2011年06月

2011年06月30日

福津市社寺探訪〜春日宮(長谷寺)6・須賀神社2

(前回つづき)
  須賀神社の二の鳥居の額束に「祇園宮」と記されており、この神社はもと祇園宮(祇園社)と称されていたことが分かる。
  筑前國續風土記附録にある「祇園社(モリゾノ)」は、この須賀神社(手光字赤壌)のことか、字が違うのは当地に遷宮したということか。

  須賀神社(祇園社)の由緒、鎮座時期、当手光地区と係わり等については分からない。因みに、手光地区の産神は、大森神社(福津市上西郷)だが、準産神は熊野神社(福津市手光冠地区)であったというので、この熊野神社と係わりがあったのかもしれない。

  また、春・秋祭、祇園祭(7月)のほか、(宗像大社)沖津宮の祭典(5/28)という行事があるそうだが、当社との係わりは分からない。
  当社は谷あいにあり、沖の島を眺望することはできないので、もとは沖の島を眺望できる在自の手光字岳(竹の山)峠の沖の島遥拝所で行っていたというが、その場所は知らない。

  次に須賀神社境内社を付記する。「龍王神社(祭神は玉依姫命という)」は、同上附録の「八大龍王社(モリゾノ)」のことか。
  「貴船社(祭神闇龗神くらおかみのかみ)」は、同上附録の「貴船社(ユノウラ)」のことか。
  「龗神社(高龗神たかおかみのかみ)」は、同上附録にはないが、これら三社は、すべて水神で、当地(旧手光村)の各所に農耕守護神として祀られていたものを、明治以降、当社境内にまとめたものかもしれない。
  (※貴船社(貴船神社)、高おかみ神については、2010.5.26「多礼の孔大寺神社(6)〜水神」参照)。

  もう一社、豊受神社(祭神豊受姫命)は、同上附録の「豊前坊社(トヲリドウ)」だろうか。祭神豊受姫命は、須賀神社祭神の一柱保食神と同じ。
  保食神は、食糧神として須賀神社に合祀されたのだと思うが、主神素盞鳴命の第五子大歳神(饒速日尊)と置き換えられている場合もある。
 雨の中、同行参拝者は全員、藪蚊に刺された。これからの季節、藪蚊対策は怠れない。(おわり)

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2011年06月29日

福津市社寺探訪〜春日宮(長谷寺)5・春日/須賀神社

(前回つづき)
  本稿で、「春日宮(春日神社)は、春日大社(世界遺産/奈良公園内)の勧請神ではなく、仏師春日(河内国春部邑の兄弟仏師)を春日明神として祀った神社ということになるのだろうか」と記したままにしていたが、この神社の祭神名は「天児屋根命(春日権現)」である。

  天児屋根命は春日権現と称される神で、春日宮(春日神社)の祭神としては問題がないが、当地で春日宮(春日神社、春日明神社)が祭神された経緯が、仏師春日による十一面観音彫像との係わりであったからかどうかは分からない。

  また、春日大社から天児屋根命を勧請したものかどうかも分からないが、春日大社では、天児屋根命は、武甕槌命、経津主命、比売神と並んで祭神とされている。

  なお、春日宮(春日神社)敷地内にある境内社は、秋葉社(祭神:火結霊神)である。

  ところで、当春日宮(春日神社)の祭神事は、現在、須賀神社(祭神: 素盞鳴命、保食神/福津市手光字赤壌1409)において行われているという。
  春日宮・長谷寺境内前の谷を挟んで対面の丘陵に鎮座している須賀神社に行くと、境内社を含めて、すべての神殿、社祠が春日宮(長谷寺)と対面するような向きになっているが、当地は、かつて広大だったという春日宮(長谷寺)の神域だったのだろうか。

  また、須賀神社境内で、常緑樹(柾木か)を依代とする神籬(ひもろぎ)斎場が設けてあるのに気付いた。
  向きとしては須賀神社神殿方向ではなく、その境内参道から春日宮(長谷寺)方向を向いて神饌を供えて神事を斎行する形になっているので、ここで春日宮の祭神事を行うのだろうか。

  さらに、須賀神社境内社の一つに春日神社があるが、その祭神は上記秋葉社の祭神火結霊神で、上記春日宮(春日神社)と同境内社秋葉社の祭神をミックスした形になっている。(つづく)

