2011年08月

2011年08月30日

三銃士トークショーに行った

三銃士トーク色紙部分  博多座三銃士トークショーに行ってきた(ニッセイホール)。
  出演は、シルビア・グラブさん(アンヌ王妃役)と、安部誠司さん、鈴木結加里さん、奥山寛さんらだった。第一部がディズニー、第二部がミュージカルで、目前で出演者の生の歌を聴けて感激だった。

  なかでも、出演者と一緒に参加者全員が2班に分かれて、それぞれ丹田に力を入れて合唱した「ドレミの歌」(サウンド・オブ・ミュージックから)は楽しかった。終始笑顔の2時間があっという間に過ぎた。
(※画像は出演者サイン部分)。

  だが、今回のテーマが三銃士トークショーだったのに、三銃士の歌は一曲もなかった。「どうぞ博多座で」ということだったが、そうだよね。行かなくちゃね。

  なお、ミュージカル三銃士の博多座公演は、(2011)9月3日→28日。主演は、福岡ではファンクラブもあり共に人気の高い山口祐一郎さん(リシュリュー枢機卿役)と井上芳雄さん(ダルタニャン役)。それに待望の元宝塚月組トップスター瀬奈じゅんさん(ミレディ役)など、楽しみが多い。(→「三銃士(瀬奈じゅんさん)博多座で観た」)

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2011年08月28日

武守神社(宗像市)の由緒と熊野本宮大社

625武守宮由緒板と烏(社紋)  前回、武守神社(宗像市武丸)の拝殿掲示の、長文の「白鯰池の由来伝説記」を転記したが、「武守権現神社由緒」(※左の画像)の文章はもっと長い。
  首を上向け欄間上に掲げてある墨字(楷書)で書かれた由緒を読み終わったときは、かなり疲れた。

  必要以上に長い文章になっているので、以下、本稿では、由緒の不必要と思われる部分は端折り、誤字や文意がつながらない部分は、私なりに訂正しながら「 」内に記すことにする。

  まず、祭神は、「武速素盞鳴尊神と櫛稲田姫神〜危険防止結縁の神」で、「武守とは武丸村(旧)を守る(権現)」という意味で、「権現とは、神が仮の姿に化身して現われる」ことで、当社の祭神は「烏に化身」して現れた、となる。

  私は、上記の意とは別に、武守の武は、武速素盞鳴尊の武であり、宗像地方に進軍した武速素盞鳴尊が守備を固めるために烏(権現)に化身して現れた地という意味があるのではないかと思った。
  素盞鳴尊の宗像地方進軍については、宗像大社の祭神(三女神)が高天原における素盞鳴尊と天照皇大神(女神)との誓約で産まれた神々であることからからも推測できる。

  武速素盞鳴尊神と櫛稲田姫神を合わせて祭神としていることは、熊野大社(島根県)の影響かと思われるが、祭神(武速素盞鳴尊)が「烏に化身」して現れたという伝承は、熊野本宮大社(和歌山県)の熊野午王(又は宝印神符)と熊野権現思想の影響を受けていると思う。

  熊野本宮大社の主祭神である家津美御子大神は、武速素盞鳴尊であるというのが通説であり、その御神符を烏(オカラスさん)とした背景には、神武天皇(神倭伊波礼彦)東征のときに熊野烏(八咫烏)が導いたという故事に由来している。

  「由緒」にも、「往古祭神は神武天皇御東征の折祭神が烏に姿を変え諸国の道案内に先導され…多大の貢献あり」、(当社の)「社紋は烏なり、氏子烏を神鳥として大切に保護するなり」と記されて、由緒板の上に二羽の烏を描いた神紋額(絵馬)が掲げてある(※左上の画像の上部)。
  なお、当地方には赤間(宗像市)の地名の由来になったという神武天皇御東征赤馬伝承が八所宮(宗像市吉留)ほかに残っている。

  また、由緒には、「古代皇祖十代崇神天皇御守西暦前97年頃出雲国の人欽入根彦という人当地に住す祭神の御徳を称え 社を建て祀り 祭神(武速素盞鳴尊)の武の一字を採り武丸村と号す 以来武丸村の総氏神として称えられる」と、武守神社創建と武丸の地名の由来伝説を記している。
  私は、武丸の丸には土地(一円の村)という意味で、武丸は武速素盞鳴尊が守備を固めた村であったのではないかとも思っている。

