2011年09月

2011年09月30日

偲ヶ丘(慰霊の丘)〜在自山(15)

(前回(14)つづき)
  金刀比羅神社(福津市在自平原)一の鳥居をくぐり、右側にある小丘陵を偲ヶ丘(しのぶがおか)というそうだ。

  この丘陵のなかで、一箇所、樹木に遮光を遮られない広場があるが、ここは、在自地区から出征し、若くして戦死された人たちの遺徳を偲び、その霊を鎮魂する場として昭和32年(1957)に造成された広場である。
  この広場の高壇上には、中央の忠魂碑の両サイドに一本一本にそれぞれ一人一人の戦死者氏名を記した在自区出征兵士戦没者慰霊碑(石塔)が西方浄土を向いて並んで建っている。
 
  周囲に植樹された桜やツツジなどの開花期には訪れる人たちも多いというが、祖国と家族を守るために花のある若い命を散らした英霊が郷里に帰って休まる場所だと思うと胸が痛み、これらの石塔の前を慰霊の気持を込めて歩き合掌した。南無阿弥陀仏。

  また、建ち並ぶ石塔の両側の壁面等に追善供養の13仏(石仏)が鎮座し英霊を見守っていた。
  後で、この13仏は、神仏習合時代の金刀比羅神社にあったものかと思ったりもしたが、制作年の記銘など観ておらず分からない。

  なお、偲ヶ丘の別区(林のなか)には、在自内の別の場所にあった観音堂(観音谷)と、薬師堂(裏の谷)、及びお夏大明神(貴船山)などが遷座している。
  遷座時期は、お夏大明神祠(墓石)の移転が上記慰霊広場の造成より早い昭和30年(1955)3月というので、ほかも堂宇の移転もその頃か。

  この観音堂と薬師堂について、筑前國續風土記拾遺や附録等に、「観音堂は観音谷の養光院という寺址」にあったもの、「薬師堂は裏の谷の正受庵といい、阿弥陀像も安置」とある。
  しかし、現在の御堂には、「宗像四国西部霊場第21番本尊虚空蔵菩薩・薬師如来」と記されており、阿弥陀像や観音像等の名はなかった。
  別に大師堂があり、近くのお夏大明神境内には修行大師像があった。
  これらの仏堂諸仏は、或は神仏習合時代の金刀比羅神社(金毘羅権現)との係わりもあったかもしれないが、詳細は分からない。

  貴船山から移転したお夏大明神祠については、在自山(13)で若干触れたが、改めて次回記す。(つづく)

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2011年09月29日

在自潟・万葉歌碑〜在自山(14)

在自潟万葉歌碑(前回(13)つづき)
  在自山(福津市)の西山麓(在自山展望所の眼下、金刀比羅神社に向って右方向)に住宅が建ち並ぶ星ケ丘団地がある。
  山麓の傾斜地にある星ケ丘団地からは、美しい星空を眺めることができるという意味を込めて命名された団地名なのかもしれない。

  この星ケ丘団地の中央公園に、「在自潟万葉歌碑」(※左上の画像)が建っている。
  「在干潟あり慰めて 行かめとも 家なる妹い いふかしみせむ」
   (※原文「在干方 在名草目而 行目友 家有妹伊 將鬱悒」)

  説明板の表題は、「在自潟参考地」となっている。
  それは、万葉集巻十二(※万葉集の成立は天平時代759年)に収録の、この歌の原文(上記)の読解や解釈に諸説あり、この歌が詠まれた地が当地在自だと確定できないためらしい。

  しかし、貝原益軒が「在干潟」が当地付近にあったとして「筑前国続風土記」に、同上和歌(※若干違う:下記)を記載していることもあり、当地に万葉ロマンの想いを結ぶべく昭和53年(1978)3月、星ヶ丘団地造成記念に建碑されたようだ。
  多分、かつての在自潟や津屋崎の海をも見渡すことができる風光明媚な星ヶ丘団地の地に、この万葉歌碑を建てることが相応しいと考えたのだと思う。

