2011年10月

2011年10月31日

鐘崎泉福寺の鬼瓦のパワー

泉福寺鬼瓦  前回、「鐘崎泉福寺の榎のパワー」を記した。

  その榎を観た後、少し泉福寺(宗像市鐘崎)境内を歩いてみたら、駐車場に鬼瓦を設置した台があった。(※左の画像)。

  近くにある説明板(下記)を読んだ限りでは、この鬼瓦が、本物なのか模造品なのか分からないが、なかなか豪華な感じのするものである。
  この鬼瓦には、所謂鬼面の形相はなく、その意味では意外とシンプルなものではあるが、それでも魔除けの鬼瓦としての威圧感(パワー)は、それなりにあり、合掌したくなりそうである。
  なお、この鬼瓦の心臓部の丸文字は「泉」で、泉福寺の「泉」を表しているのだろう。

  また、鬼瓦の下の土台に埋めこまれている紋は、浄土宗の宗紋「杏葉(ぎょうよう)紋」である。
  「杏葉紋」が浄土宗の宗紋となっているのは、宗祖法然上人の父漆間時国(武門立石氏系)の家紋が「杏葉紋」であったことによると聞いたことがある。

  「杏葉」とは、馬具の飾り物のことらしく、戦乱の時代に騎馬を操る武将が「杏葉紋」を好んで使用したといわれ、九州では、この紋が武門・大友宗麟→竜造寺信生→鍋島家と引き継がれていったことがよく知られている。

  ところで上記説明板には、「西山浄土宗上報山泉福寺総代一同」として、「本堂改修事業、展望と将来の構想、本堂の鬼瓦」等の事項が長文で記されていたが、要約すると次のようになるかと思う。

  本堂の鬼瓦〜泉福寺は、天福元年(1233)旧上八村(宗像市上八)に開基され、770年の歴史を有している。
  元和2年(1616)現在地に移転、寛文8年(1668)本堂創建時に、大棟の両面に鬼瓦が飾られ、以来330余年の間、星霜に耐え魔除けの役目を果たしてきた。その間、弘化3年(1846)に本堂改築、昭和51年(1976)に本堂再建があった。
  そして、この説明板の日付が平成15年(2003)5月となっているので、現在の本堂は、そのときに改修されたものかもしれない。

  本堂改修事業〜改修前の本堂は、北西風と塩害で屋根瓦や付属物などが落下し危険な状態にあった。耐震工事と瓦葺き替えにより、あと25年程度耐久するとの専門家の診断を得て、檀信徒様の理解のもとで改修工事に着手、工期4年で完工した。
  これまで事故がなかったのは本尊阿弥陀如来と先祖の御加護によるもので、この感謝の気持を今後も風化させないように努める。
  展望と将来の構想〜泉福寺は、かつての鐘崎の町並みの北端にあったので、入口や本堂などが南向きとなっている。しかるに、昭和初期の新道施設の後、町並みが北部にも拓けて行ったことにより、現在は、町の中心部に位置している。
  そのため将来的には、築45年の老朽化した旧来の納骨堂の本格的補修工事を行う時期に、本堂ほかの配置を見直したい。長期計画で建築資金を積み立て、由緒ある泉福寺を檀信徒とともに護持したい。

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2011年10月30日

鐘崎泉福寺の榎のパワー

泉福寺榎幹  予定していた鐘崎港発の地ノ島渡船にタッチの差で乗り遅れ、時間があまったので、近くの泉福寺(西山浄土宗/宗像市鐘崎776)に行き、正面入口の左横に生えている榎の大樹(樹高7.8m、胸高周囲3.6m、樹齢約400年)を観賞してきた。

  榎の枝先に青々とした葉が生い茂り、榎樹の勢いは盛んだが、太幹の表皮部分を観ると、激しく損傷した部分を養生した跡がくっきりと残っており、痛々しくもあった。(※上の画像)