  なお、由緒には記載がないが、当社は勝守神社とも言われていたようで、この勝守の名称も上記熊野本宮大社の勝守(お守り)の影響を受けていると思われる。
  つまり、記紀には、素盞鳴尊と天照大神との誓約(うけい)のとき、天照大神が身につけていた八坂瓊の五百箇の御統を噛み吹き出した霧から正勝吾勝勝速天之忍穂耳命が生まれたとあり、熊野本宮大社では、この神の勝の字をとって、お守りのことを勝守(かつもり)と称しているからである。

  しかるに、熊野本宮大社における記紀伝承の数々が、本来は、宗像などを含む九州王朝に伝わる伝承ではなかったのかと考えることができれば、ひょっとしたら武守神社の伝承の捉え方は逆転するかもしれない。
 
 ※→(つづく)。

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2011年08月27日

白鯰の恩返し2〜武守神社(宗像市)

615武守宮白鯰伝説絵馬  (前回つづき)

※左の画像は、武守神社(宗像市武丸)の拝殿に掲示してあった画。
(森と滝と滝壷(鯰池)の鯰と村人たちなどの画)。



  「白鯰の恩返し」について、市販図書(「宗像伝説風土記・上(西日本新聞社)」と「宗像遺産・暮らし遺産編(宗像市)」)には、白鯰がいたところを「滝壷」としている。
  だが、武守神社拝殿掲示の「白鯰の由来伝説記」には「神池」とあり、「滝壷」という表記はない。
  また、記事の内容についても市販図書とは違いがあり、旧社地(旧境内)にもともと滝があったかどうかは分からない。
  市販図書の内容はさておき、「白鯰の由来伝説記」の内容を下欄に転記する。
  (※なお、下欄転記の文中には、当て字や旧かな文字などがあるが、訂正せずに原文のまま転記した)。

  「昔 此の地方に大干魃あり農民困り果て 神社(旧境内)には絶えず清水湧き出て満々と水を湛えて如何なる日照にも絶えた事なき神池あり 昔は三百平方米も有りしが神殿改築境内拡張の為池も縮少されたる伝えなり
  此の水を賜わらんと大勢集まり 水取りの準備に取り掛からんとしたる処 池の中より声あり 私は権現様のお使番なり 此の水取られると私は生きてゐることが出来ない 替りに雨水を降らせるから中止あれと 一米もある大鯰が姿を現したので 農民達びっくり仰天しましたが 神魚とあってはと納得し池を離れ 境内を下りたる処 一天俄かに空が真黒く成り 雷と共に大雨が降り 農作物は大豊作となりたり
  以来干魃の年には 大白鰻白鰻(神ノ使)の姿形を作り 池の廻りを取りまき 雨乞いの行事(池の水が慾しい水を下さいと大声で叫ぶ)を行えば 立処に大雨降るなり 直ちに鯰を池に放魚したり 此の風習近年まで止みたることなし」

  また、この後に効能や神罰についても記してあったので、続けて転記しておく。

  「又皮膚病の白なまず 白くも 水虫 田虫には池の水に浸せば治り 御礼には鯰を池に放つなり
  又蝮に噛まれた時には特効薬を授り 霊験あらたかにして人命救助に多大の効験あり 今日迄民家に伝承されたり
  尚神罰も有り 神池汚せば(立小便)忽ち腫上がり立処に懲らしめあり 近年数人の人が神罰を受けたり おわびには鯰を放魚すれば治るなり 権現様の神徳は遠く郡外迄聞こえ参拝者多し」

  うーん…。
  続けて附記に神仏習合の権現神社であった所以についても書いてあった。

  「附記 旧権現様の南下二百米の処に昔神佛合祀の佛として権現大日如来堂あり 現在宗像八十八ヶ所の三九番札所の霊場として多くの参拝者あり」

  現在の武守神社境内に仏堂があるが、これは上記の権現大日如来堂を移転再建したものか。
  また、かつて「御座」があったこと、及び「由緒伝説額の掲額理由」(昭和57年(1982) 9.20掲額)なども記されていた。

  「又近年旧十二月?日には五穀豊穣を祝ひ組廻りにて御座を催し 久戸全員旧武丸村の氏子早朝に参詣者大勢ありたり 明治生れ大正初期生まれの人覚えあり
  ここに神徳の荘厳さを後世に長く伝える為 昭和二十三年伊勢参宮以来三十五年間を災度なく無事向えたるを記念して神社の由緒伝説額を掲げる…」 (※奉献者、執筆者等の記載略)