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2011年06月28日

福津市社寺探訪〜春日宮(長谷寺)4・身代わり観音2

長谷寺0551※左の画像は、「身代わり観音」案内板(福津市手光、長谷寺観音堂)。

(前回つづき)  ところで、身代わり観音の「由来」だが、案内板には、「今から六百五十年前」のこととして、次のような話が書いてある。

  観音様に願掛けして授かった女児が、侍に肩口を切られて瀕死状態になっていたとき、母が観音様に祈ったら、観音様の肩口が切れて、女児の身代わりとなってその命を救ったという。
 (※詳細は、左上画像の上をクリック)。

  ただ、この「650年前」だが、いつを基準にして650年前なのかの記載がなく、何時代の話なのか分からない。仮に2010年を基準年とした場合、650年前は1360年(正平15年)で、室町時代前期頃となる。
  であれば、この話は、案内板の冒頭部分にある1575年(天正3年)、又は天正2年(1574年)より遥か以前のこととなるので、ますますこの年号の意味が分からなくなる。

  つまり、前回、この年号は十一面観世音菩薩像の彫像年又は鎮座年のことなのかと書いたが、もしそうであれば、その後に続く「由来」は、同観音像鎮座より遥か以前の話となるので、この話にでてくる観音様とは、どの観音様のことを指しているのだろうかということになる。

  身代わり観音の由来を読むたびに、いつも同じ疑問を抱き、ガイドするときは、仏像を観たことがないのを良いことにして観音様は室町時代以前に鎮座され、戦国期の戦乱で被災し修理された、多分、この年号はその時を示しているのではないかと、全く根拠のない話をしてお茶を濁しているが…。

  この十一面観世音菩薩像は秘仏で、御開帳については、案内板の最後尾3行に、御開帳(本開扉)から17年目に中開扉、33年目に本開扉とあり、次の御開帳は2025年4月第1土・日曜日、まだ14年も先のことになる。

  現世の衆生を慈悲の心で照らし利益をもたらす観音様が光のない堂内の世界に閉じこもっているのでは、さぞかしお寂しいことだろう。でも、仏像に畏敬の念で摂することのできない人がいる今の世、観光地でもない限り嘆かわしいことだが常時開扉は難しいだろう。
  前述したように、私は、この十一面観世音菩薩の尊像を拝観したことがなく、写真で観たこともないので、仏像の形から彫像時期を推測するはできない。

  前後するが、案内板の冒頭部分にある「筑前中国礼三十三ヶ所」については、HP「千ヶ寺を巡る:筑前中国礼三十三観音霊場」で検索できるので、ここには記載しない。
  なお、上記33年ごとの十一面観世音菩薩像御開帳(本開扉)という「33」は、この「三十三観音霊場」と同じように観音経で説く「観音の三十三身」にあやかっているのだと思う。(つづく)

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2011年06月27日

福津市社寺探訪〜春日宮(長谷寺)3・身代わり観音1

  (前回つづき) 長谷寺観音堂の前に「身代わり観音」と書いた案内板があり、その冒頭部分(「由来」を記す前の部分)には、次のように書いてある。

   地名 福岡県福津市手光 
   本尊 十一面観世音菩薩
   (西暦一五七五年 天正二年)
   筑前中国礼三十三ヶ所の十七番札所

  この文の( )内の年号については、その説明がないので、これを見た限りでは、その年号の意味するものが何なのかがよく分からない。また、記載されている年号も、「西暦1575年」は天正3年で、また、「天正2年」は西暦1574年なので、この二つの年号のずれについても、その意味することが分からない。

  しかるに、もし、この年号が再興前の旧長谷寺の本尊十一面観世音菩薩の彫像年、若しくは鎮座年を表しているのだとしたら、前々回に、「この十一面観音像の鎮座時期は分からないが、大和長谷観音(奈良県桜井市初瀬/新義真言宗豊山派)の同木で仏師春日が彫像したものだという」と記したことと違ってくる。

  つまり、一つは、十一面観音像の「鎮座時期は分からない」ではなく、「鎮座時期は天正2〜3年(1574~5)頃」となること。
  であれば、天正期に豊後軍が乱入し当長谷寺、同境内の春日宮(春日神社)などが消失したといわれる時期と十一面観音像が鎮座した時期は、ほぼ変わらないということになり、鎮座してまもなく遭難にあったということなのだろうか。