泉福寺榎支え石  また、榎の太幹は、ブロック塀にもたれかかるような形で大きく前のめりに傾いて、道路にはみ出しており、塀の外に立てられた3本の支え石柱が幹を支え、樹木の倒壊を防いでいた。
(※左の画像)

  この榎は、元和2年(1616)、第三世団空上人が泉福寺を上八から現在地に移転したときに移植した樹木をうち、唯一生き残った記念すべきものらしい。

  平成9年(1997)7月、枯死寸前になっていたこの榎を、泉福寺檀信徒の情熱あふれる保存活動により、樹木医が懸命に蘇生手当てを施した結果、見事に甦って、1999年には福岡県指定天然記念物に指定されるほど元気を取り戻したという。

  かなりパワーのある榎の樹でもあったので、しばらくこの樹のそばにたたずみ、この榎の樹から発する生存パワーを享受した。

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2011年10月29日

今夜「弁護士・森江春策の事件3」(若村麻由美さん)

  今夜、「弁護士・森江春策の事件(シリーズ3作目)」の「透明人間の完全犯罪!!偽装結婚で殺された病院長!?」(原作:芦辺拓)が放送される(TV東京・土曜ワイド劇場)。

  いつものことながら、落ちこぼれ国選弁護人森江春策(中村梅雀さん)と、司法修習生時代の同期生で敏腕地検検事菊園綾子(若村麻由美さん)が法廷で競う取り合わせが面白く迫力がある。
  今回の容疑者は、過去に前夫殺害疑惑もある看護師松原美智代(高橋かおりさん)という設定だが、先入観なしにドラマを楽しみたい。

  なお、若村麻由美さんは、次回、「張り込み」(松本清張原作)で横川さわ子役を演じるという。
  久しぶりの若村麻由美さんの主演作なので大いに期待している
(2011.11/2・TV東京水曜ミステリー)。



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2011年10月28日

宗像大島のタクシーと寺島日出生さん(御嶽神社にて)

IMG_0032御嶽から港  先週(2011.10.19)の毎日新聞福岡版・とことん福津・宗像で「大島初のタクシー・寺島日出生さん」を読んだ。寺島日出生さんは、08年4月から第二の人生として生まれ故郷の宗像大島に戻り、みなとタクシー(宗像市)大島営業所に勤め出したとのこと。

  もちろん、寺島日出生さんは、宗像大島で一台しかないタクシーの運転手だが、介護ヘルパーもかねているといい、今や宗像大島で必要不可欠の存在になっておられるようだ。

  実は、この新聞記事と掲載写真(タクシーと寺島日出生さんの顔)を見て、今年の7/24に宗像大島に渡ったとき、御嶽山(みたけさん)展望広場で出会い、会話を交わしたことを思い出した。
  もちろん、このときは、名前を聞いていなかったので、今回、毎日新聞を見るまで、名前は知らなかった。

  丁度、同行行脚していたZさんと御嶽山頂上(標高224m)の御嶽神社を参拝して、参道石段下の展望広場まで下りてきたとき、一人の若い女性客を乗せたタクシーが登ってきた。
  運転手の寺島日出生さんと出会ったのは、このときで、女性客が御嶽神社を参拝している間、会話を交わした。
  寺島日出生さんは、すごく感じの良い人で、景色や地理の説明をしてくれたり、私とZさんが並んで撮ったカメラのシャッターも押してくれ。

  このときまで、宗像大島にタクシーがあることも、また、タクシーが展望広場までの狭い山道を登ってくることも知らなかった。
  そして、最初からタクシーがあると分かっていたら、自分たちもタクシーに乗ればよかったと思ったりもしたものだった。