 ※→(つづく)

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2011年08月26日

白鯰の恩返し1〜武守神社(宗像市)

 以前(2009.9.21~26)、「なまず神社」として豊玉姫神社(佐賀県嬉野市))と、大森神社(福岡県福津市)()()()()()」のことを書いた。

628武守宮旧境内鯰池 その頃、宗像市武丸にも白鯰の伝説があることを、下記図書で知っていたが、この伝説地が分からず、本稿を書けないままになっていた。

 この図書の一つは、(a)「宗像伝説風土記<上>」(上妻国雄著、1978.4西日本新聞社刊)である。



 この「白鯰の恩返し」の記事のなかに、「武丸の百姓たちは…滝壷の右手に小さな社を建てて白鯰を祀り…滝壷は、いまも碧水を湛えて、その霊験を物語っていますが、この池を干そうとすると、必ず雨が降ると伝えられています」とあり、「白鯰を祀った権現堂」と付記した社殿写真が掲載されていたが、権現堂の正式名称や所在地が書いてなかった。

 もう一つは、(b)「宗像遺産・暮らし遺産編」(2009.3宗像市刊)で、そのなかの「白鯰の恩返し」に、「武丸では、…白鰻に感謝し、滝壷の横に小さな社を建てて白鯰を祀りました。それからというもの、この滝壷を干そうとすると、必ず雨が降るようになった」という記事があったが、この記事には写真はなく、また、「小さな社」の名前も書いてなかった。

 ともあれ、これらの記事から推して、その頃、今も武丸には滝壷(鯰池)があり、その横に権現堂(小さな社)があるのだと信じていた。

 ただ、同上図書(a)に載っていた社殿の写真が、武守神社(福岡県宗像市武丸字的場1345)に類似しているとは思っていたものの、同社の境内には滝壷などはないので、ここではないと思い、それ以上深く考えなかった。

 しかし、最近になって宗像市内の滝は、妙見の滝多禮瀧の口瀑布(津瀬の滝)のみであることが分かり、そうしてみると武守の鯰池の滝は現存していないということなのではないかと思った。

  そこで、改めて武守神社に行ってみることした。そこで、図書(a)掲載写真が武守神社の社殿に間違いないことを確認した。やはり、この境内には滝壷はない。
  しかし、今度ばかりは、荒れ気味の拝殿のなかに入って、欄間等に掲げてある「武守権現神社由緒」ほかをじっくりと読んでみることにした。

  拝殿内の高い欄間上に掲げてあった「武守権現神社由緒」は、年輪が見える自然木の厚切り板にぎっしりと小さな墨字(楷書体)で書いてあった。
  かなりの達筆で長文の上に、板の表面にニスが塗ってあり、立つ位置によって板面が光って読めない部分ができるので、立つ位置を移動しながら、時間をかけて懸命に読んだ。
  気付くと汗で濡れた首や腕が蚊に刺されて腫れあがっていた。

  由緒には、武守神社のことを「武守権現神社」と書いてあるが、これは、この神社が明治以前、神仏習合の権現神社(権現社)であったことを物語るもので、多分、この「権現」の呼称が使われたのは明治以前のことではないかと思う。
  ただ、現在も「権現社」の神額が掲げてあり、境内に石仏や仏堂もあるので、武守権現神社と書いているのではないかと思うが、正しくは、もと宗像七十五社の一龍王権現社(龍王神社)だったのではないかと思う。

  ともあれ、「由緒」を読み進めて行くうちに、この権現社は、もとは「権現山(標高200m)の上中腹(武丸字久戸1535番地)」に鎮座していたことが分かった。

  さらに、「由緒」のほかに掲げてある「白鯰池の由来伝説記」に「神社(旧境内)」の文字があり、
  また、「森と滝と滝壷(鯰池)の鯰と村人たちの絵馬(平成5年(1993)4月奉納)」〜武守権現神社の神池にすむ白鰻が池水を干しあげられない為恩返しに雨を降らす伝説伝承のため拙画で往時の情景を偲ぶ〜、
  加えて「旧境内鯰池(1982年の写真)」(※左上の画像)の掲額があるのを観て、やっと、武丸の「白鯰の恩返し」の伝説地が、別の場所にあった武丸神社の旧境内であったことに気付いた。

