2011年12月

2011年12月31日

辰干支色紙(柴山全慶師画賛)を掲げる

辰干支色紙  本年:平成23年(2011)大晦日、一年間、当家書斎に掲げていた「卯干支色紙」(柴山全慶師画賛/畳紙=たとうがみ付き)を外した。

  その後に、平成24年(2012)の干支辰(竜・龍)を描いた同じく柴山全慶師(1894〜1974臨済宗南禅寺派元管長)画賛の「辰干支色紙」(畳紙付き)に懸け替えた(※左の画像)。

  取り外した「卯干支色紙」の賛は、「折兎角得百端(兎角を折って百瑞を得る)」(とらわれ破ってめでたし)で、そうありたいと思っていたが、3.11想定外の東日本大震災・福島原発災害ですべての夢が打ち砕かれた。
  だが、身内や友人、住居等を亡くした人たちの再起にかける営みや、復興支援活動に従事した自衛隊、消防ほか、多くの人々の善意には心打たれた。

  今回の「辰干支色紙」の賛は、「龍吟峰頂松」(南禅寒松叟)。
  意味は、「龍が峰の頂の松に吟じた」〜龍が唸ると雲が起り上に上にと昇る…長寿の意味も含まれ、景気も上向きになる。という。

  私は、「峰頂松」は、天神、山神、或は天下る神を待つところ(依代、憑依)、雷神、松尾神などを暗示しているようにも思える。
  龍は、天地の神仏を守護する龍神(龍王)として登場することが多いので、この画賛は、昇龍が山頂に降臨(鎮座)された天神(本地仏)に国家安泰等を語りかけている、と想像した。

  十二支の「辰」は、架空の神獣「龍(竜)」だとされ、龍(竜)は、古来より天空を上下し恵みの水をもたらす霊力を有する霊獣として、仏法護持の「八大龍王(竜王)」、或は「龍神(竜神)」などが寺社等で祀られてきた。

  私の故郷には、人々のシンボル的な山となっている「龍王山」(龍陵)がある。この「龍王山に雲がかかると必ず雨になる」ので、故郷の人々は何か行事があるときには、今も「龍王山」を見上げる。
  故に古来、この山に松を植え、「龍王」を祀り、雨乞いの祈祷や神事等を行った歴史もある。

  平成24年(2012)は、悲喜こもごもすべてを呑み込んで龍のように力強く前向きに前進して行きたいものだ。

 (※次回→「松尾大社の巨大干支(辰)絵馬(藤原美貞氏画)」)

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2011年12月29日

「逃亡者おりん2」(青山倫子さん)の放送楽しみ

8 ※左の画像は、セクシーレオタードが魅力的なおりん(青山倫子さん)。
 (「マイナビニュース(2011/11/08)」からお借りしました)。

  先日(2011.11.28)、「青山倫子おりんさんが帰ってくる」と書いたが、最近(12/20)、「逃亡者おりん2」(TV東京)の本サイトが開設された。

  サイトによると、まず、来年(2012)1/12(木)21:00に、前回の最終章(スペシャル)が再放送されるようだ。
  サイトに掲載されているストーリーは、その最終章分のみで、まだ、「逃亡者おりん2」の記事はない。

  ただ、本番の「逃亡者おりん2」は、2012年1月中下旬深夜枠スタート(TV東京系列放送)なので、同じ時代劇でも今月(2011.12月)放送が終了した「水戸黄門」のようなホームドラマとは言い難い。

  「マイナビニュース(2011/11/08)」によると、ストーリーの概要が載っていた。
  それによると、吉原の大火のぬれぎぬを着せられて逃亡した「おりん」(青山倫子さん)が所持する某念書を、闇の組織「剣草」が狙い、そこに、おりんをつけてくる謎の青年武士・望月誠之助(渡辺大さん)が絡まり展開する、という構図らしい。

  「逃亡者おりん 2 - YouTube」(予告編)を観たら、「手鎖ご免!」の名台詞は健在だった。
  ただ、最後に、おりんは、「剣草(つるぎぐさ)一輪散らしました」、と言っていたので、今回は、相対する敵の組織が剣草なので、前回の台詞「闇の鎖、またひとつ切りました」は、この台詞に入れ替わるのかもしれない。
  