  今や宗像大島の人たちや観光客の足ともなって重宝されているこのタクシーと寺島日出生さんのいっそうの御活躍を祈念したい。

  なお、宗像大島御嶽山の御嶽神社は、宗像大社中津宮(湍津姫神祭神)の末社で、中津宮境内にも社祠があるが、御嶽大神、息送大神、息正三位大神、和加大神、九日大神、濱宮大神、御衣代大神、河上大神、龍王大神、五位大神、所主大神を祭神している。

  また、御嶽神社神殿の後背丘(頂上部分)を中心とする一帯は宗像大島御嶽山遺跡と呼ばれ、五世紀〜十世紀頃に祭祀(露天祭祀か)が行われていたことを示す遺物(奈良三彩、八陵鏡、滑石製形代及び臼玉、青銅器、土器など)が発掘された。(山上霊地である)。

※左上の画像は、御嶽山展望所から写した大島港渡船ターミナル、大島漁港等。

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2011年10月27日

ヒメツルソバが抜き去られた

ヒメツルソバ  当家の庭は、今、蔓延ったヒメツルソバの花盛りである(※左画像)。
  ヒメツルソバの花は、ピンクの小花が球形にまとまったもので、地を這った弦・葉のあちこちに花を付け、一斉に開花し、息も長く、観ていてかわいらしい。

  当家の道路側の塀の下でも、塀に沿って弦を伸ばしたヒメツルソバがかわいい花を一斉に咲かせ、近所の人たちや通行人の目を楽しませていたが突然一つ残らずなくなった。

  前日の夕方にはあったので、夜中に、誰かが根ごと抜いて持ち去ったようだ。きっと、一斉に咲いたヒメツルソバの花に魅せられた通行人が、夜中になって引き抜き、持ち帰ったのだろう。

  すべての根を、上手に掘り起こして抜き去る見事な手口だった。その人の目には、持ち帰りたいと思うほどヒメツルソバの花が可愛いと映ったのだろう。
  道路側に生やしたものなので、当家の所有物だとはいえないけど、今までそこにあったものが、突然なくると、やはり寂しいね。

  ヒメツルソバは、強い花で、冬枯れしても、少しでも地中に残った根があれば、また、こぼれた多くの種が、翌年の春〜夏には芽を出し、土地を選ばず、どんどん弦を這わせて増えて行くので、多分、来春、この塀の外でもまた芽を出すことだろう。

  本当に今、当家の庭では、ヒメツルソバに占拠されてしまっている区画も多いので、「この花が欲しい」と言ってもらえば、誰にでも分けてあげられたのにねえ。

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2011年10月26日

イラクサの棘炎症(科捜研の女11を観て)

イラクサ(借用)  先週20日、木曜ミステリー「科捜研の女11」(沢口靖子さん主演)が始まった。
  このシリーズは、若村麻由美さん(法医学教室風丘早月役)がレギュラー出演しているので、ついつい観てしまう。

  ところで、先週(初回)の科捜研の女に、野草の「イラクサ(イラグサ:イラ草)」が出ていたが、今夏、なぜか当家の庭にも「イラクサ」が自生した。大量発生というほどではなかいものの、見つけては抜き、をした日数は多かった。
  イラクサは、一見するとアオジソに似ているのでだまされやすいが、放置していると群生状態になるので注意が必要だ。

  ところが、今回、科捜研のドラマを観るまで、イラクサの葉や茎の表面に付いている棘(基部にアセチルコリンとヒスタミン含有液入り嚢あり)が皮膚に刺さって、痛みが出たり腫れたりして炎症を起こすことを知らなかった。

  考えてみると、引き抜いたイラクサが軍手にくっつき、それを軍手から離すのに苦労したことも多く、果ては軍手に付いていたその棘を、どうも素手で触っていたかもしれない。

  毎日のように、手のあちこちが蕁麻疹状の斑点ができて痛かゆく、皮膚科に行き医師に尋ねら、「蕁麻疹かどうか分からない、ほっとけば治る」と言われたが、簡単には治らなかった。
  それもそうだろう、その頃は、毎日のようにイラクサを抜いていたし、この疾患の原因がイラグサだとは思ってもいなかったのだから。