  図書(a)で掲載写真が、現武守神社の社殿なのに、記事の内容は旧境内のことだったということで、考えてみれば、この写真は、「白鯰の恩返し」の舞台が武守神社であったことを知る手がかりになったことでは非常にありがたかったが、この写真に惑わされてもいた。

  今回、本稿を記すにあたって、かつての武守神社の旧境内のことは調べていないが、とりあえず現時点での武守の白鯰伝説を覚えとして、ここに書き留めておくことにする。

 ※つづく→「白鯰の恩返し1〜武守神社(宗像市)」。

※参照2009.11.19「宗像にて(冷えこんだ日に)」。

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2011年08月23日

猿田峠の西東(13)〜猿田の天神社(宗像市)

 前回「猿田峠の西東(12)〜平山天満宮と大師堂(宗像市)」からつづく。

 本稿は、本稿(1)に記していたように、猿田峠の西山麓・猿田(福岡県宗像市吉留)周辺を正見行脚をしたとき、冨田老氏の劇画「ムナカタ」に、宗像神湊に辿り着いた海洋民族(第一次天孫降臨)を猿田彦が案内したという記述があったことを思いだして記してみようと思ったものだった。

 宗像に猿田の地名が残っていることは、天孫降臨の舞台が宗像にあったことを示す確証の一つとして、もっと注目されてもよいのではないかと思っている。
 日本書紀や古事記には古代史の改ざんがあり、そのなかに出てくる場所は、明治維新薩長政府がつごうよい地を比定したので、北部九州(九州王朝)は古代史の正舞台からその多くが消えたと思っている。
 たとえば天孫瓊々杵尊の降臨は、九州南部の高千穂峰が通説になっているが、福岡県の日向峠だという説(古田武彦氏)もある。
 そして、まったく別の視点から瓊々杵尊にあらず海洋民族が宗像神湊上陸とした冨田老氏のファンタジー(第一次天孫降臨説)にも惹きつけられた。

 筑前國續風土記附録には、猿田について「貴船、山祇社、天神社」のみの記載がある。

 このうち、「貴船」については、吉留村内に4祀とあり、やはり宗像地方における多数の貴船神社の存在の一翼をになっている。
 旧宗像大宮司家(宗像大社)が貴船神を宗像三女神の一湍津姫神(多岐津姫神)=瀬織津姫神として祓いの水神として崇めたことによる影響があったと考えられる。
(※2010.9.7「高見神社(宗像市曲)に行く(8)〜貴船神社」参照)。

 「山祇社」は、本来は、瓊々杵尊の妻鹿葦津姫(かしつひめ=木花咲耶姫)の父大山祇神だと思うのだが、附録では「猿田嶺の名あれば、この神は猿田彦ならんか」とある。
 つまり、猿田における山祇神は、猿田彦であり、猿田彦と瓊々杵尊との係わりを説いていないことになる。

 猿田嶺とは、猿田の集落の南東にある丘陵ではないかと思い登ってみたが、どこまでも植林された杉檜林が続き、まったく眺望がきかない山だったので、猿田峠のことをいっているのかもしれない。
 ともあれ、猿田の集落は、周りを小丘陵に囲まれた盆地上にあり、耕作地も広がっているので、猿田彦が案内した天孫族の一行が猿田峠を越える前に休息した地だったのではないか、また、それ故に猿田の地名が残ったのではないかと思った。

 「天神社」については、平山天満宮(平山集落入口)から県道を横切り、歩いて猿田に入るとき、道沿いに梅鉢家紋のある墓があったので、菅原道真を祀る平山天満宮の分祀社なのかと思ったりもしたが、そうではなかった。
 天神社は、民家の裏山とでもいうような場所に鎮座しており、風の吹き抜ける構造の拝殿ではあったが、想像以上に大きく堅固な建物で威厳があった。

 説明板などは建っていなかったが、附録には「初めはヲンガミ、ヲヲガミなどといふ。近きころ天神と改め號せりとぞ」とあった。
 「ヲンガミ、ヲヲガミ」とは、「大神」のことで、元は大神神社(大神社)であったということなので、この天神は、饒速日命(豊日別命、大歳尊)ではないのかと思う。

 そうすると旧吉留村(宗像市吉留)には、前述した「高六の豊日神社」、「安ノ倉の豊日神社」とあわせて第二次天孫降臨とも称される饒速日命を祀る神社が三社存在していることになる。