  もう一つは、「大和長谷観音の同木で仏師春日が彫像した」ということについても、大和長谷寺の本尊十一面観音は室町時代の天文7年(1538年)再興といわれており、同年から天正2〜3年頃までには36~37年のずれが生じるので、「同木で彫像した」とは考えにくいことになる。

  当長谷寺の創建年代は不詳で、もし、大和長谷寺再興前の本尊十一面観音と同木だとしたら、それは遥か奈良時代(8世紀前半)頃ということになり、上記年代とはいっそう合わなくなる。

  なお、彫像した「仏師春日」については、同上前々回に、筑前國續風土記拾遺の記述を引いて「河内国春部邑の兄弟仏師」と記したが、もとよりその詳細を知るものではない。
  元来、仏師春日とは奈良〜江戸時代まで続いた仏師流派(集団)の名前で、個人名を示すものではないと理解していたので、この上記彫像者名の仏師春日(…兄弟仏師)から年号を割り出す術をしらない。(つづく)

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2011年06月26日

福津市社寺探訪〜春日宮(長谷寺)2・施無畏

長谷寺0557(前回つづき)

※左の画像は、長谷寺(ちょうこくじ)境内〜右後方の堂宇は観音堂。
 (所在地:福岡県福津市手光1955)。


  長谷寺の山号「施無畏山」だが、法華経では「観世音菩薩(観音菩薩)は施無畏者である」と説いているので、観音菩薩の別称「施無畏者」の「施無畏」を山号としていることになる。
  つまり、ここ長谷寺においては、かつての本尊十一面観世音菩薩 (十一面観音=当寺では長谷観音/身代わり観音ともいう)そのものを山号にしたのだと解釈できる。

  なお、拙道場において観音供養会(18日)を行うときに法華経普門品第二十五を唱えているが、そのなかで次の部分に「観世音菩薩は施無畏者である」と説いてある。

  「是観世音菩薩摩訶薩 於怖畏急難之中 能施無畏 
  是故此娑婆世界 皆号之為 施無畏者」

(この観世音菩薩は、怖畏急難の中でよく無畏を施す、それ故にこの娑婆世界では皆が観世音菩薩を施無畏者と呼ぶ)。

  因みに、施無畏とは、仏教における三(種)施(財施・法施・施無畏)の一つで、「衆生が抱く様々な畏怖(恐怖)心をなくすようにする」という意味である。

  前回、戦国期、春日宮、長谷寺の堂宇が兵火で消失したなかで本尊十一面観音像のみが難を免れたと述べたが、これは、恐らく当観音を篤信する教信徒、村衆らが兵火のなかを必死で持ち出して避難させたからではないかと想像している。
  つまり、この十一面観音像には、村衆らに戦乱の中での生死の畏怖(恐怖)心を取り除くほど、施無畏の力があったということなのだろう。(身代わり観音の伝承については次回記載)。

  ところで、当地において最も興味を覚えるのは、現在も寺院(長谷寺)と神社(春日宮)が同一境内に存在していることだ。
  明治(維新)新政府の悪政令・神仏分離の波をくぐり抜け、神仏習合(神宮寺)の信仰の形跡を今に伝えているのかもしれないと思うと喜ばしい。(つづく)

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2011年06月25日

福津市社寺探訪〜春日宮(長谷寺)

長谷寺0555※左の画像は、春日宮(春日神社)の杜。

  去る6/19のこと、雨降るなかを春日宮(福津市手光)に行くことになった。
  JR福間駅から北東方向に進み、福津市役所→手光交差点を経て長谷寺(ちょうこくじ)に至るコースを取った。

  ところが、長谷寺前を通り越して、しばらく進んだ後、やっと「行き過ぎた」と気付き、あわてて長谷寺に引き返すという失態を演じた。ガイドとしては迂闊だった。

  長谷寺は、小丘陵にへばり付くように大きな本堂が建っているので、その前面の谷あいにある道路からは一目瞭然でそれと分かる。
  細い参道の突き当たりに整然と並んで安置してある石仏群の左横の石段を登ると、正面に長谷寺本堂(本尊釈迦如来像安置/曹洞宗)、右側に観音堂(秘仏十一面観音像安置)がある。