  再度、皮膚科に行ったときは、抗生物質入り塗薬を処方されたが、今考えればイラグサをほぼ根絶やしにした頃には自然と治まっていたので、やはり、この手の皮膚疾患の原因は、イラクサだったのかもしれない。
  イラクサの漢字は蕁麻(刺草)で、蕁麻疹(じんましん)は、本来はイラクサ(蕁麻)で炎症を起こした皮膚疹のことらしい。

  以前、山茶花などの樹木に大量に発生したイラガの幼虫(毛虫)を退治していて、手が痛み(激痛)、炎症を起こしたことがあったが、飛んできたイラガ幼虫の毛の棘で被れたのだ。
  どうも、「イラ」は、刺という意味のようだから、「イラ」という名を冠した動植物には注意しないといけないようだ。
  うん、「イライラする」こともよくないな。

※画像はイラクサ(「山菜・野草案内」から借用)。

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2011年10月25日

国鉄志免鉱業所記念碑(福岡県志免町)

国鉄志免工業所記念碑  昨日、「海軍(国鉄)炭鉱蔵出し展」を記したが、今日、たまたま旭ヶ丘(福岡県糟屋郡須惠町)に出かける用事あったので、そのついでに「国鉄志免鉱業所記念碑」を観てきた(※左の画像)。

  この碑は、市来医院(須惠町旅石170)の近く(徒歩1分以内)に建っている。


  以前は、市来医院敷地内のわか葉調剤薬局の前が広場だったので、同薬局からよく見えていたが、後に広場は分譲地となり住宅が建ち、現在は、同薬局から見えない。

  廃業前の国鉄志免鉱業所本部棟は、この分譲住宅等が建つ高台の旧広場一帯に建っていたが、現在当時を偲ぶ建物は何もない。

  碑の立地場所を見ていると、須惠町だと思えるのだが、当時の本部棟の玄関部分が志免町(福岡県糟屋郡)だったので、志免鉱業所という名前したというエピソードが残っている。
  それでも、ここは、どう見ても須惠町に思えるので、不思議な空間ってところか。

  この高台の縁部の見晴らしのよい一画を選んで、昭和57年10月19日に「国鉄志免鉱業所記念碑」が建てられたが、その見晴らしの半分は、後に崖下にあった寺院がビルを建てたことにより遮られた(※上下の画像参照)。

  この碑の立地箇所を見つめても上記のような景観状況で、何だか志免鉱業所の盛衰を観ているようにも思えた。

  「国鉄志免鉱業所記念碑」の文字は、当時の「国鉄総裁高木文雄書」で、刻字の金文字が光ってはいるが、現在、国鉄も民営化によりJR各社に分離され、もはや国鉄もなく国鉄総裁もいない。
  まさに、今や一時代の繁栄をリードした石炭も国鉄の名も歴史の彼方に消え、やがて忘れ去られて行くのかもしれない。

  この碑の裏面の文にも、かつて石炭で沸いた志免鉱業所の盛時を偲ぶ文面があり、その想いのある人たちが「国鉄志免鉱業所記念碑建立委員会」を作り建立したことが分かる。

  前半部分は国鉄志免鉱業所の歴史に関する文面で、分かりにくい部分もあったので、お叱りを受けるかもしれないが、次のように小生なりに要約してみた。

  ・明治27年7月、粕屋炭田に国営の海軍省炭鉱新原第一坑が開鑿され、爾来56年間、海軍燃料供給地として貢献した。
  ・昭和20年12月、運輸省に移管後、國鉄志免鉱業所が誕生、戦後日本復興の原動力の一つとしての石炭の需要は高く、蒸気機関車への供給など併せて、一時期は年間50万屯を産出した。
  ・昭和39年、当時の流体エネルギーの台頭や鉄道電化の時流の前に石炭産業が衰退し、当鉱業所は創業から75年の歴史の幕を閉じた。