 安ノ倉の峠を越えると遠賀郡であり、高六から猿田峠を越えると剣岳(鞍手郡鞍手町)から遠賀川に達するが、この遠賀は、まさに「ヲンガミ」の遠賀(オンガ)で、饒速日命を始祖とする物部氏が割拠した地区(九州王朝)であった。

 猿田を訪れ、猿田にも猿田彦や饒速日命の存在を示す隠れた史実があったのではないかと思った。
 なお、猿田彦の彦だが、日子の字をあてれば、猿田彦もまた国(津)神にあらず、天(津)神(天孫族)であったのかもしれず、日本の古代史が日本書紀の記述の多くをそのまま受け入れて作られている限りは真実が見えてこないように思う。
 古代史の様々な出来事の多くは、古代九州王朝を舞台として起ったことの投影ではないかと思っているが、日本書紀成立の過程で、饒速日命などの事蹟の抹消やすり替えが行われ、また、猿田彦などは神話の世界に追いやられていったのでないかと思っている。
 浅学菲才の素人が古代史を論じるとロマンの世界をさまよう。

 なお、猿田集落内の里道を南東方向に上るとグローバルアリーナトレーニングジムに至るが、北東方向に進むと県道29号線:吉留高六集落入口付近(猿田峠上り口)に出る。
吉留薬師堂 ここが猿田集落に入る表口で、道際に木造瓦葺の「吉留高六薬師堂」(宗像四国東部霊場第15番札所本尊薬師如来:坐像石仏)がある。(宗像市吉留46-5)。
 お堂の右横に六地蔵(石仏)、左横に十三仏(石仏)…数えたら14体あった…が安置してあり、台座に山下姓の奉納者名が見える。

 隣地に山下家があるが、ひょっとしたら同家で供養、清掃管理等をされているのかもしれない。

(本稿「猿田峠の西東」おわり)。

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2011年08月22日

猿田峠の西東(12)〜平山天満宮と大師堂(宗像市)

前回平山寺子屋之跡2(「猿田峠の西東(11)〜妙見の滝(宗像市)」からつづく)。

 平山口(宗像市吉留)から旧宮田町(鞍手郡宮若市)に抜ける県道87号(岡垣宮田線)を進むと、右側に新立山(325.7m)登山道に沿った平山集落がある(宗像市吉留字平山)。

 平山集落内の坂道を上り、民家が途切れたところの右に「大師堂」がある(※画像1)。「大師堂」は、かつては「寺小屋」だったという。
 ここは、十一面観世音菩薩・千手観世音菩薩(宗像四国東部霊場第84番札所吉留平山庵)の霊場となっている。
 阿弥陀如来立像と天部形立像(共に檜寄木造、製作年代不明)も安置されているらしいが、見学はできない。(たまに展示会などに出品されることあり)。なお、現在、ここには「大師堂」以外に寺院等はない。

平山天満宮大クス(上から) 新立山は、権現山といわれてきたので、本地垂迹による権現の神号を有する権現山の山麓にあった寺院ということであれば、それは、当然、神仏習合の寺院であったことになる。

 近くに大樟(福岡県天然記念物)のある平山天満宮(※左の画像)があり、神仏習合の神宮寺であったとも考えられるが、その廃絶は明治政府の廃仏毀釈によるものだったのか。

 なお、平山天満宮(祭神:菅原道真)は、永延2年(988)7月宗像大宮司氏能(うじよし)の建立といい、石松一族が管理したという。

 平山集落入口に戻り、上記県道を横切り、農道を歩いて隣の猿田集落に向かった。
 ※次回「猿田峠の西東(13)〜猿田の天神社(宗像市)」につづく。

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2011年08月21日

猿田峠の西東(11)〜妙見の滝ほか(宗像市)

 前回「猿田峠の西東(10)〜吉留安ノ倉の豊日神社」からつづく) 。

 妙見の滝(宗像市吉留字妙見)は、前回の安ノ倉豊日神社の鳥居下から右に500m(徒歩約5分)ほど進んだ山中(谷あい)にある。

妙見神社観音堂と妙見の滝 豊日神社鳥居下から右に林のなかの泥道を進むと、右に池が見えてくる。少し池の縁に沿って進むと、妙見の滝下の谷川の水が池に流れ込んでいる個所があり、その先で二股(右は上り坂、左は谷川左岸)に分岐する。どちらの道を通っても妙見の滝に行くことができるが、行きは左に行った方が間違いない。