  また、おりんが持っている短刀の柄には、リンドウの絵柄があり、おりんは、その短刀を抜くとき、「リンドウが 泣いている」、と口にする。
  リンドウは、おりん自身のことで、「この短刀を抜くときは、私の心が泣いているとき」という設定なのだろう。

  それから、「逃亡者おりん2」の主題歌(曲)は、香西かおり「糸車、からり」(作詞・作曲/祇園精舎 守、編曲/伊戸のりお:ユニバーサル ミュージック)に変わるらしい。
  前回の主題歌(曲)「PINZORO」(演奏・東京スカパラダイスオーケストラ、主題曲協力:テレビ東京ミュージック)は、時代劇活劇にも合う弾むようなリズム曲で、わくわくするような気持で東京スカパラダイスオーケストラの演奏を聴いていただけに、ちょっと残念な気もしている。

  上記のように、「逃亡者おりん2」の放送時間は、深夜枠なので、場合によってはHDDで観ることになるかもしれないが、前回から5年ぶりで30代になった青山倫子さんのちょっとセクシーな姿の時代劇活劇を観賞できるのもまた一興で、楽しみにしている。

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2011年12月28日

松尾嘉代さん

28松尾嘉代※左の画像は、若い頃の松尾嘉代さん(プロフィルからお借りしました)。
  先日(2011.12.20)、[景石神社(7)牧神社合祀〜ふと松本清張氏の「渡された場面」が思い浮かぶ]を書いたが、その記事のなかで、テレビドラマ「渡された場面」出演者の一人に松尾嘉代さんの名前を書いていた。

  かつて松尾嘉代さんのファンだっただけに、その名を書くとなんだか懐かしい。
  高校生の頃は、将来、結婚してもし娘が出来たときは嘉代という名前にしようかと思っていたくらいだった。
  それほど好きな松尾嘉代さんファンだったが、最近の松尾嘉代さんについては、まったく知らない。

28にあんちゃん松尾嘉代長門裕之  そういえば、先月(11/6)今村洋次監督が選んだ日本の名作100本〜家族編〜(BSプレミアム)で、映画「にあんちゃん」(1959年今村昌平監督/長門裕之さんら出演)を観たが、安本家の第ニ子(長女)良子を演じていた女優は、当時16歳の松尾嘉代さんだった。

  この映画は、実話をもとに作られた作品で、昭和28年炭鉱閉山の嵐が吹き荒れるなかで、孤児となった安本家の四人の子供たちが、必至に生き抜こうとした姿を描いた感動ドラマだった。
 (※原作→安本末子著「にあんちゃん 十歳の少女の日記」)

  確か、この映画「にあんちゃん」が、松尾嘉代さんのデビュー作ではなかったか。
  松尾嘉代さんは、数多くの映画やテレビに出演されているので、そのすべてを観たわけではないが、その名前を書いて、忘れていたことを思い出した。

 ※なお、上記映画「にあんちゃん」で、安本家の長男喜一役を演じた長門裕之さんは、本年(2011)5.21ご逝去(77歳)された(追悼)。

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2011年12月27日

ワールド・スーパーライブ、いよいよ年末だ

27ビヨンセ  昨夜、BSプレミアムでワールド・スーパーライブ(ガイド:押切もえさん)を観た。
  1部がレディ・ガガ、2部がビヨンセ(※画像)のライブで、それぞれのヒットナンバーを聴いた。
  いつ聴いても、彼女らのライブは、思い切り自己表現をしている感じがして、活動的で心が晴れる。

  この後、ついつい歌劇「オルフェオ」を観て、アマデウスを観ていたら、深夜、寝る時間がなくなりそうになった。
  どうも、年末になると心はせくが、していることとの波長が合わず、調子が狂う。

  今夜のライブは、アヴリル・ラヴィーンで、明日はリマーナというが、やはり見逃したくない。
  確実に、日に日に2011(平成23)年大晦日が近づいてきてる…。


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2011年12月26日

[景石神社(10)] 2本の記念(紀念)碑と神殿

9村社昇格記念碑周辺※左の画像は、村社昇格記念碑。
(前回のつづき)
  景石(けいし)神社(遠賀郡岡垣町大字波津湯川初浦の上)の鳥居から神殿に至る林の参道は、丁度、馬の背を歩いているような湯川山北山麓の小尾根筋上にある。