  後半部分は、この碑を建てるにあたっての万感の想いが、次のように述べられていた(※句読点は小生が付した)。

  「七十有余年の星霜を刻むこの丘に佇むと、炭田地域の環境は一変し盛時を偲ぶよすがとてない。どこからともなく谺してくる発破の轟き、鑿岩機に地鳴は移ろう世代の蛍音であり、往時の志免炭鉱への断ち難い愛執の響きである。この時流にかかわる廃鉱のあとは、次の世への標のため、これをうるわしく甦らせねばならない。
  すなわち本部庁舎跡をトしかって鉱業所に在職した職責、国鉄九州総局、門司鉄道管理局、総局管下の各機関の有志、国鉄及び鉱業所に所縁のある諸氏、並びに関係四ヶ町の協力を得て国鉄志免鉱業所記念碑を建立し、ここにその所以を録するものである。
昭和五十七年十月十九日 国鉄志免鉱業所記念碑建立委員会」。

志免鉱業所記念碑と慰霊碑  また、「慰霊碑」(※左の画像の右側の石碑、上の画像には右下に若干写っている)も、記念碑建立時に同時に建てられた。
  裏面に趣旨が記されており、刻文上の黒墨が所々はげて読みにくいが要約すると次のように読み取れる。

  ・75年の操業の期間中には、昭和13年6月に発生した第七坑のガス爆発事故(犠牲者50人)を初めとして、落盤、炭車、その他の事故による犠牲者の総数は要に500人を超えている。これらの殉職者の生前の功績を讃え、御冥福を祈る。

  なお、道路から1mほどの高さの盛土の敷地上にあるこの「国鉄志免鉱業所記念碑」を見上げたとき、記念碑前に植樹してある2本のキンモクセイが、その碑を隠すほど大きく成長しているのに気付いた。

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2011年10月24日

盛況だった「海軍(国鉄)炭鉱」蔵出し展

※五坑付近  ※左の画像は、操業時代の国鉄志免鉱業所五坑付近〜ボタ山や冷却塔、選炭所、トロッコ線路等が見える。

  昨日、前回スポットで紹介したJR九州ウォーキング「海軍炭鉱発祥地を巡り須恵軽トラ市を楽しもう!」があった。

  雨が降ったり止んだりのあいにくの天候だったが、朝8時から順次、須恵中央駅に下車した多くの参加者が、JR九州作成のコース案内と、須恵なんかやらかすゼ委員会作成が作成した案内チラシを受取り、傘を手にしてコースを巡った。

※蔵出し歴史資料館  一部の人たちは、コース内にある須恵町商工会館前に並び、須恵の水を石炭の火で沸かして作ったコーヒーの無料提供を受けた。
  また、会館内であった蔵出し須恵歴史民俗資料館海軍(→国鉄)炭鉱資料展示(※左の画像)を見学した。


※キャップランプ坑内鉄帽  同展示場では、海軍(国鉄)炭鉱関係の写真(施設、人物、民営移管反対デモ、炭住と子供たち)のほか、衣服、鑿岩機、カンテラ、キャップランプ坑内鉄帽(※左の画像)、酸素吸入器、無煙石炭等を展示していた。

  また、志免鉱業所竪抗櫓や旧国鉄勝田線などのDVD放映などもあり、見学者は、それぞれに展示品や放映を食い入るように観て感激する人、当時を懐かしむ高齢の人たちもいた。

  ※炭住とこども
  ※左の画像は、炭鉱住宅(炭住)の外で縄跳びをして遊ぶこどもたちの写真(後ろに並んでいる建物は、炭住の共同便所)。
  今では炭住もなくなり、かつて当たり前だったこのような生活環境は見られなくなった。

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2011年10月23日

北村昇子さんの陶器(きらり九州めぐり逢い)