  ところで、在自の地名だが、荒地山、荒地郷などと書いた書も散見していたので、何となく在自は、在自潟の跡で荒地(あれち)という意味だったのかと思ったりもしていた。
  しかし、既に和名抄(承平年間/931~ 938年)に荒自郷の名があるようで、また在自には字内侍給(ないじきゅう/内侍給池)や唐坊跡(12世紀)など由緒あると思われる遺跡もあり、人が住めない荒地を想像したことは不謹慎だった。この地名には、歴史的な何かが由来しているような気がしてならない。
  江戸時代に荒司村→荒自村→在自村となったようだが、荒地山、荒地郷などという文字も使われていた。

  また、寛文6年(1666年)勝浦塩田が造成されるまでは、在自に潟(入海)があったことは確かなようで、無論、万葉集に詠まれた時代にも、また、鎌倉時代の元寇(文永の役)では、在自の潟から上陸した元軍と交戦したという古文書が奴山に残っているという話も聞いた。
605舟つなぎ石  勝浦(福津市)には、上記勝浦塩田造成前の「桂潟」の岸であった地に二つの「舟つなぎ石」(県道528号線:玄海田島福間線沿い)が残されている。
  その説明板には、桂潟や「あらじ潟」の地名の入った入り海イラストマップが載せてある(※左の画像)。

  このイラストマップを観ても、具体的にどの範囲まで入り海だったのかがよく分からないが、現在も津屋崎の入り海はあるので、その入り海がもっと在自の方まで広がっていたということなのだろうか。

  上記貝原益軒は、万葉集の「在干方」を有千潟(ありちがた)として、荒司(在自)の地だと断定したが、後の青柳種信は「按に此地を万葉集に所謂有智潟(イエルアラチカタ)なりとするはあらず。在自の自は志ノ濁にて有智(アラチ)ハと智なれハ音別なり。混へからす。かの万葉なるハ越中の愛發(アラチ)とある同地也」と否定した。

  そのためか(その他の説もあるのだろう)、星ケ丘団地の「在自潟万葉歌碑」説明板に、わざわざ「在自潟参考地」と銘打ったのだろうが、名児山越の万葉古道が在自(金刀比羅神社一の鳥居前の在自川に沿った道)を通り、また、北部九州の海に面した地域に置かれた防人など、当時の歴史的背景を考えたとき、貝原益軒説が正しいのではないかと思う。
  また、チの音がヂ、ジと呼称されることはあり得ることで、音別なりとこだわることではないと思う。

  なお、貝原益軒が「筑前國續風土記」に載せた内容は下記のごとくで、万葉十二の和歌の詠み方は、上記歌碑とは若干違っている。
  …「有千潟 荒司村の北、津屋崎の間、むかしはがたなり。是を有千潟(ありちがた)と云。近年田となる。
  其間にむかしは唐坊と云宿あり。また柳の宿とも云。荒司の枝村也。是むかし上方へ行大道也しと云。延寶元年唐坊の民家をことごとく除きて、荒司村に加ふ。今は宿なし。

  無名(万葉十二)
  有千潟ありなくさめてゆかめども 家なるいもやいふかしみせん」。

  (※在自潟の標記については、在干方、在干潟、有千潟、有智潟、、あらじ潟など、また、そのふりがなも、あらじがた、ありちがた、あらちかたなど各種あるが、本稿では、まちまちになるけど資料の標記をそのまま転記した)。

  なお、(在自)唐坊は、もとは日宋貿易(12世紀頃)における中国人 (宋人のことも唐人と称した) 等の居住地(宿泊地を唐坊と称したものか)として作られた所で、当地には柳の木々が植えられていたのでか、柳の宿ともいい、柳宿村とも称した。
  金刀比羅神社に合祀された唐坊八幡宮も、もとは、この唐坊(柳の宿)地区にあったものだろう。
  現在、発掘された唐坊の一部が在自唐坊跡遺跡展示館(津屋崎小学校校舎内)に保存されている。(見学は平日、福津市津屋崎教育総務課文化財係に事前問合せ要)。  (つづく)