 左の谷川沿いの道を進むと木造トタン屋根(小屋)のお堂(「宗像四国東部霊場第45番札所吉留安ノ倉妙見滝本尊不動明王」)に突き当たる。
 滝場に不動明王があるので、ここは滝行場だと思うが、通常、滝行場の不動明王像は、滝の周辺の岩肌に露出して祀られていることが多いので、暗いお堂の中に安置してあることに対しては何かしら違和感があった。

2安ノ倉妙見下 堂内須弥壇には小さな不動明王坐像らしき石仏と坐像弘法大師石像が置いてあり、もう一つ左端に小さな台座らしきものがある。
 「宗像四国東部霊場第45番札所吉留安ノ倉妙見滝」本尊は「地蔵菩薩」で、「不動明王」は「番外札所」だとも聞いたので、或はこの台座上に地蔵菩薩像(紛失)が置いてあったのだろうか。  

 この左後方に、岩肌が粘土質の土砂によるものか朱色に染まっている「妙見下の滝」があり、その左上に大きな木造瓦葺の妙見神社(安座神社)社殿(観音堂)が見えるが、ここからは「妙見の滝」(上の滝)は見えない。
 第45番札所お堂前にあった谷川を渡る踏み石が流出してなくなっていたので、水かさの少なくい部分から向こう岸に渡った(※下記追記参照)。

3ー1安ノ倉妙見滝 急斜面を登り、上記「妙見神社社殿」前に至ると、その右に「妙見の滝」がある。妙見の滝は、(案内では)宗像市内唯一つの滝で、懸崖の落差は約4mとなっている。(※注:宗像市内には、別に多禮瀧の口瀑布がある)。
 滝の岩肌の一部が、下段の滝同様に朱色に染まっているが、赤土の土砂流出によるものか。

 滝壷のなかに「妙見宮」と刻した石塔があるが、滝壺が妙見宮の御神体ということなのだろうか。
 ここで滝行もできるように思えるが、滝着に着替える所が見当たらないので、社殿の拝殿(吹き通し)部分で更衣することになるのか。

 筑前國續風土記附録にある「妙現社」は、この「妙見神社」のことで、妙見社のことを妙現社ということもある。

3安ノ倉妙見滝観音堂 この妙見神社社殿は「観音堂」ともいい、「宗像四国東部霊場第45番番外札所吉留安ノ倉清水滝がある山神 本尊観世音菩薩」となっている。
 同上附録にある観音堂の一つではないかとも思われる。
 ここもまた神仏習合の修験道場の一つであったと思う。

 ただし、現在、須弥壇内には観音像などの石仏はなく、数個の小石が置いてあるだけなので盗難紛失したものか。

 妙見神社の祭神名には諸説あり、分からない部分が多いが、一般的には、天地創造の天之御中主神、そこから天帝の星(天の中心星・北極星)、若しくは北斗七星(柄杓形をしており、北は水の意もあり司水神ともいう)、そして、これらの星を崇拝する信仰を妙見信仰というようだ。
 なお、七星から七曜星、七夕星が想起され、天の川を治水の水分の神として崇拝した物部氏が、祖神饒速日命を妙見神として崇拝したというような話を聞いた記憶もあり、だとしたら、ここは、やはり上述の豊日神社(豊日別命=饒速日命)と一体の天孫降臨を物語る霊場であったのかもしれない。

 妙見神社といわれているが、正しくは「安座神社」というらしい。
 「安座」とは、高御座(たかみくら)=天皇の玉座(御座)のことで、「安ノ倉」の地名は、この安座神社の「座」が「倉」に転化して生まれたものらしい。
 この地に安座神社と、古代王朝を開いた饒速日命(=豊日別命)を祀る安ノ倉「豊日神社」(前回参照)が並んで鎮座していることは、やはり無関係ではないのかもしれない。

 妙見神社(安座神社)を参拝していたとき、突然、樹木の間をぬって頭上から落ちてきた雨で全身が濡れた。
 ほんの数分間のことだったが、これは、妙見の滝を目の前にして、滝に入ることなく滝に打たれたのだと思い、神仏の計らいに感謝した。

