  しかし、箱崎八幡神社の記録では、月読神社の箱崎八幡神社への遷座は、江戸中期の元禄13年(1700)だという。そのとき、高御祖神社も一緒に箱崎八幡神社に遷座したと考えられる。
  つまり、この両神社が箱崎八幡神社に鎮座(遷座)した時期は、式内社記録の時代(延長5年/927年)より遥か後世のことになる。
(つづく)

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2011年05月29日

ソロモン流に上原ひろみさん出演

28上原ひろみdvd_bluenote_new york  先月末(4/28)、上原ひろみさん(32歳/ジャズピアニスト)の緊急帰国震災支援東京ライブ(9日間)が大盛況で終わったと聞いていた。

  それから1か月たった今夜(5/29)、上原ひろみさんがソロモン流(テレビ東京系列21:54~21:48、案内人/船越英一郎さん、ナレーター/魚住りえさん)に出演される。

  テレビで、上原ひろみさんの、あの軽快でスピード感あふれる、それでいて繊細で心を揺さぶるピアノを聴ける、と思うとワクワクする。

  上原ひろみさんは、第53回グラミー賞(本年2月、メンバーのスタンリー・クラーク・バンドが最優秀コンテンポラリー・ジャズ・アルバム賞) を受賞され、今や世界に知られるトップジャズピアニストだ。
  (法政大学法学部中退、バークリー音楽大学(ボストン市)卒)。

※本ブログ、2011.2.16「上原ひろみさん、グラミー賞受賞の快挙!」参照。
※左上の画像は、2010.11.23release dvd「live at blue note new york」(ヤマハミュージックパブリッシング)。


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壱岐島にて(22)〜箱崎八幡神社1(手水鉢、箱崎中)

2箱崎八幡きよめ水(現在使用不可)  前回、急遽、月読神社から箱崎八幡神社(芦辺町箱崎釘の尾触)に回ってもらったと書いた。

  予備知識なしに箱崎八幡神社境内に入り、まず目に付いたのは、参道広場にあったコンクリ製の桃というかカボチャのような形をした物体だった(※左の画像)。

  これは何(?) 誰も用途が分からず、その周りを回ってしげしげと眺めていたら、「きよめ水」という刻み文字があり、腹部の一箇所に給水口かと思われる穴が開いており、内部は空洞になっていた。
  また、下方に蛇口が着いていたのでは思える小さな穴もあったので、新案手水鉢かと思ったが、給排水設備がなく、使用できない。
  今は、異形の遺物がドカンと参道脇を占有しているといった感じで違和感もあった。

1箱崎八幡舟手洗鉢  石段を上ると、また中段の広場があり、その左側の片隅に珍しい船形をした手水鉢(※左の画像)が放置されたかのように置いてあった。
  この形からして、かつて漁師さんらが奉納されたものだったかも知れないと思った。

  箱崎八幡神社には、海を渡り壱岐島経由で新羅を往復した神功皇后のほか、海裏宮(豊玉姫、玉依姫)も合祀られているというので、船形手水鉢は海の神様に航海の安全や大漁を祈るのに相応しい。
  そして、この船形手水鉢を凝視していたら、奉納者の熱い思いが伝わってきた。

  箱崎八幡神社のある丘陵を根抵(もとかぶ)山というらしいが、この丘陵の石段を上り詰めるとその神殿と摂社があった。
  箱崎八幡神社は、(北朝年号の)正慶元年(1332)、当地に神領を有した筥崎宮(福岡市東区箱崎)から八幡神(応神天皇、仲哀天皇、神功皇后)を勧請したものだといい、箱崎の地名の由来もこの由縁によるものらしい。

  なお、本年(平成23年)4月から壱岐市内の全中学校10校は、各町(四町)に各1校(全4校)に統廃合されたらしいが、当箱崎地区にある壱岐市立箱崎中学校も芦辺中学校(旧田河中学校)に統合され、3月に廃校となったらしい。
  壱岐島内で生徒数の減少が進んでいるのか。休日なのに運行中のスクールバスを見かけたが、クラブ活動生などを運んでいたのだろう。(つづく)   

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2011年05月28日

戸田菜穂さん/徹子の部屋出演

27徹子の部屋※左の画像は、徹子の部屋HPからお借りしました。

  昨日(5/27)の「徹子の部屋」のゲストは戸田菜穂さんだった。

  戸田菜穂さんが8年前(当時28歳)に「徹子の部屋」に出演されたときはイエロー系の着物姿だったが、今日は、よくTV番組でも着用されていたシックなシャネルのスーツ。
  17年前の成人式のときに、母が晴れ着の代わりにシャネル本店(パリ)で買ってくれたものだが、痛まないので愛用し続けているという。戸田菜穂さんは、20代の頃からシックに見える人だったので、結婚(昨年10月)された後でも、この衣装はよく似合っている。