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2011年09月28日

金刀比羅神社の境内神社(3)祇園社・貴船社〜在自山(13)

2009.7.30金刀比羅神社4一鳥居参道(前回(12)つづき)

  金刀比羅神社(福津市在自)の境内神社には、前回までに記述した保食神社などのほかに、あと二つ祇園社(須賀神社)と貴船社(貴布祢(禰)社=貴船神社)がある。

  素盞嗚尊を祀る祇園社(須賀神社)は、とりわけ北部九州(宗像地方を含む)には多く、それは、素盞鳴尊が五男大歳尊(金刀比羅神社の主神大物主神)とともに(出雲、或は匈奴からという説もあるが)北部九州に侵攻した足跡、或は九州王国(倭国)を作った形跡を示しているからではないかと考えられる。

  当金刀比羅神社の御旅所(福津市津屋崎)の近くにある波折神社(福津市津屋崎)境内にも、保食神社(宇気毛知神)とともに須賀神社(素盞能男命)が鎮座し、山笠が有名である。

  貴船社については、在自の字地等の場所の説明ができないが、在自には貴船山という場所があるらしく、境内神社・貴船社との関係は分からないが、その名からして、そこにかつて貴船神社があったのかもしれない。
  金刀比羅神社の一の鳥居を潜って参道(※左上の画像)に入ると、すぐ右側にお夏明神の祠ほかを祀る偲ヶ丘(後述予定)に至る細い道があるが、このお夏明神の祠は、この貴船山から移転したものだという。

  このほかにも在自字奈美野で貴布禰神社を祭祀したという古記録があるそうだが、その所在地は不明という。これらは、いつの頃かに境内社貴船社に合祀されたのだろうか。

  貴船神社の祭神高龗神(たかおかみのかみ)は、一般的には総本宮貴船神社(京都市左京区)の水神(農耕、雨乞い神)・貴布禰神(高龗神)だといわれる。
  宗像地方では、貴船神社(貴布禰神=高龗神)を祭祀している地区が甚だ多いが、もともと水神でもある宗像三女神(宗像大社)を総氏神として頂く宗像地方において、わざわざ貴船神社を祀る必要があったのだろうか。
  それは、どうも宗像大宮司家が、宗像三女神の一、湍津姫神(多岐津姫神)は貴布禰神(高龗神)と同神で、湍津姫神を貴布禰神の名で積極的に祭祀させた形跡があったらしい。

  また、湍津姫神(多岐津姫神)は、瀬織津姫大神(上記波折神社の主祭神)とも同神という説がある。
  波折神社の祭神は、もとは貴船大神一神であったが、後に貴船大神、住吉大神、志賀大神の三神となり、更に貴船大神を瀬織津姫大神に変え、現在の三神(瀬織津姫大神、住吉大神、志賀大神)となったという。つまり、貴船大神(貴布禰神)と瀬織津姫大神は同神ということになる。

  さらに、因幡地方(鳥取県)では、瀬織津姫と饒速日命(男神天照大神)は夫婦神であるという説もある。
  そうすると、いみじくも本金刀比羅神社には饒速日命(主神大物主神)と、その父素盞嗚尊(祇園社)と、弟宇迦之御魂神(保食社)に加えて、妻瀬織津姫(貴船社)が揃う構図ができあがることになる。
(つづく)

(※波折神社の主祭神瀬織津姫大神については、本ブログ正見行脚:
波折神社を参拝(2)〜三霊石」、「波折神社を参拝(4)〜瀬織津姫大神」、「波折神社を参拝(7)〜因幡の白兎と瀬織津姫神」、「波折神社の波乗り兎(因幡の白うさぎ)の石像」等に記載)。