 その後、社殿正面方向にある石段を登り、右へ山道を下る。(山道を左に登ると滝の上流にある妙字ヶ池に行けるのではないかと思うが、道は雑草に覆われている)。
 先ほどの二股分岐点に戻り、そのまま来た道を引き返し、林を抜け妙見口(県道)に出たら、変わらず真夏の太陽が輝いていた。やはり、あのときの雨は、私たちの滝行だったのかもしれない。
 この後、皆かなり体が重かったが、妙見の滝で神仏のパワーをいただいたのだろうか。 
 
 なお、妙見口から県道87号線を横切り、旧道に入ると道路わきに安ノ倉豊日神社の「籏立て石」がある。

4安ノ倉村上阿弥陀堂 この旧道を少し下り吉留安ノ倉集落に入ると右に「安ノ倉公民館」、左に「宗像四国東部霊場第78番札所吉留安ノ倉村上「阿弥陀堂」本尊阿弥陀如来」がある。
 須弥壇に石立像2体(阿弥陀如来かどうか分からない)、鋳物聖観世音菩薩立像、小庚申塔などが安置してある。

 集落内には「白木」姓もあり、新羅の豊日別命(安ノ倉豊日神社)と係わる姓か。

5白土郷地蔵堂 上記「妙見口」から県道87号線を平山口信号機方向に下る途中の右側にある「西部ガス宗像ステーション」(無人)の横の径に入ると、同ステーションの裏あたりの孟宗竹林のなかに古煉瓦造の「宗像四国東部霊場番外札所吉留白土郷「地蔵堂」本尊地蔵菩薩」がある。

 堂内には、真新しい地蔵菩薩坐像(石仏)と首のない石像2体(弘法大師坐像か)か置いてある。
 平山口信号機を直進し右手の平山集落内にある平山天満宮と大師堂を目指す。
 「(猿田峠の西東(12)〜平山天満宮と大師堂(宗像市)」につづく。 

(追記)
6安ノ倉架け橋※「第45番札所お堂前にあった谷川を渡る踏み石が流出してなくなっていたので、水かさの少なくい部分から向こう岸に渡った」と上記しているが、その後、お堂前に石橋が架け替えられた。

石橋、妙見不動堂(地蔵堂)、妙見下滝、社殿(観音堂)が写っている追記画像は、2015.7.11撮影。

※参照→「多禮瀧の口瀑布(宗像市)」。

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2011年08月19日

猿田峠の西東(10)〜安ノ倉の豊日神社

I豊日神社(吉留妙見)2(前回つづき)  筑前國續風土記附録のもう一つの旧吉留村(宗像市吉留)豊前坊社(アンノクラ)は、現在、妙見の滝(妙見神社)に至る谷あいに鎮座する安座・豊日神社のことだと思う。

  当豊日神社境内に、「當豐日神社々地即吉武村大字吉留字妙見二千七百拾九番地者為神社位置移轉…明治三十四年二月六日…」と彫りこまれた小さな石碑があったが、明治34年(1901)2月6日に現在地(宗像市吉留字妙見2719)に移転したという意味なのだろうか。当社が安ノ倉地区にあったことは間違いないが、元の場所の記載はない。

  当豊日神社の位置は、手持ち地図(昭文社)には載ってないが、ウォーキングマップ(宗像市役所健康づくり課作成)に載っており、また現地、妙見谷入口には小さな標示板もある。

  平山口から遠賀郡岡垣町に抜ける県道87号(岡垣宮田線)を進むと、左側に安ノ倉公民館などのある集落からきた道と交わる場所がある。この左側の道の両側にある旗立て石は、豊日神社と妙見神社共用のものかもしれない。
  そして、この右側(県道)に上記標示板があり、ここから斜めに走る小さな道を数分歩くと、左側にある池(水源池か)を向いて建つ豊日神社鳥居(※左上の画像)があり、右に登って、さらに44段の石段を登ると豊日神社社殿に至る。

  この豊日神社も、高六の豊日神社と同様に豊日別神社というべきで、豊日別命(豊日別国魂神、大歳尊、饒速日命)を祀り、スサノオ第二次天孫降臨軍の先陣饒速日命の支配地と見ることもできるが、江戸時代に英彦山豊前坊(高住神社)の天台系山伏(修験者)により豊前坊社として奉祀された可能性もある。
  また、この先にある妙見の滝は、修験者の行場であった可能性もある。(つづく)  

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2011年08月18日

猿田峠の西東(9)〜高六の豊日神社

豊日神社(宗像市吉留高六)  (前回つづき)
  猿田峠の西麓(宗像市吉留)の旧道沿い、高六の集落の外れに豊日神社がある。
  手持ちの地図(昭文社)には豊田社と書いてあるが、ミスプリントだろう。