  右側には、一部開墾された畑もあるが、左側は林に被われた谷で見晴らしはきかない。
  神殿の手前、牧神社鳥居の左前後方には、多くの大小の岩石が散在している。

  前述(6)で、「奇石宮(奇石社)」の予備知識がないと、景石神社は、境内に散在する多くの岩石の景を以ってその名が付いた」と思うと記したが、その故を以って明治期に「奇」を「景」に当てて「景石」に変えたと考えられなくもない。

  これらの岩の間に二本の円柱形の石碑が立っているので付記する。
  手前の1本は、「村社昇格記念」碑で、昭和20年(1945)4月建立、寄付金額と寄付者の氏名が刻されているが省略する。
  ただ、手持ち福岡縣神社誌は昭和19年1月発行なので、残念なことに村社景石神社(牧神社)の記載はない。

10-3大典記念碑周辺  もう1本は、「御大典紀念渡殿新築碑」(※左の画像)で、昭和3年(1928)11月建立、寄付金額と寄付者の氏名が刻されているが省略する。

  ここでも「紀念」の文字が使われている。

  この「紀」は、皇紀(紀元)年号と係わりがあるのかと考えたが、この紀念碑の建立年号には、皇紀(紀元)年号は使われていない。
  なお、(8)に前述したとおり景石神社や牧神社の鳥居の柱にも「戦役紀念」と刻されている。
  何となく、当時の皇室と係りがあるときは、「記念」でも「祈念」でもない「紀念」という文字が使われていたのか、という気はするが、よく分からない。そういえば、台湾には、「中正紀念堂」があった。

  なお、この時(昭和3年)に建立されたという「渡殿」は、現存していない。
  現在の神殿は、牧神社の左後方にあり、右(波津港の方向か)を向いて建つ覆い屋(プレハブ拝殿)のなかに取り込まれている。
  なお、拝殿の前は、雑草が茂り、アルミサッシ戸のなかにある拝殿には鳥が入り込むような隙間があるのか、床には、鳥の糞が散乱していた。

  上記二つの記念(紀念)碑の近くに、灯篭の残骸のような積み石があり、台座だったのではないかと思われる御影石に文字が刻してあるが、浅学の小生には「神」と「石」以外の文字は読めない。

  神殿の右の小丘陵にも岩石が散在しているが、この先は急勾配で、「福足神社祭神御上陸霊地」の神標石碑がある初浦の海に傾斜しているのではないかと思う。
  しかし、残念ながら、樹木に遮られているからかもしれないが、ここから海の景色などを観ることはできない。
  景石神社には、確かに人知れぬ神霊地が存在するが、気楽に足が向くところではない。(おわり)

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2011年12月24日

[景石神社(9)] 梶原景季の名馬摺墨の里

24宇治川先陣争図※画像は、「宇治川先陣争図」〜左後方が佐々木高綱の生食に遅れをとった梶原景季の摺墨(ウィキペディア・梶原景季からお借りしました)。
(前回のつづき)

  「岡垣町史跡めぐり」には、景石神社に合祀されている牧神社について、「牧神社は湯川山にあった牧場にちなんだもので、言い伝えでは源平合戦で有名な名馬摺墨が出たと言われている」と記されている。

  この湯川山牧場(馬牧)は、前回にも載せたが、筑前國続風土記に「馬牧 初浦の上に大なる牧址あり。めぐりに湟有て湯川山に至る」とあり、景石神社もある初浦の上から湯川山に至る湯川山北山麓一帯にあり、その周囲には堀を廻らし広大であった(既に江戸時代にはなくなっていた)と読める。

  ところで、気になったのは、この湯川山牧場(馬牧)から「名馬摺墨が出た」という一文である。
  平家物語や源平盛衰記を好んで読んだ世代ではあるが、梶原景季が騎乗した「名馬摺墨」(するすみ)が、この牧場で育ったという伝承があることなどまったく知らなかった。