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2011年09月27日

金刀比羅神社の境内神社(2)保食社〜在自山(12)

金刀比羅神社(前回(11)つづき)
  保食社(うけもちしゃ)は、津屋崎郷土史会資料には、「保食神社(宇計母知神)」とあった。
  宇計母知神(うけもちじん)の祭神名は、保食(うけもち)神社のフリの「うけもち」と同じである。

  保食神(宇計母知神)は、日本神話では自らがもてなした月読神に斬られ、牛馬守護や五穀豊穣の食物神となったが、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)奉祀の食物神・豊受大神(とようけおおかみ)と同神であるという。
  また、食物神・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)とも同神といわれ、稲荷神社に祀られることもある。
  そして、この宇迦之御魂神は、大年系譜に大年神(大歳神)の弟になっているという。
  なお、大年神(大歳神)は、饒速日命が北部九州に侵攻した若い頃の名である。

  このように考えたとき、金刀比羅神社には、主神大物主神(大物主櫛甕玉饒速日命)とあわせて、境内神社に、その父素盞嗚尊を祀る祇園社(須賀神社)と、弟宇迦之御魂神を祀る保食神社があることになる。まさに第二次天孫降臨、出雲王国、物部氏の世界でもある。

  大年神(大歳神)も食物の神といわれ、保食神ほかの名で保食神社に祭祀されているケースもあるようだ。
  ここには、持統天皇の時代に、古代史の中枢から消された物部氏の祖神饒速日命の名を伏せて(変えて)祭祀した歴史の背景がある。
  たとえば金刀比羅神社の主神大物主神にしても、饒速日命の名を出さず、大物主神は大国主命であるとするなど、これらの工作は明治維新の神仏分離施策のなかでも行われた。(つづく) 

※左上の画像は、金刀比羅神社(福津市在自)境内(境内神社への入口付近)。

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2011年09月26日

若村麻由美さんに関心なし???(田舎に泊ろう)

25_田舎に泊ろう  昨夜、若村麻由美さんが出演したレポート「田舎に泊ろう!」(TV東京)は、傑作だった。

  舞台は、北海道佐呂間町、見渡す限り草原や農地の広がる平原、そして広大なサロマ湖で望む夕陽が絶景の町だ。

  道すがら寄り道をしながら若村麻由美さんが声をかけた人たちの誰もが、若村麻由美さんのことを知らない。
  シギ鳥などを観賞中の探鳥会の人たちの輪のなかに入ったときも、皆、野鳥観賞に熱心で、まったく若村麻由美さんに関心なし。
  若村麻由美さんは、「お呼びでない」とその場を早々に立ち去る有様は、傑作だった。
  でも、そばに若村麻由美さんがいるのに、もったいないなあ。
  若村麻由美さん、北海道ではあまり知られていないのかなあ(?)。

  某家で対応に出たご主人は、玄関で棒立ちのまま、若村麻由美さんを見下ろして、しばらくして、「どこかで見たことがあるような???」、「テレビに出ているかな?」などと。
  その後、居間から出てきた娘さんが、半信半疑で「若村麻由美さんですか」と言っても、ご主人は分からないふう、これも傑作だった。
  でも、やはり勿体ないなあ。

  それにしても、若村麻由美さんが泊めてもらった民家のご主人は漁師さんで、食卓に並べられた北海道シマエビや真つぶ貝などは、観ているだけでもおいしそうだった。
  そして、終始、笑顔で気さくな若村麻由美さんもステキで、楽しい番組だった。

 (※画像は、テレビ東京「田舎に泊ろう」HPからお借りしました)。

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金刀比羅神社の境内神社(1)〜在自山(11)

IMG_0138(前回(10)つづき)
  金刀比羅神社(福津市在自)の神殿の左側に、小石祠等が5つ並び、同所に設置してある賽銭箱(※左の画像)には、「祇園社・貴船社・保食社・厄之神・道祖神」と、その神社名等が書いてある。