  最近の戸田菜穂さんのインタビューとなると、ご主人のことやその出会い、結婚の予感などが話題になるが、今回もそうだった。いつも、すごくかわいい笑顔でご主人(ロマンチックな癒し系の医師らしい)のことを話されるので、新婚生活は、今も熱々っていう様子。

  また、戸田菜穂さんは、俳句が好きで、昨年10月、結婚する前に詠んだ句を掲載した著書「恋俳句レッスン」(大高翔さんと共著/マガジンハウス)を発刊されたが、私は、当時すぐに購入して読んだ。

  黒柳徹子さんが、そのなかの句の一部を紹介された。
  戸田菜穂さんが結婚前にデートで東京湾花火大会に行ったときの句…「花火終へ宇宙の愛の染み透る」。
  このほか、「白椿新郎新婦の日を思う」、など恋愛中の愛に満ちた数句だった。お幸せに。
  今日もまた戸田菜穂さんのこと書いてしまった。

  ところで、今回も番組の途中で、地震速報(福島)のテロップが流れた。毎日のように繰り返し起きている地震に終息の気配はない。
  津波被災地や福島原発の状況も、毎日TV報道されてはいるが、現地で何がどこまで改善されてきているのかが一向に見えてこない。
  何もできない無力感は、時として心に空洞化が起きる。そして、東電と責任のなすりあいばかりをしている政府、国難に無策な政府に対して、何でこの時期に至っても政局の変動が起きないのかが不思議だ。この国に真のリーダーはいないのか。

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2011年05月27日

壱岐島にて(21)〜月読神社

12月読2鳥居と社殿※左の画像は、壱岐の月読神社。

  前回まで壱岐島と神功皇后の伝承を追ってみた。
  神功皇后といえば、古事記に神功皇后が詠じた酒造の歌謡がある。

  「この御酒は 我が御酒ならず 久志(くし/酒)の司(かみ) 常世にいます 石立たす 小御神(少彦名神)の 神寿き」
  神功皇后は、出雲神話に登場する少彦名神を酒造の神であり、常世の神であるとして寿がれたものだ。

  少彦名神の父は、神皇産霊神(かみむすびのかみ/古事記)、日本書紀では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と言われ、壱岐島においても式内社高御祖(たかみおや)神社の祭神として祀られ、また、壱岐島の式内社月読神社(月読神)の祖と言われる。

  私が京都に行ったとき、必ず参拝している松尾大社も酒造の神といわれ、全国の酒造者の崇敬がある。ここで松尾大社のことを書く気はないが、その境外摂社に葛野坐月読神社(京都市西京区)がある。

  この葛野坐月読神社は、顕宗天皇3年2月1日条(日本書紀・5世紀後半頃か)に、任那から京都に帰任した阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が月神を奏上し、亀卜(きぼく)を行う壱岐県主の祖忍見宿禰(おしみのすくね)が壱岐島の月読神社の御分霊を祭祀したことを伝えている。

  それだけに壱岐島を訪れたときは、一番に月読神社に行きたいと思っていた。その願いを適えてくれるように、芦辺港で出迎えてくれたHさんが芦辺港からほど近い、幹線道路172号線沿いにある月読神社(芦辺町国分)に連れて行ってくれた。

  だが、月読神社の鳥居の前に立って、鳥居越しに急な石段の上に建つ神殿と周りの風景をみて唖然とした。もっと大きな神殿と境内を想像していたのに、その予測が見事に外れたからだった。

  石段を駆け上り、神殿前を素通りして右方にある小さな石祠(割と新しい石祠が二つ)の前でしゃがみ、後方の山の斜面(林)を眺めながら合掌したが、月神というよりは山神…、この前を幹線道路が横切るまでは、鬱蒼とした山林の中であったといい、やはりここで月神を祀るのは不具合で、山神説が相応しいような気がした。

  ただ、この辺りは、卜部姓が多く、今も壱岐伝統の占いを行っている人たちがいると聞いた。
  かつて月神とともに京都に進出した壱岐県主の一族が朝廷の卜部となったという説があるので、壱岐島でもその一族が卜部姓を名乗り、今日に至っているのではないかと思った。そして、卜部の人たちも月読神社の移動とともに壱岐島内を移動されたものかもしれない。