  宇治川の戦い(源義仲対源範頼・義経)での、梶原景季騎乗の「摺墨」と佐々木高綱騎乗の生食(いけづき)との息詰まる先陣争いは有名だが、景季は高綱の機略に負けた。
  梶原景季は、勇猛な武将ではあったが、主君源頼朝の死後没落、その1年後、鎌倉に向けて梶原一族の命運をかけた戦いを挑み、父梶原景時らとともに果てた不運な武将でもあった。

  ともあれ、梶原景季が騎乗した「摺墨」が出たとの伝承がある湯川山牧場址の一角に、現在、奇しくも「景季」の「景」の文字がついた「景石神社」が鎮座しているのも不思議な巡り合わせのように思った。
  筑前國続風土記拾遺に「牧大明神社〜馬牧守護の神なる故に昔よりここ(馬牧)に祀る」とあり、記述してきたとおり牧大明神社(牧神社)は、現在、景石神社に合祀されており、ひょとしたら「摺墨」の霊も此の生育地に戻って鎮まっているのかも知れない。

  なお、同上拾遺(筑前國続風土記附録含む)に、牧大明神社の相殿に本地仏の「馬頭観音像(木像)」があったことを伝えているが、現在、この「馬頭観音像」の所在云々については知らない。
  前述した「阿弥陀堂」内には観音像もあったが、「馬頭観音像」ではなかった。
  牧畜、農耕の守護仏として馬頭観音を祀る例は多く、特にここは馬牧であり、牧大明神社(牧神社)に加えて馬頭観音を祀ったものだと考えられる。
  ともあれ、湯川山を含む「宗像四塚」のなかには、かつて蔵王権現を本地とした孔大寺山(孔大寺神社)の修験道が存在したので、この湯川山においても牧神社が本地仏を有するなどで、その影響があったかもしれない。(つづく)

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2011年12月22日

Xmas concert in ACROS

22九響指揮者栗田哲海氏  昨夜、大賀薬局クリスマスコンサートinアクロスに行った。

  九州交響楽団(栗田哲海さん指揮)と地元福岡の若手演奏家の共演、期待を超える演奏の数々に感動した。

  古賀久美子さん(クラリネット演奏〜モーツァルトの「クラリネット協奏曲より第2章」)、
  横山浩平さん(バリトン)と田中奈々さん(ソプラノ)の2重唱
〜モーツァルトの「愛を感じる男の人達には」やフランツ・レハールの喜歌劇「メリーウィドウ」よりワルツなど、
  田中正也さん(ピアノ演奏〜フランツ・リストの「ピアノ協奏曲第1番変ホ長調」)、
  高橋和彦さん(マンドリン演奏〜ヴィットーリオ・モンティーの「チャールダーシュ」) らが出演された。

  また、「見上げてごらん夜の星を」を出演者と観客が一緒に合唱、加えて九響による「江 姫たちの戦国」のメインテーマの演奏からクリスマスフェスティバルなど。
  案内に「あなたに至福の時間をお贈りします」とあったが、本当にそのとおり至福の時間を過ごすことができた。

  東日本大震災の復興のテーマ曲としても歌われた「見上げてごらん夜の星を」は、本当に良い曲だと思う。
  いまだにその復興が成し遂げられていないことに対しては、いかがなものかと思っているが。

  「見上げてごらん 夜の星を 小さな星の 小さな光りが
ささやかな幸せを うたってる
  見上げてごらん 夜の星を ぼくらのように 名もない星が
ささやかな幸せを 祈ってる
  手をつなごう ぼくと 追いかけよう 夢を 二人なら 
苦しくなんかないさ…」。  

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2011年12月21日

[景石神社(8)]牧神社の鳥居と祭神は?

11-1牧神社鳥居と景石拝殿・磐座・手水鉢扇形※画像は、牧神社の鳥居(遠賀郡
岡垣町大字波津・景石神社境内)。

(前回のつづき)
  牧神社の鳥居の柱には、「明治四十年一月吉日」「戦役紀念 建立主湯川組中」と刻されている。

  「神社探訪・景石神社」に、大正3年(1914)景石神社に牧神社を合祀と記されていたので、このとき、この牧神社の鳥居も牧神社(旧地)から移築されたものだろう。

  それにしても、明治末期の湯川組中の人たちは、少ない世帯で、同時期に景石神社と牧神社(産神)の二つの神社の鳥居を建立するなど、崇敬の深さが伺える。

11-4牧神社鳥居柱左  ただ、明治40年(1907)1月に戦役を紀念して建立したという意味については、よく分からない。

  既に同年には、日露戦争(1904.2~05.9)は終結していたので、湯川の出征兵士の帰還、或は英霊帰還を讃えて、戦役終結後、同年に至り建立したという意味なのだろうか。