  この豊日神社は、小高い丘陵上に鎮座しているが、その則面一帯を茎高広葉の野草(アオビユか)が蔓延っていたので、参道口が分かりにくかった。私たちは、この前を5回も行ったり来たりして、やっと見つけたという有様だった。

  夕暮れ時で辺りが暗くなりかけていたが、参道口を覆っていた野草を掻き分けて進み、3段+9段の石段を上ると石鳥居(寛政4年2月)があった。
  その柱の足許に鳥居の貫から落下した額束が置いてあったが、「豊日」の刻字が読めた。

  石灯篭(文久2年8月)や旗立て石(昭和3年)もあり、鳥居の右横には、倒れた「猿田彦」の石碑もあった。
  第一次天孫降臨のとき猿田彦が海洋民族を案内して通ったという猿田峠の手前に猿田彦の石碑があるとなれば目を見張りたくなるが、それが第二次天孫降臨の先陣、豊日別命(大歳尊、饒速日命)を祀る豊日神社内にあるというのもまた興味をそそるところではある。

  この豊日神社の由緒は分からないが、上記鳥居や石灯篭の記銘から江戸時代末期以前には存在していたことが分かる。
  鳥居は明神系だし、江戸時代、当地方では神仏習合の英彦山豊前坊系の山伏が豊日別命を奉祀したケースがあるので、この豊日神社もその影響下にあったと考えられる。
  また、豊日神社は、正しくは豊日別神社だと思うが、元は筑前國續風土記附録にある(吉留村)豊前坊二社の一であったと思う。
  (※本ブログ、2010.5.22「多礼の孔大寺神社(3)指來神社」、
  2011.4.20「豊山神社(福津市)は旧豊前坊社だったのか(1)」、
  2011.4.21「豊山神社は旧豊前坊社だったのか(2)」参照)。


  鳥居から急斜面を真登する整然と築かれた81段の石段が続き、登り詰めた正面に磐座があり、さらに、ここ左から回り込むように63段の石段があり、その上に高い樹木に囲まれた平坦地(頂上)があり、中央に豊日神社の小さな社祠が建っていた。

  静寂を破るように鳴く甲高いヒグラシの声を聴きながら参拝して、今登ってきた石段を下ったときは、すっかり日が落ちていた。
  吉留には、もう一つ安ノ倉(妙見)に安座・豊日神社(上記地図には記載がない)があるが、同所への行脚は次回とした。(つづく)

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2011年08月15日

新妻聖子さん、「日本怪談物語」で語り部

  いくら時代が変わっても、夏といえば怪談というのは、昔も今もの光景か。今日の深夜に放送された「日本怪談物語」(毎年恒例の3回目/NHK)を観た。
  一つは、新妻聖子さんが出演していたからでもあったが、期待に違わず、新妻聖子さんの語りは素晴らしかった。
  怪談の語りを素晴らしかったというのも変かな。

  なかでも、新妻聖子さんが語った「幽霊滝」の話を聞いているときは、以前、新妻聖子さん自身が演じた「幽霊滝の伝説」(異界百物語)のお勝の姿が思い浮かんでいた。
  この話は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の世界だが、お勝が、魔物の棲む夜の滝から帰ったとき、血だらけになって死んでいる赤ん坊を見て恐れ慄き口を大きく開いて絶叫する場面が、今も印象に残っている。
  この「幽霊滝」の物語は、新妻聖子さんの十八番だな。

  今回、新妻聖子さんは、「幽霊滝」のほか、「漆ぬりの妻」(×小島聖さん)、「吉備津の釜」(×藤本隆宏さん)、「悪行の果てに」などを語ったが、真に迫って、やはり素晴らしかった。それに新妻聖子さんの和服姿も良かった。
  ほかには、近藤正臣さん、黒木瞳さん、熊田かほりさん(琵琶奏者)らが出演。

  番組で語られた怪談は、江戸時代から語り伝えられてきたものかと思うが、こういった怪談話は、現代でも、怨念を抱いて亡くなった浮かばれない霊がいる限り、あり得ることだろうと思う。

※本ブログ、2010.3.26「新妻聖子さん絶叫(異界百物語)」参照。

keitokuchin at 21:36|PermalinkComments(0)TrackBack(0)