北村さんの陶器  昨夜の「きらり九州めぐり逢い」を観た。
  そのなかで、藤波辰爾さんが訪れた主婦陶芸家・北村昇子さんの器楽庵(福岡県久山町久原)に目が止まった。


  娘さんとは知り合いだが、お母様の北村昇子さんに直接お目にかかったことはない。だが、画面で語る北村さんは、娘さんと同じように、しゃきしゃきとした感じの人だった。

  また、北村さんの陶器のなかに緑色のものがあったが、その色合いは、以前、娘さんから頂いて、今も愛用している北村さん作の湯飲み茶碗(※上の画像)の色合いと同じだった。

  深く沈むような緑色と、上薬が茶碗のなかまで流れ込んで、普段あまり見かけないような独特の趣があり、じっと見つめていると自然と心が静まるから不思議だ。

  北村昇子さんは、現代工芸美術家協会九州会員で数々の美術展に入賞され、工房で陶芸教室も開いておられることが分かったので、今度訪ねてみたいと思った。



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2011年10月22日

海軍炭鉱発祥地を巡り…のスポット(JR九州ウォーキング)

竪坑櫓  JR九州ウォーキング「海軍炭鉱発祥地を巡り須恵軽トラ市を楽しもう!」は、いよいよ、明日(2011.10.23/香椎線須恵中央駅発着)実施となった。
  前回、同コース「アート寸描(1)(2)」を載せたが、今回は見学スポットです。

  志免鉱業所竪坑櫓(国重要文化財)~第一のメインスポット。
  石炭産業が華やかな頃、この櫓(高さ48m) から地下430mの深さまで昇降機が上下して、良質の無煙炭を搬出していました。
  粕屋炭田の炭層は、ここがもっとも深く、ここから離れるほど浅くなっていました。そのため周辺部から順次閉坑して行きましたが、ここは昭和39年(1964)の閉山まで採掘が続きました。

  上の画像の左下に半円形の鉄柵が写っていますが、斜坑です。斜めに地下に潜る線路が敷かれ、その上をトロッコが上下していたのです。多くの炭鉱は斜坑でした。

  かつて、私の養父や親族の多くが筑豊や天草で炭鉱を経営、或は炭鉱に勤務していましたが、所有していた炭鉱は、斜坑だったと記憶しています。(貝島炭鉱は露天堀でしたが)。
  この斜坑を見ていると、カンテラを頭部につけた鉄帽子を被った多くの炭坑夫がトロッコに乗って入(出)坑する姿や、「地表一枚下は地獄の底」と口にされていたことなどを思い出します。

  以前は、この竪坑櫓のそばには行けませんでしたが、今は、目の前に通行可能な大きな道路がT字に走っています。もっともそのためにT字路部分にあった第八坑扇風機斜坑口はなくなりましたが。

ボタ山  ボタ山の跡~竪坑櫓のそばに五坑ボタ山跡が残っています。
  今は、雑木や野草に被われた小丘陵といった感じがします。
  燃える石(炭化木)は石炭(黒ダイヤ)として産出されましたが、燃えない石はボタといわれ捨てられました。

  捨てられたボタが山積みになったものがボタ山で、以前は、一面、ボタで埋め尽くされた、綺麗な三角形になった外観を呈していました。
  かつては、ボタ山をボタを積んだトロッコが上下し、頂上でボタを落下させる光景を目撃できました。
  産業構造(エネルギー革命)の変化は、明治以来、日本の産業文明を支えてきた石炭を一瞬のうちに捨て去り、ある意味、風流とも思えたこのような光景を二度と観ることはできません。
  (なお、現在、須恵高校がある場所や志免町浦田(石橋台)などにも大きなボタ山がありましたが、今はその面影がありません)。

志免駅3I志免駅1






  志免駅跡(旧国鉄勝田線)~現在、鉄道記念公園として保存されています。道路に分断されたホームが残っていますが、勿論、鉄道があるときは、このような道路はありませんでした。