  「紀念」の文字を観ていて、先日(2011.11.24)に記した「白浜(豊岡)の牧神社(地嶋つばきロード9」に載せた「明治三十七八年戦役征露紀念」の絵馬にも、この「紀念」の文字が使われていたことを思い出した。
  当時、日露戦争に係わりあるものには、記念でも祈念でもない「紀念」の文字を使用する習慣とか決まりがあったのだろうか。
  或は、当時、皇紀年号があったので、その紀を使う、このような書き方は一般的だったのだろうか。よく分からない。

  なお、地島(宗像市)の牧神社の祭神は、猿田彦命であったが、湯川の牧神社の祭神は、大己貴命となっている。
  だが、波津港に大歳神社や妙見神社があることを合わせて考えると、湯川の牧神社の祭神は大己貴命ではなく、騎馬に長けていた大物主命(饒速日命)であったとも考えられる。

  筑前國続風土記に「馬牧 初浦の上に大なる牧址あり。めぐりに湟有て湯川山に至る。何の時に出来たりと云事をとらす。俗説には神代の牧なりと云。」とあるが、これは、牧神社(旧地元宮)が鎮座していたという湯川山の牧場のことを述べているのか。
  牧神社の鎮座時期は分からないが、「神代の牧なり」という言葉は重い。

  筑前國續風土記附録の「牧大明神」の項に、「上世大己貴命、牧馬を得給ふこと舊事本紀に見ゆ」とある。
  だが、古代大和における物部氏と皇祖饒速日尊(命)を記す「舊事本紀」(先代旧事本紀)によるものであれば、牧神社本来の祭神は、やはり大物主命(饒速日命)であった可能性は高い。
  騎馬を以って北部九州に侵攻(第二次天孫降臨)した饒速日命が、当時既に湯川山に存在していた「神代の牧」にて牧馬を得ることは容易だったと思う。

  なお、上述の波津港の大歳神社(大年神社)の本来の祭神は大歳神(饒速日命)であったはずだし、妙見神社についても、天の川を治水の水分の神として崇拝した物部氏が、祖神饒速日命を妙見神として崇拝したという説もある。
  本来、神代における遠賀(オンガ)地方は、大神(オンガ、オオカミ、オオミワ=大歳神饒速日命:物部氏)の支配下にあったのではないかと思っている。(つづく)

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2011年12月20日

[景石神社(7)]牧神社合祀〜ふと松本清張氏の「渡された場面」が思い浮かぶ

11-2牧神社鳥居額※左の画像は、牧神社の鳥居の額束。
(前回のつづき)
  岩座の横に建っている鳥居の額束の文字は「牧神社」で、牧神社は、現在、景石神社に合祀されている。「岡垣町史跡めぐり」によると、牧神社は、「もとは湯川山にあった」という。

  そして、牧神社の名は、「もと湯川山にあった牧場に因んでいる」という。だが、牧神社の旧地や、牧場の位置、規模等についての記載はない。
  筑前國続風土記附録に「牧大明神社…湯川十八戸の産神也」と記されているが、現在も湯川地区の産神は、景石神社ではなく、牧神社であるという。

  もと湯川山にあったという牧場や牧神社旧地の場所について、湯川山の頂上近くにあったという話を聞いたことはあるが、地元の人に聞いたわけでも、またその場所を確認したわけではない。

  ただ、湯川山北山麓に遷った牧神社の元宮が湯川山の頂上近くにあったという話を聞いたとき、すぐに松本清張氏の小説でTVドラマ化された「渡された場面」(坂口良子、京本政樹、古谷一行、松尾嘉代さんら/1987)が思い浮かんだ。