  春日宮(春日神社)の社祠は、長谷寺本堂右の高台、石段上にあるが、現在、同所の周囲は、樹木に覆われているので、まったく眺望もきかず、一般の観音堂参拝に訪れた人たちでもここに神社があることに気付かない人も多いと思う。

  春日宮(春日神社)は、春日社、春日明神社ともいい、元初は、この丘陵一帯が春日宮境内で、今よりは広大で、そのなかに同宮の本地仏本尊十一面観音像を祀る長谷寺(真言宗)があったものらしい。
  この春日宮や十一面観音像の鎮座時期は分からないが、大和長谷観音(奈良県桜井市初瀬/新義真言宗豊山派大和長谷寺)の同木で、仏師春日が彫像したものだという。

  ということは、この春日宮は、春日大社(世界遺産/奈良公園内)の勧請神ではなく、仏師春日(河内国春部邑の兄弟仏師)を春日明神として祀った神社ということになるのだろうか。
  その詳細は分からないが、ただ、この春日宮があるが故に、かつては、この辺りの村名を春日村(現在の手光地区)と言っていたというので、有名な神社だったのかもしれない。

  戦国天正期、豊後大友軍が侵入し、一帯が戦火にまみれたとき、春日宮、長谷寺の堂宇は悉く灰塵となったが、十一面観音像は難を逃れたという。

  その後、江戸初期の慶長8 (1603)年3月に至り、十一面観音像を安置する照福院君観音堂が造立された。
  この頃に、福岡金龍寺(福岡市中央区今川2丁目)六世月舟が曹洞宗の寺院として長谷寺の仏堂を再興し、本堂に本尊釈迦如来像を安置し、現在の長谷寺の形ができたのだと思う。
  つまり、このとき、本堂とは別の場所(現在地)に新たに建てられた上記観音堂に十一面観音像を安置したことになる。

  また、春日宮は、常識的には既に村衆信者により小さな社祠として再建されていたと考えられるが、あるいは、このときに長谷寺の新伽藍のなかに組み込まれるような形で現在地に再建されたのかもしれない。(つづく)

※参考資料:筑前國續風土記拾遺。

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2011年06月24日

宗像社寺探訪記の再開を検討中

  毎月、同行者とともに福岡県宗像地方(神郡宗像)の社寺(といっても圧倒的に神社が多い)を探訪しているが、本ブログに記したことのある社寺はその一部に過ぎない。

  神々のことを間違ってブログに書いてしまうと恐れ多く、霊感で感じ得た事柄が由緒書き等と違っていたりすることもあり、どこまで記して良いものかの判断がつかず書きかけて止めてしまうことも多く、そのすべてを網羅したことはない。
  そこで、今後は、ガイドをした探訪社寺の諸々について、あまり深く考えずに覚書的に書くようにしようかとも思っている。

  これまで探訪時に使用した地図は多種あるが、最近は市販の昭文社1:30,000地図「宗像・古賀・福津・新宮町」を使用している。
  ただし、この地図に記載されている社寺の名称、位置等には間違いが多々あり、また、存在してない社寺が載っていたり、近年の開通道、開発地等が載っていないなど、それに、この地図には載っていない社寺もあるので、これらの難点は承知の上で回っている。

  なお、最近書いた宗像社寺探訪記は、2011.4.20〜21「豊山神社(福津市)は旧豊前坊社だったのか(1)(2)」。

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2011年06月23日

松任谷由実「春よ、来い・復興の祈り」を観て

  昨夜のSONGSで松任谷由実「春よ、来い・復興の祈り・守ってあげたい」を観た。今年(2011)4/20NHK総合で放送されたものの再放送だった。これで同じ番組を3回観たが、HDDで観た分を加えると何回観たものか分からない。
(※本ブログ2011.4.22「SONGS松任谷由実(みんなの)春よ、来い」参照)。

  多くのアーティストが東日本大震災(3/11)復興支援の手を広げ、多くの国民も支援の輪を広げている。
  日本国民の協力心は捨てたものではないと思っているが、日本赤十字社に寄せられた義援金、災害見舞金、支援金などの大部分は何故か未だ使われることなく、同社に眠ったままだという。