  このうち、既に江戸時代に境内に鎮座していたことが確認できるのは、筑前國續風土記拾遺に「社内に祇園社貴布祢社有」とあるので、祇園社・貴船社(貴船神社)の2社である。

  津屋崎郷土史会資料には、境内神社は「須賀神社(素盞嗚尊)、貴船神社(高おかみ神)、保食神社(宇計母知神)」とあり、この須賀神社は祇園社のことだと分かるが、厄之神(厄神社)と道祖神(石碑)は、記載されていない。

  厄之神は、一般的には、各種の厄をもたらす神として恐れられ、厄を避けるために産土神の境内に厄神社を設けて祀られることが多かったのではないかと思う。
  今も年末年始、厄年に当る人たちが、若八幡神社(或は若八幡と八幡が混同され八幡神社)で厄払いを受ける習慣があるが、これは、若八幡の若(じゃく)と厄(やく)の語呂が似ているところから、若八幡の神が厄除けの神だとされたことによるものである。

  本境内神社の厄之神(厄神社)は、明治期に八幡神社が合祀されたときに一緒に移転してきたと考えられなくもないが、もともと金毘羅権現を有した本神社の境内に鎮座しているからには、修験道とも係わりのある厄神明王(愛染明王と不動明王の一体化神)として祀られていたものではないかとも想像したい。

  道祖神については、陰陽神とか、猿田彦大神や地蔵尊(神仏習合)等とされることもあるが、本来は、道行く人々を守る路傍の神として村の道の辻などに石碑の形で祀られるものなので、旧在自村の何処かの路傍にあったものを、いつの頃(明治以降か)に本神社境内に移動したものではないかとも思う。(つづく)

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2011年09月25日

金刀比羅神社の祭神〜在自山(10)

IMG_0139牧口宮鳥居額束(前回(9)つづき)
  現在、金刀比羅神社(福津市在自字平原)祭神に、天蓋山(在自山一峰)古宮に祀られていたという金山彦神の名はないが、古宮門柱に金山彦神の名があり、現在も古宮に鎮座と考えてもよいのかもしれない。

  金毘羅社(旧社名)の主神金毘羅権現(神仏習合神)は、明治期の神仏分離令により金刀比羅神社(現社名)の主神大物主命に変わった。
  ただ、現在、境内に大きな「金毘羅権現」の看板が立ち、古宮門柱にも金毘羅権現社の名が残り、金毘羅権現の名を復活したのかもしれないが、神仏習合時代の一楽院修験道が復活したわけではない。
  以上二神の詳細については、既に前述してきたので、これ以上の重複記述は避ける。

  ただ、福岡縣神社誌に、「社説に曰く、天蓋山頂古来大物主神を祀る、法印常住雨乞祈願して霊験あり」とある件については、明治期に主神となった大物主神を、そのまま「古来大物主神を祀る」と記したものだと思っていた。
  しかし、讃岐(香川県)亀頭山(琴平山)の金毘羅権現は、もともと大物主神、即ち大物主櫛甕玉饒速日命であったので、「古来大物主神を祀る」とあっても間違いではなかった。

  現在の金刀比羅神社の祭神は、「大物主神、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名命、大海見津美命(おおわたつみのみこと)」となっている。

  主神大物主神を大国主命と同神としている人が多いが、それは間違い。上記祭神の一つ大己貴神が大国主命と同神であり、もし大物主神を大国主命と同神としたら、同じ大国主命が別名で2神祀られていることになってしまう。

  福岡縣神社誌には、明治44年6月2日に社号を村社金刀比羅神社(主祭神大物主神)と改称する際に、下記2神社を合併(その祭神を合祀)したことが記されていた。

  (1)村社八幡神社(福津市在自字観音谷)
      〜祭神:応神天皇、仁徳天皇、神功皇后。
    (なお、村社八幡神社境内八幡神社は、祭神同一につき合併と同時に合霊)
  (2)村社牧口神社(福津市在自字裏谷)
      〜祭神:大己貴命、少彦名命、大海津美命。
  これによると、主神大物主神を除く各祭神は、上記2神社を合併したことにより合祀された神々であることが分かる。