  参拝後、本来の月読神社は、現在の箱崎八幡神社(芦辺町箱崎)のことで、その原初は男岳神社(芦辺町)だったという説を思い出して、急遽、Hさんにそこに連れて行ってくれないかと頼んだ。
  壱岐七社めぐりに、その名を知られた月読神社が入っておらず、箱崎八幡神社が入っているのは、その辺の事情があるのだろうか。
(つづく)

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2011年05月26日

壱岐島にて(20)〜神功皇后(聖母宮4-勝本浦出帆)

  前回、鯨組で繁栄した勝本の土肥市兵衛宅跡に残る阿房塀(あほうべい)を見学したことを書いたが、古代より幕末まで勝本もまた捕鯨が盛んであった。つまり、勝本浦(湾)は、鯨が入ってきるほど水深が深い天然の良港であった。

  神功皇后が新羅遠征軍の船団の集結地に勝本浦にしたのは、壱岐島で勝本浦が次の寄港地対島に最も近く、また、水深が深く、沖に浮かぶ辰ノ島、若宮島、名取島などが防波堤の役割も果たしているなど天然の良港としての条件が揃っていたからだろう。

  なお、話がそれるが、壱岐島は「生き島」と言われ、動き回る浮島だったので、神様が8本の柱を立てて島を縛り固定したが、今にそれらの柱は折れ柱(岩)となって残っているという神話がある。
  そのうちの2本が、上記の辰ノ島(西側の日出岩)と名鳥島(北側)にあるそうだ。そういえば、前述した手長島(湯ノ本湾口)にもあるとか。
82猿岩  また、今や壱岐観光の目玉の一つになっている黒崎半島の猿岩(※左の画像)もそうだとか。
  蛇足すると辰ノ島の北側絶壁の壁面には壱岐島パワーストーンの一つに数えられる観音坐像の青い染みもあるとか。

  博多湾岸や肥前松浦などの水軍が勝本浦に集結し、その大船団(500艘ほどか)が並ぶ様は壮観で、風早(順風)を得て住吉大神を水先案内にして、神功皇后の御座船を守るようにして戦列を作り意気揚々と出帆して行く様が目に浮かぶようだ。

  聖母宮の賽銭箱に「三つ星」の神紋が施されていたが、この神紋は肥前平戸藩主松浦家の家紋であり、松浦家の先祖は松浦党(水軍)の統率者であった。
  江戸時代、平戸藩は肥前松浦郡及び壱岐島を領有し、聖母宮とは、その神紋が同じなので少なからず庇護をしたものだと考えられる。前回記した馬蹄石の揮毫を書いたのも旧平戸藩主の松浦詮であった。
  神功皇后に随行し壱岐島に渡り勝本浦に集結したなかに、多くの松浦地方の水軍がいたので、神功皇后の時代から皇后は松浦水軍に守られ、聖母宮は松浦水軍の守護神となっていたと考えるとロマンがあるが、神紋、家紋の発生は時代が下るか。
  因みに当家は、三つ星を囲む一族の家紋であり、それだけに一層聖母宮には関心を抱いた。

  この後、神功皇后の船団は、対島の鰐浦で宗像水軍などと合流し朝鮮に向かった。
  子供の頃は、三韓征伐という言葉で教わっていたが、私は、今は新羅侵攻という言葉を使うことが多い。その表現が正しいかどうかは分からないが、朝鮮での戦歴が抽象的に新羅討伐という以外よく理解できていないからだ。だからといって神功皇后の存在を否定するものではない。

  新羅からの帰路、神功皇后が勝本や湯ノ本に帰港したという伝承が残っているが、半城湾の御津浜で旧住吉神社を祭神し(前述)、郷の浦港を後にして糸島への航路を辿った。
  これで、壱岐島での神功皇后についての記述は止めにしたい。(つづく)

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2011年05月25日

壱岐島にて(19)〜神功皇后(聖母宮3-馬蹄石、シャコ貝手水鉢)

(前回つづき)
  聖母宮由緒板の後半部分に、神功皇后が勝本に建てた行宮所は、その後放置されていたところ、同所に毎夜海中から光る物があがってくるという出来事が続いたので、鏡を納めて神功皇后を神として祭ったという伝承が記されていた。  超常現象を起こし人々の信仰への希薄さを戒め、聖母宮(神功皇后)の神威を高める逸話として語られたのであろう。

  そういえば、以前、夜の海からやってきた光る火(霊石)を御神体としたという年毛神社(福岡県福津市勝浦)の伝承を、本ブログ2009.10.24「神功皇后と大海神、名児山、霊石等/年毛神社(4)」に記したことがあった。