  昭和39年国鉄炭坑閉山後の勝田線(3.8km)は、列車の運行本数が少ない赤字路線で、最終期は1日7往復しかなく、通勤に利用する人は殆どいませんでした。

  国鉄の赤字路線廃止政策により廃止が決まった後、国鉄民営化(JR九州への移行)や沿線に大型団地(四王寺坂など)造成等の構想などが持ち上がり、急遽廃止を取り止めようとする動きも浮上しましたが、ときの志免町長の反対で結局、昭和60.3.31に廃止となり、線路跡の一部が遊歩道(緑地公園)化されたと聞いています。

  鉄道は、都市化には必要不可欠のものだったので、あのとき、もし勝田線が残っていたら、現在、沿線にある須恵高校や大型団地や大型ショッピングゾーン(ルクルなど)の利用者にとっては、かなり便利で、現在のJR香椎線のような盛況を見られたかもしれないと思うことがあります。
  でも、今回、この緑地公園化された部分をウォーキングする企画がJR九州で実施されることになり、別の意味でやっと日の目をみたことになるのかもしれません。

  勝田線を廃止せず、むしろ筑前勝田駅から太宰府まで延長し西鉄太宰府駅に接続していれば、現在、ドル箱路線になっていたと思います。このような施政がなかったことが残念です。

  なお、勝田線の駅名は、吉塚→箱崎→御手洗→上亀山→南里(現在も南里駅前という地名が残っている)→志免→下宇美→宇美→筑前勝田駅ではなかったかと記憶しています。

ひろみ饅頭  「ひろみ饅頭」の看板と店舗~旧勝田線沿いにあります。
  歌手の郷ひろみさんの出身地でもあり、その歌手デビューにちなんで付けた饅頭の名前で、店の経営者は、郷ひろみさんの御親族だと聞いています。

  神仏の縁日など供える紅白饅頭などもあり、大量注文も受けてあります。饅頭の味の美味しさは保証できます。

枕木階段  枕木の階段と木枠~旧国鉄勝田線跡緑地公園・桜並木内にあります。
  前回、アート(2)で、旧勝田線の線路の枕木の廃材を使って作った小さな坂道(小橋)を載せ、そのときに説明したので、ここでは重複説明を省きます。

  ただ、何も言わないと、何の変哲もない見落としやすい風景でもあるので、いわば私の偏見で、あえて載せただけです。

海軍炭鉱創業記念碑  海軍炭鉱創業記念碑~須惠町新原公園内に建っています。(創業50周年記念碑)
  昭和12年12月12日の建立で、12という数字が並んでいることに目が惹かれます。
この日を建立日とした理由は知りません。
  海軍炭鉱(新原採炭所)が創業(明治22年・1889)した新原(須惠町)に建てられ、敗戦後も「海軍」とはっきりと刻まれた石碑が残ったということに何か意義深さを感じます。
  
  年末のNHKドラマ「坂の上の雲」で、日露戦争の場面に登場する当時の大日本帝国海軍の艦船の燃料として、新原で採炭された無煙石炭が使用され、特に日本海大海戦では、黒煙で自らの視界を遮られたバルチック艦隊に対して、新原の無煙炭は、自国海軍戦艦を煙に巻くことなく大勝利に導いたという説もあるそうです。
  何か聞いているだけで心が沸くような話ですが、それだけに、何としても見逃しがたいメインスポットの一つだと思います。

  なお、当日(9~13時)限り、軽トラ市、須恵町商工会館イベントホールで須恵町歴史民俗資料館臨時出張〜「海軍(戦後は国鉄)炭鉱の写真パネル資料展示、NPO志免TV撮影の同上炭鉱志免鉱業所竪抗櫓DVD放映、また、同会場前で石炭で須恵の水を沸かし無料コーヒーを提供するイベントもあるそうです。

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