  ところで、上記(1)の八幡神社は、宗像七十五社の一「柳牟田社」で、大在自本村(新町)の産神。
  古は唐坊(柳の宿の一名:※「在自潟碑」後述予定)にあったので唐坊八幡宮と言われていたが、延宝元年に大在自に移転した。
  もともと祭神は、神功皇后母子(応神天皇)一体神であったが、上記合併のとき、どうして仁徳天皇(若八幡)を加え3神となったのかは分からない。

  また、上記(2)の牧口神社は、宗像七十五社の一「牧口明神社」で、旧在自上村(裏ノ谷、椎浦)の産神。
  もともとの祭神は、天児屋根命(中臣連の祖神・春日権現)であったが、上記合併のとき、大己貴命、少彦名命、大海津美命の3神に変わったのかは分からない。

  なお、前回記した大海人皇子(おおあまのおうじ)は、海神・大海津美命とは読み方は違うが、同じ「大海」の文字を持っているので、宗像七浦等の海人であったかもしれない、と思ったことがあった。
  大海人皇子の出自には、百済の亡命貴族説や、九州王朝の阿毎氏説などもある。
 (※上記(1) (2)は、筑前國續風土記拾遺、同附録を参考にした)。

  境内(拝殿の左)に、多分、「金毘羅宮」と書いてあったと思われる旧金毘羅社の鳥居額束(一部破損)と並んで、はっきり「牧口宮」と書いた旧牧口神社の鳥居額束が保存されており、合併事蹟を今に伝えている(※左上の画像)。

  なお、金刀比羅神社御旅所(福津市津屋崎字新川端)の祭神は、当然大物主神である。(つづく)  

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2011年09月24日

金山彦神(南宮山)・宮地嶽古墳(壬申の乱)など〜在自山(9)

IMG_0134展望所から眺望(前回(8)つづき)
  孔大寺山修験道場であった孔大寺山(宗像市池田)に連なる宗像四ツ塚の山々が神霊山であったと同じように、当山派修験一楽院の道場であった天蓋山(在自山の峰)に連なる宮地嶽(福津市宮司)等の山々が神霊山として古代より崇められていたと考えてよいだろう。

  在自山展望所(福津市在自)から津屋崎浜や津屋崎、在自の集落を一望できるように、同集落の各所から天蓋山を見上げることができるので、かつて人々は、天蓋山を見上げ海山農耕神として崇めていたことだろう。(※左上の画像は、在自山展望所からの眺望)。

  因みに、天蓋山の当初祭神という金山彦神(=日本書紀。古事記では金山毘古神)は、各地の金山神社に金山姫神(=日本書紀、古事記では金山毘売神)と一緒に祭神されていることもあるようだ。

  イザナミ命が火の神カグツチ命を産んだとき、その子の火炎で御陰部(みほと)を焼かれ、病床で苦しんでいるときに、床に嘔吐した物(たぐり)から化生した神が金山彦神であり、金山彦神の総本宮は、美濃国「南宮大社」(岐阜県不破郡垂井町、南宮山)とされている。

  次に修験道という観点から付記する。修験道の本尊蔵王権現が鎮座する吉野山(奈良県)は、かつて金峯山浄土といわれ、金峯山寺蔵王堂を中心とする修験道各派の堂宇僧坊が建ち並んでいた。
  一楽院と吉野山とのつながりが分かるものとしては、吉野山真蔵院(宝暦9年)の名が見える一楽院文書が残っているという。

  この吉野山で、修験者の修行場の一つでもある「金峯神社」に金山毘古神(金山彦神と同神)が祭祀されているので、修験道の山に金山彦神が祭祀されることはあり得ることで、その点から鉱山の存在云々に係らず、天蓋山に金山彦神が勧請されたという考え方はできるかと思う。