  また、聖母宮由緒板には、一説にはとして、異族の首101,500を持ち帰った神功皇后が、風本の浜に穴を掘って埋め、石築地を一夜で作り、聖母の社としたというような記事も記してあり、これも神威を高めるために語られた伝承と思う。
  しかし、これでは聖母宮は異族の首塚となり怨霊鎮魂社になってしまい、事実としてはとても信じ難く、かつ神社としての品位が下がるので、わざわざ掲げなくてもよい記事だと思った。

95聖母宮阿弥陀堂  ただ、裏門側の鳥居の前に創建時期は分からなかったが、阿弥陀堂(※左画像)があるので、当地で何らかの仏的供養が行われてきたのは確かだ。かつて当地に神仏習合による阿弥陀信仰が根付いていたことを示す遺跡だろうか。

  なお、江戸時代、この阿弥陀堂は、勝本浦に寄港した朝鮮通信使の宿舎になったというが、前庭に当時の宿舎の礎石の一部が並べて置いてあるのを観ると、その規模はもっと大きかったようだ。

89聖母宮馬蹄石  西門(表門)の前方に神功皇后と、皇后が乗馬された神馬の足跡であるという「馬蹄石」があり、その前には「馬蹄石 正三位伯爵源詮書」と刻した標示石が建っていた。源詮は旧平戸藩主松浦詮。(※左画像は馬蹄石と同標示石)。
  馬蹄石は、各地にある伝承ではあるが、本当にこのような足跡が石に残るものか…、でも、その石を覗き込んで「どれが、その足跡か」と探す楽しみはあるから、まあ、いいか。

  この馬蹄石は竜石とも言われ、神功皇后の足跡が西を向いているのは、聖母宮に守護されて敵国降伏を祈願する神功皇后が表門(西門)の前に立っている形を表し、また、神功皇后の神馬(竜馬)の両足が東を向いているのは国家擁護を意味しているからだという。
  かつては、ありがたい神石として信仰の対象として崇められていたのではないかと思った。

  西門(表門)は、文禄元年(1592)、加藤清正が朝鮮出兵の途中に風待ちで勝本に滞在したときに周りの石築地と合わせて造営、寄進したものだという。
  当時は、門標に加藤家の家紋「蛇の目」が刻み込まれていたが、明和5年(1768)、勝本の富豪土肥市兵衛が表門を改築したとき、土肥家の家紋「蔦」に改めたというので、すごい。

  土肥家は、鯨組の繁栄で巨万の富を得たが、後に没落したとも聞く。土肥市兵衛の大邸宅(御茶屋屋敷)の跡に連れて行ってもらったが、そこには阿房塀(あほうべい)と称されている大きなレンガ状の石組の塀が残るのみだった。

  なお、聖母宮の裏門に刻してある家紋は「鍋島花杏葉(はなぎょうよう)」で、この裏門は肥前鍋島直茂が造営、寄進したものだという。

  このほかの境内設置物について付記すると、大シャコ貝手水鉢が珍しかった。パラオ島産の大シャコ貝で、昭和14年(1939)5月に勝本町出身の立石孝信氏が寄進したものという。
  シャコ貝の手水鉢(手洗鉢)については、ほかでも見たことがあったが、この聖母宮の大シャコ貝のように大きくて、実際に現在も使用されているものを見たことはない。(つづく)

 ※シャコ貝の手水鉢については、下記の本ブログ参照。
  2009.9.2「波折神社を参拝(1)〜シャコ貝手洗い鉢
  2009.9.3「波折神社境内にあるシャコ貝手水鉢の画像
  2009.9.4「金刀比羅神社御旅所のシャコ貝手洗鉢画像」。

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2011年05月24日

壱岐島にて(18)〜神功皇后(聖母宮2-中津神社、香椎・可須、風早、勝本)

96聖母宮外観  ※左の画像は、聖母宮。

  前回、勝本浦(港)に着いた神功皇后は、現在、聖母宮があるところに宿泊所と祈願所を建てたと書いた。つまり、ここは神功皇后の行宮(あんぐう)ともいうべきところだった。

  これが、壱岐七社の一で壱岐二の宮といわれる聖母宮、正しくは式内社中津神社の起源であった。
  したがって、別の場所に鎮座している中津神社(勝本町新城北触)は、本来の式内社中津神社ではなく、本来の式内社中津神社(聖母宮)から御分霊を持って行き祀ったものだという。

  中津神社の名称は、筑前と対島の中間に位置する壱岐島の津(浦・港)に鎮座している神社の意だが、神功皇后の宿泊所を中宿といい、その中宿を津に作ったことに由来するとも考えられる。