  「渡された場面」の事件の舞台として、湯川山・北西山麓にある織幡神社と、湯川山頂近くにあったというその元宮跡が出てきたが、小説の織幡神社の所在地は、鐘崎(宗像市)ではなく、釣江(鐘崎沖の釣鐘沈鐘伝説をもじったものか?)だが、その場所の記述は響灘に面する波津海岸(岡垣町)辺りを想わせる。

  牧神社を合祀している景石神社は、湯川山・北山麓の波津の浦岬の上にある。
  なお、波津漁港には、大歳神社や妙見神社等の古社もある。

  また、もう一つ湯川山頂に元宮があったという依岳神社(宗像市田野)が存在する。
  以前(2010.3.19)、「依岳神社バクチの木のあるパワースポット」に、湯川山の旧山名は「依岳山」で、その依岳山(湯川山)頂に鎮座していたのが、後に湯川山・南西山麓に遷った依岳神社だと記した。
  それなのに、どうして湯川山頂にあった神社を織幡神社としたのかという疑問も持っていた。

  だが、これらを考え合わせると、この「渡された場面」の舞台裏には、湯川山を巡る牧神社や依岳神社等の事蹟と織幡神社などをミックスしたロマンがあったように思えて疑問が解けたような気もした。(つづく)

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2011年12月18日

[景石神社(6)] 〜磐座、扇形手水鉢、縁結び

5-3鳥居額 (前回のつづき)
  景石神社(遠賀郡岡垣町波津)の鳥居額束(※左の画像)を観て、明治時代には、現在の「景石神社」の漢字を使っていたことが分かる。

  景石(けいし)神社の旧社名「奇石宮」「奇石社」の由来については、既に本稿(1)(2)において、もともとは、この北にある海岸の岩崎(波津の浦岬)にあった奇石に由来しているのではないかと推測した。
  だが、このような予備知識なしに、初めて景石神社に行ったとき、境内に多くの岩石が散在している風景を観て、これらの岩石の風景を以って景石神社としたのではないかと思った。((2)の画像参照)。

  また、旧社名が「奇石(ケイシ)社」であると分かったときも、多分、社名変更の際、これらの岩石の風景をもって(ケイシ)に「景石」の文字を当てたに違いないと思った。

12-2磐座  さらに、これらの岩石のなかに、機械で切り取ったような鋭角の切り込みのある岩(岩幅の細い部分が大きい部分を支えて切り立っている)があるのを観たとき、これが「奇石」なのだと思ったりしたものだった。
(※左の画像)。

  しかるに、これらの岩石は、すべて景石神社のご神体に違いなく、なかでも切り込み岩は、すべてのご神体の総体である「岩座(磐座)」であったと思われる。

  この岩座のくびれを陰陽石の陰、手前の木の根に持ち上げられている岩石を陽として、また境内に散在している多くの岩石を子沢山として、「景石神社」を縁結びの神とする考え方もある。
  また、この縁結びについては、景石神社(主神市杵島姫命)が、貴船神の高龗神と闇龗神の二神を合祀していることによるともいう。

13-1手水鉢(扇形)  現在、岩座前にある岩は、榊と樫の根に持ち上げられ傾いているが、岩座の前に、忘れられたように扇の形に刳り貫かれた「扇形手水鉢」(※左の画像)もあり、ここで神事が行れていた形跡がある。

  このめでたい形の「扇形手水鉢」の正面(扇の右面)には、幕末の「嘉永六」(1853)の年号が読み取れる。

14-1手水鉢四角  また、もう一つ近くに「正方形の手水鉢」が置かれている。
  この正面には、「安政六年九月吉日氏子中」の刻字が読み取れる。
(※左の画像)。

  景石神社には、湯川郷(組)産神の牧神社が明治時代に移転合祀されているので、これらの寄進物が元から当地にあったものとは断定し難いものの、元から当地にあったものだとすれば、いずれも幕末の「奇石社」時代の寄進物である。

  私たちは、この前にお供物を供えて供養参拝をした後、神霊地に導かれ、同所を仰ぎ見た数分間、風が止み、木々の間から陽光が射した(この日は一日曇りだったが)。
  各自、かなりのパワーを頂いたようで、その後、それぞれに一時下痢や肩に重荷を背負ったような身体状況を経験し、しかる後、不浄が取れに楽になった。これをご利益と思うか思わないかは、その人の想念の違いである。(つづく)

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