  因みに、上記金山彦神の総本宮南宮大社(南宮山)のある不破郡一帯は、美濃鉄の産地で、歴史上でもある事件(壬申の乱)で吉野山と係わりあった。
  また、この壬申の乱の首謀者大海人皇子(天武天皇)は、宮地嶽自然歩道(金刀比羅神社→在自山(天蓋山)→)の終点に位置する宮地嶽(大塚)古墳の伝被葬者胸形君徳善ともつながりがあった。

  話は一挙に古代飛鳥時代の壬申の乱(天武天皇元年672年)に遡るが、吉野に隠遁していた大海人皇子は、一直線に南宮山のある不破郡を目指し、その北方にある伊吹山産の鉄を押さえていた伊福部氏を味方にしたことで、大量の武器を手にして、近江朝廷の大友皇子軍を破り、この乱を勝利に導いたという。

  このとき、不破郡で大海人軍の全権を委ねられた高市皇子(大海人皇子の長男)の母は、宗像一族の首長胸形君徳善の娘(尼子娘・あまこのいらつめ)で、この胸形君徳善の墳墓が宮地嶽(大塚)古墳ではないかといわれている。

  ただし、最近、私は、壬申の乱が九州王朝での出来事であるという説に傾倒しつつある。
  九州王朝説で考えると、胸形君徳善や尼子娘、全軍を指揮した高市皇子等が王朝に近い位置にいたことの理解がしやすいからだ。
  となると、乱の比定地を洗いなおさねばならなくはなるが、話が在自山から少し脱線してしまったようなので、この話はここでは述べない。(つづく)

  ※追記:「福岡市西区の元岡古墳群G6号墳(7世紀中ごろ)から、干支で570年を意味する「庚寅(こういん)の文字を刻んだ象嵌大刀が見つかった。」(2011.9.22毎日新聞)という記事を読んだが、九州王朝の存在という観点から見つめてみる必要があるのではないかと思う。また、この古墳の築造年を7世紀中ごろとしているが、この推測についても、九州の古墳全体を含めて、その築造年をもっと遡って見直す時期に来ているのではないかと思う。

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2011年09月23日

金山彦神(古宮の開創)〜在自山(8)

599在自金比羅神社(前回(7)つづき)
  天蓋山(あまおいざん/福津市・在自山の一峰)が神霊山として開創された時期は、正確には分からない。

  また、天蓋山頂上に初めて小祠が設けられたのは、いつだったのだろうか。
  前述(4)の「天蓋山聖地碑」によると、室町時代中期の文安2年(1445)5月で、「修験僧定海法印、金山彦神叢祠、所願成就、雨乞祈願、断食祈祷」と記録されている。

  現在の金刀比羅神社の祭神のなかに金山彦神の名はないが、天蓋山頂上に初めて設けられた小祠に祀られた神は金山彦神であったということである。
  だが、この碑文では、修験僧定海法印が金山彦神を祀る祠を叢に造ったのか、当時既にあった金山彦神の叢祠の前で祈祷を行ったものなのかが分からない。
  しかし、天蓋山の金山彦神叢祠の神前で修験僧定海法印が所願成就、雨乞祈願等を断食祈願で行ったということは、既にそれ以前に天蓋山が雨乞祈願などに霊験のある神霊山として知られていたということになる。
  
  また、当時の地元の人々に修験僧の祈祷を受け入れる素地もできていたということにもなる。
  そして、江戸時代に至り、当地は、金毘羅権現を奉祀し、山麓に金毘羅社を設けた当山派修験一楽院の一大拠点道場となっていったのだろう。

  また、津屋崎浜近くに御旅所があり、現在にも収穫の秋に先駆けて御旅所への御神御幸が引き継がれているということは、天蓋山の神(金山彦神、金毘羅権現)が、山神のみならず海神であったことを物語っている。
  (因みに明治44年に金刀比羅神社に合祀した牧口神社(裏ノ谷)の祭神は大海津美命)。