  神功皇后が中宿で祀った神が上記新城北触の中津神社の現祭神(天津日高彦火瓊々杵尊、天児屋根尊、天太玉命)であったかどうかは分からないが、後に同所に筑前香椎宮(福岡市東区)の息長足姫尊(神功皇后)、足仲彦尊(仲哀天皇)、誉田別尊(応神天皇)を祀ったことにより、香椎宮とも称され、当地を香椎村と言っていたという。
  「壱岐島(9)〜神功皇后(鉢形山・弥勒如来坐像)」で、古代壱岐島には印通寺港(優通の駅)から勝本港(可須の駅)に抜ける陸路があったと記したが、この可須の駅の可須(かす)は、香須、何周とも書かれ、香椎が訛ったものだともいい、香椎村が可須村となり、可須郷が生まれたのだろうか。
  この平安時代の壱岐郡七郷の一つ可須郷と風早(かざはや)郷は、現在の勝本町の地区にほぼ該当しているようだ。

  なお、風早については、聖母宮由緒板に「(土器崎の地で神功皇后の)船が進むのにつごうのよい東風が吹きはじめ…東風が吹きゆく壱岐の方向を風早と名づけた。壱岐すなわち風早の島…」と書いてあり、この場合の風早(かざはや)は壱岐島全体を指しているようにとれる。
  しかし、聖母宮の縁起としては、勝本浦(港)で船団が揃い、次の寄港地対島に向けて風待ちをしていたとき、早足の順風が吹き出したので、神功皇后が「風早、いざ出帆」と出港の大号令を発したことにより風早の地名が生まれたとした方が分かりやすいように思えるのだが…。
  もっとも、この順風が吹き出したところとして風本の地名が生まれ、この後の新羅戦で神功皇后が勝ったことを祝って、風本を勝本に変えたというようなことは由緒板に書いてあった。(つづく)

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2011年05月23日

壱岐島にて(17)〜神功皇后(聖母宮2-船団)

(前回つづき)
  陸路、勝本浦(港)に到着した神功皇后は、急遽、港の近くに宿泊所と祈願所を建て、博多湾や肥前松浦などから新羅遠征に向けて出港した軍船が続々と入港するのを待った。この場所が聖母宮のある場所だったという(後述)。

  軍船の数については、聖母宮の由緒板に、「神集島(かしわじま/唐津市)で三韓出兵の勝利を祈願し、土器崎(唐津市屋形石)より壱岐島に向けて3,270艘の軍船を出発させた(壱岐名勝図誌)」とあるが、うち糟屋、宗像、遠賀方面の宗像七浦の水軍(船団)は壱岐を通らず直接対島に向かったといわれており、勝本港に集結した船は500艘として、(×20人=)10,000人の船団であったと計算される。

  因みに神功皇后の御座船は、神集島→加唐島(かからじま/唐津市鎮西町)→馬渡島(まだらじま/唐津市鎮西町)→壱岐島筒城の浜(神功皇后が陸路を進む間に)→勝本港というコースを辿ったといわれている。

  壱岐島でもっとも標高の高い(213m)岳ノ辻展望台(郷ノ浦町)に行き、神功皇后が進んだという海路を見渡せないかと思い、唐津方面を眺めたら玄海原発(東松浦郡玄海町)の原子炉群が視界に入った。
  今、福島第1原発の爆発、放射能漏れ問題で、玄海原発でも様々な問題が提起されているが、玄海原発から壱岐島南部は危険圏内の30キロ以内に入っている。
  もし玄海原発で放射能漏れが起きたとき、放射能は、かつて神功皇后が船団を組んで渡った海を一瞬のうちに飛び越えてくるのだと思った。

  話は変わるが、ふと宗像大社(宗像市)のみあれ祭で、宗像七浦から波切り御幣、紅白吹流し、大漁旗を立てて宗像大島に集結した船団が、大幟をたなびかす沖津宮と中津宮の御神璽(ごしんじ)が乗った御座船を取り囲み神湊に向けて航行する様が思い浮かんだ。
  御座船が神湊に着くと船団は分散し、それぞれの所属港に帰って行き、神湊に上陸した御神璽は、辺津宮で大祭を行うが、その後、沖津宮と中津宮の御神璽が帰還する行事がない。
  この様子は、ひょっとしたら神功皇后に付き従軍し御手長を振って敵をかく乱した宗像大神とその水軍が新羅から帰還したときの様子を伝えているからではないのかと思った。(つづく)

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