  この東日本大震災、加えて福島原発被災は、戦争中の空襲被災にも匹敵するものだが、多くの死傷者、行方不明者、被災者を出し、あれから3か月以上経っているのに、被災者への支援や被災地復興に迅速適切な施策が行われているとは思えない。

  昨日、通常国会70日間延長が可決されたが、何のための延長なのか。この3か月間、政府は何をしてくれたのか。戦後復興の足許にも及ばない愚作政治を行っているとしか思えない。
  責任のとり方も分からず、「一定のめど」だの「新しい体制」だの、何の具体性のない、基本的な国語にもなっていない曖昧な抽象的覚書を交わし、国民を忘れた延命策で右往左往を繰り返す老獪で愚鈍な首相、内閣、与党執行部を初め今の国会には何も期待できない。

  「がんばれ日本」と、まるで外国人が日本人に呼びかけているようなスローガンを掲げ、国民の気持を増税(消費税増税含む)やむなしと、一気に増税容認へと転化させて行こうとするやり方もまったく卑劣そのものである。
  多くの国民の善意から出た義援金等を有効に使うことすら分からず、復興、支援への具体的な道筋すら見えてこないのに、増税ですべてが解決するとは思えない。

  「いつ、どこで、誰が、何を、どうする」という小学生でも知っている国語の基本形すら知らない人たちに国の政治を任せていて、本当に日本国は大丈夫なのか。

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2011年06月22日

加藤ミリヤさん、R-Festaフル出場か

22_DESIRE  BABY  ※左の画像は、加藤ミリヤ「DESIRE / BABY!BABY!BABY!」(初回生産限定盤)。

  5/30に「R-Festa2011」のイベント概要が発表された。
  その概要は、8/30(火)16~21時、於新木場STUDIO COAST。

  出演アーティストは、Zeebra、童子-T、加藤ミリヤ、ダースレイダー、青山テルマ、KEN THE 390、Tiara、KG、らっぷびとさんら。
  6/20、さらにJAMOSA、清水翔太、MIHIRO〜マイロ〜、Baby M、 NERDHEAD、真崎ゆか、SHUNさんらの名が加わった。
  今夏も当夜の新木場は、若い熱気で溢れることだろう。
  特に加藤ミリヤさんは、女性シンガーで唯一のR-Festaフル出場となるのでは…。

  加藤ミリヤさんといえば、今日(6/22)、祝 誕生日満23歳、
「DESIRE / BABY!BABY!BABY!」をリリース。

  また、7月13日には、再びコラボを組んだ加藤ミリヤ×清水翔太「BELIEVE」をリリースと聞いている。()

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2011年06月20日

パク・ソルミさん(8)~意中の人と交際中?

5park-solmi2007[1]  東日本大震災からもう100日も経ったのだな(百日法要のニュースを観た)。被災地のニュースを観るたびに援助金を送ること以外に何の支援もできない自分が空しくなる。

  ところで東日本大震災が起きた3月11日、忘れもしないが、パク・ソルミさんが出演していた韓国テレビドラマ「オレの女」の最終回を観ていた。

  もちろん、パク・ソルミさんについては、ドラマ「冬のソナタ」以来のファンで、パク・ソルミさん出演ドラマは何度も観ている、いつもの風景ではあった。

  それが、前回記したように、この日の「オレの女」最終回がハッピーエンドで終了(14:30)し、ホッとした直後(14:46)に、宮城県北部で地震発生のニュース、これが東日本大震災の第一報で、忘れられない時となってしまった。以来、パク・ソルミさんと東日本大震災が連動して思い浮かぶようになった。

  ところでパク・ソルミさん(33)だが、最近観た「これ好きKorea Fan-パク・ソルミ」のニュース(2011.6.17午後)によると、昨年前半期のKBS1ドラマ「巨商キム・マンドク」で共演した俳優のハン・ジェソクさん(38)と現在交際中であるという。
  パク・ソルミさん所属事務所のコメントでは、4月に熱愛説が出た当時は恋人の関係ではなかったが、今は良い感情を持ち始めているという。

  最近のパク・ソルミさんの画像を観ていると、かなり魅力的な大人の女性を感じるが、熱愛中でますます魅力度がアップするかもしれない。明るいニュースは良い、パク・ソルミさんの恋愛成就を祈りたい。

 ※→パク・ソルミさん(9)

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