  ところで、天蓋山麓に金毘羅社が設けられて以後、山頂の元宮を古宮と呼ぶようになったのかもしれない。
  その当時も古宮の祭神の一に金山彦神が祀られていたのか、明治維新まで続いたのか、いつその神名が消えたのかが分からない。

  いずれにしろ、最初の祭神が金山彦神であれば、金山彦神は、荒金を採る神ともいわれている鉱山神だから、当地に鉱山(鍛冶職人の存在含む)があったのだろうか。
  在自(=旧荒司、荒自)の地名から金山彦神の荒地金を想像したりもしたが、何の確証もない。

  仏教・修験道では、たとえば金峯山浄土というように極楽浄土を金御岳(金山)として崇拝し、金峯神社(奈良県吉野山)には金山毘古神(金山彦神と同神)が祀られているので、その類であったのかもしれない(次回参照)。

  なお、宗像地方で金山というと、宗像四ツ塚連峰の一つに金山(かなやま/宗像市山田)があり、この金山の山麓には鉱山があり、近年まで採掘されていたというような話を聞いたことがある。

  この金山に金山彦神が祀られていたかについては未調であるが、
金山の山麓には、生き神様として知られる白鬚神社があり、峰続きに孔大寺蔵王権現修験道の拠点であった孔大寺山や、神霊山であった湯川山、宗像五社の一織幡神社(鐘崎)などがある。また、城山(蔦ヶ岳)頂上には、戦国期以前、蘿大神が鎮座していた。(つづく)

  (※本ブログ、正見行脚:平等寺白鬚神社の神霊(1)(2)
  孔大寺神社下宮の若いイチョウ樹孔大寺山中の桜の古木孔大寺山の神域孔大寺権現は蔵王権現か(1)(2)(3)(4)(5)
  バクチの木のあるパワースポット梅雨本番か湯川山の朝霧
  鐘崎織幡神社でも汗かいた(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)
など参照)。

keitokuchin at 02:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年09月22日

瀬奈じゅんさん一日署長→飲酒運転撲滅!!

22読売新聞  台風15号が浜松方面に向った昨日(9/21)の朝のこと。
  まだ台風余波の風雨が強いなか、一日(博多)署長になった瀬奈じゅんさん(37)が、JR博多駅前広場で「飲酒運転撲滅の街頭キャンペーン」を行っていた。

  先日、瀬奈じゅんさんの博多座公演(三銃士)を観たばかりだが、この日の婦人警察署長の姿も観たかった。
  しかし、健康診断時間と重なり、断念。

  でも、この日の様子は、この日の夕方のTVローカルニュースで数回観ることができた。
  瀬奈じゅんさんは、通行客に「飲酒運転は重大な犯罪。絶対に許さず、撲滅に向けて頑張ろう」と呼びかけて、ノンアルコール飲料を配っていたが、やはり、瀬奈じゅんさんの婦人署長の姿は格好良く凛々しかった。

  私のモットーは、予め飲酒会があると分かっているときは車で出かけない、車で出かけたときは飲酒しない、だが予定外の飲酒会が入ったときは車を置いて帰っている。このように心がけていたら、いつの間にか飲酒の習慣まで減っている。
  飲酒運転で事故を起して一生を棒に振るようなことは誰だってしたくないはずだ。

  今日(9/22)の読売新聞朝刊(及びHPにも)に、「瀬奈じゅんさん一日署長に、飲酒運転撲滅訴える」の記事が出ていた(※左上の画像、カメラで読売新聞福岡版該当記事をガシャ!)。
  本当に瀬奈じゅんさんは、姿勢が良くて、婦警さんの制帽、制服もよく似合っていますね! 応援してます。

※追記→2012.5.4「瀬奈じゅんさんがエリザベート展を訪問」。

keitokuchin at